芥川龍之介「河童」決定稿原稿 十六
■原稿184(185)
十〈一〉*六*
[やぶちゃん注:「十六」は5字下げ。抹消数字は例えば「七」には見えない。有意に一画で強く横に引いている。「一」と考えて間違いない。本文は2行目から。]
僕は〈トツクの自殺し〉*かう云ふ記事を讀ん*だ後、だんだんこの国
にゐることも憂欝になつて來ましたから、ど
うか我々人間の国へ歸ることにしたいと思ひ
ました。しかしいくら探して歩いても、僕の
落ちた穴は見つかりません。そのうちにあの
バツグと云ふ漁師の〈河〉*河*童の話には〔、〕何でもこの
国の街はづれに或年をとつた河童が一匹、本
を讀んだり、笛を吹いたり、〈靜〉*靜*かに暮らし
てゐると云ふことです。僕はこの河童に尋ね
■原稿185(186)
〈童《河》→に尋ね〉て見れば、或はこの国を逃げ出す途
もわかりはしないかと思ひましたから、早速
街はづれへ出かけて行きました。しかしそこ
へ行つて見ると、如何にも小さい家の中に〈や〉年
をとつた河童どころか、頭(あたま)の皿も固ま〈ら〉*ら*な
い、やつと十二三の河童が一匹、悠々と笛を
吹いてゐました。僕は〈最初は間〉*勿論間違*つた家へはひ
つたではないかと思ひました。が、念の爲に
名〈前を尋ね〉*をきいて見*ると、やはりバツグの教へ〈れ〉てくれ
た年よりの河童に違ひないのです。
■原稿186(187)
「しかしあなたは子供のやうですが〈。〉………」
「〈そ〉お前さんはまだ知らないのかい? わたし
はどう云ふ運命か、母〈親〉*親*の腹を出た時には〈■〉白
髮頭(しらがあたま)をしてゐたのだよ。それからだんだん年
が若くなり、〈■〉今ではこんな子供になつたのだ
よ。〈」〉けれども年を勘定すれば、生まれる前を
〈四〉*六*十〈年〉としても、彼是〈百〉*百*十五六にはなるかも
知れない。」
僕は〈狭い〉部屋の中を見まはしました。そこ
には僕の気のせゐ〈や〉*か*、質素な椅子やテエブル
■原稿187(189)
〈や〉*の*間に何か淸らかな幸福が漂つてゐるやうに
見えるのです。
「あなたは〈《誰よりもの》→どうも外の〉*どうもほか*の河童よりも仕合せに
暮らしてゐるやうですね?」
「さあ、それはさうかも知れない。わたしは
若い時は年〈と〉*よ*りだつたし、〈年をとつた時は〉*年をとつた時は*若
いものになつてゐる。從つて〈《■》→年〉*年*よりのやうに
慾にも渇かず、若いもののやうに色にも〈漁〉*溺*
れない。兎に角わたしの生涯は〔たとひ〕仕合せではな
い〈までも、安らかだらう。〉*にもしろ、*安らかだつたのに〔は〕違
■原稿188(189)
ひ〈ないよ。」〉*あるまい。*」
「成程それでは安らかでせう。」
「いや、まだそれだけでは〈明〉*安*らか〈では〉*には*ならな
い。わたしは体も丈夫だつたし、一生食ふに
困らぬ位の財産を持つてゐたのだよ。〈」〉しかし
一番仕合せだつたのはやはり生まれて來た時
に年〈と〉*よ*りだつたことだと思つてゐる。」
僕は暫くこの河童と自殺した〈ラツプ〉*トツク*の話だ
の毎日醫者に見て貰つてゐる〈《タツパ》→ドツク〉*ゲエル*の話だの
をしてゐました。が、なぜか年とつた河童は
[やぶちゃん注:
●「《タツパ》」ここで芥川は「毎日醫者に見て貰つて」生にすこぶる執着しているところの、今まで全く登場していない「タツパ」という新手河童を登場させようとしていたことが分かる(次の「■原稿189(190)」の3行目の抹消をご覧あれ)。
●「年とつた河童」初出及び現行は、
年をとつた河童
である。この後、これ以外に同じ表現が4箇所出現するが、いずれも同様の異同が認められるので、ゲラ校正での芥川自身による改訂と思われる。]
■原稿189(190)
余り僕の話などに興味のないやうな〈顏〉*顏*をし
てゐました。〈僕は〉
「ではあなたは〈《ほかの河童》→タツ〉*ほかの河童*のやうに格別生き
てゐることに執着を持つてはゐないのですね
?」
年とつた河童は僕の顏を見ながら、靜かに
かう返事をしました。
「わたしもほかの河童のやうにこの国へ生ま
れて來るかどうか、一應父親に尋ねられてか
ら母〈親〉*親*の胎内を離れたのだよ。」
[やぶちゃん注:前注通り、「年とつた河童」は初出及び現行では「年をとつた河童」。]
■原稿190(191)
「しかし僕はふとした拍子に、この国へ轉げ落
ちてしまつたのです。どうか僕にこの国から
出て行(ゆ)かれる路を教へて下さい。」
「出て行かれる路は一つしかない。」
「と云ふのは?」
「それはお前さんのここへ來た路だ。」
僕はこの荅を聞いた時になぜか身の毛がよ
だちました。
「その路が生憎見つからないのです。」
年をとつた河童は水々しい目にぢつと僕の顏
[やぶちゃん注:前注通り、「年とつた河童」は初出及び現行では「年をとつた河童」。]
■原稿191(192)
を見つめました。それからやつと體を起し、
部屋の隅へ歩み寄ると、天井からそこに下
つてゐた一本の綱を引きました。すると今まで
気のつかなかつた天窓(てんまど)が一つ開きました。そ
の又円い天窓の外には松や檜が枝を張つた向
うに大空(おほぞら)が靑あをと晴れ渡つてゐます。〈■〉い
や、大きい鏃(やじり)に似た槍ヶ岳の峯も聳えてゐま
す。僕は飛行機を見た子供のやうに実際飛び
上つて㐂びました。
「さあ、あすこから出て行くが好い。」
■原稿192(193)
年をとつた河童はかう言ひながら、さつき
の綱を指さしました。今まで僕の綱〈■〉*と*思つてゐ
たのは実は綱梯子に出來てゐたのです。
「ではあすこから出さして貰ひます。」
「唯わたしは前以て言ふが〈、〉〔ね〕。〈■〉出て行つて後悔
しないやうに。」
「大丈夫です。〔僕は〕後悔などはしません。」
僕はかう返事をするが早いか、もう綱梯子
を攀ぢ登つてゐました。年をとつた河童の頭(あたま)の
皿(さら)を遙か下に眺めながら。
[やぶちゃん注:前注通り、二箇所の「年とつた河童」は初出及び現行では「年をとつた河童」。以上の最終行は20行目で余白なし。
●「唯わたしは前以て言ふが〈、〉
〈■〉〔ね。〕出て行つて後悔しないやうに。」この台詞の推敲は、当初恐らくは、
唯わたしは前以て言ふが、
まで書いて、読点を抹消して次のマスから何か書こうとした(判読不能。マスの有意な左部分に強い縦の一画がある)が、やめて抹消、
唯わたしは前以て言ふが、出て行つて後悔しないやうに。
その後、かなり後になってから「ね。」を挿入して、
唯わたしは前以て言ふがね。出て行つて後悔しないやうに。
としたのではないかと思われる。何故かというと、この右吹き出しの挿入記号を含めて、この
ね。
だけが原稿及び推敲に用いられたブラックではなく、かなり明るいブルー・ブラック系によるものであるからである。]
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