明恵上人夢記 19
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同十四日、丹波殿の事に依りて京に出づ。同十五日、對面を辭退して山に登る。其の夜、夢に云はく、或る處に法會を行じて、之を聽聞す。法智房(ほふちぼう)が云はく、「入我我滅之佛事よ」と云々。成佛房(じやうぶつばう)、導師と爲(な)りて、神分(じんぶん)之處、發句に云はく、「入滅之砌(みぎり)なれば」と云々。又、教化之發句に、「鏑矢(かぶらや)を射るが如し」と云々。其の後、座を起(た)ちて、やはら成辨之頭を踏む事三度、又、傍にある人の頭を三返、之を踏むと云々。
[やぶちゃん注:「同十四日」元久二(一二〇五)年十月十四日。
「丹波殿」不詳。文脈上、「對面を辭退し」た相手はこの「丹波殿」ととっておく。
「法智房」底本の注に、『明恵の同行者の一人、性実。文応元年(一二六〇)入寂。八十三歳。』とあるから、当時、法智房は満二十七歳(明恵は満三十二歳)。
「入我我滅」仏法の真実の域に身を委ねて自己を滅却、仏と一体化すること。
「成佛房」不詳。
「神分」仏事法要の部分名。広狭二義に用いる。法要の導師が諸天諸神のためにその解脱増威を祈願する句を唱えるのが狭義の神分で「総神分(そうじんぶん)」とも称する。「大梵天王帝釈天王を始め奉り……」などと名号を挙げて「……に至るまで、離業証果(りごうしようが)せしめ奉らんがために、総神分に般若心経、大般若経名」などと結ぶ。仏教に於いては神の世界は迷界の六道の一つであって神通力はあるものの、業苦を離れられないため、功徳を求めて法要の場に来臨している、と考える。そこで、その神々のために経文や経題を唱誦することから「神の分」と言うのである(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。]
■やぶちゃん現代語訳
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同十四日、丹波殿のことに関わって京に出た。同十五日、結局、丹波殿との対面を辞退して筏立の山に戻った。その夜、見た夢。
『ある所にて法会が行(ぎょう)ぜられている。それを私は聴聞している。
法智房がいて
「入我我滅の仏事であることよ!」
と讃嘆している。
見ると成仏房が導師となっている。
彼は丁度、神分(じんぶん)を唱誦しているところで、その発句は、
「入滅の砌りなれば!」
であった。また教化の箇所の発句には、
「鏑矢を射るが如し!」
と高らかに誦した。
と、その直後、成仏房は座を起って、やおら、私の頭を踏むこと、三度――また、傍らにあった御仁(誰であったかは失念)の頭を同じく三返、これを踏むのであった。』
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