思ひ出はすてられた舞踏靴 大手拓次
思ひ出はすてられた舞踏靴
それは わたしの心(こゝろ)にくろいさくらの咲きつづく
うすぐもりした春(はる)の日(ひ)でした。
みどりの小石(こいし)をつづつて
しろい小羽根(こばね)のしたにあたためてゐたのに、
おともなく
あらしのまへのそよかぜのやうに、
あなたのすがたはみえなくなつてしまひました。
あなたの白文鳥(しろぶんてう)のやうなみぶりが、
きえたわたしの橋のうへに
たえだえにすぎてゆきます。
さきこぼれるしろばらのゆふやみのやうなあなたのかほは
わたしの手鏡(てかゞみ)のなかに
ふしぎな春(はる)のぼんぼりをともしてゐます。
まどろみからさめたあなたの指(ゆび)が
みがかれた象牙(ざうげ)のやうにあをじろんで、
ほろにがい沈丁花(ぢんちやうげ)のにほひをうつしてゐます。
ああ 思(おも)ひではすてられた銀(ぎん)の舞踏靴(エスカルパン)のやうに
くさむらのなかによろけながら、
月(つき)のかげをおしつぶしてゐます。
ただ あなたの指(ゆび)にふれたばかりで
はかなくわかれてしまつた戀人(こひびと)よ、
わたしは蜘蛛(くも)のやうにきずつけられて、
まだらのみを
風(かぜ)のなかにうごかしてゐるのです。
[やぶちゃん注:「白文鳥」スズメ目スズメ亜目カエデチョウ科ブンチョウ
Padda oryzivora のアルビノの品種。ハクブンチョウとも呼ぶ。ブンチョウはジャワ島やバリ島が原産地であるが、本種は江戸期に中国から輸入されたブンチョウが明治期に突然変異して風切り羽の白い文鳥が生まれ、その後それが固定化されたものである(愛知県弥富市が「ハクブンチョウ」発祥の地とされる)。全身が白く、嘴と目の周囲が赤く、身体に丸みがある(「帯広どうぶつ園の鳥 鳥図鑑」の記載やウィキの「ブンチョウ」を参照した)。
「舞踏靴(エスカルパン)」“escarpin”フランス語。現在は専ら婦人用パンプスを指す。]