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2013/07/17

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 8 江島案内

    ●江島案内

來遊者は。先つ山水の佳絶なるを賞しつゝ。棧橋を渡れは銅製の鳥居あり。是れぞ江島の入口にて。此の鳥居の前に立ちて看望(みあぐ)れは。一線路あり。即ち江島神社に詣つるの道なり。進み行けは。惠比壽樓(ゑびすろう)。岩本樓なと客を呼ふの旅館ありて。兩側に櫛比す。是を茶屋町と唱ふ。行くこと一町半にして。石製(せきせい)の鳥居立てり。こゝより石磴(いしだん)を登れは。前面に碑石(ひせき)あるを見る。上に題して最勝銘といふ。銘に曰く。

  最勝無匹 至妙匪名 起滅來去 香味色色

  事物蕭寂 眞空崢嶸 顯處漠々 暗裏明明

明治甲申原垣山の撰せし所。左方(さはう)に池あり。無熱池と稱す。盍し其名は天竺(てんぢく)の無熱池に象りて名(なづ)けたるものなり。水淺しといへど。旱天(かんてん)に涸れずと云ふ。其の上に巨石あり。蝦蟇石といふ。相傳ふ釋良眞〔慈悲上人〕此の島に參籠せし時。蝦蟇出て障碍(しようげ)を爲しける故。加持せられは。終に此(この)石に化したりと。其の言(げん)荒唐信するに足らず。右の石磴を登れは。江島小學校あり。油漣塗(ぺんきぬり)にて他と異なるなし但し體を具へて微(び)なるものなり。

[やぶちゃん注:「最勝銘」ウィキの「江の島」に「最勝銘碑」として明治一七(一八八四)年に東京大学でインド哲学を教えていた曹洞宗の僧原担山の撰になるものという記載がある。底本には返り点はない。禅僧のものであるから原則総て音で読んでいると考えてよい。

「崢嶸」は「さうくわう(そうこう)」と読み、山谷のけわしいさまをいう。

「江島小學校」ウィキの「江の島」によれば、明治六(一八七三)年島内に江島学舎が開校、明治二二(一八八九)年に江ノ島村と対岸の片瀬村とが合併して鎌倉郡川口村となった際、この江島学舎が川口村立小学校江ノ島分校となったとある。当時のこの分校の位置は辺津宮下の石の鳥居前を右に折れ、裏へ廻る近道の上に架かる桟道の手前の右手、現在の「江の島市民の家」のある位置にあった。後の昭和三六(一九六一)年三月三十一日、当時、藤沢市立片瀬小学校江ノ島分校は廃止された。江の島・藤沢ポータルサイト「えのぽ」の「思い出の風景」の坂井弘一氏の「二百十日の頃」には、江ノ島には対岸の片瀬小学校の分校があって、小学三年まではこの分教場へ通い、四年生になると島から桟橋を渡って本校へ通学していた、とある。ショウ氏の「湘南の家」の「江の島桟橋」には四年生までとあるが、時代的な差なのかも知れない。それぞれの桟橋の写真や絵葉書は実に素晴らしい。往時の江の島風景として必見である。]

 

右左に折れて自然石より成れる石磴を攀ちて進めは。左方に石あり其の形臥牛(ぐわきう)の如し。福石と呼へり。相傳ふ。昔時の杉山檢校和一參籠して結願(けつぐわん)の日。此石に躓き。松葉の竹管に盛りたるを拾へは福を得ると稱す。是れ福石の名の起れる所以なり。それより石磴を上れは。神祠(じんし)あり。即ち邊津神社にて。むかしは下の宮といへり。社の左側(さそく)に古碑の存(ぞん)するを見るに江島屏風石といふ。是ぞ有名なる江島建寺碑なり〔別項に記載す〕左折して堺内(けうない)を出。阪を下り。金龜樓の前を過き。又石磴を上れは神祠あり。是ぞ中津神社にして。むかしは上の宮と稱せり〔口繪參照〕こゝにて什寶を展列し。諸人の縱覽を許す。社の左に碑あり。酒井雅樂頭の撰文なりといふ。文字苔蒸して讀むべからず。境内(けうない)を過れは。右方に石磴あり。之を攀(よぢ)れは。平地に達す。即ち本島の頂上なり行くこと二丁餘。左方(さはう)は斷崖絶壁にして。風濤の聲脚下に鞺鞳(だうがふ)たり。試みに茶亭(さてい)の筠欄(いんらん)に倚りて一望すれは。相模灘三十六里寸眸の裏に入り。伊豆の大島正面に横(よこたは)りて。遙かに翠螺(すゐら)を浮へ白帆其の間に點在す。風景絶佳人皆嘆賞す。此の處に一遍上人成就水の標石あり。逕路以て通(つう)するも。草莾(そうばう)人を遮り。行歩自由ならず。行くこと二十間許(ばか)りにして。一井あり。蓮華水といふ。相傳ふ一遍上人此の島に參籠の時。加持せし舊蹟なりと。今尚ほ上人自筆の一遍成就水の扁額は。當社に保存せり。傍に蓮華池あり。溪泉湛(たと)ふて池を成し。老樹覆(お)ふて屋を成し。人をして仙境に至れる思あらしむ。聞く近日荊を伐り茅を刈りて。行路を便(べん)にし。此の勝地に通せしむと。是れ亦游覽の一助ならむ。

[やぶちゃん注:「鞺鞳」この字を当てておいたが、実際には「鞳」ではない。「革」に「侖」のような字(カスレている)である。しかしこれは水や波の音の響くさまをいう、「鞺鞳」であることは間違いないので、これを当てた。なお、これはまた本来なら「たふたふ(とうとう)」と読むのが正しい。

「筠欄」青竹の手すり。

「三十六里」約一四一キロメートル強。江の島から伊豆半島南端の石廊崎までを海岸線で計測すると凡そ一二二キロ程度あり、これを可視限界の下田辺りから直線で大島最北端乳が崎まで延ばすとずばり一四一強となる。頗る正確な数値と言えよう。

「翠螺」緑なす山の美称。

「二十間」約三十六メートル強。]

 

舊路を取り。山に沿ふて下れは。幅凡そ三間許り地峽の如き形勢をなせる道に出つ。俗にこゝを山二ツといふ。兩岸(れうがん)の絶壁幾十丈。左右より相迫り。殆(ほと)むと江島の一島をして二島あるか如き觀(くわん)あらしむ。此名ある所以なり。それより迂曲(うくわい)して進めは。平地に達す。是れ奥津神社境内の入口なり。

[やぶちゃん注:「三間」約五・五メートル。]

 

徐ろに神社を拜し了り。左右を顧みれは。道忽ち窮れるがごとし。左方に當りて一標を認む。題して岩屋道といふ。進て歩を移せは。石磴あり。是れ龍窟に達するの道なり。級を拾ふて下れば。道は斷崖の上に出つ。手を額にすれは。富士山巍然(ぎぜん)として雲表に聳へ、豆相の諸山其の前に列し。相引て我に朝(てう)する者に似たり。彼の烏帽子岩の如きは。呼へは將さに應へむとす。此の處を兒か淵といふ。其の由來は載せて別項にあり。淵頭には服部南廓、佐羽淡齋及ひ。芭蕉の詠(えい)を刻せし碑を建てり。

 南廓の詩に云。

  風濤石岸鬪鳴雷。

  直撼樓臺万丈廻。

  被髮釣鼇滄海客。

  三山到處蹴波開。

 淡齋の詩に云。

  瓊砂一路截波通。

  孤嶼崚嶒屹海中。

  潮浸龍王宮裏月。

  花香天女廟前風。

  客樓所鱠絲々白。

  神洞燒燈穗々紅。

  幾入蓬萊諳秘跡。

  不須幽討倩仙童。

 芭蕉の句に云。

  疑ふな潮の花も浦の春

この岸角に龍燈松と稱するがありしが。今は枯れたり。是より岩怪石の間を宛轉(えんてん)して下れば。海岸に到る。尚石骨を蹈て行くこと二丁餘。始て龍窟に達す。其の間左は石塀(いしべい)にして。右は深潭なり。岩頭の老松枝を埀れて。翠濤(すゐたう)の上に沈む。奇絶いふべからず。

[やぶちゃん注:以上の漢詩は底本では二段組であるが、一段で示した。淡齋の漢詩の最終句は底本では「不須幽倩仙童。」となっており、明らかな脱字があって律詩としての体を成さない。ここのみ、別の諸資料によって特別に補って示したことを断っておく。【二〇一四年九月二十日追記:本誌の一番最後に正誤注があり、そこには『●本誌江の島案内の中佐羽淡齋七律結末不須幽倩仙童は不須幽討倩仙童の誤謬に付爰に正誤す』とある。】

「級を拾ふて」「級(きふ)」は階段のこと。石段を一つ一つを数えて。

「巍然」山が高く聳えること。

「朝する」 向かってくる。

「服部南廓」服部南郭(天和三(一六八三)年~宝暦九(一七五九)年)は荻生徂徠の高弟として知られる儒者で画家。詩を我流で書き下す(句点を排除した)。

  風濤 石岸 鳴雷を鬪ふ。

  直ちに樓臺を撼(ゆす)りて 万丈 廻る

  被髮の釣鼇(ちようがう) 滄海の客(かく)

  三山 到る處 波を蹴つて開く

詩中の「被髮の釣鼇」とは釣り上げられた大きな蓑亀。

「佐羽淡齋」二代目佐羽吉右衛門(さばきちえもん 明和九(一七七二)年~文政八(一八二五)年)は商人で漢詩人。絹仲買商で上州三富豪の一人。詩を我流で書き下す(句点を排除した)が、尾聯は脱字もあり、訓読に自信がない。識者の御教授を乞うものである。

  瓊砂(けいさ) 一路 波を截つて通ず

  孤嶼(こしよ) 崚嶒(りようくわい) 屹(きつ)として海中にあり

  潮は浸(ひた)す 龍王 宮裏の月

  花は香る 天女 廟前の風

  客樓 鱠(なます)とする所 絲々(しし)として白く

  神洞 燈を燒きて 穗々(すいすい)として紅(くれなゐ)なり

  幾(ほと)んど蓬萊に入りて 秘跡を諳(そら)んずれば
  須(もち)ひず 幽(ひそ)かに倩(うるは)しき仙童を討(もと)むるを
詩中「崚嶒」は山が高く緩やかに重なりあうこと、「屹」も高く聳えること。「脱身幽討」という語があり、これは塵界を離れ、景色のよい場所を尋ね廻るの意がある。「幾入蓬莱」は海中に屹立する江ノ島への入島を東方海中にあるとする仙境蓬莱山に喩えて言った。「秘跡」は「蓬莱」に掛けて人に知られぬ名跡の意。「討」には求める・尋ねる・探すなどの意があり、ここは稚児が淵伝説に因んで、秘かに尋ね求めたと採る。「倩」には形容詞として美しい・麗しい・愛らしいと意があり、動詞としては借りる・請う・雇うの意がある。実は底本ではこの字の下に「仙童」からの返り点があるのだが、先に示した通り脱字があり、この返り点は信じ難い。ここでは知人の指摘を得て仙童を形容する語、則ち、みめ麗しいの意で採ることとした。従って尾聯は、

  私が入り来たったここはもう、かの仙境蓬莱にほとんど等しい……
  そうして今、この景勝にかくも満足し、詩をそらんじておる……
  さればこそ――私は必要とせぬ――
  伝説の和尚の如、秘かに見目麗しき仙童の稚児を尋ねるなんどということは――

といった感じであろうか(以上、尾聯の訓読及び語釈は知人の助力を得た。ここに記して謝意を表する)。

「疑ふな潮の花も浦の春」は無論、江の島の吟ではなく、「二見の図を拝み侍りて」と前書きがあるので嘱目吟でもないようである。「いつを昔」所収。他にこの句を記した真蹟の「二見文台」(文台に書きつけたもの)には「元禄二仲春」のクレジットがある。

「岩頭の老松」「老」は底本「考」。全くの誤植と判断し、訂した。]

 

抑此の龍窟は。南(みなみ)大洋に面し。遠く大島に對す。窟内凡そ二十間許り。海水常に激入す。故に棧橋を架して通路に便す。俯觀すれは岩根皆紫色を帶びて。水色紺碧。其の美狀(じやう)し難(がた)し。窟の深さ七十三間(案内者は百廿間と稱す)幅三間許。其の高さ最高の處にて四丈八尺なりといふ。進み入ること二十六間にして一小祠あり。是れ多紀理比賣命を祀れる本宮(ほんぐう)なり。大さ僅かに一間半。其の製(せい)亦粗(そ)なり。祠後より窟内閽黑(あんこく)なれは。導者先つ燭(しよく)を秉て進み。各自皆之を手にす。入ること十二間にして淸泉あり。岸壁より落つこれを弘法大師加持水と唱ふ。昔大師參籠の時加持せし水なりとそ。今は樋にて之を引き。祠前の手洗水とせり。水淸冷にして味美なれば。人爭(あらそふ)て掬飮す。是より九間にして窟兩岐に分(わか)る。一を胎藏界一を金剛界といふ。中世浮屠氏の命(めい)せし所なり。右方胎藏界に進むこと數間池あり。橋を架す。又行く七間半入るに隨つて窟漸く狭く。身を屈して進めて。路窮る所に小祠あり天女を祀る。是より踵を旋らして舊路を歩し。左方金剛界に入れは日蓮趺坐石。空海臥石。護摩の爐(いろり)などいへるあり。前頭(ぜんとう)に當りて小祠(せうじ)を安し。天照大神を鎭座し奉る。盖し窟爰に窮るにあらず。石を疊みて限りを爲すのみ。石間より之を窺ふに。暗昧にして其奥を測り難し。前に七十三間と記せしは。此の處までの距離なりと知るべし。

[やぶちゃん注:「抑此の龍窟は……」以下の距離単位をメートル法に換算して以下に示しておく。なお、「窟内凡そ二十間許り」の部分、底本の「二十間」の傍点は「二十」のみであるが誤りとして「間」も太字とした。

・窟内に開口部から海水が流入してくる範囲(満潮時であろう)

   20間≒36メートル

・窟内の見学可能範囲の奥行(最奥の天女を祀る小祠まで)

   73間≒133メートル。

・窟の実際の奥行(案内人の称)

  120間≒218メートル

・窟の幅(開口部附近の数値と思われる)

    3間≒5・5メートル

・窟内の最高点での天井の高さ

  4丈8尺≒14・5メートル

・開口部から本宮までの距離

   26間≒47メートル

・開口部から弘法大師加持水までの距離(加算)

   38間≒69メートル強

・開口部から胎蔵界・金剛界分岐点までの距離(累算)

   47間≒85・5メートル

・開口部から侵入可能な最奥の天女の小祠に入る手前まで(推定累算)

  54間半≒99メートル前後]

 

窟を出れは。前に平坦なる巨岩あり。其の幅七八間之を魚板石といふ其形魚板(ぎよはん)に似たるを以て名づく。竚立(ちよりつ)すれは風光の美なる兒が淵に優(まされ)り。人をして轉〻歸るを忘れしむ。但激浪常に來りて岩角(いはかど)を齧めは。或は全身飛沫を蒙ることあり。

[やぶちゃん注:「幅七八間」「幅」とあるが長さといった方が分かりがよい。約12・7~14・5メートルと幅があるのは潮位の違いによるものであろう。]

 

此邊に潜夫群居して。遊客の爲めに身を逆にし海水に沒入し鮑若しくは海老、榮螺等を捕へ來る。又錢貨を投すれは。兒童水底に入りて之を探り。或は身を水上に飜轉(ほんてん)して。遊客の笑觀に供す。亦一興といふへし。

龍窟の東方は。壁立千仞。其の下に數個の洞穴あり。或は白龍窟或は龍池窟或は飛泉窟と名く。其の他仁田四郎忠常拔穴と稱するものあれども。容易に到る能はず。又探るへきの必要もなければこゝに略せり。

窟前の遊覽を終りて。歸途に就き。中津神社の境内(けいない)を經て。金龜樓の前を過(すぐ)れは。阪ありて下降阪といふ。之を下れは。前記の石の鳥居即ち茶屋町の上に出(い)つ。夫より前路(ぜんろ)を進み行けは。島口鳥居の下に達す。こゝより龍窟の入口まて實に十一町なり。本島より鎌倉に至る道程(みちのり)は。二里にして、腰越より七里か濱を經るを順路とす。鵠沼へは僅かに十五六町にして。片瀨川を越へ。沙岸に沿ふて到るを得べし。東京其の他の地に達する交通は、藤澤に出て汽車に由らざるべからず。而して有志者中には已に片瀨即ち對岸への鉄道敷設の計畫あり。假免狀の下付ありしよしなれば。遊客は早晩一層の便利を得るあらむ。

[やぶちゃん注:「十一町」約1・2キロメートル。現在の地図上で以上のルート(旧金亀楼前の坂を選択)で微細に測定しても現在の第一岩屋入口までは正しくぴったり1・2キロメートルになる。

「十五六町」1・6から1・8キロメートル弱。現在の藤沢市鵠沼海岸一丁目東端までを現在の片瀬橋を渡って計測すると1・7キロメートルになる。但し、当時の片瀬川の架橋はもっと上流であった可能性が高いので、この数値も正確である。

「而して有志者中には已に片瀨即ち對岸への鉄道敷設の計畫あり。假免狀の下付ありしよしなれば。遊客は早晩一層の便利を得るあらむ」ウィキの「江ノ島電鉄」の「歴史」の記載は本雑誌発行(明治三一年八月二十一日)の二年後、明治三三(一九〇〇)年十一月二十五日の「江之島電氣鐵道株式会社」設立総会から始まっているが、それより二年半近く前、本雑誌が編集されていた以前に、既に鉄道敷設の陳情がなされて正式な「假免狀の下付」が公的に認可されいた、ということになる。その後、明治三三年十二月には高座郡藤沢大坂町に於いて「江之島電氣鐵道株式会社」が設立され(但し、現在とは別法人であった)、本誌発行から四年後の明治三五(一九〇二)年九月一日には「藤沢」―「片瀬」(現在の「江ノ島」)間を開業、以後順次延伸され、十二年後の明治四三(一九一〇)年十一月四日には遂に「小町」(大巧寺前にあった。後に「鎌倉」となったが廃止された旧終点)までが開業している。]

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