日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所 16
江ノ島へ帰って見ると、私の部屋は私の為にとりのけてあった。荷物は安全に到着し、実験所として借りた建物は殆ど完成していた。私はドクタア・マレーに借りたハンモックを部直の柱から縁側の柱へかけ渡した。蚊はいないということだったが、中々もって、大群が乱入して来る。私は顔にタオルをかけ、次に薄い上衣をかけたが、これでは暑くてたまらぬ上に、動いたり何かする為起き上ったりする度ごとに、チョッキ三枚及びズボンをシャツで包んで作った枕が転げ落ち、私は一々それをつくり直さねばならぬ。最後に私は絶望して、ハンモックにねることを思い切った。私のボーイ(日本人)が部屋全体にひろがるような蚊帳を持って来たので、私は畳の上に寝た。その時はもう真夜中を過ぎていた。私がやっと眠りにつくと、心配そうな顔をした男が片手に棒の先につけた提灯を、片手に手紙と新聞紙とを持って、私の部屋へ入って来た。彼は日本語で何か喋舌(しゃべ)ったが、それは恐らく「私が藤沢から特別な使者として持って来たこの包みはあなたに宛てたものか」といったのであろう。起された私は激怒のあまり、若しそれが故郷からの手紙だったら、どんなにうれしいことかを理解さえしなかった。名を見るとダンラップと害いてあるではないか。私はその男に悪魔にでも喰われてしまえといった。その調子で彼はいわれたことを知ったらしく、即座に引き下って行き、私はもう一度眠ろうとして大いに努力した。
[やぶちゃん注:これは本格的なモースの江の島滞在の初日明治一〇(一八七七)年七月二十一日の続きである。
「ドクタア・マレー」恐らくアメリカの教育行政家で数学者・天文学者でもあったお雇い外国人教師ダヴィッド・マレー(David Murray 一八三〇年~一九〇五年)のことと思われる。明治初年に日本に招かれて教育行政制度の基礎作りに貢献した人物である。ニューヨーク州生。同州ユニオン大学に学び、卒業後、オルバニー・アカデミー校長・ラトガース大学数学及び天文学教授を務めた。明治五(一八七二)年に駐米小弁務使森有礼の質問状に回答を寄せたことが契機となって、翌六年に日本に招聘された。以後、文部省学監として五年半に亙って教育行政全般について田中不二麿文部大輔を補助、日本の教育改革に関する諸報告書の中で師範教育・女子教育振興の必要性などを説いて東京大学創設に協力した。この報告書の中でも特に重要な点は彼の学制改革案ともいえる「学監考案日本教育法」で、この中でマレーは学制の急進的教育改革の構想を原則的に支持し、文部省による諸教育機関及び教育内容の統括・公立学校教員資格の制定・教科書の検閲など極端な中央集権化を提唱している。この提言は後に改正教育令(明治一三(一八八〇)年)とその後の文部省諸法令に反映されている。明治一二年に帰国、翌年から十年に亙ってニューヨーク州大学校リージェント委員会幹事として州内の全中等・高等教育機関を監督、ここでも全州統一試験制度の拡充・師範教育の管理強化などの教育行政の中央集権化を推進した。晩年は“The Story of Japan”(1894)年を著したり、ジョンズ・ホプキンズ大学で“Education in Japan”と名打った講演を行うなど、日本の紹介に努めた(以上は「朝日日本歴史人物事典」の吉家定夫氏の記載を参照した)。]
日本人は夜、家族のある者や客人が、睡眠しているかも知れぬという事を断じて悟らぬらしい。この点で、彼等は我々よりも特に悪いという訳でもないのかも知れぬ。日本人の住居は我々のに比較すると遠かに開放的なので、極めて僅かな物音でも容易に隣室へ聞え、それが大きいと、家中の者が陽気な群衆の唱歌や会話によって、款待されることになる。障子を閉める音、夜一枚一枚押して雨戸をびしゃびしゃ閉める音は、最もうるさい。障子や戸は決して静かに取扱わぬ。この一般的ながたぴしゃ騒ぎからして、私は日本人は眠ろうとする時、こんな風な邪魔が入っても平気なのかと思った。然し訊ねて見た結果によると、日本人だって我々同様敏感であるが、多分あまり丁寧なので抗議などは申し出ないのであろらう。
ここへ来てから、私は私の衣類を、無理にシャツに押し込んだものを枕として、床の上に寝ている。日本の枕は昼寝には非常に適しているが、慣れないと頸が痛くなるから、私には夜使う丈の勇気がない。
ここで再び私は蚤の厄介さを述べねばならぬが、大きな奴に嚙まれると、いつ迄も疼痛が残る。私の身体には嚙傷が五十もある。暑い時なのでその痛痒さがやり切れぬ。
今日食事をしている最中に、激しい地震が家をゆすり、コップの水を動揺させ、いろいろな物品をガタガタいわせた。それは殆ど身の丈四十フィートの肥った男が、家の一方にドサンと倒れかかったような感だった。いろいろな震動が感じられたのは、いろいろな岩磐に原因しているに違いない。震動を惹起する転位は、軟かい岩石と硬い岩石とによって程度の差がある筈である。
[やぶちゃん注:本邦で初めて地震の洗礼を受けた外国人のアメリカ人の貴重な記録である。
「四十フィート」約12メートル。]
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