芥川龍之介「河童」決定稿原稿の最後に附せられた旧所蔵者永見徳太郎氏の「河童原稿縁起記」復刻
[やぶちゃん注:永見徳太郎(ながみとくたろう 明治二三(一八九〇)年~昭和二五(一九五〇)年)は劇作家・美術研究家。長崎市立商業学校卒。生家長崎の永見家は貿易商・諸藩への大名貸・大地主として巨万の富を築いた豪商で、その六代目として倉庫業を営む一方、写真・絵画に親しみ、俳句・小説などもものした。長崎を訪れた芥川龍之介や菊池寛、竹久夢二ら文人墨客と交遊、長崎では『銅座の殿様』(銅座町は思案橋と並ぶ長崎の歓楽街)と呼称された。長崎の紹介に努め、南蛮美術品の収集・研究家としても知られた。(講談社「日本人名大辞典」及びウィキの「永見徳太郎」、長崎ウエブ・マガジン「ナガジン」の「真昼の銅座巡遊記」を参照した)。
見開きの四〇〇字詰原稿用紙(罫色は橙色。但し、左下罫外には「10×20」とある。しかし、これは半ページの使用を示すものと思われ。上方罫外のノンブル用下線の位置が左右で中央に寄っていることからも二〇〇字詰を張り合わせたものではない。謂わずもがなであるが、芥川龍之介の原稿とは全く無縁な私も使用したことがあるような現在でも見かける普通の原稿用紙である(但し、左面の左罫外下方19マス辺りに「原稿用紙」と印刷されているものの商標・社名等はない)。一行字数を原稿に合わせた。〔 〕は挿入を示す。一部の読点は一字分をとらずに前の字の同一マスに打たれてある。署名の下に「德見」という落款が朱で押されている。]
河童原稿縁起記
昭和二年七月十五日の朝芥川龍之介〔氏〕スグ
コイの電報が届けられた。田端の澄江堂の二
階にて雑談する前、是を永見氏に進呈しやう
と差出されたのが、この河童原稿であつた。そ
の日二人は夜おそくまで散歩して或一軒の甘い
物屋に入つた。その十日目が、彼氏のパライ
ソ昇天であつた。
歳月は二十数年が過ぎ、昨年の祥月命日、私
は君を偲び、とある店にて二椀のおしるこを
注文し、一ツは君の霊にとさゝげた。その時
たはむれの作歌を胸に染めた。
ぱらいそに 河童聖人 おはすかや
椀に汁粉盛り たてまつりてむ
昭和三年春の花さく日
德 見 記 (落款)
[やぶちゃん注:岩波新全集の宮坂覺氏の年譜によれば、この日の夜、芥川は徳見に加えて、小穴隆一と沖本常吉(明治三五(一九〇二)年~平成七(一九九五)年)は郷土史研究家。島根県生。小説家協会・劇作家協会の書記を経て、昭和元・大正十五(一九二六)年に東京日日新聞社に入社、昭和一〇(一九三五)年に郷里津和野に移り、昭和四四(一九六九)年には柳田国男賞を受賞、と新全集人名解説索引の記載にある)と四人で亀戸に遊んだ、とある。]
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