大空は戀しき人の形見かは物思ふごとに眺めらるらむ 酒井人眞 萩原朔太郎 (評釈)
大空は戀しき人の形見かは物思ふごとに眺めらるらむ
戀は心の郷愁であり、思慕(エロス)のやる瀨ない憧憬(あこがれ)である。それ故に戀する心は、常に大空を見て思を寄せ、時間と空間の無窮の涯に情緒の嘆息する故郷を慕ふ。戀の本質はそれ自ら抒情詩であり、プラトンの實在(イデヤ)を慕ふ哲學である(プラトン曰く。戀愛によつてのみ、人は形而上學の天界に飛翔し得る。戀愛は哲學の鍵であると。)古來多くの歌人等は、この同じ類想の詩を作つてゐる。例へば萬葉集十二卷にも「思ひ出でて術(すべ)なき時は天雲の奥處(おくが)も知らに戀ひつつぞ居る」等がある。しかし就中この一首が、囘想中で最も秀れた名歌であり、縹渺たる格調の音楽と融合して、よく思慕の情操を盡して居る。古今集戀歌愛歌中の壓感卷である。
[やぶちゃん注:昭和六(一九三一)年第一書房刊「恋愛名歌集」より。当該歌は「古今和歌集」の巻第十四に載る七四三番歌で、従五位下土佐守であった酒井人眞(ひとざね ?~延喜一七(九一七)年)の歌。「大和物語」の百二段に土佐守時代の逸話や歌が載るのみである。「思ひ出でて術(すべ)なき時は天雲の奥處(おくが)も知らに戀ひつつぞ居る」は「万葉集」巻十二に載る三〇三〇番歌で、
思ひ出でて術(すべ)なき時は天雲(あまくも)の奥處(おくか)も知らに戀ひつつぞ居(を)る
が正しい。「奥處(おくか)」の「か」は場所の謂いで、その天空の神秘的な奥深さを言うのであろう。それも知らないように(そうすることをも憚らず恐れずに)果てしなく恋い続ける、憧憬、あくがっている、というのである。私は本来あるべき人の魂が空の彼方へと飛んでゆくという、この「あくがる」という古語が、すこぶる附きで好きである。]