魚臭き村に出けり夏木立 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)
魚臭き村に出けり夏木立
旅中の実詠である。靑葉の茂つた夏木立の街道を通って來ると、魚くさい臭ひのする、小さな村に出たといふのである。家々の軒先に、魚の干物でも乾してあるのだらう。小さな、平凡な、退屈な村であつて、しかも何となく懷かしく、記憶の藤棚の日蔭の下で、永く夢みるやうな村である。
[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「夏の部」より。私はこの句が好きだし、この評釈の『思い』も核心に於いては共有出来る。そして私は、朔太郎は実際にこの村に行ったら、その漁村に染みついた強烈な魚臭さに辟易して都会の藤棚の木蔭のチェアを求めてそそくさと去ってゆくのだ。そもそもこの句の鑑賞に「家々の軒先に、魚の干物でも乾してあるのだらう」という如何にもな実際の魚を想起しなくては「魚臭き」村というのを認識出来ないところに(いや、そうした強制的常套思考にこそ)、群馬の都会志向のお坊ちゃまの面目が躍如としている。「記憶の藤棚の日蔭の下で、永く夢みるやうな村」という謂いには、私のような海人族の田舎者は、「ヘン!」と鼻で笑いたくなるのである。]

