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2013/07/11

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 7 龍窟

    ●龍窟

龍窟はもと本宮と稱し。天女始て埀跡の神窟と爲せり。龍穴の稱は東鑑に見ゆ。緣起安然記には金窟と書し。北國紀行には蓬莱洞と記せり。神祠(しんし)は其の内に左り。

一説に。此の龍穴は。昔、黄金を鑿取りし蹟ならむといへり湘中紀行に。抑此龍穴傳道昔者有龍出焉。而島故爲天女所棲止自弘法祀天女於此。後人遂以爲天女窟宅。鎌倉盛時雩必於是事見東鑑。余甞聞之。凡瀕海諸州山根往々有穴。皆上世因劚金鐡而成者也。則此穴亦焉知其獨不然哉。但此神之而神。人異之而異。神異可以已矣。又以爲石佛之肆何哉とあり、此事然るや否。其の道の人に聞まほし。

新編相模風土記に云々。

文武帝の四年四月役の小角。窟中に入(いつ)て天女を拜し。利劍を納む。養老七年九月泰澄窟中より天女(てんぢよ)の化現(くわげん)するを拜す。神龜天平の間は道智來たりて誦經(じゆけう)し、天女の化現に逢ふ。弘仁五年二月空海參籠し。神像を造りて社壇に安置し。其下に寶珠を埋む。故に空海を本宮の中興と稱す。仁壽三年三月慈覺天女の生身(せうしん)を拜し、神像を自刻し。五鈷金剛杵を造り。中に寶劍を籠て窟中に納む元慶五年二月より慈覺の舊蹤を尋ねて安然參籠する年あり。壽永元年四月賴朝の本願として、文覺此に辨財天を勸請し。五日供養を行ふ。文覺此日より參籠する二十一日。飮食を斷て懇祈をこらせり。此年北條四郎時政祈願の事ありて。窟中に籠り。一顆の玉を感得す。承元二年夏大旱により。鶴岡の供僧等に禱祀の事を命す。よりて爰に集會して雨を祈る。感應(かんおう)空(むな)しからす雨忽ち降れり。元仁元年六月。陰陽道大監物信賢奉はり又祈雨の祀を行ふ。嘉禎元年十二月將軍賴經不例により。靈所七瀨の祭を行しとき。當所備中大夫重氏勤む。仁治二年六月鶴岡八幡宮別當定親又雨を祈る。文明十八年十月僧萬里金胎の兩洞に入乾滿の二珠及ひ白蛇を見し事あり。天文十八年北條左京大夫氏康參詣の時。當窟の神宮を再興す。同二十年五月玉繩城主北條左衛門大夫綱成殺生禁斷等(とう)の掟を出す。弘治二年八月當宮募緣の事。足利左馬頭義氏か領地は寄進の多少を論せす。其意に任せ勸進すべき由。北條氏より下知を傳ふ。修理落成して正遷宮の時。北條陸奥守氏照奉りて。刀馬等を奉納あり。慶長五年六月東照宮窟中に入らせられ。神像を拜し給ふ。元和元年の冬林道春爰に游記を作る。寶永三年十月社領十五石御朱印を賜へり別當は岩本院司とれり。

[やぶちゃん注:「安然記」不詳。江の島所縁の僧として安然(あんねん)上人がおり、彼は元慶五(八八一)年に春先より江の島(岩屋内と思われる)に参籠、秋口の夜半になって弁才天が示現した、とする(これは個人のHPねえ、どこか行こうよ」の「鎌倉歴史散策・江の島編」に載るものを参考にした)。安然(承和八(八四一)年?~延喜一五(九一五)年?)は天台僧で、出自については不明ながら最澄と同族と伝えられている。初め慈覚大師円仁につき、その死後は遍照に師事して顕密二教のほか戒・悉曇(しったん)を学んだ。元慶元(八七七)年には渡唐を企てたが断念、元慶八(八八四)年に阿闍梨、元慶寺座主となった。晩年は比叡山に五大院を創建、天台教学・密教教学の研究に専念し、台密の大成者として知られる(以上の事実の事蹟はウィキの「安然」に拠る)が、彼の伝記か関連書かとも思われる。識者の御教授を乞うものである。

「左り」は「在り」の誤植であろう。

「湘中紀行」は儒者川村華陽(延享元(一七四四)年~天明四(一七八四)年)の紀行文。以下、引用部を我流で書き下す(返り点には一部不審な箇所があるため、勝手に解釈した部分も多い)。

抑々此の龍穴は傳へて道(い)ふ、昔は龍の出づる有りと。而るに、島、故に、天女をして棲み止むる所と爲(な)し、弘法、此に天女を祀りしより、後人、遂に以つて天女が窟宅と爲(な)せり。鎌倉の盛時、雩(あまごひ)は必ず是(ここ)に於いてする事、「東鑑」に見ゆ。余、甞て之を聞き、凡そ瀕海の諸州の山の根は往々にして穴(あな)有り。皆、上世は因つて金鐡を劚(きりいだ)して成す者なり。則ち、此の穴も亦、焉(これ)、其れ獨り然らざるを知らんや。但し、此れ、之を神として神となし、人、之を異として異となせども、神異は以て已むべし。又、以つて石佛の肆(ほしいまま)と爲すは何んぞや。

後半がよく分からないが、そのように古代に金を採掘した場所で、さればこそ神聖なものとされたとしても、後には神聖な信仰は失われるはずだが、それなのに何故、こんなにも沢山の石仏群が累々とあるのであろう、とでも言っているのであろうか? いや文字通り、『其の道の人に聞まほし』である。漢学者の方、よろしく御教授下されたい。

「仁治二年」西暦一二四一年。

「文明十八年」西暦一四八六年。この間、245年も飛んでいる。

「元和元年の冬林道春爰に游記を作る」彼の「丙辰紀行」は電子化済。]

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