『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 4江島神社
●江島神社
江島神社は。島上に在り。多紀理比賣命(たきりひめのみこと)。市寸島比賣(いちきしまひめ)命。多岐都比賣(たきづひめ)命を祀る。國幣中社にして。分ちて三社とする。曰く邊津(へつ)神社。曰く中津(なかつ)神社。曰く奥津(おくつ)神社。古事記に。其先所生之神。多紀理比賣命者坐※形之奥津宮。次市寸島比賣命者坐※形之中津宮。次田寸津比賣命者坐※形之邊津宮。とあるに據りて。かくは稱せらるゝなり。[やぶちゃん字注:「※」=(上部左)「匃」+(上部右)「刀」+(全体下部)「月」。]
むかしは辨天社といひ。金龜山與願寺と號し。我國三辨天の一と唱へたり。三辨天とは嚴島、竹生島、江島なり。東海道名所圖會に。江島大艸紙を引(ひき)て云。夫當社の神體は。大巳貴(おほなむち)命と久延彦(くゑひこ)命と仰事ありて。天照大神を尊み。其和魂(にぎたま)を祀りて。富主命(ふぬしひめ)を號給ふ。此神天降り給ひて辨財天女といふ事。江島の神祕とすそれを神系圖(しんけいづ)或は和漢三才圖會に。相州江島の神は素盞嗚(すさのを)尊の御女倉稻魂(くらいなたま)神と書す。これ謬也と。是れ神佛混淆時代の説なる。其の他大緣起に載る所の説の如き。荒唐信するに足らす。
抑神靈の埀跡。其の年代一定せす。江島譜には。開化天皇の六年四月とし。江島緣起には欽明天皇の十三年四月の事とす。其の實は詳にする能はす。之を島中に鎭祀(ちんし)したるは。壽永元年なり東鑑には多く江島明神と稱せり。北條時政甞(かつ)て當社に参籠して。子孫の繁榮を祈りしに、靈驗ありて龍鱗三枚を感得し。遂に家紋と爲せしこと。太平記に見えて。人の普(あまね)く知る所なり建仁元年六月將軍賴家。建保四年三月將軍實朝の夫人。大田左衛門大夫持資。參詣の歸路。鰶魚躍りて舟中に入る。持資祥瑞として江戸川越等の諸城を經始(けいし)せりといふ德川氏政を執るに及ひ。慶安二年八月。一山境内山林竹木諸役免除の御朱印を賜へり。明治中興に際し。辨財天の稱を廢し。江島神社と稱するに至れり。
〇邊津神社
[やぶちゃん字注:以下、底本では全体が一字下げ。]
もと下之宮と稱せり。銅屋根素木造(しらきつく)りにて。江島神社と題せりる扁額を掲げ黑の三鱗の紋を附したる白幕を張れり。右に社務所あり。左に靈符授與の所あり。而して六基の石燈籠社前に列峙せり。
建永元年釋の良眞(慈悲上人)將軍實朝に請ふて。始て社壇を建つ。天文十八年七月。北條氏康白糸二十斤を上下兩社の修理料に充つ。元龜二年修造の爲當國中郡の村々を募緣す、時に大藤某添狀(そへじやう)を出せり。元祿五年社領十石八斗餘の御朱印を賜ふ。獵師町の地即ち是なり。別當は明治の初年まで下の坊之を司れり。
[やぶちゃん注:「古事記に。其先所生之神。多紀理比賣命者坐※形之奥津宮。次市寸島比賣命者坐※形之中津宮。次田寸津比賣命者坐※形之邊津宮。とある」「※」=(上部左)「匃」+(上部右)「刀」+(全体下部)「月」。「古事記」の「上つ巻」のアマテラスオオミカミとスサノヲを物語の「誓約(うけひ)」からの引用である。アマテラスがスサノヲの剣を三つに折った際に生れた宗像三女神。「※」は胸で、「むなかた」、九州の宗像を指す。
其の先に生まれませる所の神、多紀理比賣命は※形(むなかた)の奥津宮に坐(ま)す。次に市寸島比賣命は※形の中津宮に坐す。次に田寸津比賣命は※形の邊津宮に坐す。
この「奥津宮」は沖津宮で、現在の福岡県宗像市の旧大島村に属した沖ノ島に、「中津宮」は同市筑前大島に、「邊津宮」同市田島にそれぞれ鎮座する。総称して宗像大社と呼び、全国の弁天様の総本宮に当る。
「邊津神社」の沿革の詳細は主にウィキの「江の島」の沿革にあるものを参考に以下に示す。
正治 元(一一九九)年 鶴岡八幡宮の供僧良真が江の島で千日余の修行を行う。
建仁 二(一二〇二)年 修業中の良真の眼前で聖天島に弁才天が顕現、山頂の社殿の荒廃を嘆く(岩本院蔵「江ノ島縁起絵巻」第五巻)。
元久 元(一二〇四)年 良真、将軍実朝の命により宋に渡り(実際には渡宋は行われなかったとする説が有力)、慶仁禅師より江の島に因んで授けられたと伝えられる「江島霊迹建寺の碑」を辺津宮境内に建てる。
建永 元(一二〇六)年 良真の請願によって将軍源実朝により下之宮(現在の辺津宮)が創される。
享禄 四(一五三一)年 江の島上之坊を岩本院が兼帯する。
天文一八(一五四九)年 北条氏康が上之宮および下之宮の修造に際し、白糸二十斤を寄進。
元亀 二(一五七一)年 下之宮(現在の辺津宮)の修造料の寄付を募る。
寛永一七(一六四〇)年 岩本院と上之坊との間で利権争いが起こる。その結果、相続権・財政権・後任選任権などを得た岩本院は、幕府から朱印状を手に入れることとなり、上之坊を奴属化させることに成功する。
慶安 元(一六四八)年 岩本院、京都仁和寺の末寺となる。
慶安 二(一六四九)年 岩本院、徳川家光より「江島弁財天境内等諸役免除」の朱印状を受ける。
慶安 三(一六五〇)年 岩本院、江の島に於ける利権支配を確立。
元禄 二(一六八九)年 中津宮再建。三神社(岩本院・上之坊・下之坊)の弁財天総開帳。この年が開帳の始まりとされる。
元禄 五(一六九二)年 本記載によるなら、この年の社領は十石八斗余りとする(次の記事との比較から見て信じられる)。この年には江の島所縁の検校杉山和一が江の島弁才天の神徳を受け、護摩堂を建立している。
宝永 三(一七〇六)年 岩本院、片瀬村において社領十五石の朱印地を与えられる。
明治 六(一八七三)年 神仏分離令によって金亀山与願寺は廃され、神道部分が弁財天信仰を引き継いで江島神社となる。この年、旧岩本院は旅館「岩本楼」として開業した。]
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