日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第七章 江ノ島に於る採集 5 じゃんけんと藤八拳
前にもいったが、旅館の私の隣室には学生達がいる。実に気持のいい連中である。彼等の大多数は医科の学生で、大学では医学生はドイツ人に教わる為に、かかる若者達は、入学に先立って、ドイツ語を覚えねばならない。英語をすこし話す者もいる。私はちょいちょい彼等の部屋へ行って、彼等が勝負ごとをするのを見るが、それ等はみな我々のよりも、遙かに複雑である。日本の将棋のむずかしさは底知れぬ位で、それに比べると我国のは先ず幼稚園といった所である。碁は我々はまるで覚え込めず、「一列に五つ」は我等のチェッカースと同程度にむずかしい。私は彼等にチェッカースや、チョーキング・オン・ゼ・フロワ、その他四、五の遊びを教えた。腕を使ってやる面白い勝負がある。二人むかい合って坐り、同時に右腕をつき出す。手は掌をひろげて紙を表す形と、人さし指と中指とを延して鋏(はさみ)を表す形と、手を握って石を表す形の、三つの中の一つでなくてはならぬ。さて、紙は石を包み、あるいはかくすことが出来、石は鋏をこわすことが出来、鋏は紙を切ることが出来る。で、「一、二、三」と勘定して同時に腕を打ち振り、三度目に、手は上述した三つの形の中の、一つの形をとらねばならぬ。対手が鋏、こちらが紙と出ると、鋏は紙を切るから、対手が一回勝ったことになる。然しこちらが石を出したとすれば、石は鉄を打ちこわすから、こちらの勝である。続けて三度勝った方が、この勝負の優勝者である。小さな子供達が用をいいつけられた時、誰が行くかをきめるのに、この勝負をするのを見ることがある。この時は只一度やる丈だから、つまり籤(くじ)を抽くようなものである。
[やぶちゃん注:ここに記された所謂、「じゃんけん」は日本が濫觴である。ウィキの「じゃんけん」によれば、古来の拳遊び(けんあそび:日本・中国など東アジアを中心に酒宴で行われる遊びとして発達し、後に子供の遊びともなったもの。)がもとになってはいるが、現行の「じゃんけん」は意外に新しく、近代(十九世紀後半)になって誕生したものである。ウィーン大学の日本学の研究者で「拳の文化史」の著者セップ・リンハルトは、現在の「じゃんけん」は江戸時代から明治時代にかけての日本で成立したとしている。「奄美方言分類辞典」に「奄美に本土(九州)からじゃんけんが伝わったのは明治の末である」と記されており、明治の初期から中期にかけて九州で発明されたとする説を裏付けている。また、江戸時代末期に幼少時代を過ごした菊池貴一郎(四代目歌川広重)が往事を懐かしんで、明治三八(一九〇五)年に刊行された「絵本江戸風俗往来」にも「じゃんけん」について記されている。今でも西日本に多く残る拳遊びから(日本に古くからあった三すくみ拳に十七世紀末に東アジアから伝来した数拳の手の形で表現する要素が加わって)考案されたと考えられるとあり、二十世紀に入ると日本の海外発展や柔道など日本武道の世界的普及・日本産のサブカルチャー(漫画・アニメ・コンピュータゲーム等)の隆盛などに伴って急速に世界中に拡がったものとある。
「チョーキング・オン・ゼ・フロワ」原文は“chalking on the floor”であるが、これは恐らく“Hopscotch”(石蹴り)のことである。所謂、本邦で言う「かかし」とか「ケンパ」とか称したあれと酷似したものである。英語版ウィキの“Hopscotch”及び Pino 氏のサイト内の「かかしのケンパ」を参照。懐かしい!!!……これ、最後にやったのは……小学校六年生を卒業した三月、この鎌倉を私が北陸は高岡へ去る、その日の朝……一つ下の近所のなおこちゃんと二人してやったのが……最後だったね……なおこちゃんは……「夜になると王子さまが私のところへやってくる夢を見るの……そしてそれはね……あなたなの……と……僕に呟いたことが……あったけ……]
両手を使ってやる勝負が、もう一つある。膝に両手を置くと裁判官、両腕を鉄砲を打つ形にしたのが狩人、両手を耳に当てて物を聞く形をしたのが狐である。これ等は、片手でやる勝負と、同じような関係を持っている。即ち狐は裁判官をだますことが出来、裁判官は狩人に刑罰を申渡すことが出来、狩人は狐を射撃することが出来る。日本人は非常な速度でこの勝負をする。彼等は三を数えるか、手を三度動かすか、或いは両手を二度叩いて、三度日にこれ等三つの位置の一つをとるが、その動作は事実手だけを使ってやるのである。手をあげ前に出すと狐になり、両手で鉄砲を支えるような形をすると狩人になり、拇を下に向けると裁判官になる。我々には、いくら一生懸命に見ていても、どちらが続けて三度勝ったのかは、とうてい判らない。この勝負は極めて優雅に行われ競技者は間拍子をとって、不思議な声を立てる。多分「気をつけて!」とか「勝ったぞ!」とかいうのであろう。見物人も同様な声を立て、一方が勝つと声を合せて笑うので、非常に興奮的なものになる。
[やぶちゃん注:「狐拳(きつねけん)」である。「裁判官」(原文“the judge”)は庄屋である。狐拳の一種の「藤八拳」はモースの言うように続けて三度勝つと勝者となるから、ここは「藤八拳」と言うべきかも知れない。ウィキの「狐拳」によれば、藤八拳は天保時代に花村藤八という売薬商人が「藤八-五文-奇妙」という呼び声で客引きをしていたのを、通人が狐拳の掛け声に使い始めたという。また、吉原の幇間・藤八が創始したともいう、とあり、ここでモースの言う掛け声も、モースが類推したような意味ではなく、この掛け声であろう。拳遊びのその他の例はウィキの「拳遊び」に詳しい。]
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