愁ひつつ丘に登れば花茨 蕪村 / 花茨(いばら)故郷の道に似たる哉 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)
愁ひつつ丘に登れば花茨
「愁ひつつ」といふ言葉に、無限の詩情がふくまれて居る。無論現實的の憂愁ではなく、靑空に漂ふ雲のやうな、または何かの旅愁のやうな、遠い眺望への視野を持つた、心の茫漠とした愁である。そして野道の丘に咲いた、花茨の白く可憫な野生の姿が、主觀の情愁に對象されてる。西洋詩に見るやうな詩境である、氣宇が大きく、しかも無限の抒情味に溢れて居る。
[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「夏の部」より三首目。「可憫」「對象」「詩境である、」の読点はママ。]
花茨(いばら)故郷の道に似たる哉
「愁ひつつ丘に登れば花茨」と類想であつて、如何にも蕪村らしい、抒情味に溢れた作品である。この句には「かの東皐に登れば」といふ前書が付いて居るが、それが一層よく句の詩情を強めて居る。
[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「夏の部」の掉尾。「東皐」とは東の丘の意であるが、これは陶淵明の「歸去來辭」の末尾にある
登東皐以舒嘯
臨淸流而賦詩
聊乘化以歸盡
樂夫天命復奚疑
東皐に登り 以つて 舒(おもむ)ろに嘯(うそぶ)き
淸流に臨みて 詩を賦す
聊(ねが)はくは 化に乘じて 以つて 盡くるに歸し
夫(そ)の天命を樂しめば 復た奚(なに)をか疑はん
に基づく前書である。]