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2013/08/31

随分御機嫌よう

明日早朝より、妻のたっての望みで福島へ若冲を見に発つ。

自動予約で「鬼城句集」と「藍色の蟇」及び中島敦の短歌は公開を引き続き公開出来るようにセットはしたが、一先ず――二日ほど「暫」――

因みに現在、ブログの累計アクセス数は山本幡男氏のブレイクで499103アクセスという急速アップだが、取り敢えず記念すべき500000アクセス突破記念として既にちょいとない二本を既に用意してある(今日は丸一日かけてむんむんの冷房なしの書斎に引き籠って死にそうにながらもそれらの作成を終えてある)。

では随分、御機嫌よう。――

それぞれの愛する隣人を御大切に。――

僕がそうするように――

五月雨や蠶わづらふ桑畑 芭蕉 萩原朔太郎 (評釈)

 五月雨や蠶わづらふ桑畑

 暗膽とした空の下で、蠶が病んで居るのである。空氣は梅雨で重たくしめり、地上は一面の桑畑である。この句には或る象徴的な、沈痛な深い意味を持つた暗示がある。「古池や」の句などより、むしろかうした句の方が哲學的で、芭蕉の象徴的な詩境を代表するものだと思ふ。

[やぶちゃん注:『コギト』第四十二号・昭和一〇(一九三五)年十一月号に掲載された「芭蕉私見」の中の評釈の一つ。「暗膽」はママ。昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の巻末に配された「附錄 芭蕉私見」では、

 暗澹とした空の下で、蚕が病んで居るのである。空氣は梅雨で重たくしめり、地上は一面の桑畑である。この句には或る象徴的な、沈痛で暗い宿命的の意味を持つた暗示がある。

初出の末尾の主張をこそ、私は残して貰いたかったと感ずるものである。元禄七(一六九四)年、芭蕉五十一歳の時の句。]

霧・ワルツ・ぎんがみ――秋冷羌笛賦 インドの益良雄(ますらを)の歌 五首 中島敦  

    (以下五首 印度益良雄の歌)
ぬばたまの夜の街角ゆ搖るぎ出づタァバン捲きし印度壯夫(ますらを)
黑き人何か口籠り指さしぬ果物店(みせ)の燈影明るきに
[やぶちゃん注:結句「燈影明るきに」は「ほかげしるきに」と読んでいるか。]
古里(ふるさと)のかぐはし山を憶ひけむ印度益良雄バナナ買ひけり
包裝(かみ)つゝむひまを術(すべ)なみ黑漢子(をのこ)をのこさびすと腕打ちふりつ
[やぶちゃん注:「をのこさびす」「さびす」の「さび」は名詞に附いてそのものらしい態度や状態であることを表わすバ行上二段型動詞を作る接尾語「さぶ」(~らしい様子だ・~らしくなる)の連用形(若しくはその名詞化したもの)にサ変「す」が附いたもので、偉丈夫を誇りかに示すように、の意。]
丈高く黑き漢子(をのこ)はバナナ持ち街のはたてに去(い)ににけるはや
[やぶちゃん注:「はたて」これは「果たて」で果て、限りの意。万葉以来の古語。]

ひとすぢの髮 大手拓次

 ひとすぢの髮

うつくしいひとよ、
あなたから
わたしは けふ 髮の毛をひとすぢもらひました。
それをくるくると小指にまいて、
しばらくは 月の夜をあゆむやうな心持になりました。
あなたの ややさびしみをおびたうるはしさが、
旅人(たびびと)のうへをながれる雲のやうに
わたしのほとりにうかんでゐるのです。

鬼城句集 夏之部 靑葉 / 夏之部 了

靑葉    樟欅御門賴母しき靑葉かな

      靑葉して錠のさびつく御廟かな

      御造營や靑葉が下の杢の頭

[やぶちゃん注:「御造營」は「みつくり」と訓じているか。「杢の頭」の方は「もくのかみ」と読んでいるか。大工の頭の意。前の句とともに日光東照宮の嘱目吟かと私には思われる。]

      靑葉して淺間ヶ嶽のくもりかな


本句を以って「鬼城句集」は「夏之部」を終える。
これを以ってこの熱帯のような暑さもいい加減に終わりになることを祈る。

2013/08/30

栂尾明恵上人伝記 61 明恵、独居隠棲の危うさを説く

 文覺上人の教訓に依りて、上人紀州の庵を捨て、栂尾に住し給ひし始めは、此の山に松柏茂り人跡絶えたり。松風蘿月(しようふうらげつ)物に觸れて心を痛ましめずと云ふことなし。爰に纔(わづか)かなる草庵を結びて、最初には上人と伴の僧と只二人ぞ住み給ひける。竹の筧(かけひ)、柴の垣心細きさまなり。自(おのづか)ら訪ひ來る類(たぐひ)心を留めざるはなし。次の年の春の比より懇切に望む輩あるに依つて四人となれり。其の一人は喜海(きかい)なり。萬事を投げ捨て只行學(ぎやうがく)の營みより外は他事なし。眠りを許すことも夜半一時なり。髮を剃り爪を切る受用も日中一時(ひととき)には過ぎず。此の夜晝は各一時の外は更に他を交へざりき。きびしきこと限りなし。朧げの志にては堪へこらふべきやうもなかりき。此の衆、四皓(しかう)窓を竝べし商山(しやうざん)を摸(も)すべしとぞ、常には上人戯れ給ひし、其の後又此の衆に交らんことを、去り難く望む類ありて、漸く七人になれり。其の時はさらば竹林の七賢が友を結びし跡を學ばんなど仰せられし程に、此の事世に聞えて、道に志ある輩尋ね來て、交らんことを乞ふと雖も、上人更に許し給はず。爰に或は門外の石上に坐して六七日食せず、或は庭前の泥裏(でいり)に立ちて三四日動ぜず、此の如き振舞をして深切なる志を表する人、皆是れ月卿雲客(げつけいうんかく)の親類、世を貪る類にあらざるのみ交(まじ)れり。之に依りて上人力なく許し給ふ程に、三年の中に十八人に及べり。上人よしさらば廬山(ろざん)の遠法師(をんほつし)の會下(ゑか)に准(じゆん)ぜん、此の外は更に許すべからずとぞ禁(いまし)められし。此の僧侶志を勵まし心を一にして、道行の爲に頭を集めたることなれば、何れも愚(おろか)には見えず面々に營みあへるさま、我が身を見るもさすがに、人を見るも哀(あはれ)なり。二度(ふたゝび)正法の世に歸りたるにやと、隨喜の涙よりより袖を濕(ぬら)さずといふことなし。かくて年月を經る程に、又去り難き人重りて、十年の内に五十餘輩になれり。さる間喜海交衆(けうしゆう)の體(てう)もうるさく覺えて、風情(ふぜい)を替(かへ)て又深山幽谷に獨り嘯かんと思ふ心つきぬ。仍て便宜(べんぎ)を伺ひて上人の前に進みて、此の趣を委(くはし)く宣(の)べき。上人目を塞ぎ暫く思案有りてのたまはく、道行(だうぎやう)の宜しく進まれん方を本とすべければ、兎も角もして見給ふべし。但し經論聖教(きやうろんしやうぎやう)の掟(おきて)を能々勘(かんが)へ見るに、修行門に二あり、一には善知諦の下に居して朝夕譴責(けんせき)せられて、忍び難きを忍び堪へ難きを堪へて、其の軌矩(きく)のきびしきにこらへ、其の飢寒(きかん)の甚しきを事とせず、寸時をも空しく度らず道行を以て專らに營む、是れ精進心(しやうじんしん)の人なり。道を成(じやう)ぜん事近きにあり。今囂(かまびす)しきは却て道の障(さはり)となるやうなれども、知れずして道に進む便(たより)あり。二には幽閑の地に獨居して晝夜寂々(せきせき)として心に障る事一つもなく、安々緩々(あんあんかんかん)として身に煩はしきわざ絶えてなし、自然に道行するに便りあるやうに覺えて日月を送る、是れは懈怠心(げたいしん)の人なり。此の障なきを道行と思ひて覺えずして閑(ひま)なるにばかされて懈怠に落つるを知らざる人なり。是れは道を成ずる事有るべからず。之に依りて、契經(かいきやう)の中に、佛、譬を取りて説き給へり。其の意を取りて申さん。譬へば一日の中に行き著くべき所あるに、一人は苦しく足痛けれども杖にすがり、兎角して暫くも止らず。惱みながら其の處へ日の中に行き著けり。一人は餘りに苦しく足の痛きまゝに、こらへずして有る石の上に休めり。心閑かに身安くして歡喜(くわんぎ)極りなし、此の石の上に仰(あふ)のきに臥(ふ)して空を見るに、浮雲(うきぐも)風に隨ひて西に行くこと速かなり。是れをつくづくと守る程に、我が臥したる石東へ行く心地す。其の時思ふやう、大切なり、歩むは甚だ苦しく足の痛きに、此の石船の如くして行くこと速かなりと、大に悦び思へり。風吹き立ちて雲の早き時は此の石はやく走る心地する時、獨りごとに石に云ふやう、目のまはるにあまりはやくな行きそ、靜に行くべし。何となくともかくてはとく行き著くべきぞと云ふ。さて日の暮るゝ程に今は百里計も行きぬらんと思ひて、起きて見れば本(もと)の石の上なり。恠(あやし)く思ひて前を過る旅人に其の行くべき里を問へばいまだ遙なり。其の時安閑(あんかん)として石の上に臥しつることを悔い悲しめども甲斐なし。此の閑なるにばかされて懈怠に墮するを行道と思ひて、一生空しく過(すご)したる人に喩へられたり。僧の山中に在るをまされりと云ふは、塵中(ぢんちう)に交る者に對して暫く説く藥なり。佛の詞・知識の教聞き取り集めて、己に或は琴柱(ことぢ)に膠(にかは)し、或は釼(しつ)去つて久しきことをば知らずして、是を山の奧まで心にひつさげ持ちて、獨りしてとかくあてがひ道を行ぜんは、圓目(ゑんもく)に方鎚(はうつゐ)を入るゝになんぞ異ならん。上々智(じやうじやうち)の人は更に謬(あやまり)あるべからず。さる人は末世にはありがたし。なべて上中下根の輩は、能々思ひ計らふべきことなりと仰せられければ、理(ことわり)至極(しごく)せる間感涙(かんるゐ)を流しき。亦當初(そのかみ)高雄に侍從の阿闍梨公尊(こうそん)とて、閑院(かんゐん)のきれはし有りき。遁世して山を出で、後亦還住(げんぢゆう)して懺悔して申さく此の神護寺の交衆(けうしゆう)の體もむつかしく、行學(ぎやうがく)とて勵むも皆名聞利養免れず。此の如きにては受け難き人身を受け、値ひ難き佛法にあへる驗(しるし)更になし。空しく三途(さんづ)に沈まんこと疑ひあるべからず。如(し)かず此の山を出でゝ山中に閉ぢ籠り心靜に後生菩提(ごしやうぼだい)を祈り道行(だうぎやう)を勵まんと思ひて、小原の奧に興ある山の洞求め出して、庵を結びて栖む程に、寂莫(じやくまく)として心の澄む事限りなし。背かざりける古も今は悔しく覺えて、十二時中空しく廢(すた)る時なく、更に淨界に生れたる心地して、勇猛精進(ゆうみやうしやうじん)に成(なり)歸て、半年計り送る程に、只(ただ)獨(ひとり)閑(ひま)なるまゝに、こしかた行末の何となきことどもさまざま思ひ出でられて、或時期せず婬事(いんじ)起れり。公尊少(をさな)くより住山せしかば一生不犯(ふぼん)にてありし故、女根ゆかしく覺えていしき障となりぬ。とかくまぎらかし退治せんとすれども、やみがたかりし程に、中々かやうにては道の障と成りなん、さらば志をもとげて妄念をも拂はゞやと思ひて、俄(にはか)にあらぬ樣に姿をなして、亡者(まうじや)訪(とぶら)へとて人の布施にしたりし物を、物のなきまゝに、さりとて纏頭(てんとう)とかやに取らせんと思ひて懷に入れて、色好みのある所を尋ねんとて京の方へ行く程に、夏の事にていと暑きに、京近く成り胸腹(むねはら)痛くなりて、霍亂(くわくらん)と云ふ病をし出して、苦痛すること限りなし。路の邊に小家(こや)のありけるに立ち寄りて、とかくして其の夜は留りぬ。又次の日も猶なほりやらでわびしかりし程に、京に行くこと叶はずして這々(はうはう)小原へ歸りて、樣々養生してなほりぬ。亦暫くは其の餘氣(よけ)ありてわびしかりし程に、紛ぎれ過しぬ。或時亦本意を遂げんと思ひて、先の如く行く程にいかゞしたりけん、路にてとぐいを足に深くけ立てゝ、血夥しく流れ出づ、痛きこと忍び難し。一足も歩むに及ばず。畔(ほとり)の人來りて見てあはれみて馬に乘せて庵に送りぬ。又兎角癒えて後、又こりぬまゝに行く程に、今度は相違なく京に行き著きぬ。色好みのある處に尋ね行きて、かゝぐり行く程に、心中には忍べども、さすが風情(ふぜい)のしるくこそありけめ、年來(としごろ)しりたる俗人のそこを通るに目を見合せぬ。あさましきこと限りなし。露ならば消え入るばかり思へども、すべき方なくて立ちたるに、此の男の云はくいかゞしてこゝには立ち給ふぞと云ひて、よに怪氣(あやしげ)なる體なり。彌〻うくて何の物狂はしさにかゝる所に來て、憂目(うきめ)を見るらんと、疎(うと)ましく覺えて、兎角延(の)べ紛らかしてにげ歸りぬ。さる程に終(つひ)に本意を遂ぐるに及ばず。其より後はふつとこりはてて思ひ留りぬ。かくて過ぎ行く程に秋深く成りて不食(ふじき)の病起りて、萬の食物嫌はしくて日數ふるまゝに、身も衰へ力も弱りて道行も叶はず、只惱み居たる計(ばかり)にて明(あか)し暮す程に、かくては閑居の甲斐もなし。身を資(たす)けてこそ道行をも營まめと思ひて、伴に置きたる小法師(こはふし)をば京へ使にやりて、其の隙に、此の山の奧より山人鳥を取りて京へ賣りに罷るが、此の庵の前近き路をとほるを、忍びて買ひ取りて、是を調へて時をも食ひて見んとて、世事所(せじどころ)に置きて小用しに出でたる跡に、放(はな)れ猫(ねこ)來りて皆食ひ散らしたり。是れを見付て、嫉(にく)さともなく惜しさともなく、そばなる木のふしを以て抛(な)げ打ちにする程に、あやまたず猫の頭を打ちかきて兩眼を打ちつぶせり。鳴き苦痛して、血夥しくたりて、緣の下へ逃げ入りてさけび鳴く。かくまでせんとは思はず、只おどし計りにこそとしつるに、かわゆさあさましさ云ふ計りなし。山籠りして菩提を成ぜんとこそ思ひ立ちしに、あらぬさまなる振舞どもしけること淺間しく覺えて悲涙(ひるゐ)押へ難し。大方此の事ども只一筋に放逸に引きなされたり。心安きまゝに朝に物くさき時は日たくるまで起きあがらず、夜は、火なども燃すことなければ、暗きまゝに霄よりさながら眠りあかし、すぐに居ることも希に、いつとなく物によりかゝり足をのべ、寒き夜は小便などをさへねや近くして、芝手水ばかり心やりてうちし、何事も恣に振舞てのみぞ過ぐしける。かくてはあさましきことぞかしと心を誡めながら、ともすればかゝる式になりき。さすが人中(ひとなか)にあらば自然にかかることどもはあるまじきにと、中々閑居は無益(むやく)なりけりと思ひて、神護寺に立ち歸りて見るに、公尊此の山を遁れ出でし時は、未だ童形(どうぎやう)にて、華嚴の五教章(ごきやうしやう)などをも、我等にこそ文字讀(もんじよ)みをもし、義をも問ひし者、今は小僧にて來りていかになんど云ふ。此程の御山籠(みやまごもり)の體をも參て見まゐらせたく候ひつれども、學文に寸暇を惜しむやうに候ひし程に、存じながら罷(まかり)過ぎ候ひき。山中の御修行、御修行うらやましく候とて、法文を問ひかけて、法理に於て不審をなす。兎角云ひのべんとすれども、はたとつまりてせん方なし。其の時此の小僧云ふやう、山中にて、此の兩三年、佛法の深理をも見披(みひら)き給ひぬらんと、いぶかしく存じ候ひつるに、是程の事だになどや分明ならずと戯れ云ふ。げにもと恥かしくて、我も彼に放れて三年にこそなるに、彼は三年善知識にそひ耳をうたせたり。我は三年靜に道行すると思ひたりつるは徒事(いたづらごと)なり。是を以て是を比(くら)ぶるに、我も中々此の三年、此の寺にて道行を勵みたらば、いかばかり増(まさ)るべかりしものをと、今更こし方悔しく覺えしと云々。其の小僧は當初、明惠上人神護寺に住み給ひし比、若(わかき)學匠(がくしやう)の中に群に拔けて、聖教の義理を宣べ給ふに肩を竝ぶる人なかりし、そこにかよひて付そひ奉り、華嚴を學し談義に耳をうたせけり。此の懺悔せし事思ひ出されて、彼と云ひ此と云ひ旁(かたがた)益(えき)なかるべしと思ひて、喜海が閑居も思ひ留りにき。此の山中に淸衆一味和合して、互に道を勸め菩提を助けん事を先としき。然るに近比(このごろ)衆多くして、或は疑はしきを見て實と云ひ、或るは慈悲を忘れて、人の失(しつ)を顯(あら)はす類ままありき。上人にあひ奉りて彼の房かゝる不善の聞えあり、衆を出さるべきかなど語り申す人あれば、上人答へて言はく、何となけれども淸衆の中に居して不善なる者は、諸天照覽し給へば、おのれと顯れ、おのれと退く習ひなり。然るを汝我に語りて彼を損ぜんは、僧として無慈悲の至りなり。佛は實にあることを自ら見るとも、僧の失を顯すべからずと禁(いまし)め給へり。是れ大いに深き方便なり。淺智(せんち)の能くしる所にあらず。佛弟子の過を説くは、百億の佛身より血を出すにも過ぎたりと説けり。又一には和合僧の中を云ひたがふるは、五逆罪の中の其の一なり。四重を犯(ぼん)ずるにまされり。汝既に此の二の罪を犯せり、五逆罪の人に片時(かたとき)も同住せんこと恐れありとて、先づ訴へける僧をば是非に付て即ち追放せらる。此の不善の聞えある僧をば能々たゞして、所犯(しよぼん)まぬかれねば同じく追出さる。若し又指したる證據なきをば、俗人すら罪の疑はしきをば行はぎるは仁なりとて免じ給ひけり。然れば三寶の加護も甚しかりけるにや、實に不善なる者は自ら退きしかば、山中の淸衆けがるゝこと更になかりきと云云。

[やぶちゃん注:「文覺上人の教訓に依りて、上人紀州の庵を捨て、栂尾に住し給ひし始め」建久九(一一九八)年、明恵二十六歳。

「受用」ここは「自受用身」のことか。本来は悟りによって得た法を自ら楽しむことをいうが、ここは文脈から私的な時間の謂いである。

「四皓窓を竝べし商山」商山四皓。四皓とは中国秦末から漢初にかけて乱世を避けて現在の陝西省商山に隠れた東園公・綺里季(きりき)・夏黄公・甪里(ろくり)先生の四人の隠士を指す。みな鬚眉(しゅび)が皓白(こうはく:真っ白。)な老人であったことに由来する。しばしば水墨画の人物画主題とされ、中国の影響を受けた本邦では後の室町から江戸にかけて多くの作品が制作されている。

「廬山の遠法師」廬山の慧遠と称された東晋の頃、廬山に住んだ高僧慧遠(えおん 三三四年~四一六年)。中国仏教界の中心的人物の一人。念仏結社白蓮社の祖と仰がれるが、慧遠の念仏行は後世の浄土三部経に基づく専修念仏とは異なり、「般舟三昧経」に基づいた禅観の修法であった。当時、廬山を含む長江中流域の覇者であった桓玄に対し、「沙門不敬王者論」によって仏法は王法に従属しないことを正面きって説いたり、戒律を記した「十誦律」の翻訳や普及に尽力した持戒堅固な僧で、まさに明恵好みの人物である(ウィキの「慧遠(東晋)に拠る)。

「會下」「ゑげ」とも読み、師僧のもとで修行する所、また、そのための集まり。

「交衆」現代音は「きょうしゅう」。皆と同座して附き合うこと、また、そうした僧衆。

「琴柱に膠し、或は釼去つて久しきことをば知らず」「琴柱に膠す」とは琴柱を膠付けにすると調子を変えることが出来なくなるところから、変に物事に拘って融通が利かないことの譬え。膠柱(こうちゅう)。「史記」の「藺相如(りんしょうじょ)伝」に基づく故事。「釼去つて久し」は「剣去つて久し」で、平泉洸氏の注に『頑固に旧法を守って変化することを知らないこと』をいうとあり、『剣を船から落した人が、船ばたを刻んでしるしをつけ、後で船が岸についてから、この刻み目から水に入って剣を求めようとした』「呂氏(りょし)春秋」の『「察今篇に見える』故事とある。

「圓目に方鎚を入るゝ」丸い穴に対して四角い槌を打ち込もうとする(ような無理な行為をする)。

「侍從の阿闍梨公尊」不詳。以下の閑院流の系譜には見出し得ない。

「閑院のきれはし」岩波文庫注に、『藤原氏北家閑院流の末裔。閑院流は九条右大臣師輔の十男閑院太政大臣公季の子孫。公季流とも。英雄清華の家が多い名流とされる』とある。藤原公季(きんすえ 天暦一〇(九五六)年~長元二(一〇二九)年)は藤原道長の叔父。

「小原」「おはら」は多くの遁世者が隠棲した洛北の大原のこと。

「女根」「じよこん」は女性性器。

「色好み」遊び女(め)。

「霍亂」日射病、熱中症の類い。

「とぐい」「とぐひ」が正しい。「利杙・鋭杭」で先の尖った杭(くい)や切り株。

「かゝぐり行く」辿り歩く。縋るように歩く。

「色好みのある處」色里、遊廓の類い。

「芝手水」「しばてうず(しばちょうず)」と読む。柴手水。神仏を拝む際や、山野で排泄の後に手水を使う時、水の代わりに草や木の葉を用いること。ここは手を清めることもないがしろにし、の意。

「いぶかしく存じ候ひつるに」この「いぶかし」は不明で気がかりだという意味から、「いぶかしがる」の意、知りたいと思うのニュアンスで使っている。とても知りたくて心が惹かれて御座いますのに。

「其の小僧は當初、明惠上人神護寺に住み給ひし比、若學匠の中に群に拔けて、聖教の義理を宣べ給ふに肩を竝ぶる人なかりし、そこにかよひて付そひ奉り、華嚴を學し談義に耳をうたせけり」ここでその公尊が恥じ入ったかつての稚児、この前の場面ではやや成長した少年僧こそが、後に明恵が初めて神護寺で修行をした際、唯一、明恵よりも優れていて、華厳や法話を受けた老名僧であったことが明らかになるという仕掛けである。

「五逆罪」仏教で五種の最も重い罪。一般には、父を殺すこと・母を殺すこと・阿羅漢を殺すこと・僧の和合をうち破ること・仏身を傷つけることをいう。一つでも犯せば無間地獄に落ちると説かれる。五無間業。五逆。

「四重」「四重禁」「四重罪」の略。仏教の四種の重罪。殺生・偸盗・邪淫・妄語。]

耳嚢 巻之七 假初にも異風の形致間敷事

 假初にも異風の形致間敷事

 予隣へ來る廣瀨何某といへる醫師、上方の産也。壯年年比(としごろ)御當地へ來り、未(いまだ)療治も流行なさず。然れ共町家の療治抔は專らなしける。或夜四つ時過比(すぎごろ)、日々立入(たちいる)駕(かご)の者妻産氣付(さんけづき)候て不生間(うまれざるのあひだ)、來り見呉(くれ)候樣達(たつ)て相(あひ)歎き、棒組も來りて一同相賴(あひたのむ)に付、夜も早(はや)更(ふけ)ぬれば兩人駕を舁(かか)せ、其身着替も六ケ敷(むつかしく)、寒き比なれば小夜着(こよぎ)を着たる上へ帶を〆(しめ)、用心に枕元に置(おき)し長脇ざしを帶し、龜嶋町邊其所迄至りしに、右駕のものの宿より何歟(か)不知(しらず)、早く歸り給へと言捨歸(いひすてかへり)れば、右駕の者一寸參りて樣子見候迚、少しの内爰にまたせ給へと、棒組を連(つれ)一(いつ)さむに走り行(ゆき)し。少しの内なれば駕は往來に捨置(すておき)ぬ。折節兩組町廻り同心衆、往來に駕を捨有(すてあり)し故怪敷(あやしく)思ひ、内に人や有(ある)と尋(たづね)しに有(あり)と答ふ。然らば出よといふ。無據(よんどころなく)駕を出しに詰らぬ形(なり)也。彌(いよいよ)怪敷思ひて立寄(たちより)見るに、大男にて中々手に可及(およぶべき)躰(てい)に見えで□□□□駕を出しに、彼(かの)大男御身は廣瀨にあらずやと尋しに、能々見れば兼て知れる庄五郎と言る同心也。始(はじめ)て安堵して、しかじかのよし語りしと也。駕の者立歸り出産有(あり)、外に人手なし。棒組を賴(たのみ)湯をわかし、又は腰抱(だき)てさわぎて、廣瀨を向ふる心もつかざる由也。

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。
・「假初にも異風の形致間敷事」は「假初(かりそめ)にも異風(いふう)の形(なり)、致(いた)すまじき事(こと)」と読む。
・「予隣」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『予が許(もと)』とある。
・「夜四つ時過比」午後十時過ぎ。
・「小夜着」小形の夜着。袖や襟の附いた綿入れの掛け布団の小さいもの。小さいとはいえ、冬場の夜着にこれを強引に着たわけで、もっこもこになっていたはずである。だから後文で暗い往来で見た同心が「大男にて中々手に可及躰に見え」たのではなかったか? 本文は、実は大男であったのは同心であって、それに恐れ入って広瀬が駕籠を出るというシチュエーションであるが、これではつまらぬ。ここは掟破り乍ら、恣意的に翻案改変した。悪しからず、根岸殿!
・「龜嶋町」中央区日本橋亀島町一丁目及び二丁目。
・「一さむ」底本では右に『(一散)』と注する。
・「兩組町廻り同心衆」これはおかしい。南町と北町の「兩組」の同心が見回りをすることはない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『南組町廻り同心』で、これは納得。「南町」で採る。
・「□□□□」底本は後半の「□□」は踊り字「〱」。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『こわごわ』(後半は当該書では踊り字「〲」)とある。これで採る。
・「向ふる心」底本では「向」の右に『(迎)』と訂正注がある。

■やぶちゃん現代語訳

 仮初(かりそめ)にも異風の風体(ふうてい)は致すまじき事

 予の隣家に出入り致いて御座る広瀬某(なにがし)と申す医師が御座るが、彼は上方の生まれである。
 かなり壮年になってから江戸表へ来たったこともあり、未だ療治もそれ程には流行っては御座らぬ。然れども、町家の療治などは、常々誠意を以って熱心にこなして御座る由。
 さて、ある夜、四つ時過ぎ頃のことで御座った。
遠方の往診などの際に普段から使(つこ)うて御座った駕籠舁(か)きの者が駆け込んで参り、
「先生(せんせえ)! 嬶(かかあ)が急に産気づきやしたが、いっこう、ひり出る様子も、これ、ねえ。そんでもって、まあ、いひどく苦しんでおりやす! どうか一つ、来て診(み)ておくんなせえやし! たってのお願(ねげ)えだ!」
と泣きを入れ、駕籠ごと一緒について御座った相棒と一緒になってしきりに頼み込んで御座った。
 されば、夜もはや更けて御座ったに加え、二人が殊の外急かしたよって、その両人に駕を舁(か)かせ、その身は――最早、着替えする余裕も御座らねば――寒き頃のことなれば、被って御座った床の小夜着(こよぎ)をそのまま着た上へ帯を締め、夜陰なればとて、用心に枕元に置いて御座った長脇差しを挿して出かけたと申す。
 亀島町辺りまで至ったところ、前方から誰かが泡を吹いて駆けて参った様子。
 それがまさに当の駕籠舁きの者のところから参った者で御座ったが、これがまた慌てふためいて、
「と、ともかくヨ! は、早く帰ってくんない!」
と言い捨ててまた、韋駄天の如く、戻って行ってしもうた。……
 駕籠舁きの男は、
「……か、嬶に何ぞ、あったもんか?……せ、先生(せんせえ)、ち、一寸くら、先に参って……様子を見てめえりやすんで!……と、ともかくも! ええですかい! ここで! 少しのうち、ここで! お待ち下せえやしよッ!」
とこれまた、慌てふためくや、相棒の腕を引っ摑んで、鉄砲玉のように一散に走って行ってしまう。……
 ……少しのうちなればとて、駕籠は往来のど真ん中に捨て置かれた風情。
 さ……ても、そこに折柄、南組町廻りの同心衆が巡邏に参った。
 見れば往来の真ん中に駕籠を乗り捨ててある。
 如何にも、と訝しんで、
「……内に人や在る?」
と訊ねたところが、
「……在る――」
と答える。
「然らば出ませッ!」
と命ずる。
 広瀬はよんどころなく、駕籠をめくったが、先(せん)に申したようなとんでもない形(なり)なれば、すぐには身動きもとれぬ。
 同心は暗闇の駕籠内に充満するようなその奇体な影を、いよいよ怪しい奴と思い定め、さらに近寄って見たところが……
……何かゆっくらと駕籠より這い出る
……その姿は
……これ
――異様なまでに図体の膨らんだ大男……
『……こ、こ奴……なまなかなことでは手におえそうな輩ではないぞ!……』
と、同心は
――カチャ!
と鯉口を切った!
……と
……連れの配下の者に灯を差し向けられた瞬間、同心が、
「……おや? 御身は……広瀬殿では御座らぬか?!」
 よくよく見れば、これ、かねてより懇意の庄五郎と申す同心で御座った。
 広瀬はといえば、ここで初めて安堵致いて、しかじかの由を語って御座ったと申す。……
 ……さても……流石に同心のことなれば、庄五郎は自分の方こそ広瀬を奇体な大男と内心びびって御座ったことは……まあ……これ、言わなんだは申すまでも御座るまい。……
 ……さてもまた……先の駕籠屋の者はといえば、こちらはこちらで、実はたち帰ってみたところが、女房は既に半ば子をひり出して御座ったによって、外にろくな人手もなければこそ、引き連れ帰った相棒を頼みと致いて、湯(ゆう)なんど沸かさせるやら、また、己れは女房の腰なんどを後ろより抱だいて力ませるやら……広瀬を迎えに行かねばならぬということさえ最早、頭からぶっ飛んで御座ったと申す。……

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 21 先哲の詩(4)

  游江島   源定賢
乘遊臨碧岸。
探勝蹈靑巒。
碣石長天盡。
扶桑旭日寒。
三峰雲裊々。
六國海漫々。
霧霽驪龍窟。
風淸玉女壇。
遠帆分赤壁。
孤島浸波瀾。
縱目神鼈背。
蓬萊指掌看。
[やぶちゃん注:阿哈馬江氏のサイトの「親王・諸王略傳」に寛政九年(一七九七)九月十一日に伊勢神宮に使王として奉幣したとある「從五位下行兵庫助源朝臣定賢川越」川越兵庫助なる人物と同じか。識者の御教授を乞う。国立国会図書館の近代デジタルライブラリーの「相模國風土記」の「藝文部」で漢字を二箇所、訂した。

  江島に游ぶ   源定賢
遊に乘じ 碧岸に臨み
探勝して 靑巒を蹈む
碣石(けつせき) 長天を盡き
扶桑 旭日 寒し
三峰 雲 裊々(でうでう)
六國(ろくこく) 海 漫々
霧 霽(は)る 驪(くろ)き龍窟
風 淸し 玉女の壇
遠帆 赤壁を分かち
孤島 波瀾に浸(ひた)る
目を縱(ほしいまま)にす 神鼈の背
蓬萊 指掌して看(み)す

「碣石」円柱状の石碑。
「裊々」は現代音「ジョウジョウ」で、しなやかに纏いつくさま、そよ風や煙などのなよなよとした樣。「嫋嫋」と同義。]

明恵上人夢記 22

22
同十八日の朝、二條に詣りて此の事を受け取る。同十九日、山に登る。
一、其の夜、夢に云はく、海中に二本の口の如くなる木をたてて、二枝並べたり。其(それ)に次ぎて、又、なはえて二張りの口の如くなる木を立て副へたり。將に船に乘らむとする時、呂を以て橋と爲(す)るが如しと云々。此の階(はし)よりつたひ登りて頂に到る。此の豎(たて)に立てたる呂の頭に木を打てり。心に思はく、右の方には二つあり。夏(か)の桀王(けちわう)也。左の方に一つあり。殷(いん)の紂王(ちうわう)也。即ち口に唱へて言はく、「夏の桀王、殷の王」と云ひて、左の方の一つを拔き取り、右手を拳(にぎ)り、逼(せ)めて掌中に拳り、下りて將に彼の岸に還らむとす。以ての外の大事なるべし。禪道を呼びて海より來らしむ。岸に到らむと欲するに、橋高ければ、禪道之肩及ぶべからずと思ふ。即ち、杖を以て海に立てて、起つに任せてすべるに、立ち乍らよくすべりて安穩に岸に到れりと云々。圓俊禪師(ゑんしゆんぜんじ)、岸に立ちて行事しけると云々。

[やぶちゃん注:前注の通り、この文は実は改行せず、前の「21」に引き続いて書かれており、また、次の「23」もやはり引き続き書かれてある。
「同十八日」元久二(一二〇五)年十月十八日。この前書きの事実記載は、やはり前の「19」から「21」の夢の前に記された丹波殿関連の事実記事と関連すると思われるが、依然としてその内容は不明である。
「二條殿」不詳。底本注にも、『誰の家か未詳』とあり、但し、この「二条殿」と称する家(若しくは当主)『と明恵との関係は深かったらしく、『夢記』には二条の御房と呼ばれる人も登場する』とある。前の記載との連関性からは受け取った「此の事」というのは、辞退しようとした修法絡みのことであるとしか読めない。すると、実は辞退しようとしていたが、結局、それを不本意にも請けてしまったことを指すのではあるまいか? それがこの夢を解く鍵のように思われてならないのだが……。誤訳の可能性を覚悟でそう訳してみた。
「口の如くなる」底本注に、原本は「□」で、『文字でなく、物の形を表したものか。下文の「呂」も原本には』「呂」の四画目を除去した横長の「□」(上がやや小さい)を上下に並べたようになっているとあり、『これも同様か』とする。「たてて」及び「立て副へ」とあるから所謂、立方体とは思われない。木の幹が丸くなく、極めて四角い木と採った。
「夏の桀王」「酒池肉林」や「裂帛の響き」で知られた妖妃妺嬉(ばっき)に溺れて夏を滅ぼすに至った暴君。
「殷の紂王」同じく愛妾妲己(だっき)に溺れ、殷を滅亡させた暴君帝辛(しん)。
「禪道」不詳。弟子の禅浄房 (禅上房)か。ともかくも弟子と採って訳してみた。
「圓俊禪師」不詳。「禪師」は中国・日本に於いて高徳な僧侶に対する尊称であって、禅僧に限った諡号ではない。]

■やぶちゃん現代語訳

22
 同十八日の朝、二条殿の元に参って、例の修法に関わる依頼を結局請けがってしまった。同十九日に山に帰った。
 一、その夜見た夢。
「海中に二本の四角形をした奇妙な木を立てて、二本並べてある。
 その二本にまた、繩を以って繋いで、さらに二本の同じく四角形をした木を立て副えてある。
 私はちょうど、船に乗ろうとしているのであったが、その船に乗るため、その四角い木が左右に――□□――□□――といった形になっているのを以って、「橋」となして乗船しようとしているように見えた……。
 この――左右の――□□――□□――を踏みしめて、船の方へと伝って登って行って、その一番高くなった――□□――□□――の頂きに至った。
 この、私が至った、その縦に立ててある――□□――の頭の部分には、別な奇妙な木片が打ちつけてあった。
 心中に思うに、
『……この――□□――の右足の足元にある打ちつけられた奇体な木片は二本である……。これは確かに……かの暴君夏の桀(けつ)王の象徴である。……左足の足元の打ちつけられた奇体なそれは一本である。……これは確かに……殷の紂(ちゅう)王のそれである。……』
と何故か確信したのである。
 されば、即座に口に唱えて
「夏の桀王!――殷の王!」
と言上げするや、左の方の一本を抜き取り、右手に握って――強く強く掌中に握り絞めて――そうして私は登ってきた背後の――□□――を下ってすぐに元の岸へと還ろうとした。
 ところがそれは、思いの外、困難なことなのであった。
 そこで弟子の禅道を呼んだ。――どうやって来たのかは判然としないが――確かに私は彼を海の方から来させたのであった。
 しかしその時、私は心中、
『……私は岸に戻ろうとしている。……しかしこの――□□――の橋は高い。……こんなに高くては、あんな低い位置におる禅道には、私の肩に手が届かぬ。私を支えて無事岸へ帰還させることなどは、とても出来そうにはない……』
と思ったのであった。
 そこで私は直ぐに、携えていた杖を以って、ずんと海に突き立てて、杖がしっかりと突き立ったのに力を得て、そのまま岸に向かって、
――えい! ヤッ!
と滑るように飛んだ。
 立ったままながら、まっこと、滑らかに空(くう)を滑り渡って、無事、岸へと至ったのであった。……
 ……見ると……かの円俊禅師が、その岸に立って、私の方へ向かって修法を成しているのであった。……

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 4 初めての一時間の汽車の旅

 

 はじめて東京――東の首府という意味である――に行った時、我々は横浜を、例の魅力に富んだ人力車で横断した。東京は人口百万に近い都市である。古い名まえを江戸といったので、以前からそこにいる外国人たちはいまだに江戸と呼んでいる。我々を東京へ運んでいった列車は、一等二等三等から成りたっていたが、我々は二等が十分清潔で且つ楽であることを発見した。車は英国の車と米国の車と米国の鉄道馬車との三つを一緒にしたものである。連結機と車台とバンター・ビームは英国風、車室の両端にある昇降台と扉とは米国風、そして座席が車と直角についているところは米国の鉄道馬車みたいなのである。我々は非常な興味を以てあたりの景色を眺めた。鉄路の両側に何マイルも何マイルもひろがるイネの田は、今や(六月)水に被われていて、そこに働く人たちは膝のあたり迄泥に入っている。淡緑色の新しい稲は、濃い色の木立に生々した対照をなしている。百姓家は恐ろしく大きな草葺(ぶ)きの屋根を持っていて、その脊梁には鳶尾(とんび)に似た植物が生えている。時々我々はお寺か社を見た。いずれもあたりに木をめぐらした、気持のいい、絵のような場所に建ててある。これ等すべての景色は物珍しく、かつ心を奪うようなので、一七マイルの汽車の旅が、一瞬間に終わって了った。

[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、この上京は上陸の翌日である六月十九日の朝食後のことで、横浜駅(当時は現在のJR東日本の桜木町駅附近にあった)から汽車に乗った。当時の終点新橋まえ凡そ一時間、中東の料金は六十銭であった。そして驚くべきことに、ここには一切記されていないが、この時、『その汽車が、前年開業したばかりの大森駅を出てすぐ、線路脇の切通しに白い貝殻が露出しているのに彼は目ざとく気付き、一目で貝塚と見抜』き、『こうして大森貝塚は』モース来日二日目にして早くも『発見された』のであった!(引用は磯野先生の前掲書)

 

「バンター・ビーム」原文は確かに“bunter-beam”であるが、これは“bumper beam”(汽車の前部にある排障器・緩衝器)、即ち、「バンパー・ビーム」のことではあるまいか? 調べてみると、鉄道車両の緩衝器を米語では“buffer”とも言うから、この原文の“bunter”は“bumper”の、若しくは“buffer”の誤植のように私には思われるのだが、如何?

 

「鳶尾(とんび)に似た植物」原文は“plants with leaves like the iris”。石川氏の「鳶尾」は鳥のトンビではなく、「鳶尾草(とびおくさ)」、単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属イチハツ Iris tectorum  のことである。「鳶尾(草)」というのは花柱の一部がトンビの尾のように見えることに由来する異名である。則ちこれは所謂、「屋根菖蒲」のことを指しているのである。“iris”はアヤメ科アヤメ属の単子葉植物の総称でアヤメ・ハナショウブ・カキツバタ・イチハツなど、総てを含む語であるから、寧ろここは屋根菖蒲を見たことがまずない現代の若者の誤読を生まぬためには、「アイリス」若しくは「アヤメかショウブ」に似た、と今やせざるを得ないような気がしている。電子化ベースの素材とした網迫氏の元データでは「イチハツ」とあって、後に石川氏がここを「イチハツ」と改稿したことが窺われるが、これも多くの植物名の苦手な若者には――彼らにはアヤメ(花弁を覗いて文目模様がある)・ハナショウブ(文目がなく葉に硬い中肋がある)・カキツバタ(文目がなく葉に中肋がなく平滑である)の区別も困難である――それも十分ではないからである。但し、石川氏がイチハツを選んだことは故なしとはしない。何故なら、イチハツの種小名“tectorum”とは「屋根の」という意で、まさに昔、屋根に植えて大風から家屋を防ぐ「屋根菖蒲」としての呪術的意味をちゃんと持っているからである。なお、これについては先行電子化を行った第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所てい。私はそこで大好きな小泉八雲の一節を引用しており、ここにどうしても再掲しておきたい。重複する部分もあるが許されたい〔以下、私の旧注の引用〕。

 

 イチハツ(一初)は中国原産の多年草帰化植物で、古く室町時代に渡来して観賞用として栽培されてきた。昔はここに記されたように農家の茅葺屋根の棟の上に植える風習があったが、最近は滅多に見られない(私は三十五年前、鎌倉十二所の光触寺への道沿いにあった藁葺屋根の古民家の棟に開花しているのを見たのが最後であった)。種小名“tectorum”は、「屋根の」の意で、和名はアヤメの類で一番先に咲くことに由来する(主にウィキの「イチハツ」に拠った)。私はここを読むと、この二十三年後に来日した小泉八雲の「日本瞥見記」(HEARN, LafcadioGlimpses of unfamiliar Japan2vols. Boston and New York, 1894.)の、まさに「第四章 江の島行脚」が思い出されてならないのである。平井呈一先生の名訳でその冒頭を紹介したい(底本は恒文社一九七五刊の「日本瞥見記(上)」を用いた)。

 

   《引用開始》

 

 第四章 江の島行脚

 

        一

 

 鎌倉。

 木の茂った低い丘つづき。その丘と丘のあいだに、ちらほら散在している長い村落。その下を、ひとすじの堀川が流れている。陰気くさい寝ぼけた色をした百姓家。板壁と障子、その上にある勾配(こうばい)の急なカヤぶき屋根。屋根の勾配には、何かの草とみえて、緑いろの斑(ふ)がいちめんについている。てっぺんの棟のところには、ヤネショウブが青々と繁って、きれいな紫いろの花を咲かせている。暖かい空気のなかには、酒のにおい、ワカメのお汁(つけ)のにおい、お国自慢の太いダイコンのにおいなど、日本の国のにおいがまじっている。そして、そのにおいのなかに、ひときわかんばしい、濃い香のにおいがただよっている。――たぶん、どこかの寺の堂からでもにおってくる抹香のにおいだろう。

 アキラは、きょうの行脚のために、人力車を二台やとってきた。一点の雲もない青空が、大きな弧を描いて下界をかぎっており、大地は、さんさんたる楽しい日の光りに照らされている。それでいながら、われわれが、屋根草のはえた貧しい農家のあいだを流れている小川の土手にそうて、俥を走らせて行く道々、何とも名状しがたい荒涼とした悲愁の思いが、胸に重くのしかかってくるのは、この荒れはてた村落が、かつては将軍頼朝の大きな都どころ――貢物(みつぎもの)を強要にきた忽必烈(クビライ)の使者が、無礼をかどに斬首された、あの封建勢力の覇府の名ごりをとどめいるところだからである。今ではわずかに、当時の都にあまたあった寺院のうち、おそらくは高い場所にあったためか、あるいは境内が広く、深く木立でもあって、炎上する街衢(がいく)から離ていたためかで、十五、六世紀の兵燹(へいせん)を免れて現存しているものが、ほんのいくらかあるに過ぎないというありさまである。荒れほうだいに荒れはて、参詣者もなければ、収入とてもないこの土地の、そうした寺院の深い静寂のなかに、そのかみの都の潮騒(しおさい)のごとき騒音とは似てもつかぬ、いたずらに寂しい蛙の声のみかまびすしい田圃にかこまれがら、古い仏たちが、今もなお依然として住んでいるのである。

 

   《引用終了》

 

学者モースの視線が、詩人八雲の潤いに満ちた瞳で、鮮やかにリメイクされている(ように見える)のが素晴らしいではないか。〔ここまで私の旧注の引用〕

 

「十七マイル」約27・4キロメートル。因みに現在のJR東日本桜木町―新橋間の営業距離は28・9キロメートル。]

髮はえて容顏蒼し五月雨 芭蕉 萩原朔太郎 (評釈)

 髮はえて容顏蒼し五月(さつき)雨

 植込の深い庭奥、梅雨時の曇暗な一間の中で、獨り閉ぢこめて居る詩人の顏が、いかにも蒼然と浮き出して居る。

[やぶちゃん注:『コギト』第四十二号・昭和一〇(一九三五)年十一月号に掲載された「芭蕉私見」の中の評釈の一つ。昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の巻末に配された「附錄 芭蕉私見」には載らない。この句は貞亨四(一六八七)年、芭蕉数え四十四の時の作。]

霧・ワルツ・ぎんがみ――秋冷羌笛賦 猶太人夫婦相合傘の歌 三首 中島敦

    (以下三首 相合傘の歌)

猶太(ユダヤ)びと太れる妻と敷島の大和の傘を借りてさすかも

番傘の相合傘は年老いし猶太(ゆだや)の夫婦(めをと)ルパシカ濡るゝ

[やぶちゃん注:「ルパシカ」(Рубашка)は元来はウクライナの農民の民族衣装。ゆったりしたブラウス風の上衣で腰をひもで締めて着る。立ち襟で左寄りに前開(あ)きがあり、襟や袖口などをロシア風刺繡で飾る。ナチス・ドイツのユダヤ人迫害は知られるが、ロシア・ソヴィエトでもポグロムと称する古くからのユダヤ人迫害の歴史があった。この夫婦もかの地から逃避行をして来た者達ででもあったか。]

豚に似る妻と番傘さしたれど身は濡れにつゝあはれシャイロック

黄色い接吻 大手拓次

 黄色い接吻

もう わすれてしまつた
葉かげのしげりにひそんでゐる
なめらかなかげをのぞかう。
なんといふことなしに
あたりのものが うねうねとした宵(よひ)でした。
をんなは しろいいきもののやうにむづむづしてゐました。
わたしのくちびるが
魚(うを)のやうに をんなのくちのうへにねばつてゐました。
はを はを はを はを はを
それは   それは
あかるく きいろい接吻でありました。

[やぶちゃん注:創元文庫版は本詩形と同じであるが、思潮社版及び岩波文庫版では以下のように載る。

 黄色い接吻

もう わすれてしまつた
葉かげのしげりにひそんでゐる
なめらかなかげをのぞかう。
なんといふことなしに
あたりのものが うねうねとした宵(よひ)でした。
をんなは しろいいきもののやうに むづむづしてゐました。
わたしのくちびるが
魚(うを)のやうに をんなのくちのうへにねばつてゐました。
はを はを はを はを はを
それは   それは
あかるく きいろい接吻でありました。

即ち、
・六行目の「をんなは しろいいきもののやうにむづむづしてゐました。」の「しろいいきもののやうに」の後の一字空け。
・八行目の「魚(うを)のやうに」の後に一字空けで完結する詩句存在すること。
である。特に後者は底本を読んでいても意味が通じ難く、明らかな脱文が疑われることからも、正当な補訂であると考えてよいとは思われるが、本文は敢えてそのままで出した。]

鬼城句集 夏之部 芥子の花

芥子の花  芥子の花がくりと散りぬ眼前(まのあたり)

2013/08/29

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 4 横浜スケッチ

 この国の人々がどこまでもあけっぱなしなのに、見るものは彼等の特異性をまざまざと印象づけられる。たとえば往来の真ん中を誰はばからず子どもに乳房をふくませて歩く婦人をちょいちょい見受ける。また、続けざまにお辞儀(じぎ)をする処を見ると非常に丁寧であるらしいが、婦人に対する礼譲に至っては、我々はいまだ一度も見ていない。一例として、若い婦人が井戸の水を汲むのを見た。多くの町村では、道路に沿うて井戸がある。この婦人は、荷物を道路に置いて水を飲みにきた三人の男によって邪魔をされたが、彼女は彼等が飲み終わる迄、辛抱強く横に立っていた。我々は勿論彼等がこの婦人のために一バケツ水を汲んでやることと思ったが、どうしてどうして、それ所か礼の一言さえも云わなかった。

 


M9


図―9

 

 店に入る――と云った処で、多くの場合には単に敷居をまたいで再び大地を踏むことに止るが――時、男も女もはき物を残す。前に出した写生図でも判る通り、足袋(たび)は、拇指が他の四本の指と離れた手套(てぶくろ)に似ているので、下駄なり草履なりを脱ぐのが、実に容易に行われる。あたり前の家の断面図を第9図で示す。店なり住宅なりの後方にある土地は、如何に狭くても、何かの形の庭に使用されるのである。

[やぶちゃん注:図―9は底本のキャプションの“ROOM”文字の一部がカスレていたため補筆した。]

 



M10

図―10

 

 ある階級に属する男たちが、馬や牡牛の代りに、重い荷物を一杯結んだ二輪車を引っぱったり押したりするのを見る人は、彼等の痛々しい忍耐に同情の念を禁じ得ぬ(図10)。彼等は力を入れる時、短い音を連続的に発するが、調子が高いので可成り遠くの方まで聞える。繰り返して云うことはホイダ ホイ! ホイ サカ ホイ! と聞える。顔を流れる汗の玉や、口からたれる涎(よだれ)は、彼等が如何に労苦しているかの証拠である。またベットー即ち走丁(フットマン)(めったに馬に乗ることをゆるされぬ彼は、文字通りの走丁である。)の仕事は、人が多勢歩いている往来を、馬車に先立って走り、路をあけることである。かくの如くにして人間が馬と同じ速さで走り、これを何マイルも何マイルも継続する。かかるベットーは黒い衣服に、丸くて黒い鉢のような形のものをかぶり、長い袖をべらべらと後にひるがえす。見る者は黒い悪魔を連想する。

[やぶちゃん注:1マイルは約1・6キロメートル。

「ベットー」原文は“betto”。これは「別当」で、宮中にあって院の厩司(うまやのつかさ)の別当から転じた馬丁のことを意味する古語である。

「走丁(フットマン)」の「フットマン」はルビ。原文の“footman”は、制服を着た男の召し使いの謂いである。またこの語には、古めかしい謂い方で「歩兵」という意があり、その(モースから見て)如何にも奇体な装束(「黒い悪魔」“black demons”)から、このニュアンスも利かせているのかも知れない。]

 


M11

図―11

 

 いたる所に広々とした稲の田がある。これは田を作ることのみならず、毎年稲を植える時、どれ程多くの労力が費やされるかを物語っている。田は細い堤によって、不規則な形の地区に分たれ、この堤は同時に各地区への通路になる。地区のあるものには地面を耕す人があり(図11)、他では桶から液体の肥料をまいており、更に他の場所では移植が行なわれつつある。草の芽のように小さい稲の草は、一々人の手によって植えられねばならぬので、これは如何にも信じ難い仕事みたいであるが而も一家族をあげてことごとく、老婆も子供も一緒になってやるのである。小さい子供達は赤坊を背中に負って見物人として田の畔にいるらしく見える。この、子どもを背負うということは、至る処で見られる。婦人が五人いれば四人まで、子どもが六人いれば五人までが、必ず赤坊を背負っていることは誠に著しく目につく。時としては、背負う者が両手を後ろに廻して赤坊を支え、又ある時には赤坊が両足を前につき出して馬に乗るような格好をしている。赤坊が泣き叫ぶのを聞くことは、めったになく、又私はいま迄の所、お母さんが赤坊に対して疳癪(かんしゃく)を起しているのを一度も見ていない。私は世界中に日本ほど赤坊のために尽す国はなく、また日本の赤坊ほどよい赤坊は世界中にないと確信する。かつて一人のお母さんが鋭い剃刀(かみそり)で赤坊の頭を剃っていたのを見たことがある。赤ん坊は泣き叫んでいたが、それにも拘らず、まったく静かに立っていた。私はこの行為を我国のある種の長屋区域で見られる所のものと、何度も何度もくりかえして対照した。

[やぶちゃん注:「長屋区域」原文“tenement regions”。この“tenement”は“tenement house”でアメリカで特に貧困地区の安アパートや共同住宅を指す。]

 

 私は野原や森林に、わが国にあるのと全く同じ植物のあるのに気がついた。同時にまるで似ていないのもある。棕櫚(しゅろ)、竹、その他明らかに亜熱帯性のものもある。小さな谷間の奥ではフランスの陸戦兵の一隊が、粋な帽子に派手な藍色に白の飾りをつけた制服を着て、つるべ撃ちに射撃の練習をしていた。私は生まれてはじめて茶の栽培を見た。どこを見ても興味のある新しい物象が私の目に入った。

[やぶちゃん注:「フランスの陸戦兵の一隊」横浜の居留地を防衛することを名目として横浜の山手に駐屯したイギリス・フランスの横浜駐屯軍は明治八(一八七五)年三月に両軍ともに全面撤退が完了しているが、これは所謂、第二次フランス軍事顧問団の関係者か。そういえば、横浜のJR東日本の山手駅前の直線道路部分は、戦前、陸軍の射撃場であったように記憶するが、この嘱目ももしかするとそこででもあったのかも知れない。]

笠島はいづこ五月のぬかり道 芭蕉 萩原朔太郎 (評釈)

 笠島はいづこ五月(さつき)のぬかり道

 

 梅雨の降りつづく空の下で、泥濘の道をたどりながら、遠國の旅を漂泊してゐる心境の寂しさがよく歌はれてゐる。

 

[やぶちゃん注:『コギト』第四十二号・昭和一〇(一九三五)年十一月号に掲載された「芭蕉私見」の中の評釈の一つ。昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の巻末に配された「附錄 芭蕉私見」では、以下のように評釈が異なっている。

 

   笠島はいづこ五月の泥濘(ぬかり)道

 

 芭蕉の行く旅の空には、いつも長雨が降りつづき、道は泥濘にぬかつて居た。前途は遠く永遠であり、日は空に薄曇つて居た。

 

本句は「奥の細道」に所収する。「笠島」は宮城県名取郡笠島村。現在の名取市愛島(めでじま)。藤中将実方ゆかり地。本句の背景については「芭蕉会議」の根本文子がコンパクトによく纏められてある。]

中島敦漢詩全集 十六

  十六

 

 贈安田君 三首

 

平生獨訝閑人意

攀柳折花非我事

月夕花朝屑々過

壯年未識佳人涙

 

侃々悲歌慷慨人

※々諤々激聲頻

精根滿溢歎無事

可惜春來未識春

 

營々黽勉無他思

勤恪直言廉吏類

短矮無髯似少年

斯兒未習三杯醉

 

[やぶちゃん補注:底本解題に『「贈安田君」とあるのは横濱高等女學校時代の同僚である安田秀文氏のことで、昭和九年四月から十四年六月まで同校で國語を教へてゐた。同氏によれば、以下の同僚教師に宛てた漢詩』(後に続く十四・十九・二十一・二十二・二十五の漢詩五首を指す)『は、昭和十年末から十一年にかけて、折々に教員室で披見されたといふ』とある。安田秀文氏については現在のところ、これ以上の情報を入手し得ない(筑摩版新全集別巻には「中島さんと一緒に勤めて」という文章が載るが、私は所持しておらず、未見である。T.S.君も評釈の最後で述べておられるように、その文章の中に本詩を正統に解釈するための重要な何かが潜んでいる可能性はすこぶる高い。向後、機会を見て披見し、T.S.君と再考察しようと考えている)。]

[やぶちゃん字注:「※」=「口」(へん)+「如」(つくり)。本来は語釈で述べるところであるが、この漢字、「廣漢和辭典」にも所載せず、ネット上で検索をかけてみても、それらしいものが見当たらず、私には全くのお手上げ状態であった。但し、これではまず素読自体が出来ないのが癪に障る。そこでここについては、先にT.S.君による本字についてのみの考証を掲げ、これを誤植と判断し、T.S.君の推定に基づいた正しいと思われる(これならば素読して意味が分かる)ものに改稿した全首を再度掲げて進行させたいと考える。以下、当初の彼との遣り取りの来信から、T.S.君からの『※々」についての考察』を全文引用する(下線部や一部の鉤括弧等は私が施した)。

   《引用開始》

   「※々」についての考察

 まず口へんに如という字を、現代から古典にわたる中国語の中で調べてみましたが、見出すことができませんでした。そこで意味を推定してみました。前後の詩意や、直前の句と対を成すこと、などを考え合わせると、ここは『正論を吐いている安田君の勢いの盛んなさま』を表す言葉が来ると思われます。そこでもう一度辞書を眺めていると、似ている字形で「呶」nao2という字があり、重ねて「呶呶」nao2nao2 としても用いられることが判りました。意味は、「一文字で、やかましいこと」で、二つ重ねて「呶呶」とすると、「話がくどいさま」を表わします。この字の誤植ではないだろうかという疑念が脳裏を掠めます。「直情でまじめ一点張りの」正義漢も、度が過ぎると、「ごく軽い反感」と、「滑稽」と、「哀愁」さえ漂います。ただし、実はこんな安田君に対して、詩人は本当はどうも親しみと愛情を感じているらしいそうでなければ詩など贈らないでしょう)。従ってここで新たに、「やかましい」という負の感覚を付加したところで大きな問題はないと思われます。よくよく考えれば詩の内容から見て、何事も論理で「直線的に切り分け」たり、「義を基準にものごとの正否を裁断した」りし、それを「堂々と」主張するようなタイプと推察される安田君のことを、詩人は時に「やかましく」も感じたでしょうし、誰もが分かるような正論を長々と聞いていれば、「くどい」とも感じたでしょう。ですから、あくまで愛情が籠められているという条件で、この「呶呶」を用いることも許されると感じています。いかがでしょうか。

   《引用終了》

 私は以上のT.S.君の考証に全面的に賛同するものである。万一、この「※」の字が存在する、若しくは「呶々」の誤植ではなく別字の誤植であると主張される方があられる場合は、T.S.君と三者で検討させて戴きたく、まずは私藪野直史に御連絡頂きたい。よろしくお願い申し上げる。

 それでは、以下、改めて「呶々」とした形で、三首全文を示す。

 

 贈安田君 三首

 

平生獨訝閑人意

攀柳折花非我事

月夕花朝屑々過

壯年未識佳人涙

 

侃々悲歌慷慨人

呶々諤々激聲頻

精根滿溢歎無事

可惜春來未識春

 

營々黽勉無他思

勤恪直言廉吏類

短矮無髯似少年

斯兒未習三杯醉

 

○やぶちゃんの訓読

 

 安田君に贈る 三首

 

平生(へいぜい) 獨り訝(いぶか)る 閑人(かんじん)の意

攀柳折花(はんりうせつくわ) 我が事に非ず

月夕花朝(げつせきくわてう) 屑々(せつせつ)として過ぐ

壯年たるも 未だ佳人の涙を識らず

 

侃々(かんかん)として 悲歌慷慨の人

呶々諤々(だうだうがくがく) 激聲(げきしやう) 頻(ひん)たり

精根(せいこん)滿溢(まんいつ) 無事(むじ)を歎ず

惜しむべし 春 來るも 未だ春を識らざるを

 

營々(えいえい)たる黽勉(びんべん) 他思(たし)は無く

勤恪(きんかく)たる直言(ぢきげん) 廉吏(れんり)の類(るゐ)

短矮(たんわい) 無髯(ぶぜん) 少年に似(に)たり

斯(こ)の兒(じ) 未だ三杯の醉(ゑひ)を習(し)らず

 

〇T.S.君原案(一部は藪野補筆)の中国語を踏まえた語釈

「閑人」字義からいえば暇な人のことであるが、ここでは季節の移ろいや人生の様々な出来事の中で、折に触れ自ら進んで美しいものを愛でては、その感興に浸るような人を指す。

「攀柳折花」字面からは、柳によじ登り花を折る、となるが、ここでは「閑人」と同様、季節を愛で、美しいものを積極的に味わう態度のこと。

「月夕花朝」中国語で「花朝月夕」といえば佳節の美景を指す。また文字通り解釈すれば、月の夜と佳き日のことである。しかしここは、その時々の美しさに満ちた季節の移ろいのことであろう。

「屑々」バタバタと忙しい様子。

「佳人涙」広義に捉え、恋愛の情趣そのものと解釈したい。

「侃々」話が理にかない、勢いがよく、堂々としているさま。

慷慨」義憤に燃えて激昂すること。

・「呶々」底本は「※々」〔「※」=「口」(へん)+「如」(つくり)〕。[やぶちゃん注:「呶々」とした経緯や意味については前掲のT.S.君の『「※々」についての考察』を参照されたい。]

「諤々」直言するさま。

・「營々」行ったり来たりするさま、齷齪するさま。

「黽勉」努力。

「勤恪」慎み勤しむさま。

「廉吏」清廉潔白な役人。

・「三杯醉」表面上は酒を三杯飲んだだけで酔うこと。もともとは、すぐに酔ってしまうというニュアンスを籠めた言葉である。ただしここでは、単に酒に酔うことであると解釈してよいだろう。なお、「三」は、特に深い意味はないものの、数としての切れの良さと言い回しの快さのために使われやすい数字である(日本にも「駆け付け三杯」などという言い回しもあることが想起される)。

 

T.S.君による現代日本語訳

 

 安田君に贈る 三首

 

風流生活 そんなの知らない

花鳥風月 カンケイなさそう

節季や節句も 変わらず多忙

いい歳なのに 恋も識らない

 

言葉は真直ぐ 嘆いて怒って

いつでも口から 熱いほのお

やる気満々 二の腕をさすり

春が来たって 気にも留めず

 

願いはいつも たゆまぬ努力

勤勉 正直 まさに模範官吏

髯無しちびっこ まるで少年

この男 いまだに酒を知らず

 

〇T.S.君とやぶちゃんの協働取組みによる評釈

 今更ながら思う。

 中島敦……なんという自由な明るい詩魂であろうか。

 中国古典に取材した幾篇かの小説によって彼を識った私にとって彼の肖像は、運命の嵐に翻弄されながらも歯を食いしばって自分の足で立つ人間、そんな人間の、か弱いけれども崇高な魂を讃える者のそれであった。さらには、持病の喘息と闘う悲壮感に満ちた漢学者のそれであった。

 ところが、この詩を見よ!

 同僚の人となりを、肩の力を抜き、ごく軽い揶揄を籠めて軽妙に描写している。悲壮な漢学者の面影はほとんど見られない。

 さらには、図らずも露わになった人生に対する詩人の態度にも注目したい。

 安田君に欠けている、と詩人が判断するものは何であろうか。

 それは、花鳥風月を愛でる心、恋、酒の三つである。

 対する詩人は、魂を痺れさせるところのそれらの味を、十二分に知っている。それらの何事にも換え難い価値も、また知っている。詩人はこれらを識ることの意味や大切さを、漢詩中で大胆にもしっかりと肯定的に表明しているのである。

 実は私にとっても、これら無しの人生など考えたくない。

 百歩譲って酒や花鳥風月は措くとしても、恋のない人生など、想像しただけで恐ろしい。私は信じる。中島敦も同様であったと。なぜなら、魂の深みを覗き込む恋という深刻な体験がなければ、人間の弱さと強さを同時に描く彼の鋼のような文学は到底生まれなかったはずだから。

 

 しかし誤解してはならない。

 詩人は決して安田君を批判しているのではない。憐れんでいるのでもない。人がこれらを知るべきだなどという不遜な言葉を、彼は決して口にしない。

 人生を彩る(というよりも、人生の謎さえ内包する)これらの体験から生まれる喜びには、それ以上の哀しみが、必ず付き纏うであろう。

 これらを知らないままに義や理想を熱く語る安田君に対して、詩人はかすかな羨望を抱きながら(と言い切ってしまっても、いいかもしれない)、彼の姿を清清しく捉えるのだ。

 読者は、行間から立ち上る、かの同僚に対する暖かい思いを感じないであろうか。私には詩人の微笑が目に見える。

 

 この詩に接して即座に思い出される歌がある。読者の多くも必ずや想起されたに違いない。

 

 やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君

(与謝野晶子「みだれ髪」)

 

 これは女性の歌だからであろうか、生殖を司る不思議な艶かしい力や、哺乳類の体温を、どこか強く感じさせる。

 男性にとっての恋は、往々にしてこれとは異なるものだ。

 いわば観念の世界で完結してしまいがちなのだ。

 この漢詩も例外ではない。

 男性の言及する恋らしく、どこか観念的に勝ったものを感じさせる。

 とはいえ、だからこそであろうか、私自身は与謝野晶子よりも中島敦により強く共鳴してしまうことを自白する。

 男性と女性の差異を簡単に総括してしまうことに対して、首を傾げる方もおられよう。それでは、この一首を現代女性が詠じたものも挙げておこう。

 

 燃える肌を抱くこともなく人生を語り続けて寂しくないの

(俵万智「チョコレート語訳みだれ髪」)

 

 男性は決してこんな風に歌わない。

 歌いたくても、歌えないのである。

 それでも乱暴だとおっしゃる方のために、最後に男性による強靭なる応援歌を頼もう。

 

 それ程女を見縊(みくび)つてゐた私が、また何うしても御孃さんを見縊る事が出來なかつたのです。私の理窟は其人の前に全く用を爲さない程動きませんでした。私は其人に對して、殆ど信仰に近い愛を有つてゐたのです。私が宗教だけに用ひる此言葉を、若い女に應用するのを見て、貴方は變に思ふかも知れませんが、私は今でも固く信じてゐるのです。本當の愛は宗教心とさう違つたものでないといふ事を固く信じてゐるのです。私は御孃さんの顏を見るたびに、自分が美くしくなるやうな心持がしました。御孃さんの事を考へると、氣高い氣分がすぐ自分に乘り移つて來るやうに思ひました。もし愛といふ不可思議なものに兩端(りやうはじ)があつて、其高い端(はじ)には神聖な感じが働いて、低い端(はじ)には性慾が動いてゐるとすれば、私の愛はたしかに其高い極點を捕(つら)まへたものです。私はもとより人間として肉を離れる事の出來ない身體(からだ)でした。けれども御孃さんを見る私の眼や、御孃さんを考へる私の心は、全く肉の臭を帶びてゐませんでした。

(夏目漱石「こゝろ」より。引用は藪野先生作成になる同初出版「心」の「先生の遺書(六十八)」を用いた)

 

 私が男だからであろうか。私は、中島敦の言う『佳人の涙』を、「こころ」の先生の言うところの意味において明確に想像できるのである。

 

 ところで愛すべき安田君は、この後、どのような人生を過ごしたのであろうか。いつの日か、ついに恋を覚えることになったであろうか。酒の味にも親しんだであろうか。彼をも例外なく待ち受けていたであろう人生の悲哀によって、彼の心はささくれ立つこともあったであろう。その心の傷口に、花鳥風月が沁み入る陶酔の機会は、果たして巡ってきたであろうか。

 彼はこの詩を贈られて、どう感じただろう。温かみを持つ適確な指摘に苦笑したことだろうか、それとも密かに顔を赤らめたであろうか……。私は中島敦から詩を贈られた安田君に対し、僅かながらではあるが、嫉妬を禁じえないのである。彼が中島敦を回想した文章というものがあると聞いた。いつか読む機会があれば、と願っている。

霧・ワルツ・ぎんがみ――秋冷羌笛賦 街頭スケッチ 三十二首 中島敦 

    (以下三十二首 街頭スケッチ)

 

冬近み露西亞菓子屋の窓邊なるベゴニアの花散るべくなりぬ

 

[やぶちゃん注:店を同定しようと思ったが、田舎者の私は横浜に暗く果たせない。識者の御教授を乞う。以下、同じ。]

 

日耳曼(ぜるまん)のレストラントに日耳鼻の客も來らず秋聞けにけり

 

[やぶちゃん注:「日耳曼(ぜるまん)」ゲルマンでドイツの旧漢訳語。]

 

山手なる教會の鐘なるなべに紅薔薇散りぬ秋深みかも

 

[やぶちゃん注:「山手なる教會」現在の横浜市中区山手町にあるカトリック山手教会。英語名“Sacred Heart Cathedral”(聖心大聖堂)。カトリック横浜司教区のカテドラル(大聖堂)で現在の山下町にあった横浜天主堂が移転して明治三九(一九〇六)年に現在地に創建された。大正一二(一九二三)年の関東大震災で倒壊後、ヤン・ヨセフ・スワガーの設計により昭和八(一九三三)年に再建されており、本歌稿の成立時期は昭和一二(一九三七)年前後であるから、再建から三~四年を経た頃である。「なべに」は「なへに」(接続助詞「なへ」+格助詞「に」)が推定で中古以降に濁音化したもの。~するにつれて、~とともに、~と同時に、の意。]

 

吾が心むすぼほれつゝ街行けば出船の銅鑼の聞えつもとな

 

[やぶちゃん注:「もとな」副詞で、訳もなく・やたら、若しくは、切に・非常に、の意。両意を含めてよい。]

 

異人の兄は菓子の銀紙棄て行きぬ秋のあしたの鋪道の上に

 

[やぶちゃん注:冒頭のロシア菓子とすれば、小麦粉を主原料とした生地で作ったロシアの焼き菓子プリャーニク(пряник)か。]

 

杖とめて孫(うまご)に何か聞くらしきスラブ嫗(をうな)の赤頭巾かな

 

[やぶちゃん注:「孫(うまご)」孫。「むまご」とも表記する。「スラブ」“Slav”はインド―ヨーロッパ語族の中の、スラブ語を使う民族の総称。原住地はカルパチア山脈の北方と推定され、民族大移動の際、東ヨーロッパ一帯に拡散した。東スラブ族(ロシア人・ウクライナ人・白ロシア人など)、西スラブ族(ポーランド人・チェコ人・スロバキア人など)、南スラブ族(セルビア人・クロアチア人・ブルガリア人など)に大別される。人口約二億五〇〇〇万人でヨーロッパ最大の民族(「大辞泉」に拠る)。]

 

母待つと鋪道に立てる混血兒(あひのこ)の眼(め)ぬち哀しも羚羊(かもしか)に似て

 

[やぶちゃん注:「ぬち」連語。格助詞「の」+名詞「内(うち)」の付いた「のうち」の音変化。~の内。]

 

メリケンの水夫ジン飮み鼻歌に歌ひけらくは“Shall we dance?

 

[やぶちゃん注:「Shall we dance?」は一九三七年のアメリカ映画「Shall We Dance」(監督マーク・サンドリッチ・主演フレッド・アステア。邦題は「踊らん哉」)のタイトル・ソング。アイラ&ジョージ・ガーシュウィン作曲。戦後の「大様と私」で知られた例の曲とは別物。こちらでアステアの超絶ステップとともに聴ける。]

 

灰色の午後の鋪道にひさかたの亞米利加びとは口笛吹くも

 

ヤンキーかはたジョン・ブルか揉上(もみあげ)の長き男がタクシーを呼ぶ

 

[やぶちゃん注:「ヤンキー」“Yankee”は米国人の俗称。元来は米国南部で北部諸州の住民を軽蔑的に呼んだ語。「ジョン・ブル」“John Bull”は典型的な英国人を指す渾名。十八世紀の英国の作家アーバスノット作の寓話「ジョンブル物語」に由来(孰れも「大辞泉」に拠る)。]

 

秋風に白きスカーフ靡かせて口笛(うそ)吹き行くは何國(いづくに)の兄ぞ

 

空碧きシシリア人(びと)にこそあらめジョヴィネッツァ歌ひ秋の街行く

 

[やぶちゃん注:「ジョヴィネッツァ」“Giovinezza”はムッソリーニ率いるイタリア・ファシスト党党歌「ジョヴィネッツァ」で「青春」「若人」といった意。歌詞は一九二四年に附いた。但し、原曲はジュゼッペ・ブラン作曲で一九〇九年に発表された「別れの歌」(Commiato)という学生歌で当初は政治的な意図はなかった(参照させて戴いた辻田真佐憲氏のサイト「西洋軍歌蒐集館」(「イタリア」→「ジョヴィネッツァ(青春)」)に音源と歌詞及び成立経緯などの詳しいデータが載る。必見のサイト!)]

 

秋の風いたくな吹きそ若き日の聖クララがうけ歩みする (若き尼僧は天主教の黑衣を纏へり)

 

[やぶちゃん注:「聖クララ」イタリアの聖人アッシジのキアラ(Santa Chiara d'Assisi 一一九四年~一二五三年)。ローマ・カトリック、聖公会、ルーテル教会で崇敬される。英語名のクレア(Clare)またはクララ(Clara)の名前でも知られる。聖フランチェスコに最初に帰依した者の一人でフランチェスコ会の女子修道会クララ会(キアラ会とも)の創始者。目や眼病の守護聖人で象徴とする聖体顕示台・聖体容器箱・ランプを持つ姿で描かれる。祝日は八月十一日。彼女の遺体は永遠に腐敗しないとされ、骨格は完全な状態に保存されてアッシジの教会内に公開されている(ウィキの「アッシジのキアラ」に拠る)。「うけ歩み」この語は、本来、古語で花魁などの道中の際の歩き方、上体を反らしてゆっくりと歩む、あの歩き方を指す語である。敦の確信犯的用法であろう。]

 

さにづらふ英吉利未通女(をとめ)たまぼこの道角にしてテリア抱ける

 

[やぶちゃん注:「たまぼこの」「道」の枕詞。「たまぼこ」(古くは清音「たまほこ」)の原義は上代語で「美しい桙(鉾・矛)」の意であるが、「たまほこの」が「矛の身(み)」を連想させ、その「み」から「道」の意に転じて、「道」や「里」(道が続く先)の枕詞となった(角川新版「古語辞典」に拠る)。]

 

カラマゾフの作者に似たる病禿(やみはげ)のエアデル・テリア尿するなる

 

[やぶちゃん注:「エアデル・テリア」エアデール・テリア(Airedale Terrier)。イギリスのヨークシャーにあるエア渓谷(エアデール)を発祥とするテリア種の犬。参照したウィキの「エアデール・テリア」によれば、『多くのテリアと同様に、エアデール・テリアには皮膚炎になりやすい傾向がある。アレルギーや栄養バランスの悪い食事、甲状腺の生産過剰や不足は、皮膚の健康状態に大きな影響を与える』とある。「尿」は「すばり」と訓じていよう。]

 

うれたしや醜(しこ)の痩犬吠立つるわれもの思(も)ふと巷を行けば

 

赤髭の神父咳(しはぶ)き過ぎ給ふ異國の秋は風寒からめ

 

日本語のたどたどしさも宜しけれ赤髯の神父黑パンを買ふ

 

[やぶちゃん注:「たどたどしさ」の繰り返しの「たど」は底本では踊り字「〱」。]

 

加特力(カトリツク)の我は信者にあらねどもかの赤髯をよろしと思ふ

 

あさもよし喜久屋のネオンともりけり山手は霧とけぶれるらしも

 

[やぶちゃん注:「喜久屋」元町に現在も営業する洋菓子店。大正十三(一九二四)年創業。初代店主は石橋豊吉(「横浜のれん会」の記載によれば、日本郵船ヨーロッパ航路伏見丸にベーカーとして乗り組んで何度も欧州をまわった人物とある)。公式サイトによれば、『ある日スイス婦人がレシピを持ち込んで、ヨーロッパ仕込みのケーキ職人だつた先代にケーキを焼いて欲しいと頼みました』。『婦人が大変満足する品が出来上がると、そのことが山手で評判になり、次々と各国のケーキレシピが集まってきて、喜久家はどこの店よりも早くヨーロッパのケーキを作ることが出来ました』。『居留地のたくさんの婦人達が教えてくれた洋菓子の味を大切に、喜久家は今日も素敵な味を皆さまにお届けします』とある。公式サイトはこちら。]

 

元街の燈ともし頃を人待つと秋の狹霧に乙女立濡る

 

夕されば海ぞ霧(き)らへる泊(とまり)する汽船(ふね)の汽笛のとよもし聞こゆ

 

[やぶちゃん注:「とよもす」「響もす」(他動詞サ行四活用)は「響(とよ)む」(他動詞マ行下二段活用)に同じ。鳴り響かせる、の意。]

 

舶來のソオセエヂ屋の窓碍子今朝は曇りぬ冬きたるらし

 

帽赤き軍艦ビケの水兵が昨日(きぞ)出航(た)ちたりと君は聞きつや

 

[やぶちゃん注:「軍艦ビケ」不詳。「帽赤き」とあるからソ連の軍艦名か? 識者の御教授を乞う。]

 

混血兄(あひのこ)が自轉車に乘りバナナ喰ふ聖ジョセフに行くにかあらむ

 

[やぶちゃん注:「聖ジョセフ」セント・ジョセフ・カレッジ(Saint Joseph College)。かつて神奈川県横浜市に存在したインターナショナル・スクール。明治三四(一九〇一)年にカトリック教会マリア会によって幼稚園から高校までを備えた英語教育主体のインターナショナル・スクールとして横浜市山手町に開校された。平成一二(二〇〇〇)年、経営悪化によって廃校となった(ウィキセント・ジョセフ・インターナショナル・カレッジに拠った)。]

 

この夕(ゆふ)べ時雨過ぎつゝ鋪道(しきみち)に初冬の燈の寫(うつ)り宜しも

 

天霧(あまぎ)らし時雨降り來(く)と元街のスレート屋根ははやも濡れつゝ

 

時雨(しぐ)るゝに傘(かさ)購(もと)めんと寄る店は明治六年店開きける (中坪洋傘店の看板に明治六年創業とあり)

 

[やぶちゃん注:現存しない(幾つかの記載に「中坪洋傘店跡」とある)。横浜市中区役所公式サイトの一五八回 ハイカラな街、元町(同刊行物『歴史の散歩道』二〇一二年九月号掲載)の画像に傘の看板を出した同店が見える。]

 

朝毎にヴィヴィアンの店過ぎつれどマダム・ヴィヴィアン未だ見なくに

 

ヴィヴィアンの店の飾人形(マヌカン)冬立てはうそ寒しもよ衣裳(ころも)換へずて

 

飾人形(マヌカン)の鼻のわきへのうす埃何か寂しも曇り日の午後は

 

仄靑き陰翳(かげ)飾人形(マヌカン)にさす如し雨近き午後の硝子透して

 

[やぶちゃん注:「ヴィヴィアン」洋品店らしいが不詳。この手の守備範囲外の探索は私の最も苦手とするところである。またしても最後に識者の御教授を乞うものである。]

春の日の女のゆび 大手拓次

 春の日の女のゆび

 

この ぬるぬるとした空氣のゆめのなかに、

かずかずのをんなの指といふ指は

よろこびにふるへながら かすかにしめりつつ、

ほのかにあせばんでしづまり、

しろい丁字草(ちやうじさう)のにほひをかくして のがれゆき、

ときめく波のやうに おびえる死人(しにん)の薔薇(ばら)をあらはにする。

それは みづからでた魚(うを)のやうにぬれて なまめかしくひかり、

ところどころに眼(め)をあけて ほのめきをむさぼる。

ゆびよ ゆびよ 春のひのゆびよ、

おまへは ふたたびみづにいらうとする魚(うを)である。

 

[やぶちゃん注:「丁字草」リンドウ目キョウチクトウ科チョウジソウ Amsonia elliptica。他のキョウチクトウ科植物と同様に全草にアルカロイドを含み、有毒。、五~六月に茎の頂きに集散花序を出し、薄青色の花を多数咲かせる(以上はウィキチョウジソウ」に拠る)。拓次は「にほひ」と述べているが、ネット上の記載では確かな香りを記載したものは見当たらない。個人のサイト「かわちのいろいろ見てある記」のページによると、『姿だけを見ていると良い香りがしそうですが、何となく青臭い感じのにおいがしていました』とある。]

鬼城句集 夏之部 虎耳草

虎耳草    高崎郊外

  
      虎耳草うゑる穴あり聖石
  

[やぶちゃん注:「虎耳草」「こじさう(こじそう)」と読むが、ここは「ゆきのした」と訓じていよう。ユキノシタ目ユキノシタ科ユキノシタ Saxifraga stolonifera の民間薬としての呼称である。葉を炙って腫れ物・凍傷・火傷などの消炎に用い、葉の搾り汁は中耳炎や漆等によるかぶれ・虫刺され・小児のひきつけ・風邪に効果があるとし、乾燥させた茎や葉は煎じて解熱・解毒に利用するともある(以上はウィキの「ユキノシタ」に拠る)。「聖石」は群馬県高崎市聖石町にある地名と古跡。弘法大師が腰かけたと伝承される石が残る。迷道院高崎氏のブログ「隠居の思ひつ記」の「鎌倉街道探訪記(21)」で古写真や現況を見ることが出来る(そのコメント欄を見るとこの石は回転しながら上流に移動するという言い伝えがあるらしい)。この句はまさに、この写真の窪みにユキノシタが可憐に植わっているさまを詠んだもののように私には思われる。]

2013/08/28

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 3 町屋の景


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図―8

 

 誰でもみな店を開いているようである。店と、それからその後にある部屋とは、道路に向って明けっぱなしになっているので、買物をしに行く人は、自分が商品の間から無作法にも、その家族が食事をしているのを見たり、簡単なことこれに比すべくもない程度にまで引き下げられた家事をやっているのを見たりしていることに気がつく。たいていの家には炭火を埋めた灰の入っている器具がある。この上では茶のための湯が熱くされ、寒い時には手をあたためるのだが、最も重要な役目は喫煙家に便利を与えることにあるらしい。パイプと吸い口とは金属で、柄は芦みたいなものである(図8)。煙草は色が薄く、こまかく刻んであり、非常に乾いていて且つ非常にやわらかい。雁首には小さな豆粒くらいの煙草のたまが納る。これを詰め、さて例の炭で火を点けると、一度か二度パッと吸った丈で全部灰になって了う。このような一服でも十分なことがあるが、続けて吸うために五、六度詰めかえることが出来る。またお茶はいつでもいれることが出来るような具合になっていて、お茶を一杯出すということが一般に、店にきた人をもてなすしるしになっている。かかる小さな店のありさまを描写することは不可能である。ある点でこれ等の店は、床が地面からもち上がった、あけっぱなしの仮小屋を連想させる。お客様はこの床の端に腰をかけるのである。商品は――可哀想になる位品数の少ないことが間々ある――低い、段々みたいな棚に並べてあるが、いたって手近にあるので、お客様は腰をかけた儘手を伸ばして取ることが出来る。この後で家族が一室に集り、食事をしたり物を読んだり寝たりしているのであるが、若しこの店が自家製品を売るのであると、その部屋は扇子なり菓子なり砂糖菓子なり玩具なり、その他何であろうと、商品の製造場として使用される。子供が多勢集ってままごとをやっているのを見ているような気がする。時に簟笥(たんす)がある以外、椅子、テーブルその他の家具は見当らぬ。煙筒(えんとつ)もなし、ストーブもなし、屋根部屋もなし、地下室もなし、扉(ドア)もなく、只すべる衝立(ついたて)がある丈である。家族は床の上に寝る。だが床には六フィートに三フィートの、きまった長さの筵(むしろ)が、恰(あたか)も子供の積木が箱にピッタリ入っているような具合に敷きつめてある。枕には小さな頭をのせる物を使用し、夜になると綿の充分入った夜具を上からかける。

[やぶちゃん注:「誰でもみな店を開いているようである。」原文は“Everybody seems to "keep shop."”。――どこの家も店も『店を開いている』ように見える――の謂いである。

「簡単なことこれに比すべくもない程度にまで引き下げられた家事をやっているのを見たりしていることに気がつく。」この部分の原文を前から続いて示すと、“The shop and the room back are wide-open to the street, and as one stops to barter he finds himself rudely looking beyond the stock in trade to the family at supper, or going through their rounds of domestic work, which is reduced to the last expression of simplicity.”である。どうもこの部分だけ生硬な印象を受ける。――極めて単純明快の極致とも言うべき、その始源にまで降りに降りて行ったところの家事が、彼らの私的な空間で進行しているを見たりしていることに気づくのである。――といったニュアンスであろうか。

「すべる衝立」“sliding screens”。言わずもがな、障子や襖のことである。]

北條九代記 鎌倉變災 付 二位禪尼御夢想

      ○鎌倉變災  二位禪尼御夢想
連年打續き、鎌倉中の失火、日毎に止む事なし、僅に遁るゝ事あれども、遅速を論ずれば何れ免かるゝ所なし。又其閒には大風、大雨の災(さい)起りて、人家或は顛倒し、或は洪水の出づるに依て、河邊近き在家共は押(おし)流されて、死する者數知らず。天には彗星出でて人の目を驚(おどろか)し、下には地震夥しく、堂舍民屋(みんをく)を動(ゆり)崩す。是等の變災一方ならず、如何樣只事にあらずと諸人心を傷(いたま)しめ、夜を緩(ゆるやか)に臥す者なし。兎角する程に、物憂き年も改り、承久三年の春を迎へ、當年はさりとも世の中立直(たてなほ)し、諸人も安堵すべきものと、貴賤上下思はぬ者はなかりけり。然る所に、正月十日の朝より、濱風吹(ふき)起りて、終日(ひねもす)に及(および)しかば、すはや火災の出來んずらんとて、用心嚴しく致す所に、晩景に及びて、俄(にはか)に雷鳴り出でつゝ、兩三ヶ所に落(おち)懸り、電光の閃く事夥しさは限(かぎり)なし。老若、皆、膽魂(たましひ)を失ひ、死に入る計(ばかり)にぞ覺えける。降下(ふるくだ)る雨の足は、宛然(さながら)移(うつ)す如くなり。夜に入りければ、雨止みしかども暗さは猶暗かりけり。翌日又、薄雪の降りたり。去年の冬よりして、遂に隆(ふら)ざる事なれば、是ぞ初雪と云ふべかりけりと、餘(あまり)の事に興(きよう)ぜらる。次の日、殿中に、陰陽師泰貞(やすさだ)、晴吉(はれよし)、親職(ちかもと)、宣賢(のぶかた)を召されて、天地災變の御祈禱の爲、三萬六千の神祭(かんさい)、屬星(じよくしやう)、太山府君(たいざんぶくん)、天曹(てんさう)、地府(ぢふ)の祭を行ひ、鶴ヶ岡に於ては、大般若經を轉讀せらる、同三月二十二日の曉(あかつき)、二位禪尼、御夢想の御事あり。その面(おもて)、二丈計(ばかり)の大鏡(きやう)ありて、由比浦の浪の上に浮びて、その中に氣高き聲の聞えけるやう、「我は是大神宮にておはします。天が下を鑒(かんがみ)るに、世の中大に亂れて、兵を懲(こら)すべし。泰時こそ我を太平に耀かさんも一のぞや」とて夢は即ち覺(さ)め給ふ。禪尼、深く信心を凝(こら)し、祠官(しくわん)の外孫なればとて波多野(はだのゝ)次郎朝定(ともさだ)を使として、大神宮に願書を參らせ、伊勢の祭主神祇大副(じんぎのすけ)隆宗(たかむね)朝臣に仰せて、幣帛(へいはく)をぞ送られける。

[やぶちゃん注:承久の乱への不吉なプレリュードと、後の名執権泰時誕生を預言する夢告の提示である。鎌倉での一連の天変地異とそれに対する祈禱の叙述は「吾妻鏡」巻二十四の承久二(一二二〇)年十二月四日、承久三年正月十日・十一日・二十二日・二十九日などに拠り、政子の夢想の一件は同巻の承久三年三月二十二日の記事に基づく。特に「吾妻鏡」の原文は示さない。
「次の日、殿中に、陰陽師泰貞、晴吉、親職、宣賢を召されて、天地災變の御祈禱の爲、三萬六千の神祭、屬星、太山府君、天曹、地府の祭を行ひ、鶴ヶ岡に於ては、大般若經を轉讀せらる」とあるが、「次の日」(文脈上は一月十二日)ではなく、一月二十二日である。「吾妻鏡」の誤読であろう。「三萬六千の神祭」三万六千神祭。天変地異を除き、天下泰平を願う祭。「屬星」は属星祭で危難を逃れて幸運を求めるために対象者(この場合は将軍頼経であろう)の属星をまつる祭。大属星祭。「天曹、地府の祭」天曹地府祭(てんそうちふさい)。六道冥官祭(ろくどうめいかんさい)・天官地符祭とも呼ぶ。陰陽師が修する重要な祭りの一つで、「曹」の字は実際には縦の二本棒を一本棒にした特異な画の字「曺」を用いる。十一世紀ころから祀られ、安倍氏が鎌倉幕府の陰陽道を支配して後、この祭法が盛んとなった。泰山府君を中心とした十二座の神に金銀幣・素絹・鞍馬を供えて祭る(ここは平凡社「世界大百科事典」に拠った)。
「二丈計」凡そ六メートルほど。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 2 人力車




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図―5

 朝飯が終るとすぐに我々は町を見物に出かけた。日本の町の街々をさまよい歩いた第一印象は、いつまでも消え失せぬであろう。――不思議な建築、最も清潔な陳列箱に似たのが多い見馴れぬ開け放した店、店員たちの礼譲、いろいろなこまかい物品の新奇さ、人々の立てる奇妙な物音、空気を充たす杉と茶の香。我々にとって珍しからぬ物とては、足の下の大地と、暖かい輝かしい陽光と位であった。ホテルの角には、人力車が数台並んで客を待っていた(図5)が、我々が出て行くや否や、彼等は「人力車?」と叫んだ。我々は明瞭に要らぬことを表示したが、それにも拘らず二人我々について来た。我々が立ち止ると彼等も立ち止る。我我が小さな店をのぞき込んで、何かを見て微笑すると、彼等もまた微笑するのであった。私は彼等がこんなに遠くまでついて来る忍耐力に驚いた。何故かなれば我々は歩く方がよかったから人力車を雇おうとは思わなかったのである。然し彼等は我々よりも、やがて何が起こるかをよく知っていた。歩き廻っている内に草疲(くたび)れて了うばかりでなく、路に迷いもするということである。果してこの通りのことが起った。一歩ごとに出喰わした、新しいこと珍しいことによって完全に疲労し、路に迷い、長く歩いて疲れ切った我々は、よろこんで人力車に乗って帰る意志を示した。如何にも弱そうに見える車に足をかけた時、私は人に引かれるということに一種の屈辱を感じた。若し私が車を下りて、はだしの男と位置をかえることが出来たら、これ程面喰わずに済んだろうと思われた。だが、この感はすぐに消え去った。そして自分のために一人の男がホテルまでの道のりを一と休みもしないで、自分の前を素敵な勢で駆けているということを知った時の陽気さは、この朝の経験の多くと同様に驚く可きことであった。ホテルへ着いた時彼等は十セントとった。このために彼等は朝半日を全くつぶしたのである! かかる人々の驚く可き持久力はまさに信用出来ぬ程である。彼等はこのようにして何マイルも何マイルも走り、而も疲れたらしい容子もしないということである(図6)。乗客をはこぶに際して、彼等は決して歩かず、長い、ゆすぶる様な歩調で走るのである。脛(すね)も足もむき出しで、如何に太陽が熱くても、たいていは無帽である。時として頭に布切れをくるりとまきつけ、薄い木綿でつくった藍色の短い上衣を着、腰のまわりに下帯を結ぶ。冬になってもこれ以上あたたかい服装をしないらしい。涼しいには違いなかろうが、我々の目には変に見える。それにしても人力車に乗ることの面白さ! 狭い街路を全速力で走って行くと、簡単な住宅の奇異な点、人々、衣服、店、女や子供や老人や男の子の何百人――これ等すべてが我々に、かつて見た扇子に措かれた絵を思い起させた。我々はその絵を誇張したものと思ったものである。人力車に乗ることは絶間なき愉快である。身に感じるのは静かな上下動だけである。速度は中々大きい。馬の代りをなすものは決して狂奔しない。止っている時には、彼は荷物の番をする。私が最初に長い間のった人力車の車夫はこんな風に(図7)見えた。頭のてっぺんは剃ってあり、油を塗った小さな丁髷(ちょんまげ)が毛の無い場所のまん中にくっついていた。頭の周囲には白い布が捲きつけてあった。

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図―6


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図―7

[やぶちゃん注:「屈辱」この前後の原文は実は一文になっていて、“I, for one, felt a sense of humiliation in being dragged by a man and should have felt less embarrassed if I could have got out and exchanged places with the naked-legged human.”と、やや複雑である。さて、この「屈辱」に相当するのは“a sense of humiliation”で、確かにこの語は、「はずかしめられること」「屈辱」「不面目」の謂いでは。しかし乍ら、人に曳かれることに「屈辱感を覚えた」というよりは、ここはずっと後の大正一一(一九二二)年にアインシュタインが来日した際、人力車を『非人道的な奴隷労働』として乗車を拒否した気持ちと同じく、人間を馬のように用いた乗物に乗ること、人間が曳く乗物に乗車するということに対しての――「面目ないという感じ」「抵抗感」――を持ったという意味である。私には「屈辱」という訳語はちょっと戴けないという感じがするのである。]

明恵上人夢記 21

21
同十七日の夜、彼の人を祈るべき狀を聞く。其の夜は一定の返事を言はずして還る。將に此の事を辭せむとす。其の夜、夢に云はく、同行五六人とともに淸水寺へ參らむと欲す。其の道に、階を刻める有りて、階之際(きは)ちぎれたり。其の間三四尺許り、踊り越えて到りぬべし。然るに、心に少しく怖畏有り。心に思はく、前々五六度、此の道を過ぎて參れり。同じき事也と思ひて、怖畏して參らずと云々。

[やぶちゃん注:この文は実は改行せず、前の「20」に引き続いて書かれており、また、次の「22」もやはり引き続き書かれてある。
「同十七日」元久二(一二〇五)年十月十六日。この前書きの事実記載は、やはり前の「19」及び「20」の夢の前に記された丹波殿関連の事実記事と関連すると思われるが、依然としてその内容は不明である。
「彼人」丹波殿が誰か(高貴な名を記すことが憚られたか)の何かについての祈禱を明恵に依頼したものか。どうもきな臭い。
「三四尺許り」九十センチメートルから一メートル二十センチほど。]

■やぶちゃん現代語訳

21
 同十七日の夜、かの人についての祈禱を修することについての申し入れを聞くだけは聞く。その夜ははっきりとした返事を口にすることなくして帰る。私としてはこの修法については辞退しようと考えた。その夜、見た夢。
「同行の五、六人とともに清水寺へ参詣しようとした。その道すがら、新たに階(きざはし)を刻み掘った場所があったが、そこを登って行くと、ある高みでその階の端がすっぱりと千切れてなくなって崖となっているのであった。少し向こうに続く階があるにはある。その割れ目の間は三、四尺許りであったが、跳躍して越えれば届く距離ではあった。然るに、心の中に少しく怖畏の感が過(よ)ぎった。心中にて思うことには、
『……以前にも五、六度、この道を通って清水には参詣してしまっているではないか。今更、参ったとて、同じことだ。……』
という思いの中で、結局、怖畏するまま、遂に私だけは清水を参詣せず、そこから帰ってしまったのであった。……

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 21 先哲の詩(3)

  游江島二首   菅道伯

孤島如煙接海洲。

曾傳神女此天遊。

龍宮春鎖濤聲靜。

仙窟晝開蜃氣浮。

須有琵琶彈古曲。

欲將杯酒寄風流。

紫霞紅日堪乘興。

不信雨雲朝暮愁。

 

扁舟縹渺到蓬瀛。

雪鎖上宮天路淸。

濡足怒濤觀日出。

停杯危石覺雲生。

龍淵夜識金銀氣。

神窟曉聞鷄犬聲。

大藥人閒求非易。

幾時此地學仙成。

 

[やぶちゃん注:作者「菅道伯」は前田純陽なる人物で、彼は延享五(一七四八)年刊朝鮮通信使唱和集の「対麗筆語」の作者で正徳二(一七一二)年生であることしか調べ得なかった。識者の御教授を乞う。二首目の「蓬瀛」は底本「逢瀛」。国立国会図書館の近代デジタルライブラリーの「相模國風土記」の「藝文部」で訂した。

 

  江島に游ぶ 二首   菅道伯

孤島 煙りのごとく 海洲に接す

曾て傳ふ 神女 此の天に遊ぶと

龍宮 春 鎖して 濤聲(たうせい) 靜かなり

仙窟 晝 開きて 蜃氣 浮く

須らく琵琶をして古曲を彈く有るべく

將に杯酒を風流に寄せんと欲す

紫霞 紅日 興に乘るに堪へたり

信ぜず 雨雲(ううん) 朝暮の愁ひ

 

扁舟(へんしふ) 縹渺(へうべう) 蓬瀛(ほうえい)に到り

雪は鎖す 上宮 天路 淸し

足を濡して 怒濤 日出(につしゆつ)を觀る

杯を停めて 危石 雲生(うんじやう)を覺へ

龍淵 夜識(やしき)す 金銀の氣

神窟 曉聞(げうぶん)す 鷄犬(けいけん)の聲

大藥 人閒(じんかん) 求むに易く非ず

幾時(いくとき)にか 此の地 仙を學びて成れる

 

「蓬瀛」中国で神山とされた蓬莱と瀛州(えいじゅう/えいしゅう)。]

耳嚢 巻之七 地中奇物の事

 地中奇物の事

 文化貮、本所邊去(さ)る何某の下屋しきにて、地を掘(ほり)て奇物を得たり。其太さ貮三寸廻(まは)り、長さ又四五寸あり。彫附有(ほりつけあり)、王瑛(わうえい)と記す。いか成(なる)品哉(や)、更に知る者なし。一説には黄金也といへ共、其證不慥成(たしかならず)、聞(きく)儘爰に記(しるす)。

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。十条前の「屋鋪内在奇崖事」は土中から奇体な家が出現する話で、遠く連関しているような印象は与える。
・「文化貮」西暦一八〇五年。「卷之七」の執筆推定下限は文化三年夏であるから、比較的ホットな噂。
・「太さ貮三寸廻り、長さ又四五寸あり」金色をした円柱状物体であったらしい。円柱の周囲は約六~九センチメートル、長さは約一二~一五センチメートル。真鍮製の文鎮か?……それとも、つい、エロい私は前条に牽強付会致いて……もしや……張形だったりして!……
・「王瑛」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『王渶』とする。孰れも不詳。

■やぶちゃん現代語訳

 地中の奇物の事

 文化二年、本所辺りのさる御仁の下屋敷にて地面を掘って御座ったところ、奇しい物が出土したと申す。
 円柱状の物体であって、その胴部分の円周は凡そ二、三寸程、長さはまた四、五寸はあろうとういう代物で御座った。
 更によく見ると表面に彫り附けた陰刻が御座って、
――王瑛(おうえい)――
と記しあったと申す。
 奇体なる形・色・重量にて、如何なる品物であるか、凡そ、知る者は、これ、御座らなんだ。
 一説に黄金であると申す者も御座ったれど、それも確かな証言ではなく、その後の噂もとんと聴かずなった。
 取り敢えずは当時聴いたままに、ここに記しおくことと致す。

寂しさや華はなのあたりのあすならふ 芭蕉 萩原朔太郎 (評釈)

 寂しさや華はなのあたりのあすならふ

 

「あすは檜の木とかや、谷の老木のいへることあり。きのふは夢と過てあすは未だ來たらず。生前一樽の樂しみの外、明日は明日と言ひ暮して、終に賢者のそしりを受けぬ。」といふ前書がついてる。芭蕉俳句の一風情である幽玄の侘しをりが、新古今體の抒情味で床しく歌はれて居る。

[やぶちゃん注:『コギト』第四十二号・昭和一〇(一九三五)年十一月号に掲載された「芭蕉私見」の中の評釈の一つ。昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の巻末に配された「附錄 芭蕉私見」では、以下のように評釈が全く異なっている。

 

   寂しさや華はなのあたりのあすならふ

 

「あすは檜の木とかや、谷の老木のいへることあり。きのふは夢と過ぎてあすは未だ來きたらず。生前一樽の樂しみの外、明日は明日はと言ひ暮して、終に賢者のそしりを受けぬ。」という前書がついてる。初春の空に淡く咲くてふ、白夢のような侘しい花。それは目的もなく歸趨もない、人生の虛無と果敢なさを表象して居るものではないか。しかも季節は春であり、空には小鳥が鳴いてるのである。

 新古今集の和歌は、亡び行く公卿階級の悲哀と、その虛無的厭世感の底で歔欷してゐるところの、艷に妖しく媚めかしいエロチシズムとを、暮春の空に匂ふ霞のように、不思議なデカダンスの交響樂で匂はせてゐる。即ち史家の所謂「幽玄體」なるものであるが、芭蕉は新古今集を深く學んで、巧みにこの幽玄體を自家に取り入れ、彼の俳句における特殊なリリシズムを創造した。前の「山吹や」の句も、同樣にその芭蕉幽玄體の一つである。

 

文中の『前の「山吹や」の句』は、

 山吹や笠にさすべき枝の形

を指す。この評釈は既に出した。]

霧・ワルツ・ぎんがみ――秋冷羌笛賦 「ひげ・いてふ」 の歌 五首 中島敦

    (以下五首 ひげ・いてふの歌)

 

我も見つ人にも告げむ元街の增德院の二本銀杏(ふたもといてふ)

 

ユウゴオが鬚にかも似る冬枯の增德院の二本銀杏

 

冬來れば二本銀杏鬚めきてそゝけ立ちぬと人に告げこそ

 

朝づく日今を射し來(く)と大銀杏黄金の砂を空に息吹くも

 

朝日子に黄に燃え烟る銀杏の葉背後(そがひ)の海の靑は眼に沁む

 

[やぶちゃん注:「增德院」かつて元町一丁目現在の元町プラザの位置にあった真言宗準別格本山増徳院。現在、地図上では「増徳院元町薬師堂」とあるが、これは旧寺地に昭和四七(一九七二)年に再建された薬師堂である。増徳院は九世紀初頭大同年間の創立と伝えられる(記録は残っていない)古くから元町の中心としてあり、元町自身がこの寺の門前町的存在として発展した。震災後、昭和三(一九二八)年に南区平楽に移築再建され、第二次世界大戦の戦災を経て、その殆んどが平楽へ移ってしまった(ここまでは主に初がつお氏のブログ「竹輪の芯」の増徳院、元町薬師を参照させて戴いた)。この寺にはどこからでも見える二本の大銀杏があったが、震災で寺全体が壊滅的な被害を受けた際に、この銀杏も深刻なダメージを受けたと郷土史関連の本に書かれてあり(にしてもこれらの中島の歌は明らかに昭和八(一九三三)年(横浜高等女学校奉職の年。なお、彼が本格的に横浜市中区本郷町に一家を構えたのは昭和一一(一九三六)年三月初旬である)から同一二(一九三七)年の間で詠まれたもので、その時には未だ黄葉した葉を茂らせていたことが分かる)、現存もしないようであるから、恐らく中島が本歌を詠んだ後に立ち枯れたか、第二次世界大戦の空襲などによって焼失したものかと考えられる。この「鬚銀杏」(特にその消失)について識者の御教授を更に乞うものである。因みに現在我々が外人墓地として認識している場所は、元来はこの増徳院の境内墓地で、平成の初期までは増徳院による供養が実際に行われていた(ここはウィキ横浜外国墓地」による)。]

夜の時 大手拓次

 夜  の  時

 

ちろ そろ ちろそろ

 

そろ そろ そろ

 

そる そる そる

 

  ちろちろちろ

 

され され されされされされされ

 

びるびるびるびる びる

 

[やぶちゃん注:音声詩若しくは表音詩として活字や字配が有意に意味を持っていると考え、明朝太字とし、なるべく原本の印象に近い復元を行ってみた。]

鬼城句集 夏之部 菖蒲

菖蒲    菖蒲かけて雀の這入る庇かな

[やぶちゃん注:「菖蒲かけて」の「菖蒲」は「あやめ」と訓ずる。「軒(のき)の菖蒲(あやめ)」、端午の節句に軒に菖蒲飾りを施す景を言う。疫病除けの呪(まじな)いとして軒先に刺し垂らす。滅多に見ることがなくなった。京男ブログ京男雑記帳の写真で京のその風情を味わえる。]

2013/08/27

遊園地にて 萩原朔太郎 (初出形)

 遊園地にて

遊園地(ルナパーク)の午後なりき
樂隊は空に轟(とゞろ)き
風船(ふうせん)は群集の上を飛び交(か)へり。
今日の日曜(にちえう)を此所に來りて
君と模擬飛行機の座席(ざせき)に乘れど
側(かた)へに思惟(しい)するものは寂しきなり。
なになれば優しき瞳(ひとみ)に
君の憂愁(いうしう)をたたえ給ふか。
見(み)よ この廻轉する機械(きかい)の向ふに
一つの地平(ちへい)は高く揚(あが)り、また傾き、沈(しづ)み行かんとす。
われ既にこれを見(み)たり
いかんぞ人生(じんせい)を展開せざらむ。
今日(こんにち)の果敢なき憂愁を捨(す)て
飛べよかし! 飛(と)べよかし!

明(あか)るき五月の外光の中(うち)
嬉(き)々たる群集(ぐんしふ)の中に混りて
二人(ふたり)模擬飛行機の座席にのれど
側(かた)へに思惟するものは寂(さび)しきなり。

[やぶちゃん注:『若草』第七巻第七号・昭和六(一九三一)年七月号に掲載された。「思惟」のルビ「しい」、「優秀をたたえ給ふか」の「え」、「廻轉」の「廻」(正字でない)はママ。後の昭和九(一九三四)年第一書房刊「氷島」に所収されるが、その際、以下のように改稿されている。

 遊園地(るなぱあく)にて

遊園地(るなぱあく)の午後なりき
樂隊は空に轟き
廻る轉木馬の目まぐるしく
艶めく紅(べに)のごむ風船
群集の上を飛び行けり。

今日の日曜を此所に來りて
われら模擬飛行機の座席に乘れど
側へに思惟するものは寂しきなり。
なになれば君が瞳孔(ひとみ)に
やさしき憂愁をたたえ給ふか。
座席に肩を寄りそひて
接吻(きす)するみ手を借したまへや。

見よこの飛翔する空の向ふに
一つの地平は高く揚り また傾き 低く沈み行かんとす。
暮春に迫る落日の前
われら既にこれを見たり
いかんぞ人生を展開せざらむ。
今日の果敢なき憂愁を捨て
飛べよかし! 飛べよかし!

明るき四月の外光の中
嬉々たる群集の中に混りて
ふたり模擬飛行機の座席に乘れど
君の圓舞曲(わるつ)は遠くして
側へに思惟するものは寂しきなり。

「廻轉木馬」の「廻」は(えんにょう)の上の「回」は「囘」で正字であるが、ブログでは表示出来ない。「たたえ」の「え」はママ。
 所謂、詩集「氷島」に相応しい絶対零度まで詩想を冷却しているのは、寧ろ初出のように私には感じられる。萩原朔太郎は「自作詩の改作について」で自身、改作の悪弊を語っているが、彼自身の改作もご多聞に洩れず、私は改悪されたものの方が多いという気がしている。]

栂尾明恵上人伝記 60 異形の者の笠置の解脱上人を訪なふ語(こと)

 或る時、上人仰せられき。さる比、笠置(かさぎ)の解脱上人來臨して、法談の次に語りて云はく、或る夜、夢にみる事あり。秋の夜の明に晴たる心地して、人あまた來る音にて、草庵の窓を叩き頻に謁(えつ)せんことを望む。仍て扉(とびら)を開いて出で向ふに、異類異形(いるゐいぎやう)の者共其の數あり。其の中にさるべき仁(じん)と覺しくて、雪(ゆき)頭(かしら)を埋(うづ)み霜(しも)眉(まゆ)を覆ひたる老僧、香染の衣の樣なる物を上に着て、面貌(めんめう)ことがら此の世の人とも覺えぬ樣したる體(てい)にて、進みよりて語りて云はく、定めて聞き及び給ふらん、我は是、當初(そのかみ)何某(なにがし)と云ひし者なり、佛法に於ては隨分行學(ぎやうがく)年(とし)積(つも)りて、深理(じんり)を究めたる由を存じき。されば其の比天下に肩を並ぶる輩無かりき。皆是れ世の知る處なり。然るに只此の大乘の本源を究めん事を先として、強(あながち)に波羅提木叉(はらだいもくしや)を專にすることなかりき。仍て破戒穢戒(はかいゑかい)の事のみ交りき。之に依りて大乘の深理を究めたりと雖も、人間一生の中には解行(げぎやう)相應せず。先づ破戒の罪の方(はう)重きに依りて魔道に入れり。古より天竺・晨旦(しんたん)・本朝、世界々々に名を得たる貴僧高僧達、此の戒力なき人、一劫(こふ)二劫乃至三四劫魔道に落ちたる類勝げて計るべからず。此の魔道の習ひ落ちと落ちては急度(きつと)免れ出づること難し。我は二劫に此の業(ごふ)を果(はた)すべきなり。入滅の後、人間の五百餘年に及べば、遙かに久しき心地し給ふらん、されども其の五六百年を萬億重ねても、猶其の一劫にも及ぶべからず。况んや二劫を過ぐべき末を思ふに端(あぢき)なき作法なり。毘婆尸佛(びばしぶつ)・狗留孫佛(くるそんぶつ)なんどの時、此の道に落ちたる僧共だに、猶行末遙(はるか)にてつゞき居たり。されば、其の深理を悟りて軈(やが)て其の任に相應してだにあらば、かゝる難はあるまじけれども、さる機は佛在世にだに希なることなり。まして滅後の比丘に有りがたし。多くは甚深の妙義を悟ると云へども、行は成し難く命は終へ易し。仍て人間一生の中に相應することなければ、先づ破戒無慙(むざん)の罪に引かれて魔道に入るなり。魔道に入りぬれば速に浮かぶことなければ、多劫の間人天に出でて衆生利益の方便をも失ひ、自身所受の苦患(くげん)をも救ふことなし。是れ世尊の掟(おきて)にも叶はず菩薩の願をも失へり。されば、大乘修行の輩戒門(かいもん)を次(つぎ)にすることなかれ。何(いか)にも何(いか)にも習ひ勵むべし。仍て佛の遺教(ゆゐきやう)にも此の戒に依因(よりよ)りて諸の禪定及び滅苦(めつく)の智惠を生ずることを得、是の故に比丘當に淨戒を持つべし。又云はく、若し淨戒なければ諸善功德(しよぜんくどく)皆生ずることを得ず。又云はく我が滅後に於いて當に波羅提木叉を尊重し珍敬(ちんぎやう)すべし。此は則ち是れ汝が大師なり、若し我れ世に住するとも此に異なることなけんと云云。然るに中古より已來人の機(き)劣(れつ)にして心拙(つたな)く、戒を守ること疎(おろそか)なり。仍てさしも世に崇敬(そうきやう)せられし僧侶、多く此の道に入るなり。我等大乘の甚深(じんじん)第一義を明らめしに依りて、此の業をつくのひはてゝは佛果を證すべしと雖も、多劫の間徒に苦患にのみ沈みて過ぎ行くこと、偏に戒力の闕(か)けたるに依れり。今見るに末世なりと雖も道を修する志深切なる類共あり。此の謬(あやま)りを人間に普(あまね)く示し知らしめたくて、此の庵室に列參(れつさん)せり。後學に傳へ、禁(いまし)め給ふべしとて、是は某、彼は何がしといふを聞くに、古皆名を得たりし僧侶達なり。今は既に佛果にも至りぬらんと思ひし人達の、何(いか)にしてかく成り給ひぬらんと不思議に覺えて、さて何なる御苦しみ共か候と問ひ侍りしかば、或は諸の異類の者來りて、身の肉を食ひ命を奪ふ。其の苦みに堪へずして絶え入りて、暫くありて生るれば又異類現じて、頭(づ)・目(もく)・髓・腦(なう)・手(しゆ)・足(そく)を切り取る時もあり。或時は猛火現じて全身を燒く。是れ則ち殺(せつ)・盜(たう)・婬(いん)の果(はた)す處なり。或は黑白の二鬼(き)現じて、鐵の箸(はし)を以て舌をぬき、或は熱鐵輪(ねつてつりん)を飮ましめて遍身(へんしん)焦(たゞ)れて炭の如くなる時もあり。是れ妄語し又は飮酒(おんじゆ)非時食(ひじじき)の果す處なり。此の如き苦み一日に三度五度、人に隨ひ時に依て樣々替るなりと云ひて、書(かき)消すやうに失せぬと見き。此の事を思ふに是れ實語(じつご)なり。尤も愼むべきことなり。我が朝に鑒眞和尚(がんじんわしやう)唐土より渡り給ひて、專ら此の波羅提木叉を弘(ひろ)め給ひしかば、其の比(ころ)頭(かうべ)をそれる類是を守らずと云ふことなし。面々(めんめん)其の上に宗々をも學(がく)しけれども、今は年を逐ひ日に隨ひてすたれはてゝ、袈裟(けさ)衣(ころも)より始めて跡形(あとかた)もなくなれり。適(たまたま)諸宗を學する者あれども、戒をしれる輩はなし。况や又受持(じゆぢ)する類なし。何を以てか人身を失はざる要路(えうろ)とせん。今は婬酒を犯さゞる法師も希に、五辛(ごしん)・非時食を斷てる僧もなし。此の如く不當不善の振舞を以て、法理を極めたりと云ふとも、魔道に入りなば人天の益もなく。自身の苦をも免れずして、多劫の間徒に送らんこと返す返すも損なるべし。如何にしてか古のまゝに戒門を興行(こうぎやう)すべき方便を廻らさんとぞ申されし。大きに其の謂れありとぞ語り給ひし。
[やぶちゃん注:「解脱上人」法相宗の僧貞慶(じょうけい)。既注済み。
「香染」丁子(ちょうじ)を濃く煎じた汁で染めたもの。黄色味を帯びた薄茶色。それよりもやや濃いものは丁子染めという。
「波羅提木叉」梵語“prātimokṣa”(プラーティモークサ)パーリ語“pātimokkha”(パーティモッカ)の漢訳語で比丘・比丘尼が順守しなくてはならない僧伽(僧集団)内の具足戒(禁則及び規則)及びそれを記した戒本(典籍)。
「一劫」四三億二〇〇〇万年。
「毘婆尸佛」釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した七人の仏陀をいう過去七仏(かこしちぶつ)の一人。最も古の仏陀。古い順に毘婆尸仏・尸棄仏(しきぶつ)・毘舎浮仏(びしゃふぶつ)・倶留孫仏(くるそんぶつ)・倶那含牟尼仏(くなごにぶつ)・迦葉仏(かしょうぶつ)・釈迦仏。
「狗留孫佛」同じく過去七仏の倶留孫仏のこと。]

耳嚢 巻之七 俠女凌男子事

 俠女凌男子事

 

 神田三河町に車引(くるまひき)に又八といへる者、米屋に借り有しに度々米やより丁稚(でつち)抔催促に差越(さしこせ)共(ども)、不相濟(あひすまず)。右米やに仕ふる米舂(こめつき)の大男、我なんなく請取(うけとり)見すべし迚彼(かの)又八方へ至りしに、又八は留守にて女房而已(のみ)ありしが、右米舂勢いに乘じ少し戲れを交(まぢへ)て、女房へ催促なしけるに、右言葉戰(あらそ)ひ女の心に障りしや、右女房ぐつと尻まくり、汝らごときの野郎に非をうたるゝべきや、いわんや汝らに慰まるゝ者にあらず、前借(まへがり)は亭主のもの也、けつでもしてみよと罵られ、流石の大男赤面してしほしほ戻りしと、其隣(となり)の者語りける。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。久々の艶笑譚。米舂き男がからかった艶笑的台詞も記載されているともっと面白かったのだが。

・「俠女凌男子事」岩波版の長谷川氏の読みを参考にすると、「俠女(けふぢよ)事男子(なんし)を凌(しの)ぐ事(こと)」と読む。

・「俠女」勇み肌で粋な姐御(あねご)。「俠」には「御俠」で「おきゃん」(「きゃん」は唐音)、若い女性でも活発で慎みのない者のことやその様をいう用法が、今も生きているのは御存知の通り。俠客滅びて御俠残る、である。

・「神田三河町」ウィキの「三河町」によれば、現在の東京都千代田区内神田一丁目と神田司町二丁目付近及び神田美土代町(みとしろちょう)の一部に当る。町名は徳川家康が入府した際に帯同した三河の下級武士がこの地に移り住んだことに由来する。江戸で最も古い町の一つであり、一丁目から四丁目まであった。後、この一帯は明治に入ってから都市スラム化し、大正一〇(一九二一)年に刊行された「東京市内の細民に関する調査」によると約二千人の細民人口が計上されている。因みに岡本綺堂の「半七捕物帳」では、主人公半七親分は神田の三河町に居を構えているという設定となっている、とある。

・「前借は亭主のもの也、けつでもしてみよ」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『前陰は亭主の物也、穴(けつ)にても仕(し)て見よ』で、あからさまに分かりよく書かれている。即ち、「前の方の陰門は亭主又八(名前もハマっている)のもんだから、後ろの尻(けつ)の穴の方でも、舂(つ)いてみな!」で、借金取りの催促に来た大男の仕事が米舂きというのを連想させて、まっこと、エロい(と感じるのは私がエロいからか)。しかし、如何にもストレート過ぎる嫌いがないでもない。折衷して訳してみた。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 粋な姐御は男を凌ぐという事

 

 神田三河町に、車引きを生業(なりわい)と致いておる、又八と申す者が御座った。

 この者、米屋に大層な借りがあって、たびたび米屋より丁稚なんどを催促に差し越させたけれども、一向に払う気配がない。

 ある時、この米屋に奉公して御座った米舂きの大男、

「儂(あっし)が、難なく、しっかと請け取って参りやしょう!」

と請けがって、かの又八方へと訪ねたところが、又八は留守にて、女房ばかり御座ったと申す。

 されば、その米舂き、旦那のおらぬを、これ幸いと、女と見くびって、調子に乗って、ちょいと卑猥な軽口なんどを交えては、女房へ借金の催促を致いたところが、その言い合いの中で、何やらん、男が口にした言葉が、かの女房の勘に触ったものか、その女、

――グッ!

と尻捲くり致いて、御居処(おいど)を露わに致すと、

――キュッ!

と腰を捻り、米舂き男に餅のようなそれを突き出して、

「――お前(めえ)さん如き輩(やから)に非難される筋合いは、これ、あちきには、ねえワ!

――況や、て前(めえ)らなんぞの粗チンにて、慰まるるような、あちきでもネエ!

――米の前借りは、それ、亭主のヤッたもん!

――この前の穴(ケツ)っぽは亭主のもんじゃて!

――されば!

――それ!

――この、後ろの方(かた)の尻(けつ)の穴(あな)にでも!

――一と舂(つ)きしてみいなッツ!」

と罵られ……流石の大男も……思わず赤面致いて……これ、しおしおと帰って御座ったと申す。……

……さてもこれは、その又八の隣りに住んでおる者が、これ、直(じか)に見聴き致いた、という話で御座った。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 1 モース来日早々「よいとまけ」の唄の洗礼を受く

 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京

 

 サンフランシスコからの航海中のこまかいことや、十七日の航海を済ませて上陸した時のよろこびやは全部省略して、この日記は日本人を最初に見た時から書き始めよう。

M1

図―1

M2

図―2

 

 我々が横浜に投錨した時は、もう暗かった。ホテルに所属する日本風の小舟が我々の乗船に横づけにされ、これに乗客中の数名が乗り移った。この舟というのは、細長い、不細工なしろもので、犢鼻褌(ふんどし)だけを身につけた三人の日本人――小さな、背の低い人たちだが、恐ろしく強く、重いトランクその他の荷物を赤裸の背中にのせて、やすやすと小舟に下した――が、その側面から櫓をあやつるのであった。我々を海岸まで運ぶ二マイルを彼等は物凄い程の元気で漕(こ)いだ。そして、彼らは実に不思議な呻り声をたてた。お互いに調子を揃えて、ヘイ ヘイチャ、ヘイ ヘイ チャというような音をさせ、ときにこの船唄(若(も)しこれが船唄であるのならば)を変化させる。彼等は、船を漕ぐのと同じ程度の力を籠めて呻る。彼等が発する雑音は、こみ入った、ぜいぜいいう、汽機の排出に似ていた。私は彼等が櫓の一と押しごとに費す激しい気力に心から同情した。而(しか)彼等は二マイルを一度も休まず漕ぎ続けたのである。この小舟には側面から漕ぐ為の、面白い設備がしてあった。図は船ばたにしっかりと置かれ、かつ数インチつき出した横木を示している(図1)。櫓にある瘤(こぶ)が、この横木の端の穴にぴったりはまる。櫓(図2)は固く縛りつけられた二つの部分から成り、重く、そして見た所如何にも取扱いにくそうである。舟の方で一人が漕ぎ、反対の側で二人が漕ぐ。その二人の中の一人は同時に舵をとるのであった。我々が岸に近づくと、舟子の一人が「人力車」「人力車」と呼んだ。すぐに誰かが海岸からこれに応じた。これは人の力によって引かれる二輪車を呼んだのである。

[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によると、モースを乗せてサンフランシスコを五月二十九日に出発した最新鋭の蒸気船“City of Tokio”号(五〇七二トン)は、出帆から二十一日後の明治一〇(一八七七)年六月十八日(月曜日)の午前零時を少し回った頃に東京湾に入港した(十七日と記載するものもあるが磯野先生の考証によってかく断定出来る)が、また同船は推定では『霧のため陸にあまり近寄るのが危険だった』ためか、『かなり沖に停泊したらしい』とあり、ここでの描写の意味が腑に落ちる。それにしても深夜の暗い海上にあって、美事に和船の構造を微細に観察しているモースには、もう、既に脱帽である!

「犢鼻褌」ここは残念ながら原文は“a loin-cloth”で“hunndosi”ではない。“loin-cloth”の“loin”は腰(複数形なら陰部)で下帯・腰巻(breechcloth)の意。

「二マイル」約3・22キロメートル。以下、度量衡換算は煩瑣を厭わず、なるべく換算して示すつもりである。

「ヘイ ヘイチャ、ヘイ ヘイ チャ」原文は“hei hei cha, hei hei cha”とあるから、「ヘイ ヘイ チャ、ヘイ ヘイ チャ」が正しい。

ぜいぜいいう」冒頭注で示したように太字部分は底本では傍点「ヽ」であるが、ここは原文の全体を示すと“The noise they made sounded like the exhaust of some compound and wheezy engine.”である。“wheezy”は形容詞で、ぜいぜいいう音の・呼吸困難な、という意味であるが、原本のPDF画像を視認しても、特に傍点に相当するような記号や字体変化はないから、石川氏による独自の注意表記記号であることが分かる。以下、傍点部(本テクストでは太字)は特に問題がある場合以外は、この注を略す。

「数インチ」原文“several inches”。1インチは2・54センチメートルで、英語の“several”も、漠然とした3以上で5乃至6を指す語であるから、凡そ8センチメートル弱から15センチメートル強というところ。]

 

 小舟はやっと岸に着いた。私は叫び度い位うれしくなって――まったく私は小声で叫んだが――日本の海岸に飛び上った。税関の役人たちが我々の荷物を調べるために、落着き払ってやって来た。純白の制帽の下に黒い頭髪が奇妙に見える、小さな日本の人達である。我々は海岸に沿うた道を、暗黒の中へ元気よく進んだ。我々の着きようが遅かったので、ホテルはいささか混雑し、日本人の雇人達が我々の部屋を準備するために右往左往した。やがて床についた我々は、境遇の新奇さと、早く朝の光を見度いという熱心さとの為に、恰度(ちょうど)独立記念日の朝の愉快さを期待する男の子たちみたいに、殆ど眠ることが出来なかった。

[やぶちゃん注:この時、モースが止宿したのは、居留地二〇番(現在の山下橋の西南の脇、「横浜人形の家」の辺り)にあった、当時の横浜で最大のホテル「グランドホテル」であった。明治六(一八七三)年に開設されたばかりであった(「横浜近代建築アーカイブクラブ」の「YOKOHAMA GRAND HOTELで画像と詳しい解説が読める)磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、モースは六月二十八日朝まで同ホテルに滞在、ここを拠点に以下に見るように精力的に行動している。]

 


M3

図―3

 

 私の三十九回の誕生日である。ホテルの窓から港内に集まった各国の軍艦や、この国特有の奇妙な小舟や、戎克(ジャンク)や、その他海と舟とを除いては、すべてが新しく珍しい景色を眺めた時、何という歓喜の世界が突然私の前に展開されたことであろう。我々の一角には、田舎から流れてくる運河があり、この狭い水路を実に面白い形をした小舟が往来する。舟夫たちは一生懸命に働きながら、奇妙な船唄を歌う。道を行く人々は極めて僅か着物をきている。各種の品物を持っている者もある。たいていの人は、粗末な、木製のはき物をはいているが、これがまた固い道路の上で不思議な、よく響く音を立てる。このはき物には長方形の木片に細い二枚の木片横に取りつけた物と、木の境から彫った物との二種類があった。第3図は人品いやしからぬ老婦人の足を写生したものであるが、このように太い紐がついていて、その前方が拇指(おやゆび)とその次の指との間に入るように工夫されている。人の通る道路には――歩道というものはないので――木製のはき物と細い人力車の轍(わだち)とが、面白い跡をのこしている。下駄や草履には色々な種類がある。階段のあたりに置かれる麦藁でつくつた小奇麗なのもあれば、また非常に粗末な藁製の、一足一セントもしないようなのもある。これ等は最も貧乏な人達がはくので、時々使い古しが道路に棄ててあるのを見る。

[やぶちゃん注:「私の三十九回の誕生日である」モースはメイン州ポートランドに一八三八年六月十八日に生まれた(因みに本邦の旧暦では天保九年閏四月二十六日で、前年の天保八年八月には大塩平八郎の乱やモリソン号事件が、翌天保一〇年には蛮社の獄が起こっている)。

「戎克(ジャンク)」原文“junks”。“junk”は中国における船舶の様式の一つの外国人の呼称で、中国語の「船(チュアン)」が転訛したマライ語の“jōng”、更にそれが転訛したスペイン語・ポルトガル語の“junco”に由来するとされ、確かに漢字では「戎克」と表記するが、これは当て字であって、中国語では「大民船」又は単に「帆船」としか書かない(ウィキの「ジャンク(船)に拠った)。ここはモースが「小舟」と対比して示しているところから、和船の弁才船(べざいせん)か五大力船(ごだいりきせん)であろう。

「道を行く人々は極めて僅か着物をきている。」原文は“People were going by clothed in the scantiest garments,”。「僅かに」の「に」脱字が疑われる。「道行く人々は如何にも薄い、それも一枚ほどにしか見えない僅かな衣服を纏っているだけである(に見える)」という意味であろう。

「階段のあたりに置かれる麦藁でつくつた小奇麗なのもあれば、」原文は“neat ones made of straw lying about the stairways,”。英語の知識のない私が言うのも何であるが、この“stairways”というのは、ホテルの階上(屋上)若しくは段差をもって張り出したバルコニー等を指しているのではなかろうか? そこに主に日本人の来客向け若しくは従業員用に置かれたものを指しているのではなかろうか? 識者の御教授を乞うものである。]

 


M4


図―4

 

 運河の入口に新しい海堤が築かれつつあった。不思議な人間の代打機械があり、何時間見ても興味がつきない。足場は藁繩でくくりつけてある。働いている人達は殆ど裸体に近く、殊に一人の男は、犢鼻褌以外に何も身につけていない。代打機械は面白く出来ていた。第4図はそれを示しているが、重い錘(おもり)が長い竿に取りつけてあって、足場の横板に坐る男がこの竿を塩梅(あんばい)し、他の人々は下の錘に結びつけられ、上方の滑車を通っている所の繩を引っ張るのである。この繩を引く人は八人で円陣をなしていたが、私の写生図は簡明にする為四人にしておいた。変な、単調な歌が唄われ、一節の終りに揃って繩を引き、そこで突然繩をゆるめるので、錘はドサンと音をさせて墜ちる。すこしも錘をあげる努力をしないで歌を唄うのは、まこと莫迦(ばか)らしい時間の浪費のように思われた。時間の十分の九は唄歌に費されるのであった。

[やぶちゃん注:何と! モースは来日早々、「海堤」(原文“sea wall”:護岸壁・堤防・防潮壁。)の建築現場の地固めで、大勢で重い槌(つち)を滑車で上げ下ろしする際の、かの「よいとまけ」の歌の洗礼を受けていた!]

霧・ワルツ・ぎんがみ――秋冷羌笛賦  踊り子の歌 九首 中島敦

 霧・ワルツ・ぎんがみ

    ――秋冷羌笛賦――

[やぶちゃん注:「羌笛」「きやうてき(きょうてき)」と読む。古代中国の西方の異民族である西羌人の笛及びその音を指す。グーグル画像検羌笛」で独特の形状が、こちらの YouTube 動画で実際の音色を聴くことが出来る。

 以下の序は底本では以下の一行二十四字で下インデント。]

 

 鬼神をもあはれと思はすると、いにしへ人の言ひけむ三十一文字と、な思ひ給ひそ。これはこれ、眼碧き紅毛人が秋の宵の一ときをハヷナふかしつゝ卓の上にもてあそぶてふトラムプの、「三十一(サーチイワン)」。首尾良く字數が三十一に近づきましたらば、御手拍子、御喝采の程をと、先づはいさゝか口上めきたれど。

[やぶちゃん注:「三十一」トランプ・ゲーム“thirty-one”。カードに点数が与えられ、合計が三十一に近い得点を取った者が勝つというもの。]

 

    (以下九首 踊り子の歌)

 

あしびきの山の井の店に踊り子が縞のショールを買ひにけるかも

 

[やぶちゃん注:単なる思い付きであるが、「山の井」はショール・スカーフを扱う横浜元町辺りの店の名ではあるまいか? ご存知の通り、スカーフ・ショール・ストールは横浜の地場産業で横浜スカーフと言えばかつては世界に通用したトップ・ブランドであった。]

 

踊り子は縞のショールを買ひてけりあはれ今年も秋ぞ去(い)ぬめる

 

夕さればルムバよくする踊り子の亞麻色の髮に秋の風吹く

 

シュトラウスのワルツをどれば踊り子の髮はさ搖れつゆたにたゆたに

 

眺めつゝ寂しきものか眉描きし霧の夜頃の踊り子の顏

 

手にとれば薄し冷(つめ)たし柔かし生毛ほのけき踊り子の耳

 

亞爾然丁(あるぜんちん)のタンゴなるらしキャヷレエの窓より洩るゝこの小夜更(さよふ)けに

 

浮かれ男に我はあらねど小夜ふけてブルウス聞けば心躍るも

 

挾み消しつ灰皿に置きさて立ちぬその金口に殘る口紅(べに)はも

卵の月 大手拓次

 卵の月

そよかぜよ そよかぜよ、
わたしはあをいはねの鳥、
みづはながれ、
そよかぜはむねをあたためる。
この しつとりとした六月の日は
ものをふくらめ こころよくたたき、
まつしろい卵をうむ。
そよかぜのしめつたかほも
なつかしく心をおかし、
まつしろい卵のはだのなめらかなかがやき、
卵よ 卵よ
あをいはねをふるはして卵をながめる鳥、
まつしろ 卵よ ふくらめ ふくらめ、
はれた日に その肌をひらひらとふくらませよ。

[やぶちゃん注:「おかし」はママ。「日本詩人愛唱歌集 詩と音楽を愛する人のためのデータベース」内の「藍色の蟇」(白鳳社版「大手拓次全集」の第一巻及び第二巻)では、

   卵の月

そよかぜよ そよかぜよ、
わたしはあをいはねの鳥、
みづはながれ、
そよかぜはむねをあたためる。
この しつとりとした六月の日は
ものをふくらめ こころよくたたき、
まつしろい卵をうむ。
そよかぜのしめつたかほも
なつかしく心ををかし、
まつしろい卵のはだのなめらかなかがやき、
卵よ 卵よ
あをいはねをふるはして卵をながめる鳥、
まつしろい卵よ ふくらめ ふくらめ、
はれた日に その肌をひらひらとふくらませよ。

と「おかし」が正しく「をかし」と表記されている上、十三業行目も「まつしろ 卵よ」ではなく、「まつしろい卵よ」となっており、ここも七行目の「まつしろい卵をうむ。」で有意な休止が入った後、十一行目以降総てが呼びかけと命令形に雪崩れ込む構造からも、「まつしろ 卵よ」という呼びかけはリズムを崩すように思われ、脱字の可能性が高いように思われる。諸本に本詩は掲載されておらず、白鳳社版全集を所持していないため、私個人では今は校合不能である。]

鬼城句集 夏之部 栗の花

栗の花   蠶飼して夜明くる家屋栗の花

[やぶちゃん注:「蠶飼」は蚕飼と同じで「こがひ(こがい)」と読む。単独では春の季語。]

       ふきかへて栗の花散る藁家かな

2013/08/26

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳)  緒言

 

     緒  言

 

 私が最初日本を訪れた目的は単に日本の近海に産する腕足類の各種を研究するだけであった。それで、江ノ島に設けた小さな実験所で仕事をしている内に、私は文部省から東京の帝国大学で動物学の講座を受持つ可く招聘された。殆ど四年日本にいた間、私は国へ送る手紙の重複を避ける為に、毎日日記をつけた。私の滞在の一期限は、後になって発表してもよいと思われた題目に関する記録が出来上らぬ内に、終って了った。が、これは特殊な性質を持っていたのである。即ち住宅及びそれに関係した諸事物の覚え書きや写生図だった。これ等の備忘録は私の著書『日本の家庭及びその周囲』――“Japanese Homes and Their Surroundigs”の材料となったのである。この理由で、本書には、この前著に出ている写生図の少数を再び使用した以外、家庭住宅等に関する記述は極めて僅かしか出て来ない。また私は私が特に興味を持っている問題以外に就ては、記録しようとも、資料を蒐集しようとも努めなかった。日本の宗教――(仏教、神道)――神話、民話等に大して興味を持たぬ私は、これ等を一向研究しなかった。また地理にも興味を持っていないので、横切った川の名前も通過した地域の名も碌(ろく)に覚えなかった。マレー、サトウ等が著した優秀な案内書や、近くは、ホートン・ミフリン会社が出版したテリーの面白い案内書のおかげで、私は私が施行した都邑(とゆう)に於(おけ)る無数の興味ある事物に言及さえもしないで済んだ。これ等の案内書には、このような事柄が実に詳しく書いてあるからである。

[やぶちゃん注:モース来日までの経緯やその動機については磯野直秀先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」(有隣堂昭和六二(一九八七)年刊)の第一部で実に七章を費やされてお書きになっておられる。これは先生が一般向けに書かれた評論の中ではすこぶる附きで面白い(と私は感じる)本であり、本テクストの注でも多用させて戴いているが、私は先生の著作権を侵すつもりは毛頭ないし、当該パートの精緻な考証の美味しい部分だけをコンパクトに纏めること自体が憚られる。是非、当該書をお読み戴きたい。

「腕足類」冠輪動物上門腕足動物門 Brachiopoda に属する、二枚の殻を持つ海産の底生無脊椎動物。腕足綱無関節亜綱舌殻(シャミセンガイ/リンギュラ)目シャミセンガイ科シャミセンガイ属オオシャミセンガイ Lingula adamsi やミドリシャミセンガイ Lingula anatina などのシャミセンガイ類や、頂殻(イカリチョウチン)目イカリチョウチン Craniscus japonicas 、有関節亜綱穿殻目穿殻亜目テレブラツラ科シロチョウチンホウズキガイ Gryphus stearnsi や穿殻亜目カンセロチリス科タテスジチョウチンガイ Terebratulina japonica などが代表種である(何故か Terebratulina 属はカンセロチリス科であってテレブラツラ科ではない。分類タクソン類は保育社平成四(一九九二)年刊の西村三郎編著「原色検索日本海岸動物図鑑Ⅰ」に拠った)。一見、二枚貝に似ている海産生物であるが、体制は大きく異なっており、貝類を含む軟体動物門とは全く近縁性のない生物である。化石ではカンブリア紀に出現し、古生代を通じて繁栄したグループであるが、その後多様性は減少し、現生種数は比較的少ない。門の学名“Brachiopoda”(ブランキオポダ)はギリシャ語の“brachium”(腕)+“poda”(足)で、属名“Lingulida”(リングラ)は「小さな舌」の、“Craniscus”(クラニスクス)は「小さな頭蓋」の、“Gryphus”(グリフス)は「鉤鼻の」、“Terebratulina”(テレブラトゥリナ)は「孔を穿つ小さなもの」の意である(学名語源は主に荒俣宏「世界大博物図鑑別巻2 海産無脊椎動物」(平凡社一九九四年刊)の「シャミセンガイ」の項に拠った)。以下、ウィキの「腕足動物」から引用する。『腕足動物は真体腔を持つ左右相称動物』で、斧足類(二枚貝)のように二枚の殻を持つが、斧足類の殻が体の左右にあるのに対し、『腕足動物の殻は背腹にあるとされている。殻の成分は分類群によって異なり、有関節類と一部の無関節類は炭酸カルシウム、他はキチン質性のリン酸カルシウムを主成分とする。それぞれの殻は左右対称だが、背側の殻と腹側の殻はかたちが異なる。2枚の殻は、有関節類では蝶番によって繋がるが、無関節類は蝶番を持たず、殻は筋肉で繋がる』。殻長は5センチメートル前後のものが多く、『腹殻の後端から肉茎が伸びる。肉茎は体壁が伸びてできたもので、無関節類では体腔や筋肉を含み、伸縮運動をするが、有関節類の肉茎はそれらを欠き、運動の役には立たない。種によっては肉茎の先端に突起があり、海底に固着するときに用いられる』が、種によってはこの『肉茎を欠く種もいる』。『殻は外套膜から分泌されてできる。外套膜は殻の内側を覆っていて、殻のなかの外套膜に覆われた空間、すなわち外套腔を形成する。外套腔は水で満たされていて、触手冠(英語版)がある。触手冠は口を囲む触手の輪で、腕足動物では1対の腕(arm)に多数の細い触手が生えてできている。有関節類では、この腕は腕骨により支持されるが、無関節類は腕骨を持たず、触手冠は体腔液の圧力で支えられる』。『消化管はU字型。触手冠の運動によって口に入った餌(後述)は、食道を通って胃、腸に運ばれる。無関節類では、消化管は屈曲して直腸に繋がり、外套腔の内側か右側に開口する肛門に終わるが、有関節類は肛門を欠き、消化管は行き止まり(盲嚢)になる』。『循環系は開放循環系だが不完全。腸間膜上に心臓を持つ。真の血管はなく、腹膜で囲われた管がある。血液と体腔液は別になっているとされ』、ガス交換は体表で行われる。『1対か2対の腎管を持ち、これは生殖輸管の役割も果たす』。『神経系はあまり発達していない。背側と腹側に神経節があり、2つの神経節は神経環で繋がっている。これらの神経節と神経環から、全身に神経が伸びる』。生態は『全種が海洋の底生動物である。多くの種は、肉茎の先端を底質に固着させて体を固定するか、砂に固着させて体を支える支点とする。肉茎を持たない種は、硬い底質に体を直接固定する。体を底質に付着させない種もいる』。『餌を取るために、殻をわずかに開き、触手冠の繊毛の運動によって、外套腔内に水流を作り出す。水中に含まれる餌の粒子は、触手表面の繊毛によって、触手の根元にある溝に取り込まれ、口へと運ばれる。主な餌は植物プランクトンだが、小さな有機物なら何でも食べる』。以下、「繁殖と発生」の項。『有性生殖のみで繁殖し、無性生殖はまったく知られていない。わずかに雌雄同体のものが知られるが、ほとんどの種は雌雄異体』で、『雌雄異体のものでも、性的二型はあまりない』。『体外受精で、卵と精子は腎管を通じて海水中に放出され、受精するのが一般的。一部の種では、卵は雌の腎管や外套腔、殻の窪みなどに留まり、そこで受精が起こる。その場合には、受精卵は幼生になるまで、受精した場所で保護される』。
「江ノ島に設けた小さな実験所で仕事をしている内に、私は文部省から東京の帝国大学で動物学の講座を受持つ可く招聘された」はモースの記憶違いである。考証は磯野直秀先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の七二頁以下詳しいので参照されたい。

「私の著書『日本の家庭及びその周囲』――“Japanese Homes and Their Surroundigs”」1885年に出版された(出版年については英語版ウィキの“Edward S. Morseでは1885年初版の1888年(ハーパー社)の再版版を掲げ、日本版ウィキの「エドワード・S・モース」ではただ1885年とする。出版経歴を精査された磯野直秀先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の三〇九~三一〇頁の記載に拠ると、1886年(明治19年)であるが、その記載を見ると、『以前からの取り決めにしたがってピーボディ科学アカデミー紀要の一冊として刊行されるとともに、イギリスの出版社を含めた三社から出版され』たとある。磯野先生には失礼ながら、ここで『とともに』と述べておられるものの、実はメジャーに公刊される前の紀要版初版のそれは、実は1885年に刊行されたものなのではなかろうか?)。訳書としては図版の大きさから斎藤正二・藤本周一訳「日本人の住まい」(八坂書房二〇〇二年刊)をお薦めする。

「マレー」原文“Murray”。これは「サトウ」と並列されているので人の名と誤読してしまうが(少なくとも当初、私は誤読した)、人名ではなくイギリスの“John Murray”という老舗の出版社名及び同社の雑誌名である(もとは人名ではある)。以下、ウィキの「マレー(出版社)」によれば、十九世紀にバイロン卿らの文芸書やチャールズ・ダーウィンの「種の起源」など重要な書籍を多く出版、当時、影響力の大きい出版社の一つとして知られていた。またここに示された通り、同名の旅行ガイドブックシリーズを出版していたことも知られ、ドイツの『ベデカー』と共に近代的な旅行ガイドブックの始祖とされる。「日本案内」(原題“A Handbook for Travellers in Japan”)は一八九一年(明治二四年)に編著者としてイギリスの日本研究家で東京帝国大学文学部名誉教師であったバジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain 一八五〇年~一九三五年)らを迎えて刊行されている。ラフカディオ・ハーンやウォルター・ウェストンの寄稿もなされており、現在では貴重な文献となっている、とある。

「サトウ」原文“Satow”。イギリスの外交官サー・アーネスト・メイソン・サトウ(Sir Ernest Mason Satow  一八四三年~一九二九年)。英国公使館の通訳・駐日英国公使・駐清公使を務め、英国における日本学の基礎を築いた。日本名は佐藤愛之助(または薩道愛之助)。日本滞在は文久二(一八六二)年から明治一六(一八八三)年(一時帰国を含む)と、駐日公使としての明治二八(一八九五)年から明治三三(一九〇〇)年までの間を合わせると、計二十五年間になる。息子は植物学者の武田久吉。明治一四(一八八一)年に彼はアルバート・ホーズ(Albert George Sidney Hawes)との共著で旅行ガイドブック“A handbook for travellers in central and northern Japan”(London:
John Murray, 1881
 邦訳題「中部・北部日本旅行案内)を刊行、これは日本を訪れる多くの外国人旅行者や居留外国人の人気を博し、版を重ねた。因みに、主に参照したウィキの「アーネスト・サトウ」によれば、『「サトウ」という姓はスラヴ系の希少姓で、当時スウェーデン領生まれドイツ系人だった父の姓であり、日本の姓とは関係はなかったが、親日家のサトウはこれに漢字を当てて「薩道」または「佐藤」と日本式に姓を名乗った。本人も自らの姓が日本人になじみやすく、親しみを得られやすい呼び方だったことが、日本人との交流に大きなメリットになったと言っていたという。』。また、『私生活は法的には生涯独身であったが、明治中期の日本滞在時に武田兼を内妻とし3人の子をもうけた。兼(カネ)とは入籍しなかったものの子供らは認知し経済的援助を与えており、特に次男の武田久吉をロンドンに呼び寄せ植物学者として育て上げる。また、最晩年は孤独に耐えかね「家族」の居る日本に移住しようとしたが、病に倒れ果たせなかった』とある。

「ホートン・ミフリン会社」「訳者の言葉」で既注。

「テリー」原文“Terry”。これは恐らく一九一四年(大正三年)にアメリカで刊行された“Terry’s Guide To The Japanese Empire”(Boston & New York:
Houghton Mifflin Co.
 邦訳「テリーの日本帝国案内」)で
、アメリカ人フィリップ・トーマス・テリー(Philip Thomas Terry)の著わした旅行ガイドと思われる。邦文サイトの記載がないので仔細は不明であるが、フル・テクストが本書の原文の参考にしている“Internet
Archive: Digital Library of Free Books, Movies, Music & Wayback Machine
ここに発見した。英語に堪能な方は是非どうぞ(PDF版も有り)。]
 

 私が何等かの、時には実は些細なことの、覚え書きか写生かをしなかった日とては一日もない。私は観察と同時に興味ある事物を記録することの重大さを知っていた。そうでないとすぐ陳腐になって了って、目につかぬ。ブリス・ペリー教授は彼の尊敬すべき著述『パーク・ストリート・ペーパース』の中で、ホーソンがまさに大西洋を渡らんとしつつある友人ホレーシオ・ブリッジに与えた手紙を引用している。曰く「常に、君の心から新奇さの印象が消えぬ内に書き始めよ。そうでないと、最初に君の注意を引いた特異な事物も、記録するに足らぬ物であるかのように思われやすい。而もこのような小さな特異な事柄こそ、読者に最も生々とした印象を与える、大切なものなのである。最少限度に於てでも特質を持っている物ならば、何物をも、記録すべくあまりに軽少だと思う勿れ。君はあとから君自身の旅行記を読んで、このような小さな特異性が如何に重大な、そして描写的な力を持っているかに驚くであろう。」


[やぶちゃん注:「ブリス・ペリー教授」原文“Professor Bliss Perry”。アメリカの文芸評論家ブリス・ベリー(Bliss Perry 一八六〇年~一九五四年)。

「パーク・ストリート・ペーパース」原文“Park-Street papers”は、一九〇八年刊行(BostonHoughton Mifflin company)のベリーの文芸評論。目次の中に“The centenary of Hawthorne”(「ホーソーンの百年祭」)とある(やはり“Internet Archive:Digital Library of Free Books, Movies, Music & Wayback Machineここにフル・テクスト有)。] 


 本書にして若し価値ありとすれば、それはこれ等の記録がなされた時の日本は、数世紀亘る奇妙な文明から目ざめてから、数ケ年を経たばかりだという事実に立脚する。その時(一八七七年)にあってすら、既に、軍隊の現代的調練、公立学校の広汎な制度、陸軍、財政、農業、電信、郵便、統計等の政府の各省、及び他の現代的行政の各官署といったような変化は起っていて、東京、大阪等の大都会には、これ等新制の影響が僅かに見られた。それは僅かではあったが、而もたった数年前、武士がすべて両刀を帯び、男子がすべて丁髷(ちょんまげ)に結い、既婿婦人がすべて歯を黒くしている頃の、この国民を見た人を羨ましく思わせる程、はっきりしていた。だがこれ等外国からの新輸入物は田舎の都会や村落を、よしんば影響したにせよ極く僅かしか影響しなかった。私の備忘録や写生図の大部分は田舎に於てなされた。私が旅行した地域の範囲は、北緯四十一度に近い蝦夷(えぞ)の西岸オタルナイから三三度の薩摩の南端に至るといえば大略の見当はつくであろう。これを私は主として陸路、人力車並(ならび)に馬によった。私の記録や写生図の大部分は一千年前につくられた記録と同じであろう。事実、この国は『土佐日記』(エーストン訳)の抄本が、私が毎日書いていた所のものによく似た光景や状態を描いている程、変化していなかったのである。

[やぶちゃん注:「一八七七年」モース来日の明治一〇年。

「オタルナイ」原文“Otaru nai”。小樽の古名。「おたる」という呼称はアイヌ語の「オタ・オル・ナイ」(砂浜の中の川)に由来する。参照したウィキの「小樽市」によれば、『しかしこの言葉は現在の小樽市中心部を指したものではなく、現在の小樽市と札幌市の境界を流れる星置川の下流、小樽内川(現在の札幌市南区にある小樽内川とは別)を示していた。河口に松前藩によってオタルナイ場所(場所請負制を参照)が開かれたが、冬季に季節風をまともに受ける地勢ゆえに不便な点が多かったため、風を避けられ、船の係留に適当な西方のクッタルウシ(イタドリが生えるところ)に移転した。しかしオタルナイ場所の呼称は引き続き用いられ、クッタルウシと呼ばれていた現在の小樽市中心部が、オタルナイ(小樽内、尾樽内、穂足内)と地名を変えることになる。現在の小樽市域にはこの他、於古発(オコバチ)川以西のタカシマ場所、塩谷以西のヲショロ場所も開かれていた』とある。

「エーストン」“Aston”。アーネスト・サトウやバジル・ホール・チェンバレンと並んで初期の著名な日本研究者である英国の外交官ウィリアム・ジョージ・アストン(William George Aston 一八四一年~一九一一年)。一八七五年の“An Ancient Japanese Classic: (the "Tosa Nikki", Or Tosa Diary)”の英訳を指すか。] 

 日記帳三千五百頁を占めるこの材料を、どういう方法で世に表わそうかということは、長年考えはしたが、はっきりした考えがつかなかった。まったく、友人ドクタア・ウィリアム・スターギス・ビゲロウ(私は同氏と一緒に三度目の日本訪問をなした)からの手紙がなかったら、この日記は出版のために準備されなかったことであろう。私は大得意でビゲロウ氏に手紙を出し、軟体動物並に腕足類に関するいくたの研究を片づけるために、セーラムのピーボディ博物館及びボストンの美術館から長い休暇を貰ったことを知らせた。それに対するドクタア・ビゲロウの返事は次の通りである――「君の手紙で気に入らぬことがたった一つある。外でもない、より高尚な、君ほどそれに就て語る資格を持っている人は他にない事の態度や習慣に就て時を費さず、誰でも出来るような下等動物の研究に、君がいまだに大切な時を徒費しているという白状だ。どうだ、君は正直な所、日本人の方が虫よりも高等な有機体だと思わないか。腕足類なんぞは溝へでも棄てて了え。腕足類は棄てて置いても大丈夫だ、いずれ誰かが世話をするにきまっている。君と僕とが四十年前親しく知っていた日本の有機体は、消滅しつつあるタイプで、その多くは既に完全に地球の表面から姿を消し、そして我々の年齢の人間こそは、文字通り、かかる有機体の生存を目撃した最後の人であることを、忘れないで呉れ。この後十年間に我々がかつて知った日本人はみんなべレムナイツ〔今は化石としてのみ残っている頸足析の一種〕のように、いなくなって了うぞ。」

[やぶちゃん注:「ドクタア・ウィリアム・スターギス・ビゲロウ」“Dr. William Sturgis Bigelow”ビゲロー(一八五〇年~一九二六年)はアメリカの日本美術研究家。ボストンの大富豪の家に生まれ、一八七四年にハーバード医学校を卒業したが、続く五年のヨーロッパ留学中に日本美術の虜となる。一八八一年に日本から帰国していたモースと知遇を得、生涯の知己となった。モースとともに明治一五(一八八二)年に来日、フェノロサとともに岡倉天心らを援助、膨大な日本美術の逸品を収集し、アメリカに持ち帰った。それらは死後にボストン美術館に寄贈されたが、このコレクションには、最早、国内では失われた北斎の版画の版木など日本美術の至宝と言うべきものである。滞在中に仏教に帰依し、天台宗などの研究も行っている(主に磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の記載に拠った)。

「セーラムのピーボディ博物館」モースは一八六七年、二十九歳の時に三人の研究仲間とともにマサチューセッツ州エセックス郡セイラムに「ピーボディー科学アカデミー」(一九九二年以降はピーボディ・エセックス博物館。名は寄附と援助をしてくれた銀行家で慈善家でもあった George Foster Peabody に因む)を開き、そこで一八七〇年まで軟体動物担当の学芸員を務めた。その後、一時帰国中の一八八〇年(明治一三年)に同科学アカデミー館長に就任していた(本書刊行の前年一九一六年には同アカデミーから前年に改称したセーラム・ピーボディー博物館名誉館長となっている(磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の記載及び略年表に拠った)。ここで一言言い添えておくと、モースは全く述べていないし、自律的に休暇を得たように書いているが、実は一九一一年にモースは愛妻エレンを失っており、磯野先生によれば、その痛手を思いやった科学アカデミー理事会が一九一二年の会議でモースに対する一年間の有給休暇を決議したというのが事実であった。

「ボストンの美術館」磯野先生の前掲書には特にボストン美術館の役職に就いたとする記載はないが、一八九〇年に同美術館に日本陶器コレクションを寄贈しており、一九一四年にはボストン博物学会会長に就任していることからみても、同美術館の相応な肩書と職務を持っていたと考えておかしくない。

「ドクタア・ビゲロウの返事」一九一三年七月一日附(磯野前掲書による)。

「べレムナイツ」原文“Belemnites”。石川氏は直下に『〔今は化石としてのみ残っている頭足類の一種〕』と割注しておられる。軟体動物門頭足綱鞘形亜綱ベレムナイト目 BelemnoideaBelemnoid)の化石動物。白亜紀末に絶滅した一群で、形態的には現生イカに類似し、特に十腕形上目コウイカ目 Sepiida のコウイカ類の近縁とされている。以下、参照したウィキの「ベレムナイトより引用する。『ベレムナイトは体の背部から先端にかけて鏃(やじり)型の殻を持っていた。この殻の形状に由来し、ベレムナイトの化石を矢石(やいし)と呼ぶ事もある』。『ベレムナイトはデボン紀のバクトリテス類(Bactritoids、真っすぐな殻を持つオウムガイの仲間)を起源とし、化石は下部石炭系から白亜系にかけて産出する。特にベレムナイトはジュラ紀から白亜紀にかけて繁栄しており、中生代の海成層からアンモナイトと共に大量に産出する。絶滅の時期も、アンモナイトと同様に白亜紀の末期である』『ベレムナイト類のいくつかの種、特にヨーロッパのチョーク層から産出するものは示準化石として重要であり、地質学者が地層の年代を決定するのによく用いる。日本国内では北上山地のジュラ紀―白亜紀の地層から産出するが、欧米に比べて産出は極めてまれである』。『ベレムナイトの殻は生存時には外套膜に覆われ、実際には内骨格として機能していた。殻は鞘(rostram)、房錘(phragmocone)、前甲(pro-ostracum)の3部分よりなる。鞘は体の末端部にあり、緻密な石灰質の塊であるため化石として残りやすい。房錘は内臓が入った外套腔のすぐ外側にあり、中空の円錐形をした構造である。現生のオウムガイと同様に、ベレムナイトは房錘の空洞内のガスと体液の比を調整することで浮力を得ていたらしい。前甲は背中側にうすく延びた構造で、現生のコウイカの殻と同様に軟体部を支えていた』。『生時のベレムナイトが軟体部の後端にある房錘で浮力を生じると、軟体部は水より比重が大きいので頭が下を向いてしまう。しかし、さらに後ろにある鞘は中まで緻密に詰まった石灰質の硬い塊であるために比重が大きく、ここで浮力を相殺してバランスをとることができる。つまり遊泳時のベレムナイトには、房錘で上向きの、軟体部と鞘で下向きの力が働き、一種の天秤のような機構が姿勢の水平を保っていたと考えられている』。「殻以外の特徴」の項。『イギリスやドイツなどからは、軟体部の輪郭まできれいに保存されたベレムナイトの化石が見つかっている。それによると、ベレムナイトは殻に比べてはるかに大きな流線型の体と大きな眼を持っていた。また、現生のイカ類と同様に墨汁嚢はあったが、離れたところから射出するように伸びだして獲物を捕らえる触腕はなかった』。『触手に吸盤を持っている現生のイカ類とは異なり、ベレムナイトは小さなフックを持っていた(現生のイカ類でも吸盤の縁には角質のぎざぎざしたリングが装着されているし、カギイカのようにフックをもつ種類も存在する)。ベレムナイトは獰猛な肉食動物で、小さなフックがついた触手で獲物を捕まえては、くちばし状の顎板で肉をむしって食べていた。当時の海棲爬虫類はベレムナイトを捕食しており、例えばイクチオサウルスの腹部からはベレムナイトのフックが大量に見つかっている』とある。] 

 彼の論点は圧倒的で私に弁解の余地を与えなかった。私は浜々出版を目的として材料の整理を始めた。最初私は備忘録を、私が一八八一年から翌年にかかる冬、ボストンのローウェル・インスティテュートでなした日本に関する十二講の表題によって分類することに腹をきめた。その表題というのは次の通りである。

  一――国土、国民、言語。

  二――国民性。

  三――家庭、食物、化粧。

  四――家庭及びその周囲。

  五――子供、玩具、遊戯。

  六――寺院、劇場、音楽。

  七――都会生活と保健事項。

  八――田舎生活と自然の景色。

  九――教育と学生。

 一〇――産業的職業。

 一一――陶器及び絵画芸術。

 一二――古物。


[やぶちゃん注:以上の「表題」は底本ではすべて一文で続いているが、見易くするために字下げの箇条書きで示した。「ローウェル・インスティテュート」原文“Lowell Institute”。ボストンにあったアメリカの実業家で慈善家ジョン・ローウェル(John Lowell, Jr. 一七九九年~一八三六年)記念研究所。当時、ここの公開講座は非常な人気を博し、モースの師ルイ·アガシや作家チャールズ·ディケンズやサッカレーなどが講義している(英語版ウィキの“John Lowell, Jr. (philanthropist)を参考にした)。


 かかる主題のあるものは、すでに他の人々の手で、専門的論文の性質を持つ程度に豊富な挿絵によって取扱われている。それに、私の資料をローウェル・インスティテュートの講義の順に分析することは大変な大仕事で、おまけに多くの新しい副表題を必要とする。やむを得ず、私は旅行の覚え書きを一篇の継続的記録として発表することにした。本の表題“Japan Day by Day,”――エッチ・エー・ガーフィールド夫人とロリン・エー・ディーランド氏とから個々に云って来られた――は、事実ありのままを示している。材料の多くは、この日記がちょいちょい描写する、街頭をぶらつく群衆のように、呑気でまとまっていない。然し今日稀に見る、又は全く跡を絶った多くの事柄を描いている。この日記中の重要な問題はすでに他で発表した。

[やぶちゃん注:「エッチ・エー・ガーフィールド夫人とロリン・エー・ディーランド氏」原文“Mrs. H. A. Garfield and Lorin F. Deland, Esq.,”。不詳。磯野前掲書にも載らない。先のローウェル研究所の公開講座の熱心な受講者か? “Esq.”は“ESQUIRE”の短縮形で、氏名の後につけて、殿・様の意を示す。

 以下の注記の一段は前後に行空けがあり、底本ではポイント落ちで全体が一字下げである。]

 

 

 かかる覚え書きは次の如く各種の記事や著述の形をとっている――『ポピュラー・サイエンス・マンスリー』には「日本に於る健康状態」、「日本に於る古代人の形蹟」(挿画付)、「日本に於るドルメン」(挿画付)の三記事。『ユースス・コムパニオン』に「日本の紙鳶(たこ)あげ」(挿画付)。『ハーバース・マンスリー』には「古い薩摩」と題する記事に四十九の物品を十一枚の木版画で説明して出した。また『日本の家庭とその周囲』と称する本には説明図が三百七図入っている。東京帝国大学発行の『大森の貝塚』には石版図のたたんだもの十八枚に説明図二百六十七図が納めてある。日本の陶器に関する記録はフォトグラヴィア版六十八枚、及び記事中に一千五百四十五個の製造家の刻印を入れた、三百六十四頁の四折判の本となって、ボストン美術館から発行された。また私を最初日本に導いた腕足頼の研究の結果はボストン博物学会から出版された。これは八十六頁の四折判で石版図が二十三枚入っている。

[やぶちゃん注:雑誌名及び書名及び標題の原典表記を以下に列記しておく。

「ポピュラー・サイエンス・マンスリー」“Popular Science Monthly”。一八七二年にエドワード・L・ユーマンスによって創刊されたサイエンス・テクノロジー誌。後に著名な「サイエンス」(“Scientific American”)に吸収された。

「日本に於る健康状態」“Health Matters in Japan”。これは石川氏に失礼乍ら、誤訳であろう。“health”には国家や社会・文化などに於ける健全・活力・安定・繁栄の意があるから、ここは「日本の(近代国家としての)安定状態」といった意味ではなかろうか?

「日本に於る古代人の形蹟」“Traces of Early Man in Japan”。


「日本に於るドルメン」“Dolmens in Japan”。老婆心ながら、ドルメン(dolmen)とは新石器時代から鉄器時代にかけての世界各地で作られた比較的大きな石造墳墓の総称。基礎となる支石を数個、埋葬地を囲うように並べてその上に巨大な天井石を載せる形態をとることが多い。支石墓。ウィキの「支石墓」には、本邦では縄文時代最晩期の九州北西部に出現しており、屈葬や甕棺を伴うなどの独自性も認められるが、『日本の支石墓は、弥生時代前期が終わる頃に、ほぼ終焉を迎えている』とある。


「ユースス・コムパニオン」“
Youth's Companion”。一八二七年から一九二九年まで発行されたアメリカの少年雑誌。

「日本の紙鳶(たこ)あげ」“kite-flying in Japan”。


「ハーパース・マンスリー」“
Harper's Monthly”。ハーパーズ。一八五〇年六月に創刊されたアメリカで二番目に古い雑誌(最古は前掲の“Scientific American”)。もとは格調高い文芸総合評論誌であったが、一九八四年から一般誌となった。

「古い薩摩」“Old Satsuma”。


「日本の家庭とその周囲」既注済み。


「大森の貝塚」“Shell Mounds of Omori”。]

 

 ボストン美術館のジェー・イー・ロッジ氏は、私に本書に出て来る日本の物件のすべてに、その名を表す支那文字をつけることを勧告された。然しそれは、原稿を印刷のため準備するに当って、非常に労力を要するのみならず、漢字に興味を持つ少数の読者は、それ等に相当する漢字が見出さるであろう所のヘップバーンの日英辞典を、持っているなり、あるいは容易に手にすることが出来るであろうことを思って、私は遺憾ながらこの優れた申し出に従うことをやめた。序(ついで)にいうが、我国では漢字のよき一揃えを手に入れることは至難事であろう。かかる活字はライデン市のブリルにでも注文せねばあるまい。

 

 同様な理由でOを長く読ませるŌをも除外した。

[やぶちゃん注:「ジェー・イー・ロッジ氏」“Mr. J. E. Lodge”。不詳。

「ヘップバーンの日英辞典」原文の“Hepburn's Japanese and English Dictionary”の綴りを凝っとみればお分かりの通り、米国長老派教会系医療伝道宣教師でヘボン式ローマ字の創始者ジェームス・カーティス・ヘボン(James Curtis Hepburn 一八一五年~一九一一年)が慶応三(一八六七)年に完成した日本最初の和英辞典「和英語林集成」の改訂版のこと。

「ライデン市のブリル」原文“Brill, of Leyden”。オランダ南ホラント州の都市ライデンのブリル書店。十六世紀から十七世紀にかけて繁栄を極めたライデンでは印刷・出版業が著しい発展を遂げた。なお、同書店は現在も続いている。]

 この日記の叙述には大ざっぱなものが多い。一例として日本人が正直であることを述べてあるが、私はかかる一般的な記述によって、日本に盗棒(どろぼう)がまるでいないというのではない。巡査がいたり、牢屋や監獄があるという事実は、法律を破る者がいることを示している。諺(ことわざ)のようになっている古道具屋の不正直に関しては、三千世界のいずこに正直な古道屋ありやというばかりである。私が日本人はスウェア(神名を妄用)しないということを書いたその記述は、日本人がスウェア語を持っていないという事実に立脚している。日本にだって神様も聖人も沢山いる。だがそれ等の名前は、例えばスペインで聖ペドロ、聖ユアンその他の聖徒の名前が、忌まわしい語句と結びつけられるような具合に、祈りに使用されたり、又は罵られたりしないのである。

 必ず見出されるであろう所の多くの誤謬に就ては、私としては只当時最も権威ある典拠によったということをいい得る丈で、以下の記録をなした後の四十年間に、いろいろと新しい説明が加えられ得るものもあるらしい。一例として富田氏は、私に富士山のフジは、噴火山を意味するアイヌ語だとの手紙を呉れた。

[やぶちゃん注:「古道具屋の不正直」原文は“the proverbial dishonesty of bric-a-brac dealers”。なるほど、意味は解る。


「スウェア(神名を妄用)」原文はただ“swear”である。意味が通じないのでやや変則的な訳し方をなさっている(ここは正直、〔 〕で示すべきであると思う)。“swear”は呪いや怒りを以て~を罵る、~に毒づくの意で、まさに“Damn it!” “God damn it!” “Blast!”(“damn!”の婉曲表現)などの怒りや軽蔑を含む表現を口にする、という動詞である。後の「スウェア語」(原文は“swear words”も、罵り・呪い・毒舌の意(swearword とも綴る)。因みにこの英語は古語英語の“answer”の意の“swerian”に基づくそうである。


「スペインで聖ペドロ、聖ユアンその他の聖徒の名前が、忌まわしい語句と結びつけられる」意味不明。スペイン語の識者の方、御教授、お願い申し上げる。


「富田氏」最後の段落に出る「美術館の富田幸二郎氏」のことであろう。後注参照。

「富士山のフジは、噴火山を意味するアイヌ語だ」富士山の語源については、例えばウィキの「富士山」に、最も古い記録は「常陸国風土記」における「福慈岳」という語であると言われている。また、他にも多くの呼称が存在し、「不二山」若しくは「不尽山」と表記する古文献もある。また、「竹取物語」の伝説もあると掲げる(これは最も天に近い(姫に近い)場所で不老不死の薬を燃やすために現在の富士火口まで警護の武士が沢山登った、だから「富士」というコーダだが。私は「竹取物語」の全体の完膚なきまでの徹底したパロディ構造から、絶対にあり得ないと思っている)更に、「フジ」という長い山の斜面を表す大和言葉から転じて富士山と称されたという説を挙げた後、『近代後の語源説としては、宣教師バチェラーは、名前は「火を噴く山」を意味するアイヌ語の「フンチヌプリ」に由来するとの説を提示した。しかし、これは囲炉裏の中に鎮座する火の姥神を表す「アペフチカムイ」からきた誤解であるとの反論がある』とする。これについては、佐藤和美氏のサイト「言葉の世界」の「北海道のアイヌ語地名」の中の、「富士山アイヌ語語源説について」にこれをしっかりと否定する記載がある(リンク通知を要求しておられるのでHPのアドレスを表記するだけに留める(http://www.asahi-net.or.jp/~hi5k-stu/index_menu.htm))。


 以下には、有意な行空けがある。]

 

 

 私が日本で交をむすび、そして世話になった初期の友人に女子師範学校長のドクタア高嶺秀夫及び彼の友人宮岡恒次郎、竹中成憲両氏がある。富岡氏はその後有名な弁護士になった。彼はそれ迄外交官をしていて、ベルリン及びワシントン大使館の参事官であった。九歳の彼は同年の私の男の子の遊び友達だった。彼はよく私の家へ遊びに来たもので、彼と彼の兄を通して私は諺、迷信、遊戯、習慣等に関する無数の知識を得た。なお実験室で親しく交際した私の特別な学生護君にも感謝の意を表する。帝国大学の綜理ドクタア加藤、副綜理ドクタア浜尾、ドクタア服部、学習院長立花伯爵その他『日本の家庭』の序文に芳名を録した多くの日本人の学生、友人、茶ノ湯、音曲の先生等にも私は負うところが多い。屢々(しばしば)、質問のあるものがあまりに愚なので、笑いに窒息しかけながらも、彼等が私に与えてくれた、辛棒強くも礼義に富んだ返事は、私をして従来かつて記されなかった習慣の多くを記録することを得させた。私の対話者のある者は、英語を僅かしか知らなかった。加ㇾ之(しかのみならず)私の日本語が同様に貧弱だったので、その結果最初は随分間違ったことを書いた。意見を異にするのは礼義でないということになっているので、質問者自身があることがらを了解したと考えると、話し相手も従順に同意するのである!

[やぶちゃん注:「高嶺秀夫」(安政元(一八五四)年~明治四三(一九一〇)年)は教育学者。旧会津藩士。藩学日新館に学んで明治元(一八六八)年四月に藩主松平容保の近習役となったが、この九月に会津戦役を迎えた。謹慎のため上京後、福地源一郎・沼間守一・箕作秋坪の塾で英学などを学び、同四年七月に慶応義塾に転学して英学を修めた。同八年七月、文部省は師範学科取り調べのために三名の留学生を米国に派遣留学させることを決定し、高嶺秀夫は愛知師範学校長伊沢修二や同人社学生神津専三郎とともに選ばれて渡米、一八七五年(明治八年)九月、ニューヨーク州立オスウィーゴ師範学校に入学して一八七七年七月に卒業した。この間、校長シェルドンや教頭クルージに学んでペスタロッチ主義教授法を修めつつ、コーネル大学のアガシ(モースの師でもあった)の弟子ワイルダー教授に生物学を学んだ。明治一一(一八七八)年四月の帰国(この時、偶然、二度目の訪日のために同船していたモースと知り逢った)後は東京師範学校(現在の筑波大学)に赴任して師範教育のモデルを創出した。その後,女子高等師範(現在のお茶の水女子大学)教授・校長などを歴任した(「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。


「宮岡恒次郎」(慶応元・元治二(一八六五)年~昭和一八(一九四三)年)は明治一一年当時の高嶺秀夫の書生であった(「九歳の彼は同年

の私の男の子の遊び友達」とあるのは誤り。宮岡は東京大学予備門の生徒で十二歳であったのに対し、モースの息子ジョンは当時未だ七歳であった)。宮岡は後にフェノロサとも親しくなって、彼の美術品収集旅行の際の通訳を勤めて右腕のような存在となった。明治二〇(一八八七)年に東京帝国大学法科大学を卒業して外交官となり、後に弁護士となった。以上は磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によるが、同書には宮岡のモースに関わる回想録が引用されている(一六〇~一六一頁)。「彼の兄」とあるのは次に示す通り、「竹中成憲」と同一人物。


「竹中成憲」竹中八太郎(元治元(一八六四)年~大正一四(一九二五)年)。宮岡恒次郎の兄。明治八(一八七五)年に慶応義塾入学、次いで東京外語学校を経て、明治一三(一八八〇)年には東京大学医学部に入学、同二〇年に卒業後軍医を経て、開業医となった。実弟とともにモースやフェノロサの通訳や助手を務めた。以上も磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によるが、同書には竹中八太郎成憲の肖像写真が載る(二五八頁)。


「帝国大学の綜理ドクタア加藤」加藤弘之(天保七(一八三六)年~大正五(一九一六)年)は政治学者・官僚。この明治一〇(一八七七)年に東京大学法文理三学部綜理となった。啓蒙思想家であったが晩年は国家主義に転向した。明治三九(一九〇六)年には枢密顧問官となった。モースが直接に契約を結んだの東京大学の代表者は彼である。


「副綜理ドクタア浜尾」浜尾新(はまおあらた 嘉永二(一八四九)年~大正一四(一九二五)年)は教育行政官・官僚。明治一〇(一八七七)年に法理文三学部綜理補として加藤を補佐した。後に文部大臣・東京帝国大学総長・内大臣・貴族院議員・枢密院議長などを歴任。


「ドクタア服部」服部一三(はっとりいちぞう 嘉永四(一八五一)年~昭和四(一九二九)年)は文部官僚・政治家。明治一〇(一八七七)年に浜尾新とともに法理文三学部綜理補であった(予備門主幹を兼任)。後に貴族院議員。これら加藤・浜尾・服部の三名が東京大学法理文三学部の最終決定権を掌握していた。


「学習院長立花伯爵」立花種恭(天保七(一八三六)年~明治三八(一九〇五)年)は元奥州下手渡(しもてど)藩(現在の福島県)藩主で幕府官僚。嘉永二(一八四九)年に藩主となる。大番頭を経て文久三(一八六三)年には若年寄に上り、明治元(一八六八)年一月に老中格、会計総裁となったが、徳川家の組織縮小に伴って罷免され、同三月に帰藩。次いで同年閏四月に上洛。藩領の半分は現在の福岡県筑後三池にあって、下手渡の藩士は奥羽越列藩同盟に参加、三池の藩士は新政府傘下にあったため藩組織は分裂、同年八月、奥羽鎮撫の朝命を受けるもこれが同盟離脱とみなされて仙台藩兵の攻撃で下手渡陣屋が焼失、翌九月、三池に移った。明治二年、三池藩知事。廃藩置県に伴って東京に移住、モース来日の同一〇(一八七七)年に華族学校(現在の学習院大学)初代校長となっていた。以後宮内省用掛・貴族院議員などを歴任(「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。]


 いろいろな点で助力を与えられた美術館の富田幸二郎氏及び平野ちゑ嬢に私は感謝する。また一緒に日本に行った私の娘ラッセル・ロッブ夫人は、私が記録しておかなかった多くの事件や経験を注意してくれた点で、ラッセル・ロッブ氏はタイプライタアで打った原稿の全部を批評的に読み、余計なところを削除し、句章を短くし、各方面にわたって粗雑なところを平滑にしてくれた点で、私は負う所が多い。最後に、呪詛(じゅそ)の価充分なる私の手記を読んでタイプライタアで打ち、同時に粗糙(そぞう)なるを流陽に、曖昧(あいまい)なるを平易にし、且つ絶間なく私を鞭撻(べんたつ)してこの仕事を仕上げさせてくれたマアガレット・ダブリュー・ブルックス嬢に対して、私は限りなき感謝の念を感じる。

E・S・M  

[やぶちゃん注:「富田幸次郎」(嘉永三(一八五〇)年~昭和元・大正一五(一九二六)年)は岡倉天心の弟子。一九〇七年にボストン美術館で天心の助手となり、一九三一年~一九六二年の永きに亙ってアジア美術部長を努めた。


「平野ちゑ」不詳。識者の御教授を乞う。


「ラッセル・ロッブ」“Russell Robb”。「夫人」は「私の娘」ともあるのだが不詳。磯野先生の本にも登場しない。識者の御教授を乞う。

「粗糙」肌理が粗いこと。


「マアガレット・ダブリュー・ブルックス嬢」「訳者の言葉」で既注済み。]

 

 

[やぶちゃん注:以下の目次はリーダと頁数を省略した。底本は三巻分冊であるが、この目次は三つを合わせて示した。目次の内、「1」末の藤川玄人の解説(著作権存続)の部分は省略した。]

     目  次


 序――モース先生(石川千代松)


 訳者の言葉


 緒 言


第 一 章 一八七七年の日本――横浜と東京


第 二 章 日光への旅


第 三 章 日光の諾寺院と山の村落


第 四 章 再び東京へ


第 五 章 大学の教授職と江ノ島の実験所


第 六 章 漁村の生活


第 七 章 江ノ島に於る採集


第 八 章 東京に於る生活


第 九 章 大学の仕事

 

第 十 章 大森に於る古代の陶器と貝塚


第 十一 章 六ヶ月後の東京


第 十二 章 北方の島 蝦夷


第 十三 章 アイヌ


第 十四 章 函館及び東京への帰還


第 十五 章 日本の一と冬

 

第 十六 章 長崎と鹿児島とへ

第 十七 章 南方の旅


第 十八 章 講義と社交


第 十九 章 一八八二年の日本

第 二十 章 陸路京都へ


第二十一章 瀬戸内海


第二十二章 京都及びその附近に於る陶器さがし


第二十三章 習慣と迷信

 

第二十四章 甲山の洞窟

 

第二十五章 東京に関する覚書

 

第二十六章 鷹狩その他

 

耳嚢 巻之七 諸物制藥有事 その三

   又(諸物制藥有事)

 梅幷(ならびに)梅干を種(たね)共(とも)に切(きり)て手際を見するは廚僕(ちゆうぼく)の名技とて、もろこしがらを庖丁にて切、右もろこしがらの氣を庖丁に請取切(うけとりきる)に、梅干の種(たね)肉とも奇麗に切れる事妙也。

□やぶちゃん注
○前項連関:「諸物制藥有事」その三。対象を砕く妙法から切るそれでも連関。
・「もろこしがら」高粱(コーリャン)こと、単子葉植物綱イネ目イネ科モロコシ(蜀黍・唐黍)Sorghum bicolor の実。アフリカ原産の一年草。高さ約二メートル。茎は円柱形で節があり、葉は長大で互生する。夏に茎の頂きに大きな穂を出し、赤褐色の小さな実が多数出来る。古くから作物として栽培され、実を食用として酒・菓子などの原料や飼料にも用いる。「とうきび」ともいう。

■やぶちゃん現代語訳

 諸物には相応に対象の属性を制する薬効があるという事 その三

 梅並びに梅干を種と一緒に綺麗に切るという鮮やかな手際を見せることは、これ、料理人の名技として御座るが、まず唐黍(もろこし)の実をその庖丁にて切り刻み、その唐黍の実が持って御座るところの気を庖丁に移し取ってから、やおら、梅の実や梅干を切ると、これ、種・梅肉ともに、美事――スッパ!――と奇麗に切れること、これ、まっこと、不思議なことにて御座る。

せみなくみみみなりのみのひだりみみ

……本未明の蟬鳴を寝床で聴きながら……左耳ではもはやそれ(遠くの小さな蝉の鳴き声)が全く聴こえなくなっおり、似たような耳鳴りだけがしているのだという衝撃の事実を発見した……

題しらず 萩原朔太郎

 

 題しらず 

 

なじかはよるのふしどをぬけいで

 

けうとき闇路にまよびゆくらむ

 

よごとにおびゆるちのみごのいめにはあらで

 

わがたましひはふるへつつ

 

びたすらにふるへつつこよびも見るらむ

 

ああまたあさましきかのものゝの姿をば

 

             (一九一三、五、)

 

[やぶちゃん注:底本の筑摩版全集第二巻の「習作集第八巻(愛憐詩篇ノート)」より。太字は底本では傍点「ヽ」。「かのものゝの」はママ。最後の「の」は衍字。「いめ」は夢の上代語。]

尾瀬の歌――三平峠より尾瀨へ 三首 中島敦

      ――三平峠より尾瀨へ――

いつしかに會津境も過ぎにけり山毛欅(ぶな)の木の間ゆ尾瀨沼靑く

水芭蕉茂れる蔭ゆ褐色の小兎一つ覗きゐしかも

兎追ひ空しく疲れ草に臥(ふ)しぬ山百合赤く咲けるが上に

[やぶちゃん注:「三平峠」「さんぺいたうげ(とうげ)」は群馬県北東部、利根郡片品村北部にあり、沼田から会津に通じる沼田街道が越える峠で尾瀬峠ともいう。標高一七六二メートル。鳩待峠・富士見峠とともに群馬側からの尾瀬への三つの入口の一つ。眼下に尾瀬沼を見下ろし眺望がよい。
「山百合赤く咲ける」これは思うに単子葉植物綱ユリ亜綱ユリ目ユリ科ユリ属コオニユリ Lilium leichtlinii ではなかろうか。花季は七月から八月で、花弁はオレンジ色や濃褐色で暗紫色の斑点を生じる(濃褐色のタイプは遠望した際、「赤」と表現しておかしくない)。標準種のオニユリ Lilium lancifolium の同属近縁であるが、オニユリが通常の平野や低山性であるのに対し、コオニユリは山地の草原や湿原に生育する。オニユリによく似ているが、全体が一回り小さく、ムカゴを作らず、種子を作る点で異なる(ここまでウィキの「オニユリ」の記載を参考にした)。尾瀬にも植生する。]

六月の雨 大手拓次

 六月の雨

六月はこもるあめ、くさいろのあめ、
なめくぢいろのあめ、
ひかりをおほひかくして窻(まど)のなかに息をはくねずみいろのあめ、
しろい顏をぬらして みちにたたずむひとのあり、
たぎりたつ思ひをふさぐぬかのあめ、みみずのあめ、たれぬののあめ、
たえまないをやみのあめのいと、
もののくされであり、やまひであり、うまれである この霖雨(ながあめ)のあし、
わたしはからだの眼といふ眼をふさいでひきこもり、
うぶ毛(げ)の月(つき)のほとりにふらふらとまよひでる。

[やぶちゃん注:「霖雨(ながあめ)」は底本ルビでは「な あめ」。創元文庫版で訂した。]

鬼城句集 夏之部 柿の花

柿の花   澁柿の落花する井を汲みにけり

2013/08/25

Julie Harris memorial

Here's looking at you, Abra!

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日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第一巻 色刷口絵 訳者の言葉



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石川欣一氏の「訳者の言葉」及びモースの「緒言」を含め、改めて第一章から電子化注釈を行うので、冒頭注を再度、附す。なお、底本第一巻冒頭にある石川千代松氏(万延元(一八六〇)年~昭和一〇(一九三五)年。進化論の普及と生物学の啓蒙に努めた日本動物学界の第一人者の一人で、モースの薫陶を受け、モース帰国後には彼の講義を纏めた「動物進化論」を出版している。訳者石川欣一氏の実父でもあり、石川氏が二十三歳の時にアメリカのプリンストン大学に留学(大正七(一九一八)年)した際、父の恩師であるモースの知遇を得、その縁が本書の翻訳出版に繋がった)の「序――モース先生」は本文の完成を待って電子化する予定である)。

日本その日その日 E.S.モース 石川欣一訳

[やぶちゃん注:本作は三十年以上前の日記とスケッチをもとにエドワード・モースが一九一三年(当時既に七十五歳)から執筆を始め、一九一七年に出版した“Japan Day by Day”を石川欣一氏(明治二八(一八九五)年~昭和三四(一九五九)年:ジャーナリスト・翻訳家。彼の父はモースの弟子で近代日本動物学の草分けである東京帝国大学教授石川千代松。氏の著作権は既にパブリック・ドメインとなっている)が同年(大正六年)に翻訳されたものである。

 底本は一九七〇年平凡社刊の東洋文庫版全三巻を用いた。但し、電子化は私の海産無脊椎動物と江の島地誌への個人的興味の関係から、江ノ島臨海実験所の開設と採集(主に来日した明治一〇(一八七七)年七月十七日から八月二十九日までの期間の事蹟)に関わる第五章を最初に行った【2013年8月25日を以ってブログにて当該「第五章 大学の居受嘱と江ノ島の実験所」から「第八章 東京に於る生活」(底本の「1」の本文末尾)に至る四章分を完遂した】。今回はそれを受けて正規に冒頭から電子化と注釈を始める。

 なお、「第一章 一八七七年の日本――横浜と東京」及び「第二章 日光への旅」の網迫氏の「網迫の電子テキスト乞校正@Wikiの未校訂のベタ・テクスト電子データ(上記リンク先はそれぞれのその網迫氏のデータ)を加工データのベースとして一部で活用させて戴いた。但し、リンク先のテクスト・データは私の所持する底本とは漢字及び平仮名・送り仮名表記に非常に多くの異同があり、また有意な量の省略箇所があって、スキャンニングのミスだけではなく、明らかに異なる版――私の底本としたものから抄録して一部表記を手直ししたもの――を元にしたものと思われ、実際にはあまり多くは利用させて戴いてはいないし、総ては私の底本と視認をして校合してあるので、無批判な流用ではないことをお断わりしておく。

 図版は私が底本からスキャンニングしてブラッシュ・アップし、適宜相応しい場所に配した。石川氏が文中に施した割注については原本を尊重する目的と、一部の内容(特に生物学的記載)の一部に誤りが認められる関係上、原則、私の注に移行した。  半角アラビア数字は将来の縦書化を考え、全角に代えた。実際には促音と推定し得るルビ(本書のルビには促音はない)は私の判断で促音化してある。  ブログ版では傍点「ヽ」を太字に代えた。  各段落の前後は私の注も含めて前後一行空きとした。原注(『*』の附されたもの)は底本が前後一行空きとしているので、前後二行空きとした。底本原注はポイント落ちであるが無視した。

 エドワード・シルヴェスター・モース(Edward Sylvester Morse 一八三八年~一九二五年)は明治期に来日して大森貝塚を発見、進化論を本邦に移植したアメリカ人動物学者でメーン州生、少年時代から貝類の採集を好み、一八五九年から二年余り、アメリカ動物学の父ハーバード大学教授であった海洋学者ルイ・アガシー(Jean Louis Rodolphe Agassiz 一八〇七年~一八七三年)の助手となって動物学を学び、後に進化論支持の講演で有名になった。主に腕足類のシャミセンガイの研究を目的として(恩師アガシーが腕足類を擬軟体動物に分類していたことへの疑義が腕足類研究の動機とされる)、明治一〇(一八七七)年六月に来日、東京大学に招聘されて初代理学部動物学教授となった。二年間の在職中、本邦の動物学研究の基礎をうち立てて東京大学生物学会(現日本動物学会)を創立、佐々木忠次郎・飯島魁・岩川友太郎・石川千代松ら近代日本動物学の碩学は皆、彼の弟子である。動物学以外にも来日したその年に横浜から東京に向かう列車内から大森貝塚を発見、これを発掘、これは日本の近代考古学や人類学の濫觴でもあった。大衆講演では進化論を紹介・普及させ、彼の進言によって東大は日本初の大学紀要を発刊しており、また、フェノロサ(哲学)やメンデンホール(物理学)を同大教授として推薦、彼の講演によって美術研究家ビゲローや天文学者ローウェルが来日を決意するなど、近代日本への影響は計り知れない。モース自身も日本の陶器や民具に魅されて後半生が一変、明治一二(一八七九)年の離日後(途中、来日年中に一時帰国、翌年四月再来日している。電子化本文一段落目を参照)も明治一五~一六年にも来日して収集に努めるなど、一八八〇年以降三十六年間に亙って館長を勤めたセーラムのピーボディ科学アカデミー(現在のピーボディ博物館)を拠点に、世界有数の日本コレクションを作り上げた。その収集品は“apanese Homes and Their Surroundings”(一八八五年刊)や本作「日本その日その日」とともに、近代日本民俗学の得難い資料でもある。主に参照した「朝日日本歴史人物事典」の「モース」の項の執筆者であられる、私の尊敬する磯野直秀先生の記載で最後に先生は(コンマを読点に変更させて戴いた)、『親日家の欧米人も多くはキリスト教的基準で日本人を評価しがちだったなかで、モースは一切の先入観を持たずに物を見た、きわめて稀な人物だった。それゆえに人々に信用され、驚くほど多岐にわたる足跡を残せたのだろう』と述べておられる。

 注に際しては、原文を“Internet Archive: Digital Library of Free Books, Movies, Music & Wayback Machineにある電子データに拠り()、また、磯野直秀先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」(有隣堂昭和六二(一九八七)年刊)も一部参考にさせて戴いた。磯野先生は昨年、鬼籍に入られた。この場を以って深く哀悼の意を表するものである。藪野直史【ブログ始動:2013年6月26日/第一章始動:2013年8月25日】]

訳者の言葉

一 先ず第言現在の私がこの著述の訳者として適当なものであるかどうかを、私自身が疑っていることを申し上げます。時間が不規則になりやすい仕事に従事しているので、この訳も朝夕僅かな暇を見ては、ちょいちょいやったのであり、殊に校正は多忙を極めている最中にやりました。もっと英語が出来、もっと翻訳が上手で、そして何よりも、もっと翻訳のみに費やす時間を持つ人がいるに違いないと思うと、私は原著者と読者とに相済まぬような気がします。誤訳、誤植等、自分では気がつかなくても、定めし存在することでしょう。御叱正を乞います。

二 原著はマーガレット・ブルックス嬢へ、デディケートしてあります。まことに穏雅な、親切な、而もエフィシエントな老嬢で、老年のモース先生をこれ程よく理解していた人は、恐らく他に無かったでしょう。

三 Morse に最も近い仮名はモースであります。私自身はこの文中に於るが如く、モースといい、且つ書きますが、来朝当時はモールスとして知られており、今でもそう呼ぶ人がありますから、場合に応じて両方を使用しました。

四 人名、地名は出来るだけ調べましたが、どうしても判らぬ人名二、三には〔?〕としておきました。また当時の官職名は、別にさしつかえ無いと思うものは、当時の呼び名によらず、直訳しておきました。

五 翻訳中、( )は原著にある括弧、又はあまり長いセンテンスを判りやすくするためのもの。〔 〕は註釈用の括弧です。

六 挿絵は大体に於て原図より小さくなっています。従って実物大とか、二分一とかしてあるのも、多少それより小さいことと御了解願い度いのです。

七 価格、ドル・セントは、日本に関する限り円・銭ですが、モース先生も断っておられますし、そのままドル・セントとしました。

八 下巻の巻尾に雪索引、各頁の上の余白にある内容表示、上下両巻の巻頭にある色刷の口絵は省略しました。

九 先輩、友人に色々と教示を受けました。芳名は掲げませんが、厚く感謝しています。

一〇 訳者は一九一七年十月、ホートン・ミフリンによって出版され、版権はモース先生自身のものになっています。先生御逝去後これは令嬢ラッセル・ロッブ夫人にうつりました。この翻訳はロッブ夫人の承諾を受けて行ったものです。私は先生自らが

  Kin-ichi Isikawa
  With the affectionate regards of
      Edw. S. Morse
  Salem
  June 3. 1921

と書いて贈って下さった本で、この翻訳をしました。自分自身が適当な訳者であるや否やを疑いつつ、敢てこの仕事を御引き受けしたのには、実にこのような、モース先生対する思慕の念が一つの理由になっているのであります。

  昭和四年  夏

            訳  者

[やぶちゃん注:凡例に相当するものであるので、まず、私の電子化での相違部分を以下に注する。

 「一」について。誤訳及び誤植は暴虎馮河ながら、不審な箇所は逐一原文と対比し、幾つかの注で誤訳若しくは誤植と思われる部分を理由を述べた上で指摘させて戴いた。

 「四」について。人名・地名は私独自に調べたものを可能な限り注するよう心掛けた。官職名は読者が誤読する可能性があるものについては原文と対比検討し、必要に応じて注を附した。

 「五」について。まずは本文を大切にするという観点から、石井氏の割注『註釈用の括弧』〔 〕部分は原則、本文から外して私の注で示し、必要な場合は更に私の解説を附しておいた。

 「六」挿絵はスキャンニングによって底本画像より遙かに大きくなっている。ブラッシュ・アップに際しては、“Internet Archive: Digital Library of Free Books, Movies, Music & Wayback MachineにあるPDF版画像で比較視認し、汚損と思われるもののみを除去するように心掛けた(かなり原画にないシミや描画の線のズレなどが認められる)。

 「八」の内、ブログ版では電子化した部分に対して小見出しを附したが、これは石川氏の言う『各頁の上の余白にある内容表示』に基づくものではなく、全く私の、内容から閃いたオリジナルなものであるので注意されたい。正式な当該の小見出しの原文を読まれたい向きには上記サイトのPDF版をお薦めする。なお、この見出しは将来的にサイト一括版を作製する際には、内容把握や検索には非常に価値があり、魅力的でもあるので、独自に原文と訳を示したいと考えている。また、『上下両巻の巻頭にある色刷の口絵』は、やはり前記PDF版より画像としてトリミングしたものを掲げた。今回はその上巻の巻頭彩色口絵(水彩画)を、このブログの冒頭に掲げた。なお、そのキャプションには、
 
 

 JAPANESE WOMAN AND CHILD

 Watercolor by Bunzou Watanabe,1882

  
 
とある。同時代人では後に洋画家となる渡辺文三郎がいるが、一八八二年当時は満十九歳、別人か。識者の御教授を乞うものである。

 「十」言わずもがなながら、モース氏の著作権及び石川氏の翻訳著作権もともに消滅している。

 次に、幾つかの注を附す。

「時間が不規則になりやすい仕事に従事している」当時の石川氏は大阪毎日新聞社学芸部員であった。

「原著はマーガレット・ブルックス嬢へ、デディケートしてあります。まことに穏雅な、親切な、而もエフィシエントな老嬢で、老年のモース先生をこれ程よく理解していた人は、恐らく他に無かったでしょう」原典には以下の献辞がある。

  

  

     TO MARGARETTE W. BROOKS
WITHOUT WHOSE EFFICIENT HELP AND UNFLAGGING
  INTEREST THE MANUSCRIPT WOULD NEVER
    HAVE BEEN READY FOR THE PRESS
    THIS WORK IS AFFECTIONATELY
        DEDICATED

  

  

  
貧しい私の英語力で訳すなら、

  
  

――マーガレット・W・ブルックスへ
――あなたの優れた助力と、たゆまぬ関心なしに
――この原稿が、印刷に向けて準備を
――整え終えることは決してなかった
――愛を込めて
――捧げる
  


  

恐らく、この原文、いや、寧ろ石川氏の文章を読んだ多くの方は、何かある種の感懐を抱かれるに違いない。この「デディケート」“dedicate”、献呈されている女性、それも「老嬢」とある Margarette Brooks という「エフィシエントな」“efficient”(有能な、敏腕の)「老嬢」とする女性である。わざわざ凡例の項目の中に掲げて示すその語り口(確かに献辞に用いられた文句ではあるが――わざわざ外来語を混入させて――である。石川氏は本書の本文では――極めて外来語の使用に禁欲的なのに――である)には、石川氏が何か言外にある感懐を含んで述べている感じがするのである。そうしてそれは、磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の記述(二九九~二三〇〇頁)で、目から鱗となるのである。少し長いが、私はどうしてもそこを引用したいのである。そこはモースが遂に愛する日本を後にして最後に帰国した一八八三年(明治一六年)の直後に関わる記載部分である。因みに、この引用の直前で磯野先生は、モースにはその後も来日の機会はあり、弟子達も頻りに再訪を勧めた。しかし遂に彼は日本の土を踏まなかったと述べる。その理由について磯野氏ははっきりと『近代文明にまだ毒されていなかった日本を愛していたモースは、日本の変貌した姿を見るに耐えなかったのだ』と記しておられる(注記記号が二箇所に入るが省略した)。

   《引用開始》

 三度目の日本訪問で収集した二九〇〇点の陶器は、みなセーラムの自宅に運びこまれた。モースは、それを収納するために自宅を増築しなければならず、また借金が増えた。しかし、その後も彼は、日本の知人や日本を訪れるアメリカの友人を通じて陶器や民具の収集を続けたので、資料は増す一方であった。

 膨大な資料を抱えこんだモースを助けたのは、隣に住むマーガレット・ブルックスだった。モースはエセックス研究所の学芸員をも兼務していたが、マーガレットはその同僚ヘンリー・メイソン・ブルックスの娘だった。彼女は、モースが日本を訪れる頃から彼の秘書役をつとめていたのである。

『その日』はモースの日本滞在中の日記を基礎にしているが、日本にいた頃のモースは、毎日日記をつけていたのではなく、何日かに一度まとめて記録を綴ったらしい。『その日』の記述に日付が少ないこと、話が前後したり、あちこちに飛んだりするのは、そのためのようである。それはさておき、その何日かに一度したためたスケッチ入りの「日記」を、モースはセーラムのマーガレットに送っていた。彼女はそれをまとめ、モースの身内に見せるなど、モース不在中その管理をしていたのである。

 マーガレットがいつ生まれたのか不明だが、少女の頃から博物学に興味をもち、ピーボディ科学アカデミーの夏期学校に一八七七年、八〇年、八一年と三度も参加している。そういうことからモースを手助けするようになったのだろうが、几帳面で勤勉で、モースにはうってつけの秘書だった。モースの悪筆は大したもので、ミミズがのたくったような筆跡は友人たちも持てあましたものだったが、それを判読するのも彼女の役目だった。陶器コレクションの五〇〇〇枚のカードもマーガレットのきちんとした筆跡で書かれているし、後年『その日』の執筆にあたって、日記を整理する役目も果たした。マーガレットは「真珠」を意味するので、モースは彼女を「お玉さん」と呼んでいたというが、このお玉さん抜きでは、その後のモースの仕事は考えられない。

 マーガレットはついに結婚せず、モースがこの世を去る日まで秘書役を果たした。『伝記』の著書ウェイマンは、「マーガレットは疑いなくモースを愛していた」と記している。おそらく、そうであろう。

   《引用終了》

この後、モースは一九一一年、七十四歳の時に四十八年連れ添った妻エレンを失う。そして一九二五年十二月二十日の未明に脳溢血で亡くなった。前夜、彼は隣に住んでいたマーガレット・ブルックス姉妹を訪ねていた。「お玉さん」はその夜、『庭を横切ってモースを戸口まで見送った』(ここは磯野先生の当該書掉尾の一読忘れ難いしみじみとした叙述部分である)……生前のモースの最後の姿を見送ったマーガレット……お珠さん……私はなにか目頭が熱くなってくるのである……。

「ホートン・ミフリン」原本画像を視認すると、“BOSTON AND NEW YORK” “HOUGHTON MIFFLIN COMPANY”とある。“Houghton Mifflin Harcourt”として現存する出版社である(リンク先は英語版の同社のウィキ)。

「一〇」の献辞は、

  石川欣一へ
  心を込め(た挨拶を以っ)て
     エドワード・S・モース
  セイラムにて
  1921年6月3日

である。]

 

耳嚢 巻之七 諸物制藥有事 その二

 又

 無益なる事なるが、火打石を少(ちい)さくなすには、草ほふきを以(もつて)たゝくに妙也。

□やぶちゃん注
○前項連関:「諸物制藥有事」その二。草箒を用いるというのは、単に玄能や木槌で叩くと一点に力が加わるだけで、火花も散ってよろしくないのを、草箒を被せた上から叩くと力が分散し、火花も出ずに小さく砕けるといったことではなかろうか?
・「草ほふき」草箒。仮名遣は正しくは「くさはうき」「くさばうき」である。乾燥させたナデシコ目ヒユ科バッシア属ホウキギ(ホウキグサ) Bassia scoparia の茎や枝を束ねて作った箒のこと。小さな刷毛大のものもある。
・「以たゝくに妙也」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、『以たゝけば砕くる事妙なるよし』とある。その方が分かりがよいので、ここの訳はこちらを採る。

■やぶちゃん現代語訳

 諸物には相応に対象の属性を制する薬効があるという事 その二

 あまり役に立つ知識ではないが、大きな火打石を小さく割ろうと思う時には、草箒を被せて叩くと、妙なくらい容易に砕けるとのこと。

題しらず 萩原朔太郎

 

 題しらず

 

たれかは知らねど

わが庭の隅に來てたゝづめる男あり

なにごとかは知らねども

その大き指のあひだより

くさばなの種はひとつひとつにこぼれ行く

こぼれて落つる地(つち)のうへに

もゝいろの庭の隅に

そこはかとなく這ひあるく

這ひありくものに形なく音もなし

いま逢魔がときのかなしびは

うら白きともらひ草の葉よりぬけいで

やるせなきわがこゝろの影にしのび泣く

いつの日のいつのことにかありけむ、

             ⅩⅨ.Ⅴ.Ⅰ ⅨⅠⅢ

 

[やぶちゃん注:底本の筑摩版全集第二巻の「習作集第八巻(愛憐詩篇ノート)」より。「たゝづめる」の「づ」はママ。最後のクレジットは一九日五月一九一三年の謂いであるが、誤っている。底本の校訂本文では「1913」年の正しいローマ数字に直して、クレジット全体が「ⅩⅨ.Ⅴ.MCMXCIII」というクレジットに訂してある。]

尾瀬の歌 二首 中島敦

    尾瀨の歌

熊の棲む尾瀨をよろしと燵岳(ひうちだけ)尾瀨沼の上に神(かん)さびせすも

しろじろと白根葵の咲く沼邊岩魚(いはな)提(さ)げつゝわが歸りけり

[やぶちゃん注:底本第三巻の年譜では昭和九(一九三四)年の『八月、同僚と尾瀬、奥日光に遊ぶ』とはある(因みにこの直後の翌九月には『喘息発作のため生命をあやぶまれる』と記されてある)――あるのだが、しかし――しかし私は――いろいろ調べる中で実は、その前年に単独で行った尾瀬での嘱目吟なのだ――とほぼ確信するようになったのである。――それについては「中島敦短歌拾遺」の昭和八(一九三三)年の「手帳」にある、本歌群の草稿の注記を是非、参照されたい。
「燧岳」燧ヶ嶽。福島県南西端にある火山。海抜二三五六メートル、南西中腹に尾瀬沼・尾瀬ヶ原が広がっている。
「しろじろ」の後半は底本では踊り字「〲」。
「神さびせすも」「万葉集」から見られる上代表現で、「神さび」は「神(かみ)さび」→「かむさび」→「かんさび」で神のように振る舞うこと、そのように神々しいことをいう名詞(「さび」はもと名詞につく接尾語「さぶ」で、そのものらしい様子でいるの意)。「せす」(サ変動詞「す」未然形+上代の尊敬の助動詞(四段型)「す」)で、なさる、の意。「も」は詠嘆の終助詞であろう。
「白根葵」キンポウゲ目キンポウゲ科シラネアオイ Glaucidium palmatum。日本固有種の高山植物で一属一種。草高は二〇~三〇センチメートルで花期は五~七月、花弁はなく、七センチメートルほどの大きな淡い紫色をした非常に美しい姿の萼片を四枚有する。和名は日光白根山に多いこと、花がタチアオイ(アオイ目アオイ科ビロードアオイ属タチアオイ Althaea rosea )に似ることに由来する(以上はウィキの「シラネオアイ」を参照した)。「しろじろと」が不審であったが、「尾瀬ガイドネット」の「花ナビ」の「シラネアオイ(白根葵)」によれば、『花のサイズが大きくて綺麗で』、『白花から赤花、青花まで色の変化が見られる』とあるので問題ないようである(但し、『尾瀬に多いのは青紫色のシラネアオイ』ともある)。但し、この頁をよく読むと、『シラネアオイは高山に生息し湿原には生息しない』とあり、『綺麗で目立つので採取され移植されていることも』結構あり、『尾瀬の山小屋の前に植えられているのをよく見る』とあるから、中島敦が見たものは実は人為的に植生されたものかとも思われる。『尾瀬の山小屋によく植えられてい』て『綺麗だが、シラネアオイがワサワサ咲いていると、違和感を覚える』と現地ガイドが記すぐらいだから、この花は、狭義の尾瀬沼の本来のイメージには、実は属さない花であると言えるようだ。済みません、野暮を言いました、敦さん。]

かげの心 大手拓次

 かげの心

あなたのそばに
それとなく生ひしげつた
つるくさの葉のやうに、
わたしは よそごころをよそほつて、
あちらにも こちらにも
むらがりさいてゐます。

鬼城句集 夏之部 牡丹

牡丹   玄關に大きな鉢の牡丹かな

       祝産育

      ぼうたんの蕾に水をかくるなよ

2013/08/24

珠めぐみ悼

あなたの救ったラゴンの子は――今、深海で真珠の泪を流しています――

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第八章 東京に於る生活 了


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図―218

 

 材木を切る斧は非常に重くて、我国のと同様に役に立つらしく思われる。刃は手斧(ちょうな)と同じく、柄に横についている(図218)。

[やぶちゃん注:この斧の絵は不審である。こんな斧は見たことがない。何か、モースは何か別な道具を勘違いしているのではあるまいか?]

 

 私が前に書いた薩摩芋を洗う男は、薩摩芋を煠(ゆ)でる店に属していることに気がついた。子供達はこの店に集って釆て、薩摩芋一つを熱い昼飯とする。店の道具は大きな釜二つと、奇麗に洗った芋を入れた籠十ばかりと、勘定台にする小さな板とで、この板の上にはポカポカ湯気の出る薩摩芋若干が並べてある。このような店が、全市いたる所にある。我国の都会でも、貧乏な区域で、似寄った店を始めたらいいだろう。日本の薩摩芋は、あまり味がしないが、滋養分はあるらしい。

 



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図―219

 

 葡萄が出始めた。色は薄綠でまるく、葡萄としては非常に水気が多く、味はいささか酸(す)い。よく熟していないように見えるが、咽喉がかわいている時食うと非常にうまく、おまけに極く安い。大きな房が、たった二セントか三セントである。葡萄を売る店はどこもみな、興味の深い方法でそれを陳列している。板を何枚か縦に置いて、それに何かの常緑灌木をかぶせ、この葉から出ている小さな木の釘に、葡萄の房をひっかける(図219)。笊(ざる)の葡萄は常緑樹の葉を敷物にしている。果物店は、季節季節の、他の果物も売る。先日、大学で講義をした後で、咽喉がかわいた上に、埃っぽい往来を長い間行かねばならなかったので、私は人力車の上で葡萄を食おうとした。如何に巧みに口に入れても、日本人は見つけて微笑した。多分野蛮人の不思議な習慣に就いて話し合ったことであろう。

 


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図―220

 

 この国の魅惑の一つに、料理屋とお茶屋とがある。給仕人はみな女の子で、挙動はやさしく、身なりはこざっばりしていて、どれも頭髪を品よく結っている。図220は流行のまげを示している。時々弓形の褶曲(しゅうきょく)曲が垂直に立っていて、より大きな褶曲が上にのっているのを見ることもある。

[やぶちゃん注:「褶曲」原文は“folds”。石川氏は地質学の褶曲で訳された。確かに見た目の印象はそれで美事な訳であると思われる。ただ私はモースの専門(特に中でもシャミセンガイ)から見ると、彼には“fold”の持つところの蛇のとぐろの意――いや――解剖学上の襞(ひだ)・褶襞(しゅうへき)がイメージされているように秘かに感じているのである。]

 

 東京のような広い都会で、町や小径が一つ残らず曲っていて狭い所では、最も詳細に教えて貰ったにしても、ある場所を見出すことは殆ど不可能である、チャプリン教授と私とが、あの面白い籠細工の花生けをつくる男をさがそうとした時には、車夫達が全力をつくして、たっぷり二時間はかかった。その最中に、我々は広くて急な長い石段に出喰わしたが、その上から東京がよく見えた。この大きな都市を見渡して、その向うに江戸湾の海運を眺めた所は、誠に見事だった。煙筒(えんとつ)は一本もなく、かすんでさえもいない有様は、煙に汚れた米国の都会に比して、著しい対照であった。勿論風も無かったのである。風の吹く日は非常に埃っぽく、万事ぼやっとなる。急な坂をのぼり切ると、低い小舎がいくつかあり、ここで休息して景色に見とれ、奇麗な着物を着た娘達の出すお茶を飲む。私は一人の娘に頭の写生をすることを承諾させた。有難いことに、遠慮を装ったものか、あるいは本当に遠慮したのか、とにかく向うを向いたので、私は彼女の頭髪を立派に写生することが出来た。

[やぶちゃん注:出版上、底本の平凡社東洋文庫版はこれを以って「日本その日その日 1」が終わる。私はこの章の広角のロング・ショットのエンディングが殊の外、好きだ。ここには僕らが忘れてしまった。日本が――確かにある――と感ずるからである。]



これを以って「
日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第八章 東京に於る生活」が終わった。次回からは遂に、冒頭から本格的な「日本その日その日」の完全やぶちゃん注釈附テクスト化へ入る。――これは確かに――僕の大きな――そして孤独な――自己拘束(アンガジュマン)に他ならない――

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第八章 東京に於る生活 19 モース先生の礼讃に……今どきのレイシストどもを見ると……全く以って恥ずかしい限り……

 江ノ島で私は日本の着物をつくつて貰った。これは一本のオビでしめるので、私には実に素晴しく見えた。裾は足の底から三インチの所までいたが、外山にこれでいいかと聞くと、彼は微笑してそれでは短かすぎる、もう二インチ長くなくてはならないといった。だが一体どんな風に見えるかと、強いて質ねた結果、彼にとっては、我々が三インチ短いズボんをはいた田舎者を見るのと同じように見えるのだということを発見した。換言すれば、如何にも「なま」に見えるのであった。かくて、ゆるやかな畳み目や、どちらかといえば女の子めいた外見で、我々には無頓着のように思われる和服にも、ちゃんときまった線や、つり合いがあるのである。支那を除けば、日本ほど衣服に注意と思慮とを払う国は、恐らく無いであろう。官職、位置、材料、色合い、模様、紐のむすび方、その他の細いことが厳重に守られる。

[やぶちゃん注:1インチは2・5センチメートル。

「換言すれば、如何にも「なま」に見えるのであった」原文は“In other words, it looked “green”.”。この“green”は青二才の、といった意味で、未経験の・未熟な・初(うぶ)な・間抜けな、という謂いである。

「官職、位置」原文は“Official rank and station, material and color, design, form of knot, and other details are rigidly adhered to. ”と続いているので、「地位」「身分」「階級」の方がよい。]

 

 東京、殊に横浜には、靴屋、洋服屋その他の職業に従事する支部人が沢山いる。彼等は自国の服装をしているので、二、三人一緒に、青色のガーゼみたいな寛衣の下に、チュニックに似たズボンを着付け、刺繍した靴をはいて、道をベラベラと歩いて行く有様は、奇妙である。彼等を好かぬ日本人の間に住んでいるのだが、日本人は決して彼等をいじめたりしない。一年ばかり前から、日本と支那とは、今にも戦争を始めそうになったりしているのだが、両国人は雑婚こそせざれ、平和に一緒に暮している。この国の支那人は、米国の東部及び中部に於るが如く、基督(キリスト)教的の態度で取扱われているが、太平洋沿岸の各州、殊にカリフォルニアで彼等を扱う非基督教的にして野獣的な方法は、単に日本人が我我を野蛮人だと思う信念を強くするばかりである。サンフランシスコにある、天主教及び新教の教会や、宗教学校や、その他のよい機関は、輿論(よろん)を動かすことは全然出来ぬらしい。宣教師問題、及び海外の異教徒達を相手に働いている諸機関を含むこれ等の事柄に触れることは、鬱陶しくて且つ望が無い。然し、まア、この位にしておこう。

[やぶちゃん注:「チュニックに似たズボン」原文“tunic-like breeches”。石川氏は直下に『〔婦人の使用する一種の外衣〕』と割注している。“tunic”は英和辞典には、古代ギリシャ・ローマ人が着たガウンのような上着・現代の女性用のベルト附きのショートコート・緩いブラウスなどとあり、「大辞泉」には①細身に仕立てた七分丈の女性用上着。②古代ローマで着用したゆるやかなシャツ風の衣服、また、それに似た衣服で服の基本型の一つ。最も単純な形のドレス、とある。

「日本と支那とは、今にも戦争を始めそうになったりしている」日清戦争の勃発は十七年後の明治二七(一八九四)年であるが、日本は開国以来、清とは明治七(一八七四)年の台湾出兵やこの後の明治一二(一八七九)年の第二次琉球処分といった国境問題で既に燻りが生じていた。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第八章 東京に於る生活 18 恐るべき洋服の着こなし

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図―217

 悪口をいったり、変な顔をして見せたりした結果、熊に食われて了った男の子の話は、この親切と行儀のいい国には必要がない。日本の役人には我々の衣服をつける者がかなり多く、大学の先生のある者も、時に洋服を着るが、何度くりかえして聞いても、嘲笑されたり、話しかけられたり、注目されたりした者は、一人もいない。私は、若し私が日本人のみやびやかな寛衣を着て、米国の都会の往来――田舎の村にしても――へ出たとしたら、その時経験するであろう所を想像しようと試みた。日本人のある者が、我々の服装をしようとする企ては、時として滑稽の極である。先日私が見た一人の男は、殆ど身体が二っ入りそうな燕尾服を着、目まで来る高帽に紙をつめてかぶり、何番か大き過ぎる白木綿の手袋をはめていた。彼はまるで独立記念日の道化役者みたいだった。図217は彼をざっと写生したものである。彼はみすぼらしい男で、明かに上流階級には属していない。当地の博覧会の開会式の時には、最も途法もない方法で、欧米の服装をした人々が見られた。一人の男は、徹頭徹尾小さすぎる一着を身につけていた。チョッキとズボンとは、両方から三、四インチ離れた所まで来たきり、どうにもならず、一緒にする為に糸でむすんであった。かなり多くの人々は、堂々たる夜会服を着て、ズボンを膝まで来る長靴の中に押し込んでいた。この上もなく奇妙きてれつな先生は、尻尾が地面とすれすれになるような燕尾服を着て、目にも鮮かな赤いズポンつりを、チョッキの上からしていた。衣服に関しては、日本固有のものと同様、我々のに比べてより楽な固有の衣服を固守する支那人の方が、余程品位が高い。だが私は、我国の人々が、日本風に着物を着ようと企てる場合を思い出して[やぶちゃん字注:「風」の右に「*」。]、こんな変な格好をした日本人に大いに同情した。日本服といえば、私は大学で、教授のある者が時々洋服を着て来るのに気がついた。然し非常に暑い日や非常に寒い日には和服の方が楽だが、実験室では袂(たもと)が始終邪魔になるということであった。

[やぶちゃん注::「悪口をいったり、変な顔をして見せたりした結果、熊に食われて了った男の子の話」何かの教訓寓話らしいが、無学な私にはピンとくるものがない。何方か、どうか、御教授を。

「三、四インチ」約2・5~10センチメートル強。これはもうパンパンの域を遙かに越えている。「糸でむすんであった」というのが、やってくれちゃってる!

「日本風に着物を着よう」ここは原文が“to dress à la Japonaise”で、「日本風」をフランス語のイタリック体表記にしてある。これは所謂、ヨーロッパで見られた日本趣味「ジャポニスム」(フランス語 Japonisme)がフランスを中心として起こったことを半ば皮肉っている。

 以下、底本では注記は全体が一字下げのポイント落ちである。注記後にも有意な一行空きがある。]

 * かかる企ての一つを、其後我々はギルバートとサリヴァンの「ミカド」の舞台で見た。日本人にはこれが同様に言語道断に見えた。

[やぶちゃん注:『ギルバートとサリヴァンの「ミカド」の舞台』原文“on the stage in the Mikado of Gilbert and Sullivan”。その後とあるが、“The Mikado”は一八八五年三月十四日にロンドンで初演された喜歌劇(オペレッタ)。脚本はウィリアム・S・ギルバート(William Schwenck Gilbert)、作曲はアーサー・サリヴァン(Arthur Seymour Sullivan)。参照したウィキの「ミカド」(オペレッタ)によれば、当時、ロンドンのナイツブリッジで日本博覧会が人気を博し、イギリスでは空前の日本ブームが起きていた。「ミカド」はこのブームに乗じた一種のジャポニスムまたはオリエンタリズムの作品である。当時の英国の世相、わけても上流階級や支配階級に対する辛辣な風刺を含む一方で、作品の舞台を英国からできるだけ遠い「未知の国日本」に設定することで、「これは遠い国の話で英国とは関係ない」として批判をかわそうとしている、とある。日本は専横な「ミカド」の好き嫌いがそのまま法律となっている国でその首都は「ティティプー」、主人公で流しの旅芸人(実はミカドの皇太子)の名はナンキ・プー、劇中では帝が中国の皇帝のように振舞ったり、中国風の衣装を着た踊り子が登場したり、旅芸人ナンキ・プーは三味線をギターのように持って、素手で弾く場面があったりと、まあ、荒唐無稽噴飯物の梗概は、どうぞ、リンク先で。私は実は喜劇が嫌いである。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第八章 東京に於る生活 17 不思議な芝居?

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図―216

 停車場から来る途中で、道路に人だかりがしているのに気がついた。見ると片側に楽隊台みたいな小屋があって、そこで無言劇をやっている。身振りが実に並外れていて、また奇妙極る仮面を使うので、私は群集同様、熱心にそれを見た。オーケストラの、風変りなことは、サンフランシスコで聞いた支那楽以上であるが、あの耳をつんざくような喇叭(ラッパ)の音がしないことは気持がよい。私は人力車を道路の一方に引き寄せて、この見世物を写生しようとしたが、肩越しにのぞき込む者が非常に多い上に、前に立って目的物をかくさんはかりにする者共もあったので、単にその光景の印象を得たに止った(図216)。竿から下っている提灯は濃い赤であった。
[やぶちゃん注:これは一体、何だろう? お囃子がつき、舞台が明らかに高い桟敷上にあって、しかも無言劇だ?……実際、たかっている群集も、こりゃ、半端じゃあない……どこかの社寺の祭か神楽か? 歌舞伎か何かの特殊な興行か?……御存知の方は是非とも御教授を願いたい。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第八章 東京に於る生活 16 驚愕の籠細工

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図―212

 

 ある友人が、東京のごみごみした所で、昆虫や海老や魚類やその他の形をした、小さな懸け花生けをつくる、籠製造人を発見した。私は彼をさがし出して、数個の標本を手に入れた。図210は蔓のある瓢(ひさご)の形をしている。葉及び昆虫の翅のような平な面は、蓙(ござ)編みで出来ているが、他の細部はみな本当の籠細工である。裏に環があって、それで壁に懸け、内部には水を入れる竹の小筒が入っている。図211はザリガニを、図212は鯉を示すが、この写生図は、鯉の太って曲った身体や、尾の優美な振れ方を、充分にあらわしてはいない。図213は螇蚚(ばった)で、かなりよく出来ているが、こんな物にあってすら脚の数は正しく、そして身体の適当な場所から出ている。図214の蜻蛉も、かなりな出来である。図215は籠細工で表現するにしては、奇妙な品だが、形は実に完全に出来ているから、菌類学者なら殆どその「属」を決定するであろう。これ等の藁製品は長さ六インチか八インチで、値段はやすく、十セントか十五セントであった。これ等及びこの性質のすべての細工に関する興味は、日本人が模製する動物の形態を決して誤らぬことである。昆虫の脚は三対、蜘蛛は四対、高等甲殻類は五対、そしてそれ等がすべて身体の正確な場所から出ている。これ等を正確にやり得る原因は、彼等が自然を愛し、かつ鋭い観察力を持っているからである。かかる意匠の多くは象徴的である。

 


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図―214

 


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図―215

 

[やぶちゃん注:ここに示された驚異の籠細工と似た工芸品を御存知の方は、是非、お教え願いたい。

「ザリガニ」原文“crayfish”。この単語は確かに一義的には甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱ホンエビ上目十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目ザリガニ下目 Astacideaのザリガニ類及びその料理用の肉を指すが、これは図でご覧の通り、抱卵(エビ)亜目イセエビ下目イセエビ上科イセエビ科イセエビ Panulirus japonicas 以外の何ものでもなく、“crayfish”も二義的にはイセエビ類をも指すから「ザリガニ」の訳は戴けない。なお、この単語の“cray”は古語である中期フランス語“crevice”「クレヴィース」(現代フランス語の“écrevisse”。これはやはりフランス料理よろしく一義的にはザリガニであるが、やはり二義的に“écrevisse de mer”、即ちイセエビの方言として用いられている)に由来する。後半の“-vice”は、その音が“fish”に似ていたことが、一般的な海産生物の英語の接尾辞として一致したことによる造語であろう。なお、この“crevice” 自体、フランク語(現在のオランダとその周辺に当たる地域でメロヴィング朝時代(七世紀以前)に使われた言語)由来で、英語“crab”(蟹)も同語源で、実際、フランス語で“Écrevisse”はかに座を意味する(語源部分は一部ウィキザリガニ」の記載を参考にした)。

「長さ六インチか八インチ」これらの工芸品は約15センチメートルから大きくても20センチメートル強であったらしい。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第八章 東京に於る生活 15 家内芸術


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図―209

 近頃私は日本の家内芸術に興味を持ち出した。これは我国で樺の皮に絵をかいたり、海藻を押したり、革細工、貝殻細工その他をしたりするような仕事と同じく、家庭で使用する物をつくることをいう。意匠の独創的と、仕上げの手奇麗な点で、日本人は我我を徹底的に負かす。この問題に関する書物は、確かに米国人にも興味があるだろうし、時間が許しさえすれば、私はこの種の品物を片端から蒐集したいと思う。台所には、深いのや洗いのや、色々形の違ったバケツがあるが、そのどれにも通有なのは、辺から一フィートあるいはそれ以上つき出した、向きあいの桶板二枚で、それ等を横にむすぶ一片が柄になる。これ等各種のバケツは、それぞれ用途を異にする。桶もまた非常に種類があり、図209のような低いのは足を洗うのに使用し、他の浅い形のは魚市場で用いる。桶板のあるものが僅かに底辺から出て、桶を地面から離しているのに気がつくであろう。博覧会には結構な漆器、青銅、磁器にまざって、いろいろな木で精巧を極めた象嵌(ぞうがん)を施した、浅い洗足桶があった。装飾の目的に桶を選ぶとは変った思いつきであり、そして我々を驚かしたのは意匠、材料及び用途の聳動(しょうどう)的新奇さである。米国人で日本の芸術を同情的に、且つ鑑賞眼を以て書いた最初の人たるジャーヴェスは、欧州人と比較して、特にこれ等の特質を記述している。曰く「それは装飾的表現に於て、より精妙で、熱切で、変化に富み、自由で、真実に芸術的であり、そして思いがけぬことと、気持のよい驚愕と、更に教義のあらゆる程度にとって、理解される所の美的媚態と、美的言語の魅力とを豊富に持っている。」

[やぶちゃん字注:底本では末尾の「持っている」の「る」の右に注記指示記号のアスタリスク「*」が附されて、有意な一行空きの後に以下の注記が記されている。底本では注記は全体が一字下げのポイント落ちである。]

 

 * ジェー・ジェー・ジャーヴェス著『日本芸術瞥見』一八七六年。(J. J. Jarves, A Glimpse at the Art of Japan.

[やぶちゃん注:「ジェー・ジェー・ジャーヴェス」James Jackson Jarves(一八一八年~一八八八)ジャーヴェスはアメリカの新聞人にして美術評論家。ボストン生。視力障害と健康上の理由からハーバード大学への進学を断念、南アメリカ・太平洋の島々を巡った後にハワイに居住。ハワイで最初の新聞“The Polynesian”をホノルルで発刊した。ハワイ政府から委任されて外交使節として欧米とハワイの条約締結交渉に携わった。一八五一年にはヨーロッパを訪問、フィレンツェに住んで美術収集に従事してメトロポリタン美術館を始め。多くのギャラリーや美術館に美術品を入れた。ここに記された「日本芸術瞥見」の書誌は“New York: Published by Hurd and Houghton, 1876.”。なお、ジャーヴェスはその書の中で近世までの日本について、『元冠の役や秀吉による朝鮮侵犯があったが、ほぼ対外的にはどこからも侵犯されることはなかった「偉大な平和の国」“Land of Great Peace”(ジャーブス30頁以下)と表現している。そして、この「偉大な平和の国」の下で、ヨーロッパの中世から近代にかけての血なまぐさい宗教戦争に比して庶民と宗教諸制度との親和的調和がなされ、勤勉であること、洗練されたマナーと独自のフアッションなどが創られたと』絶賛している。以上の事蹟と引用は雄松堂書店の公式サイト内のエメ・アンベールの「幕末日本図絵」についての「吉田隆「『幕末日本図絵』出版の背景-日本の「開国」と「日本研究」―」の本文及び注を引用・参照させて戴いた。そこでは背表紙であるが当該“Glimpse at the Art of Japan”原本画像もある)。

 なお、この注記後にも有意な一行空きがある。]

耳嚢 巻之七 諸物制藥有事

本話を以って「耳嚢 巻之七」は51話目、折り返し点に来た。サイト版の加工に入るが……これ、例によってタグ加工がシンドい……トホホ……

 

* 諸物制藥有事

 

 駿河其外にて何細工なすも、竹を林草を以て煮て遣ひぬれば、如何樣の細工をさすにも自在に成(なる)といへり。葉の毒に當りたるには、甘草を洗じ呑(のま)せしに、奇に其毒を解(げ)しぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:竹細工をする際に竹をしなかやに加工し易くするための処方が前半であるが、次に筍で中毒した際(後注)の民間療法が載り、魚の骨の除去処方と直連関する。以下「又」で二項、都合、この「諸物制藥有事」で三項目が示される。

・「何細工」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は「竹細工」とし、長谷川氏の注に、竹細工は『駿河府中(静岡市)の名産』とある。「何」は「竹」の誤写であろう。これを採る。

・「竹を林草」底本にはこの右に『(竹煮草ナルべシ)』とある。この鈴木氏の注の付け位置からは、鈴木氏が「竹を林草」全体が「竹煮草」の誤写と判断されたことを意味している。するとしかし、本文は「竹」が示されず、如何にも読み難いものとなる。するともしかすると前の「何細工」は、実は「竹細工」の底本の誤植である可能性も出て来るように思われる。カリフォルニア大学バークレー校版は「甘草」とあり、後半部のマメ目マメ科マメ亜科カンゾウ属 Glycyrrhiza のカンゾウ類を指している。しかし鈴木氏の注する「竹煮草」は「甘草」ではない。モクレン亜綱ケシ目ケシ科タケニグサ Macleaya cordata で、竹似草ともいい、ケシ科の多年草で荒蕪地に生え、茎は中空で高さ二メートル内外、葉は形は菊に似るが大きい。夏に白色の小花を円錐状につける。切ると黄褐色で有毒の汁液を出すがこの汁は皮膚病や田虫に利用される。「竹煮草」は竹と一緒に煮ると竹が柔らかくなって細工し易くなることに、「竹似草」の方は、茎が中空になって見え、竹に似ていることに由来するという(以上、「竹煮草」については、Atsushi Yamamoto 氏の「季節の花300」の「竹煮草」の記載に拠った)。ネット上で調べると「竹煮草」が竹を柔らかくするのに用いられているのは事実である(愛知県豊田市足助「足助観光協会」公式サイトの草の効能に竹細工の籠屋さんの店先で『ヨモギなどの雑草を片付けていると「あー、それは抜いちゃダメー」と篭屋さんからストップが。 どう見ても雑草。それもなんかかぶれそうな草なのになんでこんなところにだけこれがあるのか。 「なんで~?」と聞くと「これはタケニグサっといって竹の加工に使うから抜かないでね。」と言われました。タケニグサ・・・・竹を煮るから? 確かに篭屋の前にこれだけが一本生えている理由がわかる。 でも、何の加工?防腐?虫よけ?何だろう。 再び聞いてみると、竹を柔らかく煮るのに草の汁を使うのだそう』という叙述が出て来るから間違いない。逆に甘草で検索しても、竹の柔軟剤として使用するという記載が見当たらない。甘草が竹をしなやかにさせ、その中毒にも効能があるという記載も頷けなくはないが、ここは寧ろ題名の、「諸物」(いろいろなもの――だからこそ以下に「又」で続き三項目も示されるのだと言える――)が、一つの対象(ここでは竹)の持つ属性(この場合は硬いそれ)や毒性に対し、物理的にも生理的にもそれを「制藥」(制する効果を持った薬)として作用する、という意味で採り、私は敢えてここは鈴木氏の注する「竹煮草」で採って訳すこととした。大方の御批判を俟つ。

・「葉の毒」底本には「葉」の右に『(ママ)』注記を附す。竹の葉に毒があるというのは解せない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版はここを『筍(たけのこ)の毒』とする。筍に毒はないが所謂、アク(シュウ酸やホモゲンチジン酸とその配糖体などを主成分とする)が強く、除去が十分でないと口の中や咽喉がヒリヒリする症状を引き起こす。漢方薬としてお馴染みの甘草には、咳や喉の痛み喘息・アレルギーに有効であるとされるからこの処方はしっくりくる。

・「洗じ」底本では右に『(煎)』と訂正注を附す。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 諸物には相応に対象の属性を制する薬効があるという事

 

 駿河その他に於いて竹細工をなすが、その際、まず竹煮草を以って竹を煮てから加工に入ると、どのような細工を致す場合にも、しなやかに折れず、自在に成し得るとのことである。

 また筍(たけのこ)の毒に当たって咽喉がひりひり致す際には、甘草(かんぞう)を煎じて服用さすれば、たちどころにその毒を消す、とのことである。

いろはがるた 萩原朔太郎

 

 △いろはがるた

 

 

いろはがるたの「え」

 

えてに帆をあげ

 

いろはがるたの「ぬ」

 

ぬすびとのひるね

 

いろはがるたの「の」

 

のどもと過ぐればあつさを忘る

 

わすれたわけではなけれども

 

なんとしあんもつきはてゝ

 

御酒(おさゝ)のむのもけふかぎり

 

としちやんとこもけふかぎり

     ×

その目つき

 

とんと可愛いや

 

しんぞいとしや

 

その目つき

 

ほら、つかめた

 

     ×

 

どうしたてかうしたて

 

飮まずはならないこの酒を

 

ぢつとみつめたしんきくさ

 

えゝもうぢれつたい

 

いつそ左樣にいたしませう

 

     ×

 

とほせんぼ

 

さくらんぼ

 

花ちやんとこのねんねこさん

 

ちつちと鳴くはありやなんぢや

 

きのふの朝までとほせんぼ

 

     ×

 

若い身空でなにごとぞ

 

ばくちはうたねど酒飮みで

 

につぽん一のなまけもの

 

のらりくらりとしよんがいな

 

因果(いんが)が果報かしほらしや

 

     ×

 

千鳥あし

 

やつこらさと來てみれば

 

にくい伯母御にしめ出され

 

泣くになかれずちんちろり

 

柳の下でひとくさり、

 

     ×

 

となりきんじよのおこんぢよに

 

うたれつめられくすぐられ

 

ぢつと淚をかみしめる

 

靑い毛絲の指ざはり

 

     ×

 

三十になるやならずで勘平は

 

何故におなかをきりました

 

つらつらうき世をかんずるに

 

きのふの雨ほけさの風

 

わが身のいたさつめれども

 

ひとの知らねばなんとせう

 

あれやこれやとぢれるより

 

いつそこゝらでひと思ひ

 

            (大正三年五月十九日) 

 

[やぶちゃん注:底本の筑摩版全集第二巻の「習作集第八巻(愛憐詩篇ノート)」より。題名の上の「△」は底本編者注によって補った。題名の一部ではなく、朔太郎の注記記号と思われるが、復元した。3連目の取り消し線は抹消を示す。但し、6行目の「因果」が原草稿が「囚果」であるのは朔太郎自身の書き損じと断じて「因果」に訂した。以下はママ。

 

3連2行目 「飮まずは」の「は」

 *(全集校訂本文では「ば」に訂するが、これは寧ろ、「ずは」が正しいと考える。後注参照。)

 

  3行目 「ぢつと]の「ぢ」

 

  4行目 「ぢれつたい」の「ぢ」

 

5連5行目 「惣れた」の「惣」

 

  6行目 「因果(いんが)」のルビの「が」

 

    同 「因果(いんが)が」の本文助詞「が」

 

 *(全集校訂本文では誤植と断じて「か」に訂している。私は微妙に留保する。)

 

    同 「しほらしや」の「ほ」

 

7連3行目 「ぢつと」の「ぢ」

 

8連3行目 「かんずるに」の「かん」

 

 *(全集校訂本文ではこれを「觀ずる」と採って、「くわんずる」と訂している。無論、目的語は「うき世」であるからして、思い巡らして物の真理や本質を悟る、観想するという意の「觀ずる」が用法としては正しい。しかしそうした正統な修辞法が、朔太郎がここで用いたのは「感ずる」で決してなかったとする論拠にはならないと私は思う。)

 

8連7行目 「ぢれるより」の「ぢ」

 

 以下、語注する。

 

「えてに帆をあげ」「得手に帆を揚ぐ」は、得意なことを発揮披露出来る絶好の機会が到来し、調子に乗って事を行うことをいう。表記通り、「江戸いろはかるた」の「え」の詞。「得手に帆を引く」「得手に帆柱」「順風に帆を揚げる」「順風満帆」などは皆、同義の諺。


「しんぞ」「新造(しんぞう)」の音変化。御新造(ごしんぞ)。御新造(ごしんざう(ごしいぞう)は他人の妻の敬称。古くは武家の妻、後に富裕な町家の妻の敬称。特に新妻や若女房に用いた。

 

「ずは」打消の助動詞「ず」+連用形に指示の係助詞「は」。「万葉集」に見られる上代の語法で「~しないで」の意。近世初期にこの係助詞「は」を接続助詞「ば」と誤解して「ずば」が慣用化したが、本来の正字法を用いるケースも近代にあってもしばしば見られる。私は朗読の観点からもここは底本校訂本文のように「ずば」とすべきではない、と考える。

 

「ねんねこ」は原義的な猫の意にも、派生的な幼児、人形の意にも採れる。幼児・赤ん坊のケースでは、「日本国語大辞典」に群馬県では邑楽郡で採取されている。本詩全体に通底する独特の危うさから言えば、私は断然、「赤ん坊」の意で採りたい。

 

「しよんがいな」感動詞で、俗謡などの終わりにつける囃し言葉。しょんがえ。しょうがないの意とする記載もあるが、これが感動詞であって囃し言葉であるとすれば、「なるほど」「そうかいな」「もっともじゃ」といった相槌・合いの手と考えるべきである。

 

「しほらしや」正しくは「しをらしや(しおらしや)」。「しをらし」は「萎(しを)れる」の形容詞化かとも考えられ、①控えめで従順である。慎み深く、いじらしい。②かわいらしい。可憐である。③健気(けなげ)である。殊勝である。④上品で優美である。⑤(反語的に)小生意気で、癇に障る様子や小賢しい、といった多様な意味を持つ。ここは「因果か果報か」という条件句を考えれば、皮肉を込めた⑤を響かせながら、②の謂いで私は採る。

 

「ちんちろり」「ちんちろりん」は松虫の鳴き声(地方によっては鈴虫のそれであるが、「日本国語大辞典」に群馬県では佐波郡で「松虫」で採取されている。)を指す。「いろはがるた」と言い始め、主人公が変わらない、変心せぬ理由はないにしても、前段で「ばくちはうたねど」とあるから、骰子博奕のそれの意味ではあるまい。転落の詩集であれば、コーダ近くのこの虫声のSEは極めて効果的と言える。

 

「おこんぢよ」は「意地悪」の意の群馬方言(おこんじょ群馬の方言の意味・変換全国方言辞典―goo辞書に拠る)。底本にはこれのみ編者注で『「根性、意地惡」を意味する上州方言』とある。従って「ぢ」は朔太郎の誤字である。]

伊豆の歌――熱川堤泉にて 三首 中島敦 / 「伊豆の歌」了

       ――熱川温泉にて――

 

みんなみの濱の温泉(いでゆ)の裏藪にまろき柑子(かうじ)をわが摘みにけり

 

靑く酸き匂の指に殘りけり湯あがりにして柑子を摘めば

 

黑土に夏蜜柑あまた落ちてをり饐(す)えしにほひの甘さ堪へがたく

 

[やぶちゃん注:太字「にほひ」は底本では傍点「ヽ」。]

名もよばないでゐるけれど 大手拓次

 名もよばないでゐるけれど

名(な)もよばないでゐるけれど、
こころはふしぎのいろどりにそめられてゐるのです。
かげではないでせうとおもひます。

あやめ 北原白秋

 

誰か、おまへに逢ひに來た、

すつと出て見な、花あやめ。

 
誰か、裏から呼びに來た、

すつと出て見な、月があろ。


(『世界音楽全集13「日本民謡曲集」』(昭和5(1930)年春秋社刊)より。『d-score 楽譜 - あやめ .... 北原白秋/小松耕輔』を参照した)

のすかい 北原白秋

 
堀(ほり)のバンコをかたよせて

なにをおもふぞ花(はな)あやめ、

かをるゆふべにしんなりと

ひとり出て見る花あやめ。

  

(註)のすかい(色を賣る女) バンコ(緣臺、おらんだ語)

白秋民謡集「のすかい」(昭和4(1929)年2月刊)より。『d-score 楽譜 - 作曲白秋民謡集「のすかい」 北原白秋』』を参照したが、「縁」を正字化した。

鬼城句集 夏之部 あやめの花

あやめの花 板橋や踏めば沈みてあやめ咲く

2013/08/23

覚醒を挟みながらしかも連続する不思議な夢

昨夜から今日の未明にかけて、不思議な夢を見た。

僕の家の近くに、僕の教え子の夫婦(事実、その夫婦はともに僕の教え子である)の一家(事実と同様に彼らの三人の子がそこにいたのである)がアパートのようなところに住んでいる(この場所と住居は全く事実に反するのである)。
僕はそこに居候のように転がり込んで、一緒に暮らしているのである。
僕は狭いそのアパートの一室でその夫婦と文字通り川の字になって寝ていて、すぐ隣りの部屋に子らが寝ているのが見える。
朝になって、その夫君の方は仕事に出かける。
昼間、僕は日がな一日、その妻君と高校時代の話をして笑いあったり、三人の子らと国語の勉強をしながら、楽しそうに談笑している。
夕刻、夫君が帰ってくると、また一緒に音楽を聴き、酒を飲んで、一家と僕と、やはりなにやら愉快に談笑して夜は更けてゆく。
そうして僕らはまた川の字なりになって眠りにつく。夏の夜である……。

この夢、何が不思議かといえば――その内容――ではない。

ある意味、かくも長い一日を大きな奇異もなく淡々と映す夢であったのだが、その間に僕は確実に二度ほど(それ以上かもしれないが、二度は確実)覚醒していたからである。

最初の一回目は、目覚めて隣りに寝ている僕の妻を確認し、冷房が強いのを感じてリモコンで下げながら(妻は冷房が嫌いである)、僕ははっきりと
「……もっとあの教え子夫婦の家に一緒にいる夢を見続けたいなぁ……」
と思って、耳鳴りのする左側頭部を枕に埋めて、また目を閉じたのだった。

小一時間し、うとうとと眠りに入ってみると――夢は覚醒直前の昼のシーンから、また全く切れ目なく続いて始まったのであった。……

ところが、それが未明にもう一度起こったのである。
隣りの父の家内でアリスが吠えるのを聴いて、目を薄らと開けながら、まだ外は仄暗く、眠気の中、再び、
「……もう少し……」
と確かに思ったのだった。

夢うつつのうちに、また少し寝入った。
すると――またしてもさっきまで見ていた最後の方の夜の酒盛りシーンが切れ目なく続いていていったのである。……

こうした確実な覚醒を挟みながら連続した夢を見たのは、大学生以来続けてきた記憶にある夢記述の中では、稀有のことであった。

……因みに
――夢の中の二人の夫婦は孰れも――僕が教えた当時の高校生の時の風貌そのままであった。……
……そして
――夢の中の僕は――その居候の僕は――確かにその一日中、
『――この二人を僕は確かに愛している――』
と心の内で秘かに何度も反芻していたことをも――覚えているのである。……

北條九代記 二位禪尼を評す

      〇二位禪尼を評す

若君賴經公は、建保六年正月十六日に御誕生あり。御童名(おんわらはな)をば、三虎御前(みつとらごぜん)とぞ申しける。翌年七月、御年二歳にて、鎌倉に下向ましましけり、この日酉刻、政所始(まんどころはじめ)あり。若君御幼稚の間は、二位禪尼(のぜんに)、御簾(みす)を垂れて、政道を聽き給ふ。諸國大名、小名の掟(おきて)、京都諸公家の進退(しんだい)までも皆、禪尼の計(はからひ)なり。世には尼將軍と申して、上下靡きて恐れ奉りけり。異朝の古(いにしへ)の例(ためし)を思ふに、漢の高祖崩じ給ひて後、呂后(りよこう)、既に國柄(こくへい)を執りて、惠帝(けいてい)の德を亂し、人彘(じんてい)を觀(み)せ奉りて、疾(やまひ)を起さしめ、母子の恩義を斷絶し、劉氏(りうし)の子孫を誅して、諸呂(しよりよ)を王とし、審食其(しんいき)を寵幸(ちようこう)して、德を穢(けが)す事を恥ぢ給はず。この弊(ついえ)、後世(こうせい)に流(つたは)りて、孝平帝(かうへいてい)立つに及びて、孝元太后(かうげんたいこう)、王氏(わうし)、既に臨みて政事(まつりごと)を聽き給ふ。王莽(わうまう)、位(くらゐ)を簒(うば)ひてより、漢祚(かんそ)、中比、衰へたり。後漢の世に移りては、章帝(しやうてい)の竇皇后(とうくわうごう)、和帝(くわてい)の鄧后(とうこう)、安帝(あんてい)の閻后(えんこう)、順帝の梁后(りやうこう)、桓帝の竇后(とうこう)、靈帝の何后(くわこう)、此等、相繼いで朝(てう)に臨み、政道を行はれし事は、是、呂后より初(はじま)りて、猶、後代に及べりとかや。本朝の古(いにしへ)、神代より以來(このかた)、人倫に傳りて、世々の女帝、御位に立ち給ふ。皆、攝政を以て朝政(てうせい)を委(まか)せ給へり。賴朝の時に至り、武家、世を取りて以來(このかた)、政道を行ふに、多くは京都の叡慮、伺はる。北條家、盛になり、政道、雅意(がい)に任する事、今に至て少なからず。叡慮に背く事多し。皆、是、二位〔の〕禪尼の計(はからひ)なり。本朝の往初(そのかみ)、未だかゝる例(ためし)なし。異国の呂后は漢の罪人(つみびと)とぞ云ふべき。本庁の禪尼も亦、鎌倉の蠹贅(とぜい)なり。牝鷄(ひんけい)の晨(あした)するは萬世(ばんせい)の誡(いましめ)なり。抑(そもそも)二位禪尼に於いては、亂臣十人のためしとするか、婦人の政理(せいり)に與(あづか)るは好しとやは云はん、惡(あ)しとやせん、兎にも角にも才智優長(さいちいうちやう)の禪尼かな、と皆、稱嘆せられけり。翌年十二月一日に、若君賴經、御袴著(はかまぎ)なり、大倉の亭の南面に御簾を垂れて、その儀式を行はる。右京〔の〕大夫北條義時、御腰結(おんこしゆひ)に參られ、二品禪尼、若君を抱(いだ)き奉らる。大名、小名、思々(おもひおもひ)の奉物(たてまつりもの)は、山も更に動き出でたる心地ぞする。最(いと)めでたうこそおはしけれ。

 

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻二十四の承久元(一二一九)年七月十九日及び承久二年十二月一日などの事実を使うが、極めてオリジナルな、すこぶる強烈にして異例な政子批判のプロパガンダ的章である。私は筆者(恐らく浅井了意)は上田秋成のように、やや病的なまでの女性嫌悪感情があったのではないかと、実は秘かに疑っていることをここに述べておきたい。

「建保六年」西暦一二一八年。

「翌年七月御年二歳にて、鎌倉に下向ましましけり、政所始(まんどころはじめ)あり」「吾妻鏡」によれば、翌承久元(一二一九)年七月十九日午の刻(正午頃)に入鎌、酉の刻(午後六時頃)に『酉刻。有政所始。若君幼稚之間。二品禪尼可聽斷理非於簾中云々。』(酉の刻、政所始有り。若君、幼稚の間、二品禪尼、理非を簾中にて聽斷(ちようだん)すべきと云々)とある(増淵氏の訳は『(御参着の同月)十七日午後六時に政所始めがあった』と訳しておられるが、これは何かの間違いであろう)。この「政所始」は明らかに実質上の「将軍家政所始」なのであるが、実は三虎御前(この幼名は彼の出生が寅年寅日寅刻であったことに由来する)、後の藤原頼経の正式な将軍家宣下は、幼少であったことに加え、承久の乱を中に挟んだ結果、七年後の嘉禄二(一二二六)年一月二十七日に正五位下に叙されて右近衛権少将任官と同時に行われている(前年の嘉禄元(一二二五)年十二月二十九日に満七歳で元服している。即ち、入鎌当時は未だ満一歳、将軍就任でも満八歳であった)。

「呂后」呂雉(りょち ?~紀元前一八〇年)。漢の高祖劉邦の皇后。恵帝の母。劉邦の死後に皇太后・太皇太后となり呂后とも呼ばれた。唐の武則天(則天武后)・清代の西太后と並ぶ中国三大悪女の一人。息子恵帝の死後は元勲陳平らの意見を入れて、実家呂氏一族を重役に立て恵帝の遺児少帝恭(しょうていきょう 劉恭)を立てて暴政を続けた。少帝恭が生母の女官を祖母呂雉が殺害した事実を知って恨み出すと劉恭をも殺害、弟少帝弘(劉弘)を即位させた(紀元前一八四年)。その四年後に呂雉は死去したが、その後は陳平らが斉王の遺児等の皇族や諸国に残る劉氏の王と協力してクーデターを起こして呂氏一族は皆殺しにされ、恵帝の異母弟代王劉恒が新たに文帝として擁立されている。

・「國柄」国状。国政。

・「惠帝」劉盈(りゅうえい 紀元前二一〇年(又は二一三年)~紀元前一八八年)。皇太子であったが温和な性格が父劉邦の不興を買い、劉邦の寵妃戚氏の子劉如意を皇太子にしようとしたため、劉盈はたびたび皇太子の地位を廃されそうになった。劉邦崩御後、彼が皇帝となると皇太后となった呂雉が政治を専横、呂雉は趙王劉如意やその生母戚氏らを殺害した。ところが実母のあまりの残忍さ(後注参照)に衝撃を受けた恵帝は政務を放棄して酒色に耽った結果、夭折している。

・「人彘」人豚(ひとぶた)の意。呂雉は前の注に示したように政敵劉如意を毒殺した前後に生母戚夫人(?~紀元前一九四年?)をも捕らえ、永巷(えいこう:罪を犯した女官を入れる牢獄。)に監禁、一日中、豆を搗かせる刑罰を与えた。その後、両手両足を切り落として目玉を刳り抜き、薬で耳と喉を潰た上、便所に置いて人彘と呼ばせて飼い殺ししたと「史記」などにはある。ここまで「呂后」の注以降で主に参照したウィキの「呂后」のこの叙述の下りには『古代中国の厠は、広く穴を掘った上に張り出して作り、穴の中には豚を飼育して上から落ちてくる糞尿の始末をさせていた。厠内で豚を飼育することが通例であったことから、戚氏をこの豚のように扱ったと思われる』と注している。また、呂雉はこれを息子恵帝に見せ、それが恵帝のPTSDとなり、夭折する遠因ともなったものと思われる。なお、底本頭書には『人彘―漢書に、呂太后、戚夫人の手足々斷ち眼を去り耳を煇し瘖樂を飲し廁中に居らしめ命じて人彘と曰ふに出づ彘は豚なり』とあるが、「樂」は「藥」の誤字であろう。「煇し」は「もやし」と訓じているか。

・「審食其」(しん いき ?~紀元前一七七年)は劉邦が沛公であった頃からの側近。呂雉の覚えめでたく、紀元前一八八年には典客、翌年に左丞相となって実質的な政治実務の頂点に立った。呂雉が死ぬと太傅(たいふ:天子の輔弼役。)となり、呂雉一党が滅ぼされた後も再度丞相となっているが、文帝が即位した頃に罷免され、かつて呂雉の嫉妬から母を殺され、当時、真剣にその助命嘆願を行わなかった審食其を恨む淮南王劉長によって殺された(ウィキの「審食其」に拠る)。増淵訳では「審食基」とあるが誤植か。

・「孝平帝」は平帝の誤り。平帝(紀元前九年~紀元後五年)前漢第十三代皇帝。九歳で皇帝に即位したが、当初から後に新の皇帝となる王莽ら王氏一族が権力を握っており、母衛姫や衛氏一族は長安に入れなかった。王莽の長子王宇や彼の妻の兄呂寛らは、このことが後々禍根となることを恐れ、衛氏が長安に入れるように働きかけたが、それが王莽の怒りを買い、平帝の叔父に当たる衛宝や衛玄兄弟らと王宇や呂寛をも誅殺した。紀元後四年に王莽の娘が皇后王氏として立てられたが、翌年十二月に未央宮で十四歳で夭折した。「漢書」平帝紀注や王莽に反乱を起こした翟義(てきぎ)の檄文によると王莽が毒殺したされる。

・「孝元太后」王政君(紀元前七十一年~紀元後十三年)。前漢第十代皇帝元帝(武帝の玄孫)の皇后で、第十一代皇帝成帝生母で王莽の姑母(おば)に当るが、その関係は必ずしも穏やかではない。紀元前一年に第十二代皇帝哀帝が急死して平帝が即位すると、王政君はその混乱に乗じ、太皇太后として詔を出し、哀帝の外戚及び側近勢力を排除し、王莽を大司馬に任じ、輔政を命じた。しかし、この頃から、王莽は簒奪への動きを強め、瑞兆を理由に自らの権威強化を図るようになる。王政君自身は、王莽が簒奪を行うことに反対で、寧ろ漢家の外戚として王氏が権力を握り続けることを願っていたらしく、王莽に尊号を贈ろうとする動きには、暗に反対の立場をとっている。以下、ウィキの「王政君」によれば、紀元五年に、『王莽と対立した結果、平帝が毒殺され、劉嬰(孺子嬰)が皇帝に擁立され、王莽が周の成王と周公旦の故事に倣い、仮皇帝(摂皇帝)を名乗り、さらに』、紀元八年に『帝位に即くべく、当時、伝国璽(中国の歴代王朝および皇帝に代々受け継がれてきた玉璽(皇帝用の印)のこと)を手許に保管していた王政君に伝国璽を自身に引き渡すように求めた時、王政君は激怒し、その使者の王舜をつかまえて、次のように王莽を罵ったと言う。「お前は、誰のおかげで今の地位を得ることが出来たと思っているのか。全ては漢の歴代の皇帝陛下のお情けによるものではないか。そのご恩を忘れて、漢家が衰えるとその地位を奪わんとするのは、いったいどういうつもりなのか。お前のような奴の食べ残しは犬でも食わぬだろう。」こう言って王政君は伝国璽を王舜に向けて投げつけ、泣き崩れたという。ちなみに、この時投げつけられた伝国璽は、一部が欠損したといわれる。王莽が即位すると、王政君は「新室文母太皇太后」の尊号を贈られ、彼女のための住まいがもうけられた。そして、その住まいは、かつての元帝の廟を取り壊して造営された宮殿であった。ここで王政君のための宴会が開かれたが、「こんなことになってどうして宴会を楽しめようか。」と、参加することはなかったという』とある。

・「王氏」王皇后(紀元前九年~紀元後二三年)。名は失考。平帝の皇后で王莽の娘。平帝が死亡し、劉嬰が後継者に選ばれて王莽が摂皇帝と称して皇帝代行となると、王皇后は皇太后となった。その後に王莽が皇帝の座に就き、紀元後九年に漢が滅び、新が成立すると劉嬰は定安公とされて皇太后だった王莽の娘は定安太后となっている。但し、彼女には節操があり、漢が廃されてからは常に病気と称して朝廷の会には一切参加しなかったという。紀元後二三年、新が攻められて王莽が殺され未央宮が焼けると、彼女は「何の面目があって漢の人間に会うことができようか」と言って火中に身を投じて死んだという(ウィキの「王皇后(漢平帝)に拠る)。この女性は事蹟を見るに、この「政治にしゃしゃり出る悪しき女」列伝に載せるには相応しくないように私には感じられる。

・「王莽」(紀元前四五年~紀元後二三年)は前漢末の政治家。予言をする讖緯(しんい)説を利用して人心を集め、皇帝を毒殺して新を建国。周礼の制に基づく改革政治を断行して豪族・民衆の反発を買い、劉秀(りゅうしゅう)に滅ぼされた(「大辞林」に拠る)。

・「漢祚」「祚」は天から下される幸福の謂いであるが、ここは漢の命運の意。

・「章帝」(七五年~八八年)は後漢第三代皇帝。寛厚の長者と称されて惨酷な刑罰を廃止するなど苛切な政治を改めた。賈逵(かき)から古文学を修得し、また群儒を召集して五経の異同を討論させ、親臨して決裁した名君である(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

・「竇皇后」章徳竇皇后(?~九七年)。名は伝わらない。章帝の皇后。七七年に妹とともに長楽宮に入り、翌年には皇后に立てられた。子がなく、太子劉慶を産んだ宋貴人と劉肇(のちの和帝)を産んだ梁貴人を死に追いやった(個人サイト「枕流亭」の「中国史人物事典~歴代后妃-秦漢に拠る)。

・「和帝」(七九年~一〇五年)は後漢第四代皇帝。生母は梁貴人。七歳で即位したが前記の章徳竇皇太后が臨朝して外戚竇憲の専横を招いた。このため宦官の協力を得て、竇氏の党派を排除し、親政をおこなった。官吏登用の選挙の充実に勤め、人物の推薦に当っては実質の当否を査察させた。西域都護を復活、班超をこれに任じた。西域五十余国が服属して班超は部将の甘英を大秦国に派遣するなど、対外的には後漢の威勢がもっとも高まった時期にあたる(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

・「鄧后」和熹鄧皇后(八一年~一二一年)。名は綏(すい)。和帝の鄧皇后。幼くして学問に通じ、慎み深かった。九五年に入内、平帝の寵愛を受けた。一〇二年に平帝の陰皇后が廃される(外祖母の鄧朱とともに巫蠱媚道をおこなったとしてされる)と皇后に立てられた。和帝が崩ずると皇太后として臨朝聴政した。贅沢を誡めて簡素で寛容な政治につとめたという。殤帝及び安帝の間、永く執政に当っている(個人サイト「枕流亭」の「中国史人物事典~歴代后妃-秦漢」に拠る)。

・「安帝」(一〇六年~一二五年)は後漢第六代皇帝。一〇九年に十三歳で即位、鄧氏の臨朝が継続し、兄の鄧隲(とうしつ)が朝政を運営した。ウィキの「安帝」によれば、『成人後の安帝は外戚の鄧氏に反発するようになり、その影響からか生活に乱れが生じていた。また閻氏(えんし)を立后するが、安帝との子をもうけた他の后妃を殺害するなどを行っていた』。一二一年三月、『長く臨朝して政治の実権を握っていた鄧氏が死去すると、鄧隲は大将軍を辞任し、特進待遇となった。』同年五月には、『閻氏や宦官李閏らの助力を得て、鄧隲や鄧遵ら、鄧一族を粛清し、また、平原王の劉長を罪に問い侯に降格させた』。「治世」の項には(アラビア数字を漢数字に変えた)、『摂政をしていた鄧兄妹は他の外戚に比べて良質であり、鄧氏は班昭に私淑して経書の講義を受けたりした人物であった。兄の鄧隲も一万戸の領地を受けた後で更に三千戸の加増を申し渡されたときに固辞して受け取らなかったという。鄧氏の摂政時代には匈奴の進入や天災が相次ぎ、決して平和な時代ではなかったが、鄧氏は節約に励んで懸命に政治に当たったという。ただし官僚との連絡役として宦官を重用したことが、後に宦官の専横を許すこととなったといわれる。鄧氏の粛清の後は、宦官と閻氏一門が専権を振るうことになる』。『安帝の時代には西域都護が匈奴により攻撃され、西域は匈奴の手に落ちた。他にも西の羌族など周辺民族が相次いで反乱を起こすなど、後漢の衰退が明らかになってきた』とあるのが、ここで参考になる。

・「閻后」安思閻皇后(?~一二六)。名は姫。安帝の皇后。一一四年に選ばれて後宮に入り、翌年には皇后に立てられた。安帝が李氏を寵愛して李氏が劉保(のちの順帝)を産むと、皇后は李氏を毒殺したり、江京・樊豊らとともに皇太子劉保を讒訴して済陰王に落としたりしているなかなかの悪女である。安帝が崩ずると皇太后となって少帝を擁立したが、江京が誅されて順帝が迎えられると閻氏も誅されて、皇太后は離宮に幽閉となり、翌年亡くなっている(個人サイト「枕流亭」の「中国史人物事典~歴代后妃-秦漢」に拠る)。

・「順帝」(一一五年~一四四年)後漢第八代皇帝。安帝の末年から権勢を振るっていた外戚の閻氏や側近の宦官の讒言により一時廃嫡されたが、それを憎んだ宦官の孫程のクーデターにより閻氏らが打倒されたため、皇帝となった。ウィキの「順帝(漢)には、『擁立の功労者である孫程ら宦官達を侯(地方領主)に封じ、更に宦官への養子を認め財産を継承することを許可した。それまで一代限りの権勢であった宦官が桓帝の時大長秋となる曹騰が引退した以後は、次代の権勢継承が行われるようになった。そのため、後世には後漢の宦官禍は順帝より始まると評されることにな』ったとある。

・「梁后」順烈梁皇后(一〇六年~一五〇年)。名は(な)。順帝の皇后。幼くして女仕事をよくし、「論語」や「韓詩」を読んだ。一二八年に選ばれて後宮に入り、四年後に皇后に立てられた。順帝が崩ずると冲(ちゅう)帝を擁立して皇太后となり、臨朝聴政した。冲帝がまもなく亡くなると、質帝を立て、引き続き聴政、太尉李固らを抜擢したが、兄の梁冀が質帝を毒殺して専権をふるい、桓帝を立てて李固らを謀殺した。また太后は宦官を寵愛してその台頭を許し、士人たちの失望を買ったが、一五〇年に政権を桓帝に返し、まもなく病のため崩じた(個人サイト「枕流亭」の「中国史人物事典~歴代后妃-秦漢」に拠る)。

・「桓帝」(一三二年~一六七年)後漢第十一代皇帝。一四六年、十四歳で即位し、梁太后が摂政として臨んだ。妻は梁太后の妹。外戚の梁冀(りょうき)が専横を極めたため、宦官の協力を得て梁氏を族誅した。これ以後は宦官が横暴となり、李膺(りよう)・陳蕃(ちんはん)らを領袖とする清廉な党人とはげしく対立、党錮(とうこ)の禁を起こした。浮図(仏陀)と老子を尊崇して旧来の儒教独尊の風潮に新しい気運を開き、また音楽を愛好し、琴瑟をよくした(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

・「竇后」桓思竇皇后(?~一七二年)。名は妙。桓帝の皇后。一六五年に貴を恃んで驕慢であった鄧皇后が廃される(幽閉されて死去)と同時に後宮に入り、同年冬に皇后に立てられたが、帝の寵愛は田聖らにあって桓帝にまみえることは稀であった。子がないままに桓帝が崩ずると皇太后となり、霊帝を擁立、田聖らを殺して積年の恨みを晴らしたが、父竇武が宦官らの誅殺を図って失敗、中常侍曹節らに殺されると、彼女も南宮雲台に幽閉された(個人サイト「枕流亭」の「中国史人物事典~歴代后妃-秦漢」に拠る)。

・「靈帝」後漢第十二代皇帝。章帝の玄孫に当たる。ウィキの「霊帝」によれば、『先帝の桓帝(劉志)には子がなく、同じ河間王家出身であったことから、』一六八年に『桓帝の皇后の竇氏、大将軍竇武、太尉(後に太傅)陳蕃らにより擁立された』。『後漢朝では桓帝の時代から宦官が強い権力を持っていたが、霊帝即位の翌年には竇武と陳蕃らによる宦官排斥が計画される。しかし、これは事前に露見して宦官らの逆襲を受け、桓帝時代の外戚やそれに味方した陳蕃、李膺などの士大夫は排除され、曹節や侯覧、王甫といった宦官が権力を掌握した。その後も清流派を自称する士人たちは宦官とそれに連なる人々を濁流と呼び抵抗したが、党錮の禁により弾圧された』。『この間、羌や鮮卑といった異民族の侵攻が活発となり、天候の不順を重なり地方での反乱もたびたび勃発した。張奐や段熲、皇甫規といった将軍達はそれらの鎮圧に奔走したが、そうした中でも霊帝本人は宮殿内で商人のまねをしたり、酒と女に溺れて朝政に関心を示さず、政治の実権はやがて張譲や趙忠ら十常侍と呼ばれる宦官らに専断されることとなった』。それでも学問を重んじる一面もあって、一七五年には『儒学の経典を正す目的で、群臣達の勧めにより、熹平石経を作成』、一七七年には『書画に優れた者を集め、鴻都門学といった学問を興した。』一八四年に『大賢良師・張角を首領とする黄巾の乱が発生する。反乱により後漢王朝は危機に見舞われたが、董卓や皇甫嵩、朱儁ら地方豪族の協力と、張角の急死により鎮圧に成功した。しかし、反乱により後漢正規軍の無力化が露呈し、地方豪族の台頭を許すこととなった』。『これ以後も、売官を行うなど「銅臭政治」と呼ばれる、賄賂がまかり通る悪政を行ったため、売官により官職を得た者による苛斂誅求により民力は疲弊し、同時に治安の悪化を惹起したため後漢の国勢はますます衰退していく』。一八八年、『霊帝は西園八校尉という制度を新設』、そこで何進や袁紹、かの曹操を統率させている。一八九年、国内がさらに乱れる中で崩御した。評価は『宦官と外戚の権力闘争で疲弊した後漢朝は、霊帝の治世において宦官の優位が決定的となったとされ、後世においても桓帝と並んで暗愚な皇帝の代名詞とされた』とあるが、一八八年に『霊帝は「皇帝直属の常備軍」の創設を構想したと言われて』おり、『当時王宮警護の近衛は存在したものの、大規模な常備軍は存在しなかった』中で、推定ながら一万人ほどの大規模なものと考えられており、『後に曹操がこの八軍編成を引き継ぎ、魏の国軍編成の根幹になったなど、相当の完成度であったと考えられる。魏以降の歴代中国王朝でこの制度は継承され、中国の国軍編成制度として受け継がれていったのである』という再評価の機運もある。

・「何后」霊思何皇后(?~一八九年)。宏)。南陽の屠殺家という下賤の出自だったが、賄賂を用い宦官の伝手で後宮に入り、霊帝の寵愛を受けて男子(少帝弁)を生んだ。気が強かったため、後宮の和をたびたび乱したという霊帝の皇后であった宋氏が寵を失い、間もなく宦官の讒言により無実の罪を着せられ廃されたため、何氏が皇后に立てられた(一八〇年)。霊帝の寵妃であった王美人が劉協(後の献帝)を生んだ時は激しく嫉妬し、王美人を毒殺している。霊帝は激怒し、何氏は廃されそうになるが、宦官の取りなしにより免れた。一八九年に霊帝が崩御、少帝弁が即位すると何氏は摂政皇太后となった。政敵であった董太后との抗争に勝って董太后を洛陽から追放する(のち謀殺したか)。しかし、何太后の政権を支える大将軍の何進と宦官(十常侍)とが争い、何進が袁紹たちと共に十常侍の殺害を計画すると、宦官とも結託していたため、弟の何苗と共に何進の計画に反対した。何進と十常侍は政争の末にともに滅んでしまい、何苗も殺害されて、洛陽に入った董卓(つたく)が権限を手中にした。董卓は董太后と自分が同族であると信じていたため、董太后の報復として何氏を排除しようとし、何太后を脅迫して少帝の廃位を実行させ、董太后が養育していた劉協を皇位に就かせた。さらに董卓は、何太后のかつての董太后に対する振る舞いが孝の道に叛く行いだと問責、永安宮に幽閉、後に殺害した。何太后は霊帝の陵に合葬されたが、董卓は霊帝の陵の副葬品をことごとく奪ったという(以上はウィキの「霊思何皇后に拠った)。

・「雅意」底本に『我意』と頭書き。自分一人の考え。自分の思うままにしようとする心持ち。我儘。私意。恣意。

「蠹贅」「蠹」は建材家具を致命的に食い荒らす木食い虫。「贅」は不必要なもの、無駄の意。

「牝鷄の晨するは萬世の誡なり」「書経」の「牧誓」による故事。「牝鶏(ひんけい)の晨(しん)するは亡國(ぼうこく)の音(いん)」で雌鳥が夜明けを告げるのは国家が没落する前兆であるという謂い。雌鳥鳴いて国滅ぶ。牝鶏の晨(しん)。底本には『書經に牝鷄の晨するは惟家の索くるなりとあり』と頭書きする。「索くる」は「つくる」で「尽く」と同義。

「亂臣十人のためし」「論語」の「泰伯第八」にある「武王曰。予有亂臣十人。」(武王曰はく、『予(われ)に亂臣十人有り』と。)に基づく。注意しなくてはいけないのは、この「亂臣」とは大乱を美事に鎮圧する優れた家臣の謂いであること。この「乱」は通常反対語である「治」と同義的に用いられている(こうした相反した訓(読み)を特に反訓(はんくん)という)。「十人」は周の武王の弟周公旦、太公望呂尚以下で、中に武王の父文王の正妻太姒(たいじ)を含んでいる。そこがこの部分で引用した肝(キモ)――則ち続く「婦人の政理に與るは好し」と同じく、女性の政治参画積極肯定説の提示である。但し、無論、筆者はその反対に立つのである。底本には『亂臣は治世の功臣、書經周武王の言に「予有亂臣十人」其中一人は武王の母大姒なり』と頭書きする(引用にはここは返り点があるが省略した。「大姒」はママ)。

「御腰結」男子の袴着及び女子の裳着(もぎ)の式の際に袴の腰の紐を結ぶゲスト役。]

伊豆の歌――熱川より下田へ 四首 中島敦

       ――熱川より下田へ――

雨上(あめあが)り農家の庭の黑土に落ちたる木瓜(ぼけ)の花の新しさ


掛茶庭の赤きたばこの廣告が風に搖れをり街道の晝


下田まで三里と聞きぬ斷崖(きりぎし)の赤きが下の海沿ひの道


だらだらに海にくだれる薄原(すすきはら)その果に光る夏蜜柑はも


[やぶちゃん注:太字「たばこ」は底本では「ヽ」。「だらだら」の後半は底本では踊り字「〱」。]

名もよばないでゐるけれど 大手拓次

 名もよばないでゐるけれど

名(な)もよばないでゐるけれど、
こころはふしぎのいろどりにそめられてゐるのです。
かげではないでせうとおもひます。

鬼城句集 夏之部 櫻の實

櫻の實   道端の義家櫻實となりぬ

[やぶちゃん注:「義家櫻」栃木県那須烏山市八ヶ代にある八ヶ代西山辰(やかしろにしやまたつ)街道の大桜のことであろう。「那須烏山市」公式サイトの西山辰街道の大桜」、この桜は辰街道(将軍道)脇に両腕を広げたように立っており、地元では「義家桜」とも呼ばれている。平安時代、八幡太郎義家が奥州征伐のためこの道を通った折り、持っていた桜の鞭を挿したのが根づいたものと伝えられている。また、この木の根元には、馬頭観音が安置され「桜観音」と呼ばれている、とある。]

嬉しいメール

今朝未明、メールを開けて見ると、未知の方からメールが来ていた。

それは、何と
かの山本幡男氏から直接にかの遺書群を受け取り、それを辛くもラーゲリから日本へ持ち帰った、
辺見じゅん著「収容所ラーゲリから来た遺書」に、従って「山本幡男遺稿抄――やぶちゃん編――」に登場する、とても重要な人物(ここではその方の許諾を申し出ていないので伏せておく)のお孫さんなのであった。

生前、そのお祖父さまは、そのお孫さんに、かの稀有の体験については特に詳しくはお話なされなかったそうである(既に他界されておられる由)が、この度ふと、お祖父さまのことを思い出され、辺見氏の本を調べるうち、僕のブログに辿り着かれたのであった。

以下は、その末尾である。

『じっくり読んだ事のなかった本を読みたい
自分の子供にも読んでもらいたいと思いました

様々な巡り合わせはありますが
こうして祖父のこと
戦争の事、抑留のこと知る機会に今あることを感謝しております

勝手とは思いましたが
思わず感謝を伝えたくてメールしました

ありがとうございました。』

――野人となった今、僕は時々、自分がここやサイトでやっている好事の仕儀が、果たして如何程の人々の琴線に触れているのだろうかと、時々、少しばかり空しい気がすることがあるのだが……

しかし、このメールには、この嘘のような暑さの夏の一番の

いや――むくつけき孤独な野人と化してから、一番の嬉しいメールなのであった。

2013/08/22

明窓浄几

學書爲樂

蘇子美嘗言、明窗淨几、筆硯紙墨、皆極精良、亦自是人生一樂。

(歐陽修「試筆」より)

書を學びて樂と爲す

蘇子美(そしび)嘗(かつ)て言ふ、明窗淨几(めいさうじやうき)、筆硯紙墨(ひつけんしぼく)、皆、精良(せいりやう)を極むるは、亦、自(おのづか)ら是れ、人生の一樂なり。

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 21 先哲の詩(2)

  游江島   高惟馨

神鼈抽碧海。

玉女降銀臺。

孤島濤聲響。

層崖水氣開。

截流經境到。

探勝踏巖來。

禹穴疏靑璧。

秦碑繡紫苔。

日升暘谷浴。

潮湧尾閭堆。

雲起迎鯤化。

珠粉産蚌胎。

蒼茫環渤澥。

咫尺縮蓬萊。

六國交天末。

群檣礙斗魁。

龍湫窺底駐。

仙窟鑿空囘。

何有迷津者。

還堪借渡杯。

 

[やぶちゃん注:標題は底本では「同」であるが、ちゃんと表記した。以下、十四首総て同じ(以下ではこの注は略す)。「群檣礙斗魁」の「礙」は底本では「礎」であるが、「相模國風土記」で訂した。作者は高野蘭亭。服部南郭と並ぶ荻生徂徠の高弟で嘱目されたが、十七歳の時に失明、晩年は鎌倉の景物を好み、円覚寺の傍に松濤館を築いて遊息の場とした(彼の事蹟はのページを参照させて戴いた)。宝暦七年(一八六八)年没、享年五十四歳。惟馨(いけい)は名。

 

   江島に游ぶ   高惟馨

 神鼈(しんべつ) 碧海を抽(ぬき)んず

 玉女 銀臺に降(くだ)る

 孤島 濤聲 響きて

 層崖 水氣 開く

 流れを截(き)り 境(きやう)を經て 到る

 勝(しやう)を探(たん)し 巖(いはほ)を踏みて 來たる

 禹穴 靑璧を疏(とほ)し

 秦碑 紫苔を繡(ぬひと)る

 日は升(のぼ)る 暘谷(やうこく)の浴(よく)

 潮は湧く 尾閭(びろ)の堆(たい)

 雲起(うんき) 鯤(こん)の化するを迎へ

 珠粉(しゆふん) 蚌の胎(たい)に産まる

 蒼茫として 渤澥(ぼつかい)を環(めぐ)り

 咫尺(しせき)にして 蓬萊を縮む

 六國 天末に交はり

 群檣 斗魁を礙(さまた)ぐ

 龍湫 底を窺(のぞ)きて駐(とど)まり

 仙窟 空を鑿(うが)ちて囘(めぐ)る

 何ぞ迷津(めいしん)する者や有らん

 還りて渡杯を借るに堪ふ

 

「渤澥」渤海の古称。「斗魁」北斗七星の第一星魁星より成る柄杓の升型部分の四星が神格化した。中国では古くから科挙試の神とされ、後に文章の神・文学の神として崇拝された。

「龍湫」「湫」は湿気が多く、水草などが生えている低湿地であるが、ここは龍窟の前部にある龍潭を指していよう。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第八章 東京に於る生活 14 西郷自決と本邦進化論事始

 往来を通行していると、戦争画で色とりどりな絵画店の前に、人がたかっているのに気がつく。薩摩の反逆が画家に画題を与えている。絵は赤と黒とで色も鮮かに、士官は最も芝居がかった態度をしており、「血なまぐさい戦争」が、我々の目からは怪奇だが、事実描写されている。一枚の絵は空にかかる星(遊星火星)を示し、その中心に西郷将軍がいる。将軍は反徒の大将であるが、日太人は皆彼を敬愛している。鹿児島が占領された後、彼並に他の士官達はハラキリをした。昨今、一方ならず光り輝く火星の中に、彼がいると信じる者も多い。

[やぶちゃん注:所謂、西郷星(さいごうぼし)である。、西南戦争による世の混乱の中、西郷隆盛の死を悼む人々の間で流布した都市伝説である。この頃、たまたま火星の大接近があり、最接近時の九月三日には距離5630万キロメートル・光度-2・5等級あまりにまで輝いていた。当時の庶民はこれが火星である事は知らず、「急に現われた異様に明るい星の赤い光の中に、陸軍大将の正装をした西郷隆盛の姿が見えた」という噂が流れ、西郷星と呼ばれて大騒ぎになった(以上はウィキの「西郷星」に拠ったが、ここでも何と本書のこのシーンが挙げられている)。西南戦争は明治一〇(一八七七)年九月二十四日、城山での西郷隆盛の切腹で終ったが、磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、奇しくもちょうどその西郷自刃の当日、モースは東京帝国大学予備門四年の動物学講義の中で初めて(最初の講義は九月十二日であった)進化論について触れたのであった。……血生臭い蠟人形……西郷の自決と血のように赤い火星「西郷星」の出現……残酷絵の中の西郷の腹切り図……浅草寺の猿回しの猿……猿から人が生まれたという驚愕の学説を講義するモース……そこに何か、私には不思議な因縁を感じるのである。なお、この浅草訪問は従って西郷自死の後、十月になってのことと推測される。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第八章 東京に於る生活 13 浅草界隈逍遙

 友人と一緒に浅草にある大寺院を訪れた。第一回に行った時のことは、この日記の、前の方のページに書いてある。加賀屋敷から歩いて行って一マイル位であろうが、途中いろいろと見る物があったので、二時間かかった。私は一軒の古本屋で、動物その他の威勢のいい写生図を、一枚一セントで買った。寺院への主要大通りの両側に、子供の玩具を売る店が立ち並んでいるのは、見ても面白い。広い階段は子供が占領して、人形と遊んだり、泥饅頭(まんじゅう)をつくつたり、遊戯をしたりしていた。お寺は一週間七日を通じて、朝から夜まで、礼拝老の為にあけてある。その裏には手奇麗につくつた長い廊下みたいなものがあり、ここでは弓矢で的を射ることが出来る。ある場所には鳩、やまあらし、猿その他の動物の見世物があった。非常に利口そうな猿が竿のてっぺん迄登つて行き、登り切ると、登りながらつかんでいた縄についている籠を手ぐり上げた。猿が下りて来た時、私は彼と握手をしたが、彼は私の手を引っ張り、おしまいには両足を私の掌に入れて、数分間、如何にも満足したように大人しくしていた。猿の手の触感は子供のそれと全く同じで、あたたかくて、すこし湿っていた。指の線も人間のと同じで、多分我々同様、一匹一匹違っているだろう。猿の見世物の次に、我々は蠟人形を見に行った。私はこの人形で見たような、勢と熱情を、米国では絵でも彫刻でも見たことがない。男の人形は、実に極悪非道な顔をしていた。ある一つは特別に醜悪だった。それは襤褸(ぼろ)を着た不具の老乞食が、車にうずくまっているのを、同様にぞっとするような、もう一人の乞食が、引いている所を見せていた。また蠟人形が踊り廻るように出来ている人形芝居もあった。ある一場面でほはお姫様が七尾の狐に変化したが、この演技に関する話を物語る老人を見詰めることも、舞台上の口をきかぬ人形を見るのと同様な研究であり、おまけにオーケストラの立てる、途方もない音や、拍子をやたらに変える所は、私がそれ迄耳にした如何なるものとも丸で違っていた、。お姫様は玉座みたいなものに坐り、その周囲には等身大の人形がいくつか、今にも恐ろしいことが起るぞというような表情で集っていた。突然玉座が真中から割れ、お姫様が.バラバラになって姿を消すよと見る間に、尻尾が七つある巨大な狐となって現われ、とても物凄い有様で牙を喰いしばりながら舞台をうろつく。この狐は実によく狐に似ていた。私は日本の俗説を知らないので、いろいろな人形がどんな意味を持っているのか、とんと判らなかったが、それ等の持つ力と表情とによって、日本の芸術家が絵画に於る如く、彫刻にかけても偉いということを知った。

[やぶちゃん注:浅草寺からあやしげな裏手へ――矢場女の嬌声――凄惨な生き人形のモンストロム――九尾狐は人形芝居「玉藻前」か――猿回し猿の手を細かく観察している生物学者モース先生――初めて見る異人さんの掌の中に足を突っ込んで陶酔の表情のお猿さん……なんてキッチュで素敵なシークエンスであろう!

「第一回に行った時のことは、この日記の、前の方のページに書いてある」「第四章 再び東京へ」に浅草寺を訪れた叙述がある。

「その裏には手奇麗につくつた長い廊下みたいなものがあり、ここでは弓矢で的を射ることが出来る」矢場である。ウィキに、『東京へは明治初年に浅草奥山(浅草寺の西側裏手一帯)に楊弓場が現れ、一般には「矢場」と呼ばれ広まった』。『店は競って美人の矢取り女(矢場女・矢拾い女)を置き、男たちの人気を集めた。矢取り女は射った矢を集めるのが仕事だが、客に体を密着させて射的方法を教えたり、矢を拾う際に足を見せたりして媚びを売った。戯れに矢拾い女の尻にわざと矢を当てる客もあり、それをうまくかわす女の姿がまた客を喜ばせた。店裏で売春もし、客の男たちは女の気を引くために足繁く通い、出費で身を滅ぼす者も出た。しかし、次第に値段の安い銘酒屋にその人気を奪われ、明治中期以後急速に衰退した』。『東京では関東大震災の影響もあって、昭和に入る頃には楊弓場・矢場は姿を消したという』とある。]

 

 大変な景気で相撲をやっていたので、我々は一時間見物したが、これは前に見たのより、遙かに面白かった。相撲取は年も若く、前に見た連中みたいに太っていず、手に汗を握らせるような勝負をやり、高くはね飛ばしたりした。彼等の準備的運動、特に手を膝にのせて先ず片脚を、次に別の脚をもち上げ、固い地をドサンと踏むその莫迦げ切ったやり方は、実に面白い。それからお互にしゃがみ合って、取組合いを始めると、何故だか私には判らぬ理由によって審判官にとめられ、そこで又初めからやりなおす。私は一日中見ていることさえ出来るように思う。

[やぶちゃん注:「前に見た」磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、モースは来日(明治一〇(一八七七)年六月十七日)直後、六月二十一日モースは初めて東京帝国大学法理文三学部を訪問したその日の午後、理学部数学教授ホーレス・E・ウィルソン教授と一緒に早くも相撲を見物している。それは本書の「第一章 一八七七年の日本――横浜と東京」にも叙述されている。]

 


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図―208

 

 横手の小さな寺院で、我々は不思議な信仰の対象を見た。それはゴテゴテと彫刻をし、色をぬった高さ十フィートか十五フィート位の巨大な木造の品で、地上の回転軸にのっている。その横から棒が出ていて一寸力を入れてこれを押すと、全体を回転させることが出来る。この箱には、ある有名な仏教の坊さんの漢籍の書庫が納めてあり、信者達がこれを廻しに入って来る。楽にまわれば祈願は達せられ、中々まわらなければ一寸むずかしい。この祈願計にかかっては、ティンダルの議論も歯が立つまい! 図208にある通り、私もやって見た。

[やぶちゃん注:所謂、輪堂式のマニ車であるが、これがどの寺のものなのか不明。かなり大きなもの(高さ3~4・6メートル)であるが現存するのだろうか? 調べ得なかった。識者の御教授を乞うものである。

「ティンダルの議論」原文は“Tyndall's arguments”。よく分からないが、このティンダルとはイギリスの聖書英訳者で宗教改革者であった William TyndalTindalTindale とも綴る 一四九二年?~一五三六年)のことか。平凡社「世界大百科事典」によれば、人文主義の影響下に聖書の英訳を志し、ケルンとウォルムスで一五二五年に英訳新約聖書を出版、これがイギリスに密輸入されてトマス・モアとティンダルの間で宗教改革を巡る論争(一五二八年~三二年)が展開されたが、この間にも旧約聖書の「モーセ五書」と「ヨナ書」を英訳・出版した。しかし神聖ローマ帝国の官憲によって異端としてブリュッセル近郊フィルフォルドに於いて監禁・処刑された。彼の英訳聖書は一五三九年の「大聖書」及び一六一一年の「欽定訳聖書」の基礎となったとある。しかし、ここでモースが洒落た意味はそれ以上分からない私には依然不明である。識者の御教授を乞うものである。因みに、底本の「1」の巻末にある藤川玄人の解説によれば、『モースの父親は厳格なピューリタン的人物で、生来自由奔放な息子とは肌が合わなかった。父親が教会に行くように命じても、彼には教会が幸せを与え、魂を救ってくれる場所だとは信じることができなかった』とあり、モースは一八九五年三月六日の日記に『「神は我われに、微笑め、と言う。だが教会には陰鬱さが漲(みなぎ)っている。一方、自然は、花は、みな微笑み美しい」と』書いているとある。これが一つのこの箇所を読解するヒントとなっているようには私には感じられる。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第八章 東京に於る生活 12 彫師と挽物師

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図―206

 木版職人が仕事している所も、中々興味がある。彼等か我国でするように小口を刻みはせず、木理の面を刻むが、スーッスーッと非常に速く刀を使う。印形を彫るには、我国の木彫と同様、小口をきぎみ、そして木も黄楊のように見えるから、我国のと同じものなのであろう。人は誰でもみな印形を持っている。買物をすると、受取書は赤い色の印形で調印される。印形の漢字は、我々が同様の目的に、古代英語の文字を使用するであろうが如く、古代の様式のが書かれる。図206は手当り次第集めた印形のいくつかを示している。書物の多くは一頁大の版木から印刷される。写字者が一頁を、薄い透明な紙に書き、この紙を表面を下に版木にはりつけるから、透いて見える字はひっくり返しになる。彫み手はさきの鋭い小刀を、しつかりと手に持ち、それを手前へ素速く動かして、紙ごと木を彫む。字の輪郭を彫り終ると、円鑿(のみ)で間にある木を取り去る。往来に面して開いた、ある小さな部屋で、七人の彫刻師が働いていた。四人が一列になり、残り三人はそのすぐ後に、これも一列になっていた。彼等は高さ一フィートの卓子(テーブル)を前に、例の如く床に坐って、人々が見つめ、時々光線をさえぎるのも平気で、働き続けた。
[やぶちゃん注:「手当り次第集めた印形のいくつかを示している」とあるが図は一つしかない。石川氏も直下に『〔?〕』と割注を入ておられる。この篆刻の字、どなたか読めませんか?]

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図―207

 挽物(ろくろ)師が木の細工をする有様も、同様に奇妙である。旋盤は簡単な一本の回転軸で、それに皮帯を五、六回捲きつけ、皮帯の両端は環になっていて、挽物師はここに両足を入れる。彼は旋盤の一端に坐り、両脚を上下に動かして回転軸を前後に回転させ、この粗末で原始的な方法で、非常にこまかい入籠(いれこ)の箱その他をつくる(図207)。別の場所では、一人の男が何等かの金属性のものを旋盤にかけ、男の子が皮帯を前後に引っぱっていた。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第八章 東京に於る生活 11 チョウナと芋洗い



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図―204

 

 大工が仕事をしているのを見てハラハラするのは、横材を切り刻むのに素足でその上に立ち、剃刀のように鋭い手斧を、足の指から半インチより近い所までも、力まかせに打ち降すことである(図204)。彼等はめったに怪我をしないらしい。私は傷痕や、掃をなくした跡を見つけようとして、多数の大工を注意して見たが、傷のあるのはたった一人だった。私がその大工の注意をその傷痕に向けると、彼は微笑して、脚部にある、もっと大きな傷を私に見せ、手斧を治さしながらまた微笑した。

[やぶちゃん注:これは図から分かるように「釿(ちょうな)」である。ウィキの「釿」には何と! モースのこの部分が解説に現われる! これだから好きさ! ウィキペディア!]

 


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図―205

 

 図205は、市場で薩摩芋を洗っている人の写生図である。桶には芋が半分ばかり、水にひたっている。二本の長い丸太棒は真中で結んであり、人は単に両腕を前後させる丈で、棒の先端を桶の中で回転させる。市場へ行ってすぐに気がつくのは、蕪、大根、葱その他すべての根生野菜が、如何にも徹底的に洗い潔めてあることである。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第八章 東京に於る生活 10 God damn it !

 大学での具その他の海生物に関する仕事は、うまい具合に進行しつつある。私は展覧の目的で、只のいろいろな「種」をテーブルにのせたり、標票(ラベル)をつけたりしている。今朝貝の入った皿を動かしていた時、私はすこし開いた扉に衝突して、貝のいくつかをこぼした。そこで私は、不幸にも且つ誤謬的に、瀆神(とくしん)語の範疇に入れられてある古い純然たるサクソンの表現を、語気強く使用した。私が癇癪を起したのを見て、助手は微笑した。で、かねて私は、日本人が咒罵(じゅば)しないという事を聞いていたので、助手に向って、このような場合、脳の緊張を軽減するために、何かいわぬのかと質ねた。彼は日本人も時として呪語を使用すると白状した。これはいい、時々必要を感じる日本語の咒罵語が覚えられる――と私は思った。然るに助手が教えてくれたのは「厄介な」とか「面倒な」とかいうようなことを意味する言葉で――多分我国の“Plague take it!”程度の表示であろう――これが日本人の瀆神の最大限度なのである。しばらくしてから私は陶器の急須を落した。幸い割れなかったので、別に呪語めいたこともいわなかったが、助手に日本人はこんな場合、どんなことをいうかと聞いた所が、「俺に別れの挨拶をしないでこんな風に別れて行くお前は何と無礼であることよ!」という意味のことを、急須に向っていうだけだとのことであった。
[やぶちゃん注:「瀆神語の範疇に入れられてある古い純然たるサクソンの表現」原文は“a good old Saxon expression which is unfortunately and erroneously put in the category of profane words.”でその表現自体は記されていないが、恐らくは“God damn it !”の類いであろう。
「日本人が咒罵しない」原文“Japanese did not swear”。“swear”は呪いや怒りを以て~を罵る、~に毒づくことで、まさに“Damn it!”“God damn it!”“Blast!”(“damn!”の婉曲表現)などの怒りや軽蔑を含む表現を口にする、という動詞である。「咒罵」は「呪罵」で、呪い罵るの意。あまり見慣れぬ語であるが「瀆神的」表現を上手く出している。
『「厄介な」とか「面倒な」とかいうようなことを意味する言葉』ピンとこない。「いまいましい!」「面倒臭せえ!」ぐらいしか浮かばないのだが。識者の御教授を乞うものである。
「“Plague take it!”」底本には直下に訳者の『〔罰あたり奴〕』という割注がある。“Plague”は天罰のような災い・災難・不幸・不運の謂いで、“Plague on it him!” “Plague take it him!”などと使い、「いまいましい!」「畜生!」の謂いとする。
「俺に別れの挨拶をしないでこんな風に別れて行くお前は何と無礼であることよ!」原文は“How impolite you are to leave so unceremoniously without saying good-bye!”なのだが、モース先生、日本語の発音のままに残しておいて呉れたら、目から鱗だったのですがねえ……。どなたか、この時に助手が言った言葉、ドンピシャリ、と教えて呉れませんか?]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第八章 東京に於る生活 9 モースによる帝都東京の原風景のスケッチ

 九月八日。気持のいい天気で、新鮮な、勢をつけるような風が、故郷に於ると同様に、我々をシャンとさせる。私は追々我々のに比べると、時に恐ろしくじゃれる猫のやり方が、快活な犬とまるで違うように違う、日本の習慣に慣れて来る。この広い都会を歩くのにも、いくらか見当がついて来て、もう完全に旅人ではないような気がしている。昏迷と物珍しさとは、ある程度まで減じたが、これは私に古い事を更に注意深く観察し、新しい事をよりよく会得する機会を与える。人力車で町々を通ったり、何度も何度も大学へ往復したりするのは、常に新奇で、そして愉快な経験である。必ず何か新しい物が見えるし、古い物とて見飽きはしない。低い妙な家。変った看板やバタバタいう日除け。長い袖を靡かせて、人力車の前を走りぬける子供達。頭髪をこみ入った形に結って、必ず無帽の婦人。老女は家鴨のようにヨタヨタ歩き、若い女は足を引きずって行く。往来や、店さきや、乗っている人力車の上でさえも、子供に乳をやる女。ありとあらゆる種類の行商人。旅をする見世物。魚、玩具、菓子等の固定式及び移動式の呼び売人、羅宇屋(らうや)、靴直し、飾り立てた箱を持つ理髪人――これ等はそれぞれ異った呼び声を持っているが、中には名も知れぬ鳥の啼声みたいなのもある。笛を吹きながら逍遙(さまよ)い歩く盲目の男女。しゃがれた声と破れ三味線で、歌って行く老婆二人と娘一人。一厘貰って家の前で祈禱する禿頭の、鈴を持った男。大声で笑う群衆にかこまれて話をする男。興味のあるお客をのせて、あちらこちらに馳ける人力車。二人で引く人力車には、制服を着た士官が、鹿爪らしく乗っている。もう一台のでは、疲れ切ったらしい男が二人、居ねむりをして、頭をコツンコツンやっている。別のには女が二人、各々赤坊を抱いている。もう一台のには大きな子供を膝にのせた女が一人、子供は手に半分喰った薩摩芋を持ち、その味をよくするつもりで母の乳房を吸っている――これ等の光景の全部は、我々の目をくらませ、心を奪う。とても大きな荷物を二輪車に積んだのを、男達が「ホイ サカ ホイ、ホイダ ホイ」といいながら、曳いたり押したりして行く。歩道は無いので、誰でも往来の其中を歩く――可愛い顔をした、小さな男の子が学校へ行く。奇麗な着物を着て、白粉をつけた女の子達が、人力車をつらねて何かの会合へ急ぐ――そして絶間なく聞えるのは固い路でカランコロンと鳴る下駄の音と、蜂がうなるような話し声。お互に、糞丁寧にお辞儀をする人々。町の両側に櫛比(しっび)する店は、間口がすっかり開いていて、すべての活動を、完全にさらけ出している。傘づくり、提灯づくり、団扇に絵を描く者、印形屋、その他あらゆる手芸が、明々と照る太陽の光の中で行われ、それ等すべてが、怪奇な夢の様に思われ、そしてこれ等の種々雑多な活動と、混雑した町々とを支配するものは、優雅、丁重、及び生れついたよい行儀の雰囲気である。これが異教の日本で、ここでは動物を親切に取扱い、鶏、犬、猫、鳩等がいたら、それを避けて行くなり、又はまたいで行くなりしなくてはならず、米国では最も小心翼々としている鴉でさえも、ここでは優しく取扱われるので、大群をなして東京へ来るのだという、争う余地のない事実へ、私の心はしょっ中立ち戻るのである。
[やぶちゃん注:「ありとあらゆる種類の行商人。旅をする見世物。魚、玩具、菓子等の固定式及び移動式の呼び売人、羅宇屋、靴直し、飾り立てた箱を持つ理髪人――」原文は“peddlers of all kinds; traveling shows; restaurants; stationary and peripatetic hawkers of fish, of toys, of candy; pipe-repairers; shoe-menders; barbers with their ornamental box, —”で、“restaurants”「食い物屋」が落ちている。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第八章 東京に於る生活 8 精密巧緻な工芸品の数々

 今日の午後、私はまた博覧会へ行き、そこに充ちた群集の中を、歩きながら、財布を押え続けたりしないで歩き得ることと、洋傘をベンチの横に置いておいて、一時間立って帰って来てもまだ洋傘がそこにあるに違いないと思うことが、如何にいい気持であるかを体験した。「草を踏むべからず」とか「掏摸御用心」とかいうような立札は、どこにも見られぬ。私は今後毎週二回ずつここへ来て、芸術品を研究しようと思う。今日私は漆(うるし)細工の驚く可き性質――漆の種類の多さ、製出された効果、黄金、真珠等の蒔絵(まきえ)、選んだ主題に現われる繊美な趣味に特に気がついた。

 装飾品としてかける扁額(国内用か輸出向きかは聞きもらした)は、いずれも美しかった。純黒の漆を塗った扁額には、海から出る満月があった。月は文字通りの銀盤だが、それが海面にうつった光は、不思議にも黄金色であった。我々をいらいらさせるのは、日本の芸術の各種に於る、このような真実違犯である。もっとも私は日本の絵画に、三日月が、我国の絵でよく見受けるように、逆に描かれたのは見たことがない。閑話休題、この扁額は、壁にかかっているのを一寸見ると、完全に黒く、真黒な表面が闇夜を表現し、月は実によく出来ていて、低くかかり、一部分は雲にかくれている。が、よく見ると海岸があって、数艘の舟が引き上げてあり、大きな戎克(ジャンク)が三つ海上に浮び、一方の側には遠方の岸と、水平線上の低い山とが見える。これ等の芸術家が示す控え目、単純性、及びそれに撞着するようではあるが、大胆さは、実に驚く可きである。誰が黒い背地に黒い細部を置くことを思いつこうぞ!――真黒な印籠の上の真黒な浪! これは思いもよらぬことであるが、而も日本人が好んでやる数百のことがらの中の、たった一つなのである。

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図―200

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図―201

 磁器でつくつた美事な花環、桜の花、色とりどりな茨(いばら)や小さな花もあったが、これ等に比べると古いドレスデンやチェルシイの製品も弱々しく、パテでつくったように思われる。あっさりした象牙の扇子に漆で少数の絵を、実に素晴しく描いたものが九十ドル。雪景色を画いた屏風が九十五ドル。金属製の花瓶が六百ドル(後で聞いた所によると、これ等はみな外国へ売るためにつくったものである)。品物の多くについている値段を見ていて面白く思ったのは、一セントの十分の一までが書き込んであることである。通貨はエン=ドル、セン=セント、リン=一セントの十分の一である。リンは我国の古い五セント銀貨とほぼ同じ大さの、小さな銅貨である。この博覧会にあった二脚の彫刻した椅子(勿論外国人向き)は八円三十三銭七厘としてあった。こんなに細く区分するのでは、貯金も出来るであろう。一つの扁額(図200)は、竹の額も何もすっかり金属で出来ていた。長さは二フィートで、扁額は活字の地金に似ていた(後で聞いたのだが、この金属は多分シャクドゥと呼ばれる、銅と金との合金であったろう)。蜻蛉は高浮彫りで銀、重なり合っている花や葉は金、銀、金青銅で出来ていた。これは実に精巧な出来で、値段は百三十五ドルであった。その他、非凡な扁額が沢山あった。ある一枚には貝類を入れた籠が低浮彫りで表してあった。籠から貝が数個こぼれていたが、「種」を識別することも出来る位完全に出来ていた。又別のには、秋の木葉をつけた小枝があった。異る色彩の縮緬(ちりめん)で浮き上らせてつくつたいろいろな模様は、自然そのままであった。杉板でつくつた十枚ひとそろえの懸垂装飾には、奇麗な小さい意匠がついていたが、その中のきのこの一枚は図201で示した。一組の定価が一ドル三十セント。この作品で人を驚かすのは、すべての意匠の独創と、自然への忠実と、それ等の優雅と魅力とである。我々はデューラーの蝕銅版画の草が真に迫っているのに感心し、彼の荒野の絵に夢中になる。だがこの博覧会には、あまり名前を知られていないデューラー何百人かの作品が出ている。漆と黄金と色彩とで、森林中の藪や、竹林や、景色を示した大型な衝立に至っては、美の驚異ともいうべきである。これ等は写生するには余りに込み入り過ぎていたので、最も簡単なものだけを書いた。大胆な筆致で色を使用して布に魚類を描いたものは、それ等の魚のとりまとめ方が実に典雅でよかった(図202)。最も顕著な出品の一つを図203で示す。これは木理を高く浮き上らせた樫の円盤で、樽の頭位の大さがある。その上に、縁に近く、黒い金属でつくった牡牛があり、背中に乗っている童子は、円盤の中央に書かれた何等かの文句を、口をあけ、驚いたような様子をして見ている。童子の衣服は真珠貝を切り取ったもの、手と顔と、牛の頸の上の紐は金。これは実に無比無双で、美麗であった。

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図―202

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図―203

[やぶちゃん注:個人的には種を識別出来るほど精巧な、貝を入れた駕籠の浮彫を、モース先生、絵に残しておいて欲しかったです!
「金青銅」原文“gold bronze”。合金ゴールド・ブロンズ。銅90%・亜鉛5%・鉛3%・スズ2%から成る。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第八章 東京に於る生活 7 人形焼?

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図―199

 今日裏通を歩いていたら(ここの往来はみな裏通みたいだ)パンみたいな物を、子供のために、山椒魚(図199)その他の奇妙な生き物の形に焼いたものがあった。聞く所によると、東京のある場所では、菓子を蟾蜍(ひきがえる)、虫、蜘蛛等のいやらしい物の形につくつているそうである。それは実に完全に出来ていて、ひるまずに食った人が勝負に勝つのだという。また砂群菓子や寒天を使用して、実に鼻持ちのならぬような物をつくり上げる正餐もあるそうである。これ等はすべて食えば美味いのだが、むかつきやすい胃袋にとっては、とても大変な努力を必要とする。
[やぶちゃん注:これは人形焼のようなものか。]

 町の子供達は昨今、長い竹竿を持って蜻蛉(とんぼ)を追い廻している。また蜻蛉や螇蚚(ばった)の胴体に糸をむすび、その糸を竿につけて、これ等が小さな紙鳶(たこ)ででもあるかのように、飛ばせているのもある。

栂尾明恵上人伝記 59 明恵、泰時の荘園寄贈を固辞す

 次の歳、義時朝臣逝去して、彼の泰時、天下の事、掌(たなごゝろ)に握られける最初に、丹波の國に大庄一所、梅尾に寄進せられたりければ、上人仰せられけるは、かゝる寺に所領だにも候へば、住する僧ども何と惰懶懈怠(らんだげたい)に振舞ふとも、所領あれば僧食(そうじき)事(こと)闕(か)けまじ、衣裝も補ひぬべしなんど思ひて、無道心なる者ども籠り居て、彌(いよいよ)不當(ふたう)にのみ成り行き候べし。寺の豐(ゆたか)なるに耽りて兒(ちご)ども取り置き酒盛(さかもり)し、兵具(へいぐ)を提げ不思議の振舞ひ勝て計ふべからず。さもとある山寺の、佛の禁(とゞ)めに違ひてあさましく成り行くは、是より事起れり。只僧は貧にして人の恭敬(くきやう)を衣食とすれば、自ら放逸なる事なし。信々として實しく行道する處は、さすが末代なりと雖も、十方檀那の信仰も甚しければ、自然に法輪も食輪(じきりん)も盛なり。不律不如法(ふりつふによはふ)の僧侶の肩を並ぶる所は、只俗家に謗法(ばうはふ)の罪を與ふるのみにあらず、信仰歸依の輩も無ければ、日に隨つて衰微して荒廢の地とのみなれり。されば共に誠の本意にあらねども二つをくらぶれば、人の貴敬せざらんことに憚りて不律儀(ふりつぎ)に振舞はざるは、暫く法命(はふみやう)を嗣ぐ方はまさるべく候なり。又所領の寄りてよかるべき寺も候はんずれば、左樣の所に御計らひなんども候べし。かゝる寺に所領なんどの候はんは、中々法の爲には宜しからじと覺え候。返す返す加樣(かやう)に佛法を崇め給ふことありがたく候へども、此の所に限りて存ずる旨候とて返し奉られけり。
[やぶちゃん注:「次の歳、義時朝臣逝去して」誤り。第二代執権北条義時は承久の乱から三年後の貞応三(一二二四)年六月十三日に享年六十二で急逝した(「吾妻鏡」によれば脚気衝心のためとする)。
「泰時、天下の事、掌に握られける」北条泰時は同年六月十七日に六波羅探題を退任し、六月二十八日に執権となった(この前後に泰時の継母伊賀の方が実子政村を次期執権に擁立しようとしたとされる伊賀氏の変が起こっている)。
「大庄」大規模な荘園。
「惰懶(らんだ)」講談社文庫「明惠上人伝記」もこの語順。岩波版は「懶堕(らんだ)」とする。錯字のように思われるがママとした。]

 秋田城介義景は、其の後出家して上人の御弟子に成りて、大蓮房覺知(だいれんぼうかくち)とぞ云ひける。
[やぶちゃん注:父安達景盛の誤り。前注済。これが誤りであることは「大蓮房覺知」(「知」は正しくは「智」であるがしばしば通字とされる)がまさに景盛の法名であることからも分かる(義景の法名は「願智」である)。]

耳嚢 巻之七 肴の尖たゝざる呪事

 肴の尖たゝざる呪事

 

 老人小兒魚肉を喰ふ時、右魚の尖(とげ)不立(たたざる)には、左の眞言をとのふれば尖たつことなし。

  ドウキセウコンバンブツイツタイ

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。民間救急法呪(まじな)いシリーズ。なお、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版ではこの前に同様の呪いで「蜂にさゝれたる呪の事」がある。参考までにここに引いて注と現代語訳を附しておく(恣意的に正字化し、ルビは当該書を参考にしながらも私が必要と思った部分に附した)。

 

     蜂にさゝれたる呪の事

 

 蜂の巣ある所に立寄れば蟲毒(ちゆうどく)を請(うく)る事あり。南無ミヨウアカと云ふ眞言を唱ふれば、蜂動く事能はず、嘴(くちばし)を施す事もならざるなり。蜂を手にして捕へても、右真言を唱ふれば聊(いささか)害なし。予が許へ來る栗原翁、自身ためし見しと語りぬ。

 

 *やぶちゃん注

・「眞言」ここでは真言染みた呪文のこと。

・「栗原翁」このところ御用達の「卷之四」の「疱瘡神狆に恐れし事」の条に『軍書を讀て世の中を咄し歩行ありく栗原幸十郎と言る浪人』とある栗原幸十郎と同一人物であろう。根岸のネットワークの中でもアクテイヴな情報屋で、既に何度も登場している。

 

 *やぶちゃん現代語訳

 

     蜂に刺された際の呪(まじな)いの事

 

 蜂の巣がある場所に近寄ると蜂の毒を受けることがある。その際には「南無ミョウアカ」という呪文を唱えれば、蜂は動くことが出来なくなり、毒針を立てることも、これ、全く出来ずなるものである。蜂を直(じか)に手にて捕えた際にも、この呪文を唱えたならば、聊かも害を受けることがない。これは私の元へ参る例の栗原翁が、自身で試して見て確かなことである、と語って御座った。

 

これを見るにどうも本条はこの時一緒に栗原翁から語られたもののように感じられる。

・「ドウキセウコンバンブツイツタイ」波のカリフォルニア大学バークレー校版には、

 とうきせうこん萬物一體

(恣意的に漢字を正字化した)とある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 魚の骨が咽喉に刺さらぬようにする呪(まじな)いの事

 

 老人や小児が魚肉を食う際、その魚の鋭い骨が咽喉に刺さらぬようにするには、左の呪文を唱えれば棘(とげ)は、これ、立つことがない。

  ドウキセウコンバンブツイツタイ

由比北洲股旅帖 しじち氏 北溟子355句 アムール句集より

「由比北洲股旅帖(ゆひほくしふまたたびちやう)」を創始す。こは電子網巷間を彷徨せる内に我北洲が風狂の琴線に觸れし場所を備忘せるものなり。

一 しじち氏「北溟子355句 アムール句集より」二〇一三年八月十七日

我ら祕かに成さんと目論みありし故山本幡男氏が俳句集、既にしてここにて總覽されてありし。感慨無量也。

このしじち氏は、かの我が日錄に膨大なる訪問者を齎したるところの番組が關係者ならんか、「撮影中に訪問者あり!」てふ日錄もありたり。



――由比北洲――“Ubiquitous”である――

莟から莟へあるいてゆく人 大手拓次

 莟から莟へあるいてゆく人

まだ こころをあかさない
とほいむかうにある戀人(こひびと)のこゑをきいてゐると、
ゆらゆらする うすあかいつぼみの花(はな)を
ひとつひとつ あやぶみながらあるいてゆくやうです。
その花の
ひとの手にひらかれるのをおそれながら、
かすかな ゆくすゑのにほひをおもひながら、
やはらかにみがかれたしろい足(あし)で
そのあたりをあるいてゆくのです。
ゆふやみの花と花とのあひだに
こなをまきちらす花蜂(はなばち)のやうに
あなたのみづみづしいこゑにぬれまみれて、
ねむり心地(ごこち)にあるいてゆくのです。

鬼城句集 夏之部 宵待草の花

宵待草の花 宵待草河原の果に落ちこむ日

 

[やぶちゃん注:「宵待草」「よひまちぐさ(よいまちぐさ)」は私には拘りのある花である。問題はここで鬼城の見ているそれが何色であるかということが問題になる。結論から言おう。これは九分九厘、太宰の「富嶽百景」の「富士には月見草がよく似合ふ」でも有力な同定候補であるオオマツヨイグサ Oenothera erythrosepalaの類であって、花の色は黄色である。宵待草(よいまちぐさ)は待宵草(まつよいぐさ)・月見草(つきみそう)・夕化粧(ゆうげしょう)などと呼ばれるが、双子葉植物綱フトモモ目アカバナ科 Onagroideae 亜科 Onagreae 連マツヨイグサ属 Oenothera に含まれる一群を特定せずに(狭義の使用区分は後述するように実際にはある)総称する通称である。この「宵待草」と同義である標準和名のマツヨイグサ(待宵草)の方はマツヨイグサ属マツヨイグサ Oenothera odorata というれっきとした一種のみを指すが、実際に「宵待草」や「待宵草」がこの種を限定的に指すものとして使用されることは、植物学や園芸家以外では、まずないと考えてよい。生態から見ても同属に属するものは花が多くの種で黄色い四弁花であり、どの種も雌しべの先端が四裂するのを特徴とする。一日花であり、多くの種で夕刻に開花して夜間咲き続け、翌朝には萎んでしまい(園芸種としてしばしば見かけ、それが野生化もしているヒルザキツキミソウ Oenothera speciosa は昼間にも白または薄いピンク色の花を開いている)、これが複数の和名異名の由来となっているが、参照したウィキマツヨイグサによれば、実は『マツヨイグサ属には黄色以外の白、紫、ピンク、赤といった花を咲かせる種もある。標準和名では、黄花を咲かせる系統は「マツヨイグサ」(待宵草)、白花を咲かせる系統は「ツキミソウ」(月見草)と呼び、赤花を咲かせる系統は「ユウゲショウ」(夕化粧)などと呼んで区別しているが、一般にはあまり浸透しておらず、黄花系統種もよくツキミソウと呼ばれる。しかし黄花以外の系統がマツヨイグサの名で呼ばれることはまずない。なお黄花以外の種は園芸植物として栽培されているものが多い』(下線やぶちゃん)とある。鬼城の見ているのは河原に自生するそれであり、句の構図は広角で遠景、そこでは背の低い白色系の「月見草」などは映らないから、その点からも背の高い直径約七センチメートルに及ぶの大輪の花を咲かせるオオマツヨイグサ Oenothera erythrosepala か、それより低く、葉の細い マツヨイグサ Oenothera stricta の黄色い花になるのである(オオマツヨイグサは原産地は不明ながらヨーロッパで品種改良された園芸種と考えられており、日本には明治初期の一八七〇年代に渡来して野外に播種、帰化植物化したと思われる)。因みに私は黄色いオオマツヨイグサやマツヨイグサがあまり好きではない(従って太宰のキャッチ・コピーも好かぬ。但し、砂浜海岸に見られるコマツヨイグサ Oenothera laciniata やハマベマツヨイグサ Oenothera humifusa (コマツヨイグサに似るが茎が直立する)はいい。しかし前者は鳥取砂丘で砂丘を緑化する「害草」として駆除されているらしい)。ユウゲショウ Oenothera rosea に至ってはこれ見よがしな紅がはっきり言って嫌いである。……私が好きなのは……もうお分かりと思うが、白色可憐なツキミソウ(月見草)Oenothera tetraptera なのである(グーグル画像検索「Oenothera tetraptera」――白い花だけをご覧下さい。……三十年前、私の新築前の古い家の地所内の玄関脇に、野生のこの白いツキミソウ Oenothera tetraptera の群落があった。毎日のように泥酔して帰ると、この時期、夢幻(ゆめまぼろし)のように闇の中に十数輪の月見草がぼうっと輝いていたものだった。……ある夜、それを楽しみに千鳥足で帰ってみると……門扉の中側でありながら……一株残らず……綺麗にシャベルでこそがれて持って行かれていた……私はユリィディスを失ったオルフェのように地べたに膝をついて号泣した――]

伊豆の歌――土肥村所見 料理屋の裏戸ゆ見ゆる七輪のほのほ色なく夕暮れにけり 中島敦

酷暑の中のパソコン作業は未明に限る……



    伊豆の歌

      ――土肥村所見――

料理屋の裏戸ゆ見ゆる七輪のほのほ色なく夕暮れにけり

[やぶちゃん注:太字「ほのほ」は底本では「ヽ」。先の「河馬」歌群の中の「小蝦の歌――土肥海岸所見――」に注した、昭和一二(一九三七)年の手帳日記によれば、

八月二十九日(日)長濱ヘ行ク/美シキ日ナリ。中濱、諸節、籾山、山路、泳イデ居テ、水底ヲ見ル、自分ノ影ガ映ツテヰル、ダボハゼノ逃ゲテ行クノモ見エル、バス滿員、湘南デカヘル、

とあり、この「長濱」とは西伊豆の静岡県沼津市内浦長浜の可能性が高く、土肥に近い。これもその折りの吟詠であろう。即ち言わずもがなであるが、各歌群内では概ね時系列になっているようには思われるものの(「小笠原紀行」などは最も美しい時系列であろう)、これらの歌稿の歌群自体の順はあくまで部立編成で、巨視的に見ると歌群自体は編年時系列で配されたものではないことが分かる。]

2013/08/21

栂尾明恵上人伝記 58 明恵、北条泰時を喝破す

あまりのヒート・アップに冷房のない書斎での作業は僕もパソコンも難行苦行我慢大会状態――このシークエンスの明恵の不退転の毅然とした態度には憬れるものの……今夜、根性のない僕はこれを以て早々に退席致すこととと致します……すみませぬ、お上人さま……



 承久三年の大亂の時、梅尾の山中に京方(きやうがた)の衆(しゆう)多く隱し置きたる由聞えければ、秋田城介義景(よしかげ)此の山に打ち入りてさがしけり。狼藉(らうぜき)の餘り何とか思ひけん、大將軍泰時朝臣(あそん)の前にて沙汰あるべしとて、上人をとらへ奉りて、先に追ひ立てゝ六波羅へ參りけり。折節泰時朝臣物沙汰して侍に坐せられけり。軍勢堂上堂下に充滿せり。義景上人を先に立てゝ彼の前に至りて事の由を申す。泰時朝臣先年六波羅に住せられし時、此の上人の德を聞き及び給ひしかば、先づ仰天して、敬(うやま)ひ畏(かしこま)つて席を去つて上に居(す)ゑ奉る。此の體(てい)を見て義景謬(あやまち)し出しけるにやと興さめたる體なり。さて上人のたまひけるは、高山寺に落人(おちうど)多く隱し置きたりと云ふ沙汰の候なる、其はさぞ候らん、其の故は、高辨が有樣まま聞き及ぶ人も候らん、若きより本寺を出で處々に迷ひ行き候ひし後は、日比(ひごろ)習ひおき候ひし法文の義理の、心に浮かぶだにも更に庶幾(こひねが)はざる處なり。まして世間の事に於いては一度も思量(しりやう)するに及ばずして年久しく罷(まかり)成り候ひき。されば貴賤につけて、人の方人(かたうで)せんと云ふ心起ると云ふも、沙門の法にあるまじきことにて候。其の上かゝる心の一念萌(きざ)せども二念と相續することなし。何に依りてか、少しも人の方人する事候ふべき。又人の祈りは緣に付て、してたべと申す人も多く候ひしかども、一切衆生の三途(さんづ)に沈みて苦しみ候をこそ、先づ祈りて助くべくは祈り候はんずれ。是等を皆祈り浮かべて後こそ、浮世(うきよ)の夢の如くなる暫時の願をば祈りても奉らんずれ。大事の前に小事なしと返答して、更に用ひずして又年月を遙に積れり。されば高辨に祈り誂(あつら)へたりと申す人、今生界(こんじやうかい)の中によもあらじと覺え候。然るに此の山は三寶寄進の所たるに依りて、殺生禁斷の地なり。仍て鷹に追はるゝ鳥、獵に逃ぐる獸、皆爰に隱れて命を續ぐのみなり。されば敵を遁るゝ軍士のからくして命ばかり助かりて、木の本岩のはざまに隱れ居候はんをば、我が身の御とがめに預りて、難に逢ひ候はんずればとて、情(なさけ)なく追ひ出して敵の爲に搦(から)め取られ、身命を奪はれんことをかへりみぬことやは候べき。我が本師能仁(のうにん)の古は、鳩に替りて全身を鷹の餌となされ、又飢えたる虎に身をたび候ひしぞかし。其れまでの大慈悲こそ及び候はずとも、かばかりのことの無くやは候べき。隱す事ならば袖の中にも、袈裟の下にも隱してとらせばやとこそ存じ候ひしか。向後(かうご)々々も資くべく候。是れ政道の爲に難義(なんぎ)なる事に候はゞ、即時に愚僧が首をはねらるべしと云々。泰時朝臣此の仰を聞き給ひて、頻に感涙を流し、申し給ひけるは、子細も知らぬ田舍夷(いなかゑびす)どもの、左右(さう)無く參り候ひて、狼藉仕り候ひけること、返す返す不可思議に候。剩(あまつさ)へ、尊體(そんたい)をさへ是れまで入れ申し候條、其の恐れ少なからず候。今度若し無爲(むゐ)に上洛仕り候はゞ、最先(まつさき)に參上仕り候うて生死の一大事を歎き申すべきの由、深く心中に插(はさ)み存じながら、此の悤劇(そうげき)に障へられ候うて、今に其の義なく候ひつるに不思議に御目に懸かり候、然るべき三寶の御計らひかと存じ候。其に付きては如何してか生死をば離れ候べき。又此の如く、物沙汰(ものさた)に聊かも私なく理のまゝに行ひ候はゞ罪には成るまじきにて候やらんと云々。上人答へ給ひけるは、少きも理に違(ちが)ひて振舞(ふるま)ふ人は後生(ごしやう)までもなく今生(こんじやう)にやがて滅ぶる習ひなり。其は申すに及ばず、縱(たと)ひ正理のまゝに行ひ給ふとも分々(ぶんぶん)の罪脱(のが)れぬことあるべし。生死の助けとならん事は思ひも寄らぬことなり。山中に嘯(うそぶ)く僧侶すら猶佛法の深理(しんり)に叶はざれば、輪廻の苦しみ免れ難し。况んや俗塵(ぞくじん)の境に心を發して、雜念(ざふねん)に覊(ほだ)されて佛法と云ふことをも知らずして明かし暮さん人をや、世に大地獄と云ふ物の現ずるは、只其等の御樣なる人の墮て煮返(にへかへ)らん料にてこそ候へ。無常の殺鬼(せつき)は弓箭(ゆみや)にも恐れず、刀杖(たうぢやう)にも憚らざる者なり。只今とても引きつり奉りて行かん時は如何し給ふべき。實(げ)に生死を免れんと思ひ給はゞ、暫く何事をも打ち捨てゝ、先づ佛法と云ふことを信じて、其の法理(はふり)を能々辨(わきま)へて後、せめて正路に政道をも行ひ給はゞ、自ら宜しきことも候ふべしと云云。泰時大に信仰の體(てい)に住(ぢゆう)して、殊に思ひ入れる樣なり。さて御輿(みこし)用意して召させ奉りて、門のきはまで自ら送り出し奉りけり。其の後、世聊かしづまりて常に彼の山に參詣して法談なされけり。
[やぶちゃん注:「承久三年」西暦一二二一年。承久の乱はこの年の五月十四日に勃発、ちょうど一ヶ月後の六月十四日に京方は敗走、幕府軍が京へ侵攻して終わり、戦後に京都守護に代り新たに六波羅探題が設置され、幕府軍総大将北条泰時(当時三十九歳)が六波羅探題北方として就任し(南方には同じく大将軍として上洛した叔父北条時房が就任)、朝廷の監視及び西国武士の統率に従事していた。
「秋田城介義景」これは秋田城介安達義景の父で同じく秋田城介であった安達景盛の誤り。詳しくは講談社文庫「明惠上人伝記」の平泉洸の考証(二一三~二一五頁)を参照のこと。
「能仁」釈迦如来。以下の叙述はその前世での逸話。
「資く」「たすく」と訓じている。救援する。
「少きも」「すこしきも」と訓じ、少しでも、の意。
「世に大地獄と云ふ物の現ずるは、只其等の御樣なる人の墮て煮返(にへかへ)らん料にてこそ候へ」「御樣」は「おんさま」、「墮て」は「おちて」、「料」は「れう(りょう)」と読む。――この宇宙に大地獄というものが厳として現われるのは、ただそのような人々(前文の「少きも理に違ひて振舞ふ人」から「俗塵の境に心を發して、雜念に覊されて佛法と云ふことをも知らずして明かし暮さん人」までの、仏法から少しでも外れた行いをする人から仏法そのものを全く知らずに欲に執心して奔放に生きている人まで総てを指す)が堕ちて永く何度も何度も煮られるために他ならぬので御座る――というのである。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第八章 東京に於る生活 6 モースの加賀屋敷第五番の家


M198

図―198

 

 今や私は加賀屋敷第五番に、かなり落着いた。図198は、私が住んでいる家を、ざっと写生したものである。これは日本人が建て、西洋風だということになっている。急いでやったこのペン画は、本物の美しい所をまるで出していない。巨大な瓦屋根、広い歩廊、戸口の上の奇妙な日本の彫刻、椰子(やし)、大きなバナナの木、竹、花の咲いた薔薇等のある前庭によつて、この家は非常に人の心を引く。家の内の部屋はみな広い。私が書簡室即ち図書室として占領している部屋は、長さ三十フィート幅十八フィートで高さは十四フィートある。これがこの家の客間なので、これに接する食堂とのしきりは折り戸で出来ている。床には藁の莚を敷いて、家具を入れぬ情況の荒涼さが救ってある。夜は確かに淋しい。頭の上では鼠が馳けずり廻る。天井は薄い板に紙を張った丈なので、鼠は大変な音をさせる。床は気温の変化に伴って、バリンバリンといい、時に地震があると屋根がきしむ。そして夜中には、誰でも、確かに歩廊を私(ひそ)かに歩く足音が聞えたと誓言するであろう。だが、私は押込み強盗や掏摸(すり)等のいない、異教徒の国に住んでいるので、事実、故郷セーラムの静かな町にいるよりも、遙かに安心していられる。

[やぶちゃん注:「椰子」原文“palms”であるが、これは棕櫚と訳すべきところであろう。単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科シュロ属 Trachycarpus のワジュロ(和棕櫚)Trachycarpus fortunei か、トウジュロ(唐棕櫚)Trachycarpus wagnerianus であろう。ウィキの「シュロ」によれば、ワジュロは『日本では九州地方南部に自生する。日本に産するヤシ科の植物の中ではもっとも耐寒性が強いため、東北地方まで栽培されている』とあるし、トウジュロの項には『中国大陸原産の帰化植物で』あるが、『江戸時代の大名庭園には既に植栽されていたようである』ともあるから孰れの可能性もある。

「バナナ」原文も“big banana plant”とあるが、単子葉植物綱ショウガ亜綱ショウガ目バショウ科バショウ Musa basjoo と思われる。図―198の玄関の向かって右側に描かれている。

「長さ三十フィート幅十八フィートで高さは十四フィート」客間は長辺が約9・1メートル/幅約5・8メートル/高さ約4・3メートルで、すこぶる広い。モースが自慢したくなるのも尤もである。

「故郷セーラム」原文は“my quiet town of Salem”。モースの生地はメイン州ポートランドであることを知らない読者には「故郷」という訳はやや問題があるように思う。モースは一八六七年、二十九歳の時に三人の研究仲間とともにマサチューセッツ州エセックス郡セイラムに「ピーボディー科学アカデミー」(一九九二年以降はピーボディ・エセックス博物館。名は寄附と援助をしてくれた銀行家で慈善家でもあった George Foster Peabody に因む)を開き、そこで一八七〇年まで軟体動物担当の学芸員を務めたが、一八六八年にこのセイラムに終生の家を構えている(このデータはウィキエドワード・S・モースに拠った)。「故郷アメリカの、静かなセーラムの町」「住み馴れた懐かしの静かなセーラムの町」ぐらいが穏当であるように思う。]

耳嚢 巻之七 國栖の甲の事

 國栖の甲の事

 

 武田信玄國栖(くず)の甲(かぶと)は、高貮百石にて大御番(おほごばん)元勤(つとめ)し渡邊左次郎家に傳はりしを、見し人の語りしは、頭形(づなり)三枚錣(しころ)にて打見(うちみ)は麁末(そまつ)に見ゆれど、右錣の裏に切金(きりかね)入(いり)候、國栖草(くづくさ)の蒔繪(まきゑ)にて、同庇(ひさし)に信玄自筆にて款(くわん)を認(したた)めたり、

  いかにせん國栖のうら吹秋風に下葉の露殘りなき身は

 上州白井(しろゐ)にて妙珍信家(めうちんのぶいへ)の作也。甲州侍下條伊豆守戰國に浪々して、其悴(せがれ)渡邊家へ養(やしなは)れける故、今彼(かの)家に持(もち)傳へしと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。標題は「國栖(くず)の甲(かぶと)の事(こと)」と読む。

・「國栖」「國栖草」は葛唐草で唐草模様のこと。因みに、「葛(くず)」の元は古えの大和吉野川上流の山地にあったという村落「国栖(くず)」で、ここの民が葛粉を作っていたことに由来するという。この「くず」という読みは「くにす」の音変化で、この村人「くずびと」は特に選ばれて宮中の節会に参じ、贄(にえ)を献じ、笛を吹き、口鼓(くちつづみ)を打って風俗歌を奏したという。なお岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『国栖唐草』となっている。

・「大御番」大番。常備兵力として旗本を編制した警護部隊で、江戸城以外に二条城及び、この大坂城が勤務地としてあり、それぞれに二組(一組は番頭一名・組頭四名・番士五〇名、与力一〇名、同心二〇名の計八五名編成)が一年交代で在番した(以上はウィキの「大番」に拠る)。

・「渡邊左次郎」底本鈴木氏注に、渡邊英(さかえ)とし、安永五(一七七六)年に三十六歳で大番とあるから、生年は寛保元・元文六(一七四一)年で、「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年当時も存命であれば、六十六歳。

・「頭形」頭形兜(ずなりかぶと)。平安末期に発生したと考えられている兜の一形式。三~五枚と少ない鉄板から成り、制作の手間もコストも比較的低かったことから戦国以降に広く使用された。名前の通り、兜鉢の形は人間の頭に似ているのが最大の特徴である。参照したウィキの「頭形兜」に錣(兜の鉢の左右・後方に附けて垂らし、首から襟の防御とするもの)についての詳しい形状のほか、写真もあるので参照されたい。

・「打見」ちらっと見たところ、ちょっと見の意。

・「切金」金銀の薄板を小さく切って、蒔絵の中にはめ込む技法。箔より少し厚めのものを用いて図中の雲などにあしらう。

・「同庇」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『間庇』で、これだと、「眉庇」「目庇」(まびさし)で、兜の鉢の前方に庇のように出て額を蔽う部分の意。「同」は誤写かも知れないが、意味は通る。

・「款」金石などに文字をくぼめて刻むこと。また、その文字。但し、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『歌』。これも誤写かも知れないが、意味は通る。

・「いかにせん國栖のうら吹秋風に下葉の露殘りなき身は」底本には下の句の「露殘」の右に『(ママ)』注記がある(訳では「の」を補った)。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版には(正字化した)、

 いかにせんくずの裏吹く秋風に下葉の露の殘りなき身を

とある。この和歌は「新古今和歌集」の「卷第一三 戀歌三」に載る相模の(国歌大観一一六六番歌)、

   人しれず忍びけることを、文(ふみ)などちらすと聞きける人につかはしける

 いかにせん葛のうらふく秋風に下葉の露のかくれなき身は

のインスパイアである。元歌は、送った恋文をあちらこちらで面白がっては見せていると噂に聴いた男にへの恨み節で、

――いったいどうしたらよいのでしょうか……葛の葉裏を吹き返す秋風のために下葉におかれていた露がすっかりあらわになってしまうように……私の飽きがきた貴方のために今やすっかり世間の晒し者とされてしまった消え入らんばかりに恥ずかしく淋しいこの我が身を……お恨み申しますわ――

であるのを、戦場に、所詮、露の如くに儚い残り少なき身――命を散らす、この兜を被った武将の、不惜身命是非に及ばずという諦観と覚悟に鮮やかに転じたもの。

・「上州白井」現在の群馬県群馬郡子持(こもち)村白井(しろい)。

・「妙珍信家」(文明一八(一四八六)年?~永禄七(一五六四)年?)室町末期から戦国期にかけての甲冑師。甲冑工を本職としてきた明珍家の第十七代。「明珍系図」によれば、前記の上野国白井に住し、初名を安家、後に剃髪して覚意と号したという。また、武田晴信から一字を賜って信家と改名、甲州(現在の山梨県)や相模小田原にも移り住んだともされるが確証はない。古来、鐔工として著名な信家と同一人物視されたこともあったが、現在では別人と見做されている(「朝日日本歴史人物事典」に拠ったが、「白井」の部部は底本の鈴木氏の注を援用した)。

・「下條伊豆守」底本の鈴木氏注に、『信州伊那郡下条村の富山城に拠った下条氏(甲陽軍鑑に下条百五十騎)は武田氏の勢力に屈し、信玄は一族の伊豆守信氏に下条の家名を襲わしめた』とある。ウィキの「下条信氏」によれば、下条信氏(しもじょうのぶうじ 享禄二(一五二九)年~天正一〇(一五八二)年)は戦国時代の武将で父は下条時氏。信濃小笠原氏、後の甲斐武田氏の家臣で、武田晴信(信玄)の義兄弟、信濃吉岡城(伊那城)城主。兵庫助、伊豆守。正室は武田信虎の娘。下条氏は甲斐国巨摩郡下条(韮崎市下条西割)から興った武田氏の一族とも言われているが、室町時代中期に小笠原氏から養子が入り、信濃下伊那郡へ入国したという。信濃国守護である小笠原氏に仕え、天文年間に本格化した武田氏の信濃侵攻においても反武田勢に加わっているが、天文二三(一五五四)年八月の鈴岡城攻略前後に武田方に服従、信濃国上伊那郡知久氏(ちくし:知久沢。現在の長野県上伊那郡箕輪町)を与えられている。弘治元(一五五五)年には時氏の死去により家督を継承、信氏は武田氏家臣で譜代家老衆であった秋山虎繁(信友)の配下となり、「甲陽軍鑑」では信濃先方衆に含まれている。武田晴信(信玄)からは重用されて、その妹を正室に与えられ、晴信の「信」を与えられて信氏と改名(「武田氏系図」による)、「下条記」では信氏ら下伊那衆は武田四天王の一人山県昌景(まさかげ)の相備衆(与力)に任じられた。以後は史料に名が見られないが、弘治三(一五五七)年の三河国武節(ぶせつ)城攻め、永禄四(一五六一)年の川中島の戦いに参戦している。「下条記」によれば、元亀二(一五七一)年四月には秋山に従って三河攻めに参加、足助(あすけ)城(真弓山(まゆみやま)城)番を務め、元亀三(一五七二)年から天正三(一五七五)年八月まで美濃岩村城番を務めている。天正一〇(一五八二)年二月、織田信長による甲州征伐が始まると吉岡城は織田の武将・河尻秀隆や森長可らに攻められることになるが、弟の氏長が織田軍に内応したため落城し、信氏は長男の信正と共に三河黒瀬に落ち延びた。武田氏の滅亡と本能寺の変を経た六月二十五日に遠江宮脇で死去。享年五十四、とある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 国栖唐草(くずからくさ)の兜(かぶと)の事

 

 武田信玄國栖(くず)の兜(かぶと)と申すもの、高二百石にて大御番(おおごばん)をもと勤めておられた渡邊左次郎殿の家に伝わっており、それを実見致いた人の語ったことには――

……その兜は頭形三枚錣(ずなりさんまいしころ)にて、一見、粗末な造りに見えるけれども、その錣の裏には切金(きりかね)細工が施されて御座って、それが国栖唐草(くずからくさ)の蒔絵(まきえ)という趣向、またその庇(ひさし)部分には、これ何と、信玄自筆にて款(かん)を認(したた)め、

  いかにせん国栖のうら吹秋風に下葉の露の残りなき身は

と彫られて御座る。

 しかもこれ何と、上州白井(しろい)の、かの名甲冑師妙珍信家(みょうちんのぶいえ)の作にて御座る。

 戦国の頃、甲州の侍であった下條伊豆守信氏(のぶうじ)は、浪人となって諸国を彷徨(さすら)って御座ったが、その間、信氏の倅(せがれ)が、かの渡邊家へ預けられ、養われたという因縁より、今に、かの渡邊家に伝えられておる、とのことで御座る。……

中島敦の歌群「Miscellany」中にある無題の纏まった十二首

ひたぶるに詠みけるものか四十日餘よそかまり五首の歌をわがつくれりし

拙なかるわが歌なれど我死なは友はまち元町まち)行き憶ひいでむか

わがいのちみじかしと思ひ街行けばものことごとに美しきかな

[やぶちゃん注:「ことごと」の後半は底本では踊り字「〲」。この時(底本年譜ではこの中島敦の歌群を「和歌五百首」と称しているが、それが成ったのは昭和一二(一九三七)年、中島敦満二十八歳の折りであった。彼の死は五年後の昭和一七(一九四二)年十二月四日のことであった)、中島敦には死の予兆とその諦観的思惟が既にしてあったことが窺われる。]

ほのぼのと人こひそめし心もちて初薄雪の朝を行かばや

[やぶちゃん注:「ほのぼの」の後半は底本では踊り字「〲」。]

人はしも我を得知らず知られむと我も願はず夜の町を行く

何故なにゆゑに我は我なりや」人知らず知らずして生くるをかしかりけり

裸木はだかぎ晝月ひるづきかゝりゐたりけりわれ三十になるといふ冬

[やぶちゃん注:「三十になるといふ冬」言わずもがなであるが数え年。]

あさりヽヽヽするバタヤのうたふ流行歌聞きつゝあればなにか明るし

我が歌はおならヽヽヽの如し腹内はらうちにたまりたまりてふと打出づる

[やぶちゃん注:「たまりたまり」の後半は底本では踊り字「〱」。]

敷島の大和の和歌うたは樂しけどわれのゐるべきところにあらじ

美しき白痴女といひてまし思想をもたぬ和歌うたの美しさ

デカルトの末裔われはなむとす三十一文字を戀しとは思へど

[やぶちゃん注:この最後の二首、私は不思議にひどく惹かれる。]

夢をうむ五月 大手拓次

 夢をうむ五月

粉(こ)をふいたやうな みづみづとしたみどりの葉つぱ、
あをぎりであり、かへでであり、さくらであり、
やなぎであり、すぎであり、いてふである。
うこんいろにそめられたくさむらであり、
まぼろしの花花(はなばな)を咲かせる晝(ひる)のにほひであり、
感情の絲にゆたゆたとする夢の餌(ゑ)をつける五月、
ただよふものは ときめきであり ためいきであり かげのさしひきであり、
ほころびとけてゆく香料の波である。
思ひと思ひとはひしめき、
はなれた手と手とは眼(め)をかはし、
もすそになびいてきえる花粉(くわふん)の蝶、
人人(ひとびと)も花であり、樹樹(きぎ)も花であり、草草(くさぐさ)も花であり、
うかび ながれ とどまつて息づく花と花とのながしめ、
もつれあひ からみあひ くるしみに上氣(じやうき)する むらさきのみだれ花、
こゑはあまく 羽ばたきはとけるやうに耳をうち、
肌のひかりはぬれてふるへる朝のぼたんのやうにあやふく、
こころはほどのよい濕(しめ)りにおそはれてよろめき、
みちもなく ただ そよいでくるあまいこゑにいだかれ、
みどりの泡(あわ)をもつ このすがすがしいはかない幸福、
ななめにかたむいて散らうともしない迷ひのそぞろあるき、
恐れとなやみとの網(あみ)にかけられて身をほそらせる微風の卵。

鬼城句集 夏之部 十藥 

十藥    十藥や石垣つづく寺二軒

[やぶちゃん注:「つづく」の「ゞ」は底本では「〵」に濁点の踊り字。「十藥」は「どくだみ」と読む。コショウ目ドクダミ科ドクダミ Houttuynia cordata のこと。但し、厳密にはこの表記はドクダミ全草を乾した漢方生薬の名称「ジュウヤク」を指す(主に利尿・抗菌)。この名称は馬の薬として十種の効果があるという伝承に由来する。因みに和名ドクダミは「毒矯(どくだ)み」で「毒を抑える」の意に基づく。]

2013/08/20

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第八章 東京に於る生活 5 第一回内国勧業博覧会で(3)

 播磨の国の海にそった街道を、人力車で行きつつあった時、我々はどこかの神社へ向う巡礼の一群に追いついた。非常に暑い日だったが、太平洋から吹く強い風が空気をなごやかにし、海岸に大きな波を打ちつけていた。前を行く三、四十人の群衆は、街道全体をふさぎ、喋舌ったり、歌ったりしていた。我々は別に急ぎもしないので、後からブラブラついて行った。と、突然海から、大きな鷲が、力強く翼を打ちふって、路の真上の樫の木の低い枝にとまった。羽根を乱した儘で、鷲は喧しい群衆が近づいて来るのを、すこしも恐れぬらしく、その枝で休息するべく落着いた。西洋人だったら、どんなに鉄砲をほしがったであろう! 巡礼達が大急ぎで巻いた紙と筆とを取り出し、あちらこちらから手早く鷲を写生した有様は、見ても気持がよかった。かかる巡礼の群には各種の商売人や職人がいるのだから、これ等の写生図は後になって、漆器や扇を飾ったり、ネツケを刻んだり、青銅の鷲をつくつたりするのに利用されるのであろう。しばらくすると群衆は動き始め、我々もそれに従ったが、鷲は我々が見えなくなる迄、枝にとまっていた。

[やぶちゃん注:これはずっと後、明治一二(一八七九)年、モースが一時帰国(九月三日離日)する前の九州・関西旅行の途次のエピソードと思われる。モースは離日に際し、未だ未踏の西日本への踏査を望んだ(磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば『九州行は動物採集が大きな目的であったが、関西訪問は陶工を訪問し、陶器を収集することが主たるねらいだった』とある)。同年五月七日に船(上海行「名古屋丸」。東海道線の開通は十年後の明治二二年)で横浜を出発、神戸に九日の午後三時に着き、ここで一時下船して布引の滝(兵庫県神戸市中央区葺合町)を訪ねている。神戸港からのそこへの路程は海沿いではなく内陸方向であるが、実はこの時、海岸で貝類を採集している模様で(前掲書二五〇頁。この後、神戸で一泊したモースは、同じ名古屋丸で十日午後に出航、馬関(現在の下関)に寄った後、十二日に長崎に着いている)、私はこの折りか、若しくはこの長崎からの帰途、六月七日に神戸に着き、再び神戸で数日間ドレッジをしているから、その孰れかの折りの体験ではなかろうかと推測している(可能性が高いのは滞在期間が短い往路ではなく復路の時である)。

「ネツケ」原文は“a netsuki”。

 

 維新から、まだ僅かな年数しか経ていないので、博覧会を見て歩いた私は、日本人がつい先頃まで輸入していた品物を、製造しつつある進歩に驚いた。一つの建物には測量用品、大きな喇叭(ラッパ)、外国の衣服、美しい礼服、長靴や短靴(中には我々のに匹敵するものもあった)、鞄、椅子その他すべての家具、石鹼、帽子、鳥打帽子、マッチ、及び多数ではないが、ある種の機械が陳列してあった。海軍兵学寮の出品は啓示だった。大きな索条(ケーブル)、繩(ロープ)、滑車、船の索具全部、それから特に長さ十四フィートで、どこからどこ迄完全な軍艦の模型と、浮きドックの模型とが出ていた。写真も沢山あって、皆美術的だった。日本水路測量部は、我国の沿岸及び測量部にならった、沿岸の美しく印刷した地図を出していた。又別の区分には黎(すき)、耨(くわ)、その他あらゆる農業用具があり、いくつかの大きなテーブルには米、小麦、その他すべての日本に於る有用培養食用産品が、手奇麗にのせてあった。学校用品は実験所で使用する道具をすべて含んでいるように見えた。即ち時計、電信機、望遠鏡、顕微鏡、哲学的器械装置、電気機械、空気喞筒(ポンプ)等、いずれもこの驚くべき国民がつくったものである。私が特にほしいと思った物が一つ。それは象牙でつくつた、高さ一フィートの完全な人間の骸骨である。この骸骨の驚異ともいうべきは、骨を趾骨に至る迄、別々につくり、それを針金でとめたことで、手は廻り、腕は曲がり、脚は意の如く動いた。肋骨と胸骨とをつなぐ軟骨は、黄色い角で出来ていて、拵え作った骸骨の軟骨と全く同じように見えた。下顎は動き、歯も事実歯窠(しか)の中で動くかのように見えた。

[やぶちゃん注:「浮きドック」原文“drydock”。海事用語で係船ドック・潮入り岸壁をいう。

「哲学的器械装置」原文“philosophical apparatus”。これは「理化学器械装置」と訳すべきところである(“philosophy”は狭義には哲学であるが、元来は医学・法学・神学以外の全学問を示す。「島津製作所創業記念資料館」公式サイトの「新島 襄との関わり」のページに、島津製作所が明治一五(一八八二)年に発行した「理化器械目録表」が一八六八年にアメリカの科学器機メーカー E.S. Ritchie & Sons 社のカタログ“RITCHIE'S CATALOGUE PHILOSOPHICAL APPARATUS”を模したものと推測されている、とあることからも「理化学」と訳しておかしくない)。

「象牙でつくつた、高さ一フィートの完全な人間の骸骨」不詳。1フィートは30・48センチメートル。象牙製でしかも生物学者モースが唸って手に入れたいというほど精密な(永久歯も埋め込んであるようだというのはこの大きさでは凄い!)人体標本となればデータがあってしかるべきはずであるがネット上を管見した限りでは見当たらない。江戸時代に大阪の整骨医各務文献(明和二(一七六五)年~文政十二(一八二九)年)が製作した、精密で一見実物と区別が出来ないとも言われる人体骨格模型の通称「各務(かがみ)木骨」が現存(東京大学総合研究博物館蔵)するが、これは木製で、そもそも等身大である。識者の御教授を乞うものである。]

 


M197
図―197

 

 外国人向きにつくつた金物細工、像、釦金(とめがね)、ピン等は、みな手法も意匠も立派であった。ある銀製の像には、高さ四インチの人像が二つあり(図197)、一人が崖の上にいて、大きな岩を下にいる男に投げつけると、下の男はそれを肩で受けとめる所を示している。それには松の木もあるが、皆銀でこまかく細工してある。ここに出した写生図は、人像の勢と力とを不充分にしか示していない。

[やぶちゃん注:この図―197に示されたものは歌舞伎か何かの有名なワン・シーンと思われるが、その筋に冥い私には分からない。識者の御教授を是非、乞うものである。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第八章 東京に於る生活 5 第一回内国勧業博覧会で(2)



M194
図―194

 

 図194は長いテーブルで、娘が十人ずつ坐り、繭(まゆ)から絹を紡(つむ)いでいる所を写生した。これを百年記念博覧会に出したら、和装をした、しとやかな娘達は、どんなにか人目を引いたことであろう。紡ぐ方法は実に興味があった。私は一本の糸を繭から引き出してほぐすものと思っていた。繭は三十か四十、熱湯を入れた洗い鍋に入れ、写生図のテーブルの一隅にある刷毛を用いて、それ等を鍋の中でジャブジャブやる内に、繊維がほぐれて来て刷毛にくっつく。すると、くっついた繊維を全部紡ぐので、一本一本、切れるに従ってまた刷毛でひっかける。鍋の湯の温度は蒸気の管で保ち、上には紡のついた回転棒がある。

[やぶちゃん注:流石はモース先生、生物学者だ。繭を茹でる際には相当な臭いがしたはずで、室内にはその独特の臭気が籠っていたはずであるが、一言も言っていない。]

 

 何百人という人々を見ていた私は、百年記念博覧会を思い浮べた。そこには青二才が多数いて、薑(しょうが)パンと南京豆とをムシャムシャやり、大きな声で喋ったり、笑ったり、人にぶつかったり、色々なわるさをしたりしていた。ここでは、只一つの除外例もなく、人はみな自然的に、且つ愛らしく丁寧であり、万一誤ってぶつかることがあると、低くお辞儀をして、礼儀正しく「ゴメンナサイ」といって謝意を表す。人々の多くは、建物に入るのに、帽子を脱いだ。だが三人に一人は、扇子か傘で日をよける丈で、頭をむき出しにしているので、脱ぐべき帽子をかぶっていない者も多い。

[やぶちゃん注:「薑パン」原文“gingerbread”。ジンジャー・ブレッドは生姜を使った洋菓子の一種であるが、ここではジンジャー・クッキー(ginger cookie)を指しているように思われる。ジンジャー・クッキーは生姜を入れたクッキーの一種でクッキーの中でも伝統的なもので、「ジンジャー・ビスケット(ginger biscuit)」、アメリカでは「ジンジャー・スナップ(gingersnap)」などとも呼ばれる。参照したウィキの「ジンジャークッキー」の写真を見ると腑に落ちる。そこにはまた、『しばしばジンジャーブレッドとも混同され、両者の違いは必ずしも明確ではない』とも記されてある。]

 


M195
図―195

 

 虫の蝕った材木、即ち明かに水中にあって、時代のために黒くなった板を利用する芸術的な方法に就いては、すでに述べる所があった。この材料で造った大きな花箱に、こんがらかった松が植えてあった。腐った株の一片に真珠の蜻蛉(とんぼ)や、小さな青銅の蟻や、鉄線でつくった蜘蛛の巣をつけた花生けもある。思いがけぬ意匠と材料とを使用した点は、世界無二である。長さ二フィートばかりの、額に入っていた黒ずんだ杉板の表面には、木理をこすって目立たせた上に、竹の一部分と飛ぶ雀とがあった。竹は黄色い漆(うるし)で、小さな鳥は一種の金属で出来ていた(図195)。別の古い杉板(図196)の一隅には竹の吊り花生けがあり、金属製に相違ない葡萄(ぶどう)の蔓が一本出ていた。蔓は銀線、葉と果実とは、多分漆なのだろうが、銅、銀等に似せた浮ぼりであった。意匠の優雅、仕上げ、純潔は言語に絶している。日本人のこれ等及び他の繊美な作品は、彼等が自然に大いなる愛情を持つことと、彼等が装飾芸術に於て、かかる簡単な主題(Motif)を具体化する力とを示しているので、これ等を見た後では、日本人が世界中で最も深く自然を愛し、そして最大な芸術家であるかのように思われる。彼等は誰も夢にだに見ぬような意匠を思いつき、そしてそれを、借用し難い程の、力と自然味とで製作する。彼等は最も簡単な事柄を選んで、最も驚く可き風変りな模様を創造する。彼等の絵画的、又は装飾的芸術に於て、賛嘆すべき特長は、彼等が装飾の主題として松、竹、その他の最もありふれた物象を使用するその方法である。何世紀にわたって、芸術家はこれ等から霊感を得て来た。そしてこれ等の散文的な主題から、絵画のみならず、金属、木材、象牙(ぞうげ)で無際限の変化――物象を真実に描写したものから、最も架空的な、そして伝統的なものに至る迄のすべて――が、喧伝(けんでん)されている。

 

M196

図―196

 

[やぶちゃん注:「虫の蝕った材木、即ち明かに水中にあって、時代のために黒くなった板を利用する芸術的な方法に就いては、すでに述べる所があった」とは、先行する「第四章 再び東京へ」で日光から東京に帰る途中に宿泊した旅籠屋の庭を述べた描写で、『庭には水をたたえた小さな木槽があった。その材木は海岸から持って来たのである。事実それは船材の一部分で、色は黒く、ふなくい虫が穴をあけたものである。その中には岩と水草と真鍮の蟹その他が入っていた(図92)。それは誠に美しく、我国にでもあったら、最も上等な部屋の装飾として、熱心に探し求められるであろうと思われた』(太字「ふなくい虫」は底本では傍点「ヽ」)とあるのを指す。

「二フィート」約61センチメートル。]

 

 この地球の表面に棲息する文明人で、日本人ほど、自然のあらゆる形況を愛する国民はいない。嵐、凪(なぎ)、霧、雨、雪、花、季節による色彩のうつり変り、穏かな河、とどろく滝、飛ぶ鳥、跳ねる魚、そそり立つ峰、深い渓谷――自然のすべての形相は、単に嘆美されるのみでなく、数知れぬ写生図やカケモノに描かれるのである。東京市住所姓名録の緒言的各章の中には、自然のいろいろに変る形況を、最もよく見ることの出来る場所への案内があるが、この事実は、自然をこのように熱心に愛することを、如実に示したものである。

[やぶちゃん注:「形況」「けいきょう」と読む。有様。様子。状況。

「カケモノ」掛軸・掛物であるが、実は原文が“kakemono”となっているから石川氏はかく訳しているのである。

「東京市住所姓名録」原文“the directory of the city of Tokyo”。但し、PDF版を見てもこれは書名のようには見えず、当該英文や和訳のそれで検索してもそれと一致するものは見当たらない。これは何らかの機関か組織が、居留する在留英米人向に作成したの総覧的な東京府内在住外国人紳士録で、その冒頭に簡単な日本概説及び国内案内(ツアー・ガイド)風のものが書かれていたものかとも思われる。書物の体裁をとっていないリーフレットかパンフレットのようなものであったから、モースは特に書体を変えていないのではなかろうか? 識者の御教授を乞うものである。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第八章 東京に於る生活 5 第一回内国勧業博覧会で(1)

M192

図―192

 

 昨日私は人力車夫を月極(つきぎめ)で雇ったが、非常に便利である。彼は午前七時半にやって来て、一日中勤める。私が最初に彼の車に乗って行ったのは、上野の公園で開かれたばかりの産業博覧会で、私の住んでいる加賀屋敷からここ迄、一マイルばかりある。公園に着いた我々は、立派な樹木が並ぶ広い並木路を通って行ったが、道の両側には小さな一時的の小舎(こや)或は店があって、売物の磁器、漆器其他の日本国産品を陳列している。入場券は日曜日は十五セントで、平日は七セントである。入口は堂々たる古い門の下にあり、フィラデルフィアの百年記念博覧会の時みたいに、廻り木戸があった。大きな一階建ての木造家屋が、不規則な四角をなして建っている。美術館は煉瓦と石とでつくつた、永久的建築である。図192は農業館の入口を簡単に写生したもので、これは長さ百フィートの木造建築である。内には倭生の松、桜、梅、あらゆる花、それから日本の植木屋の面喰う程の「嬌態と魅惑」との、最も賛嘆すべき陳列があった。松の木は奇怪極る形につくられる。図193はその一つを示している。枝は円盤に似た竹の枠にくくりつけられるのだが、どんな小枝でも、根気よく枠にくくりつける。面白い形をしたのは、まだ沢山あったが、時間がないので写生出来なかった。ちょっとでも写生しようとすると、日本人が集って来て、私が引く線の一本一本を凝視する。この写生をやり終るか終らぬかに、丁寧な、立派ななりをした日本人の役人がやって来て、完全な英語で「甚だ失礼ですが、出品者の許可なしに写生することは、禁じてありあります」といった。私は元来写生をする為にやって来たのだから、これには閉口したが、知恵をしぼって、即座に米国の雑誌に寄稿することを決心し、この全国的博覧会の驚くべき性質を示す可く米国の一雑誌へ挿画入りの記事を書こうとしているのだと云った。これで彼は大分よろこんだらしく、次に私に、それは商業上の目的でやるのかと質問した。そこで生れてから一度も、松の木も他の木も育てたことが無く、またこの年になって、そんな真似を始めようとも思っていないというと彼は名刺をくれぬかといった。私はいささか得意になって Dai Gakku(偉大なる大学)と書いた名刺を一枚やった。すると彼の態度は急変し、それ迄意匠を盗む怪しい奴と思われていた私が、すくなくとも一廉(ひとかど)の人間になった。彼はこの件を会長と相談して来るといった。一方私は、会長がどんな決議をするか知らぬので、大急ぎで各館をまわり、出来るだけ沢山の写生をした。

 



M193


図―193

 

[やぶちゃん注:「産業博覧会」明治一〇(一八七七)年に上野公園で開催された政府主催の第一回内国勧業博覧会。既に注したようにモースは、この八月二十一日の同開会式に出席後、これから見るようにそこに出品された工芸品にいたく感動し、磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、『帰国するまでに少なくとも八回訪れ』ているとある。これは同書の注記から本書後文の「第九章 大学の仕事」の中で『博覧会が開かれてから、私は都合七回見に行き、毎回僅かではあるが、写生をして来ることが出来た』とあるのに加えて、その後の「第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚」の終わりの方で、モースが一時帰国をする送別会が行われ、その晩餐後に『一同で展覧会へ行った』という一回を加えているものと思われる。

「私の住んでいる加賀屋敷」「加賀屋敷」は原文でも“Kaga Yashiki”とある。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の「11 加賀屋敷と一ツ橋」によれば、『当時一般の外国人は定められた居留地、たとえば横浜居留地とか東京の築地居留地のなかに住まなければならなかったが、御雇い外国人は勤め先の近くに住むことを許されており、官庁では専用の宿舎を与えることも多かった。東京大学の場合、御雇い外国人教師用の教師館(宿舎)は、本郷加賀屋敷の医学部キャンパス内にあった、江ノ島から戻ってきたモースは、以後二年間その教師館五番館に住』んだとある。同章は十二頁に亙って、地図を交えてこの当時の教師や校舎、さらには当時の教授陣や講義内容を詳述しておられる。是非、御一読をお薦めするものである。その地図と現在の地図を比較するとモースの五番館は安現在の安田講堂の西北西一〇〇メートルほどの、工学部の建物が建つ辺りにあったもので、同書(一〇二~一〇三頁)によれば、『美しい花園に囲まれた平屋建』で『棟ごとに構えが異なり、どれもしゃれた造りで、内部も相当広』く、モースの五番館は『居間、食堂、書斎、二寝室、それに台所、浴室などと、使用人用の二部屋が付属し』、本文に出るお抱え人力車を用いて神田一ツ橋にあった法理文三学部の校舎(現在の学士会館附近)まで往復していたとある。

「1マイル」約1・6キロメートル。

「フィラデルフィアの百年記念博覧会」前年の一八七六(明治九)年、アメリカ建国百年を記念して開かれたフィラデルフィア万国博覧会のこと。因みにこの博覧会には日本の教育に関する歴史・教科書。教具などが出品されている(「国立公文書館デジタルアーカイブ」でその米国博覧会出品本邦教育物品臚場写真が見られる)。

「廻り木戸」原文“turnstiles”。人だけが通って牛馬の通れないような、また劇場や駅の入り口に一人ずつ人を通すために設ける回転式改札口。当時の日本では極めて珍しいものであったろう。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第八章 東京に於る生活 4 罪人

 今日私は往来で、橙色の着物を着た囚人の一群が、鎖でつながれ、細い散歩用のステッキ位の大さの鉄棒を持った巡査に守られているのを見たが、日本のように、無頼漢も乱暴者も蛮行者も泥酔者もいない所で、どこから罪人が出現するのか、不思議な位である。これ等の囚人達は、邪悪な顔をしていた。若し犯罪型の顔とか表情とかいうことに、いくらかでも真実がありとすれば、彼等は米国の犯罪人と同じように、それを明瞭に示していた。この少数の者共が、人口三千万を越える日本に於て知られている兇状持の全部だといって聞かせる人があったら、私は、限られた経験によってではあるが、それを信じたろうと思う。
  

[やぶちゃん注:明治時代の日本の総人口推計は、

明治 五(一八七二)年 3480万人

明治三七(一九〇四)年 4613万人

で明治四五(一九一二)年には5000万人を超え、

昭和一一(一九三六)年 6926万人

明治初期の人口の倍となるに至った(平成一六年版「少子化社会白書(全体版)」の中の「明治以降の日本の人口の変化」に拠った)。]

パイの歌 三首 中島敦

    パイの歌
  

  
 

  
日曜の朝はのどかにパイ食はむかの肉厚きアップル・パイを



ふくろかにひろごる雲を見上げつゝ朝(あした)のパイを食へば樂しゑ



日曜のパイを大きみチビの顏クワンクワンだらけになりにけるかも



[やぶちゃん注:日曜の朝にアップル・パイを囲む幸せで長閑な家族の団欒……私はおよそアップル・パイなるものを少年期に食った記憶などない。実に中島敦の短歌群は、まっこと、今までの専ら「山月記」を中心とした小説群によって(少なくとも私の中に)形成されてしまっていた彼のネガティヴなイメージが音を立てて崩れてゆく。――いや、それは一種の驚愕とともに爽快感さえ伴うものなのである。
  

「クワンクワン」の後半は底本では踊り字「〱」。この「くわんくわん」は道浦俊彦とっておきの話の『ことばの話1902「くわんくわん」』によれば、口の周りに食べ物がべっちゃりと着いていて、食べたのか食べてない(食わん)のか分からないくらいに汚れているという意味らしい(この「食わん」(食べていない)語源説は記載者の説と思しい)とあって、神奈川県高座郡の方言とする。同記事には他にも東京生まれ東京育ちと思われる方の、『主に小さい子供に対して言ったりするのですが、アイスなどを食べた後、口のまわりがべちゃべちゃな状態を「ほおら、お口のまわりが"くわんくわん"よ」なんて言いませんか?私はいつの頃からか何の違和感も無く使っていたのですが、先日、職場で意味の通じない人に遭遇し「へ?」と思い、まわりの席の人にリサーチしたところ半分くらいの人が知らないのです。焦って国語辞典をひいても載っていない。古語辞典にも無い。もしかしてこれは方言なのでしょうか?』という引用、関東地方の人物によるとする、『お坊さんが小僧さんに「ボタモチを食べてはイケナイよ」ときつく言って出掛けました。でも小僧さんはついつい食べてしまいました。「怒られたらどうしよう」と思った小僧さんは、お皿に残ったアンコを仏さまの口の周りになすりつけまし