耳嚢 巻之七 修驗道奇怪の事
修驗道奇怪の事
いつの比にや、神田富山町(とみやまちよう)にて與七と言(いふ)者、富士參詣を企(くはだて)ければ、同店(だな)に威力院といえる有(あり)、立寄(たちより)しに、御身富士え登山なし給はゞ裾野の藥王院え立寄、賴置(たのみおき)候箱を持參致可給(いたしたまふべし)といふ。勿論荷に成るべき程の物ならねば賴(たんおむ)よし申(まうす)故、手紙にても遣し給へといゝければ、夫(それ)には及ばずと威力院より被賴故(たのまれしゆへ)取(とり)に來りしと言(いひ)給へば無違(ちがひなく)渡し候也と申に任せ、則(すなはち)富士登山參詣なして皈(かへ)りに藥王院へ立より、しかじかのよし申ければ、心得候由を答へ、一宿なし翌日出立の節、貮寸四方に足らざる箱を包みて與へける故請取(うけとり)、立歸り候迚(とて)川崎か神奈川に泊りければ、其夜臥りけるに彼(かの)箱聲を出し、今晩大き成(なる)金もふけあり、此奧座にて博奕有、御身も手合(てあはせ)に加(くはは)りわれらが申通りなし給へ、金もふけすべしと言(いふ)。此男も不敵なる者故、奧座敷へ至り見しに博奕ありければ、我もくわゝらんと手合に成りしに、何の目をはり給へと彼箱の内より申ければ其通りなす。果して勝となり、頻りに勝て金五十兩打勝(うちかち)ければ、彼箱申けるは、最早早くやめて出立あれといふ故、其通(とほり)にして出立なしける。重(かさね)ても此箱の内奇怪成る事也とて頻に恐ろしくなり、六郷の渡し場にて右の箱を川中へ投入(なげいれ)、足早に宿元へかえりしに、威力院へ何と申譯なすべきやと今更當惑なしけるが、あからさまに語りて侘(わび)せんにはしかじと、彼威力院へ至り、しかじかのよし藥王院より請取し箱は六郷川へ流したりと申ければ、威力院道中無滯(とどこほりなき)事を賀し、打勝し金は其身の德分(とくぶん)にし給へ、箱は最早我(わが)手へ戻り居るよし、取出し見せける。大きに驚き、いか成(なる)術成るや恐れけると也。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。久々の怪異系都市伝説である。
・「神田富山町」千代田区の町名として現存。JR神田駅北口直近。
・「藥王院」富士信仰や修験道のメッカである、東京都八王子市高尾町にある高尾山薬王院有喜寺と関係した寺院かとも思われるが、所在不詳。識者の御教授を乞うものである。
・「及ばずと」底本では「ずと」の右に『(ママ)』注記がある。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、この部分の威力院の台詞は(遣正字化して歴史的仮名遣に直した)、『夫(それ)に及ばず。威力院より賴被(たのまれ)取(とり)に來りしと云(いひ)給へば無相違(さうゐなく)渡し候』とある。
・「六郷の渡し場」現在の東京都大田区東六郷と神奈川県川崎市川崎区本町との境の多摩川に架橋されている六郷橋のやや下流にあった渡し場。六郷は東海道が多摩川を横切る要地で、慶長五(一六〇〇)年に徳川家康が六郷大橋を架けさせ、その後数度の架け替えが行われたが、貞享五(一六八八)年の洪水で流失して以後は再建されず、かわりに六郷の渡しが設けられていた(以上は岩波版長谷川氏注とウィキの「六郷橋」に拠った)。
・「六郷川」多摩川の下流部、現在の六郷橋付近から河口までの呼称。
■やぶちゃん現代語訳
修験道の奇怪なる事
何時の頃のことであったか、神田富山町(とみやまちょう)の与七と申す者、富士参詣を思い立って、同じお店(たな)の威力院(いりきん)と申す山伏が御座った故、相談に立ち寄ったところ、
「――御身、富士へ登山なされるとならば、裾野の薬王院へ立ち寄り、拙者の頼みおいて御座る、ある箱を帰りに持参致いては下さるまいか。勿論、荷になるような物にては、これ、御座らぬ。どうか一つ、頼まれては呉れぬか?」
と申すによって、与七は、
「それでは一つ、頼み状でも頂戴致しましょうか。」
と答えたところ、
「――いや。それには及ばぬ。『威力院より頼まれたゆえ、取りに来た』とのみ、お伝え下さるれば、間違いなく先方、渡して呉るる手筈となって御座る。」
と請けがったゆえ、与七も気軽に承知した。
さてもすぐに富士登山参詣をなして、その帰るさ、薬王院へと立ち寄って、しかじかの由、先方へ告げたところ、
「――心得て御座る。」
と応じて、頼みもせぬに一泊させて呉れ、翌日の出立(しゅったつ)の折り、二寸四方にも足らぬ小匣(こばこ)箱を包んで与七に渡したゆえ、これを受け取り、
「確かに。これよりたち帰って、威力院殿へお渡し申しまする。」
と、薬王院を辞した。
与七、その日は、川崎か神奈川宿辺りにて日も暮れたによって泊って御座ったと申す。
さて、その夜(よ)のこと、疲れも出でて、早々に横になったところが、何やらん、人の声が聴こえる。
どこかと探れば、枕元に置きおいた、荷の中からとしか思えぬ。
開いて見ると、何と――かの預かった小匣が――人語発して――御座った。
その声の曰く、
「――今晩ハ大キナル金モウケノコトアリ――コノ宿ノ奧座敷ニテ博奕ガコレ有ル――御身モ行キテ勝負ニ加ワリ――ワレラガ申ス通リニナサルルガヨイ――金モフケデキマスルゾ――」
と呟いておる。
この与七なる男も、これでなかなかに不敵なる者で御座ったゆえ、この妖しき誘いの申すがまま、宿の奧座敷をちょいと覗いてみたところが、ほんに博奕場のあって、盛んに賽を振って御座った。されば、
「――一つ、我らも手合せさせて貰おうか。」
と賭場に坐った。
賽が振らるる。
――と
手の内に握りしめて、耳に押し当てて御座ったかの小匣が、
「――丁(ちょう)ノ目ヲハリナサレ――」
と微かに呟く。
その通りになしたところ、
「――四六の丁!」
果して勝ち――
「――次ハ半――」……
「――五二(ぐに)の半!」
勝ち――
「――次モ半ジャ――」……
「――四三(しそう)の半!」
またまた勝ち……
……勝ちに勝って――実に金五十両もの一人勝ちを致いて御座った。
――と
――かの箱がまた囁いた。
「――最早――早クヤメテ――直チニ宿ヲ出立ナサルルガヨイ――」
されば言われた通りに、未だ夜も明けきっては御座らなんだが、早立ち致いたと申す。
しかし、与七、明けの街道を歩みながら、
「……どうにもこうにも……五十両からの大金……これが一夜にして転がり込んだ……この小匣の……この内の声は……これ……如何にも奇怪なものじゃて……」
と思い始め、思い始めると、これがまた、しきりに恐ろしゅうなって参った。
丁度その時、六郷の渡し場へ差し掛かって御座ったが、渡し舟に揺られながら与七は、
「……五十両……この妖しき術なれば……ただ五十両が我らのものになっただけでは済まぬのではないか?……その恐ろしき返報が……これ、ないとは限らぬ!……」
とぐるぐる考えるにつけ――たかが小匣、されど小匣――舟の揺れとは違(ちご)うた、身の内からの震えが与七を激しく襲った。
されば与七、荷の内の小匣を取り出だすと、それを舟端から川中へと投げ入れてしもうた。
……そのまま、何かに後ろから襲わるるような気がしきりにしたままに、足早に富山町へと立ち帰った。
しかし、
「……さても……威力院殿へは……何と申し訳致いたらよいものか……」
と今更ながら当惑致すことしきり。
「……いや……しかし……正直に……かの奇体な話を語って……お詫び致すに若くはない。……五十両の泡銭(あぶくぜに)も……これ……小匣を捨てた弁償としてお渡し申すがよかろう……」
と、威力院を訪ね、
「……という訳にて……薬王院より受け取って参った小匣は……これ……恐ろしさのあまり……六郷川へと……流してしもうたので御座いまする……」
と平謝りに謝って御座った。
ところが、威力院は、
「――いや――富士を拝まれ、その道中も恙のう、よう、お帰り遊ばされた!」
と言祝いだ上、
「――その勝った金は――そこもとの利得となさるるがよかろうぞ!……小匣――ならば――最早――我が手へ戻って御座ればの――」
と、何と、懐から――かの六郷川に確かに投げ捨てたはずの小匣――を、これ、取り出だいて見せた。
与七は大きに驚き、
「……コ、コ、コレハ如何ナル……ジ、術(ジツ)デ、ゴ、御座ルカアアァ……」
と恐れ入った、ということで御座る。
« 日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第六章 漁村の生活 8 | トップページ | 日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第六章 漁村の生活 9 »