フランツ・カフカ「罪・苦痛・希望・及び眞實の道についての考察」中島敦訳 10 / 了 (11以下は欠)
10
智識發生の最初の徴候は、死に對する希求である。此の人生は堪へがたく見える。あるひは到達しがたく見える。人はもはや、死を望むことを恥としない。人は、彼の嫌ふ古い住家から、彼のなほ嫌はねばならぬ新しい住家へと導かれることを禱る。このことの中には、ある信仰の痕跡がある。その推移の間に、偶〻「主(しゆ)」が廊下傳ひに歩いてこられて、この囚人を熟視し給ひ、さて、「此の男を二度と監禁してはならぬ。此の男は余の許に來(く)べきものだ。」とおほせられるかも知れない、信仰の痕跡がある。
[やぶちゃん注:原文。
13
Ein erstes Zeichen beginnender Erkenntnis ist der Wunsch zu sterben. Dieses Leben scheint unerträglich, ein anderes unerreichbar. Man schämt sich nicht mehr, sterben zu wollen; man bittet aus der alten Zelle, die man haßt, in eine neue gebracht zu werden, die man erst hassen lernen wird. Ein Rest von Glauben wirkt dabei mit, während des Transportes werde zufällig der Herr durch den Gang kommen, den Gefangenen ansehn und sagen: „Diesen sollt Ihr nicht wieder einsperren. Er kommt zu mir.“
新潮社一九八一年刊「決定版カフカ全集3」飛鷹節氏訳。
一三 ようやく始まろうとする認識の、最初の兆候のひとつに、死にたいという願望がある。そういうとき、この人生は堪えがたく、別の人生は手が届かないようにみえる。死を望むことをもはや恥とは思わなくなる。嫌でたまらない古い独房から、いずれ嫌になるに決まっている新しい独房へ、なんとか移してほしいと懇願する。そのさいに、信仰のかけらもないようなものも作用しているようだ。護送の途中たまたま通りかかられて、囚人を見て、「この者をふたたび閉じこめてはならない。彼は私の許へ来ることになっている」と言ってくださるだろうと、どこかで信じ続けているのである。
以下、私の愛読書であるグスタフ・ヤノーホ著吉田仙太郎訳「カフカとの対話」(筑摩書房一九六七刊)より。
《引用開始》
役所のフランツ・カフカのもとで。
もの倦げに彼は机の向うに坐っていた。垂れ下がった腕、固く閉ざされた唇。
彼は微笑して、手を差し出した。
「昨夜は途方もなくひどい夜でした」
「医者にお見せになりました?」
彼は口をとがらせた。
「医者――ですか……」
彼は右手を、掌を上にしてもち上げ、しずかにそれをおろした。
「人は自分自身から逃れることはできない。これが運命です。ゆるされた唯一の可能性は、観客となって、演ぜられているのがわれわれだということを忘れることにあるのです]
《引用終了》
これをもって中島敦のフランツ・カフカ「罪・苦痛・希望・及び眞實の道についての考察」の訳は中絶している。]
« なやめる薔薇 大手拓次 | トップページ | 楸おふる片山蔭に忍びつつ吹きけるものを秋の夕風 俊恵 萩原朔太郎 (評釈) »