日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第六章 漁村の生活 7
日本人は会話する時、変なことをする。それは間断なく「ハ」「ヘイ」ということで、一例として一人が他の一人に話をしている時、話が一寸(ちょっと)でもとぎれると後者が「ヘイ」といい、前者が「ハ」という。これは彼が謹聴し、且つ了解していることを示すと同時に、尊敬の念を表すのである。またお互に話をしながら、彼等は口で、熱いお茶を飲んで舌に火傷(やけど)をしたもんだから息を吸い込んで冷そうとでもするような、或は腹の空った子供等が素敵にうまい物を見た時に出すような、音をさせる。この音は卑下か尊敬かを示すものである。
今朝私は帆のある大きな舟に漁夫四人が乗ったのを手に入れ、朝の八時から午後四時まで曳網をやった。全体の費用が七十五セント、それで船頭達はすこしも怠けず懸命に働いた。外山は舟に酔うので来ず、彼の友人は東京へ帰ったので、私の助手の松村がやって見ようということになったが、出かけて一時間にもならぬ内に彼は曳網に対する興味をすっかり失って了い、その後しばらくしてからは舟酔いのみじめさに身をまかせて舟底に横になった儘、舟が岸に帰り着く迄動かなかった。彼は通弁することも出来ぬ程酔って了ったので、私は一から十まで手まね身振りで指図しなくてはならなかった。太陽が極めて熱く、私はまたひどく火傷をした。私は我国で太陽がシャツを通して人の皮膚を焼くというようなことをする覚えはないが、日本の太陽はこんな真似をする。今日は遙か遠くまで出かけ、曳網を三十五尋(ひろ)の深さに投げ入れ、いく度も曳いた。私は実に精麗な貝殻を採った。その多くは小さいが、あるものは非常に美しかった。正午になると、漁夫達は櫓をはなして昼飯の仕度にとりかかった。彼等は舟底の板を一枚外して、各々前日捕えた魚を手探りでつかまえた。私は漁夫の一人が昼飯を準備するのをよく見た。先ず魚の尻尾を切って海に投げ込み、内臓を取り除くと、大きな、錆びた、木の柄のついた庖丁で頭も目玉も骨も何もかも一緒に小さくきざんで、それを木の鉢に入れる。次に彼は籠をあけて冷たい、腐ったような飯を沢山取り出し、梅干二個とそれとを一緒に刻んでこれを魚の鉢にぶち込んだ。そこで非常に酸(す)い香のする、何でも大豆でつくつた物を醱酵させた物質を箱からかけ、水少量を加えてひっかき廻した。これ程不味(まず)そうな物は見たことがない。然し彼が舌鼓を打って、最後の一粒までも食って了った所から察すると、すくなくとも彼には御馳走であるらしい。魚の生肉は非常に一般的な食料品で、ある種の魚は殊に珍重される。
[やぶちゃん注:これは叙述内容(同行者が助手の松村任三一人である点、昼食を挟んで一日をかけていると思われる点、モースはひどく日焼けをしており、松村が重い船酔いをしている描写からはこのドレッジがかなり沖まで出て行われたものである可能性が高い点など)から、磯野先生の前掲書の日録から見ると、八月『二日 朝八時から夕方まで、モースと松村、七里ヶ浜から沖合にかけてドレッジ。』とあるのがそれであると思われる。最後の漁師たちの沖飯は所謂、手こね寿司の原型である。
「三十五尋」64メートル。かなりの深度である。]
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