フランツ・カフカ「罪・苦痛・希望・及び眞實の道についての考察」中島敦訳 3
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凡ての他の罪惡がそこから生ずる根元的な罪惡が二つある。性急と怠惰。性急の故に我々は樂園から追出され、怠惰の故に我々はそこへ歸ることができぬ。併しながら、恐らくはたゞ一つの根元的な罪惡があるのみであらう。性急。性急の故に我々は追放され、又、性急の故に我々は歸ることができない。
[やぶちゃん注:原文。
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Es gibt zwei menschliche Hauptsünden, aus welchen sich alle andern ableiten: Ungeduld und Lässigkeit. Wegen der Ungeduld sind sie aus dem Paradiese vertrieben worden, wegen der Lässigkeit kehren sie nicht zurück. Vielleicht aber gibt es nur eine Hauptsünde: die Ungeduld. Wegen der Ungeduld sind sie vertrieben worden, wegen der Ungeduld kehren sie nicht zurück.
新潮社一九八一年刊「決定版カフカ全集3」飛鷹節氏訳。
三 人間には二つの主要な罪があり、他の罪はすべてこれに由来する。すなわち焦りと投げやり。人間は、焦りのために楽園から追われ、投げやりのためにそこへ戻れない。しかしほんとうは、ただ一つの主要な罪、焦りがあるだけかもしれない。焦りのために楽園から追われ、焦りのために戻れないのである。
誰もまだ自殺者自身の心理をありのままに書いたものはない。それは自殺者の自尊心や或は彼自身に對する心理的興味の不足によるものであらう。僕は君に送る最後の手紙の中に、はつきりこの心理を傳へたいと思つてゐる。尤も僕の自殺する動機は特に君に傳へずとも善い。レニエは彼の短篇の中に或自殺者を描いてゐる。この短篇の主人公は何の爲に自殺するかを彼自身も知つてゐない。君は新聞の三面記事などに生活難とか、病苦とか、或は又精神的苦痛とか、いろいろの自殺の動機を發見するであらう。しかし僕の經驗によれば、それは動機の全部ではない。のみならず大抵は動機に至る道程を示してゐるだけである。自殺者は大抵レニエの描いたやうに何の爲に自殺するかを知らないであらう。それは我々の行爲するやうに複雜な動機を含んでゐる。が、少くとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。何か僕の將來に對する唯ぼんやりした不安である。……附記。僕はエムペドクレスの傳を讀み、みづから神としたい欲望の如何に古いものかを感じた。僕の手記は意識してゐる限り、みづから神としないものである。いや、みづから大凡下の一人としてゐるものである。君はあの菩提樹の下に「エトナのエムペドクレス」を論じ合つた二十年前を覺えてゐるであらう。僕はあの時代にはみづから神にしたい一人だつた。
芥川龍之介「或舊友へ送る手記」より。]