ブログ開設8周年記念 自敍傳(「ソライロノハナ」より) 萩原朔太郎
[やぶちゃん注:以下は、昭和53(1978)年筑摩書房刊「萩原朔太郎全集」第15巻所収の自筆自選歌集「ソライロノハナ」に載る初出を底本とした(校訂本文は編集権を侵害する恐れがあるための仕儀であり、従って誤字・脱字と思われる箇所は総てママである。但し、抹消字は省略した。一部読解困難と思われる箇所のみ、校訂本文も参考にしながら注を直後に附した)。この歌集は当該底本で初めて公開され、知られるようになった歌集で、確か、この全集の発刊された前年の昭和52年、萩原家が発見入手したもので、それまで知られていなかった自筆本自選歌集である(死後40年、製作時に遡れば実に60余年を経ての発見であった)。1913年は大正2年で同年4月は朔太郎満27歳である。
本テクストは私のブログ開設8周年記念としてブログ限定で作成したものである。現在のネット上には電子化テクストはないものと思われる。【藪野直史 2013年7月6日】]
自敍傳
一九一三、四
私の春のめざめは十四才の春であつた。戀といふものを初めて知つたのもその年の冬であつた、
[やぶちゃん注:「十四才」数えであるから明治32(1898)年。底本年譜にはこの年の記載が全くない。]
若きウェルテルのわづらひはその時から初まる、十五才の時には古今集の戀歌をよんで人知れず涙をこぼす樣になつた。その頃從兄の榮次氏によつて所謂新派の歌なるものの作法を教へられた。鳳晶(オホトリアキ)子の歌に接してから私は全で熱に犯される人になつてしまつた。
十六歳の春、私は初めて歌といふものを自分で作つて見た。此の集の第一貢に出て居る二首がその處女作である。
[やぶちゃん注:「貢」は「頁」の誤字。「鳳晶子の歌」は無論、この明治34(1901)年8月15日に東京新詩社と伊藤文友館の共版で発表された「みだれ髪」である。]
此の時から若きウエルテルの煩ひは作歌によつて慰さめられるやうに成つた
然し又歌そのものが私の生命のオーソリチイであつたも知れない、何となれば私は藝術と實生活とを一致させる爲にどれだけ苦心したか分らないのである
[やぶちゃん注:「あつたも知れない」は「あつたかも知れない」の脱字。]
とうとう私の生活が藝術を要求するのでなく藝術が私の生活を支配して行く樣になつて仕舞つた。春のめざめ時代の少年にとつてこれ程痛ましい事はない
私は朝から晩までミユーズやアポロの聖堂を巡拜するために漂泊して歩かなければならなかつた。
かういふ旅が長い長い間つゞいた
※と疲れで私は幾度も幾度も倒れそうになつた。
[やぶちゃん注:「※」=「飼」-「司」+「旡」。「飢」か「餓」の誤字。]
然し信心深い巡禮は決してこの煩はしい旅から歸ることをしなかつた
戀と情慾と、それからロマンチツクの藝術に對する熱愛とすべて其等のものが若きウエルテルの煩ひの原因であつた。
然しそういふ純美な憧憬の影に、臆病未練な自己慊忌とか厭生とかいふ樣な暗い心の芽生がひそんで居ることをさへ見出さずに終つたら、私は本當に美しいヂレツタントに成つてしまふことが出來たかも知れない。
次第に私は死とか生とか言ふことを眞劍になつて考へるやうに成つて來た。
丁度靄がはれて行くやうに段段と私の心からロマンチツクの幻影が消えて行つた
そして到々本物の世界……醜い怖ろしいあるものが薄氣味惡く笑ひながら私の前に跳出した。
もう斯うなつては、あの神聖なウエルテルのわづらひも晝間のばけもののやうにおどけた者としか見られなくなつてしまつた
若きウエルテルは菫の花束を捧げた手で火酒の盃をあげるやうになつた
藤村や泣菫の詩集を抱いた胸で淫らな女を抱きしめた、
彼は戀よりも肉を慾した
ミユーズやヴイナスの巡禮をやめてバツカスが祠の前に頽唐した官能をふるはして惡の讚美歌を口にするやうになつた。
一しきり私は埈にまみれた場末の居酒屋の繩紺簾を毎晩のやうにくゞつた、
[やぶちゃん注:「埈」は「埃」の、「紺簾」は「暖簾」の誤字。]
ほのぐらい軒燈の下に心細い三味線の音じめを聽きながら耽溺の幾夜を過したことも珍らしくなかつた
ある時はまた怪しげなレストランの窓にもたれてたはかれ時のうすらあかりと自分の宿世をしみしみと淋しものに思ひ比べて見ることもあつた、そういふ時不覺の涙はつめたい盃の中に落ちて漂つた。
[やぶちゃん注:「淋しものに」は「淋しいものに」の脱字であろう。]
例の淺草へは毎日のやうに行つた
活動寫眞の人混みの中で知らない女に手を握られることが私の
ADVENTURE を欲する心を滿足せㇾさた
[やぶちゃん注:「ㇾ」はㇾ点である。]
毒々しい繪着板のペンキの匂ひに唆られて※稚なローマンスの世界に憧憬する、可憐な不良少年の幾人かは
[やぶちゃん注:「※」=「糸」+「刀」。「幼」の誤字。「
「繪着板」は「絵看板」の誤字。]
述路のやうなあの東洋のモルンマントルをほつき歩くことも花瓦斯の光眩ゆい大門をくゞることも、最早私にとつて何等の意義をもなさない程その頃の神經は荒癈し切つて居た
[やぶちゃん注:「述路」は「迷路」の誤字。「モンマントル」はママ。]
そんな時例の吾妻橋側の酒場(バア)で芳烈な電氣ブランを飮むことを決して忘れなかつた。斯うして私は刺激から刺激を求め歩いた
歡樂の後に歡樂を追ふて止まなかつた、でなければ實際私には生きて居ることが出來なかつたのである。
けれども歡樂を追求するといふ事は實際には苦痛を求めるといふことである
刺激を漁るのはつまり憂愁と死に向つて突貫する樣な者である
軈て私の心のどん底に今まで曾て知らなかつた苦い苦い哀傷と空虛といふ薄氣味の惡い蟲けらがその巣を張りつめて居た事を發見したときに私は何事にも興味を失ふ人と成らなければならなかつた。
私は空(カラ)ンポの盃を充たすあるものを求めやうとして無益に狂ひ廻つて居たことを知つた時に遂に泣くことも出來ない人になつて居た。
[やぶちゃん注:太字「あるもの」は底本では傍点「ヽ」。「廻」は底本では正字(ブログでは表示出来ないため、特に注記した)。]
そして痛々しい程デリケートになつた官能のコイルばかりが晝は晝(ひね)もす夜は夜ぴてえ高麗鼠のやうに、せはしなく紳經の纖線をめぐりめぐつて突いて居た
[やぶちゃん注:「紳經の纖線」校訂本文では「神經の纖維」とする。「纖維」の校訂には微妙に留保をしたい。]
何人に向つて訴へる由もなき此の苦腦、何物を以てしても慰める事の出來ない此の哀傷、かういふいらいらした心のありさまを私は詩や歌に作つて自ら低唄して居る外に方法は無かつた。
[やぶちゃん注:「低唄」校訂本文では「低唱」とする。]
かうした頽唐と憂愁のやる瀨ない日が長い間つゞいた。
「何處へ行く」一扁はすべて此等の日の痛ましき紀念である、歡樂の燈影に光る玉虫のこゝろと憂愁の闇路ににほふ螢の靑きためいきである。
そうして「午後」は「若きウエルテルの煩ひ」が最後の幕と「何處へ行く」序幕との間に奏さるべき
INTERMEZZO である、
すなほなる心のうつりかはりはそのテーマを通してすべてのリズムにまでくつきりとあらはれて居ると思ふ
さはさりながら名もなき墨色の花にも似たる私の淋しい生の悲劇はそのカタストロヒイの黑き幕が下るまでにまだ暫らくの間がある。最近の「うすら日」はいはゞ年増女の顏に殘つた粉おしろいの微かなにほひである。きちがひの惡落付とやんまとんぼの眼玉である。
[やぶちゃん注:「惡落付」「わるおちつき」と読む。悪落着とも書き、必要以上に落ち着きはらうこと。まったく動じないことの意。この行、続いているのかも知れないが、底本初出も校訂本文も判然としない。改行ととった。]
若し節をつけて唱つてくれる人があるならば低い投げやりの調子であの寂しいあきらめのモツトオをにほはしてもらひたい。
空いろの花
[やぶちゃん注:最後には画像で示した特殊なバーが本文の「ひたい。」の句点位置下に向かって「空いろの花」の次行に打たれてある。]
[やぶちゃん補注:前半「十六歳の春、私は初めて歌といふものを自分で作つて見た。此の集の第一貢に出て居る二首がその處女作である」とあるのは「ソライロノハナ」に、この「自敍傳」の後、「二月の海」の歌物語を挟んだ最初の歌集パートである「若きウエルテルの煩ひ」の冒頭にある以下の二首を指すか。
柴の戸に君を訪ひたるその夜より
戀しくなりぬ北斗七星
春ここにここに暫しの花の醉に
まどろむ蝶の夢あやぶみぬ
ほかにはしっくりくるものが見当たらない。誤っている場合は御教授を願いたい。]
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