栂尾明恵上人伝記 48 巻下開始
栂尾明惠上人傳記卷下
秋田城介(じやうのすけ)入道覺知、遁世して梅尾に栖みける比、自ら庭の薺(なづな)を摘みて味噌水(みそうづ)と云ふ物を結構して上人にまゐらせたりしに、一口含み給ひて、暫し左右を顧みて、傍なる遣戸の緣(ふち)に積りたるほこりを取り入れて食し給ひけり。大蓮房座席に侍ひけるが、不審げにつくづくと守り奉りければ、餘りに氣味の能く候程にとぞ仰せられける。平生、都て美食を好み給ふこと更になかりき。炭おこし燒火(たきび)などしてしとしとと當り給ふことなし。御入滅の年ぞ、病氣により人の勸め申しける間、始めてすびつ塗だれと云ふ物を作られける。
[やぶちゃん注:美味い料理に埃を入れるという部分は「一言芳談」の五十七に、
或(あるひと)云(いは)く、解脱上人、食事の氣味(きみ)覺(おぼゆ)るをいたみて、調へたる物に水を入れたまひき。
といった類話がある(リンク先は私のテクスト)。
「秋田城介入道覺知」安達景盛(?~宝治二(一二四八)年)の法名。頼朝の一番の家来で幕府宿老であった安達盛長の嫡男。実朝側近であったが建保七(一二一九)年一月二十七日に実朝が暗殺されると出家、大蓮房覚智と号して高野山に入り、実朝の菩提を弔うために金剛三昧院を建立して高野入道と称された。但し、出家後も高野山に居ながらにして幕政に参与、承久三(一二二一)年の承久の乱に際しては幕府首脳の一員として最高方針の決定に加わり、尼将軍政子が御家人たちに頼朝以来の恩顧を訴え、京方を討伐するよう命じた演説文は景盛が代読している。北条泰時を大将とする東海道軍に参加、乱後は摂津国守護となっている。北条泰時(乱後の第三代執権)の嫡子時氏に娘松下禅尼を嫁がせ、生まれた外孫の経時や時頼が続けて執権となったため、外祖父としての彼はさらに権勢を強め、宝治元(一二四七)年の宝治合戦では老体をおして高野山を下って鎌倉に戻り、及び腰の義景や孫泰盛を厳しく叱責、遂に三浦一族を滅亡に追い込んだ(ウィキの「安達景盛」に拠る)。平泉洸全訳注「明惠上人伝記」によれば、承久の乱後の官軍敗残兵を探索の中で、匿った明恵を拘引して六波羅の北条泰時に突き出したのが景盛であったとし、明恵との接点はこの奇遇に始まるようである。本書の末には、明恵の危篤を聴き、慌てて高野山を下った彼が入滅の前日である貞永元(一二三二)年一月十八日の夜、明恵と親しく法話を拝授した、ということが記されてある。
「味噌水」味噌を入れて煮た雑炊。
「塗だれ」塗り屋(家)造りのこと。庇を張り出させた上、断熱のために外壁を土や漆喰などで薄く塗った造りのこと。]