耳嚢 巻之七 其素性自然に玉光ある事
其素性自然に玉光ある事
此咄初(はじめ)にも有りといへど、大同小異あれば又記しぬ。明和の比(ころ)とかや、芝口貮町目に、伊勢屋久兵衞といへる者下人勘七、常に實躰(じつてい)に主人の心に叶(かなひ)、商ひの事も精々心に入(いれ)、久兵衞も貮人となく召仕ひしが、一つの癖は病をふのみ也。或日、出入屋敷え商ひ物の代料を取(とり)に遣し、右屋しきにて金七拾兩斗り請取(うけとり)財布に入、懷中なせしが、彼(かの)屋しきにて祝儀事ありて、家來抔勘七に酒をすゝめけるが、素より好(すけ)る酒なればいさゝか酩酊して、能きげんにて暇(いとま)をつげ、途中も快(こころよく)小唄うたひて歸り、途中芝切通し邊にもあらん、夜發(やほつ)出て勘七が袖を扣(ひかへ)しが、常ならば振(ふり)きるべきに酩酊の儘其求(もとめ)に諾(だくし)て、雲雨の交りをなして立出で宿所へ至りしに、彼財布いづ方へか落せしやらん、行衞なければ大きに驚き立歸りて見しに、最早初の夜發も見せ仕舞て壹人もなし。いかにせんと十方に暮しが立歸り、請取(うけとり)し金子を落し申譯なし、いづれ立歸らんと喰(くふ)事もなさず立出るを、主人久兵衞も、彼が平日の實躰中々私なきを知りぬれば、若(もし)や命をも失わんと早々止めけれど、曾て承引せず立出で日夜心を付てもとめしが、翌日又彼夜發の小屋ありし故立(たち)よりしが、過(すぎ)し夜の夜發彼所に立て此男を見付(みつけ)、御身はきのふ來り給ひし人にあらずやと尋ける故、其人也と答(こたへ)しに、おん身落し給いし物なきやと尋ける故、右故に昨日より喰事もせで搜す由を答へければ、其品は何々と其袋幷員數(いんじゆ)等委しく聞(きき)て、嬉しくも尋來(たづねきたり)給ふもの哉(かな)とあたりの人の心付(つか)ざる土中へ埋置(うめおき)しを掘(ほり)、右財布とも金子を渡しける故、誠に命の親なり、おん身はいづれより出るやと尋ければ、鮫ヶ橋にて九兵衞抱(かかへ)なりといへる故、又こそ尋(たづね)んと暇を乞(こひ)て早々宅へ戻り、主人へ右の金子差出し、斯(かく)の事に候よしあり躰(てい)に語りければ、久兵衞甚(はなはだ)感じ、貞婦に賤しき勤(つとめ)させんは便(びん)なしと、金子貮拾兩を懷中して、彼抱主九兵衞方え至り見しに、同人抱の夜發兩人ありて、何用なるやと尋ける故、勘七事を語りて、何れの婦人やと尋しに、右は是成(これなる)よし答(こたへ)ければ、何卒殘る年季を請出(うけいだ)し度(たき)と、右金貮拾兩與へければ、九兵衞答けるは、右女はわけありて賤しき勤すべき者にもあらざれ共、可育(そだてべき)かたなくかくなしぬるなり、給金六兩あれば暇を出し宜敷(よろしき)也、斯(かく)大金は入らず由答ふ。切(せち)に餘金をすゝめけれど、九兵衞も承引せず。女子も賤しからざる生れ故、久兵衞も悦(よろこび)、直(ぢき)にともなゐ歸りて、扨(さて)勘七が年季の貞實をも感じ、最寄に店(たな)をもたせ、彼夜發を妻となし、商ひ元手等を遣し、今は榮へ暮しけると也。彼夜發は麻布邊荒井何某といへる人の娘にて、親沒後兄弟の身持宜敷(よろし)からず、あしき立入(たちいり)のものありて、九兵衞方へ賣(うり)渡しけると也。流石に素性有(ある)女なれば、かゝる事もありなん。親方の九兵衞もいか成(なる)者の果成(はてなる)や、義正(ぎせい)感ずるに絶(たえ)たりと語りける。
□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。根岸自身が冒頭で述べている通り、巻二の「賤妓發明加護ある事」と同話であるが、他にも同巻の「正直に加護ある事 附豪家其氣性の事」等、類話に暇がない。当時の江戸庶民が如何にこうした人情話を好んだかがよく分かる。底本注で鈴木氏も、『人情咄として、主人公の親方のきっぷのよさ、ヒロインの泥中の蓮的なけなげさが強調される方向へ発展するのは当然である』と評しておられる。類話を見ずに、一から全く新たに現代語訳した。
・「病をふのみ也」底本には「病をふ」の右に『(病まふ)』と注する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『酒を好むのみなり』とあり、私はこれを、
酒を好むてふ病ひ負ふのみなり
の謂いで採りたい。
・「明和」西暦一七六四年から一七七二年。
・「芝口貮丁目」旧芝口二丁目は現在の新橋二丁目に含まれ、現在のJR新橋駅の西直近。
・「芝切通し」底本鈴木氏注に、『切通し坂。長さ七十六間余、幅は坂口約四間一尺、中程で約十四間。青竜寺の南。港区芝西久保広町』とするが、岩波版長谷川注では、『増上寺西北裏に当る。港区虎の門三丁目内』とある。しかしGoogle マップの「東京・港区の坂 (坂プロフィール)」では、切通坂として港区芝公園三丁目を挙げている。
・「鮫ケ橋」底本の鈴木氏注に、『鮫河橋谷町。麹町十三丁目の南。岡場所があったが、最も低級で、風儀も悪く情緒などない土地とされ、値段にも定りがなかった。新宿若葉二・三丁目』とあり、岩波版長谷川氏注には、『赤坂離宮の北、新宿区若葉二丁目辺。夜鷹の巣窟であった』とある。現在のJR市ヶ谷駅の東直近。ここは現在からは想像出来ないが、近代まで貧民窟(スラム街)であったらしい。月刊『記録』の「実在した貧民窟・四ッ谷鮫河橋を歩く」に詳しい。
・「義正」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『義心』。「心」の誤字と見る。
■やぶちゃん現代語訳
本来の素性が自然に玉のような誠実なる光を発するという事
これによく似た話は、既に初めの巻の二にも掲げて御座るが、主だった部分はすこぶる似て御座れど、細部に違いもあれば、再度、記しおくことと致いた。
明和の頃とか申す。
芝口二丁目に、伊勢屋久兵衛(きゅうべえ)と申す者が店を構えて御座った。
その下人の勘七と申す者、常より実体(じってい)に仕え、主人の心にも叶(かの)うて、商いの方(か)も精心を込めてなし、久兵衛も、またなき下男として召し仕(つこ)うて御座ったと申す。
ただ、この勘七、一つだけ悪い癖があって、業病とも申すほどの、無類の酒好きで御座った。
ある日のこと、久兵衛、この勘七に出入りの屋敷へ商い致いた品の代金を取りに遣した。
かの屋敷にて金七十両ばかりを受け取って財布に入れ、しっかと懐中致いて御座ったが、たまたま、かの屋敷内にて祝儀事の御座ったによって、御家中の家来なんどが面白がって勘七に酒を勧め、もとより三度の飯より好ける酒なればこそ、仰山に呑みに呑み、流石の勘七もいささか酩酊の体(てい)となり、いい加減に切り上げて暇まをつげ、帰るさも快う、小唄なんどを一節歌いつつ千鳥足にてお店(たな)へと向かって御座ったと申す。
さて、その途中――芝切通しの辺りにても御座ったか――夜発(やほつ)が一人、寄って参り、勘七の袖を引いた。
勤めの途中にて、しかも七十両もの大金を所持致いておればこそ、常ならば振り切るところが、余りに酩酊の心地よさに、ついその誘いに乗って、手短に雲雨の交りをなし、遅くなるまえに立ち出でて、主人が方へと帰ったと申す。
ところがかの財布、何処かへ落してしもうたらしく、これ、どこにも――ない。
大きに驚き、急いでさっきの夜発と皮つるみ致いた辺りへ立ち戻ってはみたものの、最早、かの夜発も店仕舞い、人気も、これ、全く御座らなんだ。
「……こ、これは……さても……どうした……ものか……」
と途方に暮るるままに、とりあえずとって返し、
「……ご主人さま!……受け取りました金子を……これtえ落しまして御座いまする!……申し訳御座いませぬ!……何としても捜し出だし、また必ず戻りまするッ!」
と、夕飯(ゆうめし)の茶碗をとることもせで、また出掛けようと致いたによって、主人久兵衛も、かの男の普段からの実体なる働き、それ、なかなか、私(わたくし)なきことを知って御座ったによって、
『……もしや……金子を捜し得ずんば、これ……命を断つやも知れん!』
と思い、そうそうに押し留めんと致いたが、
「――いえ!――こればかりはッ!――」
と、いっかな承知せず、皆の制止するも振り切って、飛び出だし、一晩中ここかしこ、捜し求めて御座ったと申す。
しかし――どこにも――これ、ない。
さて、翌日の夕刻まで、かくなして御座ったが、また昨日の夜発のたむろする掘っ立て小屋に、灯の点っておるを見出したによって、再びたち寄ってみた。
すると、昨夜、勘七の相手を致いた夜発が中におって、女の方(かた)より勘七を認めたかと思うと、
「――御身(おんみ)は昨日いらっしゃったお人では御座いませぬか?」
と訊ねたゆえ、
「如何にも!」
と答えたところ、
「――御身――何か――お落しなさった物は、これ、御座いませぬか?」
と返したゆえ、勘七、
「……かくかくの体たらくにて!……実に昨日より今に至るまでものも食わいで……捜して御座るッ!……」
と答えたところが、
「その御品(おしな)はどのようなもので御座いまするか?」
と訊き返したによって、
「……これこれの生地の財布に――七十両の金子――これこれの仕様にて――かく入れて御座るものにて……」
などと、勘七が委しく申したところが、それを聞くや、かの夜発、
「嬉しくも、尋ね来たって下すった!」
と、辺りの同業の者に気づかれぬよう、わざわざ少し離れたところの土の中へ埋めおいて御座ったを掘り起して参り、かの財布に入った、一両も欠けざる大枚七十両の金子を、これ、勘七に渡いたと申す。
さればこそ、勘七は、驚くと同時に歓喜致いて、
「――まっこと、命の恩人じゃ!――御身は一体、何方(いずかた)のお抱えで御座るか?」
と訊いたところ、
「――はい――鮫ヶ橋にて九兵衞(くへえ)殿の抱えにて御座いまする。」
と申したによって、
「……また――必ず参る。それまで!――」
と、まずは暇まを乞いて、早々にお店(たな)へと戻ると、主人久兵衛へかの金子を差し出だし、
「――かくかくしかじかことにて――無事、一両も欠くることのう、取り戻すことが出来まして御座いまする!……」
と、事実を有体に語って、久兵衛に許しを請うた。
それを聴いた久兵衞も、これ、はなはだ感じ入って、
「――かくなる貞婦に、賤しき勤めをさせおくは、不憫極まりなきことじゃ!」
と、金子二十両を懐中の上、かの抱主たる九兵衛方を尋ねたと申す。
たまたまその日、勤めに出でざる同人抱えの夜発が二人、そこに御座ったが、九兵衛が、
「何用にて御座いまするか?」
と訊ねたゆえ、久兵衛は勘七の一件を語り、
「この御女中は、今、どこに御座います?」
と質いたところ、
「――ふむ。丁度、その本人より、今と同じ話を、聴いたところで御座った。――それは、それ、この女で御座る。」
と、そこに御座った女を指したによって、久兵衛は、
「何卒、その娘の残る年季を、手前どもにて支払わせて戴き、請け出しとう存ずる!」
と乞うて、金二十両を揃えて九兵衛の前にさし出だいた。
すると、九兵衛が答えたことには、
「この女は、訳あって――まあ、このような賤しい勤めをするような者にては御座らぬ身分の者でのう。――されど、いろいろ御座って、育てて呉るる方もなく――我らが方へと流れて参って――このような身に堕ちては御座った。……そうさ、給金六両も御座れば――暇まを出だすには、これ、よろしゅう御座る。――さても――このような大金は――結構で御座る。」
と申した。
せちに残りの十四両もお納めあれと勧めたものの、九兵衛は、
「いや――それは過褒!」
と、いっかな承知せなんだと申す。
かの女子(おんなご)も見るからに、賤しからざる生れなるは明白で御座ったによって、久兵衛もはなはだ悦び、そのままこの娘を伴って店へと帰った。
そうして、さても勘七の年季も丁度極まり、この度の貞実なる振舞いにも感じ入って御座った久兵衛は、最寄りの場所へ勘七にお店(たな)を持たせ、かの元夜発を妻と迎えさせた上、商いの元手なんどをも与えて、今は、すっかり繁昌に暮しておる、とのことで御座る。
その元夜発なる妻とは――これ実は、麻布辺でも知られた名家荒井何某(なにがし)と申した御仁の娘で御座ったが、親の没後、その兄弟の身持が、これ、よろしゅうなく、悪しき輩が家内(いえうち)に立ち入るようになり、果ては女衒(ぜげん)に九兵衛方へと売り渡された者なり――と噂には聴いて御座る。
流石にそれなりの正しき素性の女性(にょしょう)であったればこそ、かかる仕儀も御座ったに違いないと申すもので御座ろう。
かの夜発親方九兵衛と申す者も、今はかくなる者なれど――これ、如何なる素性の、いかなる者の果てでも御座ったか――その爽やかなる気風(きっぷ)のよさは、まさに義心を失わざる者なればこそ、勘に絶えぬ立派な御仁で御座った、とは久兵衛の語って御座った話しで御座る。
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