北條九代記 右馬權頭賴茂父子生害
○右馬權頭賴茂父子生害
同二十五日、伊賀〔の〕太郎左衞門尉光季(みつすゑ)、飛脚を以て鎌倉に告げけるやう、「大内(おほうち)の守護右馬權頭源賴茂朝臣は、三位入道源賴政が末なり。仙洞の叡慮に背く事あるに依て、官軍を遣して、昭陽舍(せうやうしや)の住所に押寄(おしよせ)らる。賴茂、即ち門を差堅め、郎等を以て防ぎ戰ふ。伴類餘黨の者共、右近將監藤近仲(うこんのしやうげんとうのみちなか)、右兵衞尉源宗眞(むねざね)、前〔の〕刑部〔の〕丞平〔の〕賴國等(ら)、聞付けて、賴茂が方に加勢して、仁壽殿(じんずでん)に入籠り、散々に防ぎ戰ふ。寄手(よせて)、疵を被(かうぶ)り、攻倦(せめあぐ)みて引退(ひきしりぞ)く。京都守護の人々、この由を聞きて、我も我もと馳來り、一日一夜攻(せめ)戦ふ。賴茂は昨日(きのふ)、兵糧(ひやうらう)を使ひける儘(まゝ)にて、晝夜相戰ひ矢種盡きて力(ちから)落ちければ、御殿に火を懸け、面々に自害してこそ臥(ふし)にけれ。廓内殿舎に燃懸(もえかゝ)り、風に煤(ひのこ)の吹(ふき)散りて、雲煙(くもけぶり)と焼上(やけあが)る。されども、人、多く集りて、打消しければ、朔平門(さくへいもん)、神祇官、外記廳(げきのちやう)、陰陽寮(おんやうりやう)、園韓神(そのからかみ)等(とう)は堅固にして、殘りけり。仁壽殿は燒(やけ)崩れて、殿中に安置(あんぢ)せられし觀世音菩薩の尊像、應神天皇の御輿(みこし)、その外大嘗會(だいじやうゑ)御即位の藏人方(くらうどがた)往代(わうだい)の御裝束(ごしやうぞく)、數多(あまた)の靈物(れいもつ)、悉く灰燼(くわいじん)となるこそ悲しけれと語りければ、人々聞き給ひ、禁中に軍(いくさ)起り、殿内に血をあやし、觸穢(しよくゑ)に及ぶ御事は、頗る奇恠(きくわい)の不思議なり、如何樣、只事にあらず、と恐れ思はぬ人はなし。
[やぶちゃん注:「右馬權頭賴茂」は「うまごんおかみよりもち」。「生害」は「しやうがい」と読む。「吾妻鏡」巻二十四の承久元(一二一九)年七月二十五日の条に基づく。これも特に「吾妻鏡」の引用の必要性を感じない。
「右馬權頭賴茂」源頼茂(「よりしげ」とも 治承三(一一七九)年?~承久元(一二一九)年)は源頼政の次男頼兼の長男。ウィキの「源頼茂」によれば、正五位下大内守護・安房守・近江守・右馬権頭で、父頼兼と同じく都で大内裏守護の任に就く一方、鎌倉幕府の在京御家人となって双方を仲介する立場にあった。しかし、記事の日付に先立つ十二日前の承久元(一二一九)年七月十三日、突如、頼茂が将軍職に就くことを企てたとして後鳥羽上皇の指揮する兵にその在所であった昭陽舎を襲撃された。頼茂は応戦して抵抗したものの、仁寿殿に籠って、火を掛けて自害、子の頼氏は捕縛された。上皇による頼茂急襲の理由は不明とされているが、高い確率で鎌倉と通じる頼茂が、京方の倒幕計画を察知した為であろうと考えられている。また本文にあるように、この合戦による火災によって仁寿殿・宜陽殿・校書殿などが焼失、仁寿殿の観音像や内侍所の神鏡など、複数の宝物が焼失したとされる。「尊卑分脈」には享年四十一歳であったと記す。
「大内(おほうち)の守護」「おほうち」と訓じているが、内裏の守護職のことであるので注意。
「外記廳」外記局(げききょく)。外記(太政官(だいじょうかん)に属して、少納言の下にあって内記(ないき)の草した詔勅の訂正・上奏文起草・先例勘考・儀式執行実務などを掌った官職。大外記と少外記があった)の勤務した役所で内裏の建春門外にあった。
「園韓神」園神社及び韓神社の総称で、いずれも平安京の宮中の宮内省内に鎮座していた神社。ウィキの「園韓神社」(「そのからかみのやしろ」と読んでいる)によれば、平安遷都以前から当該地にあったとされる神社で養老年間(七一七年~七二四年)に藤原氏によって創建されたものとされ、天平神護元(七六五)年に讃岐国に園神二十戸・韓神十戸の神封を充てたとし、延暦一三(七九四)年の平安遷都の際には他所へ遷座しようとしたところ、「猶ほ此の地に坐して帝王を護り奉らむ」と託宣があったために遷座させず、皇室の守護神として宮内省に鎮座することになったという。それ以外に貞観元(八五九)年に奈良の漢国神社の祭神(園神・韓神)を宮内省内に勧請したのが園韓神社であるという別伝承もあるらしい。]
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