日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所 9
非常につかれていた上に暑い日だったので、横浜へ帰る途中、私は殆ど居ねむりをしつづけた。だが、何から何までが、異国的な雰囲気を持っているのを、うれしく思った。ある点で男の子連は、世界中どこへ行っても同じである。粘土の崖を通過した時、小さな子供達が、(恐らく漢字を使用してであろう)名前をほっていた。私は米国でも、度々このような露出面に、男の子が頭文字を刻んでいるのを見た。
日本人が畳や、家の周囲の小路を掃く箒(ほうき)は、我国の箒と大して相違してはいない。只柄が短く、そしてさきが床に適するような角度で切ってあるので、我々のようにそれを垂直に持ちはしない。
[やぶちゃん注:太字「さき」は底本では傍点「ヽ」。]
私が汽車の中やその他で観察した処によると、日本人は物を読む時に唇を動かし、音読することもよくある。
横浜に住んでいる外国人の間にあって、日本人は召使い、料理人、御者、番頭等のあらゆる職を持っていて、支那人は至ってすくない。然し大きな銀行のあるものには支那人がいて、現金を扱ったり勘定をしたりしている。国際間の銀行事務、為替相場等を、すみからすみ迄知っている点で、世界中支那人に及ぶものはない。一例として、交易が上海(シャンハイ)、香港(ホンコン)及びサンフランシスコ、ロンドン、ボンベイ等に対し、いろいろな貨幣並に度量衡を以てなされる。今、我国の重量でいうと百斤を越すぴくるで米をはかり、それを他の場所で別な重量度を以て別な通貨で売り渡すというような場合、支那人の買辨(ばいべん)は即座に、算盤上(そろばん)にその差異を、日本の貨幣で計算する。米の値段は我国の麦に於ると同様、しよっ中上下している。これ等の買辨は、インドや支那の米価や、ロンドン、ニューヨーク等の為替相場を質問されるとすぐさま、而も正確に返答をする。同時に彼等は銭――銀ドル――を勘定し、目方の不足したのや偽物を発見する速度に就ても、誰よりもすぐれている。彼等が銀ドルの一本を片手に並べて持ち、先ずそれ等の厚さが正確であるかどうかを検べる為に、端をずっーと見渡し(彼等が使用する唯一の貨幣たるメキシコドルは、粗末に出来ている)そこでそれ等を滝のように別の手に落しながら、一枚一枚の片面を眺め、相互同志ぶつかり合う音を聞き、次に反対側を見るために反対の手に落し込むその速度は、真に驚くの他はない。一人の買辨がそれをやるのを見ながら、私は銀貨がチリンと音を立てるごとに、指でコツンとやろうと思って、出来るだけ速く叩いた結果、私は一分間に一二百二十回ばかり、コツンコツンやったことを発見した。この計算は多すぎるかも知れないが、とにかく銀貨が一つの手から他の手に落される速さは、まったく信用出来ぬ程である。こうして買辨は一分間確実に二百枚以上の重量を感じ、銀貨を瞥見し、そして音を聴く。時々重さの足らぬ銀貨を取り出すのを、私はあきれ返って凝視した。だが、日本人が不正直なので、かかる支那人の名人が雇傭されるのだというのは、日本人を誹毀(ひき)するの甚しきものである。事実は、日本人は決して計算が上手でない。また英国人でも米国人でも、両替、重量、価値その他すべての問題を計算する速度では、とてもかかる支那の名人にかないっこない。
[やぶちゃん注:「我国の重量でいうと百斤」原文“one hundred of our pounds”。約45・4キログラム。
「ぴくる」原文“the picul”。ピクル。我々には馴染みがないが、大貨物の重量を示す単位で、主として中国から東南アジアに於いて海運で用いられている。1ピクルは60キログラムである。
「買辨」買弁。中国に於いて清朝末期から人民共和国の成立期頃まで、外国の商社や銀行などが中国人と取引する際の仲介者とした中国人の商人を指す語。
「銀ドル」米ドル。]
図―122
私は東京でもうーつの博物館を見物した。これは工芸博物館で、私は炭坑、橋梁、堰堤の多数の模型や、また河岸の堤防を如何にして水蝕から保護するかを示す模型等を見た。日本家の屋根の組立てもあったが、それには、その強さを示すために、大きな石がいくつか乗せてあった。橋の模型はいずれも長さ五、六フィートの大きなもので、非常に巧妙に、且つ美麗に出来ていた。また立木から繩で吊した歩橋の、河にかかった模型もあった。図122は橋脚の簡単な写生で、一種の肱木の建築法を示している。最初に井桁(いけた)枠をつくり、それに丸の礎の樹幹の板の方をさし込み、井桁枠に石をみたしてこれを押える。かくて次々に支柱を組立て、最後にその周囲に石垣を築く。
[やぶちゃん注:「もうーつの博物館」次の段にサウス・ケンジントン博物館寄贈の陶磁器収蔵品などがあること、その展示ケースの様子などから、当時、内山下町(現在の東京都千代田区内幸町)にあった国営の「博物館」(後の帝国博物館・帝室博物館、現在の国立博物館の前身)を指すか。な、モースが来日した明治一〇(一八七七)年には上野寛永寺本坊跡地(後に東京国立博物館の敷地となる)で第一回内国勧業博覧会が開催されているが、これは翌八月の開会であるし、叙述から見ても博覧会の会場という雰囲気はしないから違うであろう。
「五、六フィート」約1・5から1・8メートル。
「肱木」「ひじき」と読む。本来は日本建築に於いて、屋根の下部で斗(と:平面が正方形または長方形の材。)と組み合わせ、斗拱(ときょう)と呼ばれる組み物を作る。上からの荷重を支える用をなす横木で主に柱上にあって突き出した深い軒を支える、持送りと呼ばれる技法の一種。]
この博物館にはサウス・ケンシントン博物館から送った、英国製の磁器陶器の蒐集があった。陳列館は上品で、硝子にはフランスの板硝子が使ってあった。広間は杉で仕上げてあった。一軒の低い建物にはウイン博覧会から持って来た歯磨楊子、財布、石鹸、ペン軸、ナイフ、その他、我国の店先きでお馴染(なじみ)のいろいろな品が、沢山並べてあったが、恐らくこれはこの博物館の出品物と、交換したのであろう。日本の物品ばかりを見た後で、この見なれた品で満ちた部屋に来た時は、一寸、国へ帰ったような気がした。
[やぶちゃん注:「歯磨楊子」“toothbrushes”これは歯ブラシと訳してよかろう。]
私は郵便局の主事をしているファー氏に紹介された。同氏の話によると私宛の手紙を江ノ島へ転送することは、すこしも面倒でないらしい。昨年中に郵便切手を六千ドル外国の蒐集家に売ったそうである。米国へ行く郵便袋の各々に入っている手紙に貼った切手は、外国の蒐集家に、五十ドルから七十五ドルまでで売られるというが、何と丸儲ではないか。
[やぶちゃん注:明治9(1876)年の為替相場で1米ドルは0.98円であるから、50~75ドルは49~74円弱となり、当時の物価や相対的な裕福差から考えると、1円は1万円から20万円まで幅を持つが、それで計算すると前者なら49万~74万円、後者では何と980万~1480万円となるから、使い古しの日本切手の貼られたエンタイアは、まっこと「何と丸儲」も甚だしい美味しいものだったわけである。]
この国の雲の印象はまったく素晴しい。空中に湿気が多いので、天空を横切って、何ともいえぬ形と色を持つ、影に似た光線が投げられることがある。日没時、雲塊のあるものは透明に見え、それをすかしてその背後の濃い雲を見ることも出来る。朝は空が晴れているが、午後になると北と西の方向に雲塊が現われ、そして日暮れには素晴しい色彩が見られる。
図―123
私は前に、私が今迄見た都会の町通りに、名前がついていないという事実を述べた。横浜では地面が四角形をいくつもならべたような具合に地取りしてある。聞く所によると、町通りはもとの区画に従わず、地所が小区域に転貸されると、それ等の場所へ達する町通りが、ここに出した図面に示すように、出来るのだそうである(図123)。どこでもさがそうとする人は、元の区域の番地を知っていなくてはならぬ。番地には引き続いた順序というものがない。一例として、グランド・ホテルは八十八番だが、八十九番は四分の三マイルもはなれた所にある。地所は最初海岸から運河まで順に番号づけられ、運河に達すると再び海岸に戻って、そこから数え出したのであった。
[やぶちゃん注:「三マイル」約4・8キロメートル。]
図――124
この国の庭園にはイシドーロ、即ち石の燈籠という面白い装飾物がある。形はいろいろだが、図124ではその二つを示した。これ等はたいてい苔で被われ、いずれも日本の庭園で興味あるのみならず、米国の庭に持って来ても面白かろうと思う。小さなランプか蠟燭を、特にこの目的でえぐり取られた上部に置く。これはその周囲を照らしはしない。恰度海岸の燈台が航海者を導くように、夜庭園の小径を歩く人の案内者の役をつとめる丈である。
[やぶちゃん注:ここに有意な行空きがなされている。PDFの原文も同じ。]
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