帰化人部落 三首 中島敦 (「小笠原紀行」より)
奧村に歸化人部落あり、もと捕鯨を業とする亞米利加人なりしといふ
奧村のパパイヤの蔭に歸化人の家靑く塗り甘煮植ゑたり
小匝(こばこ)もち娘いで來ぬブルネット眼も黑けれど長き捷毛や
[やぶちゃん注:「ブルネット」ここは英語“brunet”(男性)の女性形“brunette”で褐色がかった髪のこと。“brunet”はフランス語“brun”(brown)+指小辞“-et”が語源。]
紅(あか)き貝茶色の貝(かひ)と貝つ物(もの)吾にくるゝとふ歸化人娘
[やぶちゃん注:「貝つ」の「つ」は格助詞で所属などを示すが、ここは、貝という貝を、という助数詞「つ」(個・箇)のニュアンスを含ませたか。
「歸化人」はウィキの「欧米系島民」に詳しい。この「欧米系島民」とは小笠原諸島に居住していたかつて外国籍(但し、ハワイ人やポリネシア人が含まれていて欧米系白人のみではない)を持っていて日本に帰化した(明治一五(一八八二)年に居住していた二十戸七十二人全員が帰化し日本人となっている)人々とその子孫を指す語である。小笠原への本格的入植は日本からではなく、一八三〇(文政一三)年のイタリア出身のイギリス人と称するマテオ・マザロを団長とするイギリス人二名・アメリカ人二名・デンマーク人一名の五名及びハワイ人男女二十五名(十五人とするものもある)がホノルルから出向、六月二十六日に父島に到着し、入植したのが最初とされ、マテオ・マザロからの報告を受けたサンドイッチ諸島イギリス領事代理は、入植地に原住民はいなかった、と同年の報告書に記しているとある(但し、十九世紀初頭に来島した者の航海日誌や探検報告書によれば小笠原諸島に自ら住みついた白人やカナカ人(色の黒い人)住人がいたことが記されており、一八二七(文政一〇)年には難破した捕鯨船の乗組員が数年居住した事実もウィキに記されてある)。小笠原は一八三〇年の『入植後も各国の捕鯨船が頻繁に寄港しており、物資や手紙のやりとりを託す連絡船として機能していた』が、文久元年十二月十七日(一八六一年十一月十六日)に江戸幕府が列国公使に小笠原の開拓を通告、一八六二年一月(文久元年十二月)には外国奉行水野忠徳の一行が咸臨丸で小笠原に派遣されている。明治九(一八七六)年に明治新政府は小笠原島を内務省所轄とし、日本の統治を各国に通告、それを受けて先に示した全欧米系島民の帰化が明治一五年になされた。『第二次世界大戦中、戦火が間近に迫っていることから小笠原諸島の全住民は、欧米系島民も含め本土へ疎開した』が、『戦後アメリカの統治下に置かれると、小笠原諸島は日本の施政権から切り離される。そして欧米系島民のみが帰島を許された。アメリカ統治時代は英語が公用語とされ、義務教育課程校のラドフォード提督初等学校で英語による教育を受けた』。昭和四三(一九六八)年六月二十六日の日本への『返還後は、戦前からの移住民に加え、新たに本土から移住してくる新島民とともに共存している。アメリカ統治下で英語教育を受けた世代は、日本語に馴染めず、アメリカ本国に移住したものもいる』。なお、『現在、欧米系島民の姓として代表的なものは、セイヴァリー→瀬掘・奥村(アメリカ系)、ワシントン→大平・木村・池田・松澤(アメリカ系)、ウェッブ→上部(アメリカ系)、ギリー→南(アメリカ系)、ゴンザレス→岸・小笠原(ポルトガル系)、ゲーラー→野沢などがあげられる』が、四~六世代目を『迎えた現在、大多数は日本人との混血となっており、外見上は日本人とほとんど変わらない人も少なくない。今でも小笠原の電話帳などでみられる、これらの姓は欧米系島民の入植者の子孫である』とある。『欧米系島民と呼ばれるものの、その出自は出版された航海日誌などで確認できるものとしては、アメリカ合衆国、ハワイ、イギリス、ドイツ、ポルトガル、デンマーク、フランス、ポリネシア原住民など多種多様』であるともある。この褐色の髪と黒き瞳の少女――存命ならば八十歳を越えておられよう――逢ってみたい気がする……]