日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所 10
再び江ノ島へ(七月二十一日)。午後四時、熔鉱炉のように赫々と照りつける日の光を浴びて出発した。日光は皮膚に触れると事実焦げつく。日本人が帽子もかぶらずに平気でいられるのは、実に神秘的である。彼等はひどく汗をかくので、頭にまきつけた藍色のタオルをちょいちょい絞らねばならぬ程である。だが晩方は気持よく涼しくなり、また日中でも日蔭は涼しそうに見える。前と同じ路を通りながら、私はつくづく小さな涼亭の便利さを感じた。ここで休む人はお茶を飲み煎餅を食い、そして支払うのはお盆に残す一セントの半分である。このような場所には粗末極まる小屋がけから、道路全体を被いかくす大きな藁むしろの日除けを持つ、絵画的な建造物に至るまでの、あらゆる種類がある。図125は野趣を帯びた茶店の外見を示している。我々はちょいちょい、農夫が牝牛や牡牛を、三匹ずつ繋いで連れて来るのに逢った。牡牛は我国のよりも遙かに小さく、脚も短いらしく思われるが、荒々しいことは同様だと見え、鼻孔の隔壁に孔をあけてそこに輪を通し、この輪に繩をつけて引き導かれていた。これ等は三百マイルも向うの京都から横浜まで持って来て、そこで肉類を食う外国人の為に撲殺するのである。彼等は至って静かに連れられて来た。追い立てもしなければ、怒鳴りもせず、また吠え立てて牛をじらす犬もいない。いずれも足に厚い藁の靴をはき、上に日除け筵を張られたのも多い。私がこれを特に記すのには理由がある。かつてマサチューセッツのケンブリッジで、大学が牛の大群をブライトン迄送ったことがあるが、その時、子供や大人が、彼等を苦しめ悩ましたそのやり方は、ハーヴァードの学生にとって忘れられぬことの一つである。
[やぶちゃん注:磯野直秀「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」に拠れば、この明治一〇(一八七七)年七月二十一日から八月二十九日までの江の島長期滞在が始まる(無論、途中で何度か横浜のグランドホテルの家族や東京へ出てはいる)が、この間、モースの助手となったのは、矢田部良吉の弟子で東京大学小石川植物園に勤務していた植物学者松村任三(まつむらじんぞう 安政三(一八五六)年~昭和三(一九二八)年)であった(但し、助手の指示は当時の東京大学法理文三学部綜理補であった浜尾新によるもの)。ウィキの「松村任三」によれば、『東京帝国大学理学部植物学教室教授、付属小石川植物園の初代園長。多くの植物標本を採取しソメイヨシノやワサビなど150種以上の植物に学名を付け、それまでの本草学と近代の植物学の橋渡しをした。また、植物の分類のための植物解剖(形態)学という新しい学問を広めた。門下生に牧野富太郎がいる。だが次第に牧野を憎むようになり、講師であった牧野の免職をたびたび画策した』とある。当時は未だ満二十一歳の青年であった。彼は一九二六年発行の『人類学雑誌』第四十一巻にこの時の日記を公開しており、それによってモースの江の島滞在中の暮らしぶりが具に分かる。磯野先生は本書とこの松村日記をもとにそれを日録で再現して下さっており、リアルなその日常が活写されている(以降、これを「復元日録」と仮に呼称したい)。その「復元日録」によれば二十一日に松村が横浜グランドホテルにモースを訪ね、そこから『午後四時人力車で出発、江の島着は九時、岩本楼に入る。小屋の改造はまだ終わっていない』とある。
「これ等は三百マイルも向うの京都から横浜まで持って来て、そこで肉類を食う外国人の為に撲殺する」「三百マイル」約483キロメートル。現在の駅間距離では513・6キロメートル。私には、当時の東京周辺には肉牛用の牛が供給出来なかった(逆に言えば、京都にはそれが供給出来る下地があった)ということが驚きであった。但し、京都とあるが、これは兵庫県(但馬地方)で、ここに描かれている牛は兵庫県産黒毛和種である但馬牛と思われる。ウィキの「和牛」によれば、この但馬牛は、『明治時代に牛肉を食べる文化が広まると、神戸ビーフとして注目されるようになった。神戸ビーフの名は、神戸の居留地に住む外国人たちが神戸で手に入れた牛が非常においしかったからとも、横浜などの居留地の外国人たちが生産量の多い関西方面から入手した牛が神戸を経由していたためとも言われているが、いずれの場合も但馬牛』とされる、とあるから間違いあるまい。]
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