日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第七章 江ノ島に於る採集 14 按摩
日光へ行った時、マッサージをやらせて、気持よくなったことを覚えていた私は、非常に疲れていたので、めくらのアンマ(マッサージ師はこう呼ばれる)を呼び入れ、彼は私の身体をこね廻したり、撫でたり、叩いたりした。松村氏は私の横に坐り、私は彼を通じて、色々な質問を発した。このアンマは、天然痘で盲目になったのである。天然痘は、この国で一時は恐るべき病疫であったが、辛いにも今は統制されている。外国人の渡来はよいことと思うかと聞いたら、彼は勢よく「然り」と答え、そして「若し外国人が二十五年も前に来ていたら、私を初め何千人という者が、盲目にならずに済んだことであろう」とつけ加えた。彼はまた、外国人は非常に金を使うともいった。同一の服装をしていても、日本人と外国人との区別がつくかと聞くと、彼は即座に「出来ます、外国人は足が余程大きい」と答えた。だが、若し外国人が小さな足をしていたらというと、「足の指がくっついていて、先の方が細い」との返事であった。彼は大きな太った男で、頭は禿げているというよりも、奇麗に剃ってある。仕事にとりかかると同時に、私に詫をいいながら衣を脱いだ。撫でる時には指が変に痙攣(けいれん)的にとび上って、歯科医が使用する充填機械に似た運動をする。
[やぶちゃん注:「天然痘」ウィキの「天然痘」によれば、十八世紀半ば以降、ウシの病気である牛痘(人間も罹患するが、瘢痕も残らず軽度で済む)にかかった者は天然痘に罹患しないことがわかってきた。その事実に注目し、研究したエドワード・ジェンナー
(Edward Jenner) が一七九八年に天然痘ワクチンを開発し、それ以降は急速に流行が消失していった(ジェンナーが我が子に接種して効果を実証したとする逸話があるが、実際には彼は使用人の子に接種している。因みに、本邦では医学界ではかなり有名な話として、ジェンナーに先だって日本人医師による種痘成功の記録がある。現在の福岡県にあった秋月藩の藩医である緒方春朔がジェンナーの牛痘法成功に遡ること六年前の寛政四(一七九二)年に秋月の大庄屋天野甚左衛門の子供たちに人痘種痘法を施して成功させている)。日本で初めて牛痘法が行われるのは文化七(一八一〇)年のことで、ロシアに拉致されていた中川五郎治が帰国後に田中正右偉門の娘イクに施したのが最初である。しかし、中川五郎治は牛痘法を秘密にしたために広く普及することはなく、三年後の文化一〇(一八一三)年にロシアから帰還した久蔵が種痘苗を持ち帰って、広島藩主浅野斉賢にその効果を進言しているが、まったく信じて貰えなかったという普及阻害の事実がある。その後、日本で本格的に牛痘法が普及するのは嘉永二(一八四九)年に佐賀藩がワクチンを輸入してからで、足守藩士の蘭方医で適塾を開いた近代医学の祖緒方洪庵が治療費を取らずに牛痘法の実験台になることを患者に頼み、私財を投じて牛痘法の普及活動を行ったのを濫觴とする。安政五(一八五八)年四月に洪庵の天然痘予防の活動は幕府公認となり、牛痘種痘施術が免許制となっている。明治一〇(一八七七)年から「二五年」前は嘉永五(一八五二)年でああるが、これはこの按摩をしている人物がこの嘉永五(一八五二)年以降に天然痘に罹患して盲目になったことを意味している。すると可能性が極めて高いのは安政四(一八五七)年十二月の天然痘のパンデミックであろう。特に幼少時の失明率が高いから、この按摩の年齢は当時まだ二〇代であった可能性が高い。この按摩は少なくとも若いのである。
「撫でる時には指が変に痙攣的にとび上って、歯科医が使用する充填機械に似た運動をする。」原文“In rubbing they have a curious, spasmodic jump of the fingers,
making a movement not unlike that made by the dentist's mechanical filler.”この“dentist's mechanical filler”というのは、恐らくは我々の見慣れた歯科用コンポジットレジン用(CR)充填器という器具(グーグル画像検索「CR充填器」。歯科へのフォビアがある人は閲覧要注意)のことを指している。削った箇所にぐりぐりと充填剤を押し込む際の動きと指圧の指の運動が似ているというのである。すこぶる面白い表現である。]
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