『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」始動 / 江の島の部 1
『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部
[やぶちゃん注:以下に電子化するのは明治三一(一八九八)年八月二十日発行の雑誌『風俗畫報』臨時増刊第百七十一号「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」(表紙標題では「江島」が「名所圖會」と同ポイントで、「江島」の下にポイント落ちで「鵠沼」「逗子」「金澤」の三箇所が右から左に横に並ぶ。見開き目次標題では右に「江島、鵠沼、」が、左に「逗子、金澤」が二行で並んでポイントが大きい「名所圖會」が下に続く。本文開始大見出しもこれに同じである。向後は私の趣味で上記の標記を以って本書の標題を示すこととする)。発行所は、『東京神田區通新石町三番地』の東陽堂、『發行兼印刷人』は吾妻健三郎(社名の「東」は彼の姓をとったものと思われる)。
「風俗画報」は、明治二二(一八八九)年二月に創刊された日本初のグラフィック雑誌で、大正五(一九一六)年三月に終刊するまでの二十七年間に亙って、特別号を含め、全五百十八冊を刊行している。写真や絵などを多用し、視覚的に当時の社会風俗・名所旧蹟を紹介解説したもので、特にこの「名所圖會」シリーズの中の、「江戸名所圖會」に擬えた「新撰東京名所圖會」は明治二九(一八九六年から同四一(一九〇八)年年までの三十一年間で六十五冊も発刊されて大好評を博した。謂わば現在のムック本の濫觴の一つと言えよう。そのシリーズの一つとして、この百七十一号発行の遡ること一年前の、明治三〇(一八九七)年八月二十五日に、臨時増刊「鎌倉江島名所圖會」(第百四十七号)というものを刊行していた。ところがこれは「江島」と名打っておきながら殆んど鎌倉のみを扱っており、僅かに江の島の本文は二頁強、稚児が淵と旅館金亀楼の図に小さな江の島神社の附図があるだけであった(他に口絵の「七里ヶ濵より江の嶋を望むの圖」に江の島が遠景で描かれている)。そこでその不備を補うために出されたのが、この「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」であった。
挿絵の原画はすべて石板で、作者はこの『風俗画報』の報道画家として凡そ一三〇〇点に及ぶ表紙・口絵・挿絵を描いた山本松谷、山本昇雲(明治三(一八七〇)年~昭和四〇(一九六五)年:本名は茂三郎。)である。優れた挿絵であるが、残念ながら著作権が未だ切れていない。私が生きていてしかも著作権法が変わらない限り、二〇一六年一月一日以降に挿絵の追加公開をしたいと考えている。
底本は私の所持する昭和五一(一九七六)年村田書店刊の澤壽郎氏解説(以上の書誌でも参考にさせて戴いた)になる同二号のセット復刻版限定八〇〇部の内の記番615を用い、視認してタイプした。読みについては振れると私が判断したもの以外は省略した。濁点や句点の脱落箇所が甚だ多いがママとしたが、踊り字「〱」「〲」は正字化した。漢文漢詩の引用の部分は本文には訓点(底本では返り点が打たれている)を省略して白文で示し、後の注で我流の書き下しを示した。大項目及び小項目見出しのポイントの違いはブログ版では無視して総て同ポイントで示した。ポイント落ちの割注は〔 〕で本文と同ポイントで示した。傍点「●」はブログ版では太字で示した。各項の最後に注を附し、その後は一行空けとした。
最近開始したモースの「日本その日その日」や私の個人的な思い入れの深い地という個人的趣味から、まず「江之島の部」本文パートから復刻させることとした。悪しからず。【ブログ始動:2013年7月2日】]
〇江之島の部
●藤澤停車場
藤澤停車場は。東海道の駅次相模國高座(こうざ)郡藤澤大阪町の西南に在り江島(ゑのしま)に遊ぶ客は。此の所にて下車すべし。東京新橋より里數三十二里三十一鎖にして。三等の賃金三十二錢とす。二等は其の二倍一等は其の三倍なりと知るべし。これより人力車(賃金凡二十五錢)を僦(やと)ふて南行すれば、一路の軟砂(なんさ)車輪を埋めて聲なく松樹幽靜亦(また)愛すべし。片瀨村の洲の鼻に到れは。車を下さるべからず。行李は車夫の肩に託して共に江島に入るべし若し車を厭はゝ。停車場より歩すること數町。片瀨川に到り。渡舟に乘るをよしとす。此の間(あひだ)の路程僅かに三十二町三十九間なり。
[やぶちゃん注:「藤澤大阪町」明治二一(一八八八)年に藤沢宿大久保町と藤沢宿坂戸町が合併して出来た藤沢大坂町のことで「大阪」とは関係がない。
「三十二里三十一鎖」これは「里」とあるが「哩」(マイル)の誤りで、後の「鎖」はチェーン(“chain”)で、やはり英国の距離単位。1マイルの1/80で、「一鎖」は約20・1メートルに相当するから、32マイル31チェーンは52・1キロメートルになる。現在の営業距離では49・1キロメートルである。
「三十二町三十九間」約3・56キロメートル。現在の最短コースに近いと思われる江ノ電を藤澤から辿って、当時の洲の鼻辺りまでを地図上で計測してみると約三・六キロになる。]
●片瀨川
片瀨川は。片瀨村を貫流する小川にして南の方海に注けり。東鑑等には固瀬(かたせ)に作れり。古人の吟詠に入るもの多し。歌枕名寄に。鴨長明か羈旅の歌に
浦近き砥上か原に駒とめて固瀨の川の潮干をぞ待
夫木集中務卿宗尊親王の詠に。
歸り來て又見ん事も固瀨川濁れる水のすまぬ世なれは
此歌は、文永三年七月將軍の職を罷められ。歸京の時の詠なり。
又同書參議爲相か歌に。
打渡(うちわた)す今や汐干の固瀨川思しよりも淺き水かな。
舟にて江島に行くには。此の川を下るなり。鵠沼村に到る渡津もあり。石上渡といふ。
治承四年十月。平家の方人大庭三郎景親をこの川邊に梟首せしこと。東鑑に見え。北條時賴。三島神社に參詣の時。青砥左衞門忍びて扈從(こじう)しけるが、牛の河中に尿するを見て。旱歳の民餒飢(たいき)の憂あるを風論(ふうろん)せしこと。北條九代記に載せたり。
[やぶちゃん注:「尿する」は「いばりする」「すばりする」と訓ずる。
「旱歳の民餒飢の憂あるを風論せし」旱魃に民が飢饉の襲来することを悲しんでいるのに。ここでは分かり難いが、これは前の牛が、潤いと肥えとなるべき小便をあたら川中にすばりして、田畑にそれをしなかったことを、これに先立つ春の法会で、時頼が莫大な金を肥え太って堕落した僧に供養し、逆に戒律を守っている高潔の僧らに施さなかったことを揶揄したのである。同書巻八掉尾の「相模の守時賴入道政務付靑砥左衞門廉直」に現われるが、ここについては既に原文と私の語注及び現代語訳を「新編鎌倉志巻之六」の「固瀨村」の注に施してあるので、是非、お読み頂きたい。]
« 海産生物古記録集■8 「蛸水月烏賊類図巻」に表われたるアカクラゲの記載 | トップページ | 鬼城句集 夏之部 柘榴取木 »