★⑤★北條九代記 【第5巻】 鎌倉將軍家居らるべき評定 付 阿野冠者没落 / 卷第五に突入
○鎌倉將軍家居らるべき評定 付 阿野冠者没落
右大臣實朝公、非常の禍(わざわひ)に罹りて、薨じ給ひければ、鎌倉には火を打消したるやうになりて、御賢息は一人もおはしまさず。この間には、如何なる事か出來らんずらんと、上下手を握りて、思合(おもひあ)はれ、加藤次判官次郎を以て京都に奏聞(そうもん)申されたり。加藤次は裸背馬(はだせうま)に乘りて、夜晝の境もなく、山川を云はず、乘りける程に、二月二日の申刻ばかりに京に著きて、直(すぐ)に件の有樣を仙洞へ奏し申しければ、大に驚き思召され、關東の事如何にも靜謐の祕計を至すべき旨、北條義時、二位禪尼の御方へ院宣をぞ下されける。洛中には、この事隱なく聞渡し、すはや鎌倉に大事おこり、將軍實朝公滅亡し給ひ、天下は暗(やみ)になりけるぞやといひ出し、何とは知らず、貴賤上下騷ぎ立ちて、軍勢馳違(はせちが)ひければ、仙洞より制し給ひ、「少も子細あるべからず」と仰觸(おほせふ)れられしかば、漸(やうやう)に靜(しづま)りぬ。北條義時、二位禪尼以下評定衆に至るまで一所に集會(しふゑ)して、「關東既に大將なくは如何なる不思議か出来すべき。然るべき大將を申下し、世の靜謐を致さるべし。さて誰人をか定(さだめ)奉らん」とありし所に、二位禪尼申し給ひけるやう、「故右大將賴朝卿の姉公は權中納言藤原能保卿の妻室として、その腹の息女は、後京極攝政藤原良經公の北の政所となり給ひて、光明峰寺の關臼左大臣道家公を生み給ふ。然れば故右大將家の御一族として、道家公の北の政所は西園寺の太政大臣藤原公經(きんつね)公の娘、准(じゆ)三后(ごう)從一位倫子(りんし)と申す。この御腹に男息(なんそく)數多(あまた)おはします。いづれなりとも關東へ申下し將軍に仰ぎ奉らば、當家に於て恥(はづかし)からず」とありしかば、この義、然るべしとて、同二月十三日、信濃守行光を使節として、二位禪尼申さしめ給ひ、宿老の御家人連署(れんじよ)の奏歌を仙洞にぞ奉られける。京都の躰裁(ていたらく)の何となく物騷がしき由聞えければ、伊賀太郎左衞門尉光季、武藏守親廣入道を上洛せしめ、京都の守護にぞ居(す)ゑられける。爰に故賴朝の舍弟全成(ぜんじやう)は、阿野惡禪師(あのあくぜんじ)と號して出家になりておはしけるが、後に逆心(ぎやくしん)の企(くはだて)ありければ、下野國にして生害(しやうがい)せられたり。その子阿野冠者(くわんじや)時元は、此處彼處(こゝかしこ)に忍居(しのびゐ)て成人し、如何にもして世に立たばやと思はれしが、母は北條家の娘なり、所緣に付けては、然るべき取立(とりたて)にも預るべけれども、如何なる故にや、打捨てられておはしけり、實朝公の討れ給ひて後は、賴朝卿の緣(ゆかり)とては我ならで、關東の將軍たるべき者あらず。北條家を打亡(うちほろぼ)し世を取らばやと思ひ立ちて、東國の溢者(あぶれもの)どもを招集め、駿河國の山中に城廓を構へ、近隣を襲(おびやか)し、兵糧を奪取(うばひと)り、院宣を申し給はりければ、是に隨付(したがひつ)く者、漸く數百騎にぞ及びける。駿河國の守護代、飛脚を以て鎌倉に告げたりければ、二位禪尼の仰に依て、金窪(かなくぼ)兵衞尉行親を大將として、御家人等を駿河國に遣さる。同じき二月二十三日、鎌倉勢雲霞の如く城に押寄せて、攻(せめ)かゝれば、城中の集勢(あつまりぜい)、一軍にも及ばす、我先(われさき)にと落失せ、殘る兵僅(わづか)に七、八人、防ぐべき力もなく手負ひ打たれたりければ、大將阿野冠者時元、城に火を懸け、腹搔切(かきき)りて死ににけり。思(おもひ)の外に軍は早く散じたり。天命至らず、時運(じうん)調はざる時は、囘天の威を振ふといへども、その功はなきものなり。只善く變を伺ひ、時を待ちて、本意をば達すべし、時元無用の企に依(よつ)て、多年の思謀(しぼう)を一時(じ)に失ひけるこそ悲しけれ。
[やぶちゃん注:将軍後継者の朝廷への要請は「吾妻鏡」巻二十四の建保七(一二一九)年正月二十八日、二月九日・十三日・十四日に、阿野時元の謀叛と滅亡は巻二十四の同年二月十五日・十九日・二十二日・二十三日などに基づく。
「藤原能保」一条能保(久安三(一一四七)年~建久八(一一九七)年)。従二位権中納言。京都守護。彼は源義朝の娘で頼朝の同母姉妹である坊門姫を妻に迎えており、鎌倉政権誕生後は頼朝から全幅の信頼を寄せられた上、後白河法皇にも仕えて重用され、妻や娘は後鳥羽天皇の乳母となるなど、朝廷・幕府双方への広い人脈を生かして実力者にのし上がった(以上はウィキの「一条能保」に拠った)。
「藤原良經」九条良経(嘉応元(一一六九)年~建永元(一二〇六)年)。従一位摂政太政大臣。摂政太政大臣藤原忠通の孫で関白兼実の二男。一条能保の女を妻とした。建久七年の政変で反兼実派の丹後局と源通親らによって父とともに一時失脚したが、正治元(一一九九)年には左大臣として復帰、内覧から土御門天皇摂政となり、建仁四(一二〇四)年には太政大臣となった。
「關臼左大臣道家」九条道家(建久四(一一九三)年~建長四(一二五二)年)従一位摂政関白左大臣。九条良経長男。妻に太政大臣西園寺公経女を迎えている。後の鎌倉幕府第四代将軍藤原頼経は彼の三男。承久の乱では討幕計画には加わらなかったが摂政は罷免された。後、幕府との関係が深かった岳父の西園寺公経が朝廷での最大実力者として君臨し、政子の死や息子頼経の将軍就任などによって安貞二(一二二八)年には近衛家実の後を受けて関白に任命され、翌年には長女藻壁門院を後堀河天皇の女御として入内させ、権勢を確立した。しかし次第に北条氏得宗家に不満を募らせ、寛元四(一二四六)年の宮騒動で執権北条時頼によって頼経が将軍職を廃され、さらに建長三(一二五一)年の幕府第五代将軍で孫の藤原頼嗣と足利氏を中心とした幕府転覆計画が発覚すると、その首謀者嫌疑をかけられと、間もなく死去した。幕府によって暗殺されたとする説もある(以上はウィキの「九条道家」に拠った)。
「藤原公經」西園寺公経(承安元(一一七一)年~寛元二(一二四四)年)。第四代将軍藤原頼経・関白二条良実・後嵯峨天皇中宮姞子の祖父であり、四条天皇・後深草天皇・亀山天皇・幕府第五代将軍藤原頼嗣曾祖父となった稀有な人物で、姉は藤原定家の後妻で定家の義弟にも当たる。源頼朝の姉妹坊門姫とその夫一条能保の間に出来た全子を妻としていたこと、また自身も頼朝が厚遇した平頼盛の曾孫であることから鎌倉幕府とは親しく、実朝暗殺後は、外孫に当る藤原頼経を将軍後継者として下向させる運動の中心人物となった。承久の乱の際には後鳥羽上皇によって幽閉されたが、事前に乱の情報を幕府に知らせて幕府の勝利に貢献、乱後は幕府との結びつきを強め、内大臣から従一位太政大臣まで上りつめ、婿の九条道家とともに朝廷の実権を握った。『関東申次に就任して幕府と朝廷との間の調整にも力を尽くした。晩年は政務や人事の方針を巡って道家と不仲になったが、道家の後に摂関となった近衛兼経と道家の娘を縁組し、さらに道家と不和であり、公経が養育していた道家の次男の二条良実をその後の摂関に据えるなど朝廷人事を思いのままに操った。処世は卓越していたが、幕府に追従して保身と我欲の充足に汲々とした奸物と評されることが多く』、『その死にのぞんで平経高も「世の奸臣」と日記に記している』(平経高は婿道家の側近であったが反幕意識が強かった)。『なお、「西園寺」の家名はこの藤原公経が現在の鹿苑寺(金閣寺)の辺りに西園寺を建立したことによる。公経の後、西園寺家は鎌倉時代を通じて関東申次となった』(引用を含め、ウィキの「西園寺公経」に拠った)。
「倫子」西園寺公経女。「尊卑分脈」では綸子、「百錬抄」では淑子とある。
「信濃守行光」二階堂行光。
「武藏守親廣」大江広元長男。「吾妻鏡」のこの時元平定の六日後の二月二十九日の条に「武藏守親廣入道。爲京都守護上洛。」と早くもこの時、京都守護として上洛した旨の記載がある。その後、朝廷方との関係を構築、承久の乱では後鳥羽天皇の招聘に応じて官軍側に与して近江で幕府軍と戦ったが敗走、出羽国に隠棲していたと伝えられる。なお、乱後に離別させられた彼の妻竹殿(北条義時娘)は、後に義父源通親(若き日に猶子となっていた)の子土御門定通の側室となっており、定通の甥にあたる後嵯峨天皇の即位と深く関わることになる(以上は主にウィキの「大江親広」に拠った)。
「阿野全成」(仁平三(一一五三)年~建仁三(一二〇三)年)源義朝と常盤の長男。幼名今若。頼朝の異母弟で義経の同母兄。平治の乱後に醍醐寺で出家、醍醐悪禅師全成と称された。治承四(一一八〇)年に頼朝の挙兵を聞くと直ちに関東に下向し合流、武蔵国長尾寺を与えられ、さらに駿河国阿野を領して阿野法橋と号した。北条時政の娘阿波局を娶り、これが千幡(後の実朝)の乳母になったことから、頼朝没後は千幡の擁立を謀る北条氏と二代将軍頼家との対立に巻き込まれ、建仁三(一二〇三)年五月に頼家に対する謀反の疑いによって常陸国に配流、翌月、下野国で誅殺され、子の頼全(三男であるが、次の注で見るように阿波局の子ではないようである)も京都で討たれた(主に「朝日日本歴史人物事典」の記載に拠った)。
「阿野冠者時元」阿野全成四男。母は阿波局。四男でありながら、母が北条氏であった事から嫡男とされたと見られる。父全成の謀殺時には外祖父北条時政や伯母の政子の尽力もあって連座を免れ、父の遺領である駿河国阿野荘に隠棲していた。本章に示された如何にもあっっけない反乱とその滅亡については、参照したウィキの「阿野時元」に、『実際にどの程度時元が自ら望んで行動したのか、詳しいことは現在も分かっていない』とし、『時元の子孫は武家の阿野氏として存続するが、この事件の影響もあって振るわず、数代を経て(南北朝期以降)記録から姿を消している。これとは別に、時元の姉妹と結婚していた藤原公佐が阿野荘の一部を相続し、その子孫は公家の阿野家として繁栄している』とある。
以下、順を追って「吾妻鏡」を見る。連続する建保七年二月九日・十三日・十四日の記事から。
〇原文
九日丙午。加藤判官次郎自京都歸參。去二日入京。申彼薨御由之處。洛中驚遽。軍兵競起。自仙洞御禁制之間。靜謐云々。
十三日庚戌。信濃前司行光上洛。是六條宮。冷泉宮兩所之間。爲關東將軍可令下向御之由。禪定二位家令申給之使節也。宿老御家人又捧連署奏狀。望此事云云。
十四日辛亥。卯尅。伊賀太郎左衞門尉光季爲京都警固上洛。又同時爲右京兆御願。被修天下泰平御祈等。天地災變祭以下也。
丑尅。將軍家政所燒亡。失火云云。郭内不殘一宇者也。
〇やぶちゃんの書き下し文
九日丙午。加藤判官次郎、京都より歸參す。去ぬる二日、京に入り、彼の薨御の由を申すの處、洛中驚き遽(あは)て、軍兵(ぐんぴやう)、競ひ起こる。仙洞より御禁制の間、靜謐すと云々。
十三日庚戌。信濃前司行光、上洛す。是れ、六條の宮・冷泉宮兩所の間、關東の將軍として下向せしめ御(たま)ふべきの由、禪定二位家、申さしめ給ふの使節なり。宿老の御家人、又、連署の奏狀を捧げ、此の事を望むと云云。
十四日辛亥。卯の尅、伊賀太郎左衞門尉光季、京都警固の爲、上洛す。又、同時に右京兆の御願として、天下泰平の御祈等を修せらる。天地災變祭以下なり。
丑の尅、將軍家の政所、燒亡す。失火と云云。
郭内一宇を殘さざる者なり。
以下、阿野時元の一件。同じく連続する二月十五日と十九日。
〇原文
十五日壬子。未尅。二品御帳臺内。鳥飛入。申尅。駿河國飛脚參申云。阿野冠者時元。〔法橋全成子。母遠江守時政女。〕去十一日引率多勢。構城郭於深山。是申賜宣旨。可管領東國之由。相企云云。
十九日丙辰。依禪定二品之仰。右京兆被差遣金窪兵衞尉行親以下御家人等於駿河國。是爲誅戮阿野冠者也。
〇やぶちゃんの書き下し文
十五日壬子。未の尅、二品の御帳臺の内に、烏、飛び入る。申の尅、駿河國の飛脚參じ、申して云はく、
「阿野冠者時元〔法橋全成が子。母は遠江守時政が女。〕去ぬる一日、多勢を引率し、城郭を深山に構ふ。是れ、宣旨を賜はると申し、東國を管領すべきの由、相ひ企つと云云。
十九日丙辰。禪定二品の仰せに依つて、右京兆、金窪兵衞尉行親以下の御家人等を駿河國へ差遣はさる。是れ、阿野冠者を誅戮せんが爲なり。
・「二品」「禪定二品」北条政子。
・「右京兆」北条義時。
・「深山」父阿野全成の遺領駿河国阿野荘。現在の静岡県沼津市今沢から富士市吉原一帯。
次に同二月二十二日と二十三日の条。
〇原文
廿二日己未。發遣勇士到于駿河國安野郡。攻安野次郎。同三郎入道之處。防禦失利。時元幷伴類皆悉敗北也。
廿三日庚申。酉刻駿河國飛脚參着。阿野自殺之由申之。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿二日己未。發遣の勇士、駿河國安野郡に到り、安野次郎・同三郎入道を處を攻むるのところ、防禦、利を失ひ、時元幷びに伴類、皆悉く敗北するなり。
廿三日庚申。酉の刻、駿河國の飛脚、參着す。阿野、自殺するの由、之を申す。
・「安野郡」阿野荘のことを指しているか。「角川日本地名大辞典(旧地名編)」の「安野郡」に(コンマを読点に代えた)、この郡名は『古代律令制以来の郡とは異なり、郷と同義に用いられたものと推定される』とし、以上の「吾妻鏡」の条を挙げて、『郡内の一部支配は阿野氏の手にあったようで』(この場合の郡は現在の沼津市に相当する駿河郡若しくは駿東郡を指すか)、『郡の所在地については、駿河国井出(沼津市井出)付近とする説(駿河志料)、同じく大塚(沼津市原)付近とする説もあるが、井出付近とする説が有力とみられる。安野郡は、本来は駿河郡に含まれるもので、この郡名は私的なものであろう』とある。]
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