日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所 17
今日外山氏と彼の友人とが来た。彼等が食事をしている時、私も招かれ、そこで煮た烏賊(いか)を食う機会を得た。それは固い軟骨みたいに強敵で、水っぽい海老のような風味がする。私は又生の鮑(あわび)を食おうとして懸命になった。これは薄く切ってあったが、とても固くて嚙み切ることはおろか、味を知ることすら出来なかった。まるでゴムみたいである。ある一つの事実に関して、私は明言することが出来ると思う。それは我々の食物は日本食にくらべてより栄養的、且つ合理的、そして消化しやすいということである。だが、私は脂肪のしみ込んだ食物の多くや、熱いビスケット等をばまで、この声明に入れはしない。日本人は熱心に我々の食物をとり、そしてそれは完全に彼等の口に合うが、我々は自然的に彼等の食物を好むことはない。
[やぶちゃん注:「今日外山氏と彼の友人とが来た」磯野先生の前掲書(九一頁)によれば、これは七月二十三日のことで、外山は外山正一、「彼の友人」とは乙骨太郎乙(おつこつたろうおつ:旧幕臣の英学者。沼津兵学校教授。音楽家乙骨三郎は彼の息子で、詩人上田敏は甥に当たる。「君が代」を国歌とする提案をした人物としても知られる。)。外山正一は社会学者のイメージが強いが、明治三(一八七〇)年に外務省弁務少記に任ぜられて渡米、翌年には現地において外務権大録になったが、直ちに辞職、ミシガン州アンポール・ハイスクールを経て、ミシガン大学に入学、そこで哲学と科学(磯野先生は化学とする)を専攻、明治九(一八七六)年に帰朝している(ここはウィキの「外山正一」に拠る)。外山は実にこの後、八月十二日まで二十日間に亙って滞在、モースの採集も手伝っているとあり、もともと化学を学んだだけでなく、生物採集や観察などにも興味があったものと思われる。明治の幸福な学際的雰囲気が伝わってくるようだ。]
外山氏の友人というのは学者らしい人で、英語は一言も話さないが、実に正確に読み且つ翻訳する。彼は英語の著書をいろいろ日本語に訳した。そしてそれ等はよく読まれる。すでに翻訳された著書を列記したら、たしかに米国人を驚かすに足りよう。曰くスペンサーの『教育論』(これは非常に売れた)、ミルの『自由論』、バックルの『文明史』、トマス・ペインの『理論時代』の一部、バークの『新旧民権党』(すでに一万部売れた)、その他の同様な性質の本である。このような本は我国のある階級の人々には嫌厭されるが、この国では非常な興味を以て読まれる。
[やぶちゃん注:「バックル」イギリスの歴史家ヘンリー・バックル(Henry Thomas Buckle 一八二一年~一八六二年)。ロンドンの富裕な商店主の子として生まれたが、正規の学校教育は一切受けず、父の死後に大陸を旅行、広範な知識と語学力を身につけ、ロンドンに居を構えて万巻の書を読み「イギリス文明史」(一八五七年~一八六一年)を著した。風土などの自然条件を重視し、進歩史観を唱えたこの著作は明治初年の日本において数度にわたって翻訳刊行されて、ギゾーの「ヨーロッパ文明史」と並ぶ文明史ブームを引き起こし、田口卯吉の「日本開化小史」、福沢諭吉「文明論之概略」などに大きな影響を与えた(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。
「トマス・ペインの『理論時代』」イギリス生まれのアメリカの政治哲学者トマス・ペインが理神論(りしんろん deism:創造者としての神は認めるものの、神を人格的存在とせず、啓示を否定する説。)を主張した“The age of reason”(一七九四年勘刊。現在の邦訳題は「理性の時代」)。
「バークの『新旧民権党』」アイルランド生まれで「保守主義の父」として知られる英国の哲学者・政治家エドマンド・バーク(Edmund Burke 一七二九年~一七九七年)の著作と思われるが、原文にある“"Old Whig and the New”という書名に一致するものは見出し得ない。識者の御教授を乞うものである。]
図137は江戸湾の地図で、江ノ島の位置を示している。
[やぶちゃん注:図の“YOKIHAMA”とある場所が、まさに横浜の海岸通りにあった旧グランドホテルの位置であり、“ENOSIHIMA”に伸びる点線がほぼ現在の国道一号線と一致していることが分かる。右下には“CAPE KING”とあるのだが、富津岬のことか? 識者の御教授を乞うものである。]
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