放歌十二首 他五首 中島敦
放歌
我が歌は拙(つた)なかれどもわれの歌他(こと)びとならぬこのわれの歌
我が歌はをかしき歌ぞ人麿も憶良もまだ得詠(よ)まぬ歌ぞ
我が歌は短册に書く歌ならず街を往復(ゆ)きつゝメモに書く歌
わが歌は腹の醜物(しこもの)朝泄(あさま)ると厠(かはや)の窓の下に詠む歌
わが歌は吾が遠(とほ)つ租(おや)サモスなるエピクロス師にたてまつる歌
[やぶちゃん注:「サモス」“Samos”。サモス島。エーゲ海東部のトルコ沿岸にあるギリシャの島。ギリシャ神話の主神ゼウスの正妻ヘーラーの生まれた島とされ、彼女を祀った神殿遺跡が残り、エピクロスやピタゴラスの生地でもある(ウィキの「サモス島」に拠る)。]
わが歌は天子呼べども起きぬてふ長安の酒徒に示さむ歌ぞ
わが歌は冬の夕餐(ゆふげ)の後(のち)にして林檎食(を)しつゝよみにける歌
わが歌は朝(あした)の瓦斯(ガス)にモカとジャヷのコーヒー煮(に)つゝよみにける歌
わが歌はアダリンきかずいねられぬ小夜更牀(さよふけどこ)によみにける歌
わが歌は呼吸(いき)迫りきて起きいでし曉(あけ)の光に書きにける歌
わが歌は麻痺剤強みヅキヅキと痛む頭に浮かびける歌
[やぶちゃん注:「ヅキヅキ」の後半は底本では踊り字「〱」。この「麻痺剤」とは喘息に処方された気管拡張剤と思われる。]
わが歌はわが胸の邊(へ)の喘鳴(ぜんめい)をわれと聞きつゝよみにける歌
身體(うつそみ)の弱きに甘えふやけゐるわれの心を蹴らむとぞ思ふ
手(て)・足(あし)・眼(め)とみな失ひて硝子箱に生きゐる人もありといはずや
[やぶちゃん注:これは当時の如何なる情報によるものか、ちょっと捜しあぐねている。識者の御教授を乞うものである。]
ゲエテてふ男(をとこ)思へば面(つら)にくし口惜(くや)しけれどもたふとかりけり
纖(ほそ)く勁(つよ)く太く艷ある彼(か)の聲の如き心をもたむとぞ思ふ (シャリアーピンを聞きて)
[やぶちゃん注:筑摩書房版全集第三巻の年譜等によれば、中島敦は昭和一一(一九三六)年二月六日にシャリアピンの公演バス独唱会を聴いている(於・比谷公会堂。来日期間は同年一月二十七日から五月十三日)。調べて見たところ驚くべきことに彼は事前に演目を決めず、その日の自分の雰囲気で歌う曲を決めたそうであるが、幸いなことに、同第三巻所収の中島敦の「手帳」の「昭和十一年」の当日の記載に詳細な演目を残し於いて呉れた。以下に示す。
*
二月六日(木)
7.30 p.m./Chaliapin
1.
Minstrel (Areusky)/2. Trepak (Moussorgsky)/3. The Old Corporal/4. Midnight Review (Glinka)/5. Barber of Seville
(Rossini)/1"An Old Song (Grieg)/2"When the King went forth to War.
1. Don
Juan (Mozart)/2. Persian Song (Rubinstein)/3. Elegie
(Massenet)/4. Volga Boatman/5.
Song of Flee (Moussorgsky)/1"Prophet (Rimsky-Korsakov)
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なお、もしかすると、これは非常に貴重な記録なのかも知れない。ネット上でこの来日時の演目記録を捜したが見当たらなかったからである。]
ゴッホの眼モツァルトの耳プラトンの心兼ねてむ人はあらぬか
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