『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 10 不老門
珍しく、漢文が非常に分かり易く読めた。その顕彰の思いが誰にも分かり易く伝わってくる――だのに――だのにこの門が今やなく、この碑文のみが残っているという皮肉な事実が、まっこと、痛々しいではないか――
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●不老門
不老門は。舊上宮石階の上に建てる樓寶門の稱なり。辨財天の額を掲け。樓上に妙音辨財天愛染を安置してありしが。今は廢絶して僅かにそが再造の碑石を剩(あま)せり。
[やぶちゃん注:以下、碑文は底本では全体が一字下げ。]
江島不老門再造記
甚矣哉物之難成也。有其財而無其志則不成也。有其志有其財而無其時則亦不成也。三者兼具而後物得以成矣 甚矣哉物之難成也。不老門之設于今幾許年矣 屢經天災風雨之變。破壞不治。祠主久欲改造之。而力未能也。岡辺君聞之曰。吾爲之耳。廼出其私錢若干萬緡。使工師矢内右兵衛造之。以萬延元年十月始。至翌年四月落成。門樓高若干尺。其大稱是。閎燿壯偉。丹漆刻鏤之文比其舊加美焉。實江島一觀也。其始成也。用人之力若干工。木石銅瓦之材若干枚。不謂不少矣。而君輙曰。既已爲之。費之多少非所可問焉。嗚呼無財者固所不能。已而有財者亦不必爲之也。況澆季之世仁厚之風衰而功利之俗盛。人人唯利是見。雖爲士太夫者。亦或相欺罔以利己。莫復有慈愛羞惡之心。加之近歳風雨不順。五穀不豐。諸品爲之告之。物價騰踴。小民窮絶亦甚矣。方是之時孰復好出不貲之財以爲大造作乎。乃不老門之破壞而久不治由此之故也。君通稱政右衛門。相州津久井勝瀨村邑人也。以有財聞于近郷。又好施。以故決然獨能有斯擧。以使工技服力之小民得食于其功。是豈非具志與財與時而得之者哉。昔宋范文正公。以凶歳大興土木之役監司劾奏之。公乃自陳曰。欲發有餘之財以惠貧者。盖方是之時。工技服力之人仰食于公私者。無慮數萬人。荒政之施莫此爲大。其賢至今稱之。君身非官族。而其用心如是。其大小雖有殊者。亦文正公之遺法也。是不可以不記也。而又君之志也。乃刻之石云。
文久紀元辛酉夏四月穀旦 永陵酒井光撰幷書
[やぶちゃん注:文久元(一八六一)年に中津宮の社前にあった竜宮城の門と同様な不老門が老朽化していたのを、相州津久井郡勝瀬村の富豪岡部政右衛門が私費を投じて独力で再建した、その再建記念碑である。恐らくは再建して十二年しか経っていない明治六(一八七三)年、おぞましき神仏分離令によって門は破却されてしまったものと思われる。碑だけが今も残る、何とも岡部氏の熱意の実直なればこそ、その達意の永陵酒井氏の顕彰の碑文のみが残ってますます痛々しく哀しいではないか。以下、全く資料がなく、返り点の一部も不審なれば、我流で書き下す。
江の島不老門再造の記
甚だしきかな、物の成り難きや。其の財有るとも、其の志し無ければ、則ち成らざるなり。其の志し有り、其の財も有るとも、其の時、無くんば、則ち亦、成らざるなり。三者兼具して後、物は以て成し得。甚だしきかな、物の成り難きや。不老門の設け、今に幾許(いくばく)の年ぞ。屢々天災風雨の變を經(へ)、破壞して治(ぢ)せず。祠主久しく之を改造せんと欲せども、力、未だ能はざるなり。岡辺君、之れを聞きて曰はく、「吾、之を爲すのみ。」と。廼(すなは)ち其の私錢の若干の萬緡(びん)を出だし、工師矢内右兵衛をして之れを造らしむ。萬延元年十月を以て始め、翌年四月に至りて落成す。門樓、高さ若干尺。其の大いさ是れを稱す。閎燿(くわいうき)壯偉。丹漆刻鏤の文(もん)、其の舊に比して美を加ふ。實(まこと)に江島一の觀なり。其の始め成るや、人の力を用ふること、若干工、木石銅瓦の材、若干枚、少なからずと謂はず。而れども君、輙(すなは)ち曰はく、「既に已に之れ爲る。費への多少、問ふべき所に非ず。」と。嗚呼、財無き者、固(もと)より能はざる所にして、已にして、財有る者も亦、必ずしも之を爲さざるなり。況んや、澆季(げうき)の世、仁厚の風、衰へて、功利の俗のみ盛り、人人、唯だ利のみ、是れ、見る。爲士太夫の者たりと雖も、亦、或ひは相い欺罔(きまう)して以て己れを利するのみ。復た慈愛羞惡の心の有ること莫し。加之(しかのみならず)、近歳は風雨順ならず、五穀豐かならず、諸品、之を爲して之を告げ、物價は騰踴(とうよう)し、小民の窮絶、亦、甚だし。是の時に方(あた)りて、孰れか復た好く不貲(ふし)の財を出だし、以て大造作を爲さんや。乃ち不老門の破壞して久しく治せずは、此の故の由なり。君、通稱、政右衛門、相州津久井勝瀨村の邑人(むらびと)なり。財、有るを以つて近郷に聞こゆ。又、施(し)を好む。故を以て決然として獨り能く斯かる擧(きよ)有り。以て工技服力の小民をして其功に得食せしむ。是れ、豈に志、財と時とをして之を得、具せるところの者に非ずや。昔、宋の范文正公、凶歳を以てするに大いに土木の役を興して、監司して之れを劾奏す。公、乃ち自ら陳じて曰はく、「有餘の財を發して以て貧に惠まんと欲するは、盖(けだ)し、方(まさ)に是の時なり。」と。工技服力の人、公私に仰食する者、無慮(およ)そ數萬人たり。荒政の施(し)、此れに大と爲す莫し。其の賢、今に至るまで之(ここ)に稱せらる。君、身、官族に非ず、而も其の用心是くのごとし。其の大小、殊なる者、有ると雖も、亦、文正公の遺法なり。是れ、以つて記さざるべからざるなり。而して又、君の志なり。乃ち之の石に刻して云ふなり。
文久紀元辛酉(かのととり)夏四月穀旦(こくたん) 永陵酒井光撰幷びに書
「閎燿」現代仮名遣で「こうき」。広く荘厳なる謂いであろう。
「澆季」現代仮名遣で「ぎょうき」は、「澆」が軽薄、「季」が末の意で、道徳が衰えた乱れた世。世の終わり、末世の謂い。幕末の雰囲気を伝える謂いとも言えるか。
「欺罔」「ぎまう(ぎもう)」とも読む。人をあざむいてだますこと。
「不貲」返り点がないので音読みしておいたが、通常はこれで「ㇾ」点を打って「はかられざる」と読み、無数の、数え切れぬほど多いの謂いである。
「服力」とは「能力を身に着けた」という謂いであろう。
「范文正」北宋の政治家范仲淹(はんちゅうえん 九八九年~一〇五二年)の諡(おくりな)。欧陽脩の推薦によって枢密副使・参知政事となった。彼は君子の正道を論じて十策に及ぶ施政改革を訴えた。散文にも優れ、著名な「岳陽楼記」の中の「天下を以つて己が任となし、天下の憂いに先んじて憂へ、天下の楽しみに後(おく)れて樂しむ」という「先憂後楽」(後楽園の由来)、儒学を人格形成の実学に高めた人物として知られる(主にウィキの「范仲淹」に拠る)。
「劾奏」官吏の罪状を暴き、君主に奏上すること。弾劾奏聞。
「穀旦」「穀」は善いこと・幸いの意で、「旦」は日の意。吉日。佳辰。吉旦。
「永陵酒井光」不詳。儒学者か? 僧侶のようには思われない。識者の御教授を乞うものである。]