自殺の恐怖 萩原朔太郎 (「自殺の恐怖」初出形)
自殺の恐怖
自殺そのものは恐ろしくない。自殺に就いて考へるのは、死の刹那の苦痛でなくして、死の決行された瞬時に於ける、取り返しのつかない悔恨である。今、高層建築の五階の窓から、自分は正に飛び下りようと用意して居る。遺書も既に書き、一切の準備は終つた。さあ! 目を閉ぢて、飛べ! そして自分は飛びおりた。最後の足が、遂に窓を離れて、身體が空中に投げ出された。
だがその時、足が窓から離れた一瞬時、不意に別の思想が浮び、電光のやうに閃めいた。その時始めて、自分ははつきりと生活の意義を知つたのである。何たる愚事ぞ。決して、決して、自分は死を選ぶべきでなかつた。世界は明るく、前途は希望に輝やいて居る。斷じて自分は死にたくない。死にたくない。死にたくない。だがしかし、足は既に窓から離れ、身體は一直線に落下して居る。地下には固い舗石。白いコンクリート。血に塗れた頭蓋骨! 避けられない決定!
この幻想の恐ろしさから、私はいつも幽靈のやうに蒼ざめてしまふ。何物も、何物も、決してこれより恐ろしい空想はない。しかもこんな事實が、實際に有り得ないといふことは無いだらう。既に死んでしまつた自殺者等が、再度もし生きて口を利いたら、おそらくこの實驗を語る者が少なくあるまい。彼等はすべて墓場の中で悔恨してゐる幽靈である。百度も考へて恐ろしく、私は夢の中でさへ戰慄する。
[やぶちゃん注:『セルパン』創刊号・昭和六(一九三一)年五月号に掲載された。但し、「斷じて自分は死にたくない。死にたくない。死にたくない。」の最後の「死にたくない。」は「死にくない。」で脱字であることから補って示した。太字「はつきり」は底本では傍点「ヽ」。後に、詩集「宿命」(昭和一四(一九二九)年創元社刊)に所収されたが、そこでは標題が「自殺の恐ろしさ」に変わり、以下に見るように幾つかの細部に変更が加えられている(その間の「絶望への逃走」(昭和一二年第一書房刊)にも「自殺の恐ろしさ」とした「宿命」版に近い中間形態のものが存在するが、ここでは特に問題とせず、以下を本散文詩の一つの最終形と捉えておく)。
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自殺の恐ろしさ
自殺そのものは恐ろしくない。自殺に就いて考へるのは、死の刹那の苦痛でなくして、死の決行された瞬時に於ける、取り返しのつかない悔恨である。今、高層建築の五階の窓から、自分は正に飛び下りようと用意して居る。遺書も既に書き、一切の準備は終つた。さあ! 目を閉ぢて、飛べ! そして自分は飛びおりた。最後の足が、遂に窓を離れて、身體が空中に投げ出された。
だがその時、足が窓から離れた一瞬時、不意に別の思想が浮び、雷光のやうに閃めいた。その時始めて、自分ははつきりと生活の意義を知つたのである。何たる愚事ぞ。決して、決して、自分は死を選ぶべきでなかつた。世界は明るく、前途は希望に輝やいて居る。斷じて自分は死にたくない。死にたくない。だがしかし、足は既に窓から離れ、身體は一直線に落下して居る。地下には固い鋪石。白いコンクリート。血に塗れた頭蓋骨! 避けられない決定!
この幻想の恐ろしさから、私はいつも白布のやうに蒼ざめてしまふ。何物も、何物も、決してこれより恐ろしい空想はない。しかもこんな事實が、實際に有り得ないといふことは無いだらう。既に死んでしまつた自殺者等が、再度もし生きて口を利いたら、おそらくこの實驗を語るであらう。彼等はすべて、墓場の中で悔恨してゐる幽靈である。百度も考へて恐ろしく、私は夢の中でさへ戰慄する。
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私は高校二年の時、二篇の小説を書いたのを覚えている(後に廃棄し手元にはない)。その一つは「飢餓海峡」のエンディングの続きと思しいシチュエーションで、一人の男が青函連絡船から入水自殺を図りながら、突如、死にたくなくなり、その死の恐怖に襲われつつ、手錠のままに海の藻屑となるまでの十数分間の男の意識を描いたものだった。今一つは、定年退職した老数学教授が全く無理由に厭世的になり、マンションのベランダから投身自殺をするのだが、その落下から舗道への激突と死に至る数分の中で、「ポアンカレ予想」(「単連結な三次元閉多様体は三次元球面S3に同相である」という命題)が解けてしまう、というものであった(これは後に、二〇〇二年から二〇〇三年にかけて、ロシア人数学者グリゴリー・ペレルマンによって証明されたとウィキの「ポアンカレ予想」にある。私がこの小説を書いたのは1973年であった)。……このアフォリズムを読みながら、そんなことや、芥川龍之介のことや、「こゝろ」の先生のことを思い出していた……]