耳囊 卷之七 幽靈恩謝する事
幽靈恩謝する事
文化貮年の八月の事成るよし。神田橋外津田何某の先代召仕ひし妾(せふ)、隱居にて(かの)彼屋敷に住(すみ)ける。彼妾年比(としごろ)いとけ無(なき)より召仕ひし小女、音曲(おんぎよく)を好み琴彈(ひか)ん事を願ひしに、右の隱居申けるは、かろきもの音曲にて奉公せんも、中々一通りにては其業(わざ)を申立(まうしたつる)には至らじ、讀(よみ)もの縫(ぬひ)はりこそ輕きものゝ片付(かたづけ)ても用にたつべしと教(をしへ)ける。素より資才の生れ故、讀もの縫針の事心を用ひ勤しに、無程(ほどなく)あつぱれ手利(てきき)手書(てかき)となんなりぬれば、主人の姥(うば)もかれが兼て望(のぞみ)の琴彈せんとて、彼屋しきへ立入(たちいり)、娘子達に指南抔せし瞽者(こしや)を賴教(たのみをしへ)貰ひしに、是も無程其心を得うけしに、哀なる哉、風のこゝちにて、八月中(ちう)身まかりし由。右風邪初(はじめ)の程は左(さ)までもなかりしが、段々隱症(いんしやう)の㾡痲と也てなやみける故に、橘宗仙院の弟子宇山隆琢を賴(たのみ)、藥用深切なれ共、當人其しるしなき故、隆琢も下宿(したやど)致させ可然(しかるべし)とて申ぬれど、年久しく召使ひ哀がりいなみいなみとゞめて、暫くは屋しきにありしが、兎角よからず迚人々の申(まうす)にまかせ、深川の親元へ下げけるが、或夜陰居の老人の夜更(よふけ)寢覺(ねざめ)せしに、枕元に彼女すわれ居けるにうつゝの如覺(ごとくおぼえ)、汝は病氣なりしにいかに成しと尋(たづね)し。彼(かの)女さめざめと泣(なき)て、誠にいとけなきより厚(あつき)御惠みにて人並々に生立(おひたち)し事、海山(うみやま)の御恩いつか報じ奉らんと明暮思ひ侍りしに、最早今を限りの命に候へ共、思ひし甲斐もなければせめて御禮を申(まうす)なりと申(まうし)けれ。主人姥も、いかで去(さる)あらたなりし事申者哉(まうすものかな)、年比隱(へ)だてなく我に仕(つかへ)し也(や)、心にそむくことなきは、此方より禮をこそ申(まうす)べけれ、煩ふ事ありては我も朝夕不自由に覺(おぼえ)侍れば、年も若き事能(よく)養生し早く快氣せよと答へければ、あり難仰事(がたきおほせごと)身に餘りぬと申けるが、形も消(きえ)夢のこゝちにて夜明(あけ)ぬれば、人をして親元へ尋(たづね)けるに、昨夜見まかりぬと答へぬれば、主人も深く歎きかなしみぬ。其明(あく)る日、彼立入の瞽女(ごぜ)來りて、今日は外へ用事有(あり)てまかり候へ共、少々御目に掛り度(たき)事あり來(き)ぬるといゝし故早速呼入(よびいれ)、彼瞽女も深川ものなれば、右の女の事尋(たづね)ければ、其事にて候、今朝彼親元へまかりしに、右女夜中に相果(あひはて)ぬ、夜半の比(ころ)かゝへおこし吳(くれ)候樣せちに申ぬる故、いろいろいなみけれど、達(たつ)て願ひにまかせ抱(だき)おこしければ手をつき、いとけなきよりの厚恩をくり返し赦し、何歟(か)人ある躰(てい)に其答へ抔いたし、最早心殘りなしと臥しけるが、程なく身まかりしと申ける。主人姥の夜(よ)べ夢うつゝと無(なく)、彼女と應對なしけると凡(およそ)違ひなければ、扨は精心のあらわれ通ひけるにぞと、深く哀れを催し老姥はさら也、あたりの袖を濡しける。
□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。正統なる霊異譚で、如何にもしみじみとした極上の心霊情話に仕上がっている。
・「文化貮年の八月」「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏であるから、一年前の都市伝説である。
・「神田橋外津田何某」底本の鈴木氏の指示に従って、私の所持する尾張屋(金鱗堂)板江戸切絵図の「飯田橋駿河台小川町絵圖」を見ると、神田橋御門から北東へ八〇〇メートル程の位置(現在の地下鉄淡路町駅付近)に津田栄次郎という人物の屋敷がある。ここだとすれば、根岸の屋敷の直近である。鎭衞の自宅はここから真西へ六〇〇メートル程の位置にある。
・「是も無程其心を得うけしに」底本には「得うけ」の右に『(ママ)』表記。
・「段々隱症の㾡痲と也て」不詳。しかし不詳のままでは訳せないため、
「隱症」は、とりあえず、「性質(たち)の悪い、悪性の」の意
で訳しておいた。この「㾡痲」については、まず岩波のカリフォルニア大学バークレー校版原文では、
『*疳』[やぶちゃん字注:「*」=「疒」+(「降」-「阝」)。]
とあり、長谷川氏は注で、
『底本★[やぶちゃん字注:「★」=「疒」+「争」。]とも見える字で、次章に同字を書き瘴と訂正しているので、ここも瘴疳であろう』(下線やぶちゃん)
と推測なさって、次の「又」の章の、同
「瘴疳」の注では『傷寒。高熱を伴う疾患』
とされておられる。しかしながら、こちらの底本では、
次章のそれは『痛疽』
とある。これは文字通りならば、
背中などに出来る激痛を伴う悪性の腫れ物、癰(よう)の類
をいう。本底本を無心に見るならば、少なくとも本底本では、
この章の病いと次章の病いは、異なったものとして書かれている
ようにしか見えない(本章の病名との相同性は立証出来ない)が、訳の理解し易さを第一として、ここは暫く、長谷川氏の傷寒(しょうかん)説をとって訳しおくこととする。なお、
傷寒
とは漢方で、
広義には、体外の環境変化により経絡が侵された状態
を広く指す語で、
狭義には、重症の熱病、或いは、現在の腸チフスの類
を指すようだが、この場合は直前の病態などから見て、
感冒が重症化したもの、恐らくは肺炎が死因となるようなものを指している
ように私には思われる。
・「橘宗仙院」岩波版で長谷川氏は奥医で法印であった橘元周(もとちか 享保一三(一七二八)年~?)かと記す。彼は寛政一〇(一七九八)年に七十一歳で致仕している。次の代ならば元春になる。それ以前の代の「橘宗仙院」は「卷之三 橘氏狂歌の事」に既注済。
・「宇山隆琢」不詳。
・「枕元に彼女すわれ居けるに」底本には「すわれ居ける」の右に『(ママ)』表記。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『居(すは)り居(ゐ)ければ』(読みは歴史的仮名遣化した)である。
・「せめて御禮を申なりと申けれ。」底本には「申けれ。」の右に『(ママ)』表記。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『せめては御禮を申(まうす)也」と申けるにも、』(正字化して読みは歴史的仮名遣化した)である。
・「いかで去あらたなりし事」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『いかでさる改りし事』である。バークレー校版で訳した。
・「いとけなきよりの厚恩をくり返し赦し」底本では「赦し」の右に『(謝カ)』と傍注する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は確かに『謝し』とある。]
■やぶちゃん現代語訳
幽霊の恩謝する事
文化二年の八月のことであった由。
神田橋外(そと)、津田何某(なにがし)殿の御先代の召し仕っておられた御側室が、隠居して同屋敷内(うち)に住んでおった。
その御側室は年来(としごろ)、幼(いとけな)き折りより召し仕(つこ)うておった小女(こおんな)があり、年頃となるに従い、音曲(おんぎょく)を好み、琴を弾くことを願って御座った。
それを隠居の媼(おうな)の聴いて、
「――身分の賤しき者が、音曲をもって武家などへ奉公せんとしても、なかなか一通りのことにては、その技芸を以ってして身を立てるまでには至るまい。――まずは読み書き・縫い物をこそ身にしかりとつけておれば、そなたらの身分にて、相応のお方へ縁づいたとしても、これ、十二分に役に立つことじゃて。」
と諭して、媼、手ずから、それらを教えた。
もとより相応の才能の生れであったゆえ、読み書き縫い針(はり)のこと、これ誠心を込めて習練に勤めたところ、ほどのう、あっ晴れの縫い物上手・上手の手書きとなって御座ったによって、主人の媼も、それではと、かの小女が兼ねてより望んで御座った琴を弾かせんものと、御屋敷へ出入り致し、主人が娘子たちに琴の指南など致いて御座った盲人(めしい)の者に頼んで、小女へ琴を教えて貰うことと致いた。
こちらの方も、ほどのう、師匠の奥義をも体得し得て御座ったと申す。
*
ところが――哀れなるかな、この小女――ふと、風邪気味となったかと思うと――八月中、瞬く間に――儚くも身罷ってしもうた――由で御座る。
その風邪、初めのうちはさほどのものではなかったものが、だんだんに悪うなって参り、ついには性質(たち)の悪い傷寒の症状と相い成って、日々の立ち居にも、如何にも苦しそうに致いて御座ったゆえ、媼は奥医橘宗仙院さまの御弟子であられた、宇山隆琢さまを頼み、直々に療治をお願い致いた。
宇山さまは施方施術に深く心をお砕き下すったものの、患者には一向にその効果が現われぬゆえ、隆琢さまは、
「――これはまず、実家へお帰しになられ、じっくりと療養さするがよろしかろう。」
との見立てで御座ったが、媼は、年久しゅう召し使い、可愛がって参った小女で御座ったゆえ、ついつい、それに対して首を縦に振らずに、ずるずると引きとめ、結果、暫くは前の通り、屋敷内に留めおいて御座ったが、宇山さまも遂に、
「――いや、ともかくも、かの者の病態は尋常では御座らぬ!……」
と、きつく申され、また媼の周囲の者どもも口々に宿下がりをお薦め申したによって、媼はしぶしぶ、深川の小女の親元へと、下げ帰して御座ったと申す。
*
さて、それから暫く致いた、とある夜陰のことで御座った。
隠居所の媼、夜更けにふと目覚めた。
と――枕元に、かの小女が、坐っておるさまが、これ、現(うつつ)の如くはっきりと見えた。
「……そなたは病気で宿下がり致いたはずであったに、どうして、ここに……」
と訊ねたところ、彼の小女は、さめざめと泣きくれ、
「……まことに幼(いとけな)きより厚き御恵みを頂戴致し……賤しき我らなれど……もう人並に生い立つことも出来まして御座いました……忝(かたじけな)き海山ほどの御恩……いつか報い奉らんものと明け暮れ思おて参りましたが……最早……今を限りの命にて御座います……されど……御恩に報いんとの思いの甲斐ものうなったとなっては……これ……せめて御礼(おんれい)を申すばかりにて……御座いまするぅ……」
と申す。
主人媼も、
「……どうしてそのようなことを……そんなに改まって申そうとするかのう。……年来(としごろ)、隔てのう、我らに仕えて呉れたではないか?!……我らが心に一度たりとも背くことの御座らなんだこと、これ、却って我らの方(かた)より礼をこそ申したきほどじゃった。……そなたが患うてよりこの方、我らも朝夕、何かと不自由を覚えておるのじゃ、え。……そなたはまだ年も若(わこ)うなれば、よく養生し、早(はよ)う快気致いて戻っておくれ。」
と諭したところ、
「……ありがたき仰せごと……身に余り……まして……御座いまするぅ…………」
と申したかと思うと、
――ふっと
姿形も消え入っておった。……
……と、そこで夢見心地にて確かに目覚めたところ、夜もすっかり明けて御座った。
されば、何やらん、気懸りなれば、人を遣わして、かの小女の親元を訪ねさせたところが、戻った下男が、
「……昨夜……身罷った……とのことで御座いました。……」
と告げたによって、主人媼も深く歎き、悲しみに沈んで御座ったと申す。
*
その明くる日のことであった。
かの小女の琴の師匠にして屋敷出入りの瞽女(ごぜ)が屋敷に参って、
「……今日は外の用事の御座いまして、こちらさま罷り越しましたが……実は少々、ご隠居さまにお目に掛りたきことの、これ、御座いますによって参上致しまして御座いまする。……」
と申すゆえ、早速に隠居所の奥座敷へと呼び入れたが、媼、はた、と、気づき、
「……そうじゃ。……そなたも確か、深川に住まい致いて御座ったの。……実は……我らの召し使(つこ)うておった、あの、そなたのお弟子のことじゃが……一昨夜……」
と言いかけたところが、
「――はい。そのことで御座います。今朝、かの親元へ罷り越しましたところ、母御(ははご)ぜの申されますに……
――――――
……娘は一昨夜の中(うち)に、相い果て申しました。
……夜半のころ、急に我らを呼びましたによって、病床に参りますと、
「……母(かか)さま――どうか――抱え起こして下さいまし!……」
……と、切(せち)に請いますゆえ、
「体に障ることなれば、今は、深夜ぞ――」
……なんどと、いろいろ、いなんで落ち着かせんと致しましたが、
「――達(たつ)ての願いにて御座いまする!……」
……と申しましたによって、抱き起こしてやりました。
……すると
……三つ指……ついて、
……誰か、目の前に人のあるかの体(てい)にて、
「――まことに幼(いとけな)きより厚き御恵みを頂戴致し……」
……と、それを繰り返し、繰り返し謝しては、
……その言葉を聴いた見えぬ誰(たれ)かの返答に、また答えなど致いておりましたが、
「――最早……心残り御座いませぬ。」
……と、
――はたり――
と臥しました。
……それから、ほどのぅして
……身罷りまして、御座いました。…………
――――――
とのお話で御座いました。……」
と申す。
主人媼は、かの夜(よ)べ、夢現(うつつ)とのう、かの娘と応対致いたことと、凡そ寸分も違(たが)うことの、これ、なければこそ、
「……さては……真心の魂となってあくがれ出で……我らが元へと……通うて参ったのじゃ、のぅ……」
と、深く哀れを催し、老媼はさらなり、瞽女も、お側に控えて御座った者どもも皆、袖を濡したと申すことじゃった。……
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