新約全書 萩原朔太郎
●新約全書
舊約全書の對照として、イエス・キリストの新約全書は、なんといふ涙ぐましい、愛のセンチメントに充ちた抒情詩だらう。舊約から新約に移つて來る時、吾人は電光の空に閃めく、暗夜の物すごい暴風雨から、急に明るい花園に出て、春の微笑を感ずるやうな、氣温の驚くべき變化を感ずる。それはあの憤怒に燃えてる、殘忍酷薄の神に對して、柔和な博愛の神を畫き、悲壯な惡魔主義の詩に對して、愛のセンチメンタルな詩を歌つてゐる。
この人道主義の抒情詩は、しかしながら多くの猶太人に悦ばれなかつた。なぜなら耶蘇の説いたところは、猶太人の鬱屈された叛逆心と、その不撓不屈の惡魔的復讐心とに反説して、却つて境遇へのあきらめを説き、敵を愛することを教へ、權力への無抵抗と、愛によつて慰めらるべき、虐たげられた者の悲しい平和とを教へたから。すべてに於てその福音は、猶太人の長い希望を斷念させ、力の及ばない復讐への、無益な妄想を絶望させた。しかもナザレのイエスは、自ら神によつて使はされた、眞の救世主であると稱した。一方で猶太人等は、彼等の病熱的な幻想にまで、どんな救世主を待つてゐたか? 彼等はエホバに於ける如く、憤怒と復讐の狂熱に燃え、火と水と電撃とから、世界の全人類を盡殺して、長く虐たげられたカナンの民を、煉獄から自由に導いてくれるところの、眞の救世主を待つて居たのだ。どうしてあの柔和のイエスが、エホバの實の子で有り得るだろう。イエスは神の豫言を僞わり、彼の同胞たる猶太人を、支配階級の權力者に隷屬させて、反抗もなく復讐もないところの、無力な永遠の家畜――柔和な仔羊にしようとした。のみならず彼は、猶太人の悲痛な希望であるところの、唯一のはかない未來の夢――彼等はただそれのみて生活してゐる――を破壞し、聖書によつて舊約された、すへてのロマンチシズムを幻滅させた。猶太人等がイエスを憎み、欺僞の豫言者として十字架に磔刑したのは、もとより當然すぎる次第であつた。
しかしながら羅馬人等は、むしろイエスに同情して居た。そして耶蘇の新思想が、正しく理解された後になつては、それが羅馬の國教となり、そして一般に多くの屬國と隷屬民とを有するところの、統治者の國々に採用された。彼等の支配階級者は、それによつて屬邦の民を軟化し、叛逆への意志を絶斷させると同時に、國内に於ける奴隷や貧民やの、多くの逆境にある民を教化し、運命への悲しきあきらめと、無抵抗の平和な滿足とから、統治權に對する不平を抑え、民衆を心服させようとしたのである。しかも世界の中で、獨りただ猶太人だけが、執拗にも彼等の信仰を固持して居り、すべての迫害と強制にかかわらず、斷じて基督教への歸依を拒んで來たのであつた。
今! 基督教は既に凋落し、新約全書はその信仰と抒情詩をなくしてしまつた。けれども一方の猶太教と、その舊約全書の精神する哀切悲痛な敍事詩的思想とは、何等かの新しき變貌した姿に於て、人類の遠き未來にまで、ずつと永續した信仰をあたへるだらう。我々は尚今日生きて居るヨブについて、その實在の姿を見、傳記を書くことができるのである。
[やぶちゃん注:昭和四(一九二九)年十月第一書房刊のアフォリズム集「虛妄の正義」の「意志と忍從もしくは自由と宿命」より。二箇所の太字「あきらめ」は底本では傍点「ヽ」。私はこの最後の朔太郎の謂いに大いに共感するものである。私にとって如何なる宗教者の秘蹟も――退屈で――子供騙しの――大根役者だらけの茶番劇にしか過ぎぬ。――そんな中で私にはヨブが――ただヨブ独りが――ザインとしてのすこぶるリアルな『人間』として――立ち現われてくるのである。――私はユダを復権するべく、今、その伝記が書かれねばならぬという昔からの思い以上に――ヨブの実像をこそ新たに――人が人の物語として書くべきものである――と信じて疑わぬのである。――]
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