迷信としての人生 萩原朔太郎
●迷信としての人生
偶然ということは有り得ない。あらゆる事實は、それが有るべき事情によつて、必然の方則に支配される。
これが科學者の命題である。我々の反駁は、その點で力がなく、論理の立證を持ち得ない。しかしながらもし、人々がそれを信じ、生活上の實感として、疑ひもなく肯定してしまふならば? その時人々は、土耳古人や支那人の乞食と同じく、避けがたく宿命論者になるであらう。なぜと言つて人生は、その前行する必然の事情によつて、どうせ成るようにしかならないのである。人々は方則の支配する社會に於て、必然に生涯の運命を決定される。人がどんなに意志したところで、一も成功する望みはなく、物體に於ける力學の法則と、宇宙の複雜なオルガニズムとで、球突き臺に於ける球のやうに、突かれた方角に轉つて行く。どうにでもせよ。我々自身には自由がなく、自然の機械律に動かされて、捨てばちの生活を送るのみだ。人々はただ、明日の生活に期待をもち、方則の組合す函數律を超越した、未前の「偶然」を信ずることによつてのみ、努力や奮鬪への希望をもち、人生を有意義に感ずるのである。
それ故に教育は、この點で科學を否定し、偶然の實在するウソの事情を、苦しい詭辯に於てすらも、説かなければならない立場にある。げに「偶然」と「自由意志」とは、人間の主觀に於て、論理を超越した信仰であり、今日の科學的な時代に於ても、避けがたく執拗に支持されてる――そして支持されねはならない――一の人間的な迷信である。
[やぶちゃん注:昭和四(一九二九)年十月第一書房刊のアフォリズム集「虛妄の正義」の「意志と忍從もしくは自由と宿命」より。「どうせ」は底本では傍点「ヽ」。三箇所の「方則」、また「未前」はママ。]
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