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2013/08/31

随分御機嫌よう

明日早朝より、妻のたっての望みで福島へ若冲を見に発つ。

自動予約で「鬼城句集」と「藍色の蟇」及び中島敦の短歌は公開を引き続き公開出来るようにセットはしたが、一先ず――二日ほど「暫」――

因みに現在、ブログの累計アクセス数は山本幡男氏のブレイクで499103アクセスという急速アップだが、取り敢えず記念すべき500000アクセス突破記念として既にちょいとない二本を既に用意してある(今日は丸一日かけてむんむんの冷房なしの書斎に引き籠って死にそうにながらもそれらの作成を終えてある)。

では随分、御機嫌よう。――

それぞれの愛する隣人を御大切に。――

僕がそうするように――

五月雨や蠶わづらふ桑畑 芭蕉 萩原朔太郎 (評釈)

 五月雨や蠶わづらふ桑畑

 暗膽とした空の下で、蠶が病んで居るのである。空氣は梅雨で重たくしめり、地上は一面の桑畑である。この句には或る象徴的な、沈痛な深い意味を持つた暗示がある。「古池や」の句などより、むしろかうした句の方が哲學的で、芭蕉の象徴的な詩境を代表するものだと思ふ。

[やぶちゃん注:『コギト』第四十二号・昭和一〇(一九三五)年十一月号に掲載された「芭蕉私見」の中の評釈の一つ。「暗膽」はママ。昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の巻末に配された「附錄 芭蕉私見」では、

 暗澹とした空の下で、蚕が病んで居るのである。空氣は梅雨で重たくしめり、地上は一面の桑畑である。この句には或る象徴的な、沈痛で暗い宿命的の意味を持つた暗示がある。

初出の末尾の主張をこそ、私は残して貰いたかったと感ずるものである。元禄七(一六九四)年、芭蕉五十一歳の時の句。]

霧・ワルツ・ぎんがみ――秋冷羌笛賦 インドの益良雄(ますらを)の歌 五首 中島敦  

    (以下五首 印度益良雄の歌)
ぬばたまの夜の街角ゆ搖るぎ出づタァバン捲きし印度壯夫(ますらを)
黑き人何か口籠り指さしぬ果物店(みせ)の燈影明るきに
[やぶちゃん注:結句「燈影明るきに」は「ほかげしるきに」と読んでいるか。]
古里(ふるさと)のかぐはし山を憶ひけむ印度益良雄バナナ買ひけり
包裝(かみ)つゝむひまを術(すべ)なみ黑漢子(をのこ)をのこさびすと腕打ちふりつ
[やぶちゃん注:「をのこさびす」「さびす」の「さび」は名詞に附いてそのものらしい態度や状態であることを表わすバ行上二段型動詞を作る接尾語「さぶ」(~らしい様子だ・~らしくなる)の連用形(若しくはその名詞化したもの)にサ変「す」が附いたもので、偉丈夫を誇りかに示すように、の意。]
丈高く黑き漢子(をのこ)はバナナ持ち街のはたてに去(い)ににけるはや
[やぶちゃん注:「はたて」これは「果たて」で果て、限りの意。万葉以来の古語。]

ひとすぢの髮 大手拓次

 ひとすぢの髮

うつくしいひとよ、
あなたから
わたしは けふ 髮の毛をひとすぢもらひました。
それをくるくると小指にまいて、
しばらくは 月の夜をあゆむやうな心持になりました。
あなたの ややさびしみをおびたうるはしさが、
旅人(たびびと)のうへをながれる雲のやうに
わたしのほとりにうかんでゐるのです。

鬼城句集 夏之部 靑葉 / 夏之部 了

靑葉    樟欅御門賴母しき靑葉かな

      靑葉して錠のさびつく御廟かな

      御造營や靑葉が下の杢の頭

[やぶちゃん注:「御造營」は「みつくり」と訓じているか。「杢の頭」の方は「もくのかみ」と読んでいるか。大工の頭の意。前の句とともに日光東照宮の嘱目吟かと私には思われる。]

      靑葉して淺間ヶ嶽のくもりかな


本句を以って「鬼城句集」は「夏之部」を終える。
これを以ってこの熱帯のような暑さもいい加減に終わりになることを祈る。

2013/08/30

栂尾明恵上人伝記 61 明恵、独居隠棲の危うさを説く

 文覺上人の教訓に依りて、上人紀州の庵を捨て、栂尾に住し給ひし始めは、此の山に松柏茂り人跡絶えたり。松風蘿月(しようふうらげつ)物に觸れて心を痛ましめずと云ふことなし。爰に纔(わづか)かなる草庵を結びて、最初には上人と伴の僧と只二人ぞ住み給ひける。竹の筧(かけひ)、柴の垣心細きさまなり。自(おのづか)ら訪ひ來る類(たぐひ)心を留めざるはなし。次の年の春の比より懇切に望む輩あるに依つて四人となれり。其の一人は喜海(きかい)なり。萬事を投げ捨て只行學(ぎやうがく)の營みより外は他事なし。眠りを許すことも夜半一時なり。髮を剃り爪を切る受用も日中一時(ひととき)には過ぎず。此の夜晝は各一時の外は更に他を交へざりき。きびしきこと限りなし。朧げの志にては堪へこらふべきやうもなかりき。此の衆、四皓(しかう)窓を竝べし商山(しやうざん)を摸(も)すべしとぞ、常には上人戯れ給ひし、其の後又此の衆に交らんことを、去り難く望む類ありて、漸く七人になれり。其の時はさらば竹林の七賢が友を結びし跡を學ばんなど仰せられし程に、此の事世に聞えて、道に志ある輩尋ね來て、交らんことを乞ふと雖も、上人更に許し給はず。爰に或は門外の石上に坐して六七日食せず、或は庭前の泥裏(でいり)に立ちて三四日動ぜず、此の如き振舞をして深切なる志を表する人、皆是れ月卿雲客(げつけいうんかく)の親類、世を貪る類にあらざるのみ交(まじ)れり。之に依りて上人力なく許し給ふ程に、三年の中に十八人に及べり。上人よしさらば廬山(ろざん)の遠法師(をんほつし)の會下(ゑか)に准(じゆん)ぜん、此の外は更に許すべからずとぞ禁(いまし)められし。此の僧侶志を勵まし心を一にして、道行の爲に頭を集めたることなれば、何れも愚(おろか)には見えず面々に營みあへるさま、我が身を見るもさすがに、人を見るも哀(あはれ)なり。二度(ふたゝび)正法の世に歸りたるにやと、隨喜の涙よりより袖を濕(ぬら)さずといふことなし。かくて年月を經る程に、又去り難き人重りて、十年の内に五十餘輩になれり。さる間喜海交衆(けうしゆう)の體(てう)もうるさく覺えて、風情(ふぜい)を替(かへ)て又深山幽谷に獨り嘯かんと思ふ心つきぬ。仍て便宜(べんぎ)を伺ひて上人の前に進みて、此の趣を委(くはし)く宣(の)べき。上人目を塞ぎ暫く思案有りてのたまはく、道行(だうぎやう)の宜しく進まれん方を本とすべければ、兎も角もして見給ふべし。但し經論聖教(きやうろんしやうぎやう)の掟(おきて)を能々勘(かんが)へ見るに、修行門に二あり、一には善知諦の下に居して朝夕譴責(けんせき)せられて、忍び難きを忍び堪へ難きを堪へて、其の軌矩(きく)のきびしきにこらへ、其の飢寒(きかん)の甚しきを事とせず、寸時をも空しく度らず道行を以て專らに營む、是れ精進心(しやうじんしん)の人なり。道を成(じやう)ぜん事近きにあり。今囂(かまびす)しきは却て道の障(さはり)となるやうなれども、知れずして道に進む便(たより)あり。二には幽閑の地に獨居して晝夜寂々(せきせき)として心に障る事一つもなく、安々緩々(あんあんかんかん)として身に煩はしきわざ絶えてなし、自然に道行するに便りあるやうに覺えて日月を送る、是れは懈怠心(げたいしん)の人なり。此の障なきを道行と思ひて覺えずして閑(ひま)なるにばかされて懈怠に落つるを知らざる人なり。是れは道を成ずる事有るべからず。之に依りて、契經(かいきやう)の中に、佛、譬を取りて説き給へり。其の意を取りて申さん。譬へば一日の中に行き著くべき所あるに、一人は苦しく足痛けれども杖にすがり、兎角して暫くも止らず。惱みながら其の處へ日の中に行き著けり。一人は餘りに苦しく足の痛きまゝに、こらへずして有る石の上に休めり。心閑かに身安くして歡喜(くわんぎ)極りなし、此の石の上に仰(あふ)のきに臥(ふ)して空を見るに、浮雲(うきぐも)風に隨ひて西に行くこと速かなり。是れをつくづくと守る程に、我が臥したる石東へ行く心地す。其の時思ふやう、大切なり、歩むは甚だ苦しく足の痛きに、此の石船の如くして行くこと速かなりと、大に悦び思へり。風吹き立ちて雲の早き時は此の石はやく走る心地する時、獨りごとに石に云ふやう、目のまはるにあまりはやくな行きそ、靜に行くべし。何となくともかくてはとく行き著くべきぞと云ふ。さて日の暮るゝ程に今は百里計も行きぬらんと思ひて、起きて見れば本(もと)の石の上なり。恠(あやし)く思ひて前を過る旅人に其の行くべき里を問へばいまだ遙なり。其の時安閑(あんかん)として石の上に臥しつることを悔い悲しめども甲斐なし。此の閑なるにばかされて懈怠に墮するを行道と思ひて、一生空しく過(すご)したる人に喩へられたり。僧の山中に在るをまされりと云ふは、塵中(ぢんちう)に交る者に對して暫く説く藥なり。佛の詞・知識の教聞き取り集めて、己に或は琴柱(ことぢ)に膠(にかは)し、或は釼(しつ)去つて久しきことをば知らずして、是を山の奧まで心にひつさげ持ちて、獨りしてとかくあてがひ道を行ぜんは、圓目(ゑんもく)に方鎚(はうつゐ)を入るゝになんぞ異ならん。上々智(じやうじやうち)の人は更に謬(あやまり)あるべからず。さる人は末世にはありがたし。なべて上中下根の輩は、能々思ひ計らふべきことなりと仰せられければ、理(ことわり)至極(しごく)せる間感涙(かんるゐ)を流しき。亦當初(そのかみ)高雄に侍從の阿闍梨公尊(こうそん)とて、閑院(かんゐん)のきれはし有りき。遁世して山を出で、後亦還住(げんぢゆう)して懺悔して申さく此の神護寺の交衆(けうしゆう)の體もむつかしく、行學(ぎやうがく)とて勵むも皆名聞利養免れず。此の如きにては受け難き人身を受け、値ひ難き佛法にあへる驗(しるし)更になし。空しく三途(さんづ)に沈まんこと疑ひあるべからず。如(し)かず此の山を出でゝ山中に閉ぢ籠り心靜に後生菩提(ごしやうぼだい)を祈り道行(だうぎやう)を勵まんと思ひて、小原の奧に興ある山の洞求め出して、庵を結びて栖む程に、寂莫(じやくまく)として心の澄む事限りなし。背かざりける古も今は悔しく覺えて、十二時中空しく廢(すた)る時なく、更に淨界に生れたる心地して、勇猛精進(ゆうみやうしやうじん)に成(なり)歸て、半年計り送る程に、只(ただ)獨(ひとり)閑(ひま)なるまゝに、こしかた行末の何となきことどもさまざま思ひ出でられて、或時期せず婬事(いんじ)起れり。公尊少(をさな)くより住山せしかば一生不犯(ふぼん)にてありし故、女根ゆかしく覺えていしき障となりぬ。とかくまぎらかし退治せんとすれども、やみがたかりし程に、中々かやうにては道の障と成りなん、さらば志をもとげて妄念をも拂はゞやと思ひて、俄(にはか)にあらぬ樣に姿をなして、亡者(まうじや)訪(とぶら)へとて人の布施にしたりし物を、物のなきまゝに、さりとて纏頭(てんとう)とかやに取らせんと思ひて懷に入れて、色好みのある所を尋ねんとて京の方へ行く程に、夏の事にていと暑きに、京近く成り胸腹(むねはら)痛くなりて、霍亂(くわくらん)と云ふ病をし出して、苦痛すること限りなし。路の邊に小家(こや)のありけるに立ち寄りて、とかくして其の夜は留りぬ。又次の日も猶なほりやらでわびしかりし程に、京に行くこと叶はずして這々(はうはう)小原へ歸りて、樣々養生してなほりぬ。亦暫くは其の餘氣(よけ)ありてわびしかりし程に、紛ぎれ過しぬ。或時亦本意を遂げんと思ひて、先の如く行く程にいかゞしたりけん、路にてとぐいを足に深くけ立てゝ、血夥しく流れ出づ、痛きこと忍び難し。一足も歩むに及ばず。畔(ほとり)の人來りて見てあはれみて馬に乘せて庵に送りぬ。又兎角癒えて後、又こりぬまゝに行く程に、今度は相違なく京に行き著きぬ。色好みのある處に尋ね行きて、かゝぐり行く程に、心中には忍べども、さすが風情(ふぜい)のしるくこそありけめ、年來(としごろ)しりたる俗人のそこを通るに目を見合せぬ。あさましきこと限りなし。露ならば消え入るばかり思へども、すべき方なくて立ちたるに、此の男の云はくいかゞしてこゝには立ち給ふぞと云ひて、よに怪氣(あやしげ)なる體なり。彌〻うくて何の物狂はしさにかゝる所に來て、憂目(うきめ)を見るらんと、疎(うと)ましく覺えて、兎角延(の)べ紛らかしてにげ歸りぬ。さる程に終(つひ)に本意を遂ぐるに及ばず。其より後はふつとこりはてて思ひ留りぬ。かくて過ぎ行く程に秋深く成りて不食(ふじき)の病起りて、萬の食物嫌はしくて日數ふるまゝに、身も衰へ力も弱りて道行も叶はず、只惱み居たる計(ばかり)にて明(あか)し暮す程に、かくては閑居の甲斐もなし。身を資(たす)けてこそ道行をも營まめと思ひて、伴に置きたる小法師(こはふし)をば京へ使にやりて、其の隙に、此の山の奧より山人鳥を取りて京へ賣りに罷るが、此の庵の前近き路をとほるを、忍びて買ひ取りて、是を調へて時をも食ひて見んとて、世事所(せじどころ)に置きて小用しに出でたる跡に、放(はな)れ猫(ねこ)來りて皆食ひ散らしたり。是れを見付て、嫉(にく)さともなく惜しさともなく、そばなる木のふしを以て抛(な)げ打ちにする程に、あやまたず猫の頭を打ちかきて兩眼を打ちつぶせり。鳴き苦痛して、血夥しくたりて、緣の下へ逃げ入りてさけび鳴く。かくまでせんとは思はず、只おどし計りにこそとしつるに、かわゆさあさましさ云ふ計りなし。山籠りして菩提を成ぜんとこそ思ひ立ちしに、あらぬさまなる振舞どもしけること淺間しく覺えて悲涙(ひるゐ)押へ難し。大方此の事ども只一筋に放逸に引きなされたり。心安きまゝに朝に物くさき時は日たくるまで起きあがらず、夜は、火なども燃すことなければ、暗きまゝに霄よりさながら眠りあかし、すぐに居ることも希に、いつとなく物によりかゝり足をのべ、寒き夜は小便などをさへねや近くして、芝手水ばかり心やりてうちし、何事も恣に振舞てのみぞ過ぐしける。かくてはあさましきことぞかしと心を誡めながら、ともすればかゝる式になりき。さすが人中(ひとなか)にあらば自然にかかることどもはあるまじきにと、中々閑居は無益(むやく)なりけりと思ひて、神護寺に立ち歸りて見るに、公尊此の山を遁れ出でし時は、未だ童形(どうぎやう)にて、華嚴の五教章(ごきやうしやう)などをも、我等にこそ文字讀(もんじよ)みをもし、義をも問ひし者、今は小僧にて來りていかになんど云ふ。此程の御山籠(みやまごもり)の體をも參て見まゐらせたく候ひつれども、學文に寸暇を惜しむやうに候ひし程に、存じながら罷(まかり)過ぎ候ひき。山中の御修行、御修行うらやましく候とて、法文を問ひかけて、法理に於て不審をなす。兎角云ひのべんとすれども、はたとつまりてせん方なし。其の時此の小僧云ふやう、山中にて、此の兩三年、佛法の深理をも見披(みひら)き給ひぬらんと、いぶかしく存じ候ひつるに、是程の事だになどや分明ならずと戯れ云ふ。げにもと恥かしくて、我も彼に放れて三年にこそなるに、彼は三年善知識にそひ耳をうたせたり。我は三年靜に道行すると思ひたりつるは徒事(いたづらごと)なり。是を以て是を比(くら)ぶるに、我も中々此の三年、此の寺にて道行を勵みたらば、いかばかり増(まさ)るべかりしものをと、今更こし方悔しく覺えしと云々。其の小僧は當初、明惠上人神護寺に住み給ひし比、若(わかき)學匠(がくしやう)の中に群に拔けて、聖教の義理を宣べ給ふに肩を竝ぶる人なかりし、そこにかよひて付そひ奉り、華嚴を學し談義に耳をうたせけり。此の懺悔せし事思ひ出されて、彼と云ひ此と云ひ旁(かたがた)益(えき)なかるべしと思ひて、喜海が閑居も思ひ留りにき。此の山中に淸衆一味和合して、互に道を勸め菩提を助けん事を先としき。然るに近比(このごろ)衆多くして、或は疑はしきを見て實と云ひ、或るは慈悲を忘れて、人の失(しつ)を顯(あら)はす類ままありき。上人にあひ奉りて彼の房かゝる不善の聞えあり、衆を出さるべきかなど語り申す人あれば、上人答へて言はく、何となけれども淸衆の中に居して不善なる者は、諸天照覽し給へば、おのれと顯れ、おのれと退く習ひなり。然るを汝我に語りて彼を損ぜんは、僧として無慈悲の至りなり。佛は實にあることを自ら見るとも、僧の失を顯すべからずと禁(いまし)め給へり。是れ大いに深き方便なり。淺智(せんち)の能くしる所にあらず。佛弟子の過を説くは、百億の佛身より血を出すにも過ぎたりと説けり。又一には和合僧の中を云ひたがふるは、五逆罪の中の其の一なり。四重を犯(ぼん)ずるにまされり。汝既に此の二の罪を犯せり、五逆罪の人に片時(かたとき)も同住せんこと恐れありとて、先づ訴へける僧をば是非に付て即ち追放せらる。此の不善の聞えある僧をば能々たゞして、所犯(しよぼん)まぬかれねば同じく追出さる。若し又指したる證據なきをば、俗人すら罪の疑はしきをば行はぎるは仁なりとて免じ給ひけり。然れば三寶の加護も甚しかりけるにや、實に不善なる者は自ら退きしかば、山中の淸衆けがるゝこと更になかりきと云云。

[やぶちゃん注:「文覺上人の教訓に依りて、上人紀州の庵を捨て、栂尾に住し給ひし始め」建久九(一一九八)年、明恵二十六歳。

「受用」ここは「自受用身」のことか。本来は悟りによって得た法を自ら楽しむことをいうが、ここは文脈から私的な時間の謂いである。

「四皓窓を竝べし商山」商山四皓。四皓とは中国秦末から漢初にかけて乱世を避けて現在の陝西省商山に隠れた東園公・綺里季(きりき)・夏黄公・甪里(ろくり)先生の四人の隠士を指す。みな鬚眉(しゅび)が皓白(こうはく:真っ白。)な老人であったことに由来する。しばしば水墨画の人物画主題とされ、中国の影響を受けた本邦では後の室町から江戸にかけて多くの作品が制作されている。

「廬山の遠法師」廬山の慧遠と称された東晋の頃、廬山に住んだ高僧慧遠(えおん 三三四年~四一六年)。中国仏教界の中心的人物の一人。念仏結社白蓮社の祖と仰がれるが、慧遠の念仏行は後世の浄土三部経に基づく専修念仏とは異なり、「般舟三昧経」に基づいた禅観の修法であった。当時、廬山を含む長江中流域の覇者であった桓玄に対し、「沙門不敬王者論」によって仏法は王法に従属しないことを正面きって説いたり、戒律を記した「十誦律」の翻訳や普及に尽力した持戒堅固な僧で、まさに明恵好みの人物である(ウィキの「慧遠(東晋)に拠る)。

「會下」「ゑげ」とも読み、師僧のもとで修行する所、また、そのための集まり。

「交衆」現代音は「きょうしゅう」。皆と同座して附き合うこと、また、そうした僧衆。

「琴柱に膠し、或は釼去つて久しきことをば知らず」「琴柱に膠す」とは琴柱を膠付けにすると調子を変えることが出来なくなるところから、変に物事に拘って融通が利かないことの譬え。膠柱(こうちゅう)。「史記」の「藺相如(りんしょうじょ)伝」に基づく故事。「釼去つて久し」は「剣去つて久し」で、平泉洸氏の注に『頑固に旧法を守って変化することを知らないこと』をいうとあり、『剣を船から落した人が、船ばたを刻んでしるしをつけ、後で船が岸についてから、この刻み目から水に入って剣を求めようとした』「呂氏(りょし)春秋」の『「察今篇に見える』故事とある。

「圓目に方鎚を入るゝ」丸い穴に対して四角い槌を打ち込もうとする(ような無理な行為をする)。

「侍從の阿闍梨公尊」不詳。以下の閑院流の系譜には見出し得ない。

「閑院のきれはし」岩波文庫注に、『藤原氏北家閑院流の末裔。閑院流は九条右大臣師輔の十男閑院太政大臣公季の子孫。公季流とも。英雄清華の家が多い名流とされる』とある。藤原公季(きんすえ 天暦一〇(九五六)年~長元二(一〇二九)年)は藤原道長の叔父。

「小原」「おはら」は多くの遁世者が隠棲した洛北の大原のこと。

「女根」「じよこん」は女性性器。

「色好み」遊び女(め)。

「霍亂」日射病、熱中症の類い。

「とぐい」「とぐひ」が正しい。「利杙・鋭杭」で先の尖った杭(くい)や切り株。

「かゝぐり行く」辿り歩く。縋るように歩く。

「色好みのある處」色里、遊廓の類い。

「芝手水」「しばてうず(しばちょうず)」と読む。柴手水。神仏を拝む際や、山野で排泄の後に手水を使う時、水の代わりに草や木の葉を用いること。ここは手を清めることもないがしろにし、の意。

「いぶかしく存じ候ひつるに」この「いぶかし」は不明で気がかりだという意味から、「いぶかしがる」の意、知りたいと思うのニュアンスで使っている。とても知りたくて心が惹かれて御座いますのに。

「其の小僧は當初、明惠上人神護寺に住み給ひし比、若學匠の中に群に拔けて、聖教の義理を宣べ給ふに肩を竝ぶる人なかりし、そこにかよひて付そひ奉り、華嚴を學し談義に耳をうたせけり」ここでその公尊が恥じ入ったかつての稚児、この前の場面ではやや成長した少年僧こそが、後に明恵が初めて神護寺で修行をした際、唯一、明恵よりも優れていて、華厳や法話を受けた老名僧であったことが明らかになるという仕掛けである。

「五逆罪」仏教で五種の最も重い罪。一般には、父を殺すこと・母を殺すこと・阿羅漢を殺すこと・僧の和合をうち破ること・仏身を傷つけることをいう。一つでも犯せば無間地獄に落ちると説かれる。五無間業。五逆。

「四重」「四重禁」「四重罪」の略。仏教の四種の重罪。殺生・偸盗・邪淫・妄語。]

耳嚢 巻之七 假初にも異風の形致間敷事

 假初にも異風の形致間敷事

 予隣へ來る廣瀨何某といへる醫師、上方の産也。壯年年比(としごろ)御當地へ來り、未(いまだ)療治も流行なさず。然れ共町家の療治抔は專らなしける。或夜四つ時過比(すぎごろ)、日々立入(たちいる)駕(かご)の者妻産氣付(さんけづき)候て不生間(うまれざるのあひだ)、來り見呉(くれ)候樣達(たつ)て相(あひ)歎き、棒組も來りて一同相賴(あひたのむ)に付、夜も早(はや)更(ふけ)ぬれば兩人駕を舁(かか)せ、其身着替も六ケ敷(むつかしく)、寒き比なれば小夜着(こよぎ)を着たる上へ帶を〆(しめ)、用心に枕元に置(おき)し長脇ざしを帶し、龜嶋町邊其所迄至りしに、右駕のものの宿より何歟(か)不知(しらず)、早く歸り給へと言捨歸(いひすてかへり)れば、右駕の者一寸參りて樣子見候迚、少しの内爰にまたせ給へと、棒組を連(つれ)一(いつ)さむに走り行(ゆき)し。少しの内なれば駕は往來に捨置(すておき)ぬ。折節兩組町廻り同心衆、往來に駕を捨有(すてあり)し故怪敷(あやしく)思ひ、内に人や有(ある)と尋(たづね)しに有(あり)と答ふ。然らば出よといふ。無據(よんどころなく)駕を出しに詰らぬ形(なり)也。彌(いよいよ)怪敷思ひて立寄(たちより)見るに、大男にて中々手に可及(およぶべき)躰(てい)に見えで□□□□駕を出しに、彼(かの)大男御身は廣瀨にあらずやと尋しに、能々見れば兼て知れる庄五郎と言る同心也。始(はじめ)て安堵して、しかじかのよし語りしと也。駕の者立歸り出産有(あり)、外に人手なし。棒組を賴(たのみ)湯をわかし、又は腰抱(だき)てさわぎて、廣瀨を向ふる心もつかざる由也。

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。
・「假初にも異風の形致間敷事」は「假初(かりそめ)にも異風(いふう)の形(なり)、致(いた)すまじき事(こと)」と読む。
・「予隣」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『予が許(もと)』とある。
・「夜四つ時過比」午後十時過ぎ。
・「小夜着」小形の夜着。袖や襟の附いた綿入れの掛け布団の小さいもの。小さいとはいえ、冬場の夜着にこれを強引に着たわけで、もっこもこになっていたはずである。だから後文で暗い往来で見た同心が「大男にて中々手に可及躰に見え」たのではなかったか? 本文は、実は大男であったのは同心であって、それに恐れ入って広瀬が駕籠を出るというシチュエーションであるが、これではつまらぬ。ここは掟破り乍ら、恣意的に翻案改変した。悪しからず、根岸殿!
・「龜嶋町」中央区日本橋亀島町一丁目及び二丁目。
・「一さむ」底本では右に『(一散)』と注する。
・「兩組町廻り同心衆」これはおかしい。南町と北町の「兩組」の同心が見回りをすることはない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『南組町廻り同心』で、これは納得。「南町」で採る。
・「□□□□」底本は後半の「□□」は踊り字「〱」。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『こわごわ』(後半は当該書では踊り字「〲」)とある。これで採る。
・「向ふる心」底本では「向」の右に『(迎)』と訂正注がある。

■やぶちゃん現代語訳

 仮初(かりそめ)にも異風の風体(ふうてい)は致すまじき事

 予の隣家に出入り致いて御座る広瀬某(なにがし)と申す医師が御座るが、彼は上方の生まれである。
 かなり壮年になってから江戸表へ来たったこともあり、未だ療治もそれ程には流行っては御座らぬ。然れども、町家の療治などは、常々誠意を以って熱心にこなして御座る由。
 さて、ある夜、四つ時過ぎ頃のことで御座った。
遠方の往診などの際に普段から使(つこ)うて御座った駕籠舁(か)きの者が駆け込んで参り、
「先生(せんせえ)! 嬶(かかあ)が急に産気づきやしたが、いっこう、ひり出る様子も、これ、ねえ。そんでもって、まあ、いひどく苦しんでおりやす! どうか一つ、来て診(み)ておくんなせえやし! たってのお願(ねげ)えだ!」
と泣きを入れ、駕籠ごと一緒について御座った相棒と一緒になってしきりに頼み込んで御座った。
 されば、夜もはや更けて御座ったに加え、二人が殊の外急かしたよって、その両人に駕を舁(か)かせ、その身は――最早、着替えする余裕も御座らねば――寒き頃のことなれば、被って御座った床の小夜着(こよぎ)をそのまま着た上へ帯を締め、夜陰なればとて、用心に枕元に置いて御座った長脇差しを挿して出かけたと申す。
 亀島町辺りまで至ったところ、前方から誰かが泡を吹いて駆けて参った様子。
 それがまさに当の駕籠舁きの者のところから参った者で御座ったが、これがまた慌てふためいて、
「と、ともかくヨ! は、早く帰ってくんない!」
と言い捨ててまた、韋駄天の如く、戻って行ってしもうた。……
 駕籠舁きの男は、
「……か、嬶に何ぞ、あったもんか?……せ、先生(せんせえ)、ち、一寸くら、先に参って……様子を見てめえりやすんで!……と、ともかくも! ええですかい! ここで! 少しのうち、ここで! お待ち下せえやしよッ!」
とこれまた、慌てふためくや、相棒の腕を引っ摑んで、鉄砲玉のように一散に走って行ってしまう。……
 ……少しのうちなればとて、駕籠は往来のど真ん中に捨て置かれた風情。
 さ……ても、そこに折柄、南組町廻りの同心衆が巡邏に参った。
 見れば往来の真ん中に駕籠を乗り捨ててある。
 如何にも、と訝しんで、
「……内に人や在る?」
と訊ねたところが、
「……在る――」
と答える。
「然らば出ませッ!」
と命ずる。
 広瀬はよんどころなく、駕籠をめくったが、先(せん)に申したようなとんでもない形(なり)なれば、すぐには身動きもとれぬ。
 同心は暗闇の駕籠内に充満するようなその奇体な影を、いよいよ怪しい奴と思い定め、さらに近寄って見たところが……
……何かゆっくらと駕籠より這い出る
……その姿は
……これ
――異様なまでに図体の膨らんだ大男……
『……こ、こ奴……なまなかなことでは手におえそうな輩ではないぞ!……』
と、同心は
――カチャ!
と鯉口を切った!
……と
……連れの配下の者に灯を差し向けられた瞬間、同心が、
「……おや? 御身は……広瀬殿では御座らぬか?!」
 よくよく見れば、これ、かねてより懇意の庄五郎と申す同心で御座った。
 広瀬はといえば、ここで初めて安堵致いて、しかじかの由を語って御座ったと申す。……
 ……さても……流石に同心のことなれば、庄五郎は自分の方こそ広瀬を奇体な大男と内心びびって御座ったことは……まあ……これ、言わなんだは申すまでも御座るまい。……
 ……さてもまた……先の駕籠屋の者はといえば、こちらはこちらで、実はたち帰ってみたところが、女房は既に半ば子をひり出して御座ったによって、外にろくな人手もなければこそ、引き連れ帰った相棒を頼みと致いて、湯(ゆう)なんど沸かさせるやら、また、己れは女房の腰なんどを後ろより抱だいて力ませるやら……広瀬を迎えに行かねばならぬということさえ最早、頭からぶっ飛んで御座ったと申す。……

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 21 先哲の詩(4)

  游江島   源定賢
乘遊臨碧岸。
探勝蹈靑巒。
碣石長天盡。
扶桑旭日寒。
三峰雲裊々。
六國海漫々。
霧霽驪龍窟。
風淸玉女壇。
遠帆分赤壁。
孤島浸波瀾。
縱目神鼈背。
蓬萊指掌看。
[やぶちゃん注:阿哈馬江氏のサイトの「親王・諸王略傳」に寛政九年(一七九七)九月十一日に伊勢神宮に使王として奉幣したとある「從五位下行兵庫助源朝臣定賢川越」川越兵庫助なる人物と同じか。識者の御教授を乞う。国立国会図書館の近代デジタルライブラリーの「相模國風土記」の「藝文部」で漢字を二箇所、訂した。

  江島に游ぶ   源定賢
遊に乘じ 碧岸に臨み
探勝して 靑巒を蹈む
碣石(けつせき) 長天を盡き
扶桑 旭日 寒し
三峰 雲 裊々(でうでう)
六國(ろくこく) 海 漫々
霧 霽(は)る 驪(くろ)き龍窟
風 淸し 玉女の壇
遠帆 赤壁を分かち
孤島 波瀾に浸(ひた)る
目を縱(ほしいまま)にす 神鼈の背
蓬萊 指掌して看(み)す

「碣石」円柱状の石碑。
「裊々」は現代音「ジョウジョウ」で、しなやかに纏いつくさま、そよ風や煙などのなよなよとした樣。「嫋嫋」と同義。]

明恵上人夢記 22

22
同十八日の朝、二條に詣りて此の事を受け取る。同十九日、山に登る。
一、其の夜、夢に云はく、海中に二本の口の如くなる木をたてて、二枝並べたり。其(それ)に次ぎて、又、なはえて二張りの口の如くなる木を立て副へたり。將に船に乘らむとする時、呂を以て橋と爲(す)るが如しと云々。此の階(はし)よりつたひ登りて頂に到る。此の豎(たて)に立てたる呂の頭に木を打てり。心に思はく、右の方には二つあり。夏(か)の桀王(けちわう)也。左の方に一つあり。殷(いん)の紂王(ちうわう)也。即ち口に唱へて言はく、「夏の桀王、殷の王」と云ひて、左の方の一つを拔き取り、右手を拳(にぎ)り、逼(せ)めて掌中に拳り、下りて將に彼の岸に還らむとす。以ての外の大事なるべし。禪道を呼びて海より來らしむ。岸に到らむと欲するに、橋高ければ、禪道之肩及ぶべからずと思ふ。即ち、杖を以て海に立てて、起つに任せてすべるに、立ち乍らよくすべりて安穩に岸に到れりと云々。圓俊禪師(ゑんしゆんぜんじ)、岸に立ちて行事しけると云々。

[やぶちゃん注:前注の通り、この文は実は改行せず、前の「21」に引き続いて書かれており、また、次の「23」もやはり引き続き書かれてある。
「同十八日」元久二(一二〇五)年十月十八日。この前書きの事実記載は、やはり前の「19」から「21」の夢の前に記された丹波殿関連の事実記事と関連すると思われるが、依然としてその内容は不明である。
「二條殿」不詳。底本注にも、『誰の家か未詳』とあり、但し、この「二条殿」と称する家(若しくは当主)『と明恵との関係は深かったらしく、『夢記』には二条の御房と呼ばれる人も登場する』とある。前の記載との連関性からは受け取った「此の事」というのは、辞退しようとした修法絡みのことであるとしか読めない。すると、実は辞退しようとしていたが、結局、それを不本意にも請けてしまったことを指すのではあるまいか? それがこの夢を解く鍵のように思われてならないのだが……。誤訳の可能性を覚悟でそう訳してみた。
「口の如くなる」底本注に、原本は「□」で、『文字でなく、物の形を表したものか。下文の「呂」も原本には』「呂」の四画目を除去した横長の「□」(上がやや小さい)を上下に並べたようになっているとあり、『これも同様か』とする。「たてて」及び「立て副へ」とあるから所謂、立方体とは思われない。木の幹が丸くなく、極めて四角い木と採った。
「夏の桀王」「酒池肉林」や「裂帛の響き」で知られた妖妃妺嬉(ばっき)に溺れて夏を滅ぼすに至った暴君。
「殷の紂王」同じく愛妾妲己(だっき)に溺れ、殷を滅亡させた暴君帝辛(しん)。
「禪道」不詳。弟子の禅浄房 (禅上房)か。ともかくも弟子と採って訳してみた。
「圓俊禪師」不詳。「禪師」は中国・日本に於いて高徳な僧侶に対する尊称であって、禅僧に限った諡号ではない。]

■やぶちゃん現代語訳

22
 同十八日の朝、二条殿の元に参って、例の修法に関わる依頼を結局請けがってしまった。同十九日に山に帰った。
 一、その夜見た夢。
「海中に二本の四角形をした奇妙な木を立てて、二本並べてある。
 その二本にまた、繩を以って繋いで、さらに二本の同じく四角形をした木を立て副えてある。
 私はちょうど、船に乗ろうとしているのであったが、その船に乗るため、その四角い木が左右に――□□――□□――といった形になっているのを以って、「橋」となして乗船しようとしているように見えた……。
 この――左右の――□□――□□――を踏みしめて、船の方へと伝って登って行って、その一番高くなった――□□――□□――の頂きに至った。
 この、私が至った、その縦に立ててある――□□――の頭の部分には、別な奇妙な木片が打ちつけてあった。
 心中に思うに、
『……この――□□――の右足の足元にある打ちつけられた奇体な木片は二本である……。これは確かに……かの暴君夏の桀(けつ)王の象徴である。……左足の足元の打ちつけられた奇体なそれは一本である。……これは確かに……殷の紂(ちゅう)王のそれである。……』
と何故か確信したのである。
 されば、即座に口に唱えて
「夏の桀王!――殷の王!」
と言上げするや、左の方の一本を抜き取り、右手に握って――強く強く掌中に握り絞めて――そうして私は登ってきた背後の――□□――を下ってすぐに元の岸へと還ろうとした。
 ところがそれは、思いの外、困難なことなのであった。
 そこで弟子の禅道を呼んだ。――どうやって来たのかは判然としないが――確かに私は彼を海の方から来させたのであった。
 しかしその時、私は心中、
『……私は岸に戻ろうとしている。……しかしこの――□□――の橋は高い。……こんなに高くては、あんな低い位置におる禅道には、私の肩に手が届かぬ。私を支えて無事岸へ帰還させることなどは、とても出来そうにはない……』
と思ったのであった。
 そこで私は直ぐに、携えていた杖を以って、ずんと海に突き立てて、杖がしっかりと突き立ったのに力を得て、そのまま岸に向かって、
――えい! ヤッ!
と滑るように飛んだ。
 立ったままながら、まっこと、滑らかに空(くう)を滑り渡って、無事、岸へと至ったのであった。……
 ……見ると……かの円俊禅師が、その岸に立って、私の方へ向かって修法を成しているのであった。……

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 4 初めての一時間の汽車の旅

 

 はじめて東京――東の首府という意味である――に行った時、我々は横浜を、例の魅力に富んだ人力車で横断した。東京は人口百万に近い都市である。古い名まえを江戸といったので、以前からそこにいる外国人たちはいまだに江戸と呼んでいる。我々を東京へ運んでいった列車は、一等二等三等から成りたっていたが、我々は二等が十分清潔で且つ楽であることを発見した。車は英国の車と米国の車と米国の鉄道馬車との三つを一緒にしたものである。連結機と車台とバンター・ビームは英国風、車室の両端にある昇降台と扉とは米国風、そして座席が車と直角についているところは米国の鉄道馬車みたいなのである。我々は非常な興味を以てあたりの景色を眺めた。鉄路の両側に何マイルも何マイルもひろがるイネの田は、今や(六月)水に被われていて、そこに働く人たちは膝のあたり迄泥に入っている。淡緑色の新しい稲は、濃い色の木立に生々した対照をなしている。百姓家は恐ろしく大きな草葺(ぶ)きの屋根を持っていて、その脊梁には鳶尾(とんび)に似た植物が生えている。時々我々はお寺か社を見た。いずれもあたりに木をめぐらした、気持のいい、絵のような場所に建ててある。これ等すべての景色は物珍しく、かつ心を奪うようなので、一七マイルの汽車の旅が、一瞬間に終わって了った。

[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、この上京は上陸の翌日である六月十九日の朝食後のことで、横浜駅(当時は現在のJR東日本の桜木町駅附近にあった)から汽車に乗った。当時の終点新橋まえ凡そ一時間、中東の料金は六十銭であった。そして驚くべきことに、ここには一切記されていないが、この時、『その汽車が、前年開業したばかりの大森駅を出てすぐ、線路脇の切通しに白い貝殻が露出しているのに彼は目ざとく気付き、一目で貝塚と見抜』き、『こうして大森貝塚は』モース来日二日目にして早くも『発見された』のであった!(引用は磯野先生の前掲書)

 

「バンター・ビーム」原文は確かに“bunter-beam”であるが、これは“bumper beam”(汽車の前部にある排障器・緩衝器)、即ち、「バンパー・ビーム」のことではあるまいか? 調べてみると、鉄道車両の緩衝器を米語では“buffer”とも言うから、この原文の“bunter”は“bumper”の、若しくは“buffer”の誤植のように私には思われるのだが、如何?

 

「鳶尾(とんび)に似た植物」原文は“plants with leaves like the iris”。石川氏の「鳶尾」は鳥のトンビではなく、「鳶尾草(とびおくさ)」、単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属イチハツ Iris tectorum  のことである。「鳶尾(草)」というのは花柱の一部がトンビの尾のように見えることに由来する異名である。則ちこれは所謂、「屋根菖蒲」のことを指しているのである。“iris”はアヤメ科アヤメ属の単子葉植物の総称でアヤメ・ハナショウブ・カキツバタ・イチハツなど、総てを含む語であるから、寧ろここは屋根菖蒲を見たことがまずない現代の若者の誤読を生まぬためには、「アイリス」若しくは「アヤメかショウブ」に似た、と今やせざるを得ないような気がしている。電子化ベースの素材とした網迫氏の元データでは「イチハツ」とあって、後に石川氏がここを「イチハツ」と改稿したことが窺われるが、これも多くの植物名の苦手な若者には――彼らにはアヤメ(花弁を覗いて文目模様がある)・ハナショウブ(文目がなく葉に硬い中肋がある)・カキツバタ(文目がなく葉に中肋がなく平滑である)の区別も困難である――それも十分ではないからである。但し、石川氏がイチハツを選んだことは故なしとはしない。何故なら、イチハツの種小名“tectorum”とは「屋根の」という意で、まさに昔、屋根に植えて大風から家屋を防ぐ「屋根菖蒲」としての呪術的意味をちゃんと持っているからである。なお、これについては先行電子化を行った第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所てい。私はそこで大好きな小泉八雲の一節を引用しており、ここにどうしても再掲しておきたい。重複する部分もあるが許されたい〔以下、私の旧注の引用〕。

 

 イチハツ(一初)は中国原産の多年草帰化植物で、古く室町時代に渡来して観賞用として栽培されてきた。昔はここに記されたように農家の茅葺屋根の棟の上に植える風習があったが、最近は滅多に見られない(私は三十五年前、鎌倉十二所の光触寺への道沿いにあった藁葺屋根の古民家の棟に開花しているのを見たのが最後であった)。種小名“tectorum”は、「屋根の」の意で、和名はアヤメの類で一番先に咲くことに由来する(主にウィキの「イチハツ」に拠った)。私はここを読むと、この二十三年後に来日した小泉八雲の「日本瞥見記」(HEARN, LafcadioGlimpses of unfamiliar Japan2vols. Boston and New York, 1894.)の、まさに「第四章 江の島行脚」が思い出されてならないのである。平井呈一先生の名訳でその冒頭を紹介したい(底本は恒文社一九七五刊の「日本瞥見記(上)」を用いた)。

 

   《引用開始》

 

 第四章 江の島行脚

 

        一

 

 鎌倉。

 木の茂った低い丘つづき。その丘と丘のあいだに、ちらほら散在している長い村落。その下を、ひとすじの堀川が流れている。陰気くさい寝ぼけた色をした百姓家。板壁と障子、その上にある勾配(こうばい)の急なカヤぶき屋根。屋根の勾配には、何かの草とみえて、緑いろの斑(ふ)がいちめんについている。てっぺんの棟のところには、ヤネショウブが青々と繁って、きれいな紫いろの花を咲かせている。暖かい空気のなかには、酒のにおい、ワカメのお汁(つけ)のにおい、お国自慢の太いダイコンのにおいなど、日本の国のにおいがまじっている。そして、そのにおいのなかに、ひときわかんばしい、濃い香のにおいがただよっている。――たぶん、どこかの寺の堂からでもにおってくる抹香のにおいだろう。

 アキラは、きょうの行脚のために、人力車を二台やとってきた。一点の雲もない青空が、大きな弧を描いて下界をかぎっており、大地は、さんさんたる楽しい日の光りに照らされている。それでいながら、われわれが、屋根草のはえた貧しい農家のあいだを流れている小川の土手にそうて、俥を走らせて行く道々、何とも名状しがたい荒涼とした悲愁の思いが、胸に重くのしかかってくるのは、この荒れはてた村落が、かつては将軍頼朝の大きな都どころ――貢物(みつぎもの)を強要にきた忽必烈(クビライ)の使者が、無礼をかどに斬首された、あの封建勢力の覇府の名ごりをとどめいるところだからである。今ではわずかに、当時の都にあまたあった寺院のうち、おそらくは高い場所にあったためか、あるいは境内が広く、深く木立でもあって、炎上する街衢(がいく)から離ていたためかで、十五、六世紀の兵燹(へいせん)を免れて現存しているものが、ほんのいくらかあるに過ぎないというありさまである。荒れほうだいに荒れはて、参詣者もなければ、収入とてもないこの土地の、そうした寺院の深い静寂のなかに、そのかみの都の潮騒(しおさい)のごとき騒音とは似てもつかぬ、いたずらに寂しい蛙の声のみかまびすしい田圃にかこまれがら、古い仏たちが、今もなお依然として住んでいるのである。

 

   《引用終了》

 

学者モースの視線が、詩人八雲の潤いに満ちた瞳で、鮮やかにリメイクされている(ように見える)のが素晴らしいではないか。〔ここまで私の旧注の引用〕

 

「十七マイル」約27・4キロメートル。因みに現在のJR東日本桜木町―新橋間の営業距離は28・9キロメートル。]

髮はえて容顏蒼し五月雨 芭蕉 萩原朔太郎 (評釈)

 髮はえて容顏蒼し五月(さつき)雨

 植込の深い庭奥、梅雨時の曇暗な一間の中で、獨り閉ぢこめて居る詩人の顏が、いかにも蒼然と浮き出して居る。

[やぶちゃん注:『コギト』第四十二号・昭和一〇(一九三五)年十一月号に掲載された「芭蕉私見」の中の評釈の一つ。昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の巻末に配された「附錄 芭蕉私見」には載らない。この句は貞亨四(一六八七)年、芭蕉数え四十四の時の作。]

霧・ワルツ・ぎんがみ――秋冷羌笛賦 猶太人夫婦相合傘の歌 三首 中島敦

    (以下三首 相合傘の歌)

猶太(ユダヤ)びと太れる妻と敷島の大和の傘を借りてさすかも

番傘の相合傘は年老いし猶太(ゆだや)の夫婦(めをと)ルパシカ濡るゝ

[やぶちゃん注:「ルパシカ」(Рубашка)は元来はウクライナの農民の民族衣装。ゆったりしたブラウス風の上衣で腰をひもで締めて着る。立ち襟で左寄りに前開(あ)きがあり、襟や袖口などをロシア風刺繡で飾る。ナチス・ドイツのユダヤ人迫害は知られるが、ロシア・ソヴィエトでもポグロムと称する古くからのユダヤ人迫害の歴史があった。この夫婦もかの地から逃避行をして来た者達ででもあったか。]

豚に似る妻と番傘さしたれど身は濡れにつゝあはれシャイロック

黄色い接吻 大手拓次

 黄色い接吻

もう わすれてしまつた
葉かげのしげりにひそんでゐる
なめらかなかげをのぞかう。
なんといふことなしに
あたりのものが うねうねとした宵(よひ)でした。
をんなは しろいいきもののやうにむづむづしてゐました。
わたしのくちびるが
魚(うを)のやうに をんなのくちのうへにねばつてゐました。
はを はを はを はを はを
それは   それは
あかるく きいろい接吻でありました。

[やぶちゃん注:創元文庫版は本詩形と同じであるが、思潮社版及び岩波文庫版では以下のように載る。

 黄色い接吻

もう わすれてしまつた
葉かげのしげりにひそんでゐる
なめらかなかげをのぞかう。
なんといふことなしに
あたりのものが うねうねとした宵(よひ)でした。
をんなは しろいいきもののやうに むづむづしてゐました。
わたしのくちびるが
魚(うを)のやうに をんなのくちのうへにねばつてゐました。
はを はを はを はを はを
それは   それは
あかるく きいろい接吻でありました。

即ち、
・六行目の「をんなは しろいいきもののやうにむづむづしてゐました。」の「しろいいきもののやうに」の後の一字空け。
・八行目の「魚(うを)のやうに」の後に一字空けで完結する詩句存在すること。
である。特に後者は底本を読んでいても意味が通じ難く、明らかな脱文が疑われることからも、正当な補訂であると考えてよいとは思われるが、本文は敢えてそのままで出した。]

鬼城句集 夏之部 芥子の花

芥子の花  芥子の花がくりと散りぬ眼前(まのあたり)

2013/08/29

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 4 横浜スケッチ

 この国の人々がどこまでもあけっぱなしなのに、見るものは彼等の特異性をまざまざと印象づけられる。たとえば往来の真ん中を誰はばからず子どもに乳房をふくませて歩く婦人をちょいちょい見受ける。また、続けざまにお辞儀(じぎ)をする処を見ると非常に丁寧であるらしいが、婦人に対する礼譲に至っては、我々はいまだ一度も見ていない。一例として、若い婦人が井戸の水を汲むのを見た。多くの町村では、道路に沿うて井戸がある。この婦人は、荷物を道路に置いて水を飲みにきた三人の男によって邪魔をされたが、彼女は彼等が飲み終わる迄、辛抱強く横に立っていた。我々は勿論彼等がこの婦人のために一バケツ水を汲んでやることと思ったが、どうしてどうして、それ所か礼の一言さえも云わなかった。

 


M9


図―9

 

 店に入る――と云った処で、多くの場合には単に敷居をまたいで再び大地を踏むことに止るが――時、男も女もはき物を残す。前に出した写生図でも判る通り、足袋(たび)は、拇指が他の四本の指と離れた手套(てぶくろ)に似ているので、下駄なり草履なりを脱ぐのが、実に容易に行われる。あたり前の家の断面図を第9図で示す。店なり住宅なりの後方にある土地は、如何に狭くても、何かの形の庭に使用されるのである。

[やぶちゃん注:図―9は底本のキャプションの“ROOM”文字の一部がカスレていたため補筆した。]

 



M10

図―10

 

 ある階級に属する男たちが、馬や牡牛の代りに、重い荷物を一杯結んだ二輪車を引っぱったり押したりするのを見る人は、彼等の痛々しい忍耐に同情の念を禁じ得ぬ(図10)。彼等は力を入れる時、短い音を連続的に発するが、調子が高いので可成り遠くの方まで聞える。繰り返して云うことはホイダ ホイ! ホイ サカ ホイ! と聞える。顔を流れる汗の玉や、口からたれる涎(よだれ)は、彼等が如何に労苦しているかの証拠である。またベットー即ち走丁(フットマン)(めったに馬に乗ることをゆるされぬ彼は、文字通りの走丁である。)の仕事は、人が多勢歩いている往来を、馬車に先立って走り、路をあけることである。かくの如くにして人間が馬と同じ速さで走り、これを何マイルも何マイルも継続する。かかるベットーは黒い衣服に、丸くて黒い鉢のような形のものをかぶり、長い袖をべらべらと後にひるがえす。見る者は黒い悪魔を連想する。

[やぶちゃん注:1マイルは約1・6キロメートル。

「ベットー」原文は“betto”。これは「別当」で、宮中にあって院の厩司(うまやのつかさ)の別当から転じた馬丁のことを意味する古語である。

「走丁(フットマン)」の「フットマン」はルビ。原文の“footman”は、制服を着た男の召し使いの謂いである。またこの語には、古めかしい謂い方で「歩兵」という意があり、その(モースから見て)如何にも奇体な装束(「黒い悪魔」“black demons”)から、このニュアンスも利かせているのかも知れない。]

 


M11

図―11

 

 いたる所に広々とした稲の田がある。これは田を作ることのみならず、毎年稲を植える時、どれ程多くの労力が費やされるかを物語っている。田は細い堤によって、不規則な形の地区に分たれ、この堤は同時に各地区への通路になる。地区のあるものには地面を耕す人があり(図11)、他では桶から液体の肥料をまいており、更に他の場所では移植が行なわれつつある。草の芽のように小さい稲の草は、一々人の手によって植えられねばならぬので、これは如何にも信じ難い仕事みたいであるが而も一家族をあげてことごとく、老婆も子供も一緒になってやるのである。小さい子供達は赤坊を背中に負って見物人として田の畔にいるらしく見える。この、子どもを背負うということは、至る処で見られる。婦人が五人いれば四人まで、子どもが六人いれば五人までが、必ず赤坊を背負っていることは誠に著しく目につく。時としては、背負う者が両手を後ろに廻して赤坊を支え、又ある時には赤坊が両足を前につき出して馬に乗るような格好をしている。赤坊が泣き叫ぶのを聞くことは、めったになく、又私はいま迄の所、お母さんが赤坊に対して疳癪(かんしゃく)を起しているのを一度も見ていない。私は世界中に日本ほど赤坊のために尽す国はなく、また日本の赤坊ほどよい赤坊は世界中にないと確信する。かつて一人のお母さんが鋭い剃刀(かみそり)で赤坊の頭を剃っていたのを見たことがある。赤ん坊は泣き叫んでいたが、それにも拘らず、まったく静かに立っていた。私はこの行為を我国のある種の長屋区域で見られる所のものと、何度も何度もくりかえして対照した。

[やぶちゃん注:「長屋区域」原文“tenement regions”。この“tenement”は“tenement house”でアメリカで特に貧困地区の安アパートや共同住宅を指す。]

 

 私は野原や森林に、わが国にあるのと全く同じ植物のあるのに気がついた。同時にまるで似ていないのもある。棕櫚(しゅろ)、竹、その他明らかに亜熱帯性のものもある。小さな谷間の奥ではフランスの陸戦兵の一隊が、粋な帽子に派手な藍色に白の飾りをつけた制服を着て、つるべ撃ちに射撃の練習をしていた。私は生まれてはじめて茶の栽培を見た。どこを見ても興味のある新しい物象が私の目に入った。

[やぶちゃん注:「フランスの陸戦兵の一隊」横浜の居留地を防衛することを名目として横浜の山手に駐屯したイギリス・フランスの横浜駐屯軍は明治八(一八七五)年三月に両軍ともに全面撤退が完了しているが、これは所謂、第二次フランス軍事顧問団の関係者か。そういえば、横浜のJR東日本の山手駅前の直線道路部分は、戦前、陸軍の射撃場であったように記憶するが、この嘱目ももしかするとそこででもあったのかも知れない。]

笠島はいづこ五月のぬかり道 芭蕉 萩原朔太郎 (評釈)

 笠島はいづこ五月(さつき)のぬかり道

 

 梅雨の降りつづく空の下で、泥濘の道をたどりながら、遠國の旅を漂泊してゐる心境の寂しさがよく歌はれてゐる。

 

[やぶちゃん注:『コギト』第四十二号・昭和一〇(一九三五)年十一月号に掲載された「芭蕉私見」の中の評釈の一つ。昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の巻末に配された「附錄 芭蕉私見」では、以下のように評釈が異なっている。

 

   笠島はいづこ五月の泥濘(ぬかり)道

 

 芭蕉の行く旅の空には、いつも長雨が降りつづき、道は泥濘にぬかつて居た。前途は遠く永遠であり、日は空に薄曇つて居た。

 

本句は「奥の細道」に所収する。「笠島」は宮城県名取郡笠島村。現在の名取市愛島(めでじま)。藤中将実方ゆかり地。本句の背景については「芭蕉会議」の根本文子がコンパクトによく纏められてある。]

中島敦漢詩全集 十六

  十六

 

 贈安田君 三首

 

平生獨訝閑人意

攀柳折花非我事

月夕花朝屑々過

壯年未識佳人涙

 

侃々悲歌慷慨人

※々諤々激聲頻

精根滿溢歎無事

可惜春來未識春

 

營々黽勉無他思

勤恪直言廉吏類

短矮無髯似少年

斯兒未習三杯醉

 

[やぶちゃん補注:底本解題に『「贈安田君」とあるのは横濱高等女學校時代の同僚である安田秀文氏のことで、昭和九年四月から十四年六月まで同校で國語を教へてゐた。同氏によれば、以下の同僚教師に宛てた漢詩』(後に続く十四・十九・二十一・二十二・二十五の漢詩五首を指す)『は、昭和十年末から十一年にかけて、折々に教員室で披見されたといふ』とある。安田秀文氏については現在のところ、これ以上の情報を入手し得ない(筑摩版新全集別巻には「中島さんと一緒に勤めて」という文章が載るが、私は所持しておらず、未見である。T.S.君も評釈の最後で述べておられるように、その文章の中に本詩を正統に解釈するための重要な何かが潜んでいる可能性はすこぶる高い。向後、機会を見て披見し、T.S.君と再考察しようと考えている)。]

[やぶちゃん字注:「※」=「口」(へん)+「如」(つくり)。本来は語釈で述べるところであるが、この漢字、「廣漢和辭典」にも所載せず、ネット上で検索をかけてみても、それらしいものが見当たらず、私には全くのお手上げ状態であった。但し、これではまず素読自体が出来ないのが癪に障る。そこでここについては、先にT.S.君による本字についてのみの考証を掲げ、これを誤植と判断し、T.S.君の推定に基づいた正しいと思われる(これならば素読して意味が分かる)ものに改稿した全首を再度掲げて進行させたいと考える。以下、当初の彼との遣り取りの来信から、T.S.君からの『※々」についての考察』を全文引用する(下線部や一部の鉤括弧等は私が施した)。

   《引用開始》

   「※々」についての考察

 まず口へんに如という字を、現代から古典にわたる中国語の中で調べてみましたが、見出すことができませんでした。そこで意味を推定してみました。前後の詩意や、直前の句と対を成すこと、などを考え合わせると、ここは『正論を吐いている安田君の勢いの盛んなさま』を表す言葉が来ると思われます。そこでもう一度辞書を眺めていると、似ている字形で「呶」nao2という字があり、重ねて「呶呶」nao2nao2 としても用いられることが判りました。意味は、「一文字で、やかましいこと」で、二つ重ねて「呶呶」とすると、「話がくどいさま」を表わします。この字の誤植ではないだろうかという疑念が脳裏を掠めます。「直情でまじめ一点張りの」正義漢も、度が過ぎると、「ごく軽い反感」と、「滑稽」と、「哀愁」さえ漂います。ただし、実はこんな安田君に対して、詩人は本当はどうも親しみと愛情を感じているらしいそうでなければ詩など贈らないでしょう)。従ってここで新たに、「やかましい」という負の感覚を付加したところで大きな問題はないと思われます。よくよく考えれば詩の内容から見て、何事も論理で「直線的に切り分け」たり、「義を基準にものごとの正否を裁断した」りし、それを「堂々と」主張するようなタイプと推察される安田君のことを、詩人は時に「やかましく」も感じたでしょうし、誰もが分かるような正論を長々と聞いていれば、「くどい」とも感じたでしょう。ですから、あくまで愛情が籠められているという条件で、この「呶呶」を用いることも許されると感じています。いかがでしょうか。

   《引用終了》

 私は以上のT.S.君の考証に全面的に賛同するものである。万一、この「※」の字が存在する、若しくは「呶々」の誤植ではなく別字の誤植であると主張される方があられる場合は、T.S.君と三者で検討させて戴きたく、まずは私藪野直史に御連絡頂きたい。よろしくお願い申し上げる。

 それでは、以下、改めて「呶々」とした形で、三首全文を示す。

 

 贈安田君 三首

 

平生獨訝閑人意

攀柳折花非我事

月夕花朝屑々過

壯年未識佳人涙

 

侃々悲歌慷慨人

呶々諤々激聲頻

精根滿溢歎無事

可惜春來未識春

 

營々黽勉無他思

勤恪直言廉吏類

短矮無髯似少年

斯兒未習三杯醉

 

○やぶちゃんの訓読

 

 安田君に贈る 三首

 

平生(へいぜい) 獨り訝(いぶか)る 閑人(かんじん)の意

攀柳折花(はんりうせつくわ) 我が事に非ず

月夕花朝(げつせきくわてう) 屑々(せつせつ)として過ぐ

壯年たるも 未だ佳人の涙を識らず

 

侃々(かんかん)として 悲歌慷慨の人

呶々諤々(だうだうがくがく) 激聲(げきしやう) 頻(ひん)たり

精根(せいこん)滿溢(まんいつ) 無事(むじ)を歎ず

惜しむべし 春 來るも 未だ春を識らざるを

 

營々(えいえい)たる黽勉(びんべん) 他思(たし)は無く

勤恪(きんかく)たる直言(ぢきげん) 廉吏(れんり)の類(るゐ)

短矮(たんわい) 無髯(ぶぜん) 少年に似(に)たり

斯(こ)の兒(じ) 未だ三杯の醉(ゑひ)を習(し)らず

 

〇T.S.君原案(一部は藪野補筆)の中国語を踏まえた語釈

「閑人」字義からいえば暇な人のことであるが、ここでは季節の移ろいや人生の様々な出来事の中で、折に触れ自ら進んで美しいものを愛でては、その感興に浸るような人を指す。

「攀柳折花」字面からは、柳によじ登り花を折る、となるが、ここでは「閑人」と同様、季節を愛で、美しいものを積極的に味わう態度のこと。

「月夕花朝」中国語で「花朝月夕」といえば佳節の美景を指す。また文字通り解釈すれば、月の夜と佳き日のことである。しかしここは、その時々の美しさに満ちた季節の移ろいのことであろう。

「屑々」バタバタと忙しい様子。

「佳人涙」広義に捉え、恋愛の情趣そのものと解釈したい。

「侃々」話が理にかない、勢いがよく、堂々としているさま。

慷慨」義憤に燃えて激昂すること。

・「呶々」底本は「※々」〔「※」=「口」(へん)+「如」(つくり)〕。[やぶちゃん注:「呶々」とした経緯や意味については前掲のT.S.君の『「※々」についての考察』を参照されたい。]

「諤々」直言するさま。

・「營々」行ったり来たりするさま、齷齪するさま。

「黽勉」努力。

「勤恪」慎み勤しむさま。

「廉吏」清廉潔白な役人。

・「三杯醉」表面上は酒を三杯飲んだだけで酔うこと。もともとは、すぐに酔ってしまうというニュアンスを籠めた言葉である。ただしここでは、単に酒に酔うことであると解釈してよいだろう。なお、「三」は、特に深い意味はないものの、数としての切れの良さと言い回しの快さのために使われやすい数字である(日本にも「駆け付け三杯」などという言い回しもあることが想起される)。

 

T.S.君による現代日本語訳

 

 安田君に贈る 三首

 

風流生活 そんなの知らない

花鳥風月 カンケイなさそう

節季や節句も 変わらず多忙

いい歳なのに 恋も識らない

 

言葉は真直ぐ 嘆いて怒って

いつでも口から 熱いほのお

やる気満々 二の腕をさすり

春が来たって 気にも留めず

 

願いはいつも たゆまぬ努力

勤勉 正直 まさに模範官吏

髯無しちびっこ まるで少年

この男 いまだに酒を知らず

 

〇T.S.君とやぶちゃんの協働取組みによる評釈

 今更ながら思う。

 中島敦……なんという自由な明るい詩魂であろうか。

 中国古典に取材した幾篇かの小説によって彼を識った私にとって彼の肖像は、運命の嵐に翻弄されながらも歯を食いしばって自分の足で立つ人間、そんな人間の、か弱いけれども崇高な魂を讃える者のそれであった。さらには、持病の喘息と闘う悲壮感に満ちた漢学者のそれであった。

 ところが、この詩を見よ!

 同僚の人となりを、肩の力を抜き、ごく軽い揶揄を籠めて軽妙に描写している。悲壮な漢学者の面影はほとんど見られない。

 さらには、図らずも露わになった人生に対する詩人の態度にも注目したい。

 安田君に欠けている、と詩人が判断するものは何であろうか。

 それは、花鳥風月を愛でる心、恋、酒の三つである。

 対する詩人は、魂を痺れさせるところのそれらの味を、十二分に知っている。それらの何事にも換え難い価値も、また知っている。詩人はこれらを識ることの意味や大切さを、漢詩中で大胆にもしっかりと肯定的に表明しているのである。

 実は私にとっても、これら無しの人生など考えたくない。

 百歩譲って酒や花鳥風月は措くとしても、恋のない人生など、想像しただけで恐ろしい。私は信じる。中島敦も同様であったと。なぜなら、魂の深みを覗き込む恋という深刻な体験がなければ、人間の弱さと強さを同時に描く彼の鋼のような文学は到底生まれなかったはずだから。

 

 しかし誤解してはならない。

 詩人は決して安田君を批判しているのではない。憐れんでいるのでもない。人がこれらを知るべきだなどという不遜な言葉を、彼は決して口にしない。

 人生を彩る(というよりも、人生の謎さえ内包する)これらの体験から生まれる喜びには、それ以上の哀しみが、必ず付き纏うであろう。

 これらを知らないままに義や理想を熱く語る安田君に対して、詩人はかすかな羨望を抱きながら(と言い切ってしまっても、いいかもしれない)、彼の姿を清清しく捉えるのだ。

 読者は、行間から立ち上る、かの同僚に対する暖かい思いを感じないであろうか。私には詩人の微笑が目に見える。

 

 この詩に接して即座に思い出される歌がある。読者の多くも必ずや想起されたに違いない。

 

 やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君

(与謝野晶子「みだれ髪」)

 

 これは女性の歌だからであろうか、生殖を司る不思議な艶かしい力や、哺乳類の体温を、どこか強く感じさせる。

 男性にとっての恋は、往々にしてこれとは異なるものだ。

 いわば観念の世界で完結してしまいがちなのだ。

 この漢詩も例外ではない。

 男性の言及する恋らしく、どこか観念的に勝ったものを感じさせる。

 とはいえ、だからこそであろうか、私自身は与謝野晶子よりも中島敦により強く共鳴してしまうことを自白する。

 男性と女性の差異を簡単に総括してしまうことに対して、首を傾げる方もおられよう。それでは、この一首を現代女性が詠じたものも挙げておこう。

 

 燃える肌を抱くこともなく人生を語り続けて寂しくないの

(俵万智「チョコレート語訳みだれ髪」)

 

 男性は決してこんな風に歌わない。

 歌いたくても、歌えないのである。

 それでも乱暴だとおっしゃる方のために、最後に男性による強靭なる応援歌を頼もう。

 

 それ程女を見縊(みくび)つてゐた私が、また何うしても御孃さんを見縊る事が出來なかつたのです。私の理窟は其人の前に全く用を爲さない程動きませんでした。私は其人に對して、殆ど信仰に近い愛を有つてゐたのです。私が宗教だけに用ひる此言葉を、若い女に應用するのを見て、貴方は變に思ふかも知れませんが、私は今でも固く信じてゐるのです。本當の愛は宗教心とさう違つたものでないといふ事を固く信じてゐるのです。私は御孃さんの顏を見るたびに、自分が美くしくなるやうな心持がしました。御孃さんの事を考へると、氣高い氣分がすぐ自分に乘り移つて來るやうに思ひました。もし愛といふ不可思議なものに兩端(りやうはじ)があつて、其高い端(はじ)には神聖な感じが働いて、低い端(はじ)には性慾が動いてゐるとすれば、私の愛はたしかに其高い極點を捕(つら)まへたものです。私はもとより人間として肉を離れる事の出來ない身體(からだ)でした。けれども御孃さんを見る私の眼や、御孃さんを考へる私の心は、全く肉の臭を帶びてゐませんでした。

(夏目漱石「こゝろ」より。引用は藪野先生作成になる同初出版「心」の「先生の遺書(六十八)」を用いた)

 

 私が男だからであろうか。私は、中島敦の言う『佳人の涙』を、「こころ」の先生の言うところの意味において明確に想像できるのである。

 

 ところで愛すべき安田君は、この後、どのような人生を過ごしたのであろうか。いつの日か、ついに恋を覚えることになったであろうか。酒の味にも親しんだであろうか。彼をも例外なく待ち受けていたであろう人生の悲哀によって、彼の心はささくれ立つこともあったであろう。その心の傷口に、花鳥風月が沁み入る陶酔の機会は、果たして巡ってきたであろうか。

 彼はこの詩を贈られて、どう感じただろう。温かみを持つ適確な指摘に苦笑したことだろうか、それとも密かに顔を赤らめたであろうか……。私は中島敦から詩を贈られた安田君に対し、僅かながらではあるが、嫉妬を禁じえないのである。彼が中島敦を回想した文章というものがあると聞いた。いつか読む機会があれば、と願っている。

霧・ワルツ・ぎんがみ――秋冷羌笛賦 街頭スケッチ 三十二首 中島敦 

    (以下三十二首 街頭スケッチ)

 

冬近み露西亞菓子屋の窓邊なるベゴニアの花散るべくなりぬ

 

[やぶちゃん注:店を同定しようと思ったが、田舎者の私は横浜に暗く果たせない。識者の御教授を乞う。以下、同じ。]

 

日耳曼(ぜるまん)のレストラントに日耳鼻の客も來らず秋聞けにけり

 

[やぶちゃん注:「日耳曼(ぜるまん)」ゲルマンでドイツの旧漢訳語。]

 

山手なる教會の鐘なるなべに紅薔薇散りぬ秋深みかも

 

[やぶちゃん注:「山手なる教會」現在の横浜市中区山手町にあるカトリック山手教会。英語名“Sacred Heart Cathedral”(聖心大聖堂)。カトリック横浜司教区のカテドラル(大聖堂)で現在の山下町にあった横浜天主堂が移転して明治三九(一九〇六)年に現在地に創建された。大正一二(一九二三)年の関東大震災で倒壊後、ヤン・ヨセフ・スワガーの設計により昭和八(一九三三)年に再建されており、本歌稿の成立時期は昭和一二(一九三七)年前後であるから、再建から三~四年を経た頃である。「なべに」は「なへに」(接続助詞「なへ」+格助詞「に」)が推定で中古以降に濁音化したもの。~するにつれて、~とともに、~と同時に、の意。]

 

吾が心むすぼほれつゝ街行けば出船の銅鑼の聞えつもとな

 

[やぶちゃん注:「もとな」副詞で、訳もなく・やたら、若しくは、切に・非常に、の意。両意を含めてよい。]

 

異人の兄は菓子の銀紙棄て行きぬ秋のあしたの鋪道の上に

 

[やぶちゃん注:冒頭のロシア菓子とすれば、小麦粉を主原料とした生地で作ったロシアの焼き菓子プリャーニク(пряник)か。]

 

杖とめて孫(うまご)に何か聞くらしきスラブ嫗(をうな)の赤頭巾かな

 

[やぶちゃん注:「孫(うまご)」孫。「むまご」とも表記する。「スラブ」“Slav”はインド―ヨーロッパ語族の中の、スラブ語を使う民族の総称。原住地はカルパチア山脈の北方と推定され、民族大移動の際、東ヨーロッパ一帯に拡散した。東スラブ族(ロシア人・ウクライナ人・白ロシア人など)、西スラブ族(ポーランド人・チェコ人・スロバキア人など)、南スラブ族(セルビア人・クロアチア人・ブルガリア人など)に大別される。人口約二億五〇〇〇万人でヨーロッパ最大の民族(「大辞泉」に拠る)。]

 

母待つと鋪道に立てる混血兒(あひのこ)の眼(め)ぬち哀しも羚羊(かもしか)に似て

 

[やぶちゃん注:「ぬち」連語。格助詞「の」+名詞「内(うち)」の付いた「のうち」の音変化。~の内。]

 

メリケンの水夫ジン飮み鼻歌に歌ひけらくは“Shall we dance?

 

[やぶちゃん注:「Shall we dance?」は一九三七年のアメリカ映画「Shall We Dance」(監督マーク・サンドリッチ・主演フレッド・アステア。邦題は「踊らん哉」)のタイトル・ソング。アイラ&ジョージ・ガーシュウィン作曲。戦後の「大様と私」で知られた例の曲とは別物。こちらでアステアの超絶ステップとともに聴ける。]

 

灰色の午後の鋪道にひさかたの亞米利加びとは口笛吹くも

 

ヤンキーかはたジョン・ブルか揉上(もみあげ)の長き男がタクシーを呼ぶ

 

[やぶちゃん注:「ヤンキー」“Yankee”は米国人の俗称。元来は米国南部で北部諸州の住民を軽蔑的に呼んだ語。「ジョン・ブル」“John Bull”は典型的な英国人を指す渾名。十八世紀の英国の作家アーバスノット作の寓話「ジョンブル物語」に由来(孰れも「大辞泉」に拠る)。]

 

秋風に白きスカーフ靡かせて口笛(うそ)吹き行くは何國(いづくに)の兄ぞ

 

空碧きシシリア人(びと)にこそあらめジョヴィネッツァ歌ひ秋の街行く

 

[やぶちゃん注:「ジョヴィネッツァ」“Giovinezza”はムッソリーニ率いるイタリア・ファシスト党党歌「ジョヴィネッツァ」で「青春」「若人」といった意。歌詞は一九二四年に附いた。但し、原曲はジュゼッペ・ブラン作曲で一九〇九年に発表された「別れの歌」(Commiato)という学生歌で当初は政治的な意図はなかった(参照させて戴いた辻田真佐憲氏のサイト「西洋軍歌蒐集館」(「イタリア」→「ジョヴィネッツァ(青春)」)に音源と歌詞及び成立経緯などの詳しいデータが載る。必見のサイト!)]

 

秋の風いたくな吹きそ若き日の聖クララがうけ歩みする (若き尼僧は天主教の黑衣を纏へり)

 

[やぶちゃん注:「聖クララ」イタリアの聖人アッシジのキアラ(Santa Chiara d'Assisi 一一九四年~一二五三年)。ローマ・カトリック、聖公会、ルーテル教会で崇敬される。英語名のクレア(Clare)またはクララ(Clara)の名前でも知られる。聖フランチェスコに最初に帰依した者の一人でフランチェスコ会の女子修道会クララ会(キアラ会とも)の創始者。目や眼病の守護聖人で象徴とする聖体顕示台・聖体容器箱・ランプを持つ姿で描かれる。祝日は八月十一日。彼女の遺体は永遠に腐敗しないとされ、骨格は完全な状態に保存されてアッシジの教会内に公開されている(ウィキの「アッシジのキアラ」に拠る)。「うけ歩み」この語は、本来、古語で花魁などの道中の際の歩き方、上体を反らしてゆっくりと歩む、あの歩き方を指す語である。敦の確信犯的用法であろう。]

 

さにづらふ英吉利未通女(をとめ)たまぼこの道角にしてテリア抱ける

 

[やぶちゃん注:「たまぼこの」「道」の枕詞。「たまぼこ」(古くは清音「たまほこ」)の原義は上代語で「美しい桙(鉾・矛)」の意であるが、「たまほこの」が「矛の身(み)」を連想させ、その「み」から「道」の意に転じて、「道」や「里」(道が続く先)の枕詞となった(角川新版「古語辞典」に拠る)。]

 

カラマゾフの作者に似たる病禿(やみはげ)のエアデル・テリア尿するなる

 

[やぶちゃん注:「エアデル・テリア」エアデール・テリア(Airedale Terrier)。イギリスのヨークシャーにあるエア渓谷(エアデール)を発祥とするテリア種の犬。参照したウィキの「エアデール・テリア」によれば、『多くのテリアと同様に、エアデール・テリアには皮膚炎になりやすい傾向がある。アレルギーや栄養バランスの悪い食事、甲状腺の生産過剰や不足は、皮膚の健康状態に大きな影響を与える』とある。「尿」は「すばり」と訓じていよう。]

 

うれたしや醜(しこ)の痩犬吠立つるわれもの思(も)ふと巷を行けば

 

赤髭の神父咳(しはぶ)き過ぎ給ふ異國の秋は風寒からめ

 

日本語のたどたどしさも宜しけれ赤髯の神父黑パンを買ふ

 

[やぶちゃん注:「たどたどしさ」の繰り返しの「たど」は底本では踊り字「〱」。]

 

加特力(カトリツク)の我は信者にあらねどもかの赤髯をよろしと思ふ

 

あさもよし喜久屋のネオンともりけり山手は霧とけぶれるらしも

 

[やぶちゃん注:「喜久屋」元町に現在も営業する洋菓子店。大正十三(一九二四)年創業。初代店主は石橋豊吉(「横浜のれん会」の記載によれば、日本郵船ヨーロッパ航路伏見丸にベーカーとして乗り組んで何度も欧州をまわった人物とある)。公式サイトによれば、『ある日スイス婦人がレシピを持ち込んで、ヨーロッパ仕込みのケーキ職人だつた先代にケーキを焼いて欲しいと頼みました』。『婦人が大変満足する品が出来上がると、そのことが山手で評判になり、次々と各国のケーキレシピが集まってきて、喜久家はどこの店よりも早くヨーロッパのケーキを作ることが出来ました』。『居留地のたくさんの婦人達が教えてくれた洋菓子の味を大切に、喜久家は今日も素敵な味を皆さまにお届けします』とある。公式サイトはこちら。]

 

元街の燈ともし頃を人待つと秋の狹霧に乙女立濡る

 

夕されば海ぞ霧(き)らへる泊(とまり)する汽船(ふね)の汽笛のとよもし聞こゆ

 

[やぶちゃん注:「とよもす」「響もす」(他動詞サ行四活用)は「響(とよ)む」(他動詞マ行下二段活用)に同じ。鳴り響かせる、の意。]

 

舶來のソオセエヂ屋の窓碍子今朝は曇りぬ冬きたるらし

 

帽赤き軍艦ビケの水兵が昨日(きぞ)出航(た)ちたりと君は聞きつや

 

[やぶちゃん注:「軍艦ビケ」不詳。「帽赤き」とあるからソ連の軍艦名か? 識者の御教授を乞う。]

 

混血兄(あひのこ)が自轉車に乘りバナナ喰ふ聖ジョセフに行くにかあらむ

 

[やぶちゃん注:「聖ジョセフ」セント・ジョセフ・カレッジ(Saint Joseph College)。かつて神奈川県横浜市に存在したインターナショナル・スクール。明治三四(一九〇一)年にカトリック教会マリア会によって幼稚園から高校までを備えた英語教育主体のインターナショナル・スクールとして横浜市山手町に開校された。平成一二(二〇〇〇)年、経営悪化によって廃校となった(ウィキセント・ジョセフ・インターナショナル・カレッジに拠った)。]

 

この夕(ゆふ)べ時雨過ぎつゝ鋪道(しきみち)に初冬の燈の寫(うつ)り宜しも

 

天霧(あまぎ)らし時雨降り來(く)と元街のスレート屋根ははやも濡れつゝ

 

時雨(しぐ)るゝに傘(かさ)購(もと)めんと寄る店は明治六年店開きける (中坪洋傘店の看板に明治六年創業とあり)

 

[やぶちゃん注:現存しない(幾つかの記載に「中坪洋傘店跡」とある)。横浜市中区役所公式サイトの一五八回 ハイカラな街、元町(同刊行物『歴史の散歩道』二〇一二年九月号掲載)の画像に傘の看板を出した同店が見える。]

 

朝毎にヴィヴィアンの店過ぎつれどマダム・ヴィヴィアン未だ見なくに

 

ヴィヴィアンの店の飾人形(マヌカン)冬立てはうそ寒しもよ衣裳(ころも)換へずて

 

飾人形(マヌカン)の鼻のわきへのうす埃何か寂しも曇り日の午後は

 

仄靑き陰翳(かげ)飾人形(マヌカン)にさす如し雨近き午後の硝子透して

 

[やぶちゃん注:「ヴィヴィアン」洋品店らしいが不詳。この手の守備範囲外の探索は私の最も苦手とするところである。またしても最後に識者の御教授を乞うものである。]

春の日の女のゆび 大手拓次

 春の日の女のゆび

 

この ぬるぬるとした空氣のゆめのなかに、

かずかずのをんなの指といふ指は

よろこびにふるへながら かすかにしめりつつ、

ほのかにあせばんでしづまり、

しろい丁字草(ちやうじさう)のにほひをかくして のがれゆき、

ときめく波のやうに おびえる死人(しにん)の薔薇(ばら)をあらはにする。

それは みづからでた魚(うを)のやうにぬれて なまめかしくひかり、

ところどころに眼(め)をあけて ほのめきをむさぼる。

ゆびよ ゆびよ 春のひのゆびよ、

おまへは ふたたびみづにいらうとする魚(うを)である。

 

[やぶちゃん注:「丁字草」リンドウ目キョウチクトウ科チョウジソウ Amsonia elliptica。他のキョウチクトウ科植物と同様に全草にアルカロイドを含み、有毒。、五~六月に茎の頂きに集散花序を出し、薄青色の花を多数咲かせる(以上はウィキチョウジソウ」に拠る)。拓次は「にほひ」と述べているが、ネット上の記載では確かな香りを記載したものは見当たらない。個人のサイト「かわちのいろいろ見てある記」のページによると、『姿だけを見ていると良い香りがしそうですが、何となく青臭い感じのにおいがしていました』とある。]

鬼城句集 夏之部 虎耳草

虎耳草    高崎郊外

  
      虎耳草うゑる穴あり聖石
  

[やぶちゃん注:「虎耳草」「こじさう(こじそう)」と読むが、ここは「ゆきのした」と訓じていよう。ユキノシタ目ユキノシタ科ユキノシタ Saxifraga stolonifera の民間薬としての呼称である。葉を炙って腫れ物・凍傷・火傷などの消炎に用い、葉の搾り汁は中耳炎や漆等によるかぶれ・虫刺され・小児のひきつけ・風邪に効果があるとし、乾燥させた茎や葉は煎じて解熱・解毒に利用するともある(以上はウィキの「ユキノシタ」に拠る)。「聖石」は群馬県高崎市聖石町にある地名と古跡。弘法大師が腰かけたと伝承される石が残る。迷道院高崎氏のブログ「隠居の思ひつ記」の「鎌倉街道探訪記(21)」で古写真や現況を見ることが出来る(そのコメント欄を見るとこの石は回転しながら上流に移動するという言い伝えがあるらしい)。この句はまさに、この写真の窪みにユキノシタが可憐に植わっているさまを詠んだもののように私には思われる。]

2013/08/28

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 3 町屋の景


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図―8

 

 誰でもみな店を開いているようである。店と、それからその後にある部屋とは、道路に向って明けっぱなしになっているので、買物をしに行く人は、自分が商品の間から無作法にも、その家族が食事をしているのを見たり、簡単なことこれに比すべくもない程度にまで引き下げられた家事をやっているのを見たりしていることに気がつく。たいていの家には炭火を埋めた灰の入っている器具がある。この上では茶のための湯が熱くされ、寒い時には手をあたためるのだが、最も重要な役目は喫煙家に便利を与えることにあるらしい。パイプと吸い口とは金属で、柄は芦みたいなものである(図8)。煙草は色が薄く、こまかく刻んであり、非常に乾いていて且つ非常にやわらかい。雁首には小さな豆粒くらいの煙草のたまが納る。これを詰め、さて例の炭で火を点けると、一度か二度パッと吸った丈で全部灰になって了う。このような一服でも十分なことがあるが、続けて吸うために五、六度詰めかえることが出来る。またお茶はいつでもいれることが出来るような具合になっていて、お茶を一杯出すということが一般に、店にきた人をもてなすしるしになっている。かかる小さな店のありさまを描写することは不可能である。ある点でこれ等の店は、床が地面からもち上がった、あけっぱなしの仮小屋を連想させる。お客様はこの床の端に腰をかけるのである。商品は――可哀想になる位品数の少ないことが間々ある――低い、段々みたいな棚に並べてあるが、いたって手近にあるので、お客様は腰をかけた儘手を伸ばして取ることが出来る。この後で家族が一室に集り、食事をしたり物を読んだり寝たりしているのであるが、若しこの店が自家製品を売るのであると、その部屋は扇子なり菓子なり砂糖菓子なり玩具なり、その他何であろうと、商品の製造場として使用される。子供が多勢集ってままごとをやっているのを見ているような気がする。時に簟笥(たんす)がある以外、椅子、テーブルその他の家具は見当らぬ。煙筒(えんとつ)もなし、ストーブもなし、屋根部屋もなし、地下室もなし、扉(ドア)もなく、只すべる衝立(ついたて)がある丈である。家族は床の上に寝る。だが床には六フィートに三フィートの、きまった長さの筵(むしろ)が、恰(あたか)も子供の積木が箱にピッタリ入っているような具合に敷きつめてある。枕には小さな頭をのせる物を使用し、夜になると綿の充分入った夜具を上からかける。

[やぶちゃん注:「誰でもみな店を開いているようである。」原文は“Everybody seems to "keep shop."”。――どこの家も店も『店を開いている』ように見える――の謂いである。

「簡単なことこれに比すべくもない程度にまで引き下げられた家事をやっているのを見たりしていることに気がつく。」この部分の原文を前から続いて示すと、“The shop and the room back are wide-open to the street, and as one stops to barter he finds himself rudely looking beyond the stock in trade to the family at supper, or going through their rounds of domestic work, which is reduced to the last expression of simplicity.”である。どうもこの部分だけ生硬な印象を受ける。――極めて単純明快の極致とも言うべき、その始源にまで降りに降りて行ったところの家事が、彼らの私的な空間で進行しているを見たりしていることに気づくのである。――といったニュアンスであろうか。

「すべる衝立」“sliding screens”。言わずもがな、障子や襖のことである。]

北條九代記 鎌倉變災 付 二位禪尼御夢想

      ○鎌倉變災  二位禪尼御夢想
連年打續き、鎌倉中の失火、日毎に止む事なし、僅に遁るゝ事あれども、遅速を論ずれば何れ免かるゝ所なし。又其閒には大風、大雨の災(さい)起りて、人家或は顛倒し、或は洪水の出づるに依て、河邊近き在家共は押(おし)流されて、死する者數知らず。天には彗星出でて人の目を驚(おどろか)し、下には地震夥しく、堂舍民屋(みんをく)を動(ゆり)崩す。是等の變災一方ならず、如何樣只事にあらずと諸人心を傷(いたま)しめ、夜を緩(ゆるやか)に臥す者なし。兎角する程に、物憂き年も改り、承久三年の春を迎へ、當年はさりとも世の中立直(たてなほ)し、諸人も安堵すべきものと、貴賤上下思はぬ者はなかりけり。然る所に、正月十日の朝より、濱風吹(ふき)起りて、終日(ひねもす)に及(および)しかば、すはや火災の出來んずらんとて、用心嚴しく致す所に、晩景に及びて、俄(にはか)に雷鳴り出でつゝ、兩三ヶ所に落(おち)懸り、電光の閃く事夥しさは限(かぎり)なし。老若、皆、膽魂(たましひ)を失ひ、死に入る計(ばかり)にぞ覺えける。降下(ふるくだ)る雨の足は、宛然(さながら)移(うつ)す如くなり。夜に入りければ、雨止みしかども暗さは猶暗かりけり。翌日又、薄雪の降りたり。去年の冬よりして、遂に隆(ふら)ざる事なれば、是ぞ初雪と云ふべかりけりと、餘(あまり)の事に興(きよう)ぜらる。次の日、殿中に、陰陽師泰貞(やすさだ)、晴吉(はれよし)、親職(ちかもと)、宣賢(のぶかた)を召されて、天地災變の御祈禱の爲、三萬六千の神祭(かんさい)、屬星(じよくしやう)、太山府君(たいざんぶくん)、天曹(てんさう)、地府(ぢふ)の祭を行ひ、鶴ヶ岡に於ては、大般若經を轉讀せらる、同三月二十二日の曉(あかつき)、二位禪尼、御夢想の御事あり。その面(おもて)、二丈計(ばかり)の大鏡(きやう)ありて、由比浦の浪の上に浮びて、その中に氣高き聲の聞えけるやう、「我は是大神宮にておはします。天が下を鑒(かんがみ)るに、世の中大に亂れて、兵を懲(こら)すべし。泰時こそ我を太平に耀かさんも一のぞや」とて夢は即ち覺(さ)め給ふ。禪尼、深く信心を凝(こら)し、祠官(しくわん)の外孫なればとて波多野(はだのゝ)次郎朝定(ともさだ)を使として、大神宮に願書を參らせ、伊勢の祭主神祇大副(じんぎのすけ)隆宗(たかむね)朝臣に仰せて、幣帛(へいはく)をぞ送られける。

[やぶちゃん注:承久の乱への不吉なプレリュードと、後の名執権泰時誕生を預言する夢告の提示である。鎌倉での一連の天変地異とそれに対する祈禱の叙述は「吾妻鏡」巻二十四の承久二(一二二〇)年十二月四日、承久三年正月十日・十一日・二十二日・二十九日などに拠り、政子の夢想の一件は同巻の承久三年三月二十二日の記事に基づく。特に「吾妻鏡」の原文は示さない。
「次の日、殿中に、陰陽師泰貞、晴吉、親職、宣賢を召されて、天地災變の御祈禱の爲、三萬六千の神祭、屬星、太山府君、天曹、地府の祭を行ひ、鶴ヶ岡に於ては、大般若經を轉讀せらる」とあるが、「次の日」(文脈上は一月十二日)ではなく、一月二十二日である。「吾妻鏡」の誤読であろう。「三萬六千の神祭」三万六千神祭。天変地異を除き、天下泰平を願う祭。「屬星」は属星祭で危難を逃れて幸運を求めるために対象者(この場合は将軍頼経であろう)の属星をまつる祭。大属星祭。「天曹、地府の祭」天曹地府祭(てんそうちふさい)。六道冥官祭(ろくどうめいかんさい)・天官地符祭とも呼ぶ。陰陽師が修する重要な祭りの一つで、「曹」の字は実際には縦の二本棒を一本棒にした特異な画の字「曺」を用いる。十一世紀ころから祀られ、安倍氏が鎌倉幕府の陰陽道を支配して後、この祭法が盛んとなった。泰山府君を中心とした十二座の神に金銀幣・素絹・鞍馬を供えて祭る(ここは平凡社「世界大百科事典」に拠った)。
「二丈計」凡そ六メートルほど。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 2 人力車




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図―5

 朝飯が終るとすぐに我々は町を見物に出かけた。日本の町の街々をさまよい歩いた第一印象は、いつまでも消え失せぬであろう。――不思議な建築、最も清潔な陳列箱に似たのが多い見馴れぬ開け放した店、店員たちの礼譲、いろいろなこまかい物品の新奇さ、人々の立てる奇妙な物音、空気を充たす杉と茶の香。我々にとって珍しからぬ物とては、足の下の大地と、暖かい輝かしい陽光と位であった。ホテルの角には、人力車が数台並んで客を待っていた(図5)が、我々が出て行くや否や、彼等は「人力車?」と叫んだ。我々は明瞭に要らぬことを表示したが、それにも拘らず二人我々について来た。我々が立ち止ると彼等も立ち止る。我我が小さな店をのぞき込んで、何かを見て微笑すると、彼等もまた微笑するのであった。私は彼等がこんなに遠くまでついて来る忍耐力に驚いた。何故かなれば我々は歩く方がよかったから人力車を雇おうとは思わなかったのである。然し彼等は我々よりも、やがて何が起こるかをよく知っていた。歩き廻っている内に草疲(くたび)れて了うばかりでなく、路に迷いもするということである。果してこの通りのことが起った。一歩ごとに出喰わした、新しいこと珍しいことによって完全に疲労し、路に迷い、長く歩いて疲れ切った我々は、よろこんで人力車に乗って帰る意志を示した。如何にも弱そうに見える車に足をかけた時、私は人に引かれるということに一種の屈辱を感じた。若し私が車を下りて、はだしの男と位置をかえることが出来たら、これ程面喰わずに済んだろうと思われた。だが、この感はすぐに消え去った。そして自分のために一人の男がホテルまでの道のりを一と休みもしないで、自分の前を素敵な勢で駆けているということを知った時の陽気さは、この朝の経験の多くと同様に驚く可きことであった。ホテルへ着いた時彼等は十セントとった。このために彼等は朝半日を全くつぶしたのである! かかる人々の驚く可き持久力はまさに信用出来ぬ程である。彼等はこのようにして何マイルも何マイルも走り、而も疲れたらしい容子もしないということである(図6)。乗客をはこぶに際して、彼等は決して歩かず、長い、ゆすぶる様な歩調で走るのである。脛(すね)も足もむき出しで、如何に太陽が熱くても、たいていは無帽である。時として頭に布切れをくるりとまきつけ、薄い木綿でつくった藍色の短い上衣を着、腰のまわりに下帯を結ぶ。冬になってもこれ以上あたたかい服装をしないらしい。涼しいには違いなかろうが、我々の目には変に見える。それにしても人力車に乗ることの面白さ! 狭い街路を全速力で走って行くと、簡単な住宅の奇異な点、人々、衣服、店、女や子供や老人や男の子の何百人――これ等すべてが我々に、かつて見た扇子に措かれた絵を思い起させた。我々はその絵を誇張したものと思ったものである。人力車に乗ることは絶間なき愉快である。身に感じるのは静かな上下動だけである。速度は中々大きい。馬の代りをなすものは決して狂奔しない。止っている時には、彼は荷物の番をする。私が最初に長い間のった人力車の車夫はこんな風に(図7)見えた。頭のてっぺんは剃ってあり、油を塗った小さな丁髷(ちょんまげ)が毛の無い場所のまん中にくっついていた。頭の周囲には白い布が捲きつけてあった。

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図―6


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図―7

[やぶちゃん注:「屈辱」この前後の原文は実は一文になっていて、“I, for one, felt a sense of humiliation in being dragged by a man and should have felt less embarrassed if I could have got out and exchanged places with the naked-legged human.”と、やや複雑である。さて、この「屈辱」に相当するのは“a sense of humiliation”で、確かにこの語は、「はずかしめられること」「屈辱」「不面目」の謂いでは。しかし乍ら、人に曳かれることに「屈辱感を覚えた」というよりは、ここはずっと後の大正一一(一九二二)年にアインシュタインが来日した際、人力車を『非人道的な奴隷労働』として乗車を拒否した気持ちと同じく、人間を馬のように用いた乗物に乗ること、人間が曳く乗物に乗車するということに対しての――「面目ないという感じ」「抵抗感」――を持ったという意味である。私には「屈辱」という訳語はちょっと戴けないという感じがするのである。]

明恵上人夢記 21

21
同十七日の夜、彼の人を祈るべき狀を聞く。其の夜は一定の返事を言はずして還る。將に此の事を辭せむとす。其の夜、夢に云はく、同行五六人とともに淸水寺へ參らむと欲す。其の道に、階を刻める有りて、階之際(きは)ちぎれたり。其の間三四尺許り、踊り越えて到りぬべし。然るに、心に少しく怖畏有り。心に思はく、前々五六度、此の道を過ぎて參れり。同じき事也と思ひて、怖畏して參らずと云々。

[やぶちゃん注:この文は実は改行せず、前の「20」に引き続いて書かれており、また、次の「22」もやはり引き続き書かれてある。
「同十七日」元久二(一二〇五)年十月十六日。この前書きの事実記載は、やはり前の「19」及び「20」の夢の前に記された丹波殿関連の事実記事と関連すると思われるが、依然としてその内容は不明である。
「彼人」丹波殿が誰か(高貴な名を記すことが憚られたか)の何かについての祈禱を明恵に依頼したものか。どうもきな臭い。
「三四尺許り」九十センチメートルから一メートル二十センチほど。]

■やぶちゃん現代語訳

21
 同十七日の夜、かの人についての祈禱を修することについての申し入れを聞くだけは聞く。その夜ははっきりとした返事を口にすることなくして帰る。私としてはこの修法については辞退しようと考えた。その夜、見た夢。
「同行の五、六人とともに清水寺へ参詣しようとした。その道すがら、新たに階(きざはし)を刻み掘った場所があったが、そこを登って行くと、ある高みでその階の端がすっぱりと千切れてなくなって崖となっているのであった。少し向こうに続く階があるにはある。その割れ目の間は三、四尺許りであったが、跳躍して越えれば届く距離ではあった。然るに、心の中に少しく怖畏の感が過(よ)ぎった。心中にて思うことには、
『……以前にも五、六度、この道を通って清水には参詣してしまっているではないか。今更、参ったとて、同じことだ。……』
という思いの中で、結局、怖畏するまま、遂に私だけは清水を参詣せず、そこから帰ってしまったのであった。……

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 21 先哲の詩(3)

  游江島二首   菅道伯

孤島如煙接海洲。

曾傳神女此天遊。

龍宮春鎖濤聲靜。

仙窟晝開蜃氣浮。

須有琵琶彈古曲。

欲將杯酒寄風流。

紫霞紅日堪乘興。

不信雨雲朝暮愁。

 

扁舟縹渺到蓬瀛。

雪鎖上宮天路淸。

濡足怒濤觀日出。

停杯危石覺雲生。

龍淵夜識金銀氣。

神窟曉聞鷄犬聲。

大藥人閒求非易。

幾時此地學仙成。

 

[やぶちゃん注:作者「菅道伯」は前田純陽なる人物で、彼は延享五(一七四八)年刊朝鮮通信使唱和集の「対麗筆語」の作者で正徳二(一七一二)年生であることしか調べ得なかった。識者の御教授を乞う。二首目の「蓬瀛」は底本「逢瀛」。国立国会図書館の近代デジタルライブラリーの「相模國風土記」の「藝文部」で訂した。

 

  江島に游ぶ 二首   菅道伯

孤島 煙りのごとく 海洲に接す

曾て傳ふ 神女 此の天に遊ぶと

龍宮 春 鎖して 濤聲(たうせい) 靜かなり

仙窟 晝 開きて 蜃氣 浮く

須らく琵琶をして古曲を彈く有るべく

將に杯酒を風流に寄せんと欲す

紫霞 紅日 興に乘るに堪へたり

信ぜず 雨雲(ううん) 朝暮の愁ひ

 

扁舟(へんしふ) 縹渺(へうべう) 蓬瀛(ほうえい)に到り

雪は鎖す 上宮 天路 淸し

足を濡して 怒濤 日出(につしゆつ)を觀る

杯を停めて 危石 雲生(うんじやう)を覺へ

龍淵 夜識(やしき)す 金銀の氣

神窟 曉聞(げうぶん)す 鷄犬(けいけん)の聲

大藥 人閒(じんかん) 求むに易く非ず

幾時(いくとき)にか 此の地 仙を學びて成れる

 

「蓬瀛」中国で神山とされた蓬莱と瀛州(えいじゅう/えいしゅう)。]

耳嚢 巻之七 地中奇物の事

 地中奇物の事

 文化貮、本所邊去(さ)る何某の下屋しきにて、地を掘(ほり)て奇物を得たり。其太さ貮三寸廻(まは)り、長さ又四五寸あり。彫附有(ほりつけあり)、王瑛(わうえい)と記す。いか成(なる)品哉(や)、更に知る者なし。一説には黄金也といへ共、其證不慥成(たしかならず)、聞(きく)儘爰に記(しるす)。

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。十条前の「屋鋪内在奇崖事」は土中から奇体な家が出現する話で、遠く連関しているような印象は与える。
・「文化貮」西暦一八〇五年。「卷之七」の執筆推定下限は文化三年夏であるから、比較的ホットな噂。
・「太さ貮三寸廻り、長さ又四五寸あり」金色をした円柱状物体であったらしい。円柱の周囲は約六~九センチメートル、長さは約一二~一五センチメートル。真鍮製の文鎮か?……それとも、つい、エロい私は前条に牽強付会致いて……もしや……張形だったりして!……
・「王瑛」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『王渶』とする。孰れも不詳。

■やぶちゃん現代語訳

 地中の奇物の事

 文化二年、本所辺りのさる御仁の下屋敷にて地面を掘って御座ったところ、奇しい物が出土したと申す。
 円柱状の物体であって、その胴部分の円周は凡そ二、三寸程、長さはまた四、五寸はあろうとういう代物で御座った。
 更によく見ると表面に彫り附けた陰刻が御座って、
――王瑛(おうえい)――
と記しあったと申す。
 奇体なる形・色・重量にて、如何なる品物であるか、凡そ、知る者は、これ、御座らなんだ。
 一説に黄金であると申す者も御座ったれど、それも確かな証言ではなく、その後の噂もとんと聴かずなった。
 取り敢えずは当時聴いたままに、ここに記しおくことと致す。

寂しさや華のあたりのあすならふ 芭蕉 萩原朔太郎 (評釈)

 

 

 寂しさや華のあたりのあすならふ 

 

「あすは檜の木とかや、谷の老木のいへることあり。きのふは夢と過てあすは未だ來たらず。生前一樽の樂しみの外、明日は明日と言ひ暮して、終に賢者のそしりを受けぬ。」といふ前書がついてる。芭蕉俳句の一風情である幽玄の侘しをりが、新古今體の抒情味で床しく歌はれて居る。

 

[やぶちゃん注:『コギト』第四十二号・昭和一〇(一九三五)年十一月号に掲載された「芭蕉私見」の中の評釈の一つ。昭和一一(一九三六)年第一書房刊「鄕愁の詩人與謝蕪村」の巻末に配された「附錄 芭蕉私見」では、以下のように評釈が全く異なっている。 

 

   寂しさや華のあたりのあすならふ 

 

「あすは檜の木とかや、谷の老木のいへることあり。きのふは夢と過ぎてあすは未だ來きたらず。生前一樽の樂しみの外、明日は明日はと言ひ暮して、終に賢者のそしりを受けぬ。」という前書がついてる。初春の空に淡く咲くてふ、白夢のような侘しい花。それは目的もなく歸趨もない、人生の虛無と果敢なさを表象して居るものではないか。しかも季節は春であり、空には小鳥が鳴いてるのである。

 

 新古今集の和歌は、亡び行く公卿階級の悲哀と、その虛無的厭世感の底で歔欷してゐるところの、艷に妖しく媚めかしいエロチシズムとを、暮春の空に匂ふ霞のように、不思議なデカダンスの交響樂で匂はせてゐる。卽ち史家の所謂「幽玄體」なるものであるが、芭蕉は新古今集を深く學んで、巧みにこの幽玄體を自家に取り入れ、彼の俳句における特殊なリリシズムを創造した。前の「山吹や」の句も、同樣にその芭蕉幽玄體の一つである。 

 

文中の『前の「山吹や」の句』は、

 

 山吹や笠にさすべき枝の形

 

を指す。この評釈は既に出した。]

 

 

霧・ワルツ・ぎんがみ――秋冷羌笛賦 「ひげ・いてふ」 の歌 五首 中島敦

    (以下五首 ひげ・いてふの歌)

 

我も見つ人にも告げむ元街の增德院の二本銀杏(ふたもといてふ)

 

ユウゴオが鬚にかも似る冬枯の增德院の二本銀杏

 

冬來れば二本銀杏鬚めきてそゝけ立ちぬと人に告げこそ

 

朝づく日今を射し來(く)と大銀杏黄金の砂を空に息吹くも

 

朝日子に黄に燃え烟る銀杏の葉背後(そがひ)の海の靑は眼に沁む

 

[やぶちゃん注:「增德院」かつて元町一丁目現在の元町プラザの位置にあった真言宗準別格本山増徳院。現在、地図上では「増徳院元町薬師堂」とあるが、これは旧寺地に昭和四七(一九七二)年に再建された薬師堂である。増徳院は九世紀初頭大同年間の創立と伝えられる(記録は残っていない)古くから元町の中心としてあり、元町自身がこの寺の門前町的存在として発展した。震災後、昭和三(一九二八)年に南区平楽に移築再建され、第二次世界大戦の戦災を経て、その殆んどが平楽へ移ってしまった(ここまでは主に初がつお氏のブログ「竹輪の芯」の増徳院、元町薬師を参照させて戴いた)。この寺にはどこからでも見える二本の大銀杏があったが、震災で寺全体が壊滅的な被害を受けた際に、この銀杏も深刻なダメージを受けたと郷土史関連の本に書かれてあり(にしてもこれらの中島の歌は明らかに昭和八(一九三三)年(横浜高等女学校奉職の年。なお、彼が本格的に横浜市中区本郷町に一家を構えたのは昭和一一(一九三六)年三月初旬である)から同一二(一九三七)年の間で詠まれたもので、その時には未だ黄葉した葉を茂らせていたことが分かる)、現存もしないようであるから、恐らく中島が本歌を詠んだ後に立ち枯れたか、第二次世界大戦の空襲などによって焼失したものかと考えられる。この「鬚銀杏」(特にその消失)について識者の御教授を更に乞うものである。因みに現在我々が外人墓地として認識している場所は、元来はこの増徳院の境内墓地で、平成の初期までは増徳院による供養が実際に行われていた(ここはウィキ横浜外国墓地」による)。]

夜の時 大手拓次

 夜  の  時

 

ちろ そろ ちろそろ

 

そろ そろ そろ

 

そる そる そる

 

  ちろちろちろ

 

され され されされされされされ

 

びるびるびるびる びる

 

[やぶちゃん注:音声詩若しくは表音詩として活字や字配が有意に意味を持っていると考え、明朝太字とし、なるべく原本の印象に近い復元を行ってみた。]

鬼城句集 夏之部 菖蒲

菖蒲    菖蒲かけて雀の這入る庇かな

[やぶちゃん注:「菖蒲かけて」の「菖蒲」は「あやめ」と訓ずる。「軒(のき)の菖蒲(あやめ)」、端午の節句に軒に菖蒲飾りを施す景を言う。疫病除けの呪(まじな)いとして軒先に刺し垂らす。滅多に見ることがなくなった。京男ブログ京男雑記帳の写真で京のその風情を味わえる。]

2013/08/27

遊園地にて 萩原朔太郎 (初出形)

 遊園地にて

遊園地(ルナパーク)の午後なりき
樂隊は空に轟(とゞろ)き
風船(ふうせん)は群集の上を飛び交(か)へり。
今日の日曜(にちえう)を此所に來りて
君と模擬飛行機の座席(ざせき)に乘れど
側(かた)へに思惟(しい)するものは寂しきなり。
なになれば優しき瞳(ひとみ)に
君の憂愁(いうしう)をたたえ給ふか。
見(み)よ この廻轉する機械(きかい)の向ふに
一つの地平(ちへい)は高く揚(あが)り、また傾き、沈(しづ)み行かんとす。
われ既にこれを見(み)たり
いかんぞ人生(じんせい)を展開せざらむ。
今日(こんにち)の果敢なき憂愁を捨(す)て
飛べよかし! 飛(と)べよかし!

明(あか)るき五月の外光の中(うち)
嬉(き)々たる群集(ぐんしふ)の中に混りて
二人(ふたり)模擬飛行機の座席にのれど
側(かた)へに思惟するものは寂(さび)しきなり。

[やぶちゃん注:『若草』第七巻第七号・昭和六(一九三一)年七月号に掲載された。「思惟」のルビ「しい」、「優秀をたたえ給ふか」の「え」、「廻轉」の「廻」(正字でない)はママ。後の昭和九(一九三四)年第一書房刊「氷島」に所収されるが、その際、以下のように改稿されている。

 遊園地(るなぱあく)にて

遊園地(るなぱあく)の午後なりき
樂隊は空に轟き
廻る轉木馬の目まぐるしく
艶めく紅(べに)のごむ風船
群集の上を飛び行けり。

今日の日曜を此所に來りて
われら模擬飛行機の座席に乘れど
側へに思惟するものは寂しきなり。
なになれば君が瞳孔(ひとみ)に
やさしき憂愁をたたえ給ふか。
座席に肩を寄りそひて
接吻(きす)するみ手を借したまへや。

見よこの飛翔する空の向ふに
一つの地平は高く揚り また傾き 低く沈み行かんとす。
暮春に迫る落日の前
われら既にこれを見たり
いかんぞ人生を展開せざらむ。
今日の果敢なき憂愁を捨て
飛べよかし! 飛べよかし!

明るき四月の外光の中
嬉々たる群集の中に混りて
ふたり模擬飛行機の座席に乘れど
君の圓舞曲(わるつ)は遠くして
側へに思惟するものは寂しきなり。

「廻轉木馬」の「廻」は(えんにょう)の上の「回」は「囘」で正字であるが、ブログでは表示出来ない。「たたえ」の「え」はママ。
 所謂、詩集「氷島」に相応しい絶対零度まで詩想を冷却しているのは、寧ろ初出のように私には感じられる。萩原朔太郎は「自作詩の改作について」で自身、改作の悪弊を語っているが、彼自身の改作もご多聞に洩れず、私は改悪されたものの方が多いという気がしている。]

栂尾明恵上人伝記 60 異形の者の笠置の解脱上人を訪なふ語(こと)

 或る時、上人仰せられき。さる比、笠置(かさぎ)の解脱上人來臨して、法談の次に語りて云はく、或る夜、夢にみる事あり。秋の夜の明に晴たる心地して、人あまた來る音にて、草庵の窓を叩き頻に謁(えつ)せんことを望む。仍て扉(とびら)を開いて出で向ふに、異類異形(いるゐいぎやう)の者共其の數あり。其の中にさるべき仁(じん)と覺しくて、雪(ゆき)頭(かしら)を埋(うづ)み霜(しも)眉(まゆ)を覆ひたる老僧、香染の衣の樣なる物を上に着て、面貌(めんめう)ことがら此の世の人とも覺えぬ樣したる體(てい)にて、進みよりて語りて云はく、定めて聞き及び給ふらん、我は是、當初(そのかみ)何某(なにがし)と云ひし者なり、佛法に於ては隨分行學(ぎやうがく)年(とし)積(つも)りて、深理(じんり)を究めたる由を存じき。されば其の比天下に肩を並ぶる輩無かりき。皆是れ世の知る處なり。然るに只此の大乘の本源を究めん事を先として、強(あながち)に波羅提木叉(はらだいもくしや)を專にすることなかりき。仍て破戒穢戒(はかいゑかい)の事のみ交りき。之に依りて大乘の深理を究めたりと雖も、人間一生の中には解行(げぎやう)相應せず。先づ破戒の罪の方(はう)重きに依りて魔道に入れり。古より天竺・晨旦(しんたん)・本朝、世界々々に名を得たる貴僧高僧達、此の戒力なき人、一劫(こふ)二劫乃至三四劫魔道に落ちたる類勝げて計るべからず。此の魔道の習ひ落ちと落ちては急度(きつと)免れ出づること難し。我は二劫に此の業(ごふ)を果(はた)すべきなり。入滅の後、人間の五百餘年に及べば、遙かに久しき心地し給ふらん、されども其の五六百年を萬億重ねても、猶其の一劫にも及ぶべからず。况んや二劫を過ぐべき末を思ふに端(あぢき)なき作法なり。毘婆尸佛(びばしぶつ)・狗留孫佛(くるそんぶつ)なんどの時、此の道に落ちたる僧共だに、猶行末遙(はるか)にてつゞき居たり。されば、其の深理を悟りて軈(やが)て其の任に相應してだにあらば、かゝる難はあるまじけれども、さる機は佛在世にだに希なることなり。まして滅後の比丘に有りがたし。多くは甚深の妙義を悟ると云へども、行は成し難く命は終へ易し。仍て人間一生の中に相應することなければ、先づ破戒無慙(むざん)の罪に引かれて魔道に入るなり。魔道に入りぬれば速に浮かぶことなければ、多劫の間人天に出でて衆生利益の方便をも失ひ、自身所受の苦患(くげん)をも救ふことなし。是れ世尊の掟(おきて)にも叶はず菩薩の願をも失へり。されば、大乘修行の輩戒門(かいもん)を次(つぎ)にすることなかれ。何(いか)にも何(いか)にも習ひ勵むべし。仍て佛の遺教(ゆゐきやう)にも此の戒に依因(よりよ)りて諸の禪定及び滅苦(めつく)の智惠を生ずることを得、是の故に比丘當に淨戒を持つべし。又云はく、若し淨戒なければ諸善功德(しよぜんくどく)皆生ずることを得ず。又云はく我が滅後に於いて當に波羅提木叉を尊重し珍敬(ちんぎやう)すべし。此は則ち是れ汝が大師なり、若し我れ世に住するとも此に異なることなけんと云云。然るに中古より已來人の機(き)劣(れつ)にして心拙(つたな)く、戒を守ること疎(おろそか)なり。仍てさしも世に崇敬(そうきやう)せられし僧侶、多く此の道に入るなり。我等大乘の甚深(じんじん)第一義を明らめしに依りて、此の業をつくのひはてゝは佛果を證すべしと雖も、多劫の間徒に苦患にのみ沈みて過ぎ行くこと、偏に戒力の闕(か)けたるに依れり。今見るに末世なりと雖も道を修する志深切なる類共あり。此の謬(あやま)りを人間に普(あまね)く示し知らしめたくて、此の庵室に列參(れつさん)せり。後學に傳へ、禁(いまし)め給ふべしとて、是は某、彼は何がしといふを聞くに、古皆名を得たりし僧侶達なり。今は既に佛果にも至りぬらんと思ひし人達の、何(いか)にしてかく成り給ひぬらんと不思議に覺えて、さて何なる御苦しみ共か候と問ひ侍りしかば、或は諸の異類の者來りて、身の肉を食ひ命を奪ふ。其の苦みに堪へずして絶え入りて、暫くありて生るれば又異類現じて、頭(づ)・目(もく)・髓・腦(なう)・手(しゆ)・足(そく)を切り取る時もあり。或時は猛火現じて全身を燒く。是れ則ち殺(せつ)・盜(たう)・婬(いん)の果(はた)す處なり。或は黑白の二鬼(き)現じて、鐵の箸(はし)を以て舌をぬき、或は熱鐵輪(ねつてつりん)を飮ましめて遍身(へんしん)焦(たゞ)れて炭の如くなる時もあり。是れ妄語し又は飮酒(おんじゆ)非時食(ひじじき)の果す處なり。此の如き苦み一日に三度五度、人に隨ひ時に依て樣々替るなりと云ひて、書(かき)消すやうに失せぬと見き。此の事を思ふに是れ實語(じつご)なり。尤も愼むべきことなり。我が朝に鑒眞和尚(がんじんわしやう)唐土より渡り給ひて、專ら此の波羅提木叉を弘(ひろ)め給ひしかば、其の比(ころ)頭(かうべ)をそれる類是を守らずと云ふことなし。面々(めんめん)其の上に宗々をも學(がく)しけれども、今は年を逐ひ日に隨ひてすたれはてゝ、袈裟(けさ)衣(ころも)より始めて跡形(あとかた)もなくなれり。適(たまたま)諸宗を學する者あれども、戒をしれる輩はなし。况や又受持(じゆぢ)する類なし。何を以てか人身を失はざる要路(えうろ)とせん。今は婬酒を犯さゞる法師も希に、五辛(ごしん)・非時食を斷てる僧もなし。此の如く不當不善の振舞を以て、法理を極めたりと云ふとも、魔道に入りなば人天の益もなく。自身の苦をも免れずして、多劫の間徒に送らんこと返す返すも損なるべし。如何にしてか古のまゝに戒門を興行(こうぎやう)すべき方便を廻らさんとぞ申されし。大きに其の謂れありとぞ語り給ひし。
[やぶちゃん注:「解脱上人」法相宗の僧貞慶(じょうけい)。既注済み。
「香染」丁子(ちょうじ)を濃く煎じた汁で染めたもの。黄色味を帯びた薄茶色。それよりもやや濃いものは丁子染めという。
「波羅提木叉」梵語“prātimokṣa”(プラーティモークサ)パーリ語“pātimokkha”(パーティモッカ)の漢訳語で比丘・比丘尼が順守しなくてはならない僧伽(僧集団)内の具足戒(禁則及び規則)及びそれを記した戒本(典籍)。
「一劫」四三億二〇〇〇万年。
「毘婆尸佛」釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した七人の仏陀をいう過去七仏(かこしちぶつ)の一人。最も古の仏陀。古い順に毘婆尸仏・尸棄仏(しきぶつ)・毘舎浮仏(びしゃふぶつ)・倶留孫仏(くるそんぶつ)・倶那含牟尼仏(くなごにぶつ)・迦葉仏(かしょうぶつ)・釈迦仏。
「狗留孫佛」同じく過去七仏の倶留孫仏のこと。]

耳嚢 巻之七 俠女凌男子事

 俠女凌男子事

 

 神田三河町に車引(くるまひき)に又八といへる者、米屋に借り有しに度々米やより丁稚(でつち)抔催促に差越(さしこせ)共(ども)、不相濟(あひすまず)。右米やに仕ふる米舂(こめつき)の大男、我なんなく請取(うけとり)見すべし迚彼(かの)又八方へ至りしに、又八は留守にて女房而已(のみ)ありしが、右米舂勢いに乘じ少し戲れを交(まぢへ)て、女房へ催促なしけるに、右言葉戰(あらそ)ひ女の心に障りしや、右女房ぐつと尻まくり、汝らごときの野郎に非をうたるゝべきや、いわんや汝らに慰まるゝ者にあらず、前借(まへがり)は亭主のもの也、けつでもしてみよと罵られ、流石の大男赤面してしほしほ戻りしと、其隣(となり)の者語りける。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。久々の艶笑譚。米舂き男がからかった艶笑的台詞も記載されているともっと面白かったのだが。

・「俠女凌男子事」岩波版の長谷川氏の読みを参考にすると、「俠女(けふぢよ)事男子(なんし)を凌(しの)ぐ事(こと)」と読む。

・「俠女」勇み肌で粋な姐御(あねご)。「俠」には「御俠」で「おきゃん」(「きゃん」は唐音)、若い女性でも活発で慎みのない者のことやその様をいう用法が、今も生きているのは御存知の通り。俠客滅びて御俠残る、である。

・「神田三河町」ウィキの「三河町」によれば、現在の東京都千代田区内神田一丁目と神田司町二丁目付近及び神田美土代町(みとしろちょう)の一部に当る。町名は徳川家康が入府した際に帯同した三河の下級武士がこの地に移り住んだことに由来する。江戸で最も古い町の一つであり、一丁目から四丁目まであった。後、この一帯は明治に入ってから都市スラム化し、大正一〇(一九二一)年に刊行された「東京市内の細民に関する調査」によると約二千人の細民人口が計上されている。因みに岡本綺堂の「半七捕物帳」では、主人公半七親分は神田の三河町に居を構えているという設定となっている、とある。

・「前借は亭主のもの也、けつでもしてみよ」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『前陰は亭主の物也、穴(けつ)にても仕(し)て見よ』で、あからさまに分かりよく書かれている。即ち、「前の方の陰門は亭主又八(名前もハマっている)のもんだから、後ろの尻(けつ)の穴の方でも、舂(つ)いてみな!」で、借金取りの催促に来た大男の仕事が米舂きというのを連想させて、まっこと、エロい(と感じるのは私がエロいからか)。しかし、如何にもストレート過ぎる嫌いがないでもない。折衷して訳してみた。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 粋な姐御は男を凌ぐという事

 

 神田三河町に、車引きを生業(なりわい)と致いておる、又八と申す者が御座った。

 この者、米屋に大層な借りがあって、たびたび米屋より丁稚なんどを催促に差し越させたけれども、一向に払う気配がない。

 ある時、この米屋に奉公して御座った米舂きの大男、

「儂(あっし)が、難なく、しっかと請け取って参りやしょう!」

と請けがって、かの又八方へと訪ねたところが、又八は留守にて、女房ばかり御座ったと申す。

 されば、その米舂き、旦那のおらぬを、これ幸いと、女と見くびって、調子に乗って、ちょいと卑猥な軽口なんどを交えては、女房へ借金の催促を致いたところが、その言い合いの中で、何やらん、男が口にした言葉が、かの女房の勘に触ったものか、その女、

――グッ!

と尻捲くり致いて、御居処(おいど)を露わに致すと、

――キュッ!

と腰を捻り、米舂き男に餅のようなそれを突き出して、

「――お前(めえ)さん如き輩(やから)に非難される筋合いは、これ、あちきには、ねえワ!

――況や、て前(めえ)らなんぞの粗チンにて、慰まるるような、あちきでもネエ!

――米の前借りは、それ、亭主のヤッたもん!

――この前の穴(ケツ)っぽは亭主のもんじゃて!

――されば!

――それ!

――この、後ろの方(かた)の尻(けつ)の穴(あな)にでも!

――一と舂(つ)きしてみいなッツ!」

と罵られ……流石の大男も……思わず赤面致いて……これ、しおしおと帰って御座ったと申す。……

……さてもこれは、その又八の隣りに住んでおる者が、これ、直(じか)に見聴き致いた、という話で御座った。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 1 モース来日早々「よいとまけ」の唄の洗礼を受く

 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京

 

 サンフランシスコからの航海中のこまかいことや、十七日の航海を済ませて上陸した時のよろこびやは全部省略して、この日記は日本人を最初に見た時から書き始めよう。

M1

図―1

M2

図―2

 

 我々が横浜に投錨した時は、もう暗かった。ホテルに所属する日本風の小舟が我々の乗船に横づけにされ、これに乗客中の数名が乗り移った。この舟というのは、細長い、不細工なしろもので、犢鼻褌(ふんどし)だけを身につけた三人の日本人――小さな、背の低い人たちだが、恐ろしく強く、重いトランクその他の荷物を赤裸の背中にのせて、やすやすと小舟に下した――が、その側面から櫓をあやつるのであった。我々を海岸まで運ぶ二マイルを彼等は物凄い程の元気で漕(こ)いだ。そして、彼らは実に不思議な呻り声をたてた。お互いに調子を揃えて、ヘイ ヘイチャ、ヘイ ヘイ チャというような音をさせ、ときにこの船唄(若(も)しこれが船唄であるのならば)を変化させる。彼等は、船を漕ぐのと同じ程度の力を籠めて呻る。彼等が発する雑音は、こみ入った、ぜいぜいいう、汽機の排出に似ていた。私は彼等が櫓の一と押しごとに費す激しい気力に心から同情した。而(しか)彼等は二マイルを一度も休まず漕ぎ続けたのである。この小舟には側面から漕ぐ為の、面白い設備がしてあった。図は船ばたにしっかりと置かれ、かつ数インチつき出した横木を示している(図1)。櫓にある瘤(こぶ)が、この横木の端の穴にぴったりはまる。櫓(図2)は固く縛りつけられた二つの部分から成り、重く、そして見た所如何にも取扱いにくそうである。舟の方で一人が漕ぎ、反対の側で二人が漕ぐ。その二人の中の一人は同時に舵をとるのであった。我々が岸に近づくと、舟子の一人が「人力車」「人力車」と呼んだ。すぐに誰かが海岸からこれに応じた。これは人の力によって引かれる二輪車を呼んだのである。

[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によると、モースを乗せてサンフランシスコを五月二十九日に出発した最新鋭の蒸気船“City of Tokio”号(五〇七二トン)は、出帆から二十一日後の明治一〇(一八七七)年六月十八日(月曜日)の午前零時を少し回った頃に東京湾に入港した(十七日と記載するものもあるが磯野先生の考証によってかく断定出来る)が、また同船は推定では『霧のため陸にあまり近寄るのが危険だった』ためか、『かなり沖に停泊したらしい』とあり、ここでの描写の意味が腑に落ちる。それにしても深夜の暗い海上にあって、美事に和船の構造を微細に観察しているモースには、もう、既に脱帽である!

「犢鼻褌」ここは残念ながら原文は“a loin-cloth”で“hunndosi”ではない。“loin-cloth”の“loin”は腰(複数形なら陰部)で下帯・腰巻(breechcloth)の意。

「二マイル」約3・22キロメートル。以下、度量衡換算は煩瑣を厭わず、なるべく換算して示すつもりである。

「ヘイ ヘイチャ、ヘイ ヘイ チャ」原文は“hei hei cha, hei hei cha”とあるから、「ヘイ ヘイ チャ、ヘイ ヘイ チャ」が正しい。

ぜいぜいいう」冒頭注で示したように太字部分は底本では傍点「ヽ」であるが、ここは原文の全体を示すと“The noise they made sounded like the exhaust of some compound and wheezy engine.”である。“wheezy”は形容詞で、ぜいぜいいう音の・呼吸困難な、という意味であるが、原本のPDF画像を視認しても、特に傍点に相当するような記号や字体変化はないから、石川氏による独自の注意表記記号であることが分かる。以下、傍点部(本テクストでは太字)は特に問題がある場合以外は、この注を略す。

「数インチ」原文“several inches”。1インチは2・54センチメートルで、英語の“several”も、漠然とした3以上で5乃至6を指す語であるから、凡そ8センチメートル弱から15センチメートル強というところ。]

 

 小舟はやっと岸に着いた。私は叫び度い位うれしくなって――まったく私は小声で叫んだが――日本の海岸に飛び上った。税関の役人たちが我々の荷物を調べるために、落着き払ってやって来た。純白の制帽の下に黒い頭髪が奇妙に見える、小さな日本の人達である。我々は海岸に沿うた道を、暗黒の中へ元気よく進んだ。我々の着きようが遅かったので、ホテルはいささか混雑し、日本人の雇人達が我々の部屋を準備するために右往左往した。やがて床についた我々は、境遇の新奇さと、早く朝の光を見度いという熱心さとの為に、恰度(ちょうど)独立記念日の朝の愉快さを期待する男の子たちみたいに、殆ど眠ることが出来なかった。

[やぶちゃん注:この時、モースが止宿したのは、居留地二〇番(現在の山下橋の西南の脇、「横浜人形の家」の辺り)にあった、当時の横浜で最大のホテル「グランドホテル」であった。明治六(一八七三)年に開設されたばかりであった(「横浜近代建築アーカイブクラブ」の「YOKOHAMA GRAND HOTELで画像と詳しい解説が読める)磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、モースは六月二十八日朝まで同ホテルに滞在、ここを拠点に以下に見るように精力的に行動している。]

 


M3

図―3

 

 私の三十九回の誕生日である。ホテルの窓から港内に集まった各国の軍艦や、この国特有の奇妙な小舟や、戎克(ジャンク)や、その他海と舟とを除いては、すべてが新しく珍しい景色を眺めた時、何という歓喜の世界が突然私の前に展開されたことであろう。我々の一角には、田舎から流れてくる運河があり、この狭い水路を実に面白い形をした小舟が往来する。舟夫たちは一生懸命に働きながら、奇妙な船唄を歌う。道を行く人々は極めて僅か着物をきている。各種の品物を持っている者もある。たいていの人は、粗末な、木製のはき物をはいているが、これがまた固い道路の上で不思議な、よく響く音を立てる。このはき物には長方形の木片に細い二枚の木片横に取りつけた物と、木の境から彫った物との二種類があった。第3図は人品いやしからぬ老婦人の足を写生したものであるが、このように太い紐がついていて、その前方が拇指(おやゆび)とその次の指との間に入るように工夫されている。人の通る道路には――歩道というものはないので――木製のはき物と細い人力車の轍(わだち)とが、面白い跡をのこしている。下駄や草履には色々な種類がある。階段のあたりに置かれる麦藁でつくつた小奇麗なのもあれば、また非常に粗末な藁製の、一足一セントもしないようなのもある。これ等は最も貧乏な人達がはくので、時々使い古しが道路に棄ててあるのを見る。

[やぶちゃん注:「私の三十九回の誕生日である」モースはメイン州ポートランドに一八三八年六月十八日に生まれた(因みに本邦の旧暦では天保九年閏四月二十六日で、前年の天保八年八月には大塩平八郎の乱やモリソン号事件が、翌天保一〇年には蛮社の獄が起こっている)。

「戎克(ジャンク)」原文“junks”。“junk”は中国における船舶の様式の一つの外国人の呼称で、中国語の「船(チュアン)」が転訛したマライ語の“jōng”、更にそれが転訛したスペイン語・ポルトガル語の“junco”に由来するとされ、確かに漢字では「戎克」と表記するが、これは当て字であって、中国語では「大民船」又は単に「帆船」としか書かない(ウィキの「ジャンク(船)に拠った)。ここはモースが「小舟」と対比して示しているところから、和船の弁才船(べざいせん)か五大力船(ごだいりきせん)であろう。

「道を行く人々は極めて僅か着物をきている。」原文は“People were going by clothed in the scantiest garments,”。「僅かに」の「に」脱字が疑われる。「道行く人々は如何にも薄い、それも一枚ほどにしか見えない僅かな衣服を纏っているだけである(に見える)」という意味であろう。

「階段のあたりに置かれる麦藁でつくつた小奇麗なのもあれば、」原文は“neat ones made of straw lying about the stairways,”。英語の知識のない私が言うのも何であるが、この“stairways”というのは、ホテルの階上(屋上)若しくは段差をもって張り出したバルコニー等を指しているのではなかろうか? そこに主に日本人の来客向け若しくは従業員用に置かれたものを指しているのではなかろうか? 識者の御教授を乞うものである。]

 


M4


図―4

 

 運河の入口に新しい海堤が築かれつつあった。不思議な人間の代打機械があり、何時間見ても興味がつきない。足場は藁繩でくくりつけてある。働いている人達は殆ど裸体に近く、殊に一人の男は、犢鼻褌以外に何も身につけていない。代打機械は面白く出来ていた。第4図はそれを示しているが、重い錘(おもり)が長い竿に取りつけてあって、足場の横板に坐る男がこの竿を塩梅(あんばい)し、他の人々は下の錘に結びつけられ、上方の滑車を通っている所の繩を引っ張るのである。この繩を引く人は八人で円陣をなしていたが、私の写生図は簡明にする為四人にしておいた。変な、単調な歌が唄われ、一節の終りに揃って繩を引き、そこで突然繩をゆるめるので、錘はドサンと音をさせて墜ちる。すこしも錘をあげる努力をしないで歌を唄うのは、まこと莫迦(ばか)らしい時間の浪費のように思われた。時間の十分の九は唄歌に費されるのであった。

[やぶちゃん注:何と! モースは来日早々、「海堤」(原文“sea wall”:護岸壁・堤防・防潮壁。)の建築現場の地固めで、大勢で重い槌(つち)を滑車で上げ下ろしする際の、かの「よいとまけ」の歌の洗礼を受けていた!]

霧・ワルツ・ぎんがみ――秋冷羌笛賦  踊り子の歌 九首 中島敦

 霧・ワルツ・ぎんがみ

    ――秋冷羌笛賦――

[やぶちゃん注:「羌笛」「きやうてき(きょうてき)」と読む。古代中国の西方の異民族である西羌人の笛及びその音を指す。グーグル画像検羌笛」で独特の形状が、こちらの YouTube 動画で実際の音色を聴くことが出来る。

 以下の序は底本では以下の一行二十四字で下インデント。]

 

 鬼神をもあはれと思はすると、いにしへ人の言ひけむ三十一文字と、な思ひ給ひそ。これはこれ、眼碧き紅毛人が秋の宵の一ときをハヷナふかしつゝ卓の上にもてあそぶてふトラムプの、「三十一(サーチイワン)」。首尾良く字數が三十一に近づきましたらば、御手拍子、御喝采の程をと、先づはいさゝか口上めきたれど。

[やぶちゃん注:「三十一」トランプ・ゲーム“thirty-one”。カードに点数が与えられ、合計が三十一に近い得点を取った者が勝つというもの。]

 

    (以下九首 踊り子の歌)

 

あしびきの山の井の店に踊り子が縞のショールを買ひにけるかも

 

[やぶちゃん注:単なる思い付きであるが、「山の井」はショール・スカーフを扱う横浜元町辺りの店の名ではあるまいか? ご存知の通り、スカーフ・ショール・ストールは横浜の地場産業で横浜スカーフと言えばかつては世界に通用したトップ・ブランドであった。]

 

踊り子は縞のショールを買ひてけりあはれ今年も秋ぞ去(い)ぬめる

 

夕さればルムバよくする踊り子の亞麻色の髮に秋の風吹く

 

シュトラウスのワルツをどれば踊り子の髮はさ搖れつゆたにたゆたに

 

眺めつゝ寂しきものか眉描きし霧の夜頃の踊り子の顏

 

手にとれば薄し冷(つめ)たし柔かし生毛ほのけき踊り子の耳

 

亞爾然丁(あるぜんちん)のタンゴなるらしキャヷレエの窓より洩るゝこの小夜更(さよふ)けに

 

浮かれ男に我はあらねど小夜ふけてブルウス聞けば心躍るも

 

挾み消しつ灰皿に置きさて立ちぬその金口に殘る口紅(べに)はも

卵の月 大手拓次

 卵の月

そよかぜよ そよかぜよ、
わたしはあをいはねの鳥、
みづはながれ、
そよかぜはむねをあたためる。
この しつとりとした六月の日は
ものをふくらめ こころよくたたき、
まつしろい卵をうむ。
そよかぜのしめつたかほも
なつかしく心をおかし、
まつしろい卵のはだのなめらかなかがやき、
卵よ 卵よ
あをいはねをふるはして卵をながめる鳥、
まつしろ 卵よ ふくらめ ふくらめ、
はれた日に その肌をひらひらとふくらませよ。

[やぶちゃん注:「おかし」はママ。「日本詩人愛唱歌集 詩と音楽を愛する人のためのデータベース」内の「藍色の蟇」(白鳳社版「大手拓次全集」の第一巻及び第二巻)では、

   卵の月

そよかぜよ そよかぜよ、
わたしはあをいはねの鳥、
みづはながれ、
そよかぜはむねをあたためる。
この しつとりとした六月の日は
ものをふくらめ こころよくたたき、
まつしろい卵をうむ。
そよかぜのしめつたかほも
なつかしく心ををかし、
まつしろい卵のはだのなめらかなかがやき、
卵よ 卵よ
あをいはねをふるはして卵をながめる鳥、
まつしろい卵よ ふくらめ ふくらめ、
はれた日に その肌をひらひらとふくらませよ。

と「おかし」が正しく「をかし」と表記されている上、十三業行目も「まつしろ 卵よ」ではなく、「まつしろい卵よ」となっており、ここも七行目の「まつしろい卵をうむ。」で有意な休止が入った後、十一行目以降総てが呼びかけと命令形に雪崩れ込む構造からも、「まつしろ 卵よ」という呼びかけはリズムを崩すように思われ、脱字の可能性が高いように思われる。諸本に本詩は掲載されておらず、白鳳社版全集を所持していないため、私個人では今は校合不能である。]

鬼城句集 夏之部 栗の花

栗の花   蠶飼して夜明くる家屋栗の花

[やぶちゃん注:「蠶飼」は蚕飼と同じで「こがひ(こがい)」と読む。単独では春の季語。]

       ふきかへて栗の花散る藁家かな

2013/08/26

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳)  緒言

 

     緒  言

 

 私が最初日本を訪れた目的は単に日本の近海に産する腕足類の各種を研究するだけであった。それで、江ノ島に設けた小さな実験所で仕事をしている内に、私は文部省から東京の帝国大学で動物学の講座を受持つ可く招聘された。殆ど四年日本にいた間、私は国へ送る手紙の重複を避ける為に、毎日日記をつけた。私の滞在の一期限は、後になって発表してもよいと思われた題目に関する記録が出来上らぬ内に、終って了った。が、これは特殊な性質を持っていたのである。即ち住宅及びそれに関係した諸事物の覚え書きや写生図だった。これ等の備忘録は私の著書『日本の家庭及びその周囲』――“Japanese Homes and Their Surroundigs”の材料となったのである。この理由で、本書には、この前著に出ている写生図の少数を再び使用した以外、家庭住宅等に関する記述は極めて僅かしか出て来ない。また私は私が特に興味を持っている問題以外に就ては、記録しようとも、資料を蒐集しようとも努めなかった。日本の宗教――(仏教、神道)――神話、民話等に大して興味を持たぬ私は、これ等を一向研究しなかった。また地理にも興味を持っていないので、横切った川の名前も通過した地域の名も碌(ろく)に覚えなかった。マレー、サトウ等が著した優秀な案内書や、近くは、ホートン・ミフリン会社が出版したテリーの面白い案内書のおかげで、私は私が施行した都邑(とゆう)に於(おけ)る無数の興味ある事物に言及さえもしないで済んだ。これ等の案内書には、このような事柄が実に詳しく書いてあるからである。

[やぶちゃん注:モース来日までの経緯やその動機については磯野直秀先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」(有隣堂昭和六二(一九八七)年刊)の第一部で実に七章を費やされてお書きになっておられる。これは先生が一般向けに書かれた評論の中ではすこぶる附きで面白い(と私は感じる)本であり、本テクストの注でも多用させて戴いているが、私は先生の著作権を侵すつもりは毛頭ないし、当該パートの精緻な考証の美味しい部分だけをコンパクトに纏めること自体が憚られる。是非、当該書をお読み戴きたい。

「腕足類」冠輪動物上門腕足動物門 Brachiopoda に属する、二枚の殻を持つ海産の底生無脊椎動物。腕足綱無関節亜綱舌殻(シャミセンガイ/リンギュラ)目シャミセンガイ科シャミセンガイ属オオシャミセンガイ Lingula adamsi やミドリシャミセンガイ Lingula anatina などのシャミセンガイ類や、頂殻(イカリチョウチン)目イカリチョウチン Craniscus japonicas 、有関節亜綱穿殻目穿殻亜目テレブラツラ科シロチョウチンホウズキガイ Gryphus stearnsi や穿殻亜目カンセロチリス科タテスジチョウチンガイ Terebratulina japonica などが代表種である(何故か Terebratulina 属はカンセロチリス科であってテレブラツラ科ではない。分類タクソン類は保育社平成四(一九九二)年刊の西村三郎編著「原色検索日本海岸動物図鑑Ⅰ」に拠った)。一見、二枚貝に似ている海産生物であるが、体制は大きく異なっており、貝類を含む軟体動物門とは全く近縁性のない生物である。化石ではカンブリア紀に出現し、古生代を通じて繁栄したグループであるが、その後多様性は減少し、現生種数は比較的少ない。門の学名“Brachiopoda”(ブランキオポダ)はギリシャ語の“brachium”(腕)+“poda”(足)で、属名“Lingulida”(リングラ)は「小さな舌」の、“Craniscus”(クラニスクス)は「小さな頭蓋」の、“Gryphus”(グリフス)は「鉤鼻の」、“Terebratulina”(テレブラトゥリナ)は「孔を穿つ小さなもの」の意である(学名語源は主に荒俣宏「世界大博物図鑑別巻2 海産無脊椎動物」(平凡社一九九四年刊)の「シャミセンガイ」の項に拠った)。以下、ウィキの「腕足動物」から引用する。『腕足動物は真体腔を持つ左右相称動物』で、斧足類(二枚貝)のように二枚の殻を持つが、斧足類の殻が体の左右にあるのに対し、『腕足動物の殻は背腹にあるとされている。殻の成分は分類群によって異なり、有関節類と一部の無関節類は炭酸カルシウム、他はキチン質性のリン酸カルシウムを主成分とする。それぞれの殻は左右対称だが、背側の殻と腹側の殻はかたちが異なる。2枚の殻は、有関節類では蝶番によって繋がるが、無関節類は蝶番を持たず、殻は筋肉で繋がる』。殻長は5センチメートル前後のものが多く、『腹殻の後端から肉茎が伸びる。肉茎は体壁が伸びてできたもので、無関節類では体腔や筋肉を含み、伸縮運動をするが、有関節類の肉茎はそれらを欠き、運動の役には立たない。種によっては肉茎の先端に突起があり、海底に固着するときに用いられる』が、種によってはこの『肉茎を欠く種もいる』。『殻は外套膜から分泌されてできる。外套膜は殻の内側を覆っていて、殻のなかの外套膜に覆われた空間、すなわち外套腔を形成する。外套腔は水で満たされていて、触手冠(英語版)がある。触手冠は口を囲む触手の輪で、腕足動物では1対の腕(arm)に多数の細い触手が生えてできている。有関節類では、この腕は腕骨により支持されるが、無関節類は腕骨を持たず、触手冠は体腔液の圧力で支えられる』。『消化管はU字型。触手冠の運動によって口に入った餌(後述)は、食道を通って胃、腸に運ばれる。無関節類では、消化管は屈曲して直腸に繋がり、外套腔の内側か右側に開口する肛門に終わるが、有関節類は肛門を欠き、消化管は行き止まり(盲嚢)になる』。『循環系は開放循環系だが不完全。腸間膜上に心臓を持つ。真の血管はなく、腹膜で囲われた管がある。血液と体腔液は別になっているとされ』、ガス交換は体表で行われる。『1対か2対の腎管を持ち、これは生殖輸管の役割も果たす』。『神経系はあまり発達していない。背側と腹側に神経節があり、2つの神経節は神経環で繋がっている。これらの神経節と神経環から、全身に神経が伸びる』。生態は『全種が海洋の底生動物である。多くの種は、肉茎の先端を底質に固着させて体を固定するか、砂に固着させて体を支える支点とする。肉茎を持たない種は、硬い底質に体を直接固定する。体を底質に付着させない種もいる』。『餌を取るために、殻をわずかに開き、触手冠の繊毛の運動によって、外套腔内に水流を作り出す。水中に含まれる餌の粒子は、触手表面の繊毛によって、触手の根元にある溝に取り込まれ、口へと運ばれる。主な餌は植物プランクトンだが、小さな有機物なら何でも食べる』。以下、「繁殖と発生」の項。『有性生殖のみで繁殖し、無性生殖はまったく知られていない。わずかに雌雄同体のものが知られるが、ほとんどの種は雌雄異体』で、『雌雄異体のものでも、性的二型はあまりない』。『体外受精で、卵と精子は腎管を通じて海水中に放出され、受精するのが一般的。一部の種では、卵は雌の腎管や外套腔、殻の窪みなどに留まり、そこで受精が起こる。その場合には、受精卵は幼生になるまで、受精した場所で保護される』。
「江ノ島に設けた小さな実験所で仕事をしている内に、私は文部省から東京の帝国大学で動物学の講座を受持つ可く招聘された」はモースの記憶違いである。考証は磯野直秀先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の七二頁以下詳しいので参照されたい。

「私の著書『日本の家庭及びその周囲』――“Japanese Homes and Their Surroundigs”」1885年に出版された(出版年については英語版ウィキの“Edward S. Morseでは1885年初版の1888年(ハーパー社)の再版版を掲げ、日本版ウィキの「エドワード・S・モース」ではただ1885年とする。出版経歴を精査された磯野直秀先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の三〇九~三一〇頁の記載に拠ると、1886年(明治19年)であるが、その記載を見ると、『以前からの取り決めにしたがってピーボディ科学アカデミー紀要の一冊として刊行されるとともに、イギリスの出版社を含めた三社から出版され』たとある。磯野先生には失礼ながら、ここで『とともに』と述べておられるものの、実はメジャーに公刊される前の紀要版初版のそれは、実は1885年に刊行されたものなのではなかろうか?)。訳書としては図版の大きさから斎藤正二・藤本周一訳「日本人の住まい」(八坂書房二〇〇二年刊)をお薦めする。

「マレー」原文“Murray”。これは「サトウ」と並列されているので人の名と誤読してしまうが(少なくとも当初、私は誤読した)、人名ではなくイギリスの“John Murray”という老舗の出版社名及び同社の雑誌名である(もとは人名ではある)。以下、ウィキの「マレー(出版社)」によれば、十九世紀にバイロン卿らの文芸書やチャールズ・ダーウィンの「種の起源」など重要な書籍を多く出版、当時、影響力の大きい出版社の一つとして知られていた。またここに示された通り、同名の旅行ガイドブックシリーズを出版していたことも知られ、ドイツの『ベデカー』と共に近代的な旅行ガイドブックの始祖とされる。「日本案内」(原題“A Handbook for Travellers in Japan”)は一八九一年(明治二四年)に編著者としてイギリスの日本研究家で東京帝国大学文学部名誉教師であったバジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain 一八五〇年~一九三五年)らを迎えて刊行されている。ラフカディオ・ハーンやウォルター・ウェストンの寄稿もなされており、現在では貴重な文献となっている、とある。

「サトウ」原文“Satow”。イギリスの外交官サー・アーネスト・メイソン・サトウ(Sir Ernest Mason Satow  一八四三年~一九二九年)。英国公使館の通訳・駐日英国公使・駐清公使を務め、英国における日本学の基礎を築いた。日本名は佐藤愛之助(または薩道愛之助)。日本滞在は文久二(一八六二)年から明治一六(一八八三)年(一時帰国を含む)と、駐日公使としての明治二八(一八九五)年から明治三三(一九〇〇)年までの間を合わせると、計二十五年間になる。息子は植物学者の武田久吉。明治一四(一八八一)年に彼はアルバート・ホーズ(Albert George Sidney Hawes)との共著で旅行ガイドブック“A handbook for travellers in central and northern Japan”(London:
John Murray, 1881
 邦訳題「中部・北部日本旅行案内)を刊行、これは日本を訪れる多くの外国人旅行者や居留外国人の人気を博し、版を重ねた。因みに、主に参照したウィキの「アーネスト・サトウ」によれば、『「サトウ」という姓はスラヴ系の希少姓で、当時スウェーデン領生まれドイツ系人だった父の姓であり、日本の姓とは関係はなかったが、親日家のサトウはこれに漢字を当てて「薩道」または「佐藤」と日本式に姓を名乗った。本人も自らの姓が日本人になじみやすく、親しみを得られやすい呼び方だったことが、日本人との交流に大きなメリットになったと言っていたという。』。また、『私生活は法的には生涯独身であったが、明治中期の日本滞在時に武田兼を内妻とし3人の子をもうけた。兼(カネ)とは入籍しなかったものの子供らは認知し経済的援助を与えており、特に次男の武田久吉をロンドンに呼び寄せ植物学者として育て上げる。また、最晩年は孤独に耐えかね「家族」の居る日本に移住しようとしたが、病に倒れ果たせなかった』とある。

「ホートン・ミフリン会社」「訳者の言葉」で既注。

「テリー」原文“Terry”。これは恐らく一九一四年(大正三年)にアメリカで刊行された“Terry’s Guide To The Japanese Empire”(Boston & New York:
Houghton Mifflin Co.
 邦訳「テリーの日本帝国案内」)で
、アメリカ人フィリップ・トーマス・テリー(Philip Thomas Terry)の著わした旅行ガイドと思われる。邦文サイトの記載がないので仔細は不明であるが、フル・テクストが本書の原文の参考にしている“Internet
Archive: Digital Library of Free Books, Movies, Music & Wayback Machine
ここに発見した。英語に堪能な方は是非どうぞ(PDF版も有り)。]
 

 私が何等かの、時には実は些細なことの、覚え書きか写生かをしなかった日とては一日もない。私は観察と同時に興味ある事物を記録することの重大さを知っていた。そうでないとすぐ陳腐になって了って、目につかぬ。ブリス・ペリー教授は彼の尊敬すべき著述『パーク・ストリート・ペーパース』の中で、ホーソンがまさに大西洋を渡らんとしつつある友人ホレーシオ・ブリッジに与えた手紙を引用している。曰く「常に、君の心から新奇さの印象が消えぬ内に書き始めよ。そうでないと、最初に君の注意を引いた特異な事物も、記録するに足らぬ物であるかのように思われやすい。而もこのような小さな特異な事柄こそ、読者に最も生々とした印象を与える、大切なものなのである。最少限度に於てでも特質を持っている物ならば、何物をも、記録すべくあまりに軽少だと思う勿れ。君はあとから君自身の旅行記を読んで、このような小さな特異性が如何に重大な、そして描写的な力を持っているかに驚くであろう。」


[やぶちゃん注:「ブリス・ペリー教授」原文“Professor Bliss Perry”。アメリカの文芸評論家ブリス・ベリー(Bliss Perry 一八六〇年~一九五四年)。

「パーク・ストリート・ペーパース」原文“Park-Street papers”は、一九〇八年刊行(BostonHoughton Mifflin company)のベリーの文芸評論。目次の中に“The centenary of Hawthorne”(「ホーソーンの百年祭」)とある(やはり“Internet Archive:Digital Library of Free Books, Movies, Music & Wayback Machineここにフル・テクスト有)。] 


 本書にして若し価値ありとすれば、それはこれ等の記録がなされた時の日本は、数世紀亘る奇妙な文明から目ざめてから、数ケ年を経たばかりだという事実に立脚する。その時(一八七七年)にあってすら、既に、軍隊の現代的調練、公立学校の広汎な制度、陸軍、財政、農業、電信、郵便、統計等の政府の各省、及び他の現代的行政の各官署といったような変化は起っていて、東京、大阪等の大都会には、これ等新制の影響が僅かに見られた。それは僅かではあったが、而もたった数年前、武士がすべて両刀を帯び、男子がすべて丁髷(ちょんまげ)に結い、既婿婦人がすべて歯を黒くしている頃の、この国民を見た人を羨ましく思わせる程、はっきりしていた。だがこれ等外国からの新輸入物は田舎の都会や村落を、よしんば影響したにせよ極く僅かしか影響しなかった。私の備忘録や写生図の大部分は田舎に於てなされた。私が旅行した地域の範囲は、北緯四十一度に近い蝦夷(えぞ)の西岸オタルナイから三三度の薩摩の南端に至るといえば大略の見当はつくであろう。これを私は主として陸路、人力車並(ならび)に馬によった。私の記録や写生図の大部分は一千年前につくられた記録と同じであろう。事実、この国は『土佐日記』(エーストン訳)の抄本が、私が毎日書いていた所のものによく似た光景や状態を描いている程、変化していなかったのである。

[やぶちゃん注:「一八七七年」モース来日の明治一〇年。

「オタルナイ」原文“Otaru nai”。小樽の古名。「おたる」という呼称はアイヌ語の「オタ・オル・ナイ」(砂浜の中の川)に由来する。参照したウィキの「小樽市」によれば、『しかしこの言葉は現在の小樽市中心部を指したものではなく、現在の小樽市と札幌市の境界を流れる星置川の下流、小樽内川(現在の札幌市南区にある小樽内川とは別)を示していた。河口に松前藩によってオタルナイ場所(場所請負制を参照)が開かれたが、冬季に季節風をまともに受ける地勢ゆえに不便な点が多かったため、風を避けられ、船の係留に適当な西方のクッタルウシ(イタドリが生えるところ)に移転した。しかしオタルナイ場所の呼称は引き続き用いられ、クッタルウシと呼ばれていた現在の小樽市中心部が、オタルナイ(小樽内、尾樽内、穂足内)と地名を変えることになる。現在の小樽市域にはこの他、於古発(オコバチ)川以西のタカシマ場所、塩谷以西のヲショロ場所も開かれていた』とある。

「エーストン」“Aston”。アーネスト・サトウやバジル・ホール・チェンバレンと並んで初期の著名な日本研究者である英国の外交官ウィリアム・ジョージ・アストン(William George Aston 一八四一年~一九一一年)。一八七五年の“An Ancient Japanese Classic: (the "Tosa Nikki", Or Tosa Diary)”の英訳を指すか。] 

 日記帳三千五百頁を占めるこの材料を、どういう方法で世に表わそうかということは、長年考えはしたが、はっきりした考えがつかなかった。まったく、友人ドクタア・ウィリアム・スターギス・ビゲロウ(私は同氏と一緒に三度目の日本訪問をなした)からの手紙がなかったら、この日記は出版のために準備されなかったことであろう。私は大得意でビゲロウ氏に手紙を出し、軟体動物並に腕足類に関するいくたの研究を片づけるために、セーラムのピーボディ博物館及びボストンの美術館から長い休暇を貰ったことを知らせた。それに対するドクタア・ビゲロウの返事は次の通りである――「君の手紙で気に入らぬことがたった一つある。外でもない、より高尚な、君ほどそれに就て語る資格を持っている人は他にない事の態度や習慣に就て時を費さず、誰でも出来るような下等動物の研究に、君がいまだに大切な時を徒費しているという白状だ。どうだ、君は正直な所、日本人の方が虫よりも高等な有機体だと思わないか。腕足類なんぞは溝へでも棄てて了え。腕足類は棄てて置いても大丈夫だ、いずれ誰かが世話をするにきまっている。君と僕とが四十年前親しく知っていた日本の有機体は、消滅しつつあるタイプで、その多くは既に完全に地球の表面から姿を消し、そして我々の年齢の人間こそは、文字通り、かかる有機体の生存を目撃した最後の人であることを、忘れないで呉れ。この後十年間に我々がかつて知った日本人はみんなべレムナイツ〔今は化石としてのみ残っている頸足析の一種〕のように、いなくなって了うぞ。」

[やぶちゃん注:「ドクタア・ウィリアム・スターギス・ビゲロウ」“Dr. William Sturgis Bigelow”ビゲロー(一八五〇年~一九二六年)はアメリカの日本美術研究家。ボストンの大富豪の家に生まれ、一八七四年にハーバード医学校を卒業したが、続く五年のヨーロッパ留学中に日本美術の虜となる。一八八一年に日本から帰国していたモースと知遇を得、生涯の知己となった。モースとともに明治一五(一八八二)年に来日、フェノロサとともに岡倉天心らを援助、膨大な日本美術の逸品を収集し、アメリカに持ち帰った。それらは死後にボストン美術館に寄贈されたが、このコレクションには、最早、国内では失われた北斎の版画の版木など日本美術の至宝と言うべきものである。滞在中に仏教に帰依し、天台宗などの研究も行っている(主に磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の記載に拠った)。

「セーラムのピーボディ博物館」モースは一八六七年、二十九歳の時に三人の研究仲間とともにマサチューセッツ州エセックス郡セイラムに「ピーボディー科学アカデミー」(一九九二年以降はピーボディ・エセックス博物館。名は寄附と援助をしてくれた銀行家で慈善家でもあった George Foster Peabody に因む)を開き、そこで一八七〇年まで軟体動物担当の学芸員を務めた。その後、一時帰国中の一八八〇年(明治一三年)に同科学アカデミー館長に就任していた(本書刊行の前年一九一六年には同アカデミーから前年に改称したセーラム・ピーボディー博物館名誉館長となっている(磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の記載及び略年表に拠った)。ここで一言言い添えておくと、モースは全く述べていないし、自律的に休暇を得たように書いているが、実は一九一一年にモースは愛妻エレンを失っており、磯野先生によれば、その痛手を思いやった科学アカデミー理事会が一九一二年の会議でモースに対する一年間の有給休暇を決議したというのが事実であった。

「ボストンの美術館」磯野先生の前掲書には特にボストン美術館の役職に就いたとする記載はないが、一八九〇年に同美術館に日本陶器コレクションを寄贈しており、一九一四年にはボストン博物学会会長に就任していることからみても、同美術館の相応な肩書と職務を持っていたと考えておかしくない。

「ドクタア・ビゲロウの返事」一九一三年七月一日附(磯野前掲書による)。

「べレムナイツ」原文“Belemnites”。石川氏は直下に『〔今は化石としてのみ残っている頭足類の一種〕』と割注しておられる。軟体動物門頭足綱鞘形亜綱ベレムナイト目 BelemnoideaBelemnoid)の化石動物。白亜紀末に絶滅した一群で、形態的には現生イカに類似し、特に十腕形上目コウイカ目 Sepiida のコウイカ類の近縁とされている。以下、参照したウィキの「ベレムナイトより引用する。『ベレムナイトは体の背部から先端にかけて鏃(やじり)型の殻を持っていた。この殻の形状に由来し、ベレムナイトの化石を矢石(やいし)と呼ぶ事もある』。『ベレムナイトはデボン紀のバクトリテス類(Bactritoids、真っすぐな殻を持つオウムガイの仲間)を起源とし、化石は下部石炭系から白亜系にかけて産出する。特にベレムナイトはジュラ紀から白亜紀にかけて繁栄しており、中生代の海成層からアンモナイトと共に大量に産出する。絶滅の時期も、アンモナイトと同様に白亜紀の末期である』『ベレムナイト類のいくつかの種、特にヨーロッパのチョーク層から産出するものは示準化石として重要であり、地質学者が地層の年代を決定するのによく用いる。日本国内では北上山地のジュラ紀―白亜紀の地層から産出するが、欧米に比べて産出は極めてまれである』。『ベレムナイトの殻は生存時には外套膜に覆われ、実際には内骨格として機能していた。殻は鞘(rostram)、房錘(phragmocone)、前甲(pro-ostracum)の3部分よりなる。鞘は体の末端部にあり、緻密な石灰質の塊であるため化石として残りやすい。房錘は内臓が入った外套腔のすぐ外側にあり、中空の円錐形をした構造である。現生のオウムガイと同様に、ベレムナイトは房錘の空洞内のガスと体液の比を調整することで浮力を得ていたらしい。前甲は背中側にうすく延びた構造で、現生のコウイカの殻と同様に軟体部を支えていた』。『生時のベレムナイトが軟体部の後端にある房錘で浮力を生じると、軟体部は水より比重が大きいので頭が下を向いてしまう。しかし、さらに後ろにある鞘は中まで緻密に詰まった石灰質の硬い塊であるために比重が大きく、ここで浮力を相殺してバランスをとることができる。つまり遊泳時のベレムナイトには、房錘で上向きの、軟体部と鞘で下向きの力が働き、一種の天秤のような機構が姿勢の水平を保っていたと考えられている』。「殻以外の特徴」の項。『イギリスやドイツなどからは、軟体部の輪郭まできれいに保存されたベレムナイトの化石が見つかっている。それによると、ベレムナイトは殻に比べてはるかに大きな流線型の体と大きな眼を持っていた。また、現生のイカ類と同様に墨汁嚢はあったが、離れたところから射出するように伸びだして獲物を捕らえる触腕はなかった』。『触手に吸盤を持っている現生のイカ類とは異なり、ベレムナイトは小さなフックを持っていた(現生のイカ類でも吸盤の縁には角質のぎざぎざしたリングが装着されているし、カギイカのようにフックをもつ種類も存在する)。ベレムナイトは獰猛な肉食動物で、小さなフックがついた触手で獲物を捕まえては、くちばし状の顎板で肉をむしって食べていた。当時の海棲爬虫類はベレムナイトを捕食しており、例えばイクチオサウルスの腹部からはベレムナイトのフックが大量に見つかっている』とある。] 

 彼の論点は圧倒的で私に弁解の余地を与えなかった。私は浜々出版を目的として材料の整理を始めた。最初私は備忘録を、私が一八八一年から翌年にかかる冬、ボストンのローウェル・インスティテュートでなした日本に関する十二講の表題によって分類することに腹をきめた。その表題というのは次の通りである。

  一――国土、国民、言語。

  二――国民性。

  三――家庭、食物、化粧。

  四――家庭及びその周囲。

  五――子供、玩具、遊戯。

  六――寺院、劇場、音楽。

  七――都会生活と保健事項。

  八――田舎生活と自然の景色。

  九――教育と学生。

 一〇――産業的職業。

 一一――陶器及び絵画芸術。

 一二――古物。


[やぶちゃん注:以上の「表題」は底本ではすべて一文で続いているが、見易くするために字下げの箇条書きで示した。「ローウェル・インスティテュート」原文“Lowell Institute”。ボストンにあったアメリカの実業家で慈善家ジョン・ローウェル(John Lowell, Jr. 一七九九年~一八三六年)記念研究所。当時、ここの公開講座は非常な人気を博し、モースの師ルイ·アガシや作家チャールズ·ディケンズやサッカレーなどが講義している(英語版ウィキの“John Lowell, Jr. (philanthropist)を参考にした)。


 かかる主題のあるものは、すでに他の人々の手で、専門的論文の性質を持つ程度に豊富な挿絵によって取扱われている。それに、私の資料をローウェル・インスティテュートの講義の順に分析することは大変な大仕事で、おまけに多くの新しい副表題を必要とする。やむを得ず、私は旅行の覚え書きを一篇の継続的記録として発表することにした。本の表題“Japan Day by Day,”――エッチ・エー・ガーフィールド夫人とロリン・エー・ディーランド氏とから個々に云って来られた――は、事実ありのままを示している。材料の多くは、この日記がちょいちょい描写する、街頭をぶらつく群衆のように、呑気でまとまっていない。然し今日稀に見る、又は全く跡を絶った多くの事柄を描いている。この日記中の重要な問題はすでに他で発表した。

[やぶちゃん注:「エッチ・エー・ガーフィールド夫人とロリン・エー・ディーランド氏」原文“Mrs. H. A. Garfield and Lorin F. Deland, Esq.,”。不詳。磯野前掲書にも載らない。先のローウェル研究所の公開講座の熱心な受講者か? “Esq.”は“ESQUIRE”の短縮形で、氏名の後につけて、殿・様の意を示す。

 以下の注記の一段は前後に行空けがあり、底本ではポイント落ちで全体が一字下げである。]

 

 

 かかる覚え書きは次の如く各種の記事や著述の形をとっている――『ポピュラー・サイエンス・マンスリー』には「日本に於る健康状態」、「日本に於る古代人の形蹟」(挿画付)、「日本に於るドルメン」(挿画付)の三記事。『ユースス・コムパニオン』に「日本の紙鳶(たこ)あげ」(挿画付)。『ハーバース・マンスリー』には「古い薩摩」と題する記事に四十九の物品を十一枚の木版画で説明して出した。また『日本の家庭とその周囲』と称する本には説明図が三百七図入っている。東京帝国大学発行の『大森の貝塚』には石版図のたたんだもの十八枚に説明図二百六十七図が納めてある。日本の陶器に関する記録はフォトグラヴィア版六十八枚、及び記事中に一千五百四十五個の製造家の刻印を入れた、三百六十四頁の四折判の本となって、ボストン美術館から発行された。また私を最初日本に導いた腕足頼の研究の結果はボストン博物学会から出版された。これは八十六頁の四折判で石版図が二十三枚入っている。

[やぶちゃん注:雑誌名及び書名及び標題の原典表記を以下に列記しておく。

「ポピュラー・サイエンス・マンスリー」“Popular Science Monthly”。一八七二年にエドワード・L・ユーマンスによって創刊されたサイエンス・テクノロジー誌。後に著名な「サイエンス」(“Scientific American”)に吸収された。

「日本に於る健康状態」“Health Matters in Japan”。これは石川氏に失礼乍ら、誤訳であろう。“health”には国家や社会・文化などに於ける健全・活力・安定・繁栄の意があるから、ここは「日本の(近代国家としての)安定状態」といった意味ではなかろうか?

「日本に於る古代人の形蹟」“Traces of Early Man in Japan”。


「日本に於るドルメン」“Dolmens in Japan”。老婆心ながら、ドルメン(dolmen)とは新石器時代から鉄器時代にかけての世界各地で作られた比較的大きな石造墳墓の総称。基礎となる支石を数個、埋葬地を囲うように並べてその上に巨大な天井石を載せる形態をとることが多い。支石墓。ウィキの「支石墓」には、本邦では縄文時代最晩期の九州北西部に出現しており、屈葬や甕棺を伴うなどの独自性も認められるが、『日本の支石墓は、弥生時代前期が終わる頃に、ほぼ終焉を迎えている』とある。


「ユースス・コムパニオン」“
Youth's Companion”。一八二七年から一九二九年まで発行されたアメリカの少年雑誌。

「日本の紙鳶(たこ)あげ」“kite-flying in Japan”。


「ハーパース・マンスリー」“
Harper's Monthly”。ハーパーズ。一八五〇年六月に創刊されたアメリカで二番目に古い雑誌(最古は前掲の“Scientific American”)。もとは格調高い文芸総合評論誌であったが、一九八四年から一般誌となった。

「古い薩摩」“Old Satsuma”。


「日本の家庭とその周囲」既注済み。


「大森の貝塚」“Shell Mounds of Omori”。]

 

 ボストン美術館のジェー・イー・ロッジ氏は、私に本書に出て来る日本の物件のすべてに、その名を表す支那文字をつけることを勧告された。然しそれは、原稿を印刷のため準備するに当って、非常に労力を要するのみならず、漢字に興味を持つ少数の読者は、それ等に相当する漢字が見出さるであろう所のヘップバーンの日英辞典を、持っているなり、あるいは容易に手にすることが出来るであろうことを思って、私は遺憾ながらこの優れた申し出に従うことをやめた。序(ついで)にいうが、我国では漢字のよき一揃えを手に入れることは至難事であろう。かかる活字はライデン市のブリルにでも注文せねばあるまい。

 

 同様な理由でOを長く読ませるŌをも除外した。

[やぶちゃん注:「ジェー・イー・ロッジ氏」“Mr. J. E. Lodge”。不詳。

「ヘップバーンの日英辞典」原文の“Hepburn's Japanese and English Dictionary”の綴りを凝っとみればお分かりの通り、米国長老派教会系医療伝道宣教師でヘボン式ローマ字の創始者ジェームス・カーティス・ヘボン(James Curtis Hepburn 一八一五年~一九一一年)が慶応三(一八六七)年に完成した日本最初の和英辞典「和英語林集成」の改訂版のこと。

「ライデン市のブリル」原文“Brill, of Leyden”。オランダ南ホラント州の都市ライデンのブリル書店。十六世紀から十七世紀にかけて繁栄を極めたライデンでは印刷・出版業が著しい発展を遂げた。なお、同書店は現在も続いている。]

 この日記の叙述には大ざっぱなものが多い。一例として日本人が正直であることを述べてあるが、私はかかる一般的な記述によって、日本に盗棒(どろぼう)がまるでいないというのではない。巡査がいたり、牢屋や監獄があるという事実は、法律を破る者がいることを示している。諺(ことわざ)のようになっている古道具屋の不正直に関しては、三千世界のいずこに正直な古道屋ありやというばかりである。私が日本人はスウェア(神名を妄用)しないということを書いたその記述は、日本人がスウェア語を持っていないという事実に立脚している。日本にだって神様も聖人も沢山いる。だがそれ等の名前は、例えばスペインで聖ペドロ、聖ユアンその他の聖徒の名前が、忌まわしい語句と結びつけられるような具合に、祈りに使用されたり、又は罵られたりしないのである。

 必ず見出されるであろう所の多くの誤謬に就ては、私としては只当時最も権威ある典拠によったということをいい得る丈で、以下の記録をなした後の四十年間に、いろいろと新しい説明が加えられ得るものもあるらしい。一例として富田氏は、私に富士山のフジは、噴火山を意味するアイヌ語だとの手紙を呉れた。

[やぶちゃん注:「古道具屋の不正直」原文は“the proverbial dishonesty of bric-a-brac dealers”。なるほど、意味は解る。


「スウェア(神名を妄用)」原文はただ“swear”である。意味が通じないのでやや変則的な訳し方をなさっている(ここは正直、〔 〕で示すべきであると思う)。“swear”は呪いや怒りを以て~を罵る、~に毒づくの意で、まさに“Damn it!” “God damn it!” “Blast!”(“damn!”の婉曲表現)などの怒りや軽蔑を含む表現を口にする、という動詞である。後の「スウェア語」(原文は“swear words”も、罵り・呪い・毒舌の意(swearword とも綴る)。因みにこの英語は古語英語の“answer”の意の“swerian”に基づくそうである。


「スペインで聖ペドロ、聖ユアンその他の聖徒の名前が、忌まわしい語句と結びつけられる」意味不明。スペイン語の識者の方、御教授、お願い申し上げる。


「富田氏」最後の段落に出る「美術館の富田幸二郎氏」のことであろう。後注参照。

「富士山のフジは、噴火山を意味するアイヌ語だ」富士山の語源については、例えばウィキの「富士山」に、最も古い記録は「常陸国風土記」における「福慈岳」という語であると言われている。また、他にも多くの呼称が存在し、「不二山」若しくは「不尽山」と表記する古文献もある。また、「竹取物語」の伝説もあると掲げる(これは最も天に近い(姫に近い)場所で不老不死の薬を燃やすために現在の富士火口まで警護の武士が沢山登った、だから「富士」というコーダだが。私は「竹取物語」の全体の完膚なきまでの徹底したパロディ構造から、絶対にあり得ないと思っている)更に、「フジ」という長い山の斜面を表す大和言葉から転じて富士山と称されたという説を挙げた後、『近代後の語源説としては、宣教師バチェラーは、名前は「火を噴く山」を意味するアイヌ語の「フンチヌプリ」に由来するとの説を提示した。しかし、これは囲炉裏の中に鎮座する火の姥神を表す「アペフチカムイ」からきた誤解であるとの反論がある』とする。これについては、佐藤和美氏のサイト「言葉の世界」の「北海道のアイヌ語地名」の中の、「富士山アイヌ語語源説について」にこれをしっかりと否定する記載がある(リンク通知を要求しておられるのでHPのアドレスを表記するだけに留める(http://www.asahi-net.or.jp/~hi5k-stu/index_menu.htm))。


 以下には、有意な行空けがある。]

 

 

 私が日本で交をむすび、そして世話になった初期の友人に女子師範学校長のドクタア高嶺秀夫及び彼の友人宮岡恒次郎、竹中成憲両氏がある。富岡氏はその後有名な弁護士になった。彼はそれ迄外交官をしていて、ベルリン及びワシントン大使館の参事官であった。九歳の彼は同年の私の男の子の遊び友達だった。彼はよく私の家へ遊びに来たもので、彼と彼の兄を通して私は諺、迷信、遊戯、習慣等に関する無数の知識を得た。なお実験室で親しく交際した私の特別な学生護君にも感謝の意を表する。帝国大学の綜理ドクタア加藤、副綜理ドクタア浜尾、ドクタア服部、学習院長立花伯爵その他『日本の家庭』の序文に芳名を録した多くの日本人の学生、友人、茶ノ湯、音曲の先生等にも私は負うところが多い。屢々(しばしば)、質問のあるものがあまりに愚なので、笑いに窒息しかけながらも、彼等が私に与えてくれた、辛棒強くも礼義に富んだ返事は、私をして従来かつて記されなかった習慣の多くを記録することを得させた。私の対話者のある者は、英語を僅かしか知らなかった。加ㇾ之(しかのみならず)私の日本語が同様に貧弱だったので、その結果最初は随分間違ったことを書いた。意見を異にするのは礼義でないということになっているので、質問者自身があることがらを了解したと考えると、話し相手も従順に同意するのである!

[やぶちゃん注:「高嶺秀夫」(安政元(一八五四)年~明治四三(一九一〇)年)は教育学者。旧会津藩士。藩学日新館に学んで明治元(一八六八)年四月に藩主松平容保の近習役となったが、この九月に会津戦役を迎えた。謹慎のため上京後、福地源一郎・沼間守一・箕作秋坪の塾で英学などを学び、同四年七月に慶応義塾に転学して英学を修めた。同八年七月、文部省は師範学科取り調べのために三名の留学生を米国に派遣留学させることを決定し、高嶺秀夫は愛知師範学校長伊沢修二や同人社学生神津専三郎とともに選ばれて渡米、一八七五年(明治八年)九月、ニューヨーク州立オスウィーゴ師範学校に入学して一八七七年七月に卒業した。この間、校長シェルドンや教頭クルージに学んでペスタロッチ主義教授法を修めつつ、コーネル大学のアガシ(モースの師でもあった)の弟子ワイルダー教授に生物学を学んだ。明治一一(一八七八)年四月の帰国(この時、偶然、二度目の訪日のために同船していたモースと知り逢った)後は東京師範学校(現在の筑波大学)に赴任して師範教育のモデルを創出した。その後,女子高等師範(現在のお茶の水女子大学)教授・校長などを歴任した(「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。


「宮岡恒次郎」(慶応元・元治二(一八六五)年~昭和一八(一九四三)年)は明治一一年当時の高嶺秀夫の書生であった(「九歳の彼は同年

の私の男の子の遊び友達」とあるのは誤り。宮岡は東京大学予備門の生徒で十二歳であったのに対し、モースの息子ジョンは当時未だ七歳であった)。宮岡は後にフェノロサとも親しくなって、彼の美術品収集旅行の際の通訳を勤めて右腕のような存在となった。明治二〇(一八八七)年に東京帝国大学法科大学を卒業して外交官となり、後に弁護士となった。以上は磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によるが、同書には宮岡のモースに関わる回想録が引用されている(一六〇~一六一頁)。「彼の兄」とあるのは次に示す通り、「竹中成憲」と同一人物。


「竹中成憲」竹中八太郎(元治元(一八六四)年~大正一四(一九二五)年)。宮岡恒次郎の兄。明治八(一八七五)年に慶応義塾入学、次いで東京外語学校を経て、明治一三(一八八〇)年には東京大学医学部に入学、同二〇年に卒業後軍医を経て、開業医となった。実弟とともにモースやフェノロサの通訳や助手を務めた。以上も磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によるが、同書には竹中八太郎成憲の肖像写真が載る(二五八頁)。


「帝国大学の綜理ドクタア加藤」加藤弘之(天保七(一八三六)年~大正五(一九一六)年)は政治学者・官僚。この明治一〇(一八七七)年に東京大学法文理三学部綜理となった。啓蒙思想家であったが晩年は国家主義に転向した。明治三九(一九〇六)年には枢密顧問官となった。モースが直接に契約を結んだの東京大学の代表者は彼である。


「副綜理ドクタア浜尾」浜尾新(はまおあらた 嘉永二(一八四九)年~大正一四(一九二五)年)は教育行政官・官僚。明治一〇(一八七七)年に法理文三学部綜理補として加藤を補佐した。後に文部大臣・東京帝国大学総長・内大臣・貴族院議員・枢密院議長などを歴任。


「ドクタア服部」服部一三(はっとりいちぞう 嘉永四(一八五一)年~昭和四(一九二九)年)は文部官僚・政治家。明治一〇(一八七七)年に浜尾新とともに法理文三学部綜理補であった(予備門主幹を兼任)。後に貴族院議員。これら加藤・浜尾・服部の三名が東京大学法理文三学部の最終決定権を掌握していた。


「学習院長立花伯爵」立花種恭(天保七(一八三六)年~明治三八(一九〇五)年)は元奥州下手渡(しもてど)藩(現在の福島県)藩主で幕府官僚。嘉永二(一八四九)年に藩主となる。大番頭を経て文久三(一八六三)年には若年寄に上り、明治元(一八六八)年一月に老中格、会計総裁となったが、徳川家の組織縮小に伴って罷免され、同三月に帰藩。次いで同年閏四月に上洛。藩領の半分は現在の福岡県筑後三池にあって、下手渡の藩士は奥羽越列藩同盟に参加、三池の藩士は新政府傘下にあったため藩組織は分裂、同年八月、奥羽鎮撫の朝命を受けるもこれが同盟離脱とみなされて仙台藩兵の攻撃で下手渡陣屋が焼失、翌九月、三池に移った。明治二年、三池藩知事。廃藩置県に伴って東京に移住、モース来日の同一〇(一八七七)年に華族学校(現在の学習院大学)初代校長となっていた。以後宮内省用掛・貴族院議員などを歴任(「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。]


 いろいろな点で助力を与えられた美術館の富田幸二郎氏及び平野ちゑ嬢に私は感謝する。また一緒に日本に行った私の娘ラッセル・ロッブ夫人は、私が記録しておかなかった多くの事件や経験を注意してくれた点で、ラッセル・ロッブ氏はタイプライタアで打った原稿の全部を批評的に読み、余計なところを削除し、句章を短くし、各方面にわたって粗雑なところを平滑にしてくれた点で、私は負う所が多い。最後に、呪詛(じゅそ)の価充分なる私の手記を読んでタイプライタアで打ち、同時に粗糙(そぞう)なるを流陽に、曖昧(あいまい)なるを平易にし、且つ絶間なく私を鞭撻(べんたつ)してこの仕事を仕上げさせてくれたマアガレット・ダブリュー・ブルックス嬢に対して、私は限りなき感謝の念を感じる。

E・S・M  

[やぶちゃん注:「富田幸次郎」(嘉永三(一八五〇)年~昭和元・大正一五(一九二六)年)は岡倉天心の弟子。一九〇七年にボストン美術館で天心の助手となり、一九三一年~一九六二年の永きに亙ってアジア美術部長を努めた。


「平野ちゑ」不詳。識者の御教授を乞う。


「ラッセル・ロッブ」“Russell Robb”。「夫人」は「私の娘」ともあるのだが不詳。磯野先生の本にも登場しない。識者の御教授を乞う。

「粗糙」肌理が粗いこと。


「マアガレット・ダブリュー・ブルックス嬢」「訳者の言葉」で既注済み。]

 

 

[やぶちゃん注:以下の目次はリーダと頁数を省略した。底本は三巻分冊であるが、この目次は三つを合わせて示した。目次の内、「1」末の藤川玄人の解説(著作権存続)の部分は省略した。]

     目  次


 序――モース先生(石川千代松)


 訳者の言葉


 緒 言


第 一 章 一八七七年の日本――横浜と東京


第 二 章 日光への旅


第 三 章 日光の諾寺院と山の村落


第 四 章 再び東京へ


第 五 章 大学の教授職と江ノ島の実験所


第 六 章 漁村の生活


第 七 章 江ノ島に於る採集


第 八 章 東京に於る生活


第 九 章 大学の仕事

 

第 十 章 大森に於る古代の陶器と貝塚


第 十一 章 六ヶ月後の東京


第 十二 章 北方の島 蝦夷


第 十三 章 アイヌ


第 十四 章 函館及び東京への帰還


第 十五 章 日本の一と冬

 

第 十六 章 長崎と鹿児島とへ

第 十七 章 南方の旅


第 十八 章 講義と社交


第 十九 章 一八八二年の日本

第 二十 章 陸路京都へ


第二十一章 瀬戸内海


第二十二章 京都及びその附近に於る陶器さがし


第二十三章 習慣と迷信

 

第二十四章 甲山の洞窟

 

第二十五章 東京に関する覚書

 

第二十六章 鷹狩その他

 

耳嚢 巻之七 諸物制藥有事 その三

   又(諸物制藥有事)

 梅幷(ならびに)梅干を種(たね)共(とも)に切(きり)て手際を見するは廚僕(ちゆうぼく)の名技とて、もろこしがらを庖丁にて切、右もろこしがらの氣を庖丁に請取切(うけとりきる)に、梅干の種(たね)肉とも奇麗に切れる事妙也。

□やぶちゃん注
○前項連関:「諸物制藥有事」その三。対象を砕く妙法から切るそれでも連関。
・「もろこしがら」高粱(コーリャン)こと、単子葉植物綱イネ目イネ科モロコシ(蜀黍・唐黍)Sorghum bicolor の実。アフリカ原産の一年草。高さ約二メートル。茎は円柱形で節があり、葉は長大で互生する。夏に茎の頂きに大きな穂を出し、赤褐色の小さな実が多数出来る。古くから作物として栽培され、実を食用として酒・菓子などの原料や飼料にも用いる。「とうきび」ともいう。

■やぶちゃん現代語訳

 諸物には相応に対象の属性を制する薬効があるという事 その三

 梅並びに梅干を種と一緒に綺麗に切るという鮮やかな手際を見せることは、これ、料理人の名技として御座るが、まず唐黍(もろこし)の実をその庖丁にて切り刻み、その唐黍の実が持って御座るところの気を庖丁に移し取ってから、やおら、梅の実や梅干を切ると、これ、種・梅肉ともに、美事――スッパ!――と奇麗に切れること、これ、まっこと、不思議なことにて御座る。

せみなくみみみなりのみのひだりみみ

……本未明の蟬鳴を寝床で聴きながら……左耳ではもはやそれ(遠くの小さな蝉の鳴き声)が全く聴こえなくなっおり、似たような耳鳴りだけがしているのだという衝撃の事実を発見した……

題しらず 萩原朔太郎

 

 題しらず 

 

なじかはよるのふしどをぬけいで

 

けうとき闇路にまよびゆくらむ

 

よごとにおびゆるちのみごのいめにはあらで

 

わがたましひはふるへつつ

 

びたすらにふるへつつこよびも見るらむ

 

ああまたあさましきかのものゝの姿をば

 

             (一九一三、五、)

 

[やぶちゃん注:底本の筑摩版全集第二巻の「習作集第八巻(愛憐詩篇ノート)」より。太字は底本では傍点「ヽ」。「かのものゝの」はママ。最後の「の」は衍字。「いめ」は夢の上代語。]

尾瀬の歌――三平峠より尾瀨へ 三首 中島敦

      ――三平峠より尾瀨へ――

いつしかに會津境も過ぎにけり山毛欅(ぶな)の木の間ゆ尾瀨沼靑く

水芭蕉茂れる蔭ゆ褐色の小兎一つ覗きゐしかも

兎追ひ空しく疲れ草に臥(ふ)しぬ山百合赤く咲けるが上に

[やぶちゃん注:「三平峠」「さんぺいたうげ(とうげ)」は群馬県北東部、利根郡片品村北部にあり、沼田から会津に通じる沼田街道が越える峠で尾瀬峠ともいう。標高一七六二メートル。鳩待峠・富士見峠とともに群馬側からの尾瀬への三つの入口の一つ。眼下に尾瀬沼を見下ろし眺望がよい。
「山百合赤く咲ける」これは思うに単子葉植物綱ユリ亜綱ユリ目ユリ科ユリ属コオニユリ Lilium leichtlinii ではなかろうか。花季は七月から八月で、花弁はオレンジ色や濃褐色で暗紫色の斑点を生じる(濃褐色のタイプは遠望した際、「赤」と表現しておかしくない)。標準種のオニユリ Lilium lancifolium の同属近縁であるが、オニユリが通常の平野や低山性であるのに対し、コオニユリは山地の草原や湿原に生育する。オニユリによく似ているが、全体が一回り小さく、ムカゴを作らず、種子を作る点で異なる(ここまでウィキの「オニユリ」の記載を参考にした)。尾瀬にも植生する。]

六月の雨 大手拓次

 六月の雨

六月はこもるあめ、くさいろのあめ、
なめくぢいろのあめ、
ひかりをおほひかくして窻(まど)のなかに息をはくねずみいろのあめ、
しろい顏をぬらして みちにたたずむひとのあり、
たぎりたつ思ひをふさぐぬかのあめ、みみずのあめ、たれぬののあめ、
たえまないをやみのあめのいと、
もののくされであり、やまひであり、うまれである この霖雨(ながあめ)のあし、
わたしはからだの眼といふ眼をふさいでひきこもり、
うぶ毛(げ)の月(つき)のほとりにふらふらとまよひでる。

[やぶちゃん注:「霖雨(ながあめ)」は底本ルビでは「な あめ」。創元文庫版で訂した。]

鬼城句集 夏之部 柿の花

柿の花   澁柿の落花する井を汲みにけり

2013/08/25

Julie Harris memorial

Here's looking at you, Abra!

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日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第一巻 色刷口絵 訳者の言葉



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石川欣一氏の「訳者の言葉」及びモースの「緒言」を含め、改めて第一章から電子化注釈を行うので、冒頭注を再度、附す。なお、底本第一巻冒頭にある石川千代松氏(万延元(一八六〇)年~昭和一〇(一九三五)年。進化論の普及と生物学の啓蒙に努めた日本動物学界の第一人者の一人で、モースの薫陶を受け、モース帰国後には彼の講義を纏めた「動物進化論」を出版している。訳者石川欣一氏の実父でもあり、石川氏が二十三歳の時にアメリカのプリンストン大学に留学(大正七(一九一八)年)した際、父の恩師であるモースの知遇を得、その縁が本書の翻訳出版に繋がった)の「序――モース先生」は本文の完成を待って電子化する予定である)。

日本その日その日 E.S.モース 石川欣一訳

[やぶちゃん注:本作は三十年以上前の日記とスケッチをもとにエドワード・モースが一九一三年(当時既に七十五歳)から執筆を始め、一九一七年に出版した“Japan Day by Day”を石川欣一氏(明治二八(一八九五)年~昭和三四(一九五九)年:ジャーナリスト・翻訳家。彼の父はモースの弟子で近代日本動物学の草分けである東京帝国大学教授石川千代松。氏の著作権は既にパブリック・ドメインとなっている)が同年(大正六年)に翻訳されたものである。

 底本は一九七〇年平凡社刊の東洋文庫版全三巻を用いた。但し、電子化は私の海産無脊椎動物と江の島地誌への個人的興味の関係から、江ノ島臨海実験所の開設と採集(主に来日した明治一〇(一八七七)年七月十七日から八月二十九日までの期間の事蹟)に関わる第五章を最初に行った【2013年8月25日を以ってブログにて当該「第五章 大学の居受嘱と江ノ島の実験所」から「第八章 東京に於る生活」(底本の「1」の本文末尾)に至る四章分を完遂した】。今回はそれを受けて正規に冒頭から電子化と注釈を始める。

 なお、「第一章 一八七七年の日本――横浜と東京」及び「第二章 日光への旅」の網迫氏の「網迫の電子テキスト乞校正@Wikiの未校訂のベタ・テクスト電子データ(上記リンク先はそれぞれのその網迫氏のデータ)を加工データのベースとして一部で活用させて戴いた。但し、リンク先のテクスト・データは私の所持する底本とは漢字及び平仮名・送り仮名表記に非常に多くの異同があり、また有意な量の省略箇所があって、スキャンニングのミスだけではなく、明らかに異なる版――私の底本としたものから抄録して一部表記を手直ししたもの――を元にしたものと思われ、実際にはあまり多くは利用させて戴いてはいないし、総ては私の底本と視認をして校合してあるので、無批判な流用ではないことをお断わりしておく。

 図版は私が底本からスキャンニングしてブラッシュ・アップし、適宜相応しい場所に配した。石川氏が文中に施した割注については原本を尊重する目的と、一部の内容(特に生物学的記載)の一部に誤りが認められる関係上、原則、私の注に移行した。  半角アラビア数字は将来の縦書化を考え、全角に代えた。実際には促音と推定し得るルビ(本書のルビには促音はない)は私の判断で促音化してある。  ブログ版では傍点「ヽ」を太字に代えた。  各段落の前後は私の注も含めて前後一行空きとした。原注(『*』の附されたもの)は底本が前後一行空きとしているので、前後二行空きとした。底本原注はポイント落ちであるが無視した。

 エドワード・シルヴェスター・モース(Edward Sylvester Morse 一八三八年~一九二五年)は明治期に来日して大森貝塚を発見、進化論を本邦に移植したアメリカ人動物学者でメーン州生、少年時代から貝類の採集を好み、一八五九年から二年余り、アメリカ動物学の父ハーバード大学教授であった海洋学者ルイ・アガシー(Jean Louis Rodolphe Agassiz 一八〇七年~一八七三年)の助手となって動物学を学び、後に進化論支持の講演で有名になった。主に腕足類のシャミセンガイの研究を目的として(恩師アガシーが腕足類を擬軟体動物に分類していたことへの疑義が腕足類研究の動機とされる)、明治一〇(一八七七)年六月に来日、東京大学に招聘されて初代理学部動物学教授となった。二年間の在職中、本邦の動物学研究の基礎をうち立てて東京大学生物学会(現日本動物学会)を創立、佐々木忠次郎・飯島魁・岩川友太郎・石川千代松ら近代日本動物学の碩学は皆、彼の弟子である。動物学以外にも来日したその年に横浜から東京に向かう列車内から大森貝塚を発見、これを発掘、これは日本の近代考古学や人類学の濫觴でもあった。大衆講演では進化論を紹介・普及させ、彼の進言によって東大は日本初の大学紀要を発刊しており、また、フェノロサ(哲学)やメンデンホール(物理学)を同大教授として推薦、彼の講演によって美術研究家ビゲローや天文学者ローウェルが来日を決意するなど、近代日本への影響は計り知れない。モース自身も日本の陶器や民具に魅されて後半生が一変、明治一二(一八七九)年の離日後(途中、来日年中に一時帰国、翌年四月再来日している。電子化本文一段落目を参照)も明治一五~一六年にも来日して収集に努めるなど、一八八〇年以降三十六年間に亙って館長を勤めたセーラムのピーボディ科学アカデミー(現在のピーボディ博物館)を拠点に、世界有数の日本コレクションを作り上げた。その収集品は“apanese Homes and Their Surroundings”(一八八五年刊)や本作「日本その日その日」とともに、近代日本民俗学の得難い資料でもある。主に参照した「朝日日本歴史人物事典」の「モース」の項の執筆者であられる、私の尊敬する磯野直秀先生の記載で最後に先生は(コンマを読点に変更させて戴いた)、『親日家の欧米人も多くはキリスト教的基準で日本人を評価しがちだったなかで、モースは一切の先入観を持たずに物を見た、きわめて稀な人物だった。それゆえに人々に信用され、驚くほど多岐にわたる足跡を残せたのだろう』と述べておられる。

 注に際しては、原文を“Internet Archive: Digital Library of Free Books, Movies, Music & Wayback Machineにある電子データに拠り()、また、磯野直秀先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」(有隣堂昭和六二(一九八七)年刊)も一部参考にさせて戴いた。磯野先生は昨年、鬼籍に入られた。この場を以って深く哀悼の意を表するものである。藪野直史【ブログ始動:2013年6月26日/第一章始動:2013年8月25日】]

訳者の言葉

一 先ず第言現在の私がこの著述の訳者として適当なものであるかどうかを、私自身が疑っていることを申し上げます。時間が不規則になりやすい仕事に従事しているので、この訳も朝夕僅かな暇を見ては、ちょいちょいやったのであり、殊に校正は多忙を極めている最中にやりました。もっと英語が出来、もっと翻訳が上手で、そして何よりも、もっと翻訳のみに費やす時間を持つ人がいるに違いないと思うと、私は原著者と読者とに相済まぬような気がします。誤訳、誤植等、自分では気がつかなくても、定めし存在することでしょう。御叱正を乞います。

二 原著はマーガレット・ブルックス嬢へ、デディケートしてあります。まことに穏雅な、親切な、而もエフィシエントな老嬢で、老年のモース先生をこれ程よく理解していた人は、恐らく他に無かったでしょう。

三 Morse に最も近い仮名はモースであります。私自身はこの文中に於るが如く、モースといい、且つ書きますが、来朝当時はモールスとして知られており、今でもそう呼ぶ人がありますから、場合に応じて両方を使用しました。

四 人名、地名は出来るだけ調べましたが、どうしても判らぬ人名二、三には〔?〕としておきました。また当時の官職名は、別にさしつかえ無いと思うものは、当時の呼び名によらず、直訳しておきました。

五 翻訳中、( )は原著にある括弧、又はあまり長いセンテンスを判りやすくするためのもの。〔 〕は註釈用の括弧です。

六 挿絵は大体に於て原図より小さくなっています。従って実物大とか、二分一とかしてあるのも、多少それより小さいことと御了解願い度いのです。

七 価格、ドル・セントは、日本に関する限り円・銭ですが、モース先生も断っておられますし、そのままドル・セントとしました。

八 下巻の巻尾に雪索引、各頁の上の余白にある内容表示、上下両巻の巻頭にある色刷の口絵は省略しました。

九 先輩、友人に色々と教示を受けました。芳名は掲げませんが、厚く感謝しています。

一〇 訳者は一九一七年十月、ホートン・ミフリンによって出版され、版権はモース先生自身のものになっています。先生御逝去後これは令嬢ラッセル・ロッブ夫人にうつりました。この翻訳はロッブ夫人の承諾を受けて行ったものです。私は先生自らが

  Kin-ichi Isikawa
  With the affectionate regards of
      Edw. S. Morse
  Salem
  June 3. 1921

と書いて贈って下さった本で、この翻訳をしました。自分自身が適当な訳者であるや否やを疑いつつ、敢てこの仕事を御引き受けしたのには、実にこのような、モース先生対する思慕の念が一つの理由になっているのであります。

  昭和四年  夏

            訳  者

[やぶちゃん注:凡例に相当するものであるので、まず、私の電子化での相違部分を以下に注する。

 「一」について。誤訳及び誤植は暴虎馮河ながら、不審な箇所は逐一原文と対比し、幾つかの注で誤訳若しくは誤植と思われる部分を理由を述べた上で指摘させて戴いた。

 「四」について。人名・地名は私独自に調べたものを可能な限り注するよう心掛けた。官職名は読者が誤読する可能性があるものについては原文と対比検討し、必要に応じて注を附した。

 「五」について。まずは本文を大切にするという観点から、石井氏の割注『註釈用の括弧』〔 〕部分は原則、本文から外して私の注で示し、必要な場合は更に私の解説を附しておいた。

 「六」挿絵はスキャンニングによって底本画像より遙かに大きくなっている。ブラッシュ・アップに際しては、“Internet Archive: Digital Library of Free Books, Movies, Music & Wayback MachineにあるPDF版画像で比較視認し、汚損と思われるもののみを除去するように心掛けた(かなり原画にないシミや描画の線のズレなどが認められる)。

 「八」の内、ブログ版では電子化した部分に対して小見出しを附したが、これは石川氏の言う『各頁の上の余白にある内容表示』に基づくものではなく、全く私の、内容から閃いたオリジナルなものであるので注意されたい。正式な当該の小見出しの原文を読まれたい向きには上記サイトのPDF版をお薦めする。なお、この見出しは将来的にサイト一括版を作製する際には、内容把握や検索には非常に価値があり、魅力的でもあるので、独自に原文と訳を示したいと考えている。また、『上下両巻の巻頭にある色刷の口絵』は、やはり前記PDF版より画像としてトリミングしたものを掲げた。今回はその上巻の巻頭彩色口絵(水彩画)を、このブログの冒頭に掲げた。なお、そのキャプションには、
 
 

 JAPANESE WOMAN AND CHILD

 Watercolor by Bunzou Watanabe,1882

  
 
とある。同時代人では後に洋画家となる渡辺文三郎がいるが、一八八二年当時は満十九歳、別人か。識者の御教授を乞うものである。

 「十」言わずもがなながら、モース氏の著作権及び石川氏の翻訳著作権もともに消滅している。

 次に、幾つかの注を附す。

「時間が不規則になりやすい仕事に従事している」当時の石川氏は大阪毎日新聞社学芸部員であった。

「原著はマーガレット・ブルックス嬢へ、デディケートしてあります。まことに穏雅な、親切な、而もエフィシエントな老嬢で、老年のモース先生をこれ程よく理解していた人は、恐らく他に無かったでしょう」原典には以下の献辞がある。

  

  

     TO MARGARETTE W. BROOKS
WITHOUT WHOSE EFFICIENT HELP AND UNFLAGGING
  INTEREST THE MANUSCRIPT WOULD NEVER
    HAVE BEEN READY FOR THE PRESS
    THIS WORK IS AFFECTIONATELY
        DEDICATED

  

  

  
貧しい私の英語力で訳すなら、

  
  

――マーガレット・W・ブルックスへ
――あなたの優れた助力と、たゆまぬ関心なしに
――この原稿が、印刷に向けて準備を
――整え終えることは決してなかった
――愛を込めて
――捧げる
  


  

恐らく、この原文、いや、寧ろ石川氏の文章を読んだ多くの方は、何かある種の感懐を抱かれるに違いない。この「デディケート」“dedicate”、献呈されている女性、それも「老嬢」とある Margarette Brooks という「エフィシエントな」“efficient”(有能な、敏腕の)「老嬢」とする女性である。わざわざ凡例の項目の中に掲げて示すその語り口(確かに献辞に用いられた文句ではあるが――わざわざ外来語を混入させて――である。石川氏は本書の本文では――極めて外来語の使用に禁欲的なのに――である)には、石川氏が何か言外にある感懐を含んで述べている感じがするのである。そうしてそれは、磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の記述(二九九~二三〇〇頁)で、目から鱗となるのである。少し長いが、私はどうしてもそこを引用したいのである。そこはモースが遂に愛する日本を後にして最後に帰国した一八八三年(明治一六年)の直後に関わる記載部分である。因みに、この引用の直前で磯野先生は、モースにはその後も来日の機会はあり、弟子達も頻りに再訪を勧めた。しかし遂に彼は日本の土を踏まなかったと述べる。その理由について磯野氏ははっきりと『近代文明にまだ毒されていなかった日本を愛していたモースは、日本の変貌した姿を見るに耐えなかったのだ』と記しておられる(注記記号が二箇所に入るが省略した)。

   《引用開始》

 三度目の日本訪問で収集した二九〇〇点の陶器は、みなセーラムの自宅に運びこまれた。モースは、それを収納するために自宅を増築しなければならず、また借金が増えた。しかし、その後も彼は、日本の知人や日本を訪れるアメリカの友人を通じて陶器や民具の収集を続けたので、資料は増す一方であった。

 膨大な資料を抱えこんだモースを助けたのは、隣に住むマーガレット・ブルックスだった。モースはエセックス研究所の学芸員をも兼務していたが、マーガレットはその同僚ヘンリー・メイソン・ブルックスの娘だった。彼女は、モースが日本を訪れる頃から彼の秘書役をつとめていたのである。

『その日』はモースの日本滞在中の日記を基礎にしているが、日本にいた頃のモースは、毎日日記をつけていたのではなく、何日かに一度まとめて記録を綴ったらしい。『その日』の記述に日付が少ないこと、話が前後したり、あちこちに飛んだりするのは、そのためのようである。それはさておき、その何日かに一度したためたスケッチ入りの「日記」を、モースはセーラムのマーガレットに送っていた。彼女はそれをまとめ、モースの身内に見せるなど、モース不在中その管理をしていたのである。

 マーガレットがいつ生まれたのか不明だが、少女の頃から博物学に興味をもち、ピーボディ科学アカデミーの夏期学校に一八七七年、八〇年、八一年と三度も参加している。そういうことからモースを手助けするようになったのだろうが、几帳面で勤勉で、モースにはうってつけの秘書だった。モースの悪筆は大したもので、ミミズがのたくったような筆跡は友人たちも持てあましたものだったが、それを判読するのも彼女の役目だった。陶器コレクションの五〇〇〇枚のカードもマーガレットのきちんとした筆跡で書かれているし、後年『その日』の執筆にあたって、日記を整理する役目も果たした。マーガレットは「真珠」を意味するので、モースは彼女を「お玉さん」と呼んでいたというが、このお玉さん抜きでは、その後のモースの仕事は考えられない。

 マーガレットはついに結婚せず、モースがこの世を去る日まで秘書役を果たした。『伝記』の著書ウェイマンは、「マーガレットは疑いなくモースを愛していた」と記している。おそらく、そうであろう。

   《引用終了》

この後、モースは一九一一年、七十四歳の時に四十八年連れ添った妻エレンを失う。そして一九二五年十二月二十日の未明に脳溢血で亡くなった。前夜、彼は隣に住んでいたマーガレット・ブルックス姉妹を訪ねていた。「お玉さん」はその夜、『庭を横切ってモースを戸口まで見送った』(ここは磯野先生の当該書掉尾の一読忘れ難いしみじみとした叙述部分である)……生前のモースの最後の姿を見送ったマーガレット……お珠さん……私はなにか目頭が熱くなってくるのである……。

「ホートン・ミフリン」原本画像を視認すると、“BOSTON AND NEW YORK” “HOUGHTON MIFFLIN COMPANY”とある。“Houghton Mifflin Harcourt”として現存する出版社である(リンク先は英語版の同社のウィキ)。

「一〇」の献辞は、

  石川欣一へ
  心を込め(た挨拶を以っ)て
     エドワード・S・モース
  セイラムにて
  1921年6月3日

である。]

 

耳嚢 巻之七 諸物制藥有事 その二

 又

 無益なる事なるが、火打石を少(ちい)さくなすには、草ほふきを以(もつて)たゝくに妙也。

□やぶちゃん注
○前項連関:「諸物制藥有事」その二。草箒を用いるというのは、単に玄能や木槌で叩くと一点に力が加わるだけで、火花も散ってよろしくないのを、草箒を被せた上から叩くと力が分散し、火花も出ずに小さく砕けるといったことではなかろうか?
・「草ほふき」草箒。仮名遣は正しくは「くさはうき」「くさばうき」である。乾燥させたナデシコ目ヒユ科バッシア属ホウキギ(ホウキグサ) Bassia scoparia の茎や枝を束ねて作った箒のこと。小さな刷毛大のものもある。
・「以たゝくに妙也」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、『以たゝけば砕くる事妙なるよし』とある。その方が分かりがよいので、ここの訳はこちらを採る。

■やぶちゃん現代語訳

 諸物には相応に対象の属性を制する薬効があるという事 その二

 あまり役に立つ知識ではないが、大きな火打石を小さく割ろうと思う時には、草箒を被せて叩くと、妙なくらい容易に砕けるとのこと。

題しらず 萩原朔太郎

 

 題しらず

 

たれかは知らねど

わが庭の隅に來てたゝづめる男あり

なにごとかは知らねども

その大き指のあひだより

くさばなの種はひとつひとつにこぼれ行く

こぼれて落つる地(つち)のうへに

もゝいろの庭の隅に

そこはかとなく這ひあるく

這ひありくものに形なく音もなし

いま逢魔がときのかなしびは

うら白きともらひ草の葉よりぬけいで

やるせなきわがこゝろの影にしのび泣く

いつの日のいつのことにかありけむ、

             ⅩⅨ.Ⅴ.Ⅰ ⅨⅠⅢ

 

[やぶちゃん注:底本の筑摩版全集第二巻の「習作集第八巻(愛憐詩篇ノート)」より。「たゝづめる」の「づ」はママ。最後のクレジットは一九日五月一九一三年の謂いであるが、誤っている。底本の校訂本文では「1913」年の正しいローマ数字に直して、クレジット全体が「ⅩⅨ.Ⅴ.MCMXCIII」というクレジットに訂してある。]

尾瀬の歌 二首 中島敦

    尾瀨の歌

熊の棲む尾瀨をよろしと燵岳(ひうちだけ)尾瀨沼の上に神(かん)さびせすも

しろじろと白根葵の咲く沼邊岩魚(いはな)提(さ)げつゝわが歸りけり

[やぶちゃん注:底本第三巻の年譜では昭和九(一九三四)年の『八月、同僚と尾瀬、奥日光に遊ぶ』とはある(因みにこの直後の翌九月には『喘息発作のため生命をあやぶまれる』と記されてある)――あるのだが、しかし――しかし私は――いろいろ調べる中で実は、その前年に単独で行った尾瀬での嘱目吟なのだ――とほぼ確信するようになったのである。――それについては「中島敦短歌拾遺」の昭和八(一九三三)年の「手帳」にある、本歌群の草稿の注記を是非、参照されたい。
「燧岳」燧ヶ嶽。福島県南西端にある火山。海抜二三五六メートル、南西中腹に尾瀬沼・尾瀬ヶ原が広がっている。
「しろじろ」の後半は底本では踊り字「〲」。
「神さびせすも」「万葉集」から見られる上代表現で、「神さび」は「神(かみ)さび」→「かむさび」→「かんさび」で神のように振る舞うこと、そのように神々しいことをいう名詞(「さび」はもと名詞につく接尾語「さぶ」で、そのものらしい様子でいるの意)。「せす」(サ変動詞「す」未然形+上代の尊敬の助動詞(四段型)「す」)で、なさる、の意。「も」は詠嘆の終助詞であろう。
「白根葵」キンポウゲ目キンポウゲ科シラネアオイ Glaucidium palmatum。日本固有種の高山植物で一属一種。草高は二〇~三〇センチメートルで花期は五~七月、花弁はなく、七センチメートルほどの大きな淡い紫色をした非常に美しい姿の萼片を四枚有する。和名は日光白根山に多いこと、花がタチアオイ(アオイ目アオイ科ビロードアオイ属タチアオイ Althaea rosea )に似ることに由来する(以上はウィキの「シラネオアイ」を参照した)。「しろじろと」が不審であったが、「尾瀬ガイドネット」の「花ナビ」の「シラネアオイ(白根葵)」によれば、『花のサイズが大きくて綺麗で』、『白花から赤花、青花まで色の変化が見られる』とあるので問題ないようである(但し、『尾瀬に多いのは青紫色のシラネアオイ』ともある)。但し、この頁をよく読むと、『シラネアオイは高山に生息し湿原には生息しない』とあり、『綺麗で目立つので採取され移植されていることも』結構あり、『尾瀬の山小屋の前に植えられているのをよく見る』とあるから、中島敦が見たものは実は人為的に植生されたものかとも思われる。『尾瀬の山小屋によく植えられてい』て『綺麗だが、シラネアオイがワサワサ咲いていると、違和感を覚える』と現地ガイドが記すぐらいだから、この花は、狭義の尾瀬沼の本来のイメージには、実は属さない花であると言えるようだ。済みません、野暮を言いました、敦さん。]

かげの心 大手拓次

 かげの心

あなたのそばに
それとなく生ひしげつた
つるくさの葉のやうに、
わたしは よそごころをよそほつて、
あちらにも こちらにも
むらがりさいてゐます。

鬼城句集 夏之部 牡丹

牡丹   玄關に大きな鉢の牡丹かな

       祝産育

      ぼうたんの蕾に水をかくるなよ

2013/08/24

珠めぐみ悼

あなたの救ったラゴンの子は――今、深海で真珠の泪を流しています――

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第八章 東京に於る生活 了


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図―218

 

 材木を切る斧は非常に重くて、我国のと同様に役に立つらしく思われる。刃は手斧(ちょうな)と同じく、柄に横についている(図218)。

[やぶちゃん注:この斧の絵は不審である。こんな斧は見たことがない。何か、モースは何か別な道具を勘違いしているのではあるまいか?]

 

 私が前に書いた薩摩芋を洗う男は、薩摩芋を煠(ゆ)でる店に属していることに気がついた。子供達はこの店に集って釆て、薩摩芋一つを熱い昼飯とする。店の道具は大きな釜二つと、奇麗に洗った芋を入れた籠十ばかりと、勘定台にする小さな板とで、この板の上にはポカポカ湯気の出る薩摩芋若干が並べてある。このような店が、全市いたる所にある。我国の都会でも、貧乏な区域で、似寄った店を始めたらいいだろう。日本の薩摩芋は、あまり味がしないが、滋養分はあるらしい。

 



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図―219

 

 葡萄が出始めた。色は薄綠でまるく、葡萄としては非常に水気が多く、味はいささか酸(す)い。よく熟していないように見えるが、咽喉がかわいている時食うと非常にうまく、おまけに極く安い。大きな房が、たった二セントか三セントである。葡萄を売る店はどこもみな、興味の深い方法でそれを陳列している。板を何枚か縦に置いて、それに何かの常緑灌木をかぶせ、この葉から出ている小さな木の釘に、葡萄の房をひっかける(図219)。笊(ざる)の葡萄は常緑樹の葉を敷物にしている。果物店は、季節季節の、他の果物も売る。先日、大学で講義をした後で、咽喉がかわいた上に、埃っぽい往来を長い間行かねばならなかったので、私は人力車の上で葡萄を食おうとした。如何に巧みに口に入れても、日本人は見つけて微笑した。多分野蛮人の不思議な習慣に就いて話し合ったことであろう。

 


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図―220

 

 この国の魅惑の一つに、料理屋とお茶屋とがある。給仕人はみな女の子で、挙動はやさしく、身なりはこざっばりしていて、どれも頭髪を品よく結っている。図220は流行のまげを示している。時々弓形の褶曲(しゅうきょく)曲が垂直に立っていて、より大きな褶曲が上にのっているのを見ることもある。

[やぶちゃん注:「褶曲」原文は“folds”。石川氏は地質学の褶曲で訳された。確かに見た目の印象はそれで美事な訳であると思われる。ただ私はモースの専門(特に中でもシャミセンガイ)から見ると、彼には“fold”の持つところの蛇のとぐろの意――いや――解剖学上の襞(ひだ)・褶襞(しゅうへき)がイメージされているように秘かに感じているのである。]

 

 東京のような広い都会で、町や小径が一つ残らず曲っていて狭い所では、最も詳細に教えて貰ったにしても、ある場所を見出すことは殆ど不可能である、チャプリン教授と私とが、あの面白い籠細工の花生けをつくる男をさがそうとした時には、車夫達が全力をつくして、たっぷり二時間はかかった。その最中に、我々は広くて急な長い石段に出喰わしたが、その上から東京がよく見えた。この大きな都市を見渡して、その向うに江戸湾の海運を眺めた所は、誠に見事だった。煙筒(えんとつ)は一本もなく、かすんでさえもいない有様は、煙に汚れた米国の都会に比して、著しい対照であった。勿論風も無かったのである。風の吹く日は非常に埃っぽく、万事ぼやっとなる。急な坂をのぼり切ると、低い小舎がいくつかあり、ここで休息して景色に見とれ、奇麗な着物を着た娘達の出すお茶を飲む。私は一人の娘に頭の写生をすることを承諾させた。有難いことに、遠慮を装ったものか、あるいは本当に遠慮したのか、とにかく向うを向いたので、私は彼女の頭髪を立派に写生することが出来た。

[やぶちゃん注:出版上、底本の平凡社東洋文庫版はこれを以って「日本その日その日 1」が終わる。私はこの章の広角のロング・ショットのエンディングが殊の外、好きだ。ここには僕らが忘れてしまった。日本が――確かにある――と感ずるからである。]



これを以って「
日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第八章 東京に於る生活」が終わった。次回からは遂に、冒頭から本格的な「日本その日その日」の完全やぶちゃん注釈附テクスト化へ入る。――これは確かに――僕の大きな――そして孤独な――自己拘束(アンガジュマン)に他ならない――

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第八章 東京に於る生活 19 モース先生の礼讃に……今どきのレイシストどもを見ると……全く以って恥ずかしい限り……

 江ノ島で私は日本の着物をつくつて貰った。これは一本のオビでしめるので、私には実に素晴しく見えた。裾は足の底から三インチの所までいたが、外山にこれでいいかと聞くと、彼は微笑してそれでは短かすぎる、もう二インチ長くなくてはならないといった。だが一体どんな風に見えるかと、強いて質ねた結果、彼にとっては、我々が三インチ短いズボんをはいた田舎者を見るのと同じように見えるのだということを発見した。換言すれば、如何にも「なま」に見えるのであった。かくて、ゆるやかな畳み目や、どちらかといえば女の子めいた外見で、我々には無頓着のように思われる和服にも、ちゃんときまった線や、つり合いがあるのである。支那を除けば、日本ほど衣服に注意と思慮とを払う国は、恐らく無いであろう。官職、位置、材料、色合い、模様、紐のむすび方、その他の細いことが厳重に守られる。

[やぶちゃん注:1インチは2・5センチメートル。

「換言すれば、如何にも「なま」に見えるのであった」原文は“In other words, it looked “green”.”。この“green”は青二才の、といった意味で、未経験の・未熟な・初(うぶ)な・間抜けな、という謂いである。

「官職、位置」原文は“Official rank and station, material and color, design, form of knot, and other details are rigidly adhered to. ”と続いているので、「地位」「身分」「階級」の方がよい。]

 

 東京、殊に横浜には、靴屋、洋服屋その他の職業に従事する支部人が沢山いる。彼等は自国の服装をしているので、二、三人一緒に、青色のガーゼみたいな寛衣の下に、チュニックに似たズボンを着付け、刺繍した靴をはいて、道をベラベラと歩いて行く有様は、奇妙である。彼等を好かぬ日本人の間に住んでいるのだが、日本人は決して彼等をいじめたりしない。一年ばかり前から、日本と支那とは、今にも戦争を始めそうになったりしているのだが、両国人は雑婚こそせざれ、平和に一緒に暮している。この国の支那人は、米国の東部及び中部に於るが如く、基督(キリスト)教的の態度で取扱われているが、太平洋沿岸の各州、殊にカリフォルニアで彼等を扱う非基督教的にして野獣的な方法は、単に日本人が我我を野蛮人だと思う信念を強くするばかりである。サンフランシスコにある、天主教及び新教の教会や、宗教学校や、その他のよい機関は、輿論(よろん)を動かすことは全然出来ぬらしい。宣教師問題、及び海外の異教徒達を相手に働いている諸機関を含むこれ等の事柄に触れることは、鬱陶しくて且つ望が無い。然し、まア、この位にしておこう。

[やぶちゃん注:「チュニックに似たズボン」原文“tunic-like breeches”。石川氏は直下に『〔婦人の使用する一種の外衣〕』と割注している。“tunic”は英和辞典には、古代ギリシャ・ローマ人が着たガウンのような上着・現代の女性用のベルト附きのショートコート・緩いブラウスなどとあり、「大辞泉」には①細身に仕立てた七分丈の女性用上着。②古代ローマで着用したゆるやかなシャツ風の衣服、また、それに似た衣服で服の基本型の一つ。最も単純な形のドレス、とある。

「日本と支那とは、今にも戦争を始めそうになったりしている」日清戦争の勃発は十七年後の明治二七(一八九四)年であるが、日本は開国以来、清とは明治七(一八七四)年の台湾出兵やこの後の明治一二(一八七九)年の第二次琉球処分といった国境問題で既に燻りが生じていた。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第八章 東京に於る生活 18 恐るべき洋服の着こなし

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図―217

 悪口をいったり、変な顔をして見せたりした結果、熊に食われて了った男の子の話は、この親切と行儀のいい国には必要がない。日本の役人には我々の衣服をつける者がかなり多く、大学の先生のある者も、時に洋服を着るが、何度くりかえして聞いても、嘲笑されたり、話しかけられたり、注目されたりした者は、一人もいない。私は、若し私が日本人のみやびやかな寛衣を着て、米国の都会の往来――田舎の村にしても――へ出たとしたら、その時経験するであろう所を想像しようと試みた。日本人のある者が、我々の服装をしようとする企ては、時として滑稽の極である。先日私が見た一人の男は、殆ど身体が二っ入りそうな燕尾服を着、目まで来る高帽に紙をつめてかぶり、何番か大き過ぎる白木綿の手袋をはめていた。彼はまるで独立記念日の道化役者みたいだった。図217は彼をざっと写生したものである。彼はみすぼらしい男で、明かに上流階級には属していない。当地の博覧会の開会式の時には、最も途法もない方法で、欧米の服装をした人々が見られた。一人の男は、徹頭徹尾小さすぎる一着を身につけていた。チョッキとズボンとは、両方から三、四インチ離れた所まで来たきり、どうにもならず、一緒にする為に糸でむすんであった。かなり多くの人々は、堂々たる夜会服を着て、ズボンを膝まで来る長靴の中に押し込んでいた。この上もなく奇妙きてれつな先生は、尻尾が地面とすれすれになるような燕尾服を着て、目にも鮮かな赤いズポンつりを、チョッキの上からしていた。衣服に関しては、日本固有のものと同様、我々のに比べてより楽な固有の衣服を固守する支那人の方が、余程品位が高い。だが私は、我国の人々が、日本風に着物を着ようと企てる場合を思い出して[やぶちゃん字注:「風」の右に「*」。]、こんな変な格好をした日本人に大いに同情した。日本服といえば、私は大学で、教授のある者が時々洋服を着て来るのに気がついた。然し非常に暑い日や非常に寒い日には和服の方が楽だが、実験室では袂(たもと)が始終邪魔になるということであった。

[やぶちゃん注::「悪口をいったり、変な顔をして見せたりした結果、熊に食われて了った男の子の話」何かの教訓寓話らしいが、無学な私にはピンとくるものがない。何方か、どうか、御教授を。

「三、四インチ」約2・5~10センチメートル強。これはもうパンパンの域を遙かに越えている。「糸でむすんであった」というのが、やってくれちゃってる!

「日本風に着物を着よう」ここは原文が“to dress à la Japonaise”で、「日本風」をフランス語のイタリック体表記にしてある。これは所謂、ヨーロッパで見られた日本趣味「ジャポニスム」(フランス語 Japonisme)がフランスを中心として起こったことを半ば皮肉っている。

 以下、底本では注記は全体が一字下げのポイント落ちである。注記後にも有意な一行空きがある。]

 * かかる企ての一つを、其後我々はギルバートとサリヴァンの「ミカド」の舞台で見た。日本人にはこれが同様に言語道断に見えた。

[やぶちゃん注:『ギルバートとサリヴァンの「ミカド」の舞台』原文“on the stage in the Mikado of Gilbert and Sullivan”。その後とあるが、“The Mikado”は一八八五年三月十四日にロンドンで初演された喜歌劇(オペレッタ)。脚本はウィリアム・S・ギルバート(William Schwenck Gilbert)、作曲はアーサー・サリヴァン(Arthur Seymour Sullivan)。参照したウィキの「ミカド」(オペレッタ)によれば、当時、ロンドンのナイツブリッジで日本博覧会が人気を博し、イギリスでは空前の日本ブームが起きていた。「ミカド」はこのブームに乗じた一種のジャポニスムまたはオリエンタリズムの作品である。当時の英国の世相、わけても上流階級や支配階級に対する辛辣な風刺を含む一方で、作品の舞台を英国からできるだけ遠い「未知の国日本」に設定することで、「これは遠い国の話で英国とは関係ない」として批判をかわそうとしている、とある。日本は専横な「ミカド」の好き嫌いがそのまま法律となっている国でその首都は「ティティプー」、主人公で流しの旅芸人(実はミカドの皇太子)の名はナンキ・プー、劇中では帝が中国の皇帝のように振舞ったり、中国風の衣装を着た踊り子が登場したり、旅芸人ナンキ・プーは三味線をギターのように持って、素手で弾く場面があったりと、まあ、荒唐無稽噴飯物の梗概は、どうぞ、リンク先で。私は実は喜劇が嫌いである。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第八章 東京に於る生活 17 不思議な芝居?

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図―216

 停車場から来る途中で、道路に人だかりがしているのに気がついた。見ると片側に楽隊台みたいな小屋があって、そこで無言劇をやっている。身振りが実に並外れていて、また奇妙極る仮面を使うので、私は群集同様、熱心にそれを見た。オーケストラの、風変りなことは、サンフランシスコで聞いた支那楽以上であるが、あの耳をつんざくような喇叭(ラッパ)の音がしないことは気持がよい。私は人力車を道路の一方に引き寄せて、この見世物を写生しようとしたが、肩越しにのぞき込む者が非常に多い上に、前に立って目的物をかくさんはかりにする者共もあったので、単にその光景の印象を得たに止った(図216)。竿から下っている提灯は濃い赤であった。
[やぶちゃん注:これは一体、何だろう? お囃子がつき、舞台が明らかに高い桟敷上にあって、しかも無言劇だ?……実際、たかっている群集も、こりゃ、半端じゃあない……どこかの社寺の祭か神楽か? 歌舞伎か何かの特殊な興行か?……御存知の方は是非とも御教授を願いたい。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第八章 東京に於る生活 16 驚愕の籠細工

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図―212

 

 ある友人が、東京のごみごみした所で、昆虫や海老や魚類やその他の形をした、小さな懸け花生けをつくる、籠製造人を発見した。私は彼をさがし出して、数個の標本を手に入れた。図210は蔓のある瓢(ひさご)の形をしている。葉及び昆虫の翅のような平な面は、蓙(ござ)編みで出来ているが、他の細部はみな本当の籠細工である。裏に環があって、それで壁に懸け、内部には水を入れる竹の小筒が入っている。図211はザリガニを、図212は鯉を示すが、この写生図は、鯉の太って曲った身体や、尾の優美な振れ方を、充分にあらわしてはいない。図213は螇蚚(ばった)で、かなりよく出来ているが、こんな物にあってすら脚の数は正しく、そして身体の適当な場所から出ている。図214の蜻蛉も、かなりな出来である。図215は籠細工で表現するにしては、奇妙な品だが、形は実に完全に出来ているから、菌類学者なら殆どその「属」を決定するであろう。これ等の藁製品は長さ六インチか八インチで、値段はやすく、十セントか十五セントであった。これ等及びこの性質のすべての細工に関する興味は、日本人が模製する動物の形態を決して誤らぬことである。昆虫の脚は三対、蜘蛛は四対、高等甲殻類は五対、そしてそれ等がすべて身体の正確な場所から出ている。これ等を正確にやり得る原因は、彼等が自然を愛し、かつ鋭い観察力を持っているからである。かかる意匠の多くは象徴的である。

 


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図―214

 


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図―215

 

[やぶちゃん注:ここに示された驚異の籠細工と似た工芸品を御存知の方は、是非、お教え願いたい。

「ザリガニ」原文“crayfish”。この単語は確かに一義的には甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱ホンエビ上目十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目ザリガニ下目 Astacideaのザリガニ類及びその料理用の肉を指すが、これは図でご覧の通り、抱卵(エビ)亜目イセエビ下目イセエビ上科イセエビ科イセエビ Panulirus japonicas 以外の何ものでもなく、“crayfish”も二義的にはイセエビ類をも指すから「ザリガニ」の訳は戴けない。なお、この単語の“cray”は古語である中期フランス語“crevice”「クレヴィース」(現代フランス語の“écrevisse”。これはやはりフランス料理よろしく一義的にはザリガニであるが、やはり二義的に“écrevisse de mer”、即ちイセエビの方言として用いられている)に由来する。後半の“-vice”は、その音が“fish”に似ていたことが、一般的な海産生物の英語の接尾辞として一致したことによる造語であろう。なお、この“crevice” 自体、フランク語(現在のオランダとその周辺に当たる地域でメロヴィング朝時代(七世紀以前)に使われた言語)由来で、英語“crab”(蟹)も同語源で、実際、フランス語で“Écrevisse”はかに座を意味する(語源部分は一部ウィキザリガニ」の記載を参考にした)。

「長さ六インチか八インチ」これらの工芸品は約15センチメートルから大きくても20センチメートル強であったらしい。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第八章 東京に於る生活 15 家内芸術


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図―209

 近頃私は日本の家内芸術に興味を持ち出した。これは我国で樺の皮に絵をかいたり、海藻を押したり、革細工、貝殻細工その他をしたりするような仕事と同じく、家庭で使用する物をつくることをいう。意匠の独創的と、仕上げの手奇麗な点で、日本人は我我を徹底的に負かす。この問題に関する書物は、確かに米国人にも興味があるだろうし、時間が許しさえすれば、私はこの種の品物を片端から蒐集したいと思う。台所には、深いのや洗いのや、色々形の違ったバケツがあるが、そのどれにも通有なのは、辺から一フィートあるいはそれ以上つき出した、向きあいの桶板二枚で、それ等を横にむすぶ一片が柄になる。これ等各種のバケツは、それぞれ用途を異にする。桶もまた非常に種類があり、図209のような低いのは足を洗うのに使用し、他の浅い形のは魚市場で用いる。桶板のあるものが僅かに底辺から出て、桶を地面から離しているのに気がつくであろう。博覧会には結構な漆器、青銅、磁器にまざって、いろいろな木で精巧を極めた象嵌(ぞうがん)を施した、浅い洗足桶があった。装飾の目的に桶を選ぶとは変った思いつきであり、そして我々を驚かしたのは意匠、材料及び用途の聳動(しょうどう)的新奇さである。米国人で日本の芸術を同情的に、且つ鑑賞眼を以て書いた最初の人たるジャーヴェスは、欧州人と比較して、特にこれ等の特質を記述している。曰く「それは装飾的表現に於て、より精妙で、熱切で、変化に富み、自由で、真実に芸術的であり、そして思いがけぬことと、気持のよい驚愕と、更に教義のあらゆる程度にとって、理解される所の美的媚態と、美的言語の魅力とを豊富に持っている。」

[やぶちゃん字注:底本では末尾の「持っている」の「る」の右に注記指示記号のアスタリスク「*」が附されて、有意な一行空きの後に以下の注記が記されている。底本では注記は全体が一字下げのポイント落ちである。]

 

 * ジェー・ジェー・ジャーヴェス著『日本芸術瞥見』一八七六年。(J. J. Jarves, A Glimpse at the Art of Japan.

[やぶちゃん注:「ジェー・ジェー・ジャーヴェス」James Jackson Jarves(一八一八年~一八八八)ジャーヴェスはアメリカの新聞人にして美術評論家。ボストン生。視力障害と健康上の理由からハーバード大学への進学を断念、南アメリカ・太平洋の島々を巡った後にハワイに居住。ハワイで最初の新聞“The Polynesian”をホノルルで発刊した。ハワイ政府から委任されて外交使節として欧米とハワイの条約締結交渉に携わった。一八五一年にはヨーロッパを訪問、フィレンツェに住んで美術収集に従事してメトロポリタン美術館を始め。多くのギャラリーや美術館に美術品を入れた。ここに記された「日本芸術瞥見」の書誌は“New York: Published by Hurd and Houghton, 1876.”。なお、ジャーヴェスはその書の中で近世までの日本について、『元冠の役や秀吉による朝鮮侵犯があったが、ほぼ対外的にはどこからも侵犯されることはなかった「偉大な平和の国」“Land of Great Peace”(ジャーブス30頁以下)と表現している。そして、この「偉大な平和の国」の下で、ヨーロッパの中世から近代にかけての血なまぐさい宗教戦争に比して庶民と宗教諸制度との親和的調和がなされ、勤勉であること、洗練されたマナーと独自のフアッションなどが創られたと』絶賛している。以上の事蹟と引用は雄松堂書店の公式サイト内のエメ・アンベールの「幕末日本図絵」についての「吉田隆「『幕末日本図絵』出版の背景-日本の「開国」と「日本研究」―」の本文及び注を引用・参照させて戴いた。そこでは背表紙であるが当該“Glimpse at the Art of Japan”原本画像もある)。

 なお、この注記後にも有意な一行空きがある。]

耳嚢 巻之七 諸物制藥有事

本話を以って「耳嚢 巻之七」は51話目、折り返し点に来た。サイト版の加工に入るが……これ、例によってタグ加工がシンドい……トホホ……

 

* 諸物制藥有事

 

 駿河其外にて何細工なすも、竹を林草を以て煮て遣ひぬれば、如何樣の細工をさすにも自在に成(なる)といへり。葉の毒に當りたるには、甘草を洗じ呑(のま)せしに、奇に其毒を解(げ)しぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:竹細工をする際に竹をしなかやに加工し易くするための処方が前半であるが、次に筍で中毒した際(後注)の民間療法が載り、魚の骨の除去処方と直連関する。以下「又」で二項、都合、この「諸物制藥有事」で三項目が示される。

・「何細工」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は「竹細工」とし、長谷川氏の注に、竹細工は『駿河府中(静岡市)の名産』とある。「何」は「竹」の誤写であろう。これを採る。

・「竹を林草」底本にはこの右に『(竹煮草ナルべシ)』とある。この鈴木氏の注の付け位置からは、鈴木氏が「竹を林草」全体が「竹煮草」の誤写と判断されたことを意味している。するとしかし、本文は「竹」が示されず、如何にも読み難いものとなる。するともしかすると前の「何細工」は、実は「竹細工」の底本の誤植である可能性も出て来るように思われる。カリフォルニア大学バークレー校版は「甘草」とあり、後半部のマメ目マメ科マメ亜科カンゾウ属 Glycyrrhiza のカンゾウ類を指している。しかし鈴木氏の注する「竹煮草」は「甘草」ではない。モクレン亜綱ケシ目ケシ科タケニグサ Macleaya cordata で、竹似草ともいい、ケシ科の多年草で荒蕪地に生え、茎は中空で高さ二メートル内外、葉は形は菊に似るが大きい。夏に白色の小花を円錐状につける。切ると黄褐色で有毒の汁液を出すがこの汁は皮膚病や田虫に利用される。「竹煮草」は竹と一緒に煮ると竹が柔らかくなって細工し易くなることに、「竹似草」の方は、茎が中空になって見え、竹に似ていることに由来するという(以上、「竹煮草」については、Atsushi Yamamoto 氏の「季節の花300」の「竹煮草」の記載に拠った)。ネット上で調べると「竹煮草」が竹を柔らかくするのに用いられているのは事実である(愛知県豊田市足助「足助観光協会」公式サイトの草の効能に竹細工の籠屋さんの店先で『ヨモギなどの雑草を片付けていると「あー、それは抜いちゃダメー」と篭屋さんからストップが。 どう見ても雑草。それもなんかかぶれそうな草なのになんでこんなところにだけこれがあるのか。 「なんで~?」と聞くと「これはタケニグサっといって竹の加工に使うから抜かないでね。」と言われました。タケニグサ・・・・竹を煮るから? 確かに篭屋の前にこれだけが一本生えている理由がわかる。 でも、何の加工?防腐?虫よけ?何だろう。 再び聞いてみると、竹を柔らかく煮るのに草の汁を使うのだそう』という叙述が出て来るから間違いない。逆に甘草で検索しても、竹の柔軟剤として使用するという記載が見当たらない。甘草が竹をしなやかにさせ、その中毒にも効能があるという記載も頷けなくはないが、ここは寧ろ題名の、「諸物」(いろいろなもの――だからこそ以下に「又」で続き三項目も示されるのだと言える――)が、一つの対象(ここでは竹)の持つ属性(この場合は硬いそれ)や毒性に対し、物理的にも生理的にもそれを「制藥」(制する効果を持った薬)として作用する、という意味で採り、私は敢えてここは鈴木氏の注する「竹煮草」で採って訳すこととした。大方の御批判を俟つ。

・「葉の毒」底本には「葉」の右に『(ママ)』注記を附す。竹の葉に毒があるというのは解せない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版はここを『筍(たけのこ)の毒』とする。筍に毒はないが所謂、アク(シュウ酸やホモゲンチジン酸とその配糖体などを主成分とする)が強く、除去が十分でないと口の中や咽喉がヒリヒリする症状を引き起こす。漢方薬としてお馴染みの甘草には、咳や喉の痛み喘息・アレルギーに有効であるとされるからこの処方はしっくりくる。

・「洗じ」底本では右に『(煎)』と訂正注を附す。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 諸物には相応に対象の属性を制する薬効があるという事

 

 駿河その他に於いて竹細工をなすが、その際、まず竹煮草を以って竹を煮てから加工に入ると、どのような細工を致す場合にも、しなやかに折れず、自在に成し得るとのことである。

 また筍(たけのこ)の毒に当たって咽喉がひりひり致す際には、甘草(かんぞう)を煎じて服用さすれば、たちどころにその毒を消す、とのことである。

いろはがるた 萩原朔太郎

 

 △いろはがるた

 

 

いろはがるたの「え」

 

えてに帆をあげ

 

いろはがるたの「ぬ」

 

ぬすびとのひるね

 

いろはがるたの「の」

 

のどもと過ぐればあつさを忘る

 

わすれたわけではなけれども

 

なんとしあんもつきはてゝ

 

御酒(おさゝ)のむのもけふかぎり

 

としちやんとこもけふかぎり

     ×

その目つき

 

とんと可愛いや

 

しんぞいとしや

 

その目つき

 

ほら、つかめた

 

     ×

 

どうしたてかうしたて

 

飮まずはならないこの酒を

 

ぢつとみつめたしんきくさ

 

えゝもうぢれつたい

 

いつそ左樣にいたしませう

 

     ×

 

とほせんぼ

 

さくらんぼ

 

花ちやんとこのねんねこさん

 

ちつちと鳴くはありやなんぢや

 

きのふの朝までとほせんぼ

 

     ×

 

若い身空でなにごとぞ

 

ばくちはうたねど酒飮みで

 

につぽん一のなまけもの

 

のらりくらりとしよんがいな

 

因果(いんが)が果報かしほらしや

 

     ×

 

千鳥あし

 

やつこらさと來てみれば

 

にくい伯母御にしめ出され

 

泣くになかれずちんちろり

 

柳の下でひとくさり、

 

     ×

 

となりきんじよのおこんぢよに

 

うたれつめられくすぐられ

 

ぢつと淚をかみしめる

 

靑い毛絲の指ざはり

 

     ×

 

三十になるやならずで勘平は

 

何故におなかをきりました

 

つらつらうき世をかんずるに

 

きのふの雨ほけさの風

 

わが身のいたさつめれども

 

ひとの知らねばなんとせう

 

あれやこれやとぢれるより

 

いつそこゝらでひと思ひ

 

            (大正三年五月十九日) 

 

[やぶちゃん注:底本の筑摩版全集第二巻の「習作集第八巻(愛憐詩篇ノート)」より。題名の上の「△」は底本編者注によって補った。題名の一部ではなく、朔太郎の注記記号と思われるが、復元した。3連目の取り消し線は抹消を示す。但し、6行目の「因果」が原草稿が「囚果」であるのは朔太郎自身の書き損じと断じて「因果」に訂した。以下はママ。

 

3連2行目 「飮まずは」の「は」

 *(全集校訂本文では「ば」に訂するが、これは寧ろ、「ずは」が正しいと考える。後注参照。)

 

  3行目 「ぢつと]の「ぢ」

 

  4行目 「ぢれつたい」の「ぢ」

 

5連5行目 「惣れた」の「惣」

 

  6行目 「因果(いんが)」のルビの「が」

 

    同 「因果(いんが)が」の本文助詞「が」

 

 *(全集校訂本文では誤植と断じて「か」に訂している。私は微妙に留保する。)

 

    同 「しほらしや」の「ほ」

 

7連3行目 「ぢつと」の「ぢ」

 

8連3行目 「かんずるに」の「かん」

 

 *(全集校訂本文ではこれを「觀ずる」と採って、「くわんずる」と訂している。無論、目的語は「うき世」であるからして、思い巡らして物の真理や本質を悟る、観想するという意の「觀ずる」が用法としては正しい。しかしそうした正統な修辞法が、朔太郎がここで用いたのは「感ずる」で決してなかったとする論拠にはならないと私は思う。)

 

8連7行目 「ぢれるより」の「ぢ」

 

 以下、語注する。

 

「えてに帆をあげ」「得手に帆を揚ぐ」は、得意なことを発揮披露出来る絶好の機会が到来し、調子に乗って事を行うことをいう。表記通り、「江戸いろはかるた」の「え」の詞。「得手に帆を引く」「得手に帆柱」「順風に帆を揚げる」「順風満帆」などは皆、同義の諺。


「しんぞ」「新造(しんぞう)」の音変化。御新造(ごしんぞ)。御新造(ごしんざう(ごしいぞう)は他人の妻の敬称。古くは武家の妻、後に富裕な町家の妻の敬称。特に新妻や若女房に用いた。

 

「ずは」打消の助動詞「ず」+連用形に指示の係助詞「は」。「万葉集」に見られる上代の語法で「~しないで」の意。近世初期にこの係助詞「は」を接続助詞「ば」と誤解して「ずば」が慣用化したが、本来の正字法を用いるケースも近代にあってもしばしば見られる。私は朗読の観点からもここは底本校訂本文のように「ずば」とすべきではない、と考える。

 

「ねんねこ」は原義的な猫の意にも、派生的な幼児、人形の意にも採れる。幼児・赤ん坊のケースでは、「日本国語大辞典」に群馬県では邑楽郡で採取されている。本詩全体に通底する独特の危うさから言えば、私は断然、「赤ん坊」の意で採りたい。

 

「しよんがいな」感動詞で、俗謡などの終わりにつける囃し言葉。しょんがえ。しょうがないの意とする記載もあるが、これが感動詞であって囃し言葉であるとすれば、「なるほど」「そうかいな」「もっともじゃ」といった相槌・合いの手と考えるべきである。

 

「しほらしや」正しくは「しをらしや(しおらしや)」。「しをらし」は「萎(しを)れる」の形容詞化かとも考えられ、①控えめで従順である。慎み深く、いじらしい。②かわいらしい。可憐である。③健気(けなげ)である。殊勝である。④上品で優美である。⑤(反語的に)小生意気で、癇に障る様子や小賢しい、といった多様な意味を持つ。ここは「因果か果報か」という条件句を考えれば、皮肉を込めた⑤を響かせながら、②の謂いで私は採る。

 

「ちんちろり」「ちんちろりん」は松虫の鳴き声(地方によっては鈴虫のそれであるが、「日本国語大辞典」に群馬県では佐波郡で「松虫」で採取されている。)を指す。「いろはがるた」と言い始め、主人公が変わらない、変心せぬ理由はないにしても、前段で「ばくちはうたねど」とあるから、骰子博奕のそれの意味ではあるまい。転落の詩集であれば、コーダ近くのこの虫声のSEは極めて効果的と言える。

 

「おこんぢよ」は「意地悪」の意の群馬方言(おこんじょ群馬の方言の意味・変換全国方言辞典―goo辞書に拠る)。底本にはこれのみ編者注で『「根性、意地惡」を意味する上州方言』とある。従って「ぢ」は朔太郎の誤字である。]

伊豆の歌――熱川堤泉にて 三首 中島敦 / 「伊豆の歌」了

       ――熱川温泉にて――

 

みんなみの濱の温泉(いでゆ)の裏藪にまろき柑子(かうじ)をわが摘みにけり

 

靑く酸き匂の指に殘りけり湯あがりにして柑子を摘めば

 

黑土に夏蜜柑あまた落ちてをり饐(す)えしにほひの甘さ堪へがたく

 

[やぶちゃん注:太字「にほひ」は底本では傍点「ヽ」。]

名もよばないでゐるけれど 大手拓次

 名もよばないでゐるけれど

名(な)もよばないでゐるけれど、
こころはふしぎのいろどりにそめられてゐるのです。
かげではないでせうとおもひます。

あやめ 北原白秋

 

誰か、おまへに逢ひに來た、

すつと出て見な、花あやめ。

 
誰か、裏から呼びに來た、

すつと出て見な、月があろ。


(『世界音楽全集13「日本民謡曲集」』(昭和5(1930)年春秋社刊)より。『d-score 楽譜 - あやめ .... 北原白秋/小松耕輔』を参照した)

のすかい 北原白秋

 
堀(ほり)のバンコをかたよせて

なにをおもふぞ花(はな)あやめ、

かをるゆふべにしんなりと

ひとり出て見る花あやめ。

  

(註)のすかい(色を賣る女) バンコ(緣臺、おらんだ語)

白秋民謡集「のすかい」(昭和4(1929)年2月刊)より。『d-score 楽譜 - 作曲白秋民謡集「のすかい」 北原白秋』』を参照したが、「縁」を正字化した。

鬼城句集 夏之部 あやめの花

あやめの花 板橋や踏めば沈みてあやめ咲く

2013/08/23

覚醒を挟みながらしかも連続する不思議な夢

昨夜から今日の未明にかけて、不思議な夢を見た。

僕の家の近くに、僕の教え子の夫婦(事実、その夫婦はともに僕の教え子である)の一家(事実と同様に彼らの三人の子がそこにいたのである)がアパートのようなところに住んでいる(この場所と住居は全く事実に反するのである)。
僕はそこに居候のように転がり込んで、一緒に暮らしているのである。
僕は狭いそのアパートの一室でその夫婦と文字通り川の字になって寝ていて、すぐ隣りの部屋に子らが寝ているのが見える。
朝になって、その夫君の方は仕事に出かける。
昼間、僕は日がな一日、その妻君と高校時代の話をして笑いあったり、三人の子らと国語の勉強をしながら、楽しそうに談笑している。
夕刻、夫君が帰ってくると、また一緒に音楽を聴き、酒を飲んで、一家と僕と、やはりなにやら愉快に談笑して夜は更けてゆく。
そうして僕らはまた川の字なりになって眠りにつく。夏の夜である……。

この夢、何が不思議かといえば――その内容――ではない。

ある意味、かくも長い一日を大きな奇異もなく淡々と映す夢であったのだが、その間に僕は確実に二度ほど(それ以上かもしれないが、二度は確実)覚醒していたからである。

最初の一回目は、目覚めて隣りに寝ている僕の妻を確認し、冷房が強いのを感じてリモコンで下げながら(妻は冷房が嫌いである)、僕ははっきりと
「……もっとあの教え子夫婦の家に一緒にいる夢を見続けたいなぁ……」
と思って、耳鳴りのする左側頭部を枕に埋めて、また目を閉じたのだった。

小一時間し、うとうとと眠りに入ってみると――夢は覚醒直前の昼のシーンから、また全く切れ目なく続いて始まったのであった。……

ところが、それが未明にもう一度起こったのである。
隣りの父の家内でアリスが吠えるのを聴いて、目を薄らと開けながら、まだ外は仄暗く、眠気の中、再び、
「……もう少し……」
と確かに思ったのだった。

夢うつつのうちに、また少し寝入った。
すると――またしてもさっきまで見ていた最後の方の夜の酒盛りシーンが切れ目なく続いていていったのである。……

こうした確実な覚醒を挟みながら連続した夢を見たのは、大学生以来続けてきた記憶にある夢記述の中では、稀有のことであった。

……因みに
――夢の中の二人の夫婦は孰れも――僕が教えた当時の高校生の時の風貌そのままであった。……
……そして
――夢の中の僕は――その居候の僕は――確かにその一日中、
『――この二人を僕は確かに愛している――』
と心の内で秘かに何度も反芻していたことをも――覚えているのである。……

北條九代記 二位禪尼を評す

      〇二位禪尼を評す

若君賴經公は、建保六年正月十六日に御誕生あり。御童名(おんわらはな)をば、三虎御前(みつとらごぜん)とぞ申しける。翌年七月、御年二歳にて、鎌倉に下向ましましけり、この日酉刻、政所始(まんどころはじめ)あり。若君御幼稚の間は、二位禪尼(のぜんに)、御簾(みす)を垂れて、政道を聽き給ふ。諸國大名、小名の掟(おきて)、京都諸公家の進退(しんだい)までも皆、禪尼の計(はからひ)なり。世には尼將軍と申して、上下靡きて恐れ奉りけり。異朝の古(いにしへ)の例(ためし)を思ふに、漢の高祖崩じ給ひて後、呂后(りよこう)、既に國柄(こくへい)を執りて、惠帝(けいてい)の德を亂し、人彘(じんてい)を觀(み)せ奉りて、疾(やまひ)を起さしめ、母子の恩義を斷絶し、劉氏(りうし)の子孫を誅して、諸呂(しよりよ)を王とし、審食其(しんいき)を寵幸(ちようこう)して、德を穢(けが)す事を恥ぢ給はず。この弊(ついえ)、後世(こうせい)に流(つたは)りて、孝平帝(かうへいてい)立つに及びて、孝元太后(かうげんたいこう)、王氏(わうし)、既に臨みて政事(まつりごと)を聽き給ふ。王莽(わうまう)、位(くらゐ)を簒(うば)ひてより、漢祚(かんそ)、中比、衰へたり。後漢の世に移りては、章帝(しやうてい)の竇皇后(とうくわうごう)、和帝(くわてい)の鄧后(とうこう)、安帝(あんてい)の閻后(えんこう)、順帝の梁后(りやうこう)、桓帝の竇后(とうこう)、靈帝の何后(くわこう)、此等、相繼いで朝(てう)に臨み、政道を行はれし事は、是、呂后より初(はじま)りて、猶、後代に及べりとかや。本朝の古(いにしへ)、神代より以來(このかた)、人倫に傳りて、世々の女帝、御位に立ち給ふ。皆、攝政を以て朝政(てうせい)を委(まか)せ給へり。賴朝の時に至り、武家、世を取りて以來(このかた)、政道を行ふに、多くは京都の叡慮、伺はる。北條家、盛になり、政道、雅意(がい)に任する事、今に至て少なからず。叡慮に背く事多し。皆、是、二位〔の〕禪尼の計(はからひ)なり。本朝の往初(そのかみ)、未だかゝる例(ためし)なし。異国の呂后は漢の罪人(つみびと)とぞ云ふべき。本庁の禪尼も亦、鎌倉の蠹贅(とぜい)なり。牝鷄(ひんけい)の晨(あした)するは萬世(ばんせい)の誡(いましめ)なり。抑(そもそも)二位禪尼に於いては、亂臣十人のためしとするか、婦人の政理(せいり)に與(あづか)るは好しとやは云はん、惡(あ)しとやせん、兎にも角にも才智優長(さいちいうちやう)の禪尼かな、と皆、稱嘆せられけり。翌年十二月一日に、若君賴經、御袴著(はかまぎ)なり、大倉の亭の南面に御簾を垂れて、その儀式を行はる。右京〔の〕大夫北條義時、御腰結(おんこしゆひ)に參られ、二品禪尼、若君を抱(いだ)き奉らる。大名、小名、思々(おもひおもひ)の奉物(たてまつりもの)は、山も更に動き出でたる心地ぞする。最(いと)めでたうこそおはしけれ。

 

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻二十四の承久元(一二一九)年七月十九日及び承久二年十二月一日などの事実を使うが、極めてオリジナルな、すこぶる強烈にして異例な政子批判のプロパガンダ的章である。私は筆者(恐らく浅井了意)は上田秋成のように、やや病的なまでの女性嫌悪感情があったのではないかと、実は秘かに疑っていることをここに述べておきたい。

「建保六年」西暦一二一八年。

「翌年七月御年二歳にて、鎌倉に下向ましましけり、政所始(まんどころはじめ)あり」「吾妻鏡」によれば、翌承久元(一二一九)年七月十九日午の刻(正午頃)に入鎌、酉の刻(午後六時頃)に『酉刻。有政所始。若君幼稚之間。二品禪尼可聽斷理非於簾中云々。』(酉の刻、政所始有り。若君、幼稚の間、二品禪尼、理非を簾中にて聽斷(ちようだん)すべきと云々)とある(増淵氏の訳は『(御参着の同月)十七日午後六時に政所始めがあった』と訳しておられるが、これは何かの間違いであろう)。この「政所始」は明らかに実質上の「将軍家政所始」なのであるが、実は三虎御前(この幼名は彼の出生が寅年寅日寅刻であったことに由来する)、後の藤原頼経の正式な将軍家宣下は、幼少であったことに加え、承久の乱を中に挟んだ結果、七年後の嘉禄二(一二二六)年一月二十七日に正五位下に叙されて右近衛権少将任官と同時に行われている(前年の嘉禄元(一二二五)年十二月二十九日に満七歳で元服している。即ち、入鎌当時は未だ満一歳、将軍就任でも満八歳であった)。

「呂后」呂雉(りょち ?~紀元前一八〇年)。漢の高祖劉邦の皇后。恵帝の母。劉邦の死後に皇太后・太皇太后となり呂后とも呼ばれた。唐の武則天(則天武后)・清代の西太后と並ぶ中国三大悪女の一人。息子恵帝の死後は元勲陳平らの意見を入れて、実家呂氏一族を重役に立て恵帝の遺児少帝恭(しょうていきょう 劉恭)を立てて暴政を続けた。少帝恭が生母の女官を祖母呂雉が殺害した事実を知って恨み出すと劉恭をも殺害、弟少帝弘(劉弘)を即位させた(紀元前一八四年)。その四年後に呂雉は死去したが、その後は陳平らが斉王の遺児等の皇族や諸国に残る劉氏の王と協力してクーデターを起こして呂氏一族は皆殺しにされ、恵帝の異母弟代王劉恒が新たに文帝として擁立されている。

・「國柄」国状。国政。

・「惠帝」劉盈(りゅうえい 紀元前二一〇年(又は二一三年)~紀元前一八八年)。皇太子であったが温和な性格が父劉邦の不興を買い、劉邦の寵妃戚氏の子劉如意を皇太子にしようとしたため、劉盈はたびたび皇太子の地位を廃されそうになった。劉邦崩御後、彼が皇帝となると皇太后となった呂雉が政治を専横、呂雉は趙王劉如意やその生母戚氏らを殺害した。ところが実母のあまりの残忍さ(後注参照)に衝撃を受けた恵帝は政務を放棄して酒色に耽った結果、夭折している。

・「人彘」人豚(ひとぶた)の意。呂雉は前の注に示したように政敵劉如意を毒殺した前後に生母戚夫人(?~紀元前一九四年?)をも捕らえ、永巷(えいこう:罪を犯した女官を入れる牢獄。)に監禁、一日中、豆を搗かせる刑罰を与えた。その後、両手両足を切り落として目玉を刳り抜き、薬で耳と喉を潰た上、便所に置いて人彘と呼ばせて飼い殺ししたと「史記」などにはある。ここまで「呂后」の注以降で主に参照したウィキの「呂后」のこの叙述の下りには『古代中国の厠は、広く穴を掘った上に張り出して作り、穴の中には豚を飼育して上から落ちてくる糞尿の始末をさせていた。厠内で豚を飼育することが通例であったことから、戚氏をこの豚のように扱ったと思われる』と注している。また、呂雉はこれを息子恵帝に見せ、それが恵帝のPTSDとなり、夭折する遠因ともなったものと思われる。なお、底本頭書には『人彘―漢書に、呂太后、戚夫人の手足々斷ち眼を去り耳を煇し瘖樂を飲し廁中に居らしめ命じて人彘と曰ふに出づ彘は豚なり』とあるが、「樂」は「藥」の誤字であろう。「煇し」は「もやし」と訓じているか。

・「審食其」(しん いき ?~紀元前一七七年)は劉邦が沛公であった頃からの側近。呂雉の覚えめでたく、紀元前一八八年には典客、翌年に左丞相となって実質的な政治実務の頂点に立った。呂雉が死ぬと太傅(たいふ:天子の輔弼役。)となり、呂雉一党が滅ぼされた後も再度丞相となっているが、文帝が即位した頃に罷免され、かつて呂雉の嫉妬から母を殺され、当時、真剣にその助命嘆願を行わなかった審食其を恨む淮南王劉長によって殺された(ウィキの「審食其」に拠る)。増淵訳では「審食基」とあるが誤植か。

・「孝平帝」は平帝の誤り。平帝(紀元前九年~紀元後五年)前漢第十三代皇帝。九歳で皇帝に即位したが、当初から後に新の皇帝となる王莽ら王氏一族が権力を握っており、母衛姫や衛氏一族は長安に入れなかった。王莽の長子王宇や彼の妻の兄呂寛らは、このことが後々禍根となることを恐れ、衛氏が長安に入れるように働きかけたが、それが王莽の怒りを買い、平帝の叔父に当たる衛宝や衛玄兄弟らと王宇や呂寛をも誅殺した。紀元後四年に王莽の娘が皇后王氏として立てられたが、翌年十二月に未央宮で十四歳で夭折した。「漢書」平帝紀注や王莽に反乱を起こした翟義(てきぎ)の檄文によると王莽が毒殺したされる。

・「孝元太后」王政君(紀元前七十一年~紀元後十三年)。前漢第十代皇帝元帝(武帝の玄孫)の皇后で、第十一代皇帝成帝生母で王莽の姑母(おば)に当るが、その関係は必ずしも穏やかではない。紀元前一年に第十二代皇帝哀帝が急死して平帝が即位すると、王政君はその混乱に乗じ、太皇太后として詔を出し、哀帝の外戚及び側近勢力を排除し、王莽を大司馬に任じ、輔政を命じた。しかし、この頃から、王莽は簒奪への動きを強め、瑞兆を理由に自らの権威強化を図るようになる。王政君自身は、王莽が簒奪を行うことに反対で、寧ろ漢家の外戚として王氏が権力を握り続けることを願っていたらしく、王莽に尊号を贈ろうとする動きには、暗に反対の立場をとっている。以下、ウィキの「王政君」によれば、紀元五年に、『王莽と対立した結果、平帝が毒殺され、劉嬰(孺子嬰)が皇帝に擁立され、王莽が周の成王と周公旦の故事に倣い、仮皇帝(摂皇帝)を名乗り、さらに』、紀元八年に『帝位に即くべく、当時、伝国璽(中国の歴代王朝および皇帝に代々受け継がれてきた玉璽(皇帝用の印)のこと)を手許に保管していた王政君に伝国璽を自身に引き渡すように求めた時、王政君は激怒し、その使者の王舜をつかまえて、次のように王莽を罵ったと言う。「お前は、誰のおかげで今の地位を得ることが出来たと思っているのか。全ては漢の歴代の皇帝陛下のお情けによるものではないか。そのご恩を忘れて、漢家が衰えるとその地位を奪わんとするのは、いったいどういうつもりなのか。お前のような奴の食べ残しは犬でも食わぬだろう。」こう言って王政君は伝国璽を王舜に向けて投げつけ、泣き崩れたという。ちなみに、この時投げつけられた伝国璽は、一部が欠損したといわれる。王莽が即位すると、王政君は「新室文母太皇太后」の尊号を贈られ、彼女のための住まいがもうけられた。そして、その住まいは、かつての元帝の廟を取り壊して造営された宮殿であった。ここで王政君のための宴会が開かれたが、「こんなことになってどうして宴会を楽しめようか。」と、参加することはなかったという』とある。

・「王氏」王皇后(紀元前九年~紀元後二三年)。名は失考。平帝の皇后で王莽の娘。平帝が死亡し、劉嬰が後継者に選ばれて王莽が摂皇帝と称して皇帝代行となると、王皇后は皇太后となった。その後に王莽が皇帝の座に就き、紀元後九年に漢が滅び、新が成立すると劉嬰は定安公とされて皇太后だった王莽の娘は定安太后となっている。但し、彼女には節操があり、漢が廃されてからは常に病気と称して朝廷の会には一切参加しなかったという。紀元後二三年、新が攻められて王莽が殺され未央宮が焼けると、彼女は「何の面目があって漢の人間に会うことができようか」と言って火中に身を投じて死んだという(ウィキの「王皇后(漢平帝)に拠る)。この女性は事蹟を見るに、この「政治にしゃしゃり出る悪しき女」列伝に載せるには相応しくないように私には感じられる。

・「王莽」(紀元前四五年~紀元後二三年)は前漢末の政治家。予言をする讖緯(しんい)説を利用して人心を集め、皇帝を毒殺して新を建国。周礼の制に基づく改革政治を断行して豪族・民衆の反発を買い、劉秀(りゅうしゅう)に滅ぼされた(「大辞林」に拠る)。

・「漢祚」「祚」は天から下される幸福の謂いであるが、ここは漢の命運の意。

・「章帝」(七五年~八八年)は後漢第三代皇帝。寛厚の長者と称されて惨酷な刑罰を廃止するなど苛切な政治を改めた。賈逵(かき)から古文学を修得し、また群儒を召集して五経の異同を討論させ、親臨して決裁した名君である(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

・「竇皇后」章徳竇皇后(?~九七年)。名は伝わらない。章帝の皇后。七七年に妹とともに長楽宮に入り、翌年には皇后に立てられた。子がなく、太子劉慶を産んだ宋貴人と劉肇(のちの和帝)を産んだ梁貴人を死に追いやった(個人サイト「枕流亭」の「中国史人物事典~歴代后妃-秦漢に拠る)。

・「和帝」(七九年~一〇五年)は後漢第四代皇帝。生母は梁貴人。七歳で即位したが前記の章徳竇皇太后が臨朝して外戚竇憲の専横を招いた。このため宦官の協力を得て、竇氏の党派を排除し、親政をおこなった。官吏登用の選挙の充実に勤め、人物の推薦に当っては実質の当否を査察させた。西域都護を復活、班超をこれに任じた。西域五十余国が服属して班超は部将の甘英を大秦国に派遣するなど、対外的には後漢の威勢がもっとも高まった時期にあたる(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

・「鄧后」和熹鄧皇后(八一年~一二一年)。名は綏(すい)。和帝の鄧皇后。幼くして学問に通じ、慎み深かった。九五年に入内、平帝の寵愛を受けた。一〇二年に平帝の陰皇后が廃される(外祖母の鄧朱とともに巫蠱媚道をおこなったとしてされる)と皇后に立てられた。和帝が崩ずると皇太后として臨朝聴政した。贅沢を誡めて簡素で寛容な政治につとめたという。殤帝及び安帝の間、永く執政に当っている(個人サイト「枕流亭」の「中国史人物事典~歴代后妃-秦漢」に拠る)。

・「安帝」(一〇六年~一二五年)は後漢第六代皇帝。一〇九年に十三歳で即位、鄧氏の臨朝が継続し、兄の鄧隲(とうしつ)が朝政を運営した。ウィキの「安帝」によれば、『成人後の安帝は外戚の鄧氏に反発するようになり、その影響からか生活に乱れが生じていた。また閻氏(えんし)を立后するが、安帝との子をもうけた他の后妃を殺害するなどを行っていた』。一二一年三月、『長く臨朝して政治の実権を握っていた鄧氏が死去すると、鄧隲は大将軍を辞任し、特進待遇となった。』同年五月には、『閻氏や宦官李閏らの助力を得て、鄧隲や鄧遵ら、鄧一族を粛清し、また、平原王の劉長を罪に問い侯に降格させた』。「治世」の項には(アラビア数字を漢数字に変えた)、『摂政をしていた鄧兄妹は他の外戚に比べて良質であり、鄧氏は班昭に私淑して経書の講義を受けたりした人物であった。兄の鄧隲も一万戸の領地を受けた後で更に三千戸の加増を申し渡されたときに固辞して受け取らなかったという。鄧氏の摂政時代には匈奴の進入や天災が相次ぎ、決して平和な時代ではなかったが、鄧氏は節約に励んで懸命に政治に当たったという。ただし官僚との連絡役として宦官を重用したことが、後に宦官の専横を許すこととなったといわれる。鄧氏の粛清の後は、宦官と閻氏一門が専権を振るうことになる』。『安帝の時代には西域都護が匈奴により攻撃され、西域は匈奴の手に落ちた。他にも西の羌族など周辺民族が相次いで反乱を起こすなど、後漢の衰退が明らかになってきた』とあるのが、ここで参考になる。

・「閻后」安思閻皇后(?~一二六)。名は姫。安帝の皇后。一一四年に選ばれて後宮に入り、翌年には皇后に立てられた。安帝が李氏を寵愛して李氏が劉保(のちの順帝)を産むと、皇后は李氏を毒殺したり、江京・樊豊らとともに皇太子劉保を讒訴して済陰王に落としたりしているなかなかの悪女である。安帝が崩ずると皇太后となって少帝を擁立したが、江京が誅されて順帝が迎えられると閻氏も誅されて、皇太后は離宮に幽閉となり、翌年亡くなっている(個人サイト「枕流亭」の「中国史人物事典~歴代后妃-秦漢」に拠る)。

・「順帝」(一一五年~一四四年)後漢第八代皇帝。安帝の末年から権勢を振るっていた外戚の閻氏や側近の宦官の讒言により一時廃嫡されたが、それを憎んだ宦官の孫程のクーデターにより閻氏らが打倒されたため、皇帝となった。ウィキの「順帝(漢)には、『擁立の功労者である孫程ら宦官達を侯(地方領主)に封じ、更に宦官への養子を認め財産を継承することを許可した。それまで一代限りの権勢であった宦官が桓帝の時大長秋となる曹騰が引退した以後は、次代の権勢継承が行われるようになった。そのため、後世には後漢の宦官禍は順帝より始まると評されることにな』ったとある。

・「梁后」順烈梁皇后(一〇六年~一五〇年)。名は(な)。順帝の皇后。幼くして女仕事をよくし、「論語」や「韓詩」を読んだ。一二八年に選ばれて後宮に入り、四年後に皇后に立てられた。順帝が崩ずると冲(ちゅう)帝を擁立して皇太后となり、臨朝聴政した。冲帝がまもなく亡くなると、質帝を立て、引き続き聴政、太尉李固らを抜擢したが、兄の梁冀が質帝を毒殺して専権をふるい、桓帝を立てて李固らを謀殺した。また太后は宦官を寵愛してその台頭を許し、士人たちの失望を買ったが、一五〇年に政権を桓帝に返し、まもなく病のため崩じた(個人サイト「枕流亭」の「中国史人物事典~歴代后妃-秦漢」に拠る)。

・「桓帝」(一三二年~一六七年)後漢第十一代皇帝。一四六年、十四歳で即位し、梁太后が摂政として臨んだ。妻は梁太后の妹。外戚の梁冀(りょうき)が専横を極めたため、宦官の協力を得て梁氏を族誅した。これ以後は宦官が横暴となり、李膺(りよう)・陳蕃(ちんはん)らを領袖とする清廉な党人とはげしく対立、党錮(とうこ)の禁を起こした。浮図(仏陀)と老子を尊崇して旧来の儒教独尊の風潮に新しい気運を開き、また音楽を愛好し、琴瑟をよくした(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

・「竇后」桓思竇皇后(?~一七二年)。名は妙。桓帝の皇后。一六五年に貴を恃んで驕慢であった鄧皇后が廃される(幽閉されて死去)と同時に後宮に入り、同年冬に皇后に立てられたが、帝の寵愛は田聖らにあって桓帝にまみえることは稀であった。子がないままに桓帝が崩ずると皇太后となり、霊帝を擁立、田聖らを殺して積年の恨みを晴らしたが、父竇武が宦官らの誅殺を図って失敗、中常侍曹節らに殺されると、彼女も南宮雲台に幽閉された(個人サイト「枕流亭」の「中国史人物事典~歴代后妃-秦漢」に拠る)。

・「靈帝」後漢第十二代皇帝。章帝の玄孫に当たる。ウィキの「霊帝」によれば、『先帝の桓帝(劉志)には子がなく、同じ河間王家出身であったことから、』一六八年に『桓帝の皇后の竇氏、大将軍竇武、太尉(後に太傅)陳蕃らにより擁立された』。『後漢朝では桓帝の時代から宦官が強い権力を持っていたが、霊帝即位の翌年には竇武と陳蕃らによる宦官排斥が計画される。しかし、これは事前に露見して宦官らの逆襲を受け、桓帝時代の外戚やそれに味方した陳蕃、李膺などの士大夫は排除され、曹節や侯覧、王甫といった宦官が権力を掌握した。その後も清流派を自称する士人たちは宦官とそれに連なる人々を濁流と呼び抵抗したが、党錮の禁により弾圧された』。『この間、羌や鮮卑といった異民族の侵攻が活発となり、天候の不順を重なり地方での反乱もたびたび勃発した。張奐や段熲、皇甫規といった将軍達はそれらの鎮圧に奔走したが、そうした中でも霊帝本人は宮殿内で商人のまねをしたり、酒と女に溺れて朝政に関心を示さず、政治の実権はやがて張譲や趙忠ら十常侍と呼ばれる宦官らに専断されることとなった』。それでも学問を重んじる一面もあって、一七五年には『儒学の経典を正す目的で、群臣達の勧めにより、熹平石経を作成』、一七七年には『書画に優れた者を集め、鴻都門学といった学問を興した。』一八四年に『大賢良師・張角を首領とする黄巾の乱が発生する。反乱により後漢王朝は危機に見舞われたが、董卓や皇甫嵩、朱儁ら地方豪族の協力と、張角の急死により鎮圧に成功した。しかし、反乱により後漢正規軍の無力化が露呈し、地方豪族の台頭を許すこととなった』。『これ以後も、売官を行うなど「銅臭政治」と呼ばれる、賄賂がまかり通る悪政を行ったため、売官により官職を得た者による苛斂誅求により民力は疲弊し、同時に治安の悪化を惹起したため後漢の国勢はますます衰退していく』。一八八年、『霊帝は西園八校尉という制度を新設』、そこで何進や袁紹、かの曹操を統率させている。一八九年、国内がさらに乱れる中で崩御した。評価は『宦官と外戚の権力闘争で疲弊した後漢朝は、霊帝の治世において宦官の優位が決定的となったとされ、後世においても桓帝と並んで暗愚な皇帝の代名詞とされた』とあるが、一八八年に『霊帝は「皇帝直属の常備軍」の創設を構想したと言われて』おり、『当時王宮警護の近衛は存在したものの、大規模な常備軍は存在しなかった』中で、推定ながら一万人ほどの大規模なものと考えられており、『後に曹操がこの八軍編成を引き継ぎ、魏の国軍編成の根幹になったなど、相当の完成度であったと考えられる。魏以降の歴代中国王朝でこの制度は継承され、中国の国軍編成制度として受け継がれていったのである』という再評価の機運もある。

・「何后」霊思何皇后(?~一八九年)。宏)。南陽の屠殺家という下賤の出自だったが、賄賂を用い宦官の伝手で後宮に入り、霊帝の寵愛を受けて男子(少帝弁)を生んだ。気が強かったため、後宮の和をたびたび乱したという霊帝の皇后であった宋氏が寵を失い、間もなく宦官の讒言により無実の罪を着せられ廃されたため、何氏が皇后に立てられた(一八〇年)。霊帝の寵妃であった王美人が劉協(後の献帝)を生んだ時は激しく嫉妬し、王美人を毒殺している。霊帝は激怒し、何氏は廃されそうになるが、宦官の取りなしにより免れた。一八九年に霊帝が崩御、少帝弁が即位すると何氏は摂政皇太后となった。政敵であった董太后との抗争に勝って董太后を洛陽から追放する(のち謀殺したか)。しかし、何太后の政権を支える大将軍の何進と宦官(十常侍)とが争い、何進が袁紹たちと共に十常侍の殺害を計画すると、宦官とも結託していたため、弟の何苗と共に何進の計画に反対した。何進と十常侍は政争の末にともに滅んでしまい、何苗も殺害されて、洛陽に入った董卓(つたく)が権限を手中にした。董卓は董太后と自分が同族であると信じていたため、董太后の報復として何氏を排除しようとし、何太后を脅迫して少帝の廃位を実行させ、董太后が養育していた劉協を皇位に就かせた。さらに董卓は、何太后のかつての董太后に対する振る舞いが孝の道に叛く行いだと問責、永安宮に幽閉、後に殺害した。何太后は霊帝の陵に合葬されたが、董卓は霊帝の陵の副葬品をことごとく奪ったという(以上はウィキの「霊思何皇后に拠った)。

・「雅意」底本に『我意』と頭書き。自分一人の考え。自分の思うままにしようとする心持ち。我儘。私意。恣意。

「蠹贅」「蠹」は建材家具を致命的に食い荒らす木食い虫。「贅」は不必要なもの、無駄の意。

「牝鷄の晨するは萬世の誡なり」「書経」の「牧誓」による故事。「牝鶏(ひんけい)の晨(しん)するは亡國(ぼうこく)の音(いん)」で雌鳥が夜明けを告げるのは国家が没落する前兆であるという謂い。雌鳥鳴いて国滅ぶ。牝鶏の晨(しん)。底本には『書經に牝鷄の晨するは惟家の索くるなりとあり』と頭書きする。「索くる」は「つくる」で「尽く」と同義。

「亂臣十人のためし」「論語」の「泰伯第八」にある「武王曰。予有亂臣十人。」(武王曰はく、『予(われ)に亂臣十人有り』と。)に基づく。注意しなくてはいけないのは、この「亂臣」とは大乱を美事に鎮圧する優れた家臣の謂いであること。この「乱」は通常反対語である「治」と同義的に用いられている(こうした相反した訓(読み)を特に反訓(はんくん)という)。「十人」は周の武王の弟周公旦、太公望呂尚以下で、中に武王の父文王の正妻太姒(たいじ)を含んでいる。そこがこの部分で引用した肝(キモ)――則ち続く「婦人の政理に與るは好し」と同じく、女性の政治参画積極肯定説の提示である。但し、無論、筆者はその反対に立つのである。底本には『亂臣は治世の功臣、書經周武王の言に「予有亂臣十人」其中一人は武王の母大姒なり』と頭書きする(引用にはここは返り点があるが省略した。「大姒」はママ)。

「御腰結」男子の袴着及び女子の裳着(もぎ)の式の際に袴の腰の紐を結ぶゲスト役。]

伊豆の歌――熱川より下田へ 四首 中島敦

       ――熱川より下田へ――

雨上(あめあが)り農家の庭の黑土に落ちたる木瓜(ぼけ)の花の新しさ


掛茶庭の赤きたばこの廣告が風に搖れをり街道の晝


下田まで三里と聞きぬ斷崖(きりぎし)の赤きが下の海沿ひの道


だらだらに海にくだれる薄原(すすきはら)その果に光る夏蜜柑はも


[やぶちゃん注:太字「たばこ」は底本では「ヽ」。「だらだら」の後半は底本では踊り字「〱」。]

名もよばないでゐるけれど 大手拓次

 名もよばないでゐるけれど

名(な)もよばないでゐるけれど、
こころはふしぎのいろどりにそめられてゐるのです。
かげではないでせうとおもひます。

鬼城句集 夏之部 櫻の實

櫻の實   道端の義家櫻實となりぬ

[やぶちゃん注:「義家櫻」栃木県那須烏山市八ヶ代にある八ヶ代西山辰(やかしろにしやまたつ)街道の大桜のことであろう。「那須烏山市」公式サイトの西山辰街道の大桜」、この桜は辰街道(将軍道)脇に両腕を広げたように立っており、地元では「義家桜」とも呼ばれている。平安時代、八幡太郎義家が奥州征伐のためこの道を通った折り、持っていた桜の鞭を挿したのが根づいたものと伝えられている。また、この木の根元には、馬頭観音が安置され「桜観音」と呼ばれている、とある。]

嬉しいメール

今朝未明、メールを開けて見ると、未知の方からメールが来ていた。

それは、何と
かの山本幡男氏から直接にかの遺書群を受け取り、それを辛くもラーゲリから日本へ持ち帰った、
辺見じゅん著「収容所ラーゲリから来た遺書」に、従って「山本幡男遺稿抄――やぶちゃん編――」に登場する、とても重要な人物(ここではその方の許諾を申し出ていないので伏せておく)のお孫さんなのであった。

生前、そのお祖父さまは、そのお孫さんに、かの稀有の体験については特に詳しくはお話なされなかったそうである(既に他界されておられる由)が、この度ふと、お祖父さまのことを思い出され、辺見氏の本を調べるうち、僕のブログに辿り着かれたのであった。

以下は、その末尾である。

『じっくり読んだ事のなかった本を読みたい
自分の子供にも読んでもらいたいと思いました

様々な巡り合わせはありますが
こうして祖父のこと
戦争の事、抑留のこと知る機会に今あることを感謝しております

勝手とは思いましたが
思わず感謝を伝えたくてメールしました

ありがとうございました。』

――野人となった今、僕は時々、自分がここやサイトでやっている好事の仕儀が、果たして如何程の人々の琴線に触れているのだろうかと、時々、少しばかり空しい気がすることがあるのだが……

しかし、このメールには、この嘘のような暑さの夏の一番の

いや――むくつけき孤独な野人と化してから、一番の嬉しいメールなのであった。

2013/08/22

明窓浄几

學書爲樂

蘇子美嘗言、明窗淨几、筆硯紙墨、皆極精良、亦自是人生一樂。

(歐陽修「試筆」より)

書を學びて樂と爲す

蘇子美(そしび)嘗(かつ)て言ふ、明窗淨几(めいさうじやうき)、筆硯紙墨(ひつけんしぼく)、皆、精良(せいりやう)を極むるは、亦、自(おのづか)ら是れ、人生の一樂なり。

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 21 先哲の詩(2)

  游江島   高惟馨

神鼈抽碧海。

玉女降銀臺。

孤島濤聲響。

層崖水氣開。

截流經境到。

探勝踏巖來。

禹穴疏靑璧。

秦碑繡紫苔。

日升暘谷浴。

潮湧尾閭堆。

雲起迎鯤化。

珠粉産蚌胎。

蒼茫環渤澥。

咫尺縮蓬萊。

六國交天末。

群檣礙斗魁。

龍湫窺底駐。

仙窟鑿空囘。

何有迷津者。

還堪借渡杯。

 

[やぶちゃん注:標題は底本では「同」であるが、ちゃんと表記した。以下、十四首総て同じ(以下ではこの注は略す)。「群檣礙斗魁」の「礙」は底本では「礎」であるが、「相模國風土記」で訂した。作者は高野蘭亭。服部南郭と並ぶ荻生徂徠の高弟で嘱目されたが、十七歳の時に失明、晩年は鎌倉の景物を好み、円覚寺の傍に松濤館を築いて遊息の場とした(彼の事蹟はのページを参照させて戴いた)。宝暦七年(一八六八)年没、享年五十四歳。惟馨(いけい)は名。

 

   江島に游ぶ   高惟馨

 神鼈(しんべつ) 碧海を抽(ぬき)んず

 玉女 銀臺に降(くだ)る

 孤島 濤聲 響きて

 層崖 水氣 開く

 流れを截(き)り 境(きやう)を經て 到る

 勝(しやう)を探(たん)し 巖(いはほ)を踏みて 來たる

 禹穴 靑璧を疏(とほ)し

 秦碑 紫苔を繡(ぬひと)る

 日は升(のぼ)る 暘谷(やうこく)の浴(よく)

 潮は湧く 尾閭(びろ)の堆(たい)

 雲起(うんき) 鯤(こん)の化するを迎へ

 珠粉(しゆふん) 蚌の胎(たい)に産まる

 蒼茫として 渤澥(ぼつかい)を環(めぐ)り

 咫尺(しせき)にして 蓬萊を縮む

 六國 天末に交はり

 群檣 斗魁を礙(さまた)ぐ

 龍湫 底を窺(のぞ)きて駐(とど)まり

 仙窟 空を鑿(うが)ちて囘(めぐ)る

 何ぞ迷津(めいしん)する者や有らん

 還りて渡杯を借るに堪ふ

 

「渤澥」渤海の古称。「斗魁」北斗七星の第一星魁星より成る柄杓の升型部分の四星が神格化した。中国では古くから科挙試の神とされ、後に文章の神・文学の神として崇拝された。

「龍湫」「湫」は湿気が多く、水草などが生えている低湿地であるが、ここは龍窟の前部にある龍潭を指していよう。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第八章 東京に於る生活 14 西郷自決と本邦進化論事始

 往来を通行していると、戦争画で色とりどりな絵画店の前に、人がたかっているのに気がつく。薩摩の反逆が画家に画題を与えている。絵は赤と黒とで色も鮮かに、士官は最も芝居がかった態度をしており、「血なまぐさい戦争」が、我々の目からは怪奇だが、事実描写されている。一枚の絵は空にかかる星(遊星火星)を示し、その中心に西郷将軍がいる。将軍は反徒の大将であるが、日太人は皆彼を敬愛している。鹿児島が占領された後、彼並に他の士官達はハラキリをした。昨今、一方ならず光り輝く火星の中に、彼がいると信じる者も多い。

[やぶちゃん注:所謂、西郷星(さいごうぼし)である。、西南戦争による世の混乱の中、西郷隆盛の死を悼む人々の間で流布した都市伝説である。この頃、たまたま火星の大接近があり、最接近時の九月三日には距離5630万キロメートル・光度-2・5等級あまりにまで輝いていた。当時の庶民はこれが火星である事は知らず、「急に現われた異様に明るい星の赤い光の中に、陸軍大将の正装をした西郷隆盛の姿が見えた」という噂が流れ、西郷星と呼ばれて大騒ぎになった(以上はウィキの「西郷星」に拠ったが、ここでも何と本書のこのシーンが挙げられている)。西南戦争は明治一〇(一八七七)年九月二十四日、城山での西郷隆盛の切腹で終ったが、磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、奇しくもちょうどその西郷自刃の当日、モースは東京帝国大学予備門四年の動物学講義の中で初めて(最初の講義は九月十二日であった)進化論について触れたのであった。……血生臭い蠟人形……西郷の自決と血のように赤い火星「西郷星」の出現……残酷絵の中の西郷の腹切り図……浅草寺の猿回しの猿……猿から人が生まれたという驚愕の学説を講義するモース……そこに何か、私には不思議な因縁を感じるのである。なお、この浅草訪問は従って西郷自死の後、十月になってのことと推測される。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第八章 東京に於る生活 13 浅草界隈逍遙

 友人と一緒に浅草にある大寺院を訪れた。第一回に行った時のことは、この日記の、前の方のページに書いてある。加賀屋敷から歩いて行って一マイル位であろうが、途中いろいろと見る物があったので、二時間かかった。私は一軒の古本屋で、動物その他の威勢のいい写生図を、一枚一セントで買った。寺院への主要大通りの両側に、子供の玩具を売る店が立ち並んでいるのは、見ても面白い。広い階段は子供が占領して、人形と遊んだり、泥饅頭(まんじゅう)をつくつたり、遊戯をしたりしていた。お寺は一週間七日を通じて、朝から夜まで、礼拝老の為にあけてある。その裏には手奇麗につくつた長い廊下みたいなものがあり、ここでは弓矢で的を射ることが出来る。ある場所には鳩、やまあらし、猿その他の動物の見世物があった。非常に利口そうな猿が竿のてっぺん迄登つて行き、登り切ると、登りながらつかんでいた縄についている籠を手ぐり上げた。猿が下りて来た時、私は彼と握手をしたが、彼は私の手を引っ張り、おしまいには両足を私の掌に入れて、数分間、如何にも満足したように大人しくしていた。猿の手の触感は子供のそれと全く同じで、あたたかくて、すこし湿っていた。指の線も人間のと同じで、多分我々同様、一匹一匹違っているだろう。猿の見世物の次に、我々は蠟人形を見に行った。私はこの人形で見たような、勢と熱情を、米国では絵でも彫刻でも見たことがない。男の人形は、実に極悪非道な顔をしていた。ある一つは特別に醜悪だった。それは襤褸(ぼろ)を着た不具の老乞食が、車にうずくまっているのを、同様にぞっとするような、もう一人の乞食が、引いている所を見せていた。また蠟人形が踊り廻るように出来ている人形芝居もあった。ある一場面でほはお姫様が七尾の狐に変化したが、この演技に関する話を物語る老人を見詰めることも、舞台上の口をきかぬ人形を見るのと同様な研究であり、おまけにオーケストラの立てる、途方もない音や、拍子をやたらに変える所は、私がそれ迄耳にした如何なるものとも丸で違っていた、。お姫様は玉座みたいなものに坐り、その周囲には等身大の人形がいくつか、今にも恐ろしいことが起るぞというような表情で集っていた。突然玉座が真中から割れ、お姫様が.バラバラになって姿を消すよと見る間に、尻尾が七つある巨大な狐となって現われ、とても物凄い有様で牙を喰いしばりながら舞台をうろつく。この狐は実によく狐に似ていた。私は日本の俗説を知らないので、いろいろな人形がどんな意味を持っているのか、とんと判らなかったが、それ等の持つ力と表情とによって、日本の芸術家が絵画に於る如く、彫刻にかけても偉いということを知った。

[やぶちゃん注:浅草寺からあやしげな裏手へ――矢場女の嬌声――凄惨な生き人形のモンストロム――九尾狐は人形芝居「玉藻前」か――猿回し猿の手を細かく観察している生物学者モース先生――初めて見る異人さんの掌の中に足を突っ込んで陶酔の表情のお猿さん……なんてキッチュで素敵なシークエンスであろう!

「第一回に行った時のことは、この日記の、前の方のページに書いてある」「第四章 再び東京へ」に浅草寺を訪れた叙述がある。

「その裏には手奇麗につくつた長い廊下みたいなものがあり、ここでは弓矢で的を射ることが出来る」矢場である。ウィキに、『東京へは明治初年に浅草奥山(浅草寺の西側裏手一帯)に楊弓場が現れ、一般には「矢場」と呼ばれ広まった』。『店は競って美人の矢取り女(矢場女・矢拾い女)を置き、男たちの人気を集めた。矢取り女は射った矢を集めるのが仕事だが、客に体を密着させて射的方法を教えたり、矢を拾う際に足を見せたりして媚びを売った。戯れに矢拾い女の尻にわざと矢を当てる客もあり、それをうまくかわす女の姿がまた客を喜ばせた。店裏で売春もし、客の男たちは女の気を引くために足繁く通い、出費で身を滅ぼす者も出た。しかし、次第に値段の安い銘酒屋にその人気を奪われ、明治中期以後急速に衰退した』。『東京では関東大震災の影響もあって、昭和に入る頃には楊弓場・矢場は姿を消したという』とある。]

 

 大変な景気で相撲をやっていたので、我々は一時間見物したが、これは前に見たのより、遙かに面白かった。相撲取は年も若く、前に見た連中みたいに太っていず、手に汗を握らせるような勝負をやり、高くはね飛ばしたりした。彼等の準備的運動、特に手を膝にのせて先ず片脚を、次に別の脚をもち上げ、固い地をドサンと踏むその莫迦げ切ったやり方は、実に面白い。それからお互にしゃがみ合って、取組合いを始めると、何故だか私には判らぬ理由によって審判官にとめられ、そこで又初めからやりなおす。私は一日中見ていることさえ出来るように思う。

[やぶちゃん注:「前に見た」磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、モースは来日(明治一〇(一八七七)年六月十七日)直後、六月二十一日モースは初めて東京帝国大学法理文三学部を訪問したその日の午後、理学部数学教授ホーレス・E・ウィルソン教授と一緒に早くも相撲を見物している。それは本書の「第一章 一八七七年の日本――横浜と東京」にも叙述されている。]

 


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図―208

 

 横手の小さな寺院で、我々は不思議な信仰の対象を見た。それはゴテゴテと彫刻をし、色をぬった高さ十フィートか十五フィート位の巨大な木造の品で、地上の回転軸にのっている。その横から棒が出ていて一寸力を入れてこれを押すと、全体を回転させることが出来る。この箱には、ある有名な仏教の坊さんの漢籍の書庫が納めてあり、信者達がこれを廻しに入って来る。楽にまわれば祈願は達せられ、中々まわらなければ一寸むずかしい。この祈願計にかかっては、ティンダルの議論も歯が立つまい! 図208にある通り、私もやって見た。

[やぶちゃん注:所謂、輪堂式のマニ車であるが、これがどの寺のものなのか不明。かなり大きなもの(高さ3~4・6メートル)であるが現存するのだろうか? 調べ得なかった。識者の御教授を乞うものである。

「ティンダルの議論」原文は“Tyndall's arguments”。よく分からないが、このティンダルとはイギリスの聖書英訳者で宗教改革者であった William TyndalTindalTindale とも綴る 一四九二年?~一五三六年)のことか。平凡社「世界大百科事典」によれば、人文主義の影響下に聖書の英訳を志し、ケルンとウォルムスで一五二五年に英訳新約聖書を出版、これがイギリスに密輸入されてトマス・モアとティンダルの間で宗教改革を巡る論争(一五二八年~三二年)が展開されたが、この間にも旧約聖書の「モーセ五書」と「ヨナ書」を英訳・出版した。しかし神聖ローマ帝国の官憲によって異端としてブリュッセル近郊フィルフォルドに於いて監禁・処刑された。彼の英訳聖書は一五三九年の「大聖書」及び一六一一年の「欽定訳聖書」の基礎となったとある。しかし、ここでモースが洒落た意味はそれ以上分からない私には依然不明である。識者の御教授を乞うものである。因みに、底本の「1」の巻末にある藤川玄人の解説によれば、『モースの父親は厳格なピューリタン的人物で、生来自由奔放な息子とは肌が合わなかった。父親が教会に行くように命じても、彼には教会が幸せを与え、魂を救ってくれる場所だとは信じることができなかった』とあり、モースは一八九五年三月六日の日記に『「神は我われに、微笑め、と言う。だが教会には陰鬱さが漲(みなぎ)っている。一方、自然は、花は、みな微笑み美しい」と』書いているとある。これが一つのこの箇所を読解するヒントとなっているようには私には感じられる。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第八章 東京に於る生活 12 彫師と挽物師

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図―206

 木版職人が仕事している所も、中々興味がある。彼等か我国でするように小口を刻みはせず、木理の面を刻むが、スーッスーッと非常に速く刀を使う。印形を彫るには、我国の木彫と同様、小口をきぎみ、そして木も黄楊のように見えるから、我国のと同じものなのであろう。人は誰でもみな印形を持っている。買物をすると、受取書は赤い色の印形で調印される。印形の漢字は、我々が同様の目的に、古代英語の文字を使用するであろうが如く、古代の様式のが書かれる。図206は手当り次第集めた印形のいくつかを示している。書物の多くは一頁大の版木から印刷される。写字者が一頁を、薄い透明な紙に書き、この紙を表面を下に版木にはりつけるから、透いて見える字はひっくり返しになる。彫み手はさきの鋭い小刀を、しつかりと手に持ち、それを手前へ素速く動かして、紙ごと木を彫む。字の輪郭を彫り終ると、円鑿(のみ)で間にある木を取り去る。往来に面して開いた、ある小さな部屋で、七人の彫刻師が働いていた。四人が一列になり、残り三人はそのすぐ後に、これも一列になっていた。彼等は高さ一フィートの卓子(テーブル)を前に、例の如く床に坐って、人々が見つめ、時々光線をさえぎるのも平気で、働き続けた。
[やぶちゃん注:「手当り次第集めた印形のいくつかを示している」とあるが図は一つしかない。石川氏も直下に『〔?〕』と割注を入ておられる。この篆刻の字、どなたか読めませんか?]

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図―207

 挽物(ろくろ)師が木の細工をする有様も、同様に奇妙である。旋盤は簡単な一本の回転軸で、それに皮帯を五、六回捲きつけ、皮帯の両端は環になっていて、挽物師はここに両足を入れる。彼は旋盤の一端に坐り、両脚を上下に動かして回転軸を前後に回転させ、この粗末で原始的な方法で、非常にこまかい入籠(いれこ)の箱その他をつくる(図207)。別の場所では、一人の男が何等かの金属性のものを旋盤にかけ、男の子が皮帯を前後に引っぱっていた。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第八章 東京に於る生活 11 チョウナと芋洗い



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図―204

 

 大工が仕事をしているのを見てハラハラするのは、横材を切り刻むのに素足でその上に立ち、剃刀のように鋭い手斧を、足の指から半インチより近い所までも、力まかせに打ち降すことである(図204)。彼等はめったに怪我をしないらしい。私は傷痕や、掃をなくした跡を見つけようとして、多数の大工を注意して見たが、傷のあるのはたった一人だった。私がその大工の注意をその傷痕に向けると、彼は微笑して、脚部にある、もっと大きな傷を私に見せ、手斧を治さしながらまた微笑した。

[やぶちゃん注:これは図から分かるように「釿(ちょうな)」である。ウィキの「釿」には何と! モースのこの部分が解説に現われる! これだから好きさ! ウィキペディア!]

 


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図―205

 

 図205は、市場で薩摩芋を洗っている人の写生図である。桶には芋が半分ばかり、水にひたっている。二本の長い丸太棒は真中で結んであり、人は単に両腕を前後させる丈で、棒の先端を桶の中で回転させる。市場へ行ってすぐに気がつくのは、蕪、大根、葱その他すべての根生野菜が、如何にも徹底的に洗い潔めてあることである。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第八章 東京に於る生活 10 God damn it !

 大学での具その他の海生物に関する仕事は、うまい具合に進行しつつある。私は展覧の目的で、只のいろいろな「種」をテーブルにのせたり、標票(ラベル)をつけたりしている。今朝貝の入った皿を動かしていた時、私はすこし開いた扉に衝突して、貝のいくつかをこぼした。そこで私は、不幸にも且つ誤謬的に、瀆神(とくしん)語の範疇に入れられてある古い純然たるサクソンの表現を、語気強く使用した。私が癇癪を起したのを見て、助手は微笑した。で、かねて私は、日本人が咒罵(じゅば)しないという事を聞いていたので、助手に向って、このような場合、脳の緊張を軽減するために、何かいわぬのかと質ねた。彼は日本人も時として呪語を使用すると白状した。これはいい、時々必要を感じる日本語の咒罵語が覚えられる――と私は思った。然るに助手が教えてくれたのは「厄介な」とか「面倒な」とかいうようなことを意味する言葉で――多分我国の“Plague take it!”程度の表示であろう――これが日本人の瀆神の最大限度なのである。しばらくしてから私は陶器の急須を落した。幸い割れなかったので、別に呪語めいたこともいわなかったが、助手に日本人はこんな場合、どんなことをいうかと聞いた所が、「俺に別れの挨拶をしないでこんな風に別れて行くお前は何と無礼であることよ!」という意味のことを、急須に向っていうだけだとのことであった。
[やぶちゃん注:「瀆神語の範疇に入れられてある古い純然たるサクソンの表現」原文は“a good old Saxon expression which is unfortunately and erroneously put in the category of profane words.”でその表現自体は記されていないが、恐らくは“God damn it !”の類いであろう。
「日本人が咒罵しない」原文“Japanese did not swear”。“swear”は呪いや怒りを以て~を罵る、~に毒づくことで、まさに“Damn it!”“God damn it!”“Blast!”(“damn!”の婉曲表現)などの怒りや軽蔑を含む表現を口にする、という動詞である。「咒罵」は「呪罵」で、呪い罵るの意。あまり見慣れぬ語であるが「瀆神的」表現を上手く出している。
『「厄介な」とか「面倒な」とかいうようなことを意味する言葉』ピンとこない。「いまいましい!」「面倒臭せえ!」ぐらいしか浮かばないのだが。識者の御教授を乞うものである。
「“Plague take it!”」底本には直下に訳者の『〔罰あたり奴〕』という割注がある。“Plague”は天罰のような災い・災難・不幸・不運の謂いで、“Plague on it him!” “Plague take it him!”などと使い、「いまいましい!」「畜生!」の謂いとする。
「俺に別れの挨拶をしないでこんな風に別れて行くお前は何と無礼であることよ!」原文は“How impolite you are to leave so unceremoniously without saying good-bye!”なのだが、モース先生、日本語の発音のままに残しておいて呉れたら、目から鱗だったのですがねえ……。どなたか、この時に助手が言った言葉、ドンピシャリ、と教えて呉れませんか?]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第八章 東京に於る生活 9 モースによる帝都東京の原風景のスケッチ

 九月八日。気持のいい天気で、新鮮な、勢をつけるような風が、故郷に於ると同様に、我々をシャンとさせる。私は追々我々のに比べると、時に恐ろしくじゃれる猫のやり方が、快活な犬とまるで違うように違う、日本の習慣に慣れて来る。この広い都会を歩くのにも、いくらか見当がついて来て、もう完全に旅人ではないような気がしている。昏迷と物珍しさとは、ある程度まで減じたが、これは私に古い事を更に注意深く観察し、新しい事をよりよく会得する機会を与える。人力車で町々を通ったり、何度も何度も大学へ往復したりするのは、常に新奇で、そして愉快な経験である。必ず何か新しい物が見えるし、古い物とて見飽きはしない。低い妙な家。変った看板やバタバタいう日除け。長い袖を靡かせて、人力車の前を走りぬける子供達。頭髪をこみ入った形に結って、必ず無帽の婦人。老女は家鴨のようにヨタヨタ歩き、若い女は足を引きずって行く。往来や、店さきや、乗っている人力車の上でさえも、子供に乳をやる女。ありとあらゆる種類の行商人。旅をする見世物。魚、玩具、菓子等の固定式及び移動式の呼び売人、羅宇屋(らうや)、靴直し、飾り立てた箱を持つ理髪人――これ等はそれぞれ異った呼び声を持っているが、中には名も知れぬ鳥の啼声みたいなのもある。笛を吹きながら逍遙(さまよ)い歩く盲目の男女。しゃがれた声と破れ三味線で、歌って行く老婆二人と娘一人。一厘貰って家の前で祈禱する禿頭の、鈴を持った男。大声で笑う群衆にかこまれて話をする男。興味のあるお客をのせて、あちらこちらに馳ける人力車。二人で引く人力車には、制服を着た士官が、鹿爪らしく乗っている。もう一台のでは、疲れ切ったらしい男が二人、居ねむりをして、頭をコツンコツンやっている。別のには女が二人、各々赤坊を抱いている。もう一台のには大きな子供を膝にのせた女が一人、子供は手に半分喰った薩摩芋を持ち、その味をよくするつもりで母の乳房を吸っている――これ等の光景の全部は、我々の目をくらませ、心を奪う。とても大きな荷物を二輪車に積んだのを、男達が「ホイ サカ ホイ、ホイダ ホイ」といいながら、曳いたり押したりして行く。歩道は無いので、誰でも往来の其中を歩く――可愛い顔をした、小さな男の子が学校へ行く。奇麗な着物を着て、白粉をつけた女の子達が、人力車をつらねて何かの会合へ急ぐ――そして絶間なく聞えるのは固い路でカランコロンと鳴る下駄の音と、蜂がうなるような話し声。お互に、糞丁寧にお辞儀をする人々。町の両側に櫛比(しっび)する店は、間口がすっかり開いていて、すべての活動を、完全にさらけ出している。傘づくり、提灯づくり、団扇に絵を描く者、印形屋、その他あらゆる手芸が、明々と照る太陽の光の中で行われ、それ等すべてが、怪奇な夢の様に思われ、そしてこれ等の種々雑多な活動と、混雑した町々とを支配するものは、優雅、丁重、及び生れついたよい行儀の雰囲気である。これが異教の日本で、ここでは動物を親切に取扱い、鶏、犬、猫、鳩等がいたら、それを避けて行くなり、又はまたいで行くなりしなくてはならず、米国では最も小心翼々としている鴉でさえも、ここでは優しく取扱われるので、大群をなして東京へ来るのだという、争う余地のない事実へ、私の心はしょっ中立ち戻るのである。
[やぶちゃん注:「ありとあらゆる種類の行商人。旅をする見世物。魚、玩具、菓子等の固定式及び移動式の呼び売人、羅宇屋、靴直し、飾り立てた箱を持つ理髪人――」原文は“peddlers of all kinds; traveling shows; restaurants; stationary and peripatetic hawkers of fish, of toys, of candy; pipe-repairers; shoe-menders; barbers with their ornamental box, —”で、“restaurants”「食い物屋」が落ちている。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第八章 東京に於る生活 8 精密巧緻な工芸品の数々

 今日の午後、私はまた博覧会へ行き、そこに充ちた群集の中を、歩きながら、財布を押え続けたりしないで歩き得ることと、洋傘をベンチの横に置いておいて、一時間立って帰って来てもまだ洋傘がそこにあるに違いないと思うことが、如何にいい気持であるかを体験した。「草を踏むべからず」とか「掏摸御用心」とかいうような立札は、どこにも見られぬ。私は今後毎週二回ずつここへ来て、芸術品を研究しようと思う。今日私は漆(うるし)細工の驚く可き性質――漆の種類の多さ、製出された効果、黄金、真珠等の蒔絵(まきえ)、選んだ主題に現われる繊美な趣味に特に気がついた。

 装飾品としてかける扁額(国内用か輸出向きかは聞きもらした)は、いずれも美しかった。純黒の漆を塗った扁額には、海から出る満月があった。月は文字通りの銀盤だが、それが海面にうつった光は、不思議にも黄金色であった。我々をいらいらさせるのは、日本の芸術の各種に於る、このような真実違犯である。もっとも私は日本の絵画に、三日月が、我国の絵でよく見受けるように、逆に描かれたのは見たことがない。閑話休題、この扁額は、壁にかかっているのを一寸見ると、完全に黒く、真黒な表面が闇夜を表現し、月は実によく出来ていて、低くかかり、一部分は雲にかくれている。が、よく見ると海岸があって、数艘の舟が引き上げてあり、大きな戎克(ジャンク)が三つ海上に浮び、一方の側には遠方の岸と、水平線上の低い山とが見える。これ等の芸術家が示す控え目、単純性、及びそれに撞着するようではあるが、大胆さは、実に驚く可きである。誰が黒い背地に黒い細部を置くことを思いつこうぞ!――真黒な印籠の上の真黒な浪! これは思いもよらぬことであるが、而も日本人が好んでやる数百のことがらの中の、たった一つなのである。

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図―200

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図―201

 磁器でつくつた美事な花環、桜の花、色とりどりな茨(いばら)や小さな花もあったが、これ等に比べると古いドレスデンやチェルシイの製品も弱々しく、パテでつくったように思われる。あっさりした象牙の扇子に漆で少数の絵を、実に素晴しく描いたものが九十ドル。雪景色を画いた屏風が九十五ドル。金属製の花瓶が六百ドル(後で聞いた所によると、これ等はみな外国へ売るためにつくったものである)。品物の多くについている値段を見ていて面白く思ったのは、一セントの十分の一までが書き込んであることである。通貨はエン=ドル、セン=セント、リン=一セントの十分の一である。リンは我国の古い五セント銀貨とほぼ同じ大さの、小さな銅貨である。この博覧会にあった二脚の彫刻した椅子(勿論外国人向き)は八円三十三銭七厘としてあった。こんなに細く区分するのでは、貯金も出来るであろう。一つの扁額(図200)は、竹の額も何もすっかり金属で出来ていた。長さは二フィートで、扁額は活字の地金に似ていた(後で聞いたのだが、この金属は多分シャクドゥと呼ばれる、銅と金との合金であったろう)。蜻蛉は高浮彫りで銀、重なり合っている花や葉は金、銀、金青銅で出来ていた。これは実に精巧な出来で、値段は百三十五ドルであった。その他、非凡な扁額が沢山あった。ある一枚には貝類を入れた籠が低浮彫りで表してあった。籠から貝が数個こぼれていたが、「種」を識別することも出来る位完全に出来ていた。又別のには、秋の木葉をつけた小枝があった。異る色彩の縮緬(ちりめん)で浮き上らせてつくつたいろいろな模様は、自然そのままであった。杉板でつくつた十枚ひとそろえの懸垂装飾には、奇麗な小さい意匠がついていたが、その中のきのこの一枚は図201で示した。一組の定価が一ドル三十セント。この作品で人を驚かすのは、すべての意匠の独創と、自然への忠実と、それ等の優雅と魅力とである。我々はデューラーの蝕銅版画の草が真に迫っているのに感心し、彼の荒野の絵に夢中になる。だがこの博覧会には、あまり名前を知られていないデューラー何百人かの作品が出ている。漆と黄金と色彩とで、森林中の藪や、竹林や、景色を示した大型な衝立に至っては、美の驚異ともいうべきである。これ等は写生するには余りに込み入り過ぎていたので、最も簡単なものだけを書いた。大胆な筆致で色を使用して布に魚類を描いたものは、それ等の魚のとりまとめ方が実に典雅でよかった(図202)。最も顕著な出品の一つを図203で示す。これは木理を高く浮き上らせた樫の円盤で、樽の頭位の大さがある。その上に、縁に近く、黒い金属でつくった牡牛があり、背中に乗っている童子は、円盤の中央に書かれた何等かの文句を、口をあけ、驚いたような様子をして見ている。童子の衣服は真珠貝を切り取ったもの、手と顔と、牛の頸の上の紐は金。これは実に無比無双で、美麗であった。

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図―202

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図―203

[やぶちゃん注:個人的には種を識別出来るほど精巧な、貝を入れた駕籠の浮彫を、モース先生、絵に残しておいて欲しかったです!
「金青銅」原文“gold bronze”。合金ゴールド・ブロンズ。銅90%・亜鉛5%・鉛3%・スズ2%から成る。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第八章 東京に於る生活 7 人形焼?

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図―199

 今日裏通を歩いていたら(ここの往来はみな裏通みたいだ)パンみたいな物を、子供のために、山椒魚(図199)その他の奇妙な生き物の形に焼いたものがあった。聞く所によると、東京のある場所では、菓子を蟾蜍(ひきがえる)、虫、蜘蛛等のいやらしい物の形につくつているそうである。それは実に完全に出来ていて、ひるまずに食った人が勝負に勝つのだという。また砂群菓子や寒天を使用して、実に鼻持ちのならぬような物をつくり上げる正餐もあるそうである。これ等はすべて食えば美味いのだが、むかつきやすい胃袋にとっては、とても大変な努力を必要とする。
[やぶちゃん注:これは人形焼のようなものか。]

 町の子供達は昨今、長い竹竿を持って蜻蛉(とんぼ)を追い廻している。また蜻蛉や螇蚚(ばった)の胴体に糸をむすび、その糸を竿につけて、これ等が小さな紙鳶(たこ)ででもあるかのように、飛ばせているのもある。

栂尾明恵上人伝記 59 明恵、泰時の荘園寄贈を固辞す

 次の歳、義時朝臣逝去して、彼の泰時、天下の事、掌(たなごゝろ)に握られける最初に、丹波の國に大庄一所、梅尾に寄進せられたりければ、上人仰せられけるは、かゝる寺に所領だにも候へば、住する僧ども何と惰懶懈怠(らんだげたい)に振舞ふとも、所領あれば僧食(そうじき)事(こと)闕(か)けまじ、衣裝も補ひぬべしなんど思ひて、無道心なる者ども籠り居て、彌(いよいよ)不當(ふたう)にのみ成り行き候べし。寺の豐(ゆたか)なるに耽りて兒(ちご)ども取り置き酒盛(さかもり)し、兵具(へいぐ)を提げ不思議の振舞ひ勝て計ふべからず。さもとある山寺の、佛の禁(とゞ)めに違ひてあさましく成り行くは、是より事起れり。只僧は貧にして人の恭敬(くきやう)を衣食とすれば、自ら放逸なる事なし。信々として實しく行道する處は、さすが末代なりと雖も、十方檀那の信仰も甚しければ、自然に法輪も食輪(じきりん)も盛なり。不律不如法(ふりつふによはふ)の僧侶の肩を並ぶる所は、只俗家に謗法(ばうはふ)の罪を與ふるのみにあらず、信仰歸依の輩も無ければ、日に隨つて衰微して荒廢の地とのみなれり。されば共に誠の本意にあらねども二つをくらぶれば、人の貴敬せざらんことに憚りて不律儀(ふりつぎ)に振舞はざるは、暫く法命(はふみやう)を嗣ぐ方はまさるべく候なり。又所領の寄りてよかるべき寺も候はんずれば、左樣の所に御計らひなんども候べし。かゝる寺に所領なんどの候はんは、中々法の爲には宜しからじと覺え候。返す返す加樣(かやう)に佛法を崇め給ふことありがたく候へども、此の所に限りて存ずる旨候とて返し奉られけり。
[やぶちゃん注:「次の歳、義時朝臣逝去して」誤り。第二代執権北条義時は承久の乱から三年後の貞応三(一二二四)年六月十三日に享年六十二で急逝した(「吾妻鏡」によれば脚気衝心のためとする)。
「泰時、天下の事、掌に握られける」北条泰時は同年六月十七日に六波羅探題を退任し、六月二十八日に執権となった(この前後に泰時の継母伊賀の方が実子政村を次期執権に擁立しようとしたとされる伊賀氏の変が起こっている)。
「大庄」大規模な荘園。
「惰懶(らんだ)」講談社文庫「明惠上人伝記」もこの語順。岩波版は「懶堕(らんだ)」とする。錯字のように思われるがママとした。]

 秋田城介義景は、其の後出家して上人の御弟子に成りて、大蓮房覺知(だいれんぼうかくち)とぞ云ひける。
[やぶちゃん注:父安達景盛の誤り。前注済。これが誤りであることは「大蓮房覺知」(「知」は正しくは「智」であるがしばしば通字とされる)がまさに景盛の法名であることからも分かる(義景の法名は「願智」である)。]

耳嚢 巻之七 肴の尖たゝざる呪事

 肴の尖たゝざる呪事

 

 老人小兒魚肉を喰ふ時、右魚の尖(とげ)不立(たたざる)には、左の眞言をとのふれば尖たつことなし。

  ドウキセウコンバンブツイツタイ

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。民間救急法呪(まじな)いシリーズ。なお、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版ではこの前に同様の呪いで「蜂にさゝれたる呪の事」がある。参考までにここに引いて注と現代語訳を附しておく(恣意的に正字化し、ルビは当該書を参考にしながらも私が必要と思った部分に附した)。

 

     蜂にさゝれたる呪の事

 

 蜂の巣ある所に立寄れば蟲毒(ちゆうどく)を請(うく)る事あり。南無ミヨウアカと云ふ眞言を唱ふれば、蜂動く事能はず、嘴(くちばし)を施す事もならざるなり。蜂を手にして捕へても、右真言を唱ふれば聊(いささか)害なし。予が許へ來る栗原翁、自身ためし見しと語りぬ。

 

 *やぶちゃん注

・「眞言」ここでは真言染みた呪文のこと。

・「栗原翁」このところ御用達の「卷之四」の「疱瘡神狆に恐れし事」の条に『軍書を讀て世の中を咄し歩行ありく栗原幸十郎と言る浪人』とある栗原幸十郎と同一人物であろう。根岸のネットワークの中でもアクテイヴな情報屋で、既に何度も登場している。

 

 *やぶちゃん現代語訳

 

     蜂に刺された際の呪(まじな)いの事

 

 蜂の巣がある場所に近寄ると蜂の毒を受けることがある。その際には「南無ミョウアカ」という呪文を唱えれば、蜂は動くことが出来なくなり、毒針を立てることも、これ、全く出来ずなるものである。蜂を直(じか)に手にて捕えた際にも、この呪文を唱えたならば、聊かも害を受けることがない。これは私の元へ参る例の栗原翁が、自身で試して見て確かなことである、と語って御座った。

 

これを見るにどうも本条はこの時一緒に栗原翁から語られたもののように感じられる。

・「ドウキセウコンバンブツイツタイ」波のカリフォルニア大学バークレー校版には、

 とうきせうこん萬物一體

(恣意的に漢字を正字化した)とある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 魚の骨が咽喉に刺さらぬようにする呪(まじな)いの事

 

 老人や小児が魚肉を食う際、その魚の鋭い骨が咽喉に刺さらぬようにするには、左の呪文を唱えれば棘(とげ)は、これ、立つことがない。

  ドウキセウコンバンブツイツタイ

由比北洲股旅帖 しじち氏 北溟子355句 アムール句集より

「由比北洲股旅帖(ゆひほくしふまたたびちやう)」を創始す。こは電子網巷間を彷徨せる内に我北洲が風狂の琴線に觸れし場所を備忘せるものなり。

一 しじち氏「北溟子355句 アムール句集より」二〇一三年八月十七日

我ら祕かに成さんと目論みありし故山本幡男氏が俳句集、既にしてここにて總覽されてありし。感慨無量也。

このしじち氏は、かの我が日錄に膨大なる訪問者を齎したるところの番組が關係者ならんか、「撮影中に訪問者あり!」てふ日錄もありたり。



――由比北洲――“Ubiquitous”である――

莟から莟へあるいてゆく人 大手拓次

 莟から莟へあるいてゆく人

まだ こころをあかさない
とほいむかうにある戀人(こひびと)のこゑをきいてゐると、
ゆらゆらする うすあかいつぼみの花(はな)を
ひとつひとつ あやぶみながらあるいてゆくやうです。
その花の
ひとの手にひらかれるのをおそれながら、
かすかな ゆくすゑのにほひをおもひながら、
やはらかにみがかれたしろい足(あし)で
そのあたりをあるいてゆくのです。
ゆふやみの花と花とのあひだに
こなをまきちらす花蜂(はなばち)のやうに
あなたのみづみづしいこゑにぬれまみれて、
ねむり心地(ごこち)にあるいてゆくのです。

鬼城句集 夏之部 宵待草の花

宵待草の花 宵待草河原の果に落ちこむ日

 

[やぶちゃん注:「宵待草」「よひまちぐさ(よいまちぐさ)」は私には拘りのある花である。問題はここで鬼城の見ているそれが何色であるかということが問題になる。結論から言おう。これは九分九厘、太宰の「富嶽百景」の「富士には月見草がよく似合ふ」でも有力な同定候補であるオオマツヨイグサ Oenothera erythrosepalaの類であって、花の色は黄色である。宵待草(よいまちぐさ)は待宵草(まつよいぐさ)・月見草(つきみそう)・夕化粧(ゆうげしょう)などと呼ばれるが、双子葉植物綱フトモモ目アカバナ科 Onagroideae 亜科 Onagreae 連マツヨイグサ属 Oenothera に含まれる一群を特定せずに(狭義の使用区分は後述するように実際にはある)総称する通称である。この「宵待草」と同義である標準和名のマツヨイグサ(待宵草)の方はマツヨイグサ属マツヨイグサ Oenothera odorata というれっきとした一種のみを指すが、実際に「宵待草」や「待宵草」がこの種を限定的に指すものとして使用されることは、植物学や園芸家以外では、まずないと考えてよい。生態から見ても同属に属するものは花が多くの種で黄色い四弁花であり、どの種も雌しべの先端が四裂するのを特徴とする。一日花であり、多くの種で夕刻に開花して夜間咲き続け、翌朝には萎んでしまい(園芸種としてしばしば見かけ、それが野生化もしているヒルザキツキミソウ Oenothera speciosa は昼間にも白または薄いピンク色の花を開いている)、これが複数の和名異名の由来となっているが、参照したウィキマツヨイグサによれば、実は『マツヨイグサ属には黄色以外の白、紫、ピンク、赤といった花を咲かせる種もある。標準和名では、黄花を咲かせる系統は「マツヨイグサ」(待宵草)、白花を咲かせる系統は「ツキミソウ」(月見草)と呼び、赤花を咲かせる系統は「ユウゲショウ」(夕化粧)などと呼んで区別しているが、一般にはあまり浸透しておらず、黄花系統種もよくツキミソウと呼ばれる。しかし黄花以外の系統がマツヨイグサの名で呼ばれることはまずない。なお黄花以外の種は園芸植物として栽培されているものが多い』(下線やぶちゃん)とある。鬼城の見ているのは河原に自生するそれであり、句の構図は広角で遠景、そこでは背の低い白色系の「月見草」などは映らないから、その点からも背の高い直径約七センチメートルに及ぶの大輪の花を咲かせるオオマツヨイグサ Oenothera erythrosepala か、それより低く、葉の細い マツヨイグサ Oenothera stricta の黄色い花になるのである(オオマツヨイグサは原産地は不明ながらヨーロッパで品種改良された園芸種と考えられており、日本には明治初期の一八七〇年代に渡来して野外に播種、帰化植物化したと思われる)。因みに私は黄色いオオマツヨイグサやマツヨイグサがあまり好きではない(従って太宰のキャッチ・コピーも好かぬ。但し、砂浜海岸に見られるコマツヨイグサ Oenothera laciniata やハマベマツヨイグサ Oenothera humifusa (コマツヨイグサに似るが茎が直立する)はいい。しかし前者は鳥取砂丘で砂丘を緑化する「害草」として駆除されているらしい)。ユウゲショウ Oenothera rosea に至ってはこれ見よがしな紅がはっきり言って嫌いである。……私が好きなのは……もうお分かりと思うが、白色可憐なツキミソウ(月見草)Oenothera tetraptera なのである(グーグル画像検索「Oenothera tetraptera」――白い花だけをご覧下さい。……三十年前、私の新築前の古い家の地所内の玄関脇に、野生のこの白いツキミソウ Oenothera tetraptera の群落があった。毎日のように泥酔して帰ると、この時期、夢幻(ゆめまぼろし)のように闇の中に十数輪の月見草がぼうっと輝いていたものだった。……ある夜、それを楽しみに千鳥足で帰ってみると……門扉の中側でありながら……一株残らず……綺麗にシャベルでこそがれて持って行かれていた……私はユリィディスを失ったオルフェのように地べたに膝をついて号泣した――]

伊豆の歌――土肥村所見 料理屋の裏戸ゆ見ゆる七輪のほのほ色なく夕暮れにけり 中島敦

酷暑の中のパソコン作業は未明に限る……



    伊豆の歌

      ――土肥村所見――

料理屋の裏戸ゆ見ゆる七輪のほのほ色なく夕暮れにけり

[やぶちゃん注:太字「ほのほ」は底本では「ヽ」。先の「河馬」歌群の中の「小蝦の歌――土肥海岸所見――」に注した、昭和一二(一九三七)年の手帳日記によれば、

八月二十九日(日)長濱ヘ行ク/美シキ日ナリ。中濱、諸節、籾山、山路、泳イデ居テ、水底ヲ見ル、自分ノ影ガ映ツテヰル、ダボハゼノ逃ゲテ行クノモ見エル、バス滿員、湘南デカヘル、

とあり、この「長濱」とは西伊豆の静岡県沼津市内浦長浜の可能性が高く、土肥に近い。これもその折りの吟詠であろう。即ち言わずもがなであるが、各歌群内では概ね時系列になっているようには思われるものの(「小笠原紀行」などは最も美しい時系列であろう)、これらの歌稿の歌群自体の順はあくまで部立編成で、巨視的に見ると歌群自体は編年時系列で配されたものではないことが分かる。]

2013/08/21

栂尾明恵上人伝記 58 明恵、北条泰時を喝破す

あまりのヒート・アップに冷房のない書斎での作業は僕もパソコンも難行苦行我慢大会状態――このシークエンスの明恵の不退転の毅然とした態度には憬れるものの……今夜、根性のない僕はこれを以て早々に退席致すこととと致します……すみませぬ、お上人さま……



 承久三年の大亂の時、梅尾の山中に京方(きやうがた)の衆(しゆう)多く隱し置きたる由聞えければ、秋田城介義景(よしかげ)此の山に打ち入りてさがしけり。狼藉(らうぜき)の餘り何とか思ひけん、大將軍泰時朝臣(あそん)の前にて沙汰あるべしとて、上人をとらへ奉りて、先に追ひ立てゝ六波羅へ參りけり。折節泰時朝臣物沙汰して侍に坐せられけり。軍勢堂上堂下に充滿せり。義景上人を先に立てゝ彼の前に至りて事の由を申す。泰時朝臣先年六波羅に住せられし時、此の上人の德を聞き及び給ひしかば、先づ仰天して、敬(うやま)ひ畏(かしこま)つて席を去つて上に居(す)ゑ奉る。此の體(てい)を見て義景謬(あやまち)し出しけるにやと興さめたる體なり。さて上人のたまひけるは、高山寺に落人(おちうど)多く隱し置きたりと云ふ沙汰の候なる、其はさぞ候らん、其の故は、高辨が有樣まま聞き及ぶ人も候らん、若きより本寺を出で處々に迷ひ行き候ひし後は、日比(ひごろ)習ひおき候ひし法文の義理の、心に浮かぶだにも更に庶幾(こひねが)はざる處なり。まして世間の事に於いては一度も思量(しりやう)するに及ばずして年久しく罷(まかり)成り候ひき。されば貴賤につけて、人の方人(かたうで)せんと云ふ心起ると云ふも、沙門の法にあるまじきことにて候。其の上かゝる心の一念萌(きざ)せども二念と相續することなし。何に依りてか、少しも人の方人する事候ふべき。又人の祈りは緣に付て、してたべと申す人も多く候ひしかども、一切衆生の三途(さんづ)に沈みて苦しみ候をこそ、先づ祈りて助くべくは祈り候はんずれ。是等を皆祈り浮かべて後こそ、浮世(うきよ)の夢の如くなる暫時の願をば祈りても奉らんずれ。大事の前に小事なしと返答して、更に用ひずして又年月を遙に積れり。されば高辨に祈り誂(あつら)へたりと申す人、今生界(こんじやうかい)の中によもあらじと覺え候。然るに此の山は三寶寄進の所たるに依りて、殺生禁斷の地なり。仍て鷹に追はるゝ鳥、獵に逃ぐる獸、皆爰に隱れて命を續ぐのみなり。されば敵を遁るゝ軍士のからくして命ばかり助かりて、木の本岩のはざまに隱れ居候はんをば、我が身の御とがめに預りて、難に逢ひ候はんずればとて、情(なさけ)なく追ひ出して敵の爲に搦(から)め取られ、身命を奪はれんことをかへりみぬことやは候べき。我が本師能仁(のうにん)の古は、鳩に替りて全身を鷹の餌となされ、又飢えたる虎に身をたび候ひしぞかし。其れまでの大慈悲こそ及び候はずとも、かばかりのことの無くやは候べき。隱す事ならば袖の中にも、袈裟の下にも隱してとらせばやとこそ存じ候ひしか。向後(かうご)々々も資くべく候。是れ政道の爲に難義(なんぎ)なる事に候はゞ、即時に愚僧が首をはねらるべしと云々。泰時朝臣此の仰を聞き給ひて、頻に感涙を流し、申し給ひけるは、子細も知らぬ田舍夷(いなかゑびす)どもの、左右(さう)無く參り候ひて、狼藉仕り候ひけること、返す返す不可思議に候。剩(あまつさ)へ、尊體(そんたい)をさへ是れまで入れ申し候條、其の恐れ少なからず候。今度若し無爲(むゐ)に上洛仕り候はゞ、最先(まつさき)に參上仕り候うて生死の一大事を歎き申すべきの由、深く心中に插(はさ)み存じながら、此の悤劇(そうげき)に障へられ候うて、今に其の義なく候ひつるに不思議に御目に懸かり候、然るべき三寶の御計らひかと存じ候。其に付きては如何してか生死をば離れ候べき。又此の如く、物沙汰(ものさた)に聊かも私なく理のまゝに行ひ候はゞ罪には成るまじきにて候やらんと云々。上人答へ給ひけるは、少きも理に違(ちが)ひて振舞(ふるま)ふ人は後生(ごしやう)までもなく今生(こんじやう)にやがて滅ぶる習ひなり。其は申すに及ばず、縱(たと)ひ正理のまゝに行ひ給ふとも分々(ぶんぶん)の罪脱(のが)れぬことあるべし。生死の助けとならん事は思ひも寄らぬことなり。山中に嘯(うそぶ)く僧侶すら猶佛法の深理(しんり)に叶はざれば、輪廻の苦しみ免れ難し。况んや俗塵(ぞくじん)の境に心を發して、雜念(ざふねん)に覊(ほだ)されて佛法と云ふことをも知らずして明かし暮さん人をや、世に大地獄と云ふ物の現ずるは、只其等の御樣なる人の墮て煮返(にへかへ)らん料にてこそ候へ。無常の殺鬼(せつき)は弓箭(ゆみや)にも恐れず、刀杖(たうぢやう)にも憚らざる者なり。只今とても引きつり奉りて行かん時は如何し給ふべき。實(げ)に生死を免れんと思ひ給はゞ、暫く何事をも打ち捨てゝ、先づ佛法と云ふことを信じて、其の法理(はふり)を能々辨(わきま)へて後、せめて正路に政道をも行ひ給はゞ、自ら宜しきことも候ふべしと云云。泰時大に信仰の體(てい)に住(ぢゆう)して、殊に思ひ入れる樣なり。さて御輿(みこし)用意して召させ奉りて、門のきはまで自ら送り出し奉りけり。其の後、世聊かしづまりて常に彼の山に參詣して法談なされけり。
[やぶちゃん注:「承久三年」西暦一二二一年。承久の乱はこの年の五月十四日に勃発、ちょうど一ヶ月後の六月十四日に京方は敗走、幕府軍が京へ侵攻して終わり、戦後に京都守護に代り新たに六波羅探題が設置され、幕府軍総大将北条泰時(当時三十九歳)が六波羅探題北方として就任し(南方には同じく大将軍として上洛した叔父北条時房が就任)、朝廷の監視及び西国武士の統率に従事していた。
「秋田城介義景」これは秋田城介安達義景の父で同じく秋田城介であった安達景盛の誤り。詳しくは講談社文庫「明惠上人伝記」の平泉洸の考証(二一三~二一五頁)を参照のこと。
「能仁」釈迦如来。以下の叙述はその前世での逸話。
「資く」「たすく」と訓じている。救援する。
「少きも」「すこしきも」と訓じ、少しでも、の意。
「世に大地獄と云ふ物の現ずるは、只其等の御樣なる人の墮て煮返(にへかへ)らん料にてこそ候へ」「御樣」は「おんさま」、「墮て」は「おちて」、「料」は「れう(りょう)」と読む。――この宇宙に大地獄というものが厳として現われるのは、ただそのような人々(前文の「少きも理に違ひて振舞ふ人」から「俗塵の境に心を發して、雜念に覊されて佛法と云ふことをも知らずして明かし暮さん人」までの、仏法から少しでも外れた行いをする人から仏法そのものを全く知らずに欲に執心して奔放に生きている人まで総てを指す)が堕ちて永く何度も何度も煮られるために他ならぬので御座る――というのである。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第八章 東京に於る生活 6 モースの加賀屋敷第五番の家


M198

図―198

 

 今や私は加賀屋敷第五番に、かなり落着いた。図198は、私が住んでいる家を、ざっと写生したものである。これは日本人が建て、西洋風だということになっている。急いでやったこのペン画は、本物の美しい所をまるで出していない。巨大な瓦屋根、広い歩廊、戸口の上の奇妙な日本の彫刻、椰子(やし)、大きなバナナの木、竹、花の咲いた薔薇等のある前庭によつて、この家は非常に人の心を引く。家の内の部屋はみな広い。私が書簡室即ち図書室として占領している部屋は、長さ三十フィート幅十八フィートで高さは十四フィートある。これがこの家の客間なので、これに接する食堂とのしきりは折り戸で出来ている。床には藁の莚を敷いて、家具を入れぬ情況の荒涼さが救ってある。夜は確かに淋しい。頭の上では鼠が馳けずり廻る。天井は薄い板に紙を張った丈なので、鼠は大変な音をさせる。床は気温の変化に伴って、バリンバリンといい、時に地震があると屋根がきしむ。そして夜中には、誰でも、確かに歩廊を私(ひそ)かに歩く足音が聞えたと誓言するであろう。だが、私は押込み強盗や掏摸(すり)等のいない、異教徒の国に住んでいるので、事実、故郷セーラムの静かな町にいるよりも、遙かに安心していられる。

[やぶちゃん注:「椰子」原文“palms”であるが、これは棕櫚と訳すべきところであろう。単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科シュロ属 Trachycarpus のワジュロ(和棕櫚)Trachycarpus fortunei か、トウジュロ(唐棕櫚)Trachycarpus wagnerianus であろう。ウィキの「シュロ」によれば、ワジュロは『日本では九州地方南部に自生する。日本に産するヤシ科の植物の中ではもっとも耐寒性が強いため、東北地方まで栽培されている』とあるし、トウジュロの項には『中国大陸原産の帰化植物で』あるが、『江戸時代の大名庭園には既に植栽されていたようである』ともあるから孰れの可能性もある。

「バナナ」原文も“big banana plant”とあるが、単子葉植物綱ショウガ亜綱ショウガ目バショウ科バショウ Musa basjoo と思われる。図―198の玄関の向かって右側に描かれている。

「長さ三十フィート幅十八フィートで高さは十四フィート」客間は長辺が約9・1メートル/幅約5・8メートル/高さ約4・3メートルで、すこぶる広い。モースが自慢したくなるのも尤もである。

「故郷セーラム」原文は“my quiet town of Salem”。モースの生地はメイン州ポートランドであることを知らない読者には「故郷」という訳はやや問題があるように思う。モースは一八六七年、二十九歳の時に三人の研究仲間とともにマサチューセッツ州エセックス郡セイラムに「ピーボディー科学アカデミー」(一九九二年以降はピーボディ・エセックス博物館。名は寄附と援助をしてくれた銀行家で慈善家でもあった George Foster Peabody に因む)を開き、そこで一八七〇年まで軟体動物担当の学芸員を務めたが、一八六八年にこのセイラムに終生の家を構えている(このデータはウィキエドワード・S・モースに拠った)。「故郷アメリカの、静かなセーラムの町」「住み馴れた懐かしの静かなセーラムの町」ぐらいが穏当であるように思う。]

耳嚢 巻之七 國栖の甲の事

 國栖の甲の事

 

 武田信玄國栖(くず)の甲(かぶと)は、高貮百石にて大御番(おほごばん)元勤(つとめ)し渡邊左次郎家に傳はりしを、見し人の語りしは、頭形(づなり)三枚錣(しころ)にて打見(うちみ)は麁末(そまつ)に見ゆれど、右錣の裏に切金(きりかね)入(いり)候、國栖草(くづくさ)の蒔繪(まきゑ)にて、同庇(ひさし)に信玄自筆にて款(くわん)を認(したた)めたり、

  いかにせん國栖のうら吹秋風に下葉の露殘りなき身は

 上州白井(しろゐ)にて妙珍信家(めうちんのぶいへ)の作也。甲州侍下條伊豆守戰國に浪々して、其悴(せがれ)渡邊家へ養(やしなは)れける故、今彼(かの)家に持(もち)傳へしと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。標題は「國栖(くず)の甲(かぶと)の事(こと)」と読む。

・「國栖」「國栖草」は葛唐草で唐草模様のこと。因みに、「葛(くず)」の元は古えの大和吉野川上流の山地にあったという村落「国栖(くず)」で、ここの民が葛粉を作っていたことに由来するという。この「くず」という読みは「くにす」の音変化で、この村人「くずびと」は特に選ばれて宮中の節会に参じ、贄(にえ)を献じ、笛を吹き、口鼓(くちつづみ)を打って風俗歌を奏したという。なお岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『国栖唐草』となっている。

・「大御番」大番。常備兵力として旗本を編制した警護部隊で、江戸城以外に二条城及び、この大坂城が勤務地としてあり、それぞれに二組(一組は番頭一名・組頭四名・番士五〇名、与力一〇名、同心二〇名の計八五名編成)が一年交代で在番した(以上はウィキの「大番」に拠る)。

・「渡邊左次郎」底本鈴木氏注に、渡邊英(さかえ)とし、安永五(一七七六)年に三十六歳で大番とあるから、生年は寛保元・元文六(一七四一)年で、「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年当時も存命であれば、六十六歳。

・「頭形」頭形兜(ずなりかぶと)。平安末期に発生したと考えられている兜の一形式。三~五枚と少ない鉄板から成り、制作の手間もコストも比較的低かったことから戦国以降に広く使用された。名前の通り、兜鉢の形は人間の頭に似ているのが最大の特徴である。参照したウィキの「頭形兜」に錣(兜の鉢の左右・後方に附けて垂らし、首から襟の防御とするもの)についての詳しい形状のほか、写真もあるので参照されたい。

・「打見」ちらっと見たところ、ちょっと見の意。

・「切金」金銀の薄板を小さく切って、蒔絵の中にはめ込む技法。箔より少し厚めのものを用いて図中の雲などにあしらう。

・「同庇」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『間庇』で、これだと、「眉庇」「目庇」(まびさし)で、兜の鉢の前方に庇のように出て額を蔽う部分の意。「同」は誤写かも知れないが、意味は通る。

・「款」金石などに文字をくぼめて刻むこと。また、その文字。但し、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『歌』。これも誤写かも知れないが、意味は通る。

・「いかにせん國栖のうら吹秋風に下葉の露殘りなき身は」底本には下の句の「露殘」の右に『(ママ)』注記がある(訳では「の」を補った)。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版には(正字化した)、

 いかにせんくずの裏吹く秋風に下葉の露の殘りなき身を

とある。この和歌は「新古今和歌集」の「卷第一三 戀歌三」に載る相模の(国歌大観一一六六番歌)、

   人しれず忍びけることを、文(ふみ)などちらすと聞きける人につかはしける

 いかにせん葛のうらふく秋風に下葉の露のかくれなき身は

のインスパイアである。元歌は、送った恋文をあちらこちらで面白がっては見せていると噂に聴いた男にへの恨み節で、

――いったいどうしたらよいのでしょうか……葛の葉裏を吹き返す秋風のために下葉におかれていた露がすっかりあらわになってしまうように……私の飽きがきた貴方のために今やすっかり世間の晒し者とされてしまった消え入らんばかりに恥ずかしく淋しいこの我が身を……お恨み申しますわ――

であるのを、戦場に、所詮、露の如くに儚い残り少なき身――命を散らす、この兜を被った武将の、不惜身命是非に及ばずという諦観と覚悟に鮮やかに転じたもの。

・「上州白井」現在の群馬県群馬郡子持(こもち)村白井(しろい)。

・「妙珍信家」(文明一八(一四八六)年?~永禄七(一五六四)年?)室町末期から戦国期にかけての甲冑師。甲冑工を本職としてきた明珍家の第十七代。「明珍系図」によれば、前記の上野国白井に住し、初名を安家、後に剃髪して覚意と号したという。また、武田晴信から一字を賜って信家と改名、甲州(現在の山梨県)や相模小田原にも移り住んだともされるが確証はない。古来、鐔工として著名な信家と同一人物視されたこともあったが、現在では別人と見做されている(「朝日日本歴史人物事典」に拠ったが、「白井」の部部は底本の鈴木氏の注を援用した)。

・「下條伊豆守」底本の鈴木氏注に、『信州伊那郡下条村の富山城に拠った下条氏(甲陽軍鑑に下条百五十騎)は武田氏の勢力に屈し、信玄は一族の伊豆守信氏に下条の家名を襲わしめた』とある。ウィキの「下条信氏」によれば、下条信氏(しもじょうのぶうじ 享禄二(一五二九)年~天正一〇(一五八二)年)は戦国時代の武将で父は下条時氏。信濃小笠原氏、後の甲斐武田氏の家臣で、武田晴信(信玄)の義兄弟、信濃吉岡城(伊那城)城主。兵庫助、伊豆守。正室は武田信虎の娘。下条氏は甲斐国巨摩郡下条(韮崎市下条西割)から興った武田氏の一族とも言われているが、室町時代中期に小笠原氏から養子が入り、信濃下伊那郡へ入国したという。信濃国守護である小笠原氏に仕え、天文年間に本格化した武田氏の信濃侵攻においても反武田勢に加わっているが、天文二三(一五五四)年八月の鈴岡城攻略前後に武田方に服従、信濃国上伊那郡知久氏(ちくし:知久沢。現在の長野県上伊那郡箕輪町)を与えられている。弘治元(一五五五)年には時氏の死去により家督を継承、信氏は武田氏家臣で譜代家老衆であった秋山虎繁(信友)の配下となり、「甲陽軍鑑」では信濃先方衆に含まれている。武田晴信(信玄)からは重用されて、その妹を正室に与えられ、晴信の「信」を与えられて信氏と改名(「武田氏系図」による)、「下条記」では信氏ら下伊那衆は武田四天王の一人山県昌景(まさかげ)の相備衆(与力)に任じられた。以後は史料に名が見られないが、弘治三(一五五七)年の三河国武節(ぶせつ)城攻め、永禄四(一五六一)年の川中島の戦いに参戦している。「下条記」によれば、元亀二(一五七一)年四月には秋山に従って三河攻めに参加、足助(あすけ)城(真弓山(まゆみやま)城)番を務め、元亀三(一五七二)年から天正三(一五七五)年八月まで美濃岩村城番を務めている。天正一〇(一五八二)年二月、織田信長による甲州征伐が始まると吉岡城は織田の武将・河尻秀隆や森長可らに攻められることになるが、弟の氏長が織田軍に内応したため落城し、信氏は長男の信正と共に三河黒瀬に落ち延びた。武田氏の滅亡と本能寺の変を経た六月二十五日に遠江宮脇で死去。享年五十四、とある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 国栖唐草(くずからくさ)の兜(かぶと)の事

 

 武田信玄國栖(くず)の兜(かぶと)と申すもの、高二百石にて大御番(おおごばん)をもと勤めておられた渡邊左次郎殿の家に伝わっており、それを実見致いた人の語ったことには――

……その兜は頭形三枚錣(ずなりさんまいしころ)にて、一見、粗末な造りに見えるけれども、その錣の裏には切金(きりかね)細工が施されて御座って、それが国栖唐草(くずからくさ)の蒔絵(まきえ)という趣向、またその庇(ひさし)部分には、これ何と、信玄自筆にて款(かん)を認(したた)め、

  いかにせん国栖のうら吹秋風に下葉の露の残りなき身は

と彫られて御座る。

 しかもこれ何と、上州白井(しろい)の、かの名甲冑師妙珍信家(みょうちんのぶいえ)の作にて御座る。

 戦国の頃、甲州の侍であった下條伊豆守信氏(のぶうじ)は、浪人となって諸国を彷徨(さすら)って御座ったが、その間、信氏の倅(せがれ)が、かの渡邊家へ預けられ、養われたという因縁より、今に、かの渡邊家に伝えられておる、とのことで御座る。……

中島敦の歌群「Miscellany」中にある無題の纏まった十二首

ひたぶるに詠みけるものか四十日餘よそかまり五首の歌をわがつくれりし

拙なかるわが歌なれど我死なは友はまち元町まち)行き憶ひいでむか

わがいのちみじかしと思ひ街行けばものことごとに美しきかな

[やぶちゃん注:「ことごと」の後半は底本では踊り字「〲」。この時(底本年譜ではこの中島敦の歌群を「和歌五百首」と称しているが、それが成ったのは昭和一二(一九三七)年、中島敦満二十八歳の折りであった。彼の死は五年後の昭和一七(一九四二)年十二月四日のことであった)、中島敦には死の予兆とその諦観的思惟が既にしてあったことが窺われる。]

ほのぼのと人こひそめし心もちて初薄雪の朝を行かばや

[やぶちゃん注:「ほのぼの」の後半は底本では踊り字「〲」。]

人はしも我を得知らず知られむと我も願はず夜の町を行く

何故なにゆゑに我は我なりや」人知らず知らずして生くるをかしかりけり

裸木はだかぎ晝月ひるづきかゝりゐたりけりわれ三十になるといふ冬

[やぶちゃん注:「三十になるといふ冬」言わずもがなであるが数え年。]

あさりヽヽヽするバタヤのうたふ流行歌聞きつゝあればなにか明るし

我が歌はおならヽヽヽの如し腹内はらうちにたまりたまりてふと打出づる

[やぶちゃん注:「たまりたまり」の後半は底本では踊り字「〱」。]

敷島の大和の和歌うたは樂しけどわれのゐるべきところにあらじ

美しき白痴女といひてまし思想をもたぬ和歌うたの美しさ

デカルトの末裔われはなむとす三十一文字を戀しとは思へど

[やぶちゃん注:この最後の二首、私は不思議にひどく惹かれる。]

夢をうむ五月 大手拓次

 夢をうむ五月

粉(こ)をふいたやうな みづみづとしたみどりの葉つぱ、
あをぎりであり、かへでであり、さくらであり、
やなぎであり、すぎであり、いてふである。
うこんいろにそめられたくさむらであり、
まぼろしの花花(はなばな)を咲かせる晝(ひる)のにほひであり、
感情の絲にゆたゆたとする夢の餌(ゑ)をつける五月、
ただよふものは ときめきであり ためいきであり かげのさしひきであり、
ほころびとけてゆく香料の波である。
思ひと思ひとはひしめき、
はなれた手と手とは眼(め)をかはし、
もすそになびいてきえる花粉(くわふん)の蝶、
人人(ひとびと)も花であり、樹樹(きぎ)も花であり、草草(くさぐさ)も花であり、
うかび ながれ とどまつて息づく花と花とのながしめ、
もつれあひ からみあひ くるしみに上氣(じやうき)する むらさきのみだれ花、
こゑはあまく 羽ばたきはとけるやうに耳をうち、
肌のひかりはぬれてふるへる朝のぼたんのやうにあやふく、
こころはほどのよい濕(しめ)りにおそはれてよろめき、
みちもなく ただ そよいでくるあまいこゑにいだかれ、
みどりの泡(あわ)をもつ このすがすがしいはかない幸福、
ななめにかたむいて散らうともしない迷ひのそぞろあるき、
恐れとなやみとの網(あみ)にかけられて身をほそらせる微風の卵。

鬼城句集 夏之部 十藥 

十藥    十藥や石垣つづく寺二軒

[やぶちゃん注:「つづく」の「ゞ」は底本では「〵」に濁点の踊り字。「十藥」は「どくだみ」と読む。コショウ目ドクダミ科ドクダミ Houttuynia cordata のこと。但し、厳密にはこの表記はドクダミ全草を乾した漢方生薬の名称「ジュウヤク」を指す(主に利尿・抗菌)。この名称は馬の薬として十種の効果があるという伝承に由来する。因みに和名ドクダミは「毒矯(どくだ)み」で「毒を抑える」の意に基づく。]

2013/08/20

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第八章 東京に於る生活 5 第一回内国勧業博覧会で(3)

 播磨の国の海にそった街道を、人力車で行きつつあった時、我々はどこかの神社へ向う巡礼の一群に追いついた。非常に暑い日だったが、太平洋から吹く強い風が空気をなごやかにし、海岸に大きな波を打ちつけていた。前を行く三、四十人の群衆は、街道全体をふさぎ、喋舌ったり、歌ったりしていた。我々は別に急ぎもしないので、後からブラブラついて行った。と、突然海から、大きな鷲が、力強く翼を打ちふって、路の真上の樫の木の低い枝にとまった。羽根を乱した儘で、鷲は喧しい群衆が近づいて来るのを、すこしも恐れぬらしく、その枝で休息するべく落着いた。西洋人だったら、どんなに鉄砲をほしがったであろう! 巡礼達が大急ぎで巻いた紙と筆とを取り出し、あちらこちらから手早く鷲を写生した有様は、見ても気持がよかった。かかる巡礼の群には各種の商売人や職人がいるのだから、これ等の写生図は後になって、漆器や扇を飾ったり、ネツケを刻んだり、青銅の鷲をつくつたりするのに利用されるのであろう。しばらくすると群衆は動き始め、我々もそれに従ったが、鷲は我々が見えなくなる迄、枝にとまっていた。

[やぶちゃん注:これはずっと後、明治一二(一八七九)年、モースが一時帰国(九月三日離日)する前の九州・関西旅行の途次のエピソードと思われる。モースは離日に際し、未だ未踏の西日本への踏査を望んだ(磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば『九州行は動物採集が大きな目的であったが、関西訪問は陶工を訪問し、陶器を収集することが主たるねらいだった』とある)。同年五月七日に船(上海行「名古屋丸」。東海道線の開通は十年後の明治二二年)で横浜を出発、神戸に九日の午後三時に着き、ここで一時下船して布引の滝(兵庫県神戸市中央区葺合町)を訪ねている。神戸港からのそこへの路程は海沿いではなく内陸方向であるが、実はこの時、海岸で貝類を採集している模様で(前掲書二五〇頁。この後、神戸で一泊したモースは、同じ名古屋丸で十日午後に出航、馬関(現在の下関)に寄った後、十二日に長崎に着いている)、私はこの折りか、若しくはこの長崎からの帰途、六月七日に神戸に着き、再び神戸で数日間ドレッジをしているから、その孰れかの折りの体験ではなかろうかと推測している(可能性が高いのは滞在期間が短い往路ではなく復路の時である)。

「ネツケ」原文は“a netsuki”。

 

 維新から、まだ僅かな年数しか経ていないので、博覧会を見て歩いた私は、日本人がつい先頃まで輸入していた品物を、製造しつつある進歩に驚いた。一つの建物には測量用品、大きな喇叭(ラッパ)、外国の衣服、美しい礼服、長靴や短靴(中には我々のに匹敵するものもあった)、鞄、椅子その他すべての家具、石鹼、帽子、鳥打帽子、マッチ、及び多数ではないが、ある種の機械が陳列してあった。海軍兵学寮の出品は啓示だった。大きな索条(ケーブル)、繩(ロープ)、滑車、船の索具全部、それから特に長さ十四フィートで、どこからどこ迄完全な軍艦の模型と、浮きドックの模型とが出ていた。写真も沢山あって、皆美術的だった。日本水路測量部は、我国の沿岸及び測量部にならった、沿岸の美しく印刷した地図を出していた。又別の区分には黎(すき)、耨(くわ)、その他あらゆる農業用具があり、いくつかの大きなテーブルには米、小麦、その他すべての日本に於る有用培養食用産品が、手奇麗にのせてあった。学校用品は実験所で使用する道具をすべて含んでいるように見えた。即ち時計、電信機、望遠鏡、顕微鏡、哲学的器械装置、電気機械、空気喞筒(ポンプ)等、いずれもこの驚くべき国民がつくったものである。私が特にほしいと思った物が一つ。それは象牙でつくつた、高さ一フィートの完全な人間の骸骨である。この骸骨の驚異ともいうべきは、骨を趾骨に至る迄、別々につくり、それを針金でとめたことで、手は廻り、腕は曲がり、脚は意の如く動いた。肋骨と胸骨とをつなぐ軟骨は、黄色い角で出来ていて、拵え作った骸骨の軟骨と全く同じように見えた。下顎は動き、歯も事実歯窠(しか)の中で動くかのように見えた。

[やぶちゃん注:「浮きドック」原文“drydock”。海事用語で係船ドック・潮入り岸壁をいう。

「哲学的器械装置」原文“philosophical apparatus”。これは「理化学器械装置」と訳すべきところである(“philosophy”は狭義には哲学であるが、元来は医学・法学・神学以外の全学問を示す。「島津製作所創業記念資料館」公式サイトの「新島 襄との関わり」のページに、島津製作所が明治一五(一八八二)年に発行した「理化器械目録表」が一八六八年にアメリカの科学器機メーカー E.S. Ritchie & Sons 社のカタログ“RITCHIE'S CATALOGUE PHILOSOPHICAL APPARATUS”を模したものと推測されている、とあることからも「理化学」と訳しておかしくない)。

「象牙でつくつた、高さ一フィートの完全な人間の骸骨」不詳。1フィートは30・48センチメートル。象牙製でしかも生物学者モースが唸って手に入れたいというほど精密な(永久歯も埋め込んであるようだというのはこの大きさでは凄い!)人体標本となればデータがあってしかるべきはずであるがネット上を管見した限りでは見当たらない。江戸時代に大阪の整骨医各務文献(明和二(一七六五)年~文政十二(一八二九)年)が製作した、精密で一見実物と区別が出来ないとも言われる人体骨格模型の通称「各務(かがみ)木骨」が現存(東京大学総合研究博物館蔵)するが、これは木製で、そもそも等身大である。識者の御教授を乞うものである。]

 


M197
図―197

 

 外国人向きにつくつた金物細工、像、釦金(とめがね)、ピン等は、みな手法も意匠も立派であった。ある銀製の像には、高さ四インチの人像が二つあり(図197)、一人が崖の上にいて、大きな岩を下にいる男に投げつけると、下の男はそれを肩で受けとめる所を示している。それには松の木もあるが、皆銀でこまかく細工してある。ここに出した写生図は、人像の勢と力とを不充分にしか示していない。

[やぶちゃん注:この図―197に示されたものは歌舞伎か何かの有名なワン・シーンと思われるが、その筋に冥い私には分からない。識者の御教授を是非、乞うものである。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第八章 東京に於る生活 5 第一回内国勧業博覧会で(2)



M194
図―194

 

 図194は長いテーブルで、娘が十人ずつ坐り、繭(まゆ)から絹を紡(つむ)いでいる所を写生した。これを百年記念博覧会に出したら、和装をした、しとやかな娘達は、どんなにか人目を引いたことであろう。紡ぐ方法は実に興味があった。私は一本の糸を繭から引き出してほぐすものと思っていた。繭は三十か四十、熱湯を入れた洗い鍋に入れ、写生図のテーブルの一隅にある刷毛を用いて、それ等を鍋の中でジャブジャブやる内に、繊維がほぐれて来て刷毛にくっつく。すると、くっついた繊維を全部紡ぐので、一本一本、切れるに従ってまた刷毛でひっかける。鍋の湯の温度は蒸気の管で保ち、上には紡のついた回転棒がある。

[やぶちゃん注:流石はモース先生、生物学者だ。繭を茹でる際には相当な臭いがしたはずで、室内にはその独特の臭気が籠っていたはずであるが、一言も言っていない。]

 

 何百人という人々を見ていた私は、百年記念博覧会を思い浮べた。そこには青二才が多数いて、薑(しょうが)パンと南京豆とをムシャムシャやり、大きな声で喋ったり、笑ったり、人にぶつかったり、色々なわるさをしたりしていた。ここでは、只一つの除外例もなく、人はみな自然的に、且つ愛らしく丁寧であり、万一誤ってぶつかることがあると、低くお辞儀をして、礼儀正しく「ゴメンナサイ」といって謝意を表す。人々の多くは、建物に入るのに、帽子を脱いだ。だが三人に一人は、扇子か傘で日をよける丈で、頭をむき出しにしているので、脱ぐべき帽子をかぶっていない者も多い。

[やぶちゃん注:「薑パン」原文“gingerbread”。ジンジャー・ブレッドは生姜を使った洋菓子の一種であるが、ここではジンジャー・クッキー(ginger cookie)を指しているように思われる。ジンジャー・クッキーは生姜を入れたクッキーの一種でクッキーの中でも伝統的なもので、「ジンジャー・ビスケット(ginger biscuit)」、アメリカでは「ジンジャー・スナップ(gingersnap)」などとも呼ばれる。参照したウィキの「ジンジャークッキー」の写真を見ると腑に落ちる。そこにはまた、『しばしばジンジャーブレッドとも混同され、両者の違いは必ずしも明確ではない』とも記されてある。]

 


M195
図―195

 

 虫の蝕った材木、即ち明かに水中にあって、時代のために黒くなった板を利用する芸術的な方法に就いては、すでに述べる所があった。この材料で造った大きな花箱に、こんがらかった松が植えてあった。腐った株の一片に真珠の蜻蛉(とんぼ)や、小さな青銅の蟻や、鉄線でつくった蜘蛛の巣をつけた花生けもある。思いがけぬ意匠と材料とを使用した点は、世界無二である。長さ二フィートばかりの、額に入っていた黒ずんだ杉板の表面には、木理をこすって目立たせた上に、竹の一部分と飛ぶ雀とがあった。竹は黄色い漆(うるし)で、小さな鳥は一種の金属で出来ていた(図195)。別の古い杉板(図196)の一隅には竹の吊り花生けがあり、金属製に相違ない葡萄(ぶどう)の蔓が一本出ていた。蔓は銀線、葉と果実とは、多分漆なのだろうが、銅、銀等に似せた浮ぼりであった。意匠の優雅、仕上げ、純潔は言語に絶している。日本人のこれ等及び他の繊美な作品は、彼等が自然に大いなる愛情を持つことと、彼等が装飾芸術に於て、かかる簡単な主題(Motif)を具体化する力とを示しているので、これ等を見た後では、日本人が世界中で最も深く自然を愛し、そして最大な芸術家であるかのように思われる。彼等は誰も夢にだに見ぬような意匠を思いつき、そしてそれを、借用し難い程の、力と自然味とで製作する。彼等は最も簡単な事柄を選んで、最も驚く可き風変りな模様を創造する。彼等の絵画的、又は装飾的芸術に於て、賛嘆すべき特長は、彼等が装飾の主題として松、竹、その他の最もありふれた物象を使用するその方法である。何世紀にわたって、芸術家はこれ等から霊感を得て来た。そしてこれ等の散文的な主題から、絵画のみならず、金属、木材、象牙(ぞうげ)で無際限の変化――物象を真実に描写したものから、最も架空的な、そして伝統的なものに至る迄のすべて――が、喧伝(けんでん)されている。

 

M196

図―196

 

[やぶちゃん注:「虫の蝕った材木、即ち明かに水中にあって、時代のために黒くなった板を利用する芸術的な方法に就いては、すでに述べる所があった」とは、先行する「第四章 再び東京へ」で日光から東京に帰る途中に宿泊した旅籠屋の庭を述べた描写で、『庭には水をたたえた小さな木槽があった。その材木は海岸から持って来たのである。事実それは船材の一部分で、色は黒く、ふなくい虫が穴をあけたものである。その中には岩と水草と真鍮の蟹その他が入っていた(図92)。それは誠に美しく、我国にでもあったら、最も上等な部屋の装飾として、熱心に探し求められるであろうと思われた』(太字「ふなくい虫」は底本では傍点「ヽ」)とあるのを指す。

「二フィート」約61センチメートル。]

 

 この地球の表面に棲息する文明人で、日本人ほど、自然のあらゆる形況を愛する国民はいない。嵐、凪(なぎ)、霧、雨、雪、花、季節による色彩のうつり変り、穏かな河、とどろく滝、飛ぶ鳥、跳ねる魚、そそり立つ峰、深い渓谷――自然のすべての形相は、単に嘆美されるのみでなく、数知れぬ写生図やカケモノに描かれるのである。東京市住所姓名録の緒言的各章の中には、自然のいろいろに変る形況を、最もよく見ることの出来る場所への案内があるが、この事実は、自然をこのように熱心に愛することを、如実に示したものである。

[やぶちゃん注:「形況」「けいきょう」と読む。有様。様子。状況。

「カケモノ」掛軸・掛物であるが、実は原文が“kakemono”となっているから石川氏はかく訳しているのである。

「東京市住所姓名録」原文“the directory of the city of Tokyo”。但し、PDF版を見てもこれは書名のようには見えず、当該英文や和訳のそれで検索してもそれと一致するものは見当たらない。これは何らかの機関か組織が、居留する在留英米人向に作成したの総覧的な東京府内在住外国人紳士録で、その冒頭に簡単な日本概説及び国内案内(ツアー・ガイド)風のものが書かれていたものかとも思われる。書物の体裁をとっていないリーフレットかパンフレットのようなものであったから、モースは特に書体を変えていないのではなかろうか? 識者の御教授を乞うものである。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第八章 東京に於る生活 5 第一回内国勧業博覧会で(1)

M192

図―192

 

 昨日私は人力車夫を月極(つきぎめ)で雇ったが、非常に便利である。彼は午前七時半にやって来て、一日中勤める。私が最初に彼の車に乗って行ったのは、上野の公園で開かれたばかりの産業博覧会で、私の住んでいる加賀屋敷からここ迄、一マイルばかりある。公園に着いた我々は、立派な樹木が並ぶ広い並木路を通って行ったが、道の両側には小さな一時的の小舎(こや)或は店があって、売物の磁器、漆器其他の日本国産品を陳列している。入場券は日曜日は十五セントで、平日は七セントである。入口は堂々たる古い門の下にあり、フィラデルフィアの百年記念博覧会の時みたいに、廻り木戸があった。大きな一階建ての木造家屋が、不規則な四角をなして建っている。美術館は煉瓦と石とでつくつた、永久的建築である。図192は農業館の入口を簡単に写生したもので、これは長さ百フィートの木造建築である。内には倭生の松、桜、梅、あらゆる花、それから日本の植木屋の面喰う程の「嬌態と魅惑」との、最も賛嘆すべき陳列があった。松の木は奇怪極る形につくられる。図193はその一つを示している。枝は円盤に似た竹の枠にくくりつけられるのだが、どんな小枝でも、根気よく枠にくくりつける。面白い形をしたのは、まだ沢山あったが、時間がないので写生出来なかった。ちょっとでも写生しようとすると、日本人が集って来て、私が引く線の一本一本を凝視する。この写生をやり終るか終らぬかに、丁寧な、立派ななりをした日本人の役人がやって来て、完全な英語で「甚だ失礼ですが、出品者の許可なしに写生することは、禁じてありあります」といった。私は元来写生をする為にやって来たのだから、これには閉口したが、知恵をしぼって、即座に米国の雑誌に寄稿することを決心し、この全国的博覧会の驚くべき性質を示す可く米国の一雑誌へ挿画入りの記事を書こうとしているのだと云った。これで彼は大分よろこんだらしく、次に私に、それは商業上の目的でやるのかと質問した。そこで生れてから一度も、松の木も他の木も育てたことが無く、またこの年になって、そんな真似を始めようとも思っていないというと彼は名刺をくれぬかといった。私はいささか得意になって Dai Gakku(偉大なる大学)と書いた名刺を一枚やった。すると彼の態度は急変し、それ迄意匠を盗む怪しい奴と思われていた私が、すくなくとも一廉(ひとかど)の人間になった。彼はこの件を会長と相談して来るといった。一方私は、会長がどんな決議をするか知らぬので、大急ぎで各館をまわり、出来るだけ沢山の写生をした。

 



M193


図―193

 

[やぶちゃん注:「産業博覧会」明治一〇(一八七七)年に上野公園で開催された政府主催の第一回内国勧業博覧会。既に注したようにモースは、この八月二十一日の同開会式に出席後、これから見るようにそこに出品された工芸品にいたく感動し、磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、『帰国するまでに少なくとも八回訪れ』ているとある。これは同書の注記から本書後文の「第九章 大学の仕事」の中で『博覧会が開かれてから、私は都合七回見に行き、毎回僅かではあるが、写生をして来ることが出来た』とあるのに加えて、その後の「第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚」の終わりの方で、モースが一時帰国をする送別会が行われ、その晩餐後に『一同で展覧会へ行った』という一回を加えているものと思われる。

「私の住んでいる加賀屋敷」「加賀屋敷」は原文でも“Kaga Yashiki”とある。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の「11 加賀屋敷と一ツ橋」によれば、『当時一般の外国人は定められた居留地、たとえば横浜居留地とか東京の築地居留地のなかに住まなければならなかったが、御雇い外国人は勤め先の近くに住むことを許されており、官庁では専用の宿舎を与えることも多かった。東京大学の場合、御雇い外国人教師用の教師館(宿舎)は、本郷加賀屋敷の医学部キャンパス内にあった、江ノ島から戻ってきたモースは、以後二年間その教師館五番館に住』んだとある。同章は十二頁に亙って、地図を交えてこの当時の教師や校舎、さらには当時の教授陣や講義内容を詳述しておられる。是非、御一読をお薦めするものである。その地図と現在の地図を比較するとモースの五番館は安現在の安田講堂の西北西一〇〇メートルほどの、工学部の建物が建つ辺りにあったもので、同書(一〇二~一〇三頁)によれば、『美しい花園に囲まれた平屋建』で『棟ごとに構えが異なり、どれもしゃれた造りで、内部も相当広』く、モースの五番館は『居間、食堂、書斎、二寝室、それに台所、浴室などと、使用人用の二部屋が付属し』、本文に出るお抱え人力車を用いて神田一ツ橋にあった法理文三学部の校舎(現在の学士会館附近)まで往復していたとある。

「1マイル」約1・6キロメートル。

「フィラデルフィアの百年記念博覧会」前年の一八七六(明治九)年、アメリカ建国百年を記念して開かれたフィラデルフィア万国博覧会のこと。因みにこの博覧会には日本の教育に関する歴史・教科書。教具などが出品されている(「国立公文書館デジタルアーカイブ」でその米国博覧会出品本邦教育物品臚場写真が見られる)。

「廻り木戸」原文“turnstiles”。人だけが通って牛馬の通れないような、また劇場や駅の入り口に一人ずつ人を通すために設ける回転式改札口。当時の日本では極めて珍しいものであったろう。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第八章 東京に於る生活 4 罪人

 今日私は往来で、橙色の着物を着た囚人の一群が、鎖でつながれ、細い散歩用のステッキ位の大さの鉄棒を持った巡査に守られているのを見たが、日本のように、無頼漢も乱暴者も蛮行者も泥酔者もいない所で、どこから罪人が出現するのか、不思議な位である。これ等の囚人達は、邪悪な顔をしていた。若し犯罪型の顔とか表情とかいうことに、いくらかでも真実がありとすれば、彼等は米国の犯罪人と同じように、それを明瞭に示していた。この少数の者共が、人口三千万を越える日本に於て知られている兇状持の全部だといって聞かせる人があったら、私は、限られた経験によってではあるが、それを信じたろうと思う。
  

[やぶちゃん注:明治時代の日本の総人口推計は、

明治 五(一八七二)年 3480万人

明治三七(一九〇四)年 4613万人

で明治四五(一九一二)年には5000万人を超え、

昭和一一(一九三六)年 6926万人

明治初期の人口の倍となるに至った(平成一六年版「少子化社会白書(全体版)」の中の「明治以降の日本の人口の変化」に拠った)。]

パイの歌 三首 中島敦

    パイの歌
  

  
 

  
日曜の朝はのどかにパイ食はむかの肉厚きアップル・パイを



ふくろかにひろごる雲を見上げつゝ朝(あした)のパイを食へば樂しゑ



日曜のパイを大きみチビの顏クワンクワンだらけになりにけるかも



[やぶちゃん注:日曜の朝にアップル・パイを囲む幸せで長閑な家族の団欒……私はおよそアップル・パイなるものを少年期に食った記憶などない。実に中島敦の短歌群は、まっこと、今までの専ら「山月記」を中心とした小説群によって(少なくとも私の中に)形成されてしまっていた彼のネガティヴなイメージが音を立てて崩れてゆく。――いや、それは一種の驚愕とともに爽快感さえ伴うものなのである。
  

「クワンクワン」の後半は底本では踊り字「〱」。この「くわんくわん」は道浦俊彦とっておきの話の『ことばの話1902「くわんくわん」』によれば、口の周りに食べ物がべっちゃりと着いていて、食べたのか食べてない(食わん)のか分からないくらいに汚れているという意味らしい(この「食わん」(食べていない)語源説は記載者の説と思しい)とあって、神奈川県高座郡の方言とする。同記事には他にも東京生まれ東京育ちと思われる方の、『主に小さい子供に対して言ったりするのですが、アイスなどを食べた後、口のまわりがべちゃべちゃな状態を「ほおら、お口のまわりが"くわんくわん"よ」なんて言いませんか?私はいつの頃からか何の違和感も無く使っていたのですが、先日、職場で意味の通じない人に遭遇し「へ?」と思い、まわりの席の人にリサーチしたところ半分くらいの人が知らないのです。焦って国語辞典をひいても載っていない。古語辞典にも無い。もしかしてこれは方言なのでしょうか?』という引用、関東地方の人物によるとする、『お坊さんが小僧さんに「ボタモチを食べてはイケナイよ」ときつく言って出掛けました。でも小僧さんはついつい食べてしまいました。「怒られたらどうしよう」と思った小僧さんは、お皿に残ったアンコを仏さまの口の周りになすりつけました。お坊さんが帰って来て「ボタモチを食べたな!」と怒ると、小僧さんは「私ではありません!仏さまがお食べになりました!ほら、口のまわりにアンコが!」と言い逃れました。お坊さんは「それは、いけない仏様だ!」と言って、手に持った杖で仏像の頭を叩きました。すると仏像が「食わん食わん」(擬音語)。これが転じて、口のまわりに食べ物を食べた証拠が歴然としている場合に、擬態語として「くわんくわんだよ」「くわんくわんになってる」などと使う。』という(ややまことしやかな)具体的出典説も示されている。さらに岡島昭浩氏のBBS「ことば会議室」の書き込みからの引用で、『両親が千葉・東京出身で、ご自身東京育ちの方からのメールで「口の周りを汚して食べると『お口、くわんくわんにしちゃ、だめよ』といわれた。しかし、辞書にはない」とのこと。「くわんくわん」は私自身は使いませんが、特にあんこなどを口の周りにつけているときに言うのではないでしょうか。(それは「く餡く餡」かもしれませんが。)「くわんくわん」の話、どこかで読んだか聞いたかしたと思うのですが、忘れてしまいました。くわしいことをご存じの方はいられませんか。』という質問に対する答えとして、Yeemar 氏が「朝日新聞」(二〇〇〇年十一月五日附日曜版五頁)の大森美紀子「気分は大家族」の記事に出てくる「くわんくわん」を紹介しつつ、『「くわんくわん」とは何か?とろろを食べる時、うまく食べられなくて口の周りにとろろが付いてかゆくなってしまう状態のことです。「くわんくわんにならないように気をつけなさい」とか、「あ~、くわんくわんになっちゃった~」とか。なぜか、とろろの時にしか使いません。』と。大森さんは東京のご出身のようです。その後の編集部の補足によれば、「納豆、あんこがついた時」「黄な粉、お汁粉などを食べた後」にも使うとの投書があった由。特に東京出身の方が多かったそうで、「東京の「方言」なのかも知れませんね」とまとめています(2000.11.12)。また、語源についても投書が寄せられ、〈小坊主が、仏像の口の周りに餡こをつけて、ぼたもちの盗み食いを逃れようとしたが、和尚が仏像をたたくと『くわーん、くわーん』と音がした〉という話からではないか、という説が「ほとんど」(2000.11.19)。私もそれを連想したのでした。民間語源?』と述べておられる由、記載がある。私も所持するあらゆる辞書を調べて見たが出て来なかったので、この記載にはまさに目から鱗であった(因みに、BBS「ことば会議室」の元の当該記事はこちら)。【2013年8月22日追記】――公開直後に横浜在住の教え子から貰ったメール(改行部に/)――『懐かしいです……。僕は「くわんくわん」を遣います! 正確に言うと、昔、ごく普通に遣っていました。口の周りを食べ物(主に納豆やとろろなどのゲル状のもの)で汚したままにしているとき、「くわんくわんがついてるよ」などと言いました。/母が遣っていたはずです。父が実際に遣ったかどうかは憶えていませんが、間違いなく語彙として持っているはずです。母は横浜で生れて育った人間ですが、家は私の祖父母が若かった頃に博多から出てきました。ふたりとも同じ村の出身です。その関係で母の疎開先は博多の郊外でした。祖父母は博多方言を、話そうと思えば話せました。母も博多方言を聞き取れましたし、少し話せました。/父の家はもともと関西だったようですが、祖父母の代から完全に横浜の人間です。父は完全に横浜言葉です。/僕の両親はどういう経緯でこの語彙を持つに至ったか。おそらく幼い頃からの横浜暮らしが背景にあるのではないかと思いました。/中島敦に思いがけない贈り物を貰ったような気がします。妻は、両親が長野出身で、ごくたまに語彙とアクセントが僕と食い違います。以前、「くわんくわん」を子供に話しかけたら、横から「それって何?」と言われ、何か哀しい思いをしました。それ以来、僕はもう遣う機会がなくなっていたのです。中島敦に手を引いてもらって、昔の横浜に帰ったような気がしてとても嬉しく、思わずメールを書きました。』因みに彼からの追伸で、この「くわんくわん」は「くゎんくゎん」ではなく、あくまで「くわんくわん」である、と述べている。これは拗音ではないとする非常に大事な主張(使用実例)であるので(私はこの中島敦の一首を見ながら、またそれぞれの方の議論を管見する中で、それが一番気になっていたので特に追記しておきたい。]

うつり氣の薔薇 大手拓次

 うつり氣の薔薇

としごろのほてりをもつ絹(きぬ)のばら、
うつり氣(ぎ)はとほくにあるけれど
靄(もや)のやうにふくらんでこぼれちり、
ささやくよ ささやくよ
うすべにいろの絹(きぬ)のばら、
おまへは今夜(こんや)、
ほんとによく咲(さ)いて こんもりしてゐるのねえ。

[やぶちゃん注:底本は二行目「うつり氣」の「氣」のルビが「き」に見える。「き」でも問題ないが、朗読の印象から創元文庫版の「ぎ」を採った。]

鬼城句集 夏之部 さつきの花

さつきの花 石に植ゑてさつきの花のさきにけり

2013/08/19

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第八章 東京に於る生活 3 江島神社の「蛇の角」

 小さな庭のつくり方や、垣根、岩の小径等は、この上もなく趣味に富んでいる。先日、朝早く村々を通過した時、私は多くの人々が、井戸端や家の末端で、塀を洗っているのを見たが、彼等は歯も磨いていた。これは下層民さえもするのである。加之、これ等の人々は、水を飲む前に、口をゆすぐのを例とする。

 江ノ島の寺には沢山宝物があって、坊さん達が恭恭しくそれを見せる。宝物には数百年前の甲冑や、五百年前の金属製の鏡で、その時代の偉い大名が持っていたもの等がある。坊さんは、固い物体の大きな一片を持ち出して、これは木が石になった物だといった。よく見ると抹香鯨(まっこうくじら)の下顎の破片である。そういって聞かせた私を見た彼の顔には、自分を疑うお前は実にあわれむ可き莫迦者だという表情があった。彼は同じ文句を何千遍もくりかえしては説明するので、いろいろな宝物の説明を非常に早口で喋舌り続け、松村がそれを訳すのに困ったりした。最後に坊さんは細長い箱の前に来て、如何にも注意深く蓋をあけると、中にはありふれた日本の蛇の萎びた死骸があり、また小さな黒い物が二つ、箱の中にころがっていた。坊さんはこの二つがその蛇の角だといった。そんな風な生物がいないことは、いう迄もない。ちょっと見た丈で、それ等が大きな甲虫の嘴であることが判る。だから、そういって聞かせた所が、彼はすこしも躊躇することなく、また嬉しい位の威厳と確信とを以て、彼の説明は書面の典拠によっているのだから、間違は無いといった。こうなると仏教の坊主達も、世界の他の宗教的凝り屋と同様、書面の典拠を以て事実と戦おうとしているのである。
[やぶちゃん注:「江ノ島の寺」勿論、江島神社の誤り。寺としての金亀山与願寺は憎むべき明治元(一八六八)年の廃仏毀釈によって廃寺となり、三重塔等多くの仏教施設や仏像などが無為に破却され、正式には明治六(一八七二)年で仏式を廃して江島神社と改称、県社となった。これと同時に僧侶は全員僧籍を離れて神職となり、岩本院は参詣者の宿泊施設としても利用されていたことから旅館「岩本楼」へ改称した(ウィキの「江島神社」を参考にした)。
「蛇の角」この当時から二百年も昔の水戸光圀の「新編鎌倉志卷之六」の「江島」の「蛇角(へびのつの)」の項に既に絵入で所載している(本文と私の注を是非参照されたい)。なお、そこで私はこの「蛇角」を挿絵から、『珊瑚若しくはそのイミテーションの珊瑚玉(先に出た練物)で造られた細工品のように感じられる』と注したが、珊瑚であれば海洋生物学者であるモース先生は一目でそう見破るはずであるから、どうも違うらしい。但し、モースが見たものとそれが同じものである確証はなく、後に盗難や紛失に遇い、別なものに差し替えられた可能性もなきにしもあらずではある。ただ、この記載が『伊勢參宮して、内宮の邊にて、蛇の角を落したるを見て拾ふたりと云ふの添狀あり』というあたりは、モース先生が断言するところの『大きな甲虫の嘴』(原文“the mandibles of a large beetle”)が的確な事実を述べていることになる。“mandible”は動物学でいう下顎骨で、“beetle”と断言している以上、節足動物の大きな顎というのと一致する。これは陸棲の昆虫類の何かであったのか? モース先生、もう少し、語って欲しゅうゴザイマス! ダッテ、コレデエノシマノオハナシハモウオオムネ……オワッテシマイマスカラネェ……]

耳嚢 巻之七 鳥類智義有事

 鳥類智義有事

 

 在邊にて雀(すずめ)巣を作るに、兎角(とかく)鳶(とび)の巣の下に巣を作る事也。右は蛇の□を取る故に鳶制殺を賴みての事の由。或人云るは、彼(かの)雀蛇(へび)の愁ひはまぬがるべけれど鳶また子の愁(うれひ)なすべきと難じければ、さればとよ鳶は羽蟲多(おおく)、其子を育(いく)するにも是を愁ひ、雀は羽蟲をひろひて子を育す。其恩義を思ふや、彼(かの)雀を害する事なし、鷹(たか)のぬくめ鳥の飛さりし方へは一兩日飛行七頭獲鳥(かくてう)せざると故人の語りしも□に符合して、人論の智儀なき事を歎ずる已。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。久々の博物学系動物綺譚。

・「蛇の□」底本では「□」の右に『(害カ)』と傍注。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版も「蛇の害」とある。

・「羽蟲」鳥の羽毛に寄生する昆虫綱咀顎目ハジラミ Mallophage。宿主の羽毛や血液を食害吸血する。

・「七頭」底本では「頭」の右に『(ママ)』注記。

・「鷹のぬくめ鳥の……」「ぬくめどり」温め鳥。「大辞泉」の「ぬくめどり」に、冬の寒い夜、鷹が小鳥を捕らえてつかみ、足をあたためること。また、その小鳥、とある。さらに、『翌朝その小鳥を放し、その飛び去った方向へその日は行かないという』という伝承を載せる。波多野幾也氏の猛禽類専門サイト「放鷹道楽」の鷹犬詞集(鷹狩り用語集および鷹狩り猟犬用語集)に、『温め鳥 ヌクメドリ ハヤブサは寒い季節、夕方に小鳥を捕り、一晩握ったままでいて足を温めるのに用い、朝に逃がしてやると言われる。その小鳥。フィクション。』とあるから事実ではない。なお、この部分、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では(正字化し、歴史的仮名遣に変えた)、

 鷹のぬくめ鳥の飛去りし方へは一兩日飛行せず、獲鳥(かくてう)せざる

となっている。「七頭」は「せず」の草書体の誤写か判読の誤りと思われる。ここはバークレー校版で訳した。

・「□に符合して」底本では「□」の右に『(暗カ)』と傍注。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版も「暗に符合して」とある。

・「人論」「人倫」の誤りであろう。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版でも長谷川氏は「論」とあるのを、右に『〔倫〕』と訂正注を入れておられる。

・「智儀」「儀」は「義」の意。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 鳥類にも智や義の有る事

 

 田舎にては雀が巣を作る際に、とかく、鳶(とび)の巣の下を選んで巣を作ると申す。

 これは蛇の害を免るるがゆえ――鳶が蛇を好み、雀の巣を襲いにくくさせると同時に、襲い来たる蛇を獲り殺して食って呉れるを頼みとしてのこと――の由。

 しかし、これを聴いたある人が言うことに、

「……その雀、蛇の愁いは免れど、その鳶自身がまた、雀やその雛を襲い喰ろう愁いが、これ、御座ろうほどに……」

と疑問を呈したところが、さる御仁、

「――さればとよ。鳶は羽虫が多く湧く。鳶はその子を育てる際も、これに大いに悩まさるる。――ところが雀は、この羽虫を念入りに拾うては、それを自分の子の餌として与えて育てる。――その恩義を思うからのことか――かの己が巣の下の雀らを、これ、害することは御座らぬ。」

と答えた由。

 『鷹は、一晩「ぬくめ鳥」と致いた鳥を翌朝解き放って後、その飛び去った方へは、一両日の間、飛び行くことをせず、そちらの方にては餌の鳥を獲ることもせぬもの』と知人が語って御座ったのにも、これ、暗に符合する話で御座る。

……いやいや寧ろ……今の世の人倫にこそ……智も義なきことを……これ、歎ずるばかりで御座る、の。……

チビの歌 十八首 中島敦

    チビの歌

[やぶちゃん注:昭和八(一九三三)年四月二十八日生まれの長男桓(たけし)。本歌稿の成立時期は昭和一二(一九三七)年前後であるから、四歳前後である。]

 

明方をわが床(とこ)に來てもそくさとチビが這ひ込むくすぐつたさよ

 

[やぶちゃん注:太字「もそくさ」は底本では傍点「ヽ」。]

 

わが父ゆわれの傳へし寢坊(ねぼう)なればチビも嗣ぎけむ今朝も未(ま)だ起きず

 

我はパイプ チビはパチンコ日曜の朝をし行けば海見えきたる

 

冬の夜の風呂より出でて裸童子(はだかどうじ)叫(をら)び跳ぬるよ拭(ふ)きもあへなくに

 

[やぶちゃん注:「叫(をら)び」正しくは「おらび」。「おらぶ」は「哭ぶ」で、悲しみのあまり泣き叫ぶ、どなるの意。この場合は、単に騒ぎ喚くの謂いであろう。]

 

家内(いへぬち)を裸童子がはね狂ふ大き林檎を丸嚙じりつゝ

 

昨日(きぞ)の夜の寢小便(しくじり)をいへば照(て)れゐしがやがて猛然とうちかゝりくる

 

[やぶちゃん注:上手いルビである。]

 

子の唱(うた)ふ軍歌宜しも我が兵は天に代りて釘を打つとよ

 

叱らでも濟みけるものを後向(うしろむ)きてべそかきをらむチビ助よ許せ

 

何しかも吾(あ)は叱りけむ今にして親のエゴイズムをしみじみと思ふ

 

[やぶちゃん注:「しみじみ」の後半は底本では踊り字「〲」。]

 

オドオドと思ひ惑へるチビ見れば夫廚喧嘩はすまじきものか

 

[やぶちゃん注:「オドオド」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

教育の方針なんぞあらねどもルガァにだけはならざれと思ふ

 

[やぶちゃん注:「ヷルガァ」英語の“vulgar”か。これには悪い意味で、えげつない・下等な・下卑た・下劣な・世俗的な・粗野な・俗っぽい・低級な・低俗・卑しい・卑俗な・野卑なという意味がある。発音を敢えて示すと「ヴァルガァ」で近い。もとは同義のラテン語“vulgus”(賤民)→“vulgaris”(卑俗な)由来で、敦はラテン語も学んでいたからラテン語のつもりかも知れない。]

 

ガリヴァは如何になるらむと案じつゝチビは寢入りぬ仔熊をだきて

 

枕もとにちらばれるものラムネ玉「コドモノクニ」に赤き熊の仔

 

わが語るサンタ・クロスの物語信じ難げのチビが眼付や

 

クリスマス近づきにつゝしかすがにわが二十代逝かまく惜しも

 

[やぶちゃん注:「しかすがに」然すがに。副詞「然(しか)」+動詞「為(す)」+助詞「がに」で、そうは言うものの、の意。万葉以来の上代語。底本では「近づき」の右にアスタリスクが附され、一首の下に『*チビは待ちつゝ』とあるから、この歌には、

 

クリスマスチビは待ちつゝしかすがにわが二十代逝かまく惜しも

 

という別案が示されているらしい。]

 

わが性質(さが)を吾子(あこ)に見出でて心暗し心暗けどいとしかりけり

 

新しき自動車を見て買へといふ玩具(おもちや)のでさへも買へぬこの父に

 

ストーヴの火も燃えいでぬいざ共に「ザムボーと虎」の話を讀まな

 

[やぶちゃん注:「ザムボーと虎」は昭和六(一九三七)年刊の『コドモノクニ』に載った「ザンボート虎」かと思われる。……私たちには私たちの遠き日の思い出の「ちびくろサンボ」が、必ず、虎のバターの絵と一緒にいる……。悲しい一斉絶版の経緯などはウィキちびくろサンボ」をお読み戴きたい。]

みちのほとりをゆく 大手拓次

 みちのほとりをゆく

わたしは みちのほとりをあるいてゆく、
むなしさをとらへて
そこはかとなくかくれるしのびねのやうに、
わたしは とほいくらさに咲(さ)きながら、
みちのほとりを日(ひ)ごと日(ひ)ごとにあるいてゆく。

鬼城句集 夏之部 薔薇 

薔薇    くたくたと散つてしまひぬ薔薇の花
[やぶちゃん注:「くたくた」の後半は底本では踊り字「〱」。また「しまひぬ」の「し」の字は底本では「志」の草書体。]

2013/08/18

北條九代記 HP版 卷第二

「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」の「北條九代記」HP版「卷第二」を公開した。

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 21 先哲の詩(1)

    ●先哲の詩

江島に關する先哲の詩は甚(はなは)た多し。今風土記藝文部に掲(かゝ)けたる者を抄出して。左に登載す。高樓醉後耳熟するの時。風濤(ふうとう)に對し欄を打て放吟せは。其快興(くわいけう)いふべからざる者あらむ。

 原書苗字を略記す。蓋し當時の弊風なり。今一々改定せす。

[やぶちゃん注:以下、各詩は完全に連続して示されているが、完全に改行し、それぞれの詩の間に空行を設けた。不明な字は国立国会図書館の近代デジタルライブラリーの「相模國風土記」の「藝文部」で確認した。訓読は総て全くの我流につき、ご注意あれ。]

 

  游江島   服元喬
 

妙音孤島對天居。

危木懸崖萬丈餘。

臨海斷碑秦代字。

轉沙比目越王魚。

潮來巖穴龍蛇走。

珠散風濤蜃蛤虛。

白日靑雲溟色盡。

舟乘欲問十洲墟。


  

[やぶちゃん注:荻生徂徠の高弟で風流人として知られた服部南郭。

   游江島   服元喬


 妙音 孤島 天居に對す

 危木 懸崖 萬丈餘

 海に臨める斷碑は これ秦代の字

 沙に轉(まろ)べる比目(ひもく)は これ越王魚

 潮(しほ)來たる巖穴 龍蛇の走(そう)

 珠(たま)散る風濤 蜃蛤(しんがふ)の虛

 白日 靑雲 溟色 盡き

 舟に乘りて 十洲墟(じつしふきよ)を問はんと欲す

 

 
「海に臨める斷碑」は「江島建寺之碑」のことであろう。

「蜃蛤」蜃気楼を吐くとされた大蛤。「虚」はその幻しの意であろう。

「比目」カレイか。

「越王魚」「文選」の「呉都賦」劉逵注に「王余魚は半身の姿をしている(其身半也)。俗に越王が魚の膾(なます:細い糸づくりのサシミ。)にして食べたが、食べ尽くさぬままに、半身を残してその身を水中に棄てたという。その身が魚となったが、一面だけの姿をしていたため、その魚を「王余魚」というようになった、とある(以上は「MANAしんぶん」の狩谷棭斎校注「箋注倭名類聚抄」の「王餘魚」(当該リンクの通し番号20)を参照させて戴いた)。

「溟色」海の色。

「墟」は砂丘。砂浜海岸の景であるから鵠沼海岸辺りを指すか。江の島を満喫して船で相模湾を西に出たものであろうか。]

漠然たる情熱 萩原朔太郎

       ●漠然たる情熱

 しばしば人は、人生の漠然たる情熱を感じてゐる。たとへば秋の落葉する木立の中や、都會のさびしい裏町やを歩いてゐるとき、或は落日に影をひいて、高い陸橋の上を渡つて行くとき、或は海にきて大洋の響を聞いたり、或は春の艷めかしい夜に、窓もれる花樹の香はしい匂ひを嗅いだりするとき。
 いかにしても我々は、かかる情操のふしぎな思ひを語り得ない。なぜならばその思ひは、一の漠然たる氣分であつて、思惟の對象すべき觀念を持たないから。しかしながら人々は、それの強き熱情に溺れてしまふ。そして我々自身が、人生の中へ溶けこんで行き、霧の深い密度に吸ひ込まれるのを感じてくる。何がなし、我々は興奮してくる。すべてが意味深く感じられ、感覺する世界の向うに、盡きない神祕の人生があるやうに思はれる。
 かく我々の結婚が、丁度漠然たる情熱からされるのである。

[やぶちゃん注:昭和四(一九二九)年十月第一書房刊「虛妄の正義」の「結婚と女性」より。]

栂尾明恵上人伝記 58 死すとも飲酒戒は破るべからざる仏の教えのこと

 或る時、上人久しく冷病(れいびやう)に侵されて不食(ふじき)し給ひける比、醫博士和氣(わけ)の某訪ひ申さん爲に參りたりけるが申しけるは、此の御勞(おんつかれ)はひえの故也、山中霧深く、寒氣烈しき間、美酒を毎朝あたゝめて少しづゝ服せしめ給はゞ宜しかるべき由申しければ、上人仰に云はく、法師は私の身にあらず一切衆生の爲の器(うつは)なり。佛殊に難處(なんじよ)に入りて誠め給ふも此の故なり。放逸(はういつ)に身を捨つべきにあらず。其の上必死の定業(ぢやうごふ)をば佛も救ひ給はず、されば耆婆(きば)が方も老を留る術なく、扁鵲(へんじやく)が藥も死を助くる德なし。若し予暫くも世に住して益有るべきならば、三寶の擁護により病癒え命(いのち)延ぶべし。さあるまじきに於ては、佛の堅く誠め給ふ飮酒戒(おんじゆかい)をば犯すべからず。殊に酒は二百五十戒の中より十戒にすぐり、十戒の中より五戒にすぐりたる、其の隨一なり。蠱毒(こどく)は只一生を亡ぼす失あり、酒毒は是れ多生をせむる罪あり。縱ひ一旦かりの形を助くとも小利大損たるべし。佛は寧ろ死すとも犯すべからずと誠め給へり。予若し藥の爲に一滴をも服せば、何事がなかこつけせんと思ひけなる法師共故、御房(ごぼう)も時々酒は吸ひ給ひしなんど云ふためし引き出して、此の山中さながら酒の道場となるべし。仍て斟酌(しんしやく)なきに非ずと云々。
[やぶちゃん注:「耆婆」ジーヴァカ。通常は「ぎば」と濁る。古代インドのマガダ国ラージャグリハの医師。阿闍世(あじゃせ)が父王頻婆娑羅(びんばしゃら)を殺害した後、悔恨の念を懐き、悪瘡を生じたことから、釈迦に会いに行くよう勧めて仏教に帰依させた人物として知られ、釈迦自身も堤婆達多(だいばだった)から投げつけられた岩で傷ついた際や風邪をひいた際に治療を受けたとされる仏教の伝説上の名医。
「扁鵲」戦国時代(紀元前四世紀頃)の中国の伝説的名医で脈診の達人。仙人長桑から秘伝書を授かり、仮死状態の人間を蘇生させたり、斉の桓候の病態を三度の謁見だけで見通し、死を過たず予告したりした。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 20 人力車運賃表

    ●人力車賃錢表

 國道一人乘一人挽一里金拾錢  一時間貮拾錢

 岐道同上    一里金拾三錢 一時間貮拾四錢

  一 一人乘一人挽一日雇金一圓半日雇金六拾錢以内とす

  一 駐車一時間金六錢

 渡船賃橋錢は乘客より支辨するものとす

   左の場合に於ては定額賃の三倍增とす

  一 夜間暴風雨大雪惡路傳染病又は危險の場所出車の時

  一 片瀨州鼻より藤沢停車場まで拾七錢

  一 同所より鎌倉大佛まで金貮拾八錢

  一 同所より鎌倉停車場まで三拾四錢

  一 同所より鎌倉八幡前まで三拾八錢

 右警察署の認可を得て確定候也
  明治三十一年五月十日  鎌倉郡人力車營業組合頭取

[やぶちゃん注:ネット上の情報を綜合すると、明治三〇(一八九七)年頃の物価は凡そ現在の3800倍相当とあるので1円は凡そ3800円換算となる。因みに、先に電子化した本書から十四年後の出版になる大橋左狂の「現在の鎌倉」(明治四五(一九二一)年刊)の「人力車」の項と比較すると(区間運賃は江ノ電片瀬停車場からの運賃であるので同所から片瀬洲鼻までの七銭を加算して比較する)、

「岐路に入る一人乘一人輓(びき)一里に付き二十五錢以内とし、一日雇上げ規定十時間以内は一日二圓三十錢、半日雇上げ五時間以内は八十錢、一時間雇上四十錢、半時間二十五錢、一時間待賃八錢」

という定款では、

普通道運賃1里  13銭 → 25銭

一日貸切      1円 → 2円30銭

半日貸切     60銭 → 80銭

一時間待      6銭 → 8銭

と変化し、区間料金では、

片瀬州鼻―藤沢停車場 17銭 → 32銭(これはもう少し安いかもしれない)

片瀬州鼻―鎌倉大仏  28銭 → 49銭

片瀬州鼻―鎌倉停車場 34銭 → 57銭

片瀬州鼻―八幡前   38銭 → 72銭

となっている。概ね倍以上であるが、1円の価値が1200円から2500円程度まで減衰しているから特異な変異とは思われない。但し、定款の変化に比べて、区間運賃は有意に割高になっている感じはする。

「岐道」とは国道から分岐するその他の県道その他私道を含む総ての道という意味か。整備上、国道に劣るから賃金が高いのであろう。]

耳嚢 巻之七 不義業報ある事

 不義業報ある事

 

 上總國久留里(くるり)城下宿に、銕物屋(かなものや)平五郎と言(いふ)ものあり。同領は勿ろん近郷近國の鍬鎌其外を拵へ賣出し、餘程の富家なる由。廿年程以前の事也に、妻の妹逗留なしけるに、妹は艷色ありて妻には遙(はるか)に容貌まさりければ、平五郎心を掛(かけ)けれど、其妻甚(はなはだ)の妬氣者生質(ときしやきしつ)ゆへ何となく打過(うちすぎ)しに、或時の年、石尊參詣の連(れん)大勢女連(をんなづれ)もありて、妻は殘り妹は石尊へ參詣せしが、道中にて密通なし歸りけるが、妹心に惡を生じ、何卒姉を除(のぞき)、我(われ)妻にならんと思ひ、平五郎も聢(しか)あらばと思ひて其妻への當り以の外也ければ、彼是(かれこれ)事六ケ敷(むつかしく)もつれ終に妻をば離別し、其妹を如何(いかが)なせしや妻となしぬ。然るに平五郎が方へ晝夜となく蛇出て、或は大きく又少(ちひさ)きも有(あり)しが、後の妻なる者をうれひ、程なく病をうけ身まかりぬ。平五郎は如何せしや腰ぬけ、今に存命なりと彼(かの)國の人語りける。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし(上総の出来事であるが、先の松平(池田)斉政の上総介はただの官職名であるから連関性を認めることは出来ない)。不義密通に絡む怪異譚。少々、訳のコーダに私の色をつけさせて貰った。

・「上總國久留里」上総国望陀郡(まくだのこおり/もうだぐん)久留里(現在の千葉県君津市久留里)にあった久留里藩。本話執筆当時(「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年)は第五代藩主黒田直方(安永七(一七七八)年~天保三(一八三二)年)。彼は第二代藩主黒田直亨(享保一四(一七二九)年~天明四(一七八四)年)の妾腹の三男であったが、享和元(一八〇一)年に甥に当たる黒田直温(なおあつ 天明四(一七八四)年~享和元(一八〇一)年:天明六(一七八六)年藩主となるも夭折。享年十八歳。)が嗣子なくして死去したために養子として家督を継いでいる。しかし本文には「二十年程の以前」とあるから、その、先代黒田直温、若しくは直温の父で第三代藩主黒田直英(宝暦八(一七五八)年~天明六(一七八六)年:天明四(一七八四)年藩主。二十九で急逝。)の頃か、へたをすると遡る現藩主の実父である第二代黒田直亨の時代の可能性さえも出てこよう(以上はウィキの「久留里藩」の各藩主のリンク先ウィキを用いた)。

・「石尊」現在の神奈川県伊勢原市にある大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)。「耳嚢 巻之三 無賴の者も自然と其首領に伏する事」に既注。

・「後の妻なる者をうれひ」底本では「者」の右に『(之脱カ)』と傍注する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、『後の妻なる妹は是を愁ひて』とある。これで訳した。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 不義に業報ある事

 

 上総国久留里(くるり)の御城下宿駅に金物屋平五郎と申す者が御座る。

 同領は勿論、近郷近国の鍬(くわ)や鎌、その外の金物を拵えては売り出し、よほどの豪家となっておる由。

 さても、今から二十年以前の事で御座る。

 平五郎妻の妹なる者、かの家に長逗留致いて御座ったと申す。

 この妹、なかなかの美人にて、平五郎の妻よりも遥かに容貌が優(まさ)っておったによって、平五郎、秘かに執心致いて御座ったが、その妻なる者は、これ、甚だ妬気(とき)激しい気質(きしつ)であったがゆえ、なかなかに思いを遂げられず、無為に時が過ぎて御座った。

 しかしある年のこと、平五郎、大山石尊参詣連中――これには大勢の女連れも御座った――に参じ、妻は残り、妹は平五郎とともに石尊へと参詣致いた。

 この道中にて、二人はうまうまと密通をなし、帰って御座ったが、それからというもの、妹は内に悪心を生じ、

「――何卒……姉を追い出し……妾(わらわ)が妻にならんとぞ思う……」

と思いの丈を平五郎に囁く。囁かれた平五郎もまた、

「――しかと――あらば……」

と、内々に密約致いて、その時より、平五郎の妻への仕打ちは、これ以ての外に苛烈にして過酷なるものと相い成った。

 そのうち、平五郎と妹は二人して、あれやこれやと妻に難癖をつけては、わざとごたごたを起こいて、遂には――ありもせぬ妻の不義密通やら、妻の妄想狂乱なんどと申す流言蜚語を拵えては――妻をば、うまうまと離別致いて、その妹を――これまた、どうやったものか――すんなりと妻となして御座った。

 しかるにそれより後、平五郎が方へ、

……昼夜(ちゅうや)となく

――蛇が出でる……

……あるいは……太く大きなる

……あるいはまた……小さく細き

――無数の蛇が出でる……

……屋敷内を……不気味にぬたくっては姿を消し……消しては……また出でる……といった怪異が続いた。……

――結局……後妻となった妹は半ば気がおかしゅうなって……ほどのぅ……病いを受け……これ……身罷ってしもうた。……

――一方……平五郎はと申さば……如何致いたものか……後妻の死の直後に……腰が抜けて……蛇のように畳をぬたくっては……今に存命である由……

と、かの国の在の御仁の語った話で御座る。

クリスマス・トゥリイ(X’mas-tree)の歌 七首 中島敦

    クリスマス・トゥリイ(X’mas-tree)の歌

クリスマス・ツリーに綿の雪のせつチビと笑へば雪飛びにけり

[やぶちゃん注:昭和八(一九三三)年四月二十八日生まれの長男桓(たけし)。本歌稿の成立時期は昭和一二(一九三七)年前後であるから、満三歳か四歳である。]

いざさらばチビはチビとし星を吊れ我はも張らむ銀のモールを

銀紙のハートを栗とチビのいふ心臟傷(むねやぶ/ブロークン・ハート)れなばはじけ栗かも

[やぶちゃん注:「心臟傷(むねやぶ/ブロークン・ハート)れなば」は底本では、「心臟傷」右に「むねやぶ」、左に「ブロークン・ハート」のルビが振られている。]

チビのみかこの木も甚(いた)く伸びにけりチビ背のびすれど未だ及ばず

チクチクと葉がさすならむ顏しかめチビひたすらに鐘吊るしゐる

[やぶちゃん注:「チクチク」の後半は底本では踊り字「〱」。]

金銀の紙の玩具(おもちや)を吊りにけり吊りて眺めて心足(た)りゐる

幼(をさ)なかる心いまだに失(う)せずけり午後(ごご)を明るくわが感じゐる

しろいものにあこがれる 大手拓次

 しろいものにあこがれる

 

このひごろの心(こゝろ)のすずしさに

わたしは あまたのしろいものにあこがれる。

あをぞらにすみわたつて

おほどかにかかる太陽(たいやう)のしろいひかり、

蘆(あし)のはかげにきらめくつゆ、

すがたとなく かげともなく うかびでる思(おも)ひのなかのしろい花(はな)ざかり、

熱情(ねつじやう)のさりはてたこずゑのうらのしろい花、

また あつたかいしろい雪(ゆき)のかほ、

すみしきる十三のをとめのこころ、

くづれても なほたはむれおきあがる靑春(せいしゆん)のみどりのしろさ、

四月(ぐわつ)の夜(よる)の月(つき)のほほゑみ、

ほのあかい紅(べに)をふくんだ初戀(はつこひ)のむねのときめき、

おしろいのうつくしい鼻(はな)のほのじろさ ほのあをさ、

くらがりにはひでる美妙(びめう)な指(ゆび)のなまめかしい息(いき)のほめき、

たわわなふくらみをもち ともしびにあへぐあかしや色(いろ)の乳房(ちぶさ)の花(はな)、

たふれてはながれみじろぐねやの祕密(ひみつ)のあけぼののあをいいろ、

さみだれに ちらちらするをんなのしろくにほふ足(あし)。

それよりも 寺院(じゐん)のなかにあふれる木蓮(もくれん)の花(はな)の肉(にく)、

それよりも 色(いろ)のない こゑのない かたちのない こころのむなしさ、

やすみをもとめないで けむりのやうにたえることなくうまれでる肌(はだ)のうつりぎ、

月はしどろにわれて生物(いきもの)をつつみそだてる。

 

[やぶちゃん注:「木蓮(もくれん)」のルビは底本では「もくれ」。脱字と見て訂した。

「うつりぎ」は「移り氣」で、ここは不図した弾みで生じる感情、特に異性に惹かれる思い、出来心の謂いであろう。]

鬼城句集 夏之部 鬼灯の花

鬼灯の花  鬼灯の垣根くゞりて咲きにけり
[やぶちゃん注:「くゞりて」の「ゞ」は底本では「〵」に濁点の踊り字。]

2013/08/17

栂尾明恵上人伝記 57 明恵、建礼門院徳子に受戒す

 

 上人、首楞嚴經(しゆりゃうごんぎやう)を披(ひら)き見給ひて、一代聖教の眼目なりとて、常に講じて諸人に聞かせ給ひけり。

 

 或時建禮門院御受戒有るべしとて、上人を請じ申されて、御身は母屋(もや)の御簾(みす)の内に御座(おは)して、御手計り指出(さしいだ)し合掌して、上人をば一長押(ひとなげし)さがりたる處におき奉りければ、上人云はく、高辨は湯淺權守(ゆあさのごんのかみの)が子にて下もなき下﨟(げらう)なり。然れども釋子(しやくし)と成りて年久しく行へり。釋門持戒の比丘(びく)は神明をも拜せず、國王大臣をも敬せず、又高座に登らずして戒を授け法を説かば、師弟共に罪に墮(だ)する也と經に誡(いまし)められたり。是れ法を重んじゆるがせにせざる故なり。身をあぐるに非ず。かゝる非人法師をも御崇敬候へば、利益(りやく)ますます多く、いやしみ眇直(さげし)み給へば大罪彌(いよいよ)深し。いかに仰せ辱(かたじけな)くとも本師釋尊の仰を背きて諂(へつら)ひ申す事はあるまじく候。かやうにては益なくして罪あるべく候。誰にても貴敬し思食(おぼしめ)し候はん人を御請(おんしやう)じ候て、御受戒あるべしとて頓(やが)て出で給ひければ、女院驚き思召て急ぎ御簾より外へ出でさせ給ひ、樣々に悔み申し給ひ、高座に居(す)ゑ奉り信仰を致し、御受戒有りけり。其の後は、殊に上人を貴び給ひて、最後まで深き師檀(しだん)と成りおはしましけり。

 

[やぶちゃん注:「建禮門院」平徳子(久寿二(一一五五)年~建保元(一二一四)年)は元暦二(一一八五)年三月二十四日の壇ノ浦での平家滅亡から凡そ一ヶ月後の五月一日に出家して直如覚と名乗っているが、本話は事実とすれば、何だか、おかしい。

 

「釋子」釈迦の弟子。

 

「師檀」受戒の師僧と檀那。]

 

 

耳嚢 巻之七 強勇の者自然と其德有事

 強勇の者自然と其德有事

 

 松平上總介家士に、物頭役(ものがしらやく)勤(つとめ)ける岩田勇馬と言(いへ)る者有(あり)。文化貮年の比(ころ)七拾餘歳なりし。健(すこやか)にて貮三年以前妾(めかけ)に出生(しゆつしやう)有(あり)しを、其悴(せがれ)老年の出生、傍輩の批判も氣の毒にこそ思はんと父の前に出、此度の出生をば我等の子の樣に屆(とどけ)なんと申(まうし)ければ、何故右の通り申(まうす)哉(や)と尋ける故、高年のうへ出生に付と斯(かく)申ければ、老人以の外氣しきを損じ、凡(およそ)士は老年に至りても子共(こども)の出生せる程の勢ひなくて、君の御用には難立(たちがたし)、埒(らち)もなき申(まうし)條也と申けるゆへ、其悴も手持(てもち)なく退きしと也。彼(かの)勇馬親の代には醫師の子にて、輕く被呼出(よびいだされ)親の代三百石迄に成りしが、勇馬代には加增して六百石に成り、今(いま)物頭を勤ける。悴も貮百石取り、別段に勤ける由。其同役に實子なくて、年久しく勤(つとめ)加恩(かおん)もなかりし者ありしが勇馬に向て、御身は加報とやいわん、貮代續(つづけ)て加恩登庸(とうよう)なし給ふ、我數代勤(つとむ)れ共(ども)去(さる)事なしと申ければ、子供さへ拵へ候事ならざる程にて加增抔もらわるべきやと言下に答へけり。座中大笑(おほわらひ)しけると也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:文化二(一八〇五)年のホットな話柄で軽く連関。「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏。

・「松平上總介」諸注、備前国岡山藩第六代藩主池田斉政(なりまさ 安永二(一七七三)年~天保四(一八三三)年)とする。岡山藩池田家宗家八代。従四位下・上総介・左近衛権少将。岡山藩池田家宗家は播磨姫路藩第二代藩主で、宗家第二代池田利隆(天正一二(一五八四)年~元和二(一六一六)年)の時に松平姓を賜っている。

・「物頭」武頭(ぶがしら)。弓組・鉄砲組などの諸隊の首領。下層の組頭・足軽頭・同心頭を統率する長もこう呼んだ。

・「輕く被呼出(よびいだされ)」下級の小さな禄高で召し抱えられて。

・「登庸」「登用」に同じい。人をそれまでよりも高い地位に引き上げて用いること。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 強者(つわもの)は自然と其の徳を有するという事

 

 松平上総介池田斉政(なりまさ)殿の家士に、物頭役(ものがしらやく)を勤めて御座った岩田勇馬と申さるる御仁がおる。

 昨年の文化二年で、かれこれ、七十余歳であられたが、まっこと、ご健勝にて、その二、三年ほど前には、何と、お妾(めかけ)が子を産んで御座った。

 勇馬殿の倅(せがれ)は、

『……老年の出生(しゅっしょう)なれば、傍輩なんどがいろいろと揶揄致すは必定。……さすればお父上もさぞ、恥ずかしく思わるるに違いない。』

と案じ、父の前に進み出ると、

「……この度(たび)のご出生は……一つ、我等の子としてお届けなさるがよろしゅう御座いましょう。」

と申し出たところが、

「……何ゆえ斯様なことを申すのじゃ?」

質いたによって、

「いえ、ご高年の上の出生につき、外聞やら噂やら……これ何かとお気をお遣いなさるるのでは、と存じまして……」

と、暗に含みを持たせて濁したつもりが、勇馬老人、以ての外に機嫌を損じ、

「――何ッ!――凡そ武士たるものは、老年に至りても、子供の出生致すほどの勢いなくして、御主君の御用には立ち難しッ!! 埒もなき申し条じゃッツ!!!」

と青筋立てて叱咤されたによって、その倅も思わぬ逆鱗に触れて返答のしようもなく、ほうほうの体(てい)にて退出致いたとか。

 かの勇馬殿、親の代は医師の子であったものが、池田家へ下級の、ごく僅かな禄高にて召し抱えられ、親の代にては三百石までなったと申す。その後、勇馬殿の代となってからは、さらに加増されて六百石と相い成り、今は物頭を勤めておらるる。

 先に登場致いた嫡子も既に二百石取りとなっており、相応の地位に就いて精勤致いておらるる由。

 さて、その勇馬殿の同役のうちに、実子がなく、しかも年久しく宗家へ勤めておるにも拘わらず、聊かのご加増もこれない御仁が御座った。ある時、この御仁が勇馬殿に向かって、

「……御身はまさに果報と申すもので御座るのぅ。……二代続けてのご加増……それに加えて覚えも目出度くご登用なされておらるる。……我らなんどは宗家へ数代に亙って勤めておれど……そのようなことは全く以って、これ、御座らぬわぃ。……」

と申したところが、勇馬殿曰く、

「――貴殿は相応に齢(よわい)を重ねながら、未だ子供をさえも拵えることの出来ず御座る。――さようの体たらくにては、これ、ご加増なんどを賜うべきはずは――これ、御座らぬ!」

と即答して御座った。

 満座の者どもは皆、大笑い致いたとのことで御座る。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第八章 東京に於る生活 2 モースの江の島讃歌 附 英語で「犬」は「カメ」

 今、江ノ島に別れを告げて来て見ると、あすこに滞在した期限は、矢のように疾く過ぎたものである。私は六週間、あの小さな家がゴチャゴチャかたまった所で暮した。人々は過労し、朝六時から真夜中まで働き、押しよせる巡礼――時々外国人も来るが、すべて日本人――を一晩泊めるために、とても手にあまる程に沢山の仕事を持っている。訪れる人々は一日に四度も五度も、食事を要求するらしく思われ、絶間なくお茶や、煙草の火や、熱い酒やその他を求める。いろいろな年齢の子供達が、いたる所にかたまっていた。が、私は最も彼等に近く住んでいたにもかかわらず、滞在中に、只の一度も意地の悪い言葉を耳にしたことがない。赤坊は泣くが、母親達はそれに対して笑う丈で、本当に苦しがっている時には、同情深くお腹を撫でてやる。誰もが気持のいい微笑で私をむかえた。私は吠え立てる犬を、たった一本の往来で追いかけ、時に石を投げつけたりしたが、彼等は私のこの行為を、異国の野蛮人の偏屈さとして、悪気なく眺め、そして笑った丈である。親切で、よく世話をし、丁重で、もてなし振りよく、食物も時間も大まかに与え、最後の飯の一杯さえも分け合い、我々が何をする時――採集する時、舟を引張り上げる時、その他何でも――にでも、人力車夫や漁師達は手助けの手をよろこんで「貸す」というよりも、いくらでも「与える」……これを我々は異教徒というのである。

[やぶちゃん注:モースの江の島讃歌である。何か、とても快い海風のようではないか……]

 

 犬といえば、犬の名前を聞くと“Kumhere”だと返事をされる。これが犬の日本語だと思う人も多いが、この名は犬を呼ぶのに“Come here!”“Come here!”という英国人や米国人の真似をしたので、ここらにいる日本人はこれを犬の英語だと思っている。Dog は日本語では「イヌ」である。

[やぶちゃん注:これはかなり有名な話で、「大辞泉」にも「カメ」の見出しで『西洋犬のこと。明治初期、西洋人が飼い犬を呼ぶのに「Come here!」と言うのを「カメヤ」と聞き、「カメ」を犬の意、「ヤ」を呼びかけの意の「や」ととったことによる。』とある。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 19 産物

 

    ●産物

 

海鮮の産多きが中に鰹魚。※1※2(いるか)、烏賊魚、鰒、榮螺子、海老、水草には海苔、海雲(もづく)、鹿尾菜(ひじき)等(とう)あり、就中鮑の粕漬、もくずは都人士に愛(め)でられ、又櫻貝(さくらがひ)と號する花貝を産す、其色花辨に似て甚だ美なり。兒童の玩具を製造す。

 

[やぶちゃん注:「※1」=「魚」+「孚」。「※2」=「魚」+「布」。「もくず」はママ。「もづく」の誤植と考えてよい。

 

「櫻貝」狭義には内湾性の、

 

斧足綱翼形亜綱マルスダレガイ目ニッコウガイ上科ニッコウガイ科サクラガイ Fabulina nitidula

 

を指すが、これによく似た同属の、

 

カバザクラ Fabulina iridella(外洋に開いた湾に棲息する傾向があり、サクラガイにはない殼頂から後腹部にかけての二条の白色放射彩を持つことを特徴とする)

 

及び、同属の、

 

ウズザクラ Fabulina minuta

 

ハツザクラ Fabulina pallidula

 

近縁種である、

 

モモノハナ(エドザクラ)Moerella jedoensis

 

ユウシオガイ Moerella juvenilis

 

オオモモノハナガイ Macoma praetexta

 

シボリザクラ Loxoglypta clathrata

 

ヒラザクラ Tellinides ovalis

 

などをも含み、更には殻が独特の長卵形を成す、

 

トンガリベニガイ Tellina rostrata

 

及び同属で取り分け美しい紅色・淡紅色を示す(稀に白色個体もある)、

 

ベニガイ Pharaonella perieri

 

なども「桜貝」と一般通称する仲間に入る(主に保育社昭和三四(一九五九)年刊の吉良哲明「原色日本貝類図鑑」に拠ったが、学名は最新の情報で逐次確認した)。幾つかの画像と解説を Naofumi Yasunobu 氏のサイト「海山歩記」のこちらのページで見られる。

 

……遠い昔……この江の島の「貝広」で……買いましたね……ベニガイ……覚えていますか?…………]

 

 

遺傳 萩原朔太郎 (初出形)

 遺傳

 

人家は地面にへたばつて

巨きな蜘蛛のやうに眠つてゐる。

さびしいまつ暗な自然の中で

動物は恐れにふるゑ

なにかの夢魔におびやかされ

悲しく靑ざめて吠えてゐます。

 のをあある とをあある やわあ

 

もろこしの葉は風に吹かれて

さわさわと闇に鳴つてる。

お聽き、しづかにして

道路の向ふで吠えてゐる

あれは犬の遠吠だよ。

 のをあある とをあある やわあ

 

「犬は病んでゐるの? お母あさん。」

「いいえ子供

犬は飢えてゐるのです。」

 

遠くの空の微光の方から

ふるえる物象のかげの方から

犬はかれらの敵を眺めた

遺傳の、本能の、ふるいふるい記憶のはてに

あはれな先祖のすがたを感じた。

犬の心臟(こゝろ)は恐れに靑ざめ

夜陰の道路にながく吠える。

 のをあある とをあある のをあある やわあ

 

「犬は病んでゐるの? お母あさん。」

「いいえ子供

犬は飢えてゐるのですよ。」

 

[やぶちゃん注:『日本詩人』第一巻第三号・大正一〇(一〇二一)年十二月号に掲載された。「ふるゑ」「ふるえる」の歴史的仮名遣の誤りはママであるが、初出で「遠吠」が「違吠」、「犬は飢えてゐるのです。」が「犬は飢えてゐるのてす。」とあるのは誤植と判断して訂した。後に詩集「靑猫」(大正一二(一九二三)年一月新潮社刊)に所収されたが、そこでは以下のようになっている。

 

 遺傳

 

人家は地面にへたばつて

おほきな蜘蛛のやうに眠つてゐる。

さびしいまつ暗な自然の中で

動物は恐れにふるへ

なにかの夢魔におびやかされ

かなしく靑ざめて吠えてゐます。

  のをあある とをあある やわあ

 

もろこしの葉は風に吹かれて

さわさわと闇に鳴つてる。

お聽き! しづかにして

道路の向ふで吠えてゐる

あれは犬の遠吠だよ。

  のをあある とをあある やわあ

 

「犬は病んでゐるの? お母あさん。」

「いいえ子供

犬は飢ゑてゐるのです。」

 

遠くの空の微光の方から

ふるへる物象のかげの方から

犬はかれらの敵を眺めた

遺傳の 本能の ふるいふるい記憶のはてに

あはれな先祖のすがたをかんじた。

 

犬のこころは恐れに靑ざめ

夜陰の道路にながく吠える。

  のをあある とをあある のをあある やわああ

 

「犬は病んでゐるの? お母あさん。」

「いええ子供

犬は飢ゑてゐるのですよ。」

 

「いええ」はママ。初出から見ても誤植ととって差し支えない。猫」同様、私はこのオノマトペイアを病的に偏愛する。]

昔の人の夢の唄 十五首 中島敦――敦、歌舞伎を詠う

    昔の人の夢の唄

 

遠空に富士も見ゆるぞ勘平が今おかる連れ道行のふり

 

[やぶちゃん注:「仮名手本忠臣蔵」四段目「判官切腹」の場と五段目「山崎街道」の場の間に挿入される所作事「道行旅路花聟(みちゆきたびじのはなむこ)」、通称「お軽勘平」。梗概はウィキの「道行旅路花聟」を参照されたい。]

 

格子戸の外に立ちたる頰かむり切られの與三が足の白さよ

 

[やぶちゃん注:世話物の名作「与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)」、通称「切られ与三」「お富与三郎」「源氏店(げんやだな)」の知られたワン・シーン。梗概はウィキの「与話情浮名横櫛」を参照されたい。]

 

白魚のかゞり火霞む春の夜をお孃吉三の羽左が振袖

 

お待ちなせえ駕籠の中より吉右衞門(はりまや)の聲してお坊吉三いでくる

 

三人の吉三出合ひてだんまりや春の夜更を刻む析(き)の一昔

 

[やぶちゃん注:この三首は「三人吉三廓初買(さんにんきちさくるわのはつがい)」。梗概や舞台が日本芸術文化振興会製作になる「歌舞伎への誘い」の「三人吉三廓初買」で見られる。]

 

直次郎が傘(かさ)かたむけて覗きゐる雪の入谷の三千歳の寮

 

千日を逢はぬ心地と三千歳が嘆くなりけり春の夜寒を

 

宗俊が黑子(ほくろ)くろんぐろ燈にさえて北村大膳未だいで來(こ)ず

 

[やぶちゃん注:この三首は「天衣紛上野初花(くもにまごううえのはつはな)」。「三千歳」は遊女の名で「みちとせ」と読む。三首目の「くろぐろ」の後半は底本では踊り字「〲」。梗概や写真が日本芸術文化振興会製作になる「歌舞伎への誘い」の「天衣紛上野初花」で見られる。]

 

格子縞の炬燵によりて思ひ入る鴈次郎の眼(め)の切れの長さよ

 

その涙流れて小春汲まんずとあほれおさんが恨み口説くを

 

紀の國や小春樣まゐるさんよりと文(ふみ)の上書讀めば哀しも

 

[やぶちゃん注:この三首は「心中天網島」。鴈次郎は鴈治郎の誤りか。本作(歌舞伎ではその中から見どころを再編した「河庄(かわしょう)」と「時雨の炬燵(しぐれのこたつ)」が主に上演される。ウィキの「心中天網島」に解説がある)の主人公紙屋治兵衛は初代中村鴈治郎(安政七(一八六〇)年~昭和一〇(一九三五)年)の当り役であった。三首目の太字「さん」は底本では傍点「ヽ」。]

 

吉原の春のともし灯(び)入りにけり禿(かむろ)はしれば鈴の音さやか

 

赤面(あかづら)の男之助が見得切りてあゝら不思議と迫(せ)り上りくる

 

飄々と浮かれ坊主が踊りゐるおどけ哀しくをかしかりけり

 

大川の遠書割(とほかきわり)に燈が入れば淸親ゑがくとふと思ひけり

 

[やぶちゃん注:四首とも「伽蘿先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」であろうか(ウィキの「伽蘿先代萩」に梗概や歌舞伎の見せ場が解説されている)。「淸親」は浮世絵師小林清親(きよちか 弘化四(一八四七)年~大正四(一九一五)年)。月岡芳年・豊原国周と共に明治浮世絵の三傑の一人に数えられ、「最後の浮世絵師」「明治の広重」と称された。浮世絵の歴史は清親の死によって終わったともいえる(ウィキの「小林清親」に拠った)。]

月に照らされる年齡 大手拓次

 月に照らされる年齡

 

あめいろにいろどられた月光のふもとに

ことばをさしのべて空想の馬にさやぐものは、

わきたつ無數のともしびをてらして ひそみにかくれ、

闇のゆらめく舟をおさへて

ふくらむ心の花をゆたかにこぼさせる。

かはりゆき、

うつりゆき、

つらなりゆき、

まことに ひそやかに 月のながれに生きる年頃。

 

 

 

 月をあさる花

 

そのこゑはなめらかな砂(すな)のうへをはしる水貝(みづがひ)のささやき、

したたるものはまだらのかげをつくつてけぶりたち、

はなびらをはがしてなげうち、

身(み)をそしり、

ほのじろくあへぐ指環(ゆびわ)のなかに

かすみゆく月をとらへようとする。

ひらいてゆけよ、

ひとり ものかげにくちびるをぬらす花よ。
  

 

[やぶちゃん注:「水貝」大手拓次は単なる漠然とした貝類をかく表現したものかも知れない(言わずもがなであるが、料理の水貝なんどではない)が、私はこれが本州以南の潮下線下の砂上に棲息する腹足網後鰓亜網頭楯目オオシイノミガイ上科ミスガイ科ミスガイ(御簾貝) Hydatina physis のように思われてならない。ウミウシの一種として人気が高いが、私は薄い大型の貝殻も好きである(私は高校時代、秘かに好きだった二つ年上の学校の事務員の女性に、この貝殻を赤のリボンでくくってプレゼントしたのを今、思い出した)。殻表には多数の黒色螺帯があり、一般にはそこに不透明な淡褐色の縦線を有するが個体によってはほとんど見えないものもある。貝殻の中に格納しきれない大きな褐色を帯びたピンク色の軟体部を持ち、フリル状の外套膜の辺縁は青白色を呈し、蛍光する。参照した“The Opisthobranchs of Philippine Sea”のミズガイのブログ記事に、非常に素早く砂に潜るという記載もあり、こちらウミウシ図鑑」画像を見て頂いても、まさに拓次好みの絢爛さと眩暈的な美しさを持っていることがお分かり戴けるはずである。そして何より、しばしばこの貝は「ミズガイ」と誤記されるのである。同定というよりも寧ろ、この貝であることを私が切望している、と言った方がよい。]

鬼城句集 夏之部 靑桐の花

靑桐の花  靑桐の落下に乾すや寺の傘

2013/08/16

ブログ・490000アクセス突破記念 芥川龍之介「河童」決定稿原稿の全電子化と評釈 藪野直史 (+縦書版) / 通読用 芥川龍之介「河童」決定稿原稿(電子化本文版)(+縦書版)

昨夜来の山本幡男氏の驚愕の爆発的ワード検索アクセス(12時間で3600超)の中で(このブログの来訪者のために私のブログ・カテゴリ「山本幡男」及び「山本幡男遺稿抄 やぶちゃん編」同縦書版)へのリンクを示しておく)、あっという間にブログ490000アクセスが突破された(2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来)。



その記念として

芥川龍之介の
『「河童」決定稿原稿の全電子化と評釈 藪野直史』(+縦書版

及び

通読用の
『芥川龍之介「河童」決定稿原稿(電子化本文版)』(+縦書版

を公開する。

これは僕の新たなライフ・ワークである――


……それにしても……これでは……早速、500000アクセス記念を考えずばなるまい……既に今、本日だけで600アクセスを超えようとしている……

昨日のブログ・アクセスの特異点

昨日の訪問者数  1150人

昨日のアクセス数 3441人

そう滅多にない特異点なので画像を残しておこう。

Tokuiten

【2013年8月17日追記】
ニフティのサイト(「ココログ」という)の8月15日分のブログ・ランキング・グラフが今朝、表示された。162位であった。普段は3000から6000位の間をふらふらしている程度であるから、メディアの力、恐るべしである。

赤と白と靑と黄の歌――福島コレクション展観 五首 中島敦

    赤と白と靑と黄の歌

      ――福島コレクション展觀――
 

[やぶちゃん注:「福島コレクション」美術評論家で収集家であった福島繁太郎(明治二八(一八九五)年~昭和三五(一九六〇)年)のコレクション。パリに長く定住し、ドラン・ルオー・ピカソ・マティス等の現代絵画の作家たちの優れた作品を蒐集、一時は百点以上に達したが、これを「福島コレクション」と称する。この大部分は日本にもたらされ、日本現代美術史上に大きな影響を与えたとされる(昭和三〇(一九五五)年四月の『みづゑ』臨時増刊「旧福島コレクション」には七十六点が掲載されている)。また彼はパリで評論家ワルドマー・ジョルジュを主幹とした高級美術雑誌『Formes』を昭和三(一九二八)年から数年発行し、新人を発見することに努めた。これは戦後の銀座での「フォルム画廊」の経営で、有望な新人を育成したことに繋がっている(以上は主に東京文化財研究所発行「日本美術年鑑」に拠った)。]



   
  
  

モディリアニの裸婦(らふ)赤々と寐そべりて六月の午後を狂ほしく迫る
 

[やぶちゃん注:これは恐らく旧福島コレクションのモディアーニの「髪をほどいた横たわる裸婦」一九一七作)である(リンク先は大阪市立近代美術館のギャラリー・ページ。画像有)。]
  

  



ユトリロの白をつくづく目守(まも)りけり病院横の建物の白
  
  



ユトリロの心に栖みし白き影人無き街のこの白き影
  
  



[やぶちゃん注:これらの作品は同定出来なかったが(私は所持しないが、「旧福島コレクション」(美術出版社一九五五年刊)で同定は可能)、小熊秀雄の「大観とユトリロ」の中に、『福島コレクションでみた展覽会で見たユトリロは、その作品の制作方法の精神的段階が、あまりに日本的であつたので、私は吃驚りしたことがある。しつとりとしたやり方なのである。日本の洋畫家が、投げつけるやうに油繪をぬつたくる方法とは、まるでちがつてゐた。』という評言があるのを見出したので附言しておく。]


  
  

ルヲー畫(か)く靑き道化もキリストもある日の我に似たりと思ふ


  

[やぶちゃん注:「道化」の方は現在、ブリジストン美術館道化」一九二五作)である。同美術館には同じルオーの郊外キリスト」(一九二〇~一九二四が収蔵されているが、後者はこれか?(リンク先は同美術館公式サイト内のコレクション画像)。]


  
  

ふらんすの若き女が黄の縞の衣裳(きぬ)の明るさマティス憎しも


  

  
[やぶちゃん注:太字「ふらんす」は底本では傍点「ヽ」。特徴的な絵のようだが、ネットの画像検索では行き当たらない。本歌群総ての絵画作品について識者の御教授を乞うものである。]

月に照らされる年齡 大手拓次

 月に照らされる年齡

あめいろにいろどられた月光のふもとに
ことばをさしのべて空想の馬にさやぐものは、
わきたつ無數のともしびをてらして ひそみにかくれ、
闇のゆらめく舟をおさへて
ふくらむ心の花をゆたかにこぼさせる。
かはりゆき、
うつりゆき、
つらなりゆき、
まことに ひそやかに 月のながれに生きる年頃。

鬼城句集 夏之部 大葉子

大葉子   大葉子の廣葉食ひ裂く雀かな

[やぶちゃん注:「大葉子」シソ目オオバコ科オオバコ Plantago asiatica。和名は葉が広く大きいことに因む。他に漢名で車前草ともいうが、これは牛車・馬車が通る道の端に多く生えることから。私は今日までこう漢字表記することを知らなかった。小さな頃からオオバコ相撲をしていたのになぁ……]

2013/08/15

山本幡男さん! お帰り!

山本幡男さん! お帰り!………………

僕も見ました……あの民放の番組を……

「お帰り……幡さん……!」

今日の20時代は……1470アクセス……でも……何だか、嬉しくありません……ただ哀しいのです……

でも――だからこそ――読んで貰いたいのです――

――俺は遅れて来た遺書配達人と自覚しているさ……

「山本幡男遺稿抄」

イコンとしての杖――富田木歩偶感   藪野直史

「やぶちゃんの電子テクスト:俳句篇」に僕の拙攷「イコンとしての杖――富田木歩偶感――」(+縦書版)を公開した。

亡き母聖子テレジアに捧ぐ――

これは、僕の今までの生涯で唯一度、原稿依頼を受けて書いた富田木歩についての拙稿「イコンとしての杖」(『俳句界』第178号2011年5月号「魅惑の俳人㉜ 冨田木歩」所収・藪野唯至名義)の原型である(引用句などは正字化した)。字数制限があったため、同誌のそれはこれを極端に縮めて投稿した。そのため、十全に僕の伝えたかったことが伝わらなかった嫌いがあった(発表直後に、この原型の稿を贈った知人は遙かにこちらの方に胸うたれたと言って呉れた)。

僕は、この『俳句界』の論考を唯一人、母にのみ読んで貰いたかった。しかし、母は同年4月下旬の同誌の発売を待つことなく、同2011年3月19日に天に召された

だから僕は今、もう一度、あの時、天国の母に僕の言いたかったことを、ちゃんと告げたいと思う。

    
盆の中日に――

         直史ルカ――


Fritz Kreisler plays 'Songs My Mother Taught Me' by Dvorak

菠薐草(スピネツヂ)の歌 五首 中島敦、ポパイを詠う

中島敦の短歌を読んでゆくと「山月記」の中島敦のイメージが眼を見開かすような眩しい極彩色で塗り替えられてゆく。――今度は――中島敦、ポパイを詠う――である


    菠薐草(スピネツヂ)の歌

早口のポパイが泣き濁聲(だみごゑ)を土曜の午後に聞けば樂しき

老水夫ポパイが踊るシュトラウスのワルツ阿修羅の如くなりけり

ジャングルにポパイが象の鼻をつかみ麻幹(をがら)の如く振り廻しけり

打ちのめされてやをら取出す菠薐草(スピネツヂ)俄然ポパイは力充(み)ち滿つ

スクリィンの漫畫消えつゝ響くなる‘I am Popye, the sailor-man.(アイ・アム・ポパイ・ザ・セイラア・マン)’

[やぶちゃん注:ウィキの「ポパイ」によれば、ポパイは一九二九年にアメリカの漫画作家エルジー・クリスラー・シーガー(Elzie Crisler Segar)により、「シンブル・シアター(Thimble Theatre)」というコミック作品の中で生み出されたキャラクターで、初めは主人公のハム・グレイヴィ(Ham Gravy)とその恋人オリーブ・オイル(Olive Oyl)・オリーブの兄カスター・オイル(Castor Oyl)が中心の漫画で、オリーブ達よりも十年遅れて登場したポパイは当初脇役であったが、何をやっても不死身な所から一躍人気キャラクターとなり、ハムの主役の座とその恋人オリーブを瞬く間に奪い去ってしまった。一九三〇年代に入ると、同作の短編アニメ(カートゥーン)映画がフライシャー・スタジオによって次々と制作されるようになった。今日知られるポパイはこのアニメ版といっても過言ではない、とある。本歌稿の成立時期は昭和一二(一九三七)年前後であり、中島が映画館でみたそれは、英語版ウィキ“Popeye the Sailor filmography (Fleischer Studios)にリストされたどれかであると考えてよい。「シュトラウスのワルツ」「ジャングルにポパイが象の鼻をつか」むが同定のキー・ワードである。「I am Popye, the sailor-man.(アイ・アム・ポパイ・ザ・セイラア・マン)’」の部分は底本では横書英文本文右に( )内のルビが縦書で振られている。]

マリイ・ロオランサンの杖 大手拓次

 マリイ・ロオランサンの杖
        
――ロオランサンのある畫を思ひて――

 

空(そら)にいつぽんのとかげをさがし、

あをみをはぎ、

霧(きり)をはきかけ、

たちのぼる香爐(かうろ)のなかに三年(ねん)のいのちをのばし、

さて 春(はる)のそよかぜにひとつの眼(め)をひらかせ、

秋の日だまりにもうひとつの眼(め)をあかせ、

月(つき)をわり、日(ひ)をふりこぼして、

鐘(かね)のねの咲(さ)きにほふ水(みづ)のなかにときはなす。

うしなはれた情景(じやうけい)はこゑをつみたて、

顏(かほ)をみがき、

ひとり ひとり 息(いき)をはく、

その草(くさ)の芽(め)のやうな角(つの)をおとして。

 

[やぶちゃん注:本作がローランサンのどの絵に触発されたいものか、捜しあぐねているが、残念なことに私は個人的に彼女の絵は好きではないので、どうも探索の手が鈍る。識者の御教授を乞うものである。]

鬼城句集 夏之部 酸漿草の花

酸漿草の花 かたばみの花見付けたり假の宿

      かたばみに同じ色なる蝶々かな

[やぶちゃん注:「酸漿草」「かたばみ」と読む。カタバミ目カタバミ科カタバミ Oxalis corniculata の漢名で、葉や茎が蓚酸水素ナトリウム等の水溶性蓚酸塩を含んでいるため、咬むと酸っぱいことに由来する(蓚酸 HOOCCOOH は英語で“oxalic acid”というが、これはカタバミ属 Oxalis の葉から単離されたことに由来する。消炎・解毒・止瀉作用があるとされる生薬名の場合は酢漿草(サクショウソウ)と読む(以上は主にウィキカタバミ」に拠った)。]

2013/08/14

笑劇作家は心中を三度チャラかす 又は 心中も三度水差せばお笑いとなる / 三谷幸喜「其礼成心中」劇評

 面白い。どっかの阿呆首長が貧しい感性で思い付きの批判をし、「金の切れ目が縁の切れ目」と文楽の極悪人よろしく脅した前後に、速成で、しかも本人曰く、文楽を余り見てはいないという劇作家がものしたものとしては、すこぶる文楽が『元気を貰った』芝居として、高く評価してよい新作文楽である。

 冒頭、二度、書割を割って、また、さらに続く饅頭屋の段で、左右に隔離抑制する形で一度、(その間に実際には饅頭屋冒頭にオフで一度、縊死心中の制止があるので実際は四度になる)半兵衛が六助とおせんの曽根崎心中を妨害するに至って、「曽根崎心中」の持つ心中の哀切な情念や美化された悲劇性が完膚無きまでに払拭される。その確信犯が小気味よい。本作が徹頭徹尾(厳密には「心中天網島」劇中劇部分はそうではない。そこだけは私は極めて正統的な『文楽的な真面目を湛えた世界』であると感じている。後述する)喜劇として、古典的浄瑠璃作品では慶事の舞踏物以外にはまず見られない祝祭的純粋喜劇として、本作を――心中の既遂されない稀有の「心中物」――として産み落とした手腕は美事である。心中で心底笑えるのは、川島雄三の「幕末太陽傳」の挿話のような詐欺の場合に限ると思っていたが――心中を同一人物に、それも饅頭のために三度止められる――という構造が、独特の幟――『三谷笑劇場「其礼成心中」千客万来☞』――という道標となって爽快に棚引くのが幕開きである。

 因みに、冒頭の制止の際、半兵衛は天神の鳥居の描かれた書割を左右に割って登場するのであるが、これは所謂、掟破りの、ギリシャ悲劇に見られる超法規的大団円――デウス・エクス・マキナのパロディであることを示すものに他ならない。舞台上の死んだ者たちを一瞬にして生き返らせ、「チャンチャン!」というズッコケのオトシをやらかす魔法が、三谷にとって、伝統的「心中物」謀殺の完全犯罪にはどうしても必要だったのである。いやそれは寧ろ――「デウス・エクス・マキナ」 ―― Deus ex māchinā ――機械仕掛けの神――としての半兵衛という頭や人形、それを操る黒子達にこそ真正に相応しい謂いであったのである。……そうしてこの――「デウス」(神)こそが「其礼成心中」のキー・ワードである――と私は思ってもいるのである。

 三谷は半兵衛をして心中成金の獣人化にひた走らせる一方(それはそれで「それなり」に笑えるのであるが)、「おかつ」をそれに追従させながらも、一貫して好ましい人物として描いている。

 因みに、あらゆる劇的世界には『人でなし』の極悪人が必要となる。しかし現実世界には純粋絶対悪の存在としての『人でなし』は、実はいないのである(それは「人でなし」という命題自体が語っている「真」である)。だから後半で「曽根崎心中」の極悪の九平次のエピソードが半兵衛によって語り出され、亡霊のように九平次の姿が、高みにあって世間を戯画化する「神の様な」近松の下に、あたかも舞台上手に恨みの亡霊の如くに登場する。そこでは心中を売り物にし、模倣心中を現に多数誘発させておきながら、平然と二匹目三匹目の泥鰌を(「心中天網島」では厳しい不善性への断罪を結末に示したが)狙った近松の、ある意味で安易お手軽な作劇法への、劇作家三谷の痛烈にしてヒューマニスティックな批判が、半兵衛の、九平次のモデルとなった加害者も社会的生活者として最低限人格が守られねばならない(という考え方のパロディ)とする訴えの中に隠されているように思われる。

 「曽根崎の母」となった「おかつ」の身の上相談の助言は、如何にもな、すこぶる尋常(寧ろ、陳腐)なものである。これをもっと面白可笑しく、しかも確実に流行らせて大衆の圧倒的支持を得させ、大金を捲き上げているトンデモ人物と共同正犯である妻にしようとするのであれば、どこぞの国家の首長がぶちあげているようなありもしない未来への大風呂敷を際限なく広げたり、現にメディアに露出の高い予言者や占い師然とした『おば様』として描く方がよかろう。そうしたアップ・トゥ・デイトな印象を三谷は敢えて拒否しているようfである。

 というより、この「おかつ」は作中唯一の文字通り「母」なのであり、三谷が持つ永遠なる母性性の一つの典型が、この「おかつ」には体現されているように私には感じられたことはどうしても述べておきたい。そうした印象を、また一貫して演じ続けた人形の吉田玉佳を――私の好きな、主役半兵衛を使った一助、ではなく――私は本公演の随一としたい。

 「曽根崎饅頭」に対する「かき揚げ天網島」の語呂には脱帽である。
 ここで半兵衛とおかつは二人して近松の新作「心中天網島」を見物に行く。

 どうも初演ではここは背後の暗幕に文楽「心中天網島」の橋尽くしの段が映写されたようだが、今回は実演であった。今回は初演の内容を相当にブラッシュ・アップしている(と冒頭の三谷人形が語る)らしいが、ここはまさしく、してやったり! こここそは実演でなくてはならぬのである。

 ここではこの劇中劇こそが、真の「文楽」の秘蹟としての光輝を眩いまでに放つからである。

 治兵衛と小春の死出の道行の切々たる無言の挙措に、半兵衛とおかつが、思わず同情し、共感し、哀しく震えてシンクロナイズしてゆくのが美しい(私は目頭が熱くさえなった)。

 このシーンこそが三谷の新作「文楽」の「文楽」たる所以、その真骨頂であるとさえ言ってよい。

 「心中天網島」が如何に無惨に悲劇であるか(大近松によって惨たらしく断罪されるそのエンディングは描かれない)ということを知らずに見ている方であろうか――感極まった半兵衛が右手を掲げて立ち上がり掛けるのをおかつが制するシーンに失笑した女性客が何人もいた(8割強は女性であった。因みに妻の隣の女は鞄に録音機を潜ませて秘かに録音していた不届き者であったそうである)。

『ここは笑うべきところでは断じてない。笑ったあなたは「心中天網島」を見る義務がある。』

私は現にそう感じて、ムッとしたことを告白しておきたい。

 また、ここで台詞と三味線について一言、言っておきたい。

 本作は未だ大阪で上演されていないのであるが、大阪公演では、このままでは関西人には大きな違和感を感じさせざるを得ないと思うのである。三谷は世田谷生まれであるから仕方がないとはいえ、舞台の設定上からも標準語仕様の本作は、やはりもっと関西弁の比率を増やして語られねばならないと痛感する。半兵衛おかつの一人娘「おふく」の「お母さん」は如何にも虫唾が走る。「嬶(かか)さま」でないと私には承服出来ない。太夫も如何にも語り難そうであった。地の文を標準語で綴るのは構わないとして、会話文はもっと文楽的な関西弁にするに若くはない。三味線も作劇が徹底したチャリである割に、三味のチャリ表現が思いの外少ないのはかなり不満である。文楽の太夫と三味の地位を考えれば(それを文楽に馴染みのない観客にアピールするという啓蒙性からも)、これらはもっともっとブラッシュ・アップが望まれる部分である。

 近松の登場は開演前に管見した床本で知ってはいたが――私は秘かに、幕開けの前に登場した三谷頭(がしら)の人形が近松役で出て来るのではなどと夢想したりしたが――この半兵衛と大近松の議論は、私には三谷幸喜の劇作家としての内的葛藤の二極外化した役割のように思えた。

 あらゆる登場人物を「神」(デウス)として操る大近松のような芸術至上主義的な欲望と、恐らく三谷が決して失いたくない、市井の一人間としての素朴な地平に立ったリアリストとしての視線のアンビバレンツである。この「大近松 半兵衛直訴の段」は「其礼成心中」という外題の秘密が明かされる重要なシーンであると同時に、不思議な夢幻性を兼ね備えた(ある意味、「異様」にして「オリジナル」な)心的世界を現出させている。定之進か、近松の頭(かしら)がいい。

 但し、この後の近松を三谷はやや扱い兼ねている感じがする。この後の擬カタストロフ(半兵衛とおかつの入水未遂)の前に登場する近松、また、エンディングに上手から下手に先の神の位置で移動する、執筆に悩み、癇癪を起して反古を舞台に投げつける近松の作劇上の意味が、私には(観客はそこでドッと笑ったのだが私だけが馬鹿なのか、私は笑いながらも『彼は何を怒っているのか?』と疑問に思ったものである)今一つ、摑みかねたからである(これらは孰れも床本には記載がない。実に三谷の演出による追加なのである)。

 特に前者は、近松が半兵衛に意味深長に要求した「それなりの心中」の実行決意の直前であり、確かに意味深長でありながら、遂にその登場の意味が観客にすんなり理解され得たとは私には思われない。私の場合、寧ろあれは、近松の内なる芸術至上主義への、「それなり」に興味をそそる心中への期待という悪魔的な願望への、かすかな悔恨の情の、その霊的表現として読めてしまうのである(すると喜劇としては失敗であると私は思う)。

 但し、私は私が分からないとするエンディングで、分からないにも拘わらず、私が何故笑ったかを考えてみるのである。それは、またヒット作になりそうな『それなりの心中』をし損ねてしまった、半兵衛とおかつに反古紙をぶつけるように見えたからであるが、この苛立つ大近松は、実は――心中で大儲けしている近松が近松自身に苛立って上手く書けないその真の姿――であったと解釈するならば、私には論理的に――その握り潰した反古の礫が――すんなりと心の底に落ちてはきたのであった。(2013年8月13日 2:00 於パルコ劇場)

偕老同穴蟲 萩原朔太郎

       ●偕老同穴蟲

 

 我々の國に於ては、しばしば配偶生活が偕老同穴蟲にたとえられる。そして悲しいか。じつさいにこの比喩は當つてゐるのだ。

 偕老同穴蟲の配偶は、全く偶然の運命によって決定される。ある海潮のしづかな流れが、一の硅質の網籠にまで、一對の甲殼蟲を閉ぢこめる。かくして大海に生棲している、無數の同屬中での或る任意の一對が廻合するとき、直ちにその配偶生活が始まつてくる。即ち彼等の婚姻は、氣流や海潮が運ぶところの、氣まぐれの「運」に任せてあり、その配偶の選擇は、いつさい「偶然」が決定する。しかもかくして、一旦定められた偶然の配偶は、彼等が共に老いて死ぬまで、生涯を通じて變ることなく、宿命的に結合された夫婦である。何となればその網籠には、どこにも自由の出口がなく、一旦閉じこめられた以上には、もはや終生出ることができないから。

 偕老同穴蟲。意識なく個性なき海中の微生物の場合にあつては、この自然の結婚法が最も滿足にして完全なものであるだらう。何となれば彼等は、その同種屬たる限りに於て、AもBもCもDも、すべてが全く同一の衝動體にすぎない故、任意に選ばれた二箇のものは、常に必らず最善の配偶である。この場合での結婚とは、性を異にする二箇の物質が、自然の盲目的な媒介――運や偶然や――によって結合し、選り好みなき生殖生活をするものにすぎない。

 人間の場合に於て、萬物の靈長たる人間の場合に於て、これがまた同樣にそうであるならば! 人と人の配偶が、もしBの代りにCを取り、Cの代りに任意の一を取りうるような、天運任せの抽籤的結合であるならば、いかに人間の結婚は非倫であり、みじめな、下等動物的のものにすぎないだらう。しかも世の所謂「夫婦」とは、概ねただ偶然の機會によつて、殆ど多くの選り好みなく、運命的に、抽籤的に結合したものにすぎないのだ。社會はこれを結婚と呼び、外面的な儀式によって神聖化してる。ただ儀式だけが、空虛な胡魔化しの形式だけが、所謂「人倫」を觀念づけてる。だがその儀式を除いてみよう。あらゆる多くの配偶者は、眞に文字通りの「野合」である。即ち人格と人格との配偶でなく、性と性との、細胞物質と物質との、一般的なる選擇なき結合である。

 偕老同穴蟲的動物――。いかに歴史の長い間、人間はこの非倫的なる、下等動物的なる結婚を續けて來たことぞ。過去に於ても、現在に於ても、我々の結婚は常に盲目的で、偶然の「緣」により、豫想のつかない「運」によって、配偶者の盲籤を引きあてている。何人も、結婚してしまつた後になって、逆に初めて配偶者の何者たるかを――眞にいかなる人物てあったかを――知る。結婚の前にあつては、單に異性であることの外、漠然たるよそ行きの概念の外、どんな具體的の人物も知つていない。我々は無鐵砲に、運を天に任せて、豫想のつかない結婚をする。ただその日の天候が、氣流が、潮の滿干の流れが、我々の自由意志と交渉なく、ある偶然の配偶を運んでくる。人は結婚せねばならない。しかしながら何物が、どんな方面から、いかにしていつ求婚してくるかを知らない。一切の配偶は緣であり、豫想のつかない、偶然の支配に屬している。(それ故に、結果の幸不幸も、また偶然の運である。)

 實に數千年の長い間、人は「偶然」によつて結婚し、しかも生涯を通じて離れず、概ね貞操ある夫婦として過して來た。(何となれば道德が、法律が、社會の制度が、別して子供への責任などが、それの出口を塞いでいるから。)げに人間のみじめさは、よくも數千年の歷史を通じて、偕老同穴蟲たる運命を忍んできた!

 

[やぶちゃん注:昭和四(一九二九)年十月第一書房刊の「虛妄の正義」の冒頭の「結婚と女性」より。早くも六節目に現われるネガティヴなアフォリズムである。太字「悲しいかな」「しまつた」は底本では傍点「●」。「偕老同穴蟲」以下に示す海綿カイロウドウケツの中に雌雄で閉じ込められて一生を終わるとされるカイロウドウケツエビのこと。萩原朔太郎の本考察を考える上で非常に重要となるので、以下、私が丘淺次郎「生物學講話」で附けたそれらの生物についての注を引用しておく。

 まず、棲家となるカイロウドウケツ。

 海綿動物門六放海綿綱リッサキノサ目カイロウドウケツ科カイロウドウケツ Euplectella aspergillum。英名 Venus’ Flower Basket。種名のエウプレクテラは、ギリシャ語の“eu”「上手に」+“plektos”「編まれた」に由来し(学名解説は荒俣宏氏の「世界大博物図鑑別巻2 水生無脊椎動物」の「カイロウドウケツ」に拠る)、和名「偕老同穴」は、本来は「詩経」邶風(はいふう)の「撃鼓」に出る「偕老」と、同書王風の「大車」に出る「同穴」を続けて言った、生きては共に老い、死んでは同じ墓に葬られるの意の、夫婦が仲睦まじく、契りの堅固なことを言う故事成句を、ここで示されたように海綿内に雌雄一対で死ぬまで共生するドウケツエビ Spongicola venusta (後注参照)の様態に比して命名されたもの(共生エビから逆に遡及して名付けられたものではあるものの、私は海産動物の中でもとても素晴らしい和名命名であると思う)。二酸化ケイ素(ガラス質)の骨格(骨片)を持ち、ガラス海綿とも呼ばれる。本邦では相模湾や駿河湾など一〇〇〇メートル程度の深海底に限られており、砂や泥の深海平原を好む。以下、参照したウィキの「カイロウドウケツ」より引用する(アラビア数字は漢数字に代え、記号の一部を変更した)。『円筒状の海綿で、海底に固着して生活している。体長は五~二〇センチメートルほど、円筒形の先端は閉じ、基部は次第に細くなって髭状となり接地している。円筒の内部に広い胃腔を持ち、プランクトンなどの有機物粒子を捕食している』。『パレンキメラ(parenchymella)と呼ばれる幼生を経て発生』、『成体となったカイロウドウケツの表皮や襟細胞、柱梁組織(中膠)といった体の大部分はシンシチウム(共通の細胞質中に核が散在する多核体)である』。カイロウドウケツの体部を構成する『骨片は人間の髪の毛ほどの細さの繊維状ガラスであり、これが織り合わされて網目状の骨格を為している。これは海水中からケイ酸を取り込み、二酸化ケイ素へと変換されて作られたものである。このような珪酸化作用はカイロウドウケツに限ったものではなく、他の海綿(Tethya aurantium など)も同様の経路でガラスの骨片を作り、体内に保持している。これらのガラス質構造はSDVsilica deposition vesicle)と呼ばれる細胞小器官で作られ、その後適切な場所に配置される。カイロウドウケツのガラス繊維は互いの繊維が二次的なケイ酸沈着物で連結されており、独特の網目構造を形作っている。ガラス繊維には少量のナトリウム、アルミニウム、カリウム、カルシウムといった元素が不純物として含まれる。なお、普通海綿綱の海綿が持つ海綿質繊維(スポンジン)は、カイロウドウケツには見られない』。深海を生息域とするが、『骨格が珪酸質で比較的保存されやすい事、形状が美しい事から、打ち上げなどの形でしばしば人目に触れる機会があった。ヴィクトリア朝時代のイギリスでは非常に人気があり、当時は五ギニー(現在の貨幣価値で三〇〇〇ポンド以上)ほどの値段で売買されたという』(二〇一二年一〇月現在の為替レートでは約三十八万円強であるが、ヴィクトリア朝時代当時は変動が激しく確定出来ないものの、ネット上のある記載では一ポンドは少なくとも五万円相当とあるので、何と一億五千万円に相当する)。但し、当時のヨーロッパでは専ら、中国の名工が人工的に作物した工芸品と捉えられていたようである。本邦の文献上では、「平治物語」『の中に「偕老同穴の契り深かりし入道にはおくれ給ひぬ」(上巻第六)というくだりがある。現在でもカイロウドウケツは結納の際の縁起物として需要がある』とする(荒俣氏の記載にはドイツの動物学者ドーフラインの「東アジア旅行記」(一九〇六年)に載る逸話として、シーボルトがミュンヘン博物館のためにフィリピンからカイロウドウケツを取り寄せた際、税関で高価な工芸品として高額の関税が掛けられそうになり、シーボルトが「これは動物(の骨格)である」と必死に説明してことなきを得たという面白い話を記しておられる)。現在は『工業的な側面から、カイロウドウケツのガラス繊維形成に着目する向きもある。例えば光ファイバーに用いるようなガラス繊維の製造には高温条件が必須であるが、カイロウドウケツはこれを生体内、つまり低温で形成する。またこのガラス繊維を構成する二酸化ケイ素は結晶質ではなくアモルファスであり、かつ光ファイバーと同じように屈折率の異なるコアとクラッドの構造を持』っており、『光ファイバーよりも細く曲げに対しても強い。このような低温条件での繊維形成制御機構を解明し、いわゆるナノテクノロジーや光学用途へ応用する事が期待されている。』とある。昏い深海にひっそりと佇むウェヌス(ビーナス)の籠が、未来の鮮やかな光明となる可能性――これこそヒトが手にした素晴らしい光である――チェレンコフの業火など――いらない。

 次にその中に永遠に閉じ込められるカイロウドウケツエビについて。

 上記の海綿カイロウドウケツEuplectella aspergillum の網目構造内の胃腔の中に片利共生する十脚(エビ)目抱卵亜目オトヒメエビ下目ドウケツエビ科ドウケツエビ Spongicola venusta。このエビは幼生のうちにカイロウドウケツ内に入り込み、そこで成長して網目の間隙よりも大きくなって、外部に出られない状態となる。多くの場合、丘先生の述べられた如く、一つのカイロウドウケツの中に雌雄一対のドウケツエビが棲んでおり、二匹が海綿内で一生を過ごす。なお、編み目から入るときには雌雄は未分化の状態で、内部でやがて分化する。ドウケツエビは、海綿の食べ残しやガラス繊維に引っかかった有機物を食べて生活している。また、カイロウドウケツの網目がドウケツエビを捕食者から守る効果もあるとされる(以上はウィキの「カイロウドウケツ」の解説中の「ドウケツエビ」の項を主に参照した)。

 丘浅次郎先生はこの一対のドウケツエビの夫婦和合を非常に高く評価されておられるのだが、荒俣宏氏の「世界大博物図鑑別巻2 水生無脊椎動物」の「カイロウドウケツ」には非常に興味深い反論が示されている。まず、

●生物学者牧川鷹之祐は昭和九(一九三四)年の雑誌『植物及動物』の「生物関係の語彙集 Ⅲ」の中でこのエビにつき、『はたして古人の思ったとおり幸福円満といえるのか』、小さな時にたまたま入って出られなくなって、遂に一生を終えねばならないものであるなら、『これを夫婦和合の象徴として珍重するのはちょっと考えものではなかろうか』と疑義を呈しているのである。また、

●動物学者岡田要も、カイロウドウケツの内部に於いてはその初期、複数個体がいて、それらが『激しい生存競争結果、』互角の二匹だけが生き残る、しかも時には三匹が一つ穴に入っていて(と語っているのはそのようなカイロウドウケツの個体を岡田氏は複数回観察しているということらしい)『三角関係になっている』。『その何がおめでたいのか、とつねづね語っていたと伝えられる』

とあるのである。――私はこれを非常に面白く読んだ。それは丘・牧川・岡田という同じ生物学者が

×『ドウケツエビが幸か不幸か』を考えている

――のではなく――

それぞれ丘・牧川・岡田という男(♂)の女性観や夫婦観、ひいては人生観の違いが微妙に作用して、このドウケツエビの様態を、

◎『自分自身だったら幸か不幸か』になぞらえて考えている

からである。

×この何れが正しいのかを考えること

は無益である。

――が――

□こう考えるそれぞれの学者先生一人ひとりが、どういう男(♂)であったかを考えてみること

――これは――

頗る面白い。誰がどうだと非難したいのでは毛頭、ない。しかし例えば、

――三角関係になるのはまっぴらだ、と『つねづね語っていた』という岡田先生は、もしかすると三角関係で辛酸を嘗めたのかも知れない(勿論、そんな「こゝろ」みたような地獄を知らずに今の妻と円満でいられるのは幸せだ、と考えたのでもよい)。

――自分の意思に反して、選ぶ自由もなしに、女(♀)を与えられて、家から出られなくなって、遂に一生を終えねばならないなんて悲し過ぎる、と考えた感じのする牧川先生も、もしかすると自分の身に引き比べて考えているような雰囲気がありはしないか(勿論、それが牧川先生が相思相愛の夫婦であったからというポジティヴな認識に基づくものであっても一向に構わない)。

――私は小学生の時に図鑑で読んだ時から今に至るまで、丘先生と同じように感じ続けてきたし、三者の意見を比較している今現在も、それは変わらない。だからと言って――私が『後に入り來るものがあつても、これを食ひ殺すか、追い退けるかして、家庭の平和を保つことに努め』たかどうか――『少量の餌を食つて滿足し、外に出て大いに活動するといふやうな野心は夢にも起こさず、明けても暮れても夫婦差向ひで、雄の方も嚴重に貞操を守り、或る種の女權論者の理想とする所を實現して居る』という稀有の至福の夫婦像を思い描きながらも、実際の私と私の妻との夫婦生活が、それを一分たりとも実現しているかどうかは――これまた――別問題なのである……]

眠られぬ夜の歌 十一首 中島敦

    眠られぬ夜の歌

      ――就寢後三時間以内に睡りにつく夜とてなければ、

      この歌は又「夜毎の歌」と稱するも妨げず

睡眠(ねむり)てふ大き寶を人みなは寶と知らず羨(とも)しきろかも


まどろまむすべも知らねば眼をとぢて新聞將棋思ひいでむず


たまさかに木村八段負けよかしなど思ひつゝ盤面をゑがく


[やぶちゃん注:「木村八段」後の十四世名人(昭和二七(一九五二)年の引退と同時に襲位)で八段であった木村義雄(明治三八(一九〇五)年~昭和六一(一九八六)年)か。参照したウィキの「木村義雄によれば、大正一五(一九二六)年に八段となり、昭和一三(一九三八)年の第一期名人戦に於いて名人となって以来、最強を誇り、「常勝将軍」と呼ばれ恐れられた、とある。底本解題を見る限り、本歌稿の成立時期は昭和一二(一九三七)年前後である。]


あら不思議何故飛車を打込みて八四(ハチヨン)の角を素破拔かぬぞ


何すとか金子八段飛車打たぬ手ぬるしと思ふよ素人(しろうと)われは


[やぶちゃん注:金子金五郎(明治三五(一九〇二)年~平成二(一九九〇)年)か。参照したウィキ金子金五郎によれば、『日本将棋連盟の前身である将棋大成会の幹事長を務め、木村義雄名人を補佐して将棋界の発展に尽くした。また、雑誌「将棋世界」の初代編集長でもある』。『「序盤の金子」と称された理論派で、引退後は観戦記者として大山・升田の名勝負の魅力をファンに伝えた。「定跡とは、歴史です」という名言がある』とある。昭和七(一九三二)年に八段、昭和二五(一九五〇)年に引退し、昭和四八(一九七三)年に九段となっている。]


新聞の將棋終ればラテン語のディクレンションか未だいね難し


[やぶちゃん注:「ディクレンション」“Declension”とは、語形変化の内で名詞などが性・数・格といった文法カテゴリーに対応して変化するものをいう。ラテン語では多く見られ、ラテン語学習では悩まされる部分である。参照したウィキディクレンションによれば、『語学などでは格変化と訳されることが多いが、格による変化だけをいうのではない。また古典語の文法では曲用という訳語がよく使われる。これは動詞の語形変化である活用と対をなす訳語である』とある。]


マギステル・マギーストルム・マギスーリィぬば玉の夜は更(ふ)けにけらしも

[やぶちゃん注:「マギステル・マギーストルム・マギスーリィ」ラテン語主格単数“Magister”(呼格単数も同じ)のディクレンションの“magisterōrum”(属格複数。“magisterum”なら対格単数)“magisterī”(主格複数・属格単数・呼格複数)で、マスター、親方・主人・校・教師の意。ここは自分の職業である教師の謂いであろう。]


アントニオがクレオパトラを口説きけむラテンことばの煩はしもよ

[やぶちゃん注:太字「ことば」は底本では傍点「ヽ」。]


ラテン語はよくも得せねば佛蘭西のエーメ動詞を變化させてむ


[やぶちゃん注:「エーメ動詞」フランス語の動詞「愛する」“aimer”(エーメ)をディクレンションしても不定形も“aimer”(エーメ)、過去分詞も“aim(e)”(エーメ)である。]


愛(は)しきやし巴里の乙女がいふならむジュ・ヴー・ゼエームこそ聞かまほしけれ


[やぶちゃん注:「ジュ・ヴー・ゼエーム」“je vous aime”。「私はあなたを愛してる」。]


アンパルフェ容易(たやす)からねば朦朧とやゝに眠しも今は止(や)みなむ


[やぶちゃん注:「アンパルフェ」“Imparfait”。フランス語の過去時制の一つである半過去。「その時〜していた」「その時には〜だった」といった過去において継続された動作・状況・習慣を表わす。以上の十一首は喘息発作のために眠られぬ夜の堪え難い苦悶を敢えて戯画的に詠ったものである。]

呪ひに送られる薔薇 大手拓次

 呪ひに送られる薔薇

月色の霧はくさむらにせまり、
おとさへもないひそみのなかに
ばらはひとつ
はねをおとし、
ばらはひとつ
あしをみがき、
ばらはひとつ
くちびるをうながす。
のろひにおくられる薔薇のつぼみは
ひらかうとして ひらかうとして
息(いき)をなげかはす。
うすあをと ときいろと うこんの薔薇、
はつなつの日はとほい雪にさそはれて、
しろい しろい あこがれのなやみをはき、
みどりのなかに その金のとびらをとざさうとする。
三つの薔薇は肌もあらはに、
ひとびとのおもひのうしろに
ときもなく にほひをはなたうとして、
その刺のひとみをおづおづとこらす。

鬼城句集 夏之部 卯の花

卯の花   赤う咲いてそらぞらしさや毒うつぎ

      炭竈の煙らで淋しうつぎ咲く

[やぶちゃん注:「炭竈」は「すみがま」で、炭焼きの竈(かまど)のこと。単独では冬の人事の季語である。]

2013/08/13

眞珠の歌 六首 中島敦

    眞珠の歌
天鵞絨の黑き褥(しとね)に白珠(しらたま)はつぶらくに竝びしづもる
天鵞絨は褶(ひだ)を豐かに陰(かげ)つくるふかぶかとして沈む白珠
[やぶちゃん注:「ふかぶか」の後半は底本では踊り字「〲」。]
天鵞絨のけばのことごと艷めきて白珠の色盛り上りくる
[やぶちゃん注:「ことごと」の後半は底本では踊り字「〲」。]
白鈍(しろにび)に光消ちつゝ阿古屋珠(あこやだま)黑艷絹(くろつやぎぬ)の底にしづもる
白珠の光はうちにこもらふか蟲靑(むしあを)帶(お)びし乳霞色(ちちがすみいろ)
[やぶちゃん注:「蟲靑」「むしあを(むしあお)」という訓から考えると、襲(かさね)の色目(いろめ)の一名である「虫襖(むしあを)」のことか。表は青黒、裏は二藍(ふたあい)または薄色であるが、これ自体が玉虫の羽根のような暗い青みの緑色をも指す。古くは「靑(あを)」とは空や海の色を表す現在の青色系を指す場合と、草木などの緑色系の色を指す場合とがあり、この場合は真珠の色が孕む後者の雰囲気を指すのであろう。]
かぐろなす艷々絹(つやつやぎぬ)に白珠の五百箇統(いほつすばる)は見れど飽かぬかも
[やぶちゃん注:「五百箇統」多くの玉を糸に貫いたものを指す上代語。「古事記」に於いて天照大神と建速須佐之男命(すさのを)の神産み比べのシーンで建速須佐之男命は天照大神が頭髪と腕に巻いていた八坂瓊之五百箇御統(やさかにのいほつみすまる)を貰い受けて噛み砕き、吹き出した息の霧から五柱の男神を生んでいる。ここは無論、ネックレスのこと。]

四月の日 大手拓次

 四月の日

日は照る、
日は照る、
四月の日はほのほのむれのやうに
はてしなく大空のむなしさのなかに
みなぎりあふれてゐます。
花は熱氣(ねつき)にのぼせて、
うはごとを言ひます。
傘(かさ)のやうに日(ひ)のゆれる軟風(なんぷう)はたちはだかり、
とびあがる光(ひかり)の槍(やり)をむかへます。
日は照る、
日は照る、
あらあらしく紺靑(こんじやう)の布(ぬの)をさいて、
らんまんと日は照りつづけます。

鬼城句集 夏之部 靑柿

靑柿    靑柿や虫葉も見えで四つ五つ

2013/08/12

教え子T.S.君の昨日の「山月記」の旅

教え子のT.S.君が昨日、中島敦の「山月記」で(というよりも厳密には原作の李景亮の「人虎傳」で。リンク先は孰れも僕の電子テクストで後者は僕の教師時代の授業ノートであるが、中に「人虎傳」のオリジナル・ダイジェストがある)、李徴が虎に変身した「汝墳」(河南省平頂山市汝墳店)を訪ねた写真を贈って呉れた。
T.S.君は、時間の関係上、行こうとして行けなかった少し北方にある汝水市の汝水の畔りが真の同定地ではないかとしているのであるが、僕はこの彼が訪れた「汝墳店」こそが「人虎傳」の「汝墳の逆旅」のあった場所である、と信じて疑わない。僕なりの考証をT.S.君には先程伝えたが、下々しくなるのでここではそれは記さない。

それらは行ったこともない場所なのに……僕の心の中で……僕自身のパトスと離れ難く融合してしまった「山月記」世界への……ある玄妙な……不可思議な懐かしさを……感涙窮るものとして呼び起こすに相応しい景色の数々であった。
僕はその恩に微力ながら報いたいと思う。



汝墳店を流れる沙河の流れ――

……僕はそこへ遂に戻ってきた……あの……懐かしい日のあの変わらぬ川の流れ……藻のゆらぎ……

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「ソラリスを想起させました。」(T.S.君の消息文より)

Андрей Тарковский “СОЛЯРИС” ――そのシーンは冒頭3:09に現われるが、僕としてはオープニング・タイトルのエドワルド・アルテミフ編曲の電子演奏になるバッハのコラール・プレリュード 『イエスよ、わたしは主の名を呼ぶ』(BWV639)を聴いてから見て戴きたい――

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沙河の砂州からの風景――

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「……彼は怏々として樂しまず、狂悖(きやうはい)の性は愈〻抑へ難くなつた。一年の後、公用で旅に出、汝水(ぢよすゐ)のほとりに宿つた時、遂に發狂した。或夜半、急に顏色を變へて寢床から起上ると、何か譯の分らぬことを叫びつつ其の儘下にとび下りて、闇の中へ駈出した。彼は二度と戻つて來なかつた。附近の山野を搜索しても、何の手掛りもない。その後李徴がどうなつたかを知る者は、誰もなかつた。……」(中島敦「山月記」)


河畔にてT.S.君の見出した不思議な石――表面線上痕からは明らかに人工の産物だ。水運関連の繋留器だろうか?――僕は勝手に「人虎石」と呼ぶことにした――

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河原の揚葉蝶――沢山の群れだったそうである――

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河原の隅に栽培されていたゴマの花――

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「砂州の手前の堤の南側、林を抜けた向こうに見える汝墳店村です。」(T.S.君の消息文より)



汝墳店点景――
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「汝墳(じよふん)の逆旅(げきりよ)の中に舍(やど)りて、忽ち疾(やまひ)を被(かうむ)りて發狂し、僕者(ぼくしや)を鞭(むち)捶(う)つ。其の苦に勝(た)へず。是に於いて旬餘(じゆんよ)疾(やまひ)益々(ますます)甚(はなはだ)し。何(いくば)くも無くして夜(よ)狂走(きやうそう)し、其の適(ゆ)く所を知る莫(な)し。家僮(かどう)は其の去(きよ)を跡(たづ)ねて之を伺ふ。一月を盡くせども徴は竟(つひ)に囘(かへ)らず。是に於いて僕者は其の嚢橐(なうたく)を挈(たづさ)へて遠く遁れ去れり。」(「人虎傳」)

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「炎天のもと、森閑とした真昼時の村内の様子です。」(T.S.君の消息文より)



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汝墳店の雑貨店の主人(左)と客――
『このご主人の話では、現在の汝墳店は汝墳店村がルーツであり、古くは汝墳という名の街道筋の集落であったとのことです。』(T.S.君の消息文より)



街道と沙河橋――

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村外れの小径――
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『……翌年、監察御史、陳郡の袁傪(えんさん)といふ者、勅命を奉じて嶺南に使し、途に商於(しやうを)の地に宿つた。次の朝未だ暗い中に出發しようとした所、驛吏が言ふことに、これから先の道に人喰虎が出る故、旅人は白晝でなければ、通れない。今はまだ朝が早いから、今少し待たれたが宜しいでせうと。袁傪は、しかし、供廻りの多勢なのを恃み、驛吏の言葉を斥けて、出發した。殘月の光をたよりに林中の草地を通つて行つた時、果して一匹の猛虎が叢の中から躍り出た。虎は、あはや袁傪に躍りかかるかと見えたが、忽ち身を飜して、元の叢に隱れた。叢の中から人間の聲で「あぶない所だつた」と繰返し呟くのが聞えた。其の聲に袁傪は聞き憶えがあつた。驚懼の中にも、彼は咄嗟に思ひあたつて、叫んだ。「其の聲は、我が友、李徴子ではないか?」……』
『……叢の中からは、暫く返辭が無かつた。しのび泣きかと思はれる微かな聲が時々洩れるばかりである。ややあつて、低い聲が答へた。「如何にも自分は隴西の李徴である」と。……』(中島敦「山月記」)

「商於」は浙川県の西とも現在の商洛市域内ともある。何れにせよ、この汝墳店から西へ300キロから200数十キロメートルの位置になる。しかし、僕にはこの小径の向こうに――踊り出る虎が――見えるのである……



T.S.君への手紙。

僕は――やっと僕の故郷へ帰ってきた――そんな不思議に懐かしい気がしています。ありがとう。袁傪。 

    李徴 こと 藪野直史より

追伸:あなたの沙河の三枚の写真を川の流れに合わせて合成してパノラマにしてみました。

Sagago

三伸:戴いた一時間足らずで豹変する黄河を撮った12枚に及ぶ組写真も素慄っとするほど素敵だ。これがかの黄河か……特に、この二枚がお気に入りだ――

黄河落日――
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黄河雷鳴――

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……また、素敵な写真を待っています。(2013年8月13日三伸)



【2013年8月15日追記】叙述の中で袁傪と李徴の出逢った「商於」の地についての不審を述べたが、これについても昨日、このT.S.君より、詳細な同定考証が舞い込んだ。
僕の『中島敦「山月記」授業ノート』の「第二段 再会 」の冒頭に「・商於の同定について」として追記した。
恐らく、ここまで(衛星写真を用いて場所まで特定されている!)踏み込んだ考証は前人未到と言える。是非、お読み頂きたい。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第八章 東京に於る生活 1 江の島から東京大学研究室まで

 第八章 東京に於る生活


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図―191

 八月二十八日。今日は荷物を詰めるので大多忙だった。小便も、特別学生も、病気になったので、この仕事は松村と私とに振りかかって来た。我々がやとった車夫達は、例の通り手伝う事を申し出たので、私は彼等に麦藁をきざませたが、日本人はいろいろなことを器用にやるから、我々よりも上手に、荷を詰めたかも知れぬ。水曜日の朝、我々は人力車を五台つらねて出発した。箱、曳網、その他、及び人を四人のせた舟は、翌日まで出帆出来ないので、荷ごしらえの残部は小使にさせることにした。繊弱過ぎて詰めることの出来ない標本は、大きな、浅い籠に入れた。大きな、細い枝を出した珊瑚(さんご)は、板に坐布団をくくりつけてその上に置き、料理番がこれを東京へ着く迄膝の上に乗せて行った。我々はみな標本を入れた籠を一つずつ持ち、最後の人力車には荷物を積んだ。図191は、三十マイル以上を走って東京へ向うべく出発した時の一行の有様を、朧(おぼろ)げながらも示したものである。我々はかなり、くっつき合って進んだが、人々が我々から受けた印象を見受けることは面白かった。彼等は不思議そうに先頭を瞥見し、二番目を眺め、吃驚して三番目に来る人を見詰め、そして我々がそろって膝の上に、かくも奇妙な物をのせている光景に、驚いて笑い声を立てる。我我は横浜で泊ることにした。翌朝我々は大切な珊瑚その他を、少しも傷けずに、東京へ着いた。金曜の朝には舟が着き、私は荷物が大八車二台に安全に積まれ、三人の男が曳いたり押したりして、最後に大学で私にあてがわれた部屋で下ろされるのを見た。これ等の部屋は博物館――日本に於る最初の動物博物館――の細胞核である。私は、私の契約期限が切れる迄に、これをしっかりした基礎にのせるようにしたいと希望している。
[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」(九七頁)によれば、
   《引用開始》
〇二十八日 荷物を詰め、実験所を閉じる。
〇二十九日 モース、松村、松浦、午前中に江ノ島を離れる。横浜で一泊。
〇三十日 東京着。採集品は、この日江ノ島を出た船で東京へ。
   《引用終了》
明治一〇(一八七七)年八月二十八日は火曜日であるから、採集品が届いた「金曜の朝」とは江の島を船が出た翌三十一日の朝のこととなる。
「特別学生」前出の松浦佐用彦。]

夜と林檎の歌 七首 中島敦

    夜と林檎の歌

冬の夜のひとりさびしみ紅(くれなゐ)の林檎さくりとわりにけるかも

[やぶちゃん注:太字「さくり」は底本では傍点「ヽ」。以下、「さつくり」も含めて同じ。]

新しきナイフ手にとり紅(くれなゐ)の林檎さくりとわりにけるかも

しろたへの小皿の上に紅(くれなゐ)の林檎さくりとわりにけるかも

[やぶちゃん注:この一首には、下に冒頭の右上に『*』が傍注され、下に『*雪白の』とある。これは本歌稿には、初句を、

 

雪白の小皿の上に紅(くれなゐ)の林檎さくりとわりにけるかも

 

とする別稿が示されていることを意味する。]

さつくりと林檎をわりぬ汁とびぬ我が眼(め)に入りぬあはれ淸(すが)しさ

紅(くれなゐ)の林檎をわれば眞白なり汁(つゆ)チカチカと雲母(きらら)の如く

[やぶちゃん注:「チカチカ」の後半は底本では踊り字「〱」。]

めづらしと林檎の種子(たね)を眺めけり今がはじめて見るにあらねど

つくづくと林檎の種子(たね)を眺めけり林檎の種子(たね)は小(ちひ)さかりけり

[やぶちゃん注:「つくづく」の後半は底本では踊り字「〲」。]

眞劍すぎる人 萩原朔太郎

眞劍すぎる人々 「藝術は實生活以外のものでない」と言つた古い自然主義の美學は、今日に於て尚且つまだあまりに多く學徒を持つて居ないか。彼の趣味や風流のためにするのでなく――そんな遊戲的なことの爲にするのでなく――もつと生命的な實際問題、即ちパンのために、商賣のために、そして要するに實生活の金儲けのために筆をとるところの、あまりに、眞劍すぎる多くの文學者を。(風刺として)

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年四月アルス刊のアフォリズム集「新しき欲情」の「第五放射線」より。「232」のナンバーを持つ。下線部は底本では傍点「●」。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 18 その他の旅館

    ◎其他の旅館

神社鳥居内にすべて七軒の旅館あり、そのうち惠比壽、金龜、岩本の三旅館は別項記載する所あれば、重ねては案内せず、他の四戸は。讃岐屋八郎右衛門、江戸屋忠五郎、北村屋忠右衛門、さかゐや平十郎、いづれも麓鳥居内の左右に店を列ねて、ひとしく凉しき處に客間を設けて、富士を窓に入れて作れるもあり松と岩とを軒にして葺きおろしたるもあり、江の島の風光を我かものにして、閑靜を致(むね)としたる、構造の澁き、お手輕向、それそれの特色自慢もあるべし、夏を餘所なる凉みの場所なれば潮風心地よく浴衣を透(とほ)し、滿目爽凉秋の如く、鮮鱗潑溂として膳に上るの快、其孰か保養或は一酌に適するかは讀者の所感に任かす。

[やぶちゃん注:二〇一三年現在、江の島の旅館は岩本楼と恵比寿屋の二軒のみである(他に後発と思われる民宿が七軒営業しているということにはなっている)。]

 

    ●江の島旅人宿の宿料及晝飯料の規定

      定

       宿 料

 一甲上  金壹圓    一乙上  金六十錢

 一甲中  金八十錢   一乙中  金五十錢

 一甲下  金七十錢   一乙下  金四十錢

       晝飯料

 一甲上  金八十錢   一乙上  金五十錢

 一甲中  金七十錢   一乙中  金四十錢

 一甲下  金六十錢   一乙下  金三十錢

     等外  金二十錢

  右協議決定候事

            江の島旅人宿

   明治三十年七月     正  行  事印

[やぶちゃん注:昼食貸席料が異様に高いのが解る。]

季節の色 大手拓次

 季節の色

たふれやうとしてたふれない
ゆるやかに
葉と葉とのあひだをながれるもの、
もののみわけもつかないほど
のどかにしなしなとして
おもてをなでるもの、
手のなかをすべりでる
かよわいもの、
いそいそとして水にたはむれる風の舌、
みづいろであり、
みどりであり、
そらいろであり、
さうして 絶えることのない遙かな銀の色である。
わたしの身はうごく、
うつりゆくいろあひのなかに。

鬼城句集 夏之部 藜

藜     燒跡やあかざの中の藏住ひ

[やぶちゃん注:「藜」ナデシコ目ヒユ科アカザ属シロザ変種アカザ Chenopodium album。かつては救荒植物として栽培された。博物誌は廣野郁夫氏の「木のメモ帳」にある「木あそび」のアカザ(藜)の杖は現在でも存在するかが秀逸である。必読。]

2013/08/11

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 17 金亀楼

    ◎金龜樓
 
邊津(へつ)の宮、凉風通ふ神垣にそひ、巖を抱きて海面を拔數十仭の高處に、旅館金龜樓あり。金龜は江の島號に取るなり、明治二十一年四月新築せしに、其翌年八月囘祿の災い(さい)に罹り、十二月再建(さいこん)せしものにて、客室二十を有す、ひとしく眺望に適す。
麓の塵を離れて、凉しき風の通ひくる金龜山、磯馴松(いそなれまつ)の梢の響きは岸の邊を洗ふ波の音に和し、風景の絶美なる、江の島第一と誇るも、さもあらんかし。打ち開けたる眺望、三盃傾け來つて醉餘欄に凭(よ)れば、稻村が崎ま近く立ち、右は三浦の三崎、城が島まで霞ながらに指さゝれ、烟波萬里の海天只藍の如く、白波起るの處歸帆の影朧氣に沒せんとしつ、高欄海氣通して、鮮鱗(せんりん)膳に躍るの快、一興又一興。
 
[やぶちゃん注:上之宮(中津宮)の上之坊の跡地に立っていた老舗であるが現存しない。エスカーの第二区乗場から江の島神社に向う途中辺りで、現在は広場となっている。挿絵は一ページ分で単色横向きで上下二枚に配す。上図は本文にある「旭の間」とその眺望で、少しだけ説明すると、左手には座敷内で籐か竹細工の鼓型をした椅子に腰かけ、支柱のついた望遠鏡(旅館の備品かと思われる)で三崎房総方向を覗いている浴衣姿の男が描かれ、中央にはカイゼル髯を生やして背広を着たハイカラな男(本書の挿絵では江の島参道を描いた「各旅館の圖」の中景にそれらしいのが二、三人描かれているだけで洋装の人物は極めて稀である)と浴衣姿の男が立っており、後者はやはり同方向を双眼鏡で覗いている。下の図は全景。なお、「磯馴松(いそなれまつ)」のルビは「い」がないが、脱字と見て訂した。]
 

【2016年1月13日追加:本挿絵画家山本松谷/山本昇雲、本名・茂三郎は、明治三(一八七〇)年生まれで、昭和四〇(一九六五)年没であるので著作権は満了した。】

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山本松谷「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」挿絵 金亀楼の図(二枚)

[やぶちゃん注:明治三一(一八九八)年八月二十日発行の雑誌『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」(第百七十一号)の挿絵の四枚目。上部欄外中央に「金亀樓の圖」、下部欄外中央に「同上」とキャプションがある。

 往時の繁昌が偲ばれるだけに、廃業前から、しもた屋、そして消失に至るまでを見て来た私には何かいたく淋しい気がする。望遠鏡がナウい。松谷は子どもの描き込みが実に上手い。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第七章 江ノ島に於る採集 28 角兵衛獅子 / モース先生江の島洲鼻にてキレるの図 * 第7章 了

 

 

 藤沢へ着く前に、私は奇麗な着物を着た人達が、街路をゾロゾロ歩いて行くのを見た。娘達(大人のある者さえも)は美しい紅色の下着を着ていたが、これは一般に見受ける藍色の衣類にくらべて、気持のよい変化であった。藤沢へ入ると、大変な群衆である。あるお寺の段々から白衣を身につけ、頭に自由帽(自由の表章として着ける半卵形の緊身帽)に似た茶色の帽子をかぶった男が四、五十人、肩に祠の雛形みたいな物を担いで下りて来た。先頭には太鼓があり、これをドンドンドンと三度ずつ、ゆっくりした単調な調子で叩く。明かに何事かが行われつつあるのである。私は身振り手振りで車夫達に、それが何であるにせよ、とにかく止って見たいのだということを伝えた。そこで彼等は横町に車を引き入れ、私はノロノロと子供、大人、玩具店の間を縫って歩いた。全部の光景は市に似ていた。ある種の芝居みたいなものを、やっている真っ最中だった。一人の男が勢よく太鼓を叩きながら、大きな声で、背後に並べられた人像彫刻のようなものに、人々の注意を引いていた。この見世物の入場料が、一セントの十分の一だということを知らぬ私は、二セント出した所が、男は非常にうやうやしく礼をいったあげく、入場券を渡したが、それは長さ一フィートの木の札だった。この見世物は一種の奇妙な天幕の内で行われ、長さ七フィートばかりの舞台があって、少数の観客がそのすぐ前に立っていた。この国の人達は皆背が低いので、彼等から見たら私は巨人と思えるであろう。いずれにせよ、私はまるで竹馬にでも乗ってるような具合に、彼等全部の頭ごしに見ることが出来た。だが見物人が見世物を見ないで私をみつめ、低い声で「イジンサン」といいあうのを聞くのは、いささかいやだった。「イジンサン」は「異った人々」で、即ち「外国人さん」の意味である。

 

[やぶちゃん注:この祭りは何だろう。一つの候補であるが、現在の藤沢市大鋸の遊行寺向かいの、国道一号線遊行寺坂沿いにある諏訪神社例大祭で八月二十七日に行われる神幸祭で神輿が町内を巡行する描写ではなかろうか(明治十年代にこの日程で行っていたかどうかは分からないが、現在は同日に行っている)。郷土史研究家の御教授を乞うものである。

「自由帽に似た茶色の帽子」原文“curious brown paper hats, resembling liberty-caps”。底本では「自由帽」の直下に石川氏の注で『(自由の表章として着ける半卵形の緊身帽)』とある。“liberty-caps”は通常はハイフンなしで、自由帽、古代ローマに於いて解放された奴隷に解放の印として与えられた円錐形の帽子を指す。これは神官や神人(じんn)が被っている烏帽子とみて間違いない。後半は香具師による舞台興行らしい。]

 舞台へは子供が二人、一緒に出て来た。その一人はカンガルーみたいな装をしていて、カンガルーみたいに飛び廻り、他の一人は小さな太っちょに扮し、それ迄に見たこともない程奇怪極るお面をかぶっていたが、その姿はジョン・ギルバートが描いたフォルスタフの絵を思わせた。こんなに背を低く見せるために、女の子は脚を曲げていたに違いない。彼等は暫時踊って子供達をよろこばせた。

 

[やぶちゃん注:これは所謂、角兵衛獅子である。ウィキの「角兵衛獅子」によれば、越後獅子が江戸に来たのは宝暦五(一七五五)年のことで、諸侯へ召し出されて獅子冠(ししかむり)を演じた親方が角兵衛であったから角兵衛の獅子・角兵衛獅子となったともいわれる。信濃川中流部の中之口川沿岸の農民角兵衛が毎年の凶作や飢饉から村人を救うために獅子舞を創案して(後述)、それが児童が中心として演じる大道芸となったものであるとする。七歳以上、十四、五歳以下の児童が、縞模様のもんぺと錏(しころ:兜の鉢の左右から後方に垂れて頸を覆うもの。)の付いた小さい獅子頭を頭上に頂いた格好で演じる。獅子頭の毛には鶏の羽根が用いられ、錏には紅染の絹の中央に黒繻子があしらわれている。人員構成は本来は獅子舞四名・笛吹一人・太鼓一人の計六名(これより少ないと定められた曲が出来なかった)であったが、後に獅子舞に二名と笛吹兼太鼓一名が増え、九名構成となった。このうち、笛吹き又は太鼓打ちを「親方」と呼ぶ。親方は曲名を告げ、掛け声調子を取って、獅子舞はその指示に従って芸を演じた。なお、江戸後期の百科随筆「嬉遊笑覧」(喜多村節信(ときのぶ)著・文政一三(一八三〇)年成立)では『越後獅子を江戸にては角兵衞獅子といふ。越後にては蒲原郡より出づるに依りカンバラ獅子といふとぞ、角兵衞獅子は、恐らくは蒲原獅子の誤りならむ』と考証している。『娯楽業者の群』大正一二(一九二三)年実業之日本刊)では、洪水に悩まされた現在の新潟県西蒲原郡に月潟村の者が堤を造る費用を得るために、子供に越後の獅子踊りをさせて旅稼ぎをさせたのが始まりで、江戸時代には、越後から親方が連れて各地を訪れていたが、大正時代の東京では、東京に定住した新潟出身者が行なっていたとある。

「ジョン・ギルバート」イギリスの画家 John Gilbert(一八一七年~一八九七年)のことか。

「フォルスタフ」サー・ジョン・フォルスタッフ(Sir John Falstaff)。シェイクスピアの作品に登場する架空の人物である大兵肥満の老騎士の名(ウィキの「フォルスタッフ」を参照されたい。]

 

 この見世物の目新しさをしばし楽しんだ後、私はまた人力車に乗って、晩の八時頃海岸へ着いた。波は依然として荒れ狂い、岸には男が十人ばかり、盛に手真似身振りで、全力を尽して私に何事かを了解させようとしていた。真暗だったので容易に解らなかったが、気がつくとその朝三時、橋の末端をなしていた所には、大きな残骸の破片があるばかりで、橋は無くなっていた。私は舟をやとおうとした。すると男達は極めて簡単に手をひっくり返して見せて、舟もひっくり返るということを示した。今から思うと全く恥しい位私は激怒したものである。すくなくとも十二人は集っていたが、それに加うるに裸の漁師が二、三十人、中にはサケの香をプンプンさせているのもあり、皆手真似をしながら、大きな声で私に何かいって聞かせようとする。私は私で「エノシマ」と吐鳴(どな)りながら、今や行くことの出来ぬ島を指さした。私は吐鳴ったが、これは自分の言葉が通じないと、無意識に彼等を聾(つんぼ)だと思うからである。彼等も同様な衝動に煽られていた。最後に私は横浜まで歩いて帰るといって威嚇し、すこし海岸から歩き去って、つかれ切っていたので、汐の引くのを、じりじりしながら待った。遂に私はある男の肩に乗って渡ったが、橋が完全に無くなっているのを見ては、驚かざるを得なかった。宿屋へ着いて聞くと、橋は我々が渡った直後に押し流されたそうで、事実、我我が渡っている最中に流されつつあったのである。危い所であった。

 

[やぶちゃん注:またしても幻の(ここでは本当に幻になっている)桟橋が登場する。このモースに駄々っ子が極点に達するシーン、情景が目に浮んできて、私は個人的にとっても、好きなんである。]

 

 私の宿屋の亭主は、前日ハミルトン氏の一行から、言語道断の暴利をむさぼった。それで私は宿屋へ着くや否や、荷物を全部ひっくるめて、往来をはるか下った所にある別の宿屋へ行った。私の外日本人二人も一緒に引越し、また大学から私にあいに来たドクタア・ヴューダーにも、移ることをすすめた。今迄いた家に次ぐいい旅館を持っている立花は、それ迄も私を親切に取扱ったが、よろこんで我々をむかえた。

 

[やぶちゃん注:「私の宿屋の亭主は、前日ハミルトン氏の一行から、言語道断の暴利をむさぼった」モースの定宿であった岩本楼と思われる。しかし、前日に来訪したハミルトン一行は別な宿屋(恐らく「恵比寿屋」)に泊まっているから、この「言語道断の暴利をむさぼった」というのは、岩本楼でモースはハミルトンらと夕食をともにしたが、その時のハミルトンらへの請求金額が暴利だったということか? ここまでの岩本楼とモースのと関係が特に悪くないだけに不審である。この前日からの尋常でない経験の中、前段の島へ渡る直前などもモースはメータ―振りきれ、相当にヒート・アップしていた感じで、ちょっとしたことが逆鱗に触れたか、もしくは何らかの誤解によって、この挙に出たという感じがしないでもない。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、モースは翌明治一一(一八七八)年の九月十五日から十七日まで家族同伴で江の島を再訪しているが(研究や採集はしていない模様)、この時もやはり岩本楼ではなく、この立花屋に宿泊している。

「ドクタア・ヴューダー」ヴィーダー(Peter Vrooman Veeder 一八三五年~一八九六年)お雇いアメリカ人数理学教師。ニューヨーク州生まれ。同州のユニオン・カレッジを卒業後、教師を勤めた後に神学校に入って牧師となった。さらにサンフランシスコのシティ・カレッジの学長を務め、ユニオン・カレッジからは神学博士の学位を授与されている。大学南校(東京大学の前身)の教頭であったフルベッキの紹介によって明治四(一八七一)年三十六歳で来日して理学教師となり、同校が東大となってからも理学部で物理学・数学などを教授した。東大のある本郷から富士山が見通せる日の記録を十箇月間に亙って付け続けたことでも知られる。妻もまた文部省の設けた最初の官立女学校で英語を教えた。モース来日の翌明治十一年に帰国、アメリカで大学教授の職についた(「朝日日本歴史人物事典」による)。]



これを以って「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第七章 江ノ島に於る採集」を終わる。

 

 

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第七章 江ノ島に於る採集 27 嵐の中と後の人力車強行軍

 大学から手紙が来て、月曜の朝九時、他の教官達と教課目の時間割に就て、相談してくれとのことであった。私は日曜の正午に東京へ行く積りであったが、ハミルトン氏と彼の友人とが突然実験所を見に来て、そしてハミルトン氏は稀重な標本を瓶に詰めることを手伝うと約束し、私を晩方まで江ノ島に止るようにして了った。で、晩に出発し、十七マイルを横浜まで歩くことにしたが、これは五時間かかる。晩になると大風で、我々はそれがやむのを待って十時までいた。然し、やむ所(どころ)か、風は暴力を増す一方であった。我々は向う側が流されていたことを承知しながらも、狭い橋を渡りかけた。下では波が凄い勢で狂い廻っている。末端まで来て我々は舟を呼んだが、この風ではどんな舟でも浮いていることは出来まい。徒渉しようかとも思ったが、十七マイルを、砂と水とで一杯になった靴で歩くことを考えて、やむを得ず引き返し、明朝三時もう一度やって見て、人力車で横浜へ行くことにした。私の英国人の友達は岸に近い宿屋にいたが、我々が一緒に出立出来るように、私にもその宿に泊れとすすめた。私は夜中、何度も何度も起き上った。第一回は合奏している犬に石をぶつける為に起き、次には雨戸を通して雨を吹き込む烈風を避けて、畳の上に新しい場所を見つける為に起きた。階段を下りると、家族の人達が床のあちらこちらに寝ているのが、薄暗いたった一本の蠟燭の光で見えた。この部屋は時代と煙とで黒く、外見は野蛮人の小舎みたいだった。階上の客間は、これも年代の色にそまっていはするものの、遙かに上等である。極めて僅か眠ったばかりで、おまけに私は、日本へ来て最初の風邪を引いたが、我々は三時には用意して出かけた。朝食はトースト・パン一片とお茶一杯とであった。私は鞄と、こわれやすい標本の大きな包みと、それから風が強くて頭にのせていられない大きな日除帽子とを、持って行かねばならなかった。風は我々が台風突風と称する吹き様で襲い、波は橋板の間からとび上り、また橋板の上を越した。前に橋を渡ることが困難だったとすれば、今は、より多くの橋板が流されたので、不可能事だった。橋は揺れ、まっ暗なので、時々我々ははらん這いになって、向うの板を手さぐりにさぐらねばならなかった。風と波との音で、我々はお互に何をいつているのかまるで聞えず、そして我々は海水で膚まで濡れたが、幸い水は温かく、空気は暑かった。如何にして私が荷物を持って橋を渡ったかは、いまだに神秘である。私は橋の全長を、文字通り一インチずつ這って歩いたので、末端まで来て見ると、波は長さ三フィートでさかまいていた。我々は声をそろえて、嵐の中で我々を待っていた、人力車夫を呼んだ。やっと聞えると、彼等は波浪の間を辛じてやって来た。非常に困難したあげく、我々は彼等の肩に乗り彼等はヨロヨロしながらも、どうやらこうやら我々を、水の中でなく、陸地に投り出した。それから長い間、木製の雨戸をしっかり締め切った家があり、道路で犬がねている、静かな村々を通って、人力車は走った。風は竹の林をヒユーヒユー鳴らしている。ある村では夜廻りが、時々太鼓を四つずつ叩いて廻っていた。四時であることを示していたのである。日出は実に素晴しかった。こんなに鮮かな赤の色は、かつて見たことがない。風がこれ程烈しいのに、恐ろしく暑いのは不思議だった。我々は十七マイルを通じて、上衣を脱いだ儘でいた。六時三十分、我々は横浜のさきの神奈川に着き、ここで私は東京行きの汽車に乗って、ついに集合時間迄に大学へ着いた。三時、私は暑いさかりの太陽を頭上にいただいて、江ノ島へ向けて帰途についた。

[やぶちゃん注:明治一〇(一八七七)年八月は二十六日が日曜日で、二十七日が月曜である。この比較的長い一段は従って八月二十七日の未明御前三時から同日の午後三時までの描写である。ここでも幻の桟橋が描写されいる。

「ハミルトン氏」磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の注(三二八頁)によれば、『日記によると、日本に来る船で一緒だった人物で、横浜に住んでいた』とあるが、突如肩書もなしに出るものの、「日本その日その日」の先行部分には登場していないように思われる。本段の後文では「私の英国人の友達」とも表現している。彼らの来訪は前日の八月二十六日で、その夜から台風になった。

「十七マイル」27・4キロメートル。初めの頃の記載ではモースは江の島・横浜間を「十八マイル」としていた。以前にも注したが、現在の地図上で国道一号線上を藤沢まで辿って江の島に向かうと約27・5キロで、ここでは極めて精緻な数字が示されていることになる。

「岸に近い宿屋」これはその後の描写(客間を上等とモースが評している点)などから見て、創業三百五十余年(公式サイトのトップ)の現存する恵比寿屋と考えられる。

「3フィート」約90センチメートル強。

耳嚢 巻之七 屋鋪内在奇崖事

 屋鋪内在奇崖事

 

 文化二の冬の初(はじめ)頻に四ツ谷の去(さる)屋しきの庭の中煙立(たち)し俄に崩潰(くづれつぶれ)しに、大き成(なる)穴ありて右下には家居抔ありし。不思議の事なりと口々の評判なりしが、知れる人に聞(きき)しに大ひ成る妄説なり。大久保余町丁に小普請組久貝忠左衞門支配渡邊吉左衞門といへる人の屋しき内隅の方に畑ありしが、自然と煙立ける故心を付(つけ)見しに、とこしなへに煙立(たつ)にもあらず。時として度々立しに、或時右場所くへ込(こみ)けるが、又明(あけ)の日も煙立(たち)くへ込崩(こみくづれ)ける。穴ある躰(てい)故土など取退(とりの)けしに、六疊敷程の小屋にて白壁は塗たる如く、右内片脇にたなの如く土にて仕立(したて)、右の方井戸とも言(いふ)べき物有(あり)。汲(くみ)て見るに泥水の由、右はいか成(なる)語(こと)にやあらん。鬼寶窟(きほうくつ)抔とりどり珍事の樣子に申觸(まうしふれ)ける。予思ふに、右屋しきの先祖か抔穴藏を丁寧に拵へけるを、後世に等閑(いたづら)に埋め澄しとならん。煙の立しは内に空虛の所なるゆへ、自然と地氣胎(はら)んで洩(も)る所あるゆへ、煙のごとく立(たつ)なるべしと。又井戸の事不審なれど、是も右の丁寧深切人(のひと)、何か心ありてもふけたるなるべし。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。現職の南町奉行なれば市中の怪異の否定に力が入る。

・「屋鋪内在奇崖事」「やしきうちきがいあること」と読む。

・「文化二の冬」「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏であるから、ホットな都市伝説である。

・「大久保余町丁」「丁」は錯字で余丁町。「よちやう(よちょう)まち」で現在の新宿区の東部、牛込地区に余丁町として現存する。旗本の組屋敷があった。

・「久貝忠左衞門」岩波版長谷川氏注に『正貞。当時小普請組支配。』とある。

・「渡邊吉左衞門」底本鈴木氏注に『有(タモツ)。寛政二年(二十一歳)家督』とあるから寛政二年は西暦一七九〇年)、当時は数え三十六歳。

・「右屋しきの先祖か抔」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、『右屋敷の先々の主か、または今住む人の先祖など』とある。訳ではそれを採用した。

・「埋め澄し」底本では「澄し」の右に『(濟せし)』と訂正注がある。「すませし」と読む。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 屋敷内に奇怪な崖の在った事

 

 文化二年の冬の初め、頻りに、四ッ谷辺のさる屋敷の庭の中に、妖しき煙(けぶ)りの立って、俄かに崩れ潰れたが、そこには大きな穴が御座って、その底に人の作った家居などがあったと申しては、「不思議なことじゃ!」なんどと口々に評判致いて御座ったが、これは私の知人に聞いてみたところが、全くの妄説であることが判明して御座る。

 その聴取した事実は以下の通りで御座る。

 大久保余丁町(よちょうまち)に小普請組久貝忠左衛門殿御支配の渡邊吉左衛門と申さるる御仁がおられ、その方の屋敷内の隅の方(かた)に、崖に面して畑があった。

 焚き火なんど何もしておらぬにも拘わらず、その辺りにて自然と煙りのようなものが立つことが、これ御座ったゆえ、気を付けて観察してみたところが、年中煙が立つわけではないが、確かに時として靄のようなものが立ち上ることが御座ったと申す。

 ある時、地震(ない)も御座らぬに、突如、かの崖が崩れ潰れたが、その翌日も同じところでやはり煙りが立って、同じ如、深く崩落致いた。

 崩れた崖の斜面をよく見ると、そこには大きなる穴がある様子。されば周囲の土を取り退けてみたところが――六疊敷ほどの人工の小屋が――そこに出来致いた。

 形状は、総て白壁を塗った如くに綺麗に仕上げてあり、その白壁土蔵の内部の片側には、土を用いて棚の如くに仕立てた箇所があり、同じくその内の一画には井戸とも言うべき形の穴が見出だされた。試みに桶を吊り下げて汲んでみたところが、採れたのはどろどろの水で御座った由。

 以上の奇体なものは一体如何なるものかと、世間でも噂となり、人によっては「鬼や妖怪が棲み、奪い取った宝物を隠すと申す鬼宝窟(きほうくつ)じゃ!」なんどと、まあ、とりどりの憶測妄想を広げては、流言飛語して御座った。

 私が思うには、この屋敷の先祖か、若しくは渡辺殿の御先祖かが、邸内の切岸部分に、大火の折りなどに物を避難させるための穴倉を丁寧に拵えておいたものを、後世――しかし、そうした事実が忘れられるしまうような相応の昔に――誰かが役に立たぬものとして、外見上では全く分からように埋め直し、崖に戻してしまったものであろうと推測致す。

 妖しい煙が立ったと申すは、これ、地の内部に普通は生じないこのような有意に広い空虚なる場所が出来てしまったゆえ、自然と地下の湿気や熱気なんどがそこに時間をかけて溜って参り、それが一杯になった折りに、どこぞに出来た地表に通ずる孔を抜けて洩るることが、これ、時としてあった――それが煙か霞のよ如くに立って見えたもので御座ろう。また、土蔵の内部にあった泥水の井戸と申すは、一見不審奇怪とも見えるが、これも最初にこの土蔵を拵えた丁寧深慮の御仁が――謂わば、そこを火急の折りの避所として作ったと致さば――何か、こう、思うところのあって設けたもの――例えば数日の間はその内にて過ごせるだけの水を得る方途として掘らせたものの、良き水は出ず諦めたが、井戸は埋め戻さず、そのままにしておいた――なんどと考えても何ら、不思議で御座るまい。

テロリストの原理 萩原朔太郎

       ●テロリストの原理

 

 個人の存在を抹殺することによって、復讐が遂げられると思うのは、低氣壓の象徴(信號燈)を壞すことによって、暴風雨を防ぎ得ると信じたところの、單純な野蠻人の思想に似て居る。けれども暗殺者等にとってみれば、象徴であることの外に、どんな宇宙の意味も實在しない。故に彼等は言うのである。否! 人間を殺すのでなく、その人間によつて象徴されてる、或る社會上の一つの意味(觀念の實在)を滅ぼすのだと。

 概ねの暗殺者とテロリストとは、唯物史觀に反對して、觀念論の象徴主義を信奉してゐる。

 

[やぶちゃん注:昭和四(一九二九)年十月第一書房刊のアフォリズム集「虛妄の正義」の「社會と文明」より。太字「意味」は底本では傍点「●」。私はこの言い得て妙のアフォリズムが頗る好きである。]

聘珍樓雅懷 十四首 中島敦

    聘珍樓雅懷
冬の夜の聘珍と聞けば大丈夫ますらをと思へる我も心動きつ
國つ仇と懲し伐つとふ國なれどからの料理の憎からなくに
うましもの唐の料理はむらぎもの心のどかに食ふべかりけり
白く濃き唐黍たうきびスウプ湯氣立ちてあら旨げやなうす謄うく
白く漉き唐黍スウプするするとへば心もなごみけらずや
[やぶちゃん注:「するする」の後半は底本では踊り字「〱」。]
家鴨いへがもの若鳥の腿の肉ならむ舌にとけ行くやはらかさはも
大き盤に濛々として湯氣けむり立つ何のタン(スウプ)ぞもいざ味見あぢみせん
[やぶちゃん注:特異な表記法。音数律から湯は「タン」と読ませ、丸括弧本文ポイント表記の「スウプ」は視覚的解説である。]
肉白き蟹の卷揚まきあげかろくうましうましとわがしにけり
[やぶちゃん注:「うましうまし」の後半は底本では踊り字「〱」。]
かの國の大人たいじんのごとおほらけくすべきものぞ紅燒鯉魚ホンシヤウリギヨ
[やぶちゃん注:「紅燒鯉魚」広東料理の定番である鯉の葱と生姜の鯉丸一尾の醤油煮。言わば筒切りにしない鯉濃こいこくであるが、以下の歌でも分るように甘酢餡かけで食べる。]
甘く酸き匂に堪へで箸とりぬ今宵の鯉の大いなるかな
甘酸かけて食ひもて行けば大き鯉はやあらずけり未だかなくに
[やぶちゃん注:「饜」は満腹するの意。]
冬の夜の羊肉ひつじの匂ふとかげば北京のみやこ思ほゆるかも
いさゝかにいやしとはへどなかなかに棄てがたきものか酸豚の味も
みんなみの海に荒ぶる鱶の鰭に逢はで久しく年をへにけり
[やぶちゃん注:「聘珍樓」「へいちんろう」と読む。横浜中華街にある創業明治一七(一八八四)年の日本最古の中国料理屋号を持つ老舗広東料理店。一首目に関わって述べておくと、「聘」は迎えるところの、「珍」は尊ぶところの心の意であるが、別に「聘」には賢者を招いて用いるの意、「珍」には貴重・高貴の謂いがあることから「良き人・素晴らしき人の集まり来たる館」の謂いも含む(ウィキの「聘珍樓」を一部参考にした。]

流れの花 大手拓次

 流れの花

風がいたいのです、
わたしの心にいばらの花がさきます。
眼をかすかにして
おとづれをのぞんでゐるのです。

ふるへる花です。
まつげのなげきのやうにふるへる
さみしい花です。

いちまいの靑葉のやうに
かろくよりそうて
息もつかない花です。

とげとげの
そよろそよろする
よりどころない流れの花です。

鬼城句集 夏之部 玉蜀黍の花

玉蜀黍の花 もろこしの花の月夜に住む家かな

2013/08/10

鬼城句集 夏之部 南瓜の花

南瓜の花  南瓜咲いて西日はげしき小家かな



別段、神経症的にアップしている訳ではない。(僕の嫌いな)季に合わせるため、今月で「夏之部」を終わらせるために、である。今日も僕は胸部痛が繰り返し襲ってきて、甚だ体調が悪く、一日臥せっていた(恐らくは猛暑のために三日連続で寝室に冷房を入れたせいとは思う)。せめて9月1日からは「鬼城句集」を秋にしたいだけである。

鬼城句集 夏之部 靑芒

靑芒    お地藏や屋根しておはす靑芒

鬼城句集 夏之部 玉卷芭蕉

玉卷芭蕉  寺燒けて門に玉卷く芭蕉かな

鬼城句集 夏之部 茨の花

茨の花   茨咲くや二三荷流す牛の糞

鬼城句集 夏之部 夕顏

夕顏    葭簀して夕顏の花騙しけり

鬼城句集 夏之部 麥

麥     麦飯に瘦せもせぬなり古男

鬼城句集 夏之部 蓮の花

蓮の花   水泡に相寄れば消ゆ蓮の花

鬼城句集 夏之部 蓮の浮葉

蓮の浮葉  蓮の葉や波定まりて二三枚

      蓮の葉や水を離れんとして今日も暮る

鬼城句集 夏之部 浮草

浮草    浮草や蜘蛛渡りゐて水平

鬼城句集 夏之部 筍

筍     たかんなに繩切りもなき庵かな

鬼城句集 夏之部 苔の花

苔の花    墓前

      苔咲くや親にわかれて二十年

鬼城句集 夏之部 仙人掌

仙人掌   仙人掌の奇峰を愛す座右かな

鬼城句集 夏之部 百合の花

百合の花  白百合の花大きさや八重葎

鬼城句集 夏之部 箒木

箒木    草箒二本出來たり庵の産

      小百姓の嬉しき布施や草箒

      箒木の露ふり落すむぐらかな

[やぶちゃん注:「箒木」ナデシコ目ヒユ科バッシア属ホウキギ Bassia scoparia。箒のような細かい茎が特徴的で、秋に紅葉して茎も真っ赤になる。昔は茎を乾燥して実際に箒として利用された。晩夏、黄緑色の小花をつけ、その実は「とんぶり」として食用に供される(主にウィキホウキギ」に拠る)。因みに、恐らくはこんもりとした緑の鮮やかさからであろうが、有季俳諧に於いて私はこれが何故、「夏」の季語で「なくてはならない」のかが理解出来ない。]

鬼城句集 夏之部 晝顏

晝顏    晝顏に猫捨てられて啼きにけり

      ひるがほに笠縫の里の曇りかな

[やぶちゃん注:「笠縫の里」日本書紀で崇神天皇が天照大神を皇女豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に祭らせたと伝える倭(やまと)の地。奈良県磯城(しき)郡田原本町新木(にき)や桜井市内などの比定地があるが、ここは近畿日本鉄道橿原線の笠縫駅のある前者か。]

鬼城句集 夏之部 夏草

夏草    夏草に這上りたる捨蠶かな
 

[やぶちゃん注:「捨蠶」すてご。養蚕に於いては病気又は発育不良の蚕は野原や川に捨てられる。それを言う。]
 

      夏草や繭を作りて死ぬる虫

私の孤獨感 萩原朔太郎

 私の孤獨感

 櫻の下に人あまたつどひ居ぬ
 なにをして遊ぶならむ。
 われも櫻の木の下に立ちてみたれども
 わがこころはつめたくして
 花びらの散りておつるにも涙こぼるるのみ。 (純情小曲集より)

 二十年近くも昔、まだ少年の頃に作つたこの詩情は、今も尚本質的に私のセンチメントを貫流してゐる。私の詩人としての心境には、いろいろ多樣な色彩が混じてゐるけれども、詩を思ふ情感の元は一つであり、いつもこの純情が動機であり、それの胸に込みあげてくることなしには、決して詩を作る欲情が起らない。
 この詩が語つてゐるやうに、私のセンチメントの本質は、要するに人生や、社會や、自然や、宇宙やに對するところの、張りつめた孤獨感の訴へである。この孤獨感の切實に感じられ、それが耐へがたくなつてくるとき、ふしぎに詩を思ふ心が高調して、リズムや言葉や幻想やが湧き出してくる。だから私の詩はいつも「訴へ」である。或る慰められない魂の哀傷であり、燈火に群がる蛾の羽ばたきである。
 かうした私の詩は、創作動機の本質上からして、多くの人と變つてゐるので、好きな人には好かれるけれども、ずゐぶん或る向では厭やがられる。私は自分の詩の缺點を知り、またそれに對する世の非難もよく知つてる。けれどもそれ以上に、私自身をどうするといふこともできはしない。私は薄弱で非力だけれども、運命で定められた自分の道を行くよりない。
 散文作家としての私も、本質的には詩人としての私に變りはしない。私の書く「情調哲學」のやうなものも、同樣にやはり孤獨感に動機してゐる。この社會や人生が、私と氣質的にちがつて居り、どこに自分の地位する環境もないことを知る時に、ぼつぜんとして思惟の欲情が起つてくる。春の麗らかな光の下で、世間が笛や太鼓に浮かれてゐるとき、何故私一人がその仲間から除外されるか? 私は櫻の下に立ち、さびしく群集の踊を見てゐる。彼等は戀愛し、快樂し、人生の中に滿足してゐる。そして我々は何も持たない。ああ何の不合理ぞ! 不公平ぞ! 「私自身のため」にすら、人生を合理的にせねばならないのだ。
 かくして私は、常に改造思想の先頭に立つ。何物も、何物も、早く亡びてしまふが好いのだ。既に現在する社會は呪はれてあれ。そしてむしろ、人間そのものが呪はれてあれ。私はアナアキズムの輩と一致しない。ソシアリズムには根本から敵意をもつ。しかしながら熱情は、彼等の中の巨頭とさへも劣らない。ただ私は、多數の徒黨の力でなく、私一人の力によつて、私一人のために、「新しき世紀」を建てたいのだ。私は個人主義の革命する勝利を見たい。私はエゴイストだ。エゴイストの故に社會の正義を愛するのだ。ああ、現在する如き人生は亡びてあれ!
 詩はただ感情を訴へる。しかしながら散文は、むしろより思想の抽象觀を訴へる。しばしば私は、散文家としてエゴを發展しようと考へる。不幸にして、私の散文は世に容れられない。けれども勇氣を失ふまい。私は自分の非力を知る。才能の空虛を知る。けれどもそれ以上に、私自身をどうするといふことも出來はしない。世界がもし、私自身の思ふ通りにならないならば、始から存在のない方が好い。とにかくにも私は、自分の燈火に向つて進んでみよう。果敢ない、蛾としての運命にひきずられて、翼を焦がすまでやつてみよう。
 私は孤獨の故に悲しみ、孤獨の故に怒り、孤獨の故に思想し、孤獨の故に阿片を吸ふ。私は人生を無責任にするダダイストでない。私は彼等と享樂しながら、彼等の無費任に腹を立てる。私はもちろんレアリストでない。現實するものは興味がないから、之れを觀照する意志をもたない。そして同時に、またアイデヤリストやロマンチストでも有り得ない。私は肉感性を執着するから、抽象の觀念界に超越できない。況んや私は神祕的なスピリズムでなく、サイキを奉ずる唯美主義の輩(ともがら)でもない。そして尚且つ、私はデカダンに敵愾しつつ、アメリカ風の新時代を反感する。
 ああかくの如く、私は遂に何物でも無い。そしてそれ故に――かく眞に孤獨なのである。

[やぶちゃん注:『詩神』第二巻第七号・大正一五(一九二六)年七月号に掲載された。底本は筑摩版全集第八巻に載る校訂本文を用いた。太字「多數の徒黨」は底本では傍点「●」。文中、「不幸にして、私の散文は世に容れられない」という箇所には微苦笑を禁じ得ない。私は萩原朔太郎に出逢った時からずっと、絶対の孤独者というイメージを持ち続けている。この文章はその絶対の孤独者の、日本への回帰の道程(末路と言っても私はよいと思っている。絶対の孤独者にとっては「道程」よりも「末路」こそ相応しいからである)を、まっこと分かり易く物語っているものであるように、私には思われるのである。]

チンドン屋の歌 六首 中島敦

    チンドン屋の歌
氷雨降る師走の街にチンドン屋の口上聞けばうら寒しもよ
歳末の大賣出のチンドン屋氷雨に濡れて嚏(はなひ)りにけり
まだらなる白粉の下ゆ嶮(けは)しかる生活の顏をわが見つるかも
俠客と鳥追と竝び口上の聲もさむざむと街はしぐるゝ
[やぶちゃん注:「さむざむ」の後半は底本では踊り字「〱」。]
鳥追の撥(ばち)もつ右手(めて)の手甲(てつかう)の雨に濡れつゝ動きゐるあはれ
上州は國定村の親分のくちびる靑く慄へたりけり

四月の顏 大手拓次

 四月の顏

ひかりはそのいろどりをのがれて、
あしおともかろく
かぎろひをうみつつ、
河のほとりにはねをのばす。
四月の顏はやはらかく、
またはぢらひのうちに溶(と)けながら
あらあらしくみだれて、
つぼみの花(はな)の裂(さ)けるおとをつらねてゆく。
こゑよ、
四月のあらあらしいこゑよ、
みだれても みだれても
やはらかいおまへの顏は
うすい絹(きぬ)のおもてにうつる靑(あを)い蝶蝶(てふてふ)の群(む)れ咲(ざ)き。

鬼城句集 夏之部 馬鈴薯の花

馬鈴薯の花 じやが芋の花に屯田の詩を謠ふ

      じやが芋咲いて淺間ヶ嶽の曇かな

[やぶちゃん注:「じ」の字は底本では「志」の草書体に濁音。]

2013/08/09

北條九代記 信濃前司卒去 付 鎌倉失火 竝 五佛堂造立

      ○信濃前司卒去  鎌倉失火  五佛堂造立
同八月六日、伊賀左衞門尉光宗を政所の執事に補せらる。信濃前司行光病惱危急にしてこの職を辭退申しける其替(かはり)とぞ聞えし。同八日前信濃守從五位下藤原朝臣行光法師行年(かうねん)五十六にて、遂に卒去せられけり。多年執事の職に居て、隨分の廉直を行はれし人なりしが、一朝の嵐に命を委せ、未だ半白(はんぱく)の年を失ひ、泉下(せんか)の客(かく)となられけるを、憎まぬ人はなかりけり。同二十二日の申刻に、阿野四郎が濱の家の北邊より、火燃え出でて、折節南風烈しく吹き、車輪の如くなる焔(ほのほ)飛びて、永福寺の摠門の下より、濱面(はまおもて)の御倉(おくら)の前を、東は名越山の際に至り、西は若宮大路を限りて、戌刻に及ぶ迄、三時計(ときばかり)の間に、造竝(つくりなら)べし大厦(か)の構、諸大名の家々悉く燒失す。地下(ぢげ)町人の家々は、資財を取除け雜具(ざふぐ)を運び稚(いとけなき)を抱き、老いたるを助けんとする程に、吹(ふき)迷ふ火の子は吹雪に交(まじ)る雪よりも滋(しげ)く、煙渦卷(けぶりうずま)き燒廻れば、或は人に蹈倒(ふみたふ)され、或はその身に猛火燃(もえ)付き、臥轉(ふしまろ)びて死する有樣、啼(なき)叫ぶ聲に和して、焦熱叫喚の地獄と云ふともこれには勝らじとそ覺えける。右大將軍家鎌倉草創より以來(このかた)かゝる例は未だなし。焦死(こがれし)にたる尸共(かばねども)は、小路々々に盈塞(みちふさが)り、算(さん)を亂せし如くなり。されども、故右大臣の舊跡、二品禪尼の住宅、若君の御館(みたち)計(ばかり)は僅(わづか)に餘焰(よえん)を逃れ給ふ。淺ましかりける有樣なり。斯(かく)ては叶ふまじ、不日(ふじつ)に家作(つくり)あるべきとぞ觸れられたり。去程(さるほど)に燒失の跡(あと)程なく引平(ひきなら)し、諸大名を初として、民屋(みんをく)に至るまで、形(かた)の如く経營しければ、世も新りし心地して、往昔(そのかみ)よりも賑(にぎはひ)けり。同十二月、二品禪尼、御不例の氣おはします、是に依て、御祈禱の御爲に、太山府君(たいざんぶくん)の祭をぞ修せられける。同二十七日は、故右大臣實朝公の一周忌に成り給ふ。御追福の御爲に、佛師運慶法印に仰せて、五大尊を造立(ざうりふ)し、勝長壽院の傍(かたはら)に、伽藍を建てられ、五佛堂と名付けて、彼の御本尊を安置(あんぢ)せられ、今日供養を營み給ふ。二品禪尼の御願として、導師は明禪(みやうぜん)法印なり。咒願(じゆぐわん)説法諸人の耳を驚(おどろか)し、歓喜(くわんぎ)の思(おもひ)を催しけり。生身(しやうじん)の如來を供養せんよりは、新(あらた)に造るに如(しく)なしと、經の中には説き給へり。其功德、莫大にして世に比類なしと云へり。さこそ聖靈(しやうりやう)もこの善根の廻向に與(あづか)り、受(うけ)喜び給ふらんと、有難かりける事共なり。
[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻二十四の承久元(一二一九)年九月六日及び同巻同年の九月二十二日、十二月十七日及び同月二十七日に基づく。従って「同八月六日」は「九月」の誤り。やはりこれも「吾妻鏡」の引用の必要性を感じない。
「二品禪尼の住宅」「吾妻鏡」九月二十二日の鎌倉大火の記事には、『二品禪尼亭。〔右府舊跡。〕』とあり、これは亡き実朝の旧邸であったことが分かる。しかしこれも何と奇しくも、最後の部分で本作が参照している部分の丁度間の、承久元年十二月二十四日の「吾妻鏡」に、
廿四日丙戌。霽。子尅。故右府將軍亭〔當時二品居所。〕燒亡。失火云云。仍二品俄渡若公亭同宿云云。
廿四日丙戌。霽る。子の尅、故右府將軍亭〔當時、二品の居所。〕燒亡す。失火と云云。
仍つて二品、俄かに若公の亭へ渡り同宿す、と云云。
とあって、本話時間内で焼亡してしまっている。「若公」は若君で、無論、藤原頼経(当時は幼名で三寅)のこと。
「太山府君(たいざんぶくん)の祭」通常は「ふくん」と濁らない。中国の五岳の一つ東岳泰山の神で東岳大帝ともいう。山東省泰安県の泰山は古来から霊山で、天神が降誕し、また死者の霊魂が寄り集う冥府があるとされた。この山にあって人間の寿命や生死を司って死者の生前の行為の善悪を裁く最高神の一人として信仰されたのが泰山府君で、それを祀って死者を蘇生させたり、病気平癒や長寿福禄を祈った陰陽道の呪法。
「同二十七日は、故右大臣實朝公の一周忌に成り給ふ」実朝薨去は同年の一月二十七日で、「吾妻鏡」の同日の条にも『爲故右府追福』(故右府追福の爲)とあって、一周忌ではなく、命日に合わせた追福行事として造立したものである。
「五大尊」五大尊明王。一般に真言密教では不動明王を中心に降三世(ごうざんぜ)明王(東)・大威徳(だいいとく)明王(西)・軍荼利(ぐんだり)明王(南)・金剛夜叉(こんごうやしゃ)明王(北)を配する(台密では金剛夜叉明王の代わりに烏枢沙摩(うすさま)明王を配す)。これを祀った五仏堂なるものは無論、勝長寿院とともに消失して現存しない。後の嘉禎元(一二三五)年に将軍藤原頼経が十二所に創建した五大堂明王院とは別物(現在、五大尊明王を祀る寺は明王院のみ)。
「明禪法印」(仁安二(一一六七)年~仁治三(一二四二)年)参議藤原成頼の子。比叡山の智海・仙雲から顕密を学び、山門の碩徳(せきとく)と謳われたが、遁世の志深く、後年は法然の専修念仏に帰依した。
「咒願」法会などの際、僧が施主の幸福などを祈願すること。また、その祈願文。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 16 岩本楼

    ◎岩本樓

一の鳥居を過ぎて、右にある旅館を岩本樓といふ、昔は岩本院と號し、一山の總別當職を勤む、江の島に遊ぶものは必ず此の院に宿す、給仕には稚兒あまた侍りぬるとかや。

いづれの旅館も風景は絶美なるも、富岳を望むは當樓を第一とす、遠くは烏帽子岩を中にして、右の方は大磯より箱根あたり霞の間にながめ、洗ひ出でたる富士の根は、靜かに扶桑の美を收めて、高く雲表に傑出し、淡靄(たんあい)かすかに裾を罩めて空の匂ひいと深かし、此室(このしつ)を望岳亭と題す。

 正面に江の島臺のふしねを

      さゝけいでたる岩本の院    蜀 山 人

右は有名なる太田蜀山人の詠なり、三島中洲また此の樓に宿して一詩を題す。

[やぶちゃん注:以下の七言漢詩は続けて書かれている(結句は分断されるために二行目にある)が、一段組で示した。後書は一続きであるが適宜切って改行した。]

 波光嵐影遶欄濃。

 憶昔靑年駐客蹤。

 白髮滿頭人已老。

 依然樓上舊芙蓉。

   戊子九月宿江島望嶽亭書

   感距今卅年前余少年負笈

   遊江戸始過此故及

樓主は維新後復職して神官となりしも、先年歿命(みまか)りて、今は岩本たけ女主の名なり。又當山の本尊、空海上人の作辨財天女の木像は、傳へて同樓にあり、其他古文書寶物多く所藏すれども、女主秘して示さず、因にいふ、戯場(ぎじゃう)にて演ずる辨天小僧、岩本院の稚兒あがりとは事實なる由。

[やぶちゃん注:現存。鎌倉時代の岩本坊に遡るため、公式サイトでも創生から七百四十年とする。挿絵は後の方の見開き単色図版の左右上部にある。左頁上部全面と右に少しかかって中央に富士を配した図、右頁上にやや小さな全景図を描く(下は右頁が「各旅館の圖」、左下方が「貝細工商店の圖」となっている)。

「正面に……」の太田南畝蜀山人の狂歌は、

 正面に江の島薹(うてな)の不二の嶽(ね)を捧げ出でたる岩本の院

と読む。

「三島中洲」(みしまちゅうしゅう 文政一三(一八三一)年~大正八(一九一九)年)は漢学者。東京高等師範学校教授・新治裁判所長・大審院判事・東京帝国大学教授・東宮御用掛・宮中顧問官を歴任した、明治の三大文宗(他二人は重野安繹と川田甕江)の一人。漢学塾二松學舍(現在の二松學舍大学の前身)の創立者。旧備中松山藩藩士。安政五(一八五八)年二十八歳の時に藩主の許可を得て江戸に出、昌平黌に入っている。更に本詩の後書には「戊子」(つちのえね・ぼし)とあり、これは明治二一(一八八八)年に相当し、きっかり三十年後となる。この詩にはその初めての入府の際に江の島に立ち寄った際の思い出に基づくものである。文宗に対して失礼ながら、七絶と後書きを我流で書き下しておく。

 

 波光 嵐影 欄を遶りて濃し

 昔を憶へば 靑年 客として蹤(あと)を駐(とど)む

 白髮 滿頭 人 已に老いたり

 依然たり 樓上 舊(きふ)芙蓉

 

戊子九月、江島望嶽亭に宿して書す。感ずるに、今を距つこと卅年前余、少年、笈(きふ)を負ひて江戸に遊び、始めて此を過ぎし故に及べり。

 

後書きの末尾の読みが覚束ない。識者の御教授を乞う。]
 

【2016年1月13日追加:本挿絵画家山本松谷/山本昇雲、本名・茂三郎は、明治三(一八七〇)年生まれで、昭和四〇(一九六五)年没であるので著作権は満了した。】

 

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山本松谷「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」挿絵 岩本楼の図(二枚)

[やぶちゃん注:明治三一(一八九八)年八月二十日発行の雑誌『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」(第百七十一号)の挿絵の二枚。見開きのページにある四枚の内から当該の二枚をトリミングした(他二枚は、江の島参道の「各旅館の圖」「貝細工商店の圖」でこれは本日、新規記事として掲げる)。一枚目の小さな方の右上に「岩本樓」(全景図)、横長の方の上部欄外中央に「岩本樓の上より冨嶽を望む圖」とキャプションがある。

 E.S.モースは江ノ島に日本初の臨界実験所を数ヶ月稼働させた間、その殆んどの期間はこの岩本楼に滞在したが、彼がいたのは全景図左手の三階建の建物の前身である(電子テクストカテゴリー「日本その日その日」E.S.モース 石川欣一訳を参照されたい。私は一番最初に私の愛する江の島から入りたくて、「第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所」より開始した。ずっと下部にリストが出る)。また丁度、まさにこの富士を望む位置の部屋に三年前、父と亡き義父を招待して泊まって貰ったのも思い出す。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第七章 江ノ島に於る採集 26 仲居の仕事/舟の作り

M189
図―189

 日本の家庭で如何に仕事の経済が行われるかは、室内の仕事を見るとわかる。一例として、部屋が沢山ある宿屋の仕事は、部屋女中の一人か二人で容易になされる。寝台はなく、客は畳に寝る。寝具は綿をつめたもの。枕は軒蕎麦殻(そばがら)をつめ込んだ、小さな坐布団みたいなものに、薄い日本紙をかぶせ、軽い木箱に結びつけたもの。洗面等は戸外でやる。朝になると布団を集め、縁側の手摺にかけて風を通し、その後どこかの隅か戸棚かにたたみ上げる。軽くて箱みたいな枕は、両腕にかかえて下へ持って行き、よごれた枕かけ、即ち単に一枚の紙を取り去って、新しい一枚をのせる。十枚位を同時に結びつけたのなら、一番上のをはがす丈で、その日の仕事は、寝室の用事に関するかぎり終るのである。図189は女中が二人、枕の紙をかえている所を示す。



M190

図―190

 図190は舟二艘の写生である。遠方のは「戎克(ジャンク)」という名で知られていて、ここに表したのよりも造かに大きい。前にもいったが、舟にはペンキが塗ってなく、どれもこれも一様に、鼠がかった木材の色をしている。舟は一種の鉄釘で接合してあるらしく、これ等の釘の頭は材木の面より低く沈んでいて、その四角い穴には木片が填めてある。舟の先の方には穴があって、船尾から岸に引き上げた時、ここから水が流れ出る。

明恵上人夢記 20

20

 同十六日、京に出づ。其の夜、丹波殿に對面すと云々。

一、對面之時、幻相(げんさう)を見ると云々。其の夜、子丑の時許り、宿處に還りて臥す。夢に云はく、一聚(ひとむら)の竹林に對(むか)ふ。其の林の外に、二つに蛇の切れて死にたりと云々。枯死せり。心に思はく、此の竹林より鼠かいたち等の類(たぐひ)、食ひいたして之を殺すと云々。又、むさゝび我が前を過ぎて、後の木に將に到らむとす。之を立ち塞ぎて過ぐさずと云々。我、暫時立ち動くに、飛びて樹に付くと云々。石垣殿と共に也と云々。

 

[やぶちゃん注:「同十六日」元久二(一二〇五)年十月十六日。この前書きの事実記載は、前の「19」の夢の前に記された丹波殿関連の事実記事と関連するが、やはりその内容は不明である。

「幻相」これは仏語では、幻のように実体がなく、儚いありさま、転じて世間の無常の姿の謂いである。ただ幻覚ともとれるが、ここは一先ず、丹波殿との対面の中で、さまざまな俗世間に対する幻滅感を味わったととってみたい。それによって夢の解釈の別の地平が開けるようにも思われるからである。

「蛇」私には何故か、この蛇は、明恵の叙述にしばしば現われるところの、不吉なネガティヴな象徴のようには実は思われないのである。寧ろ、「蛇」を殺した「鼠」「いたち」そしてやはり「蛇」を殺したものの仲間である「竹林」から飛び来たる「むさゝび」こそが、ここでは明恵に対峙するところの、明恵の側の何ものかを阻害しようとするシンボルとして感じられる。竹林はそのような魔性のものの棲み家であり、そうしたなんらかの組織や体制、集団を指すまがまがしい魔界なのではないか? それに食い割かれて干からびた蛇は寧ろ、ウロボロスの環としての全的円環を無惨に断たれてしまったかに見えるところの、明恵の信ずるところの真理の象徴なのではあるまいか?

「石垣殿」底本注に『湯浅宗光は石垣兵衛とも呼ばれ、同人を指すか』とある。とすると、この京都での丹波殿との対面は伯父湯浅宗光が関連した何事かであった可能性があるのかも知れない。]

 

■やぶちゃん現代語訳

 

20

 同十六日、京に出る。その夜、遂に丹波殿に対面したが……。

一、対面の際、今更ながら、現世への幻滅を強く感じてしまった……。その夜遅く、子丑の刻ばかりに宿所へやっと還りついて、疲れ切ったままに臥した。その折りに見た夢。

「私は一群(ひとむら)の竹林に向かって立っている。

 その竹林の外に、二つに蛇が截ち切られて死んでいるのである……。

 完全に干からびて木乃伊のようになって死んでいる。

 それを眺めながら私が心に思ったことは、

『この竹林より、鼠か、鼬(いたち)などの類いが飛び出して来て、さんざんに食い千切って、この蛇を殺したのだ。』

と……。

 また、ムササビが私の前をさあっと飛び過ぎて、私の背後の木にまさに飛び至らんとしている。

 私はこれを両手を大きく開いて大の字なりになって立ち塞いで通すまいとしている……。

 暫く私が前後左右に立ち動いて防いだものの、結局、ムササビはそれをすり抜けてしまって、後ろの樹に飛び付いてしまった……。

 石垣殿が私と一緒になって、そのムササビの飛翔の成就を何とか防ごうとしていたようにも記憶している……。

栂尾明恵上人伝記 56 三毒(睡眠・雑念・座禅姿勢不正)を除いて一切の欲望を捨て「役立たずの者」になって生涯を終えれば禅定出来る

 後鳥羽院、上人の德を貴び給ひて、常に御請ありて御受戒又法文なんど聞食(きこしめ)されけり。大方其の比の月卿雲客(げつけいうんかく)は又緣に隨ひ歸依貴敬(きえききゃう)し給ひけり。

 建仁寺開山の弟子に圓空上座と云ふ僧、隨分志深くして道行を修する聞えあり。禪定を修すべき樣を彼の長老に間ひ申したりければ、梅尾の上人禪定を修すること功積(こうつも)り、已に成就し給へり。其に行きて問ひ奉りて、其の如くに修すべしと仰せありけり。然る間上座、上人に相(あ)ひ奉り、禪定修すべき樣を尋ね申されければ、上人答へて云はく禪定を修するに三の大毒あり。是を除かざれば、只身心を勞して年を經るとも成就し難しと仰ありけり。其の大毒何(いづ)れぞやと尋ね申されければ、一には睡眠、二には雜念、三には坐相不正(ざさうふせい)なりと云々。是を除きて一切求むる心を捨てゝ、只無所得(むしよとく)の心ばかりを提(ひつさ)げて、私に兎角あてがふ事無く、徒者(いたづらもの)に成りかへりて、生々世々に終へんと云ふ永き志を立て給ふべし。私の望み心、穴賢(あなかしこ)、持ち給ふべからず。只、此の法師が申すこと、樣(やう)こそあらめと思ひ給ふべし。是は高辨が私に申すにあらず、先年紀州苅磨(かるも)の島にありし時、空中に文殊大士現じて予に示し給ひしまゝに申すなり。今の世には、此の如くあてがふ人なきにや、末世末法の邊土(へんど)の恨み此の事にありと云々。
[やぶちゃん注:「是を除きて一切求むる心を捨てゝ、只無所得の心ばかりを提げて、私に兎角あてがふ事無く、徒者に成りかへりて、生々世々に終へんと云ふ永き志を立て給ふべし。佛に成りても何かせん、道を成じても何かせんと思ひ給ふべし。」の後に岩波版では『佛に成りても何かせん、道を成じても何かせんと思ひ給ふべし。』という一文が入っており、これは中々にインパクトがある。
「苅磨(かるも)」諸本は「かるま」と振る。]

耳嚢 巻之七 即興狂歌の事

 即興狂歌の事

 

 當時御勘定所を勤(つとむ)る太田直次郎といへる、若き時狂歌に名高く、狂名は四方(よも)の赤良(あから)といへる、或は寢惚(ねぼけ)先生といゝしが、今は去(さる)事もせざりしが、壹歳(ひととせ)御用にて上方へまかりしに、□宿移りなんとせしに、入相比(いりあひころ)駕(かご)にたくわへし火消(きえ)ぬれば、當りの町家へ火もらひに僕を寄(よせ)けるに、彼(かの)家に兩三人あつまり居(ゐ)て、あれは寢惚先生とて東都にて狂歌に名高き人也、火を乞はゞ狂歌にてもいたさるべき事也、火は不出(いでず)候と答(こたへ)よとて其通り答へければ、赤良矢立(やたて)取出し、

 入相にかねの火入をつき出せばいづくの里もひはくるゝなり

 斯(かく)認置(したためおき)て行(ゆき)すぎしとなん。上方にても殊に此狂歌を感じ都鄙(とひ)の口ずさみとなりにける。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。狂歌技芸譚。ラスト・シーンに少し翻案を加えた。

・「太田直次郎」既に複数話で既出の狂歌師大田南畝蜀山人四方赤良(寛延二(一七四九)年~文政六(一八二三)年)は本名を太田覃(ふかし)といい、通称、直次郎(後に七左衛門と改める)。彼は著名な狂歌師であると同時に御家人で幕府官僚でもあった。「今は去事もせざりし」というのは天明七(一七八七)年に寛政の改革が始まると、改革に対する政治批判の狂歌として人口に膾炙していた「世の中に蚊ほどうるさきものはなしぶんぶといひて夜もねられず」の作者と目されたことや、田沼意次の腹心であった土山宗次郎と親しかったことなどから目を付けられ、また、戯作者山東京伝らが弾圧されるのを目の当たりにして狂歌をやめ、その後は職務に励む傍ら、専ら随筆などを執筆したことを指している(ウィキの「大田南畝」に拠る)。同ウィキの「公職」の記載によれば、寛政六(一七九四)年に幕府の人材登用試験である学問吟味で御目見得以下の首席で合格、寛政一一年には孝行奇特者取調御用、同一二年、御勘定所諸帳面取調御用を命ぜられている。これは江戸城内の竹橋倉庫に保管されていた勘定所関係書類の整理役で、整理しても次から次に出てくる書類の山に南畝は、

 五月雨の日もたけ橋の反故しらべ 今日もふる帳あすもふる帳

と詠んでいる。その後、享和元(一八〇一)年に大坂銅座に赴任しており、本話はその折りの逸話かと思われる。文化元(一八〇四)年に長崎奉行所へ赴任、文化五(一八〇八)年には堤防の状況などを巡検する玉川巡視の役目にも就いている。「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏であるから、この当時は満五十七歳、長崎奉行所勤務であった。根岸よりも十二歳年下である。「耳嚢 巻之三 狂歌流行の事」の「四茂野阿加良」の私の注も参照のこと。

・「□宿」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版に『旅宿』とある。

・「入相にかねの火入をつき出せばいづくの里もひはくるゝなり」「入相にかねの火入」は日暮れに撞く「入相の鐘」に刀剣や鍛冶での「かね」(金物)の「火入」(ひいれ)を掛け、「火入をつき出せば」では、鐘を「つき出せば」に、煙草盆の中に組み込まれた火種を入れておく器である「火入」を火を求めた人に「つき出せば」を掛け、さらに「ひはくるゝなり」で「日は暮るる」と「火は呉るる」を掛けている。

――入相の鐘――鐘は金物――火入れは縁じゃ――入相の鐘を撞きだすその折りに――火種を呉れろという旅人には――素直に火入れを突き出すものじゃ――いずこの里にても――入相とならば――必ず日は暮るるように――火は呉るるものじゃ――

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 即興の狂歌の事

 

 当時、御勘定所を勤めて御座った太田直次郎と申さるる御仁、若き時には狂歌師として名高く、その名は四方赤良(よものあから)とも、あるいは寝惚先生(ねぼけせんせい)とも名乗って御座った由。

 今はそのような風狂への執心も、これ、なさってはおられぬようじゃが、一年ほども前のこととか申す、御用にて上方へ参った折りのこと、公務の都合で午後も遅うになって旅籠(はたご)をば、かなり離れた所へ移さねばならずなったと申す。

 入相ころのこととて、駕籠(かご)に吊るし灯して御座った火(ひい)が消えてしまい、夜道も不案内のこととて、辺りの町家(まちや)へ火(ひい)を貰わんと下僕を訪ねさせたところが、かの家にてはたまたま三人ばかり、町屋の好事連が集まって御座って、またその中の一人に太田殿の噂をよう、知って御座った者があり、

「あれは先般、寝惚先生と申し、東都にては狂歌に名高き人じゃて。」

と下僕主人を見破ったによって、三人相談の上、

「『――火を乞わるるのであらば――狂歌の一つもなさるるが道理じゃ。――それも成さずば火は――出やしまへんで。』とお答エ。」

と手代に申しつけた。

 手代がその通りに答えたところ、下僕は踵を返して駕籠の中の太田殿へ、かくと申し上げた。すると赤良氏(うじ)、やおら矢立てを取り出だいて、

 

 入相にかねの火入をつき出せばいづくの里もひはくるゝなり

 

と認(したた)めたものを、下僕から町屋手代に渡いて、そのまま、暗がりの中を行き過ぎたとか申す――無論、狂歌を貰った町家主人は、慌てて提灯を持たせた手代を走らせては、太田氏の次の旅宿まで同道致させたことは、言うまでも御座らぬ。――

 上方にても、殊にこの狂歌には感じ入って、大いに都鄙(とひ)の口ずさみとして流行って御座ったとか、申すことで御座る。

谷上不死 (老子について) 萩原朔太郎

 谷上不死

        (老子に就いて)

 

 谷神死セズ 玄(ゲン)ノ玄(ゲン) 牝(ヒン)ノ牝(ヒン) 之レヲ玄牝(ゲンピン)卜謂フ。 (老子 道德經)

 

 老子「道德經」の中に、右のやうな一句がある。谷神とは山嶽の神であつて、永遠不滅の時空に實在する、大自然の像を象徴したもの。また「玄」は玄妙不思議の玄であり、「牝」は牝牛(めうし)等の牝(めす)で、すべて生命の母胎、萬物の生れ出づる母を意味する言葉ださうだ。

 僕は深山に登つた時、いつもこの老子の言葉を表象する。高山の頂上に立つ時、遠く眼界するものは、山脈と山脈との連峰する谷ばかりである。そこには人間の姿がさらになく、鷄や家畜の聲さへも聞えない。周圍はひつそりとして、森嚴な大自然の雄姿が、永遠不滅の時空を語つてゐる。谷に、峰に、雲に、空に、呼べば遠く反響する不死の時空がひろがつてゐる。「谷神不死!」實にこの言語が表象するほど、大自然の幽玄を語るものがどこにあらうか。永遠に不滅の時空、宇宙の無限的な生命、それがこの四字の表現で立體的に浮んでくる。

「玄牝(げんぴん)」といふ言葉が、また不思議に幽玄の意味を感じさせる。「玄」は暗く大きいところのもの、神祕的な混沌を含蓄してゐる言語であるが、實際山嶽の層重してゐる大自然の印象は、どこか巨大な牝牛が寢てゐるやうな、混沌とした、怪しく神祕的な幻想を感じさせる。深山の峰に立つて、低く山脈や谷やの雲表に層重してゐる大自然を見る時、人はだれでも一種の幻想的な氣分――崇高のやうな、物恐ろしいやうな、或る異常な氣分――を感ぜずに居られない。世界多くの民族によつて語られてゐる古來の山嶽ローマンスが、すぺて皆特殊な浪漫感とグロテスクな怪奇感とをもつてるのも、實にこのために他ならない。しかし僕等がさうした大自然に對するとき、最も適切に感ずる表現は、この「玄牝」といふ言語よりない。その言語の表象するところには、谷や峰や森林やの見渡す大自然の神祕の中で、暗く影をひいた巨大の動物が横たはつてゐる。そして實に、それが宇申永遠の時空における、一切の本質の母胎(牝)である。

 

 老子學者の説によると、この右は「道德經」の祕密であつて、容易に公開を許さない鬼語密教として、古來から神祕視されたものであるさうだ。思ふにこの句は、言語が概念として語る字義以外に、上述のやうな象徴思想が暗示されてゐるからだらう。たしかにこの句は、老子哲學の最も幽玄な本質を語つてゐる。老子は自ら辨明して、自分の眞理は言語で説明さるべきものでない。言語は概念である故に、之れによつで語る限りは、絶對の眞理を説くことができない。自分の言語はすべて眞理を盡してゐないと斷わつてゐる。

 されば老子五千言の中で、眞に彼の思想の本質を語るものは、思ふにこの象徴的な一句であり、他はそれに盡されてゐるものか知れない。老子の他の章句、たとへば「道ノ道トスべキハ常ノ道ニ非ズ」と言ふ如きは、言はば一種の論理(ロヂツク)であり概念であつて、單に思想の抽象された言語にすぎない。此等の章句によつて、吾人は老子哲學の概念を知ることはできるけれども、彼の眞に意味する虛無思想の肉體感――即ち絶對としての眞理――に觸れることはできない。然るに「谷神不死」のこの一章は、一切の抽象や概念を捨て、直接言語の象徴によつて語られてる。この章句によつて、老子思想の本質たる虛無觀や無爲觀やが、どんな情操の上に立脚してゐるかが、眞に具體的に理解される。彼の思想の根柢とするものは、實に東洋的自然主義の極致である。この特殊な「情操」からして、彼の特貌な「思想」が辨證されてることを考へれば、老子經の眞精神を誤りなく捉へることができるだらう。

 

 そんな考證はとにかく、かうした老子の思想や感情が、あの原始的な大山嶽に圍まれてゐる、支那大陸の自然から生れたものであるのは明らかだ。人間の思想や感情やが、環境の自然によつて影響されることは、改めて言ふ迄もなく人の知る所であるけれども、老子の場合に於て、僕は特にそれを痛感する。「谷神不死、之レヲ玄牝卜謂フ。」といふ如き觀念は、あの大陸的な高山の連峰に圍まれてゐる、支那の自然に育つた人にのみ、始めて浮んでくる原始的な心像だ。日本のやうな箱庭的な島國からは、決してこんな混沌雄大な思想は生れない。老子哲學の眞の意味は、思ふに日本人に理解することはできないだらう。日本に傳はつた老子教は、いつでも心學的のいぢけたものか、さもなくば過去の自然主義の文學みたいに、惡く納まつた似而非無爲思想に化してしまふ。

 今日の老子學者の中には、老子の思想が佛教と類似する故を以て、その實在を懷疑し、或は老子を印度人と解する者があるやうだ。僕はそんな方の學者でないから、むづかしいことは全くわからないけれども、谷神不死といふやうな章句から考へても、老子が支那人であることは明白だと思ふ。印度の佛教思想は、やはやその熱帶の自然に影響されてる。そして老子が支那的であるやうに、佛教の思想は印度的である。僕は老子の比喩や言語から、支那の南畫的自然を聯想することができるけれども、印度の熱帶地方を聯想することはできない。

 元來、老子の思想は佛教と大いにちがつてゐる。之れを類似と見るのは、思想の情操する本質――概念に現はれない肉感性――を見ないで、單に概念の抽象觀を見るからである。老子哲學の本體は、純粹に支那風な自然主義の情操に基づくもので、印度哲學の人間的で陰鬱なものとは、根本的に色合がちがつてゐる。佛教は陰鬱な森林の中で、人間的苦悶から冥想されたものであるのに、老子教は大自然の高きに登つて、原始の雲と谷とにかこまれた、超人間的な明るい山嶽思想である。

 佛教はあくまで「人間的」であり、老子教はあくまで「自然的」である。ヒユーマニズムとナチユラリズムとは、兩者の思想に、著るしいコントラストを示してゐる。老子教は、決して佛教の敷衍でない。

 

 老子の思想を思ふ毎に、僕はツルゲネフの散文詩を考へる。特にあの有名な「山」の散文詩――二つの山が欠伸をしてゐる一瞬時に、人間の歴史の數千年が過ぎてしまふ。――は、不思議なほど老子の情操と符節してゐる。老子の谷神不死を近代風の散文詩に飜譯すれば、丁度あの通りのものになるだらう。ただ、「玄牝」といふやうな漢語の幽玄な情趣と、その簡潔にして意味の深い手法だけは、支那文學の特色であつて外國語に飜譯できない。ツルゲネフの散文詩は、この點やや説明的――したがつて小説的――であるのを免がれない。

 しかしとにかくツルゲネフは、西洋人として最も老子的な情操を本質してゐた詩人であつた。同じ西洋の自然主義作家でも、ゾラやモーパツサンのそれと、ツルゲネフのそれとは全く本質を別にしてゐる。ゾラやモーパツサンのは人間主義(ヒユーマニズム)の自然主義だが、ツルゲネフのは眞の自然的自然主義だ。それにつけても、僕は常に言語の不便と僞瞞性とを考へる。同じ「自然主義」といふ言葉の中に、全で本質のちがつた別箇の思想を、現にいくつ概括してゐることだらう。それからして常に批判の混亂と不正とが生じてくる。「虛無思想」とか「浪漫主義」とかいふ言語にも、すべてこの同じ批判の混亂がある。畢竟老子の言ふ如く、言語は概念であつて具體性のないものだから、言語による思想はすべて眞實を誤つてゐる。

 

 トルストイの晩年の思想は、一般に老子の影響を受けたものだと言はれてゐる。成程、思想の表面上にはさういふ所が見えるけれども、根本の人生觀は兩者全く反對である。トルストイはどこまでも基督教的で、執念深いほど人間主義(ヒユーマニズム)の正義觀に立脚してゐる。ああした基督教的の感情から、老子の思想が理解されるとは思はない。僕はトルストイの思想を讀むと、それのあまりに非東洋的であることから、一種の民族的反感をさへ抱かされる。老子とトルストイとは、世に「似て非なるもの」の好例だらう。露西亞人ではツルゲネフやソログープの中に、最も韃靼人の遺傳的な血を發見する。

 

 野原に寢ころんで、空の悠々とした白雲を眺めてゐると、いつも老子の「谷神不死」が思ひ出される。雲といふものは、何かしら時間を超越した、太古的の自然感があるものだ。雲を見てゐる時には、人間的なあらゆる我執や功利感を忘れてしまふ。さういふ時だけは、僕も老子と共に「悠々自然に自適する」虛無の絶對境にひき込まれる。けれども僕の人間的な性格は、氣質上にも思想上にも、老子の自然主義と共鳴できない。僕は老子を崇拜もしないし、況んや彼の教徒にならうとも思はない。要するに老子の思想は、僕にとつて興味ある他山の石である。

 

[やぶちゃん注:『文藝俱樂部』第十二巻第五号・昭和二(一九二七)年五月号に掲載された。底本は筑摩版全集第八巻の校訂本文を用いた。太字「ひつそり」は底本では傍点「ヽ」。文中、萩原朔太郎が言及するツルゲーネフの「散文詩」の中の詩は、以下の「会話」と題する詩である。中山省三郎電子テクスト散文詩」(全)から私の注も含めて引用しておく。

 

 會話

          ユングブラウもフィンステラールホルンも

          未だ嘗て人跡をしるせしことなし!

 

 アルプスの高嶺(たかね)……ただうち續く峨々たる嶮崖……。山脈(やまなみ)のまつただ中。

 山々の上にひろがる淺緑の、明るい、物いはぬ空。身に沁みわたる嚴しい寒氣。さんらんたる堅雪(かたゆき)。雪をつきぬけて聳える、氷にとざされ、風に吹きさらされた磊々たる岩塊。

 地平線の両端にそば立つ二つの大山塊、二人の巨人、ユングフラウとフィンーステラールホルンと。

 ユングフラウは隣人に向つていふ、「何か新しいことでもあつて? あなたには、わたしよりはよく見えるでせうね。あの、麓には何がありませう?」

 幾千年は過ぎる、瞬く間(ひま)に。すると答へるフィンステラールホルンの轟き、

 「叢雲(くも)が地を蔽うてゐる……。しばらく待て!」

 また幾千年は過ぎる、ただ一瞬にして。

 「さあ、今夜は?」ユングフラウが訊ねる。

 「今度は見える。下の方はまだ、もとのままだ、まばらに、こまごまに、水は青み、森は黑み、累々たる岩石は灰色に。それらの周圍には今もなほ、てんたうむしがうごめいてゐる。ほら、あの未だ、君や僕を穢すことのできなかつた二足動物がさ。」

 「それは人間のことなの?」

 「うん、人間だ。」

 何千年かは過ぎてゆく、たちまちにして。

 「さあ、今度は?」ユングフラウが訊ねる。

 「てんたうむしは前より少ししか見えないやうだ。」

 フィンステラールホルンは轟く、「下の下は、はつきりして來た、水はひいて、森はまばらになつた。」

 更にまた何千年かは打ち過ぎる。霎(しば)しの間(ひま)に。

 「あなた、何が見えますの?」ユングフラウがいふ。

 「僕たちの身のまはりは綺麗になつたやうだ。」フィンステラールホルンが答へる、「けれどあの遠く谿間にはやはり斑點(しみ)がある、そして何だか動いてゐるよ。」

 「さあ、今度は?」と、また幾千年かがたちまちにして過ぎ去ると、ユングフラウが訊ねる。

 「今度はいいぞ、」フィンステラールホルンが答へる、「どこもかしこも、さつぱりして來た、どこを見ても眞白だ……、ここもかしこもこの雪だ、一面に、それにこの氷だ……何もかも凍つてしまつた、今はいい、ひつそりしてゐて。」

 「いいわね、」ユングフラウがいひ出した、「ところで、おぢいさん、あんたとずゐぶんお喋りをしましたね。もう一寢入りする時分です。」

 「さうぢやな。」

 大きな山々は眠つてゐる、緑いろの、澄みわたつた空も、永遠におし默つた大地のうへに眠つてゐる。

   一八七八年二月

 

□やぶちゃん注

◎ユングフラウ:スイスのベルン州ベルナー・オーバーラント地方にあるアルプス山脈の高峰(ユングフラウ山地の最高峰)。四一五八メートル。ドイツ語“Jungfrau”は、 「乙女」「処女」の意である。初登頂は一八一一年に成されている。

◎フィンステラールホルン:“Finsteraarhorn”はユングフラウと同じくスイスのベルン州ベルナー・オーバーラント地方の最高峰。四二七四メートル。アルプス山脈三番目のピーク。公式な初登頂記録は一八二九年。ドイツ語の“Finster”は、「暗黒の」「不機嫌な」「不気味な・はっきりしない」という意。詩冒頭のエピグラフはそれ以前の誰かの謂いであるか、若しくはどちらもたかだか六七~五〇年程前までは未踏峰であった事実を踏まえての、この詩全体が太古の時間を幻視しているツルゲーネフ自身の思いの現われであることの表明なのかもしれない。

◎嶮崖:「けんがい」と読むが、中山氏は単に「がけ」と読ませたいのかも知れない。険しく切り立った崖(がけ)のこと。

◎さんらん:「燦爛」。鮮やかに輝くさま。

◎磊々たる:「磊々(らいらい)たる」と読む。多くの石ころが積み重なっているさま。

◎「今度は見える。下の方はまだ、もとのままだ、まばらに、こまごまに、水は青み、森は黑み、累々たる岩石は灰色に。……」:この部分、先行する昭和二一(一九四六)年八雲書店版では「今度は見える。下の方はまだ、もとのままだ、まばらに、こまごまと。水は青み、森は黑み、累々たる岩石は灰色に。……」となっている。私は同格で並列される語句のバランス及び和文脈の自然さから見て、ここは先行する「こまごまと。」で句点で終止するのがよいと思う。]

理髪店の歌 六首 中島敦 (歌群「Miscellany」より)

  Miscellany

 

 

 

    理髮店(とこや)の歌

髭剃(あた)りつゝ夏場所の噂するらしもなかば睡りてわれは聞きゐる


閉ぢてゐるまぶたの裏に明るき影チラチラとして動くが如し


細目あけて薄刀の光見たりけり白き天井に陽炎の搖れ


うつうつとあたらせゐれば座敷より晝飯(ひる)の煮芋のにほひ洩れくる


大鏡の緣のプリズムの虹の色角度を變へて幾たびか見る


あめん棒明るき鏡シャボンの香五月はじめの髮床(かみどこ)の晝


[やぶちゃん注:歌群名「Miscellany」は寄せ集めとか雜録の意。

「チラチラ」「うつうつ」の後半は底本では踊り字「〱」。

「あめん棒」理髪店の赤・白・青の捩じれたサインポールのこと。明治初期に導入され、有平(あるへい)棒と呼ばれた。「アルヘイ」とは安土桃山時代にポルトガルから伝来した糖蜜から作られる茶色の棒状の菓子アルフェロア“alféloa”に形状がよく似ていたことに由来すると言われ(「有平糖」も同語源。例えばお菓子なみちのく 鶴岡のあろへ菓子(有平糖)の有平糖の形状と色とで理解出来る)、後にこの「有平棒」が転じて「あめん棒」となったとも言われる。]



次回からは標題から歌群名は省略する。

焦心のながしめ 大手拓次

 焦心のながしめ

 

むらがりはあをいひかりをよび、

きえがてにゆれるほのほをうづめ、

しろく しろく あゆみゆくこのさびしさ。

みづのおもての花(はな)でもなく、

また こずゑのゆふぐれにかかる鳥(とり)のあしおとでもなく、

うつろから うつろへとはこばれる焦心(せうしん)のながしめ、

鬱金香(うつこんかう)の花(はな)ちりちりと、

こころは 雪(ゆき)をいただき、

こころは みぞれになやみ、

こころは あけがたの細雨(ほそあめ)にまよふ。

[やぶちゃん注:「鬱金香」単子葉植物綱ユリ目ユリ科チューリップ属 Tulipa の和名。花の埃臭い香りがスパイスのウコン(ターメリック)に似ることに由来する。]

鬼城句集 夏之部 茗荷

茗荷    茗荷汁にうつりて淋し己が顏

      茗荷汁つめたうなりて済みにけり

3:48 フライング蜩

今日は異様に早かった。そのまま断続的に鳴き続けていた。
これは何だか暑くなりそうな予兆だ。

2013/08/08

雨中を彷徨する 萩原朔太郎 (「みじめな街燈」初出形)

 

 雨中を彷徨する 

 

雨のひどくふつてる中で

 

道路の街燈はびしよびしよぬれ

 

やくざな建築は坂に傾斜し へしつぶされて歪んでゐる

 

はうはう ぼうぼうとした煙霧の中を

 

あるひとの運命は白くさまよふ

 

そのひとは外套に身をくるんで

 

まづしく みすぼらしい鳶(とんび)のやうだ

 

とある建築の窓に生えて

 

風雨にふるへる ずつくりぬれた靑樹をながめる

 

その靑樹の葉つぱがかれを手招き

 

かなしい雨の景色の中で

 

厭やらしく 魂のぞつとするものを感じさせた

 

さうしてびしよびしよに濡れてしまつた。

 

影も からだも 生活も 悲哀でびしよびしよに濡れてしまつた。 

 

[やぶちゃん注:『詩聖』第九号・大正一一(一九二二)年六月号に掲載された。但し、標題の「彷徨」は初出では「彷惶」。誤字或いは誤植として訂した。後に詩集「靑猫」(大正一二(一九二三)年一月新潮社刊)のパート標題「さびしい靑猫」(裏頁に、

 

 ここには一疋の靑猫が居る。さうして柳は

 風にふかれ、墓場には月が登つてゐる。

 

という序詩を載せる)の章の冒頭に、「みじめな街燈」と題を変えて配された。殆んど変化はないが、「靑猫」版を示しておく。 

   *

 

 みじめな街燈

 

 

雨のひどくふつてる中で

 

道路の街燈はびしよびしよぬれ

 

やくざな建築は坂に傾斜し へしつぶされて歪んでゐる

 

はうはうぼうぼうとした烟霧の中を

 

あるひとの運命は白くさまよふ

 

そのひとは大外套に身をくるんで

 

まづしく みすぼらしい鳶とんびのやうだ

 

とある建築の窓に生えて

 

風雨にふるへる ずつくりぬれた靑樹をながめる

 

その靑樹の葉つぱがかれを手招き

 

かなしい雨の景色の中で

 

厭やらしく 靈魂(たましひ)のぞつとするものを感じさせた。

 

さうしてびしよびしよに濡れてしまつた。

 

影も からだも 生活も 悲哀でびしよびしよに濡れてしまつた。

 

   *

更に、後の四詩集では、総て二行目が、

 

 

 道路の街燈はびしよびしよにぬれ

 

 

となっている以外は大きな詩想上の変化はない。この初出から見ると、詩集「靑猫」での変更が最も大きい。]

耳嚢 巻之七 久野家の妾死怪の事

 久野家の妾死怪の事

 貮三代以前安永の比(ころ)迄勤(つとめ)て予も知る久野某妻を迎ひけるに、或日夫は夜咄(よばなし)に出て妻は閨に臥し居(をり)しに、月洩(もれ)なく障子をてらす。怪しき顏の移りければ、眼さめて何もの成哉(あるや)と聲かけければ、有無の答なければ起出て障子を開きしに、壹人の女緣に下りんとせしに、追て出、誰なる哉(や)と髮をとらへしに、ゆかにて候といゝしを、右髮は殘(のこり)、形はかき消失ぬ。彼妻右髮を仕廻置(しまひおき)て、夜更(ふく)る比夫歸りて閨に入りし時、御身はわらはの不參ら(まゐらざる)以前、召仕ひの妾あるべしと尋しに、未(いまだ)妻の來りて程なければ、曾て左樣の者なかりしといなみ答へける。左(さ)なの給ひそ、ゆかといへる召仕(めしつかひ)なん有(あり)しと尋(たづね)けるに、夫も驚きて、何故さること尋ぬるやといゝし故、ありし事共委しく語り、彼髮を取出し見せて跡を念比(ねんごろ)に弔ひ給ひてしかるべしと申けるにぞ、夫も利に伏して佛事等なしける。

□やぶちゃん注
○前項連関:本格霊異譚四連発。
・「久野某」底本鈴木氏注に久野孝助(宝永七(一七一〇)年~安永五(一七七六)年)かとする。延享元(一七四四)年御勘定、宝暦八(一七五八)年御金奉行、安永三(一七七四)年御蔵奉行で、二年後に享年六十七歳で亡くなっている(根岸は元文二(一七三七)年生まれであるから二十七歳も年上であるが、根岸が二十一で宝暦八年に勘定所御勘定になっているから、そこで接点があったか。彼は久野『孝辰の女に入夫したが、死別して幸田氏の女を後妻に迎えた。この後妻と家付き娘の先妻とにまつわる話であろう』とされているが、岩波版で長谷川氏が不審とされているように、だとすると本文の「妾」「召仕ひの妾」という設定は如何にもおかしい。「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年であるから死後三十年も経っており、「召仕ひの妾」という設定からも久野自身から聴いたものとは思われない。後日に変形された都市伝説の類であろう。しかし、新妻の度胸も優しい心根もよく描けているにも拘わらず、新妻を置いてまで夜咄の茶事に出向く久野の人柄や、ひいては亡くなったという召使いの妾の死因など、如何にも変形が不全で、不満が残る。私のような者でももっとしみじみとしたものに仕上げるであろう。新妻の表情が豊かであるだけに惜しい気がする。
・「迎ひけるに」底本では右に『(ママ)』注記を附す。
・「夜咄」夜咄の茶事(ちゃじ)のことか。茶事七式の一つで、炉の季節に午後六時頃から行われる茶会をいう。
・「利に伏して」底本では「利」の右に『(理)』と訂正注を附す。

■やぶちゃん現代語訳

 久野家の妾(めかけ)の死霊(しりょう)の怪の事

 二、三代も前のこと、そうさ、安永の頃まで勤めて御座って、私も存じて御座った久野某(なにがし)殿の話で御座る。
 久野殿が嫁を迎えられた。
 ある日の夜(よ)、夫は夜話の茶事に招かれ、妻は閨にて臥しておられたが、未だ目覚めてはおられたと申す。
 月が隈なく障子を照らしてだしておる晩で御座った。
――ふと
障子に妖しき人の顔型の動いたによって、妻女は即座に起き直り、
「何者かッ!」
と声を掛けた。
 しかし、答えがない。
 されば、起き上がって障子に走り寄り、
――タン!
と素早く開けてみたところが
――一人の女が
――今にも縁を降りんとして
御座った。
 されば直ぐに出でて追いかけ、
「誰(たれ)なるかッ!」
と咄嗟に髪を摑んで誰何(すいか)致いた。
――と
「……『ゆか』で御座います……」
と答えた――かと思うたら
――妻女の摑んだ髪をだけを残し
――かき消えてしもうた。
 妻女は、暫く凝っと、その手の内に一房残った髪を見つめ御座ったが、何か思いついたように、懇ろにその髻(たぶさ)を仕舞いおいた。
 夜更くる頃になって、夫が帰って閨に入ってまいった折り、妻女はやおら起き直り、静かに夫に向(むこ)うて、
「……あなたさまには……妾(わらわ)の嫁に参らざる以前……誰(たれ)ぞ、召し遣(つこ)うておられた女で……睦まじゅうなさった者が……これ、おありになったのでは御座いませぬか?……」
と訊ねた。
 されど、いまだ新妻の来てほどなき頃で御座ったゆえ、久野殿は、
「……いや。――かつてそのようなことは、これ、御座らぬ。」
と否んだ。
 するとしかし、
「……そのような頑なな言いはなさいまするな。……『ゆか』と申す召使い――これ――御座られたでしょう。……」
と名ざしたによって、久野殿は正直、吃驚仰天致いて、
「……な、何故(なにゆえ)……そ、そのようなことを……た、訊ぬるか……」
とおどおどして反問致いた。
 されば妻女は、今宵御座った怪事をこと細かに語り、先に仕舞いおいた髻(たぶさ)を取り出だいて見せ、
「……どうか亡くなられたそのお方を――懇ろに弔(とむろ)うてあげて下さいませ。――」
と申し出たによって、久野殿も理に伏し、かの亡き妾(めかけ)のために懇ろに供養致いたとのことで御座った。

芥川龍之介 長江游記 T.S.君「蕪湖」探勝記

芥川龍之介「長江游記」の「一」の舞台である蕪湖の注に教え子T.S.君の探勝になる優れた紀行文と写真を追加した。特にT.S.君のそれはすこぶる感慨深いものである。芥川龍之介を愛し、同時に中国を愛する方は、必読せずんばならず!

八丈は小さき島なるよ 九首 中島敦 (「小笠原紀行」より) /歌群「小笠原紀行」了

    八丈は小さき島なるよ

西港八重根をあとにのぼり來(く)とはやも見えきぬ東の三(み)つ根(ね)

[やぶちゃん注:八丈島中央の南西側に位置する八重根漁港から東北へ約四・四キロメートルの位置に神湊(かみなと)港があるが、この東一帯を三根と呼称する。]

白黑の斑(はだれ)の牛の眼もやさし石垣沿(ぞ)ひの往還にして

[やぶちゃん注:「斑(はだれ)」は古語で「はだら」に同じ。斑(まだら)の意。]

綠高き家あり屋根の茅葺の茅の厚さをめづらしと見つ

石垣の上につゞくは櫻ならむ蕾ふゝめり春日しみゝに

中納言秀家の墓尋(と)め行けどもとな知らえず春の日昏(く)れぬ

[やぶちゃん注:「中納言秀家」所謂、五大老の一人であった宇喜多秀家(うきたひでいえ 元亀三(一五七二)年~明暦元(一六五五)年/一説に寛永二(一六二五)年とも)。秀吉に寵遇され、文禄三(一五九四)年権中納言に任ぜられた。慶長五(一六〇〇)年に関ケ原の戦いでは西軍総帥に擁されたが、敗れて島津義弘を頼り薩摩に逃亡、同八年、島津・前田両家の嘆願によって死罪を免れて駿河久能山に幽閉された後、同一一年に八丈島に配流となって同地で没した(ここまでは「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。八丈島では苗字を浮田、号を久福と改め、妻の実家である加賀前田氏宇喜多旧臣であった花房正成らの援助を受けて五十年を過ごし、高貴な身分も相まって他の流人よりも厚遇されていたとも言われるが、偶然に嵐のために八丈島に退避していた福島正則の家臣に酒を恵んでもらったという話や、八丈島の代官におにぎりを馳走してもらった話(飯を二杯所望し、三杯目はお握りにして妻子への土産にしたとも)などが伝承されている。家康の死後に恩赦により刑が解かれたが秀家は八丈島に留まったという説もある。大名としての宇喜多家はそこで滅亡したが、秀家と共に流刑となった長男と次男の子孫が八丈島で血脈を伝えた。明治以後、宇喜多一族は東京本土に移住したが、数年後に八丈島に戻った子孫の家系が現在も墓を守り続けている。秀家が釣りをしていたと伝わる八丈島大賀郷の南原海岸には現在、西(秀家は備前岡山五十七万四千石の大名の最後の当主であった)を臨む秀家と正室豪姫(天正二(一五七四)年~寛永一一(一六三四)年)は前田利家四女で秀吉養女。秀家の八丈島流罪後は兄前田利長の元へ戻され、他家へ嫁ぐことなく金沢西町に移り住んで秀家に物資を送り続けて余生を送ったという)の石像が建てられている。八丈島の墓所は現在の東京都八丈町大賀郷にある稲場墓地である(ここまではウィキ宇喜多秀家に拠った)。「岡山市東京事務所」公式サイトの宇喜多秀家の墓(八丈島)で地図と墓石の画像が確認出来る。見れなかった中島敦の代わりに見ておこう。

「もとな知らえず」は上代の副詞で、根拠なく・やたらに、また、非常にの意であるから、もう一向にその在り処を知ることが出来ず、の謂いであろう。]

夕暗き椿小道(つばきこみち)ゆのつそりと牛が出てきぬ大き乳牛

春の夜の小學校の庭にして村人の歌ふ八丈の歌

芋酒をくらひ醉へばか太鼓うつ若者の動作いやおどけくる

さくさくと踏めは崩るゝ春の夜の火山灰道を海に下り行く

[やぶちゃん注:「さくさく」の後半は底本では踊り字「〱」。]


宇喜多秀家の注が長いのを奇異に思われるかも知れない。これは僕自身が戦国史に疎く、僕自身の勉強のための仕儀である。悪しからず。

雪のある國へ歸るお前は 大手拓次

 雪のある國へ歸るお前は

風(かぜ)のやうにおまへはわたしをとほりすぎた。
枝(えだ)にからまる風(かぜ)のやうに、
葉(は)のなかに眞夜中(まよなか)をねむる風(かぜ)のやうに、
みしらぬおまへがわたしの心(こゝろ)のなかを風(かぜ)のやうにとほりすぎた。
四月(ぐわつ)だといふのにまだ雪(ゆき)の深(ふか)い北國(ほつこく)へかへるおまへは、
どんなにさむざむとしたよそほひをしてゆくだらう。
みしらぬお前(まへ)がいつとはなしにわたしの心(こゝろ)のうへにちらした花(はな)びらは、
きえるかもしれない、きえるかもしれない。
けれども、おまへのいたいけな心づくしは、
とほい鐘(かね)のねのやうにいつまでもわたしをなぐさめてくれるだらう。

鬼城句集 夏之部 瓜

瓜     瓜小屋に伊勢物語哀れかな

      瓜小屋や莚屛風に二間あり


      瓜主や使うて見する袖がらみ



[やぶちゃん注:「袖がらみ」袖搦は江戸時代に使用された長柄の捕り物道具。「袖絡」とも書き、「錑(もじり)」ともいう。先端にカエシのついた釣り針のような突起を持つ先端部分と、刺のついた鞘からなり、鞘に木製の柄に取り付けて使用する。抵抗する者の衣服に先端部分を引っ掛けて絡め取ることで相手の行動を封じ、捕縛するための武器。鞘の刺は相手に摑まれて奪われない様にするための工夫である。刺又・突棒などとともに捕り物の三つ道具と呼ばれ、通常は長さ七尺(約二・一メートル)で、相手が振るう打刀・長脇差の有効範囲外からの攻撃が可能である。瓜泥坊撃退用に小屋に置いてあったものか。

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以上は参照したウィキの「搦」のパブリック・ドメイン画像。]


      瓜小屋や夕立晴れて二日月

北京 天寧寺 レリーフ

芥川龍之介「北京日記抄」に教え子T.S.君の探勝になる天寧寺及び東配殿の写真を注に追加。特に天寧寺のレリーフは慄っとするほど素晴らしい!

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芥川龍之介 冬と手紙と 再校訂リニューアル + metal_clarinet 氏「芥川龍之介と南方熊楠」引用

「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」の芥川龍之介「冬と手紙と」を再校訂リニューアルし、芥川龍之介と南方熊楠の接点を探る画期的な考察である metal_clarinet 氏のブログ記事「芥川龍之介と南方熊楠」を同氏の御許可を得て参考資料として追加させて戴いた。ここを借りてmetal_clarinet 氏(未知の方である)に再度感謝申し上げるものである。

2013/08/07

栂尾明恵上人伝記 55 明恵は実は栄西より臨済禅の印可を受けていた

 笠置(かさぎの)解脱上人法談の爲に來り給ひける時、一人美麗の織物の小袖を服して對面有りけるに、解脱上人思はず氣に思召(おぼしめ)し、目を立てて見給ひければ、上人指にて小袖のくびを指して、是が御目に立ち候かと仰せられければ、解脱一人如法(によほふ)心づかひし損じにけりと思はれたる體なり。是は其の比上人信仰の御所々々より、結緣(けちえん)の爲に衣裳(いしやう)を暫しきせ進らせられけるなり。其の折節解脱上人おはしける間、只其のままにて御對面ありけり。
[やぶちゃん注:「小袖のくび」底本は「小袖のくひ」。諸本で訂した。]

 建仁寺の開山千光法師、大唐國より歸朝して、達磨宗(だるましゆう)を悟り究めて、此の國に弘め給ふ由聞えけり。或時上人對面の爲に彼の寺におはしける時、折節此の僧正參内して歸られけるに、道にて行き合ひ給ひぬ。彼の僧正は新車の心も及ばぬに乘りて、誠に美々しき體なり。上人はやつれたる墨染に草履さしはき給へり。されば、此の姿なるものをばよも目も見かけられじ、無益(むやく)なりと思ひ歸り給ひけるを、僧正見知り給ひて、車より下りて人を進めて呼び歸し奉りて、對面あり。數刻問答して歸り給ひける。其の後は常に對面有りて法談あり。さる間僧正此の上人を印可し奉りて云はく、此の宗を受けつぎて興隆すべき人、大切也。上人其の器に當り給へり。枉(まげ)て我が門下にましまして共に興行し給へと申されけれども、さる子細有りとて深く辭し給ひけり。然れども入滅近付きて御法衣をば奉らる。是れ先師東林の懷敞(えしやう)和尚の法衣なりと云々。
[やぶちゃん注:「千光法師」栄西。
「達磨宗」禅宗。
「懷敞和尚」虚庵懐敞(こあんえしょう)。栄西が文治三(一一八七)年に再入宋した際の天台山万年寺の師。四年後の建久二(一一九一)年に懐敞より臨済宗黄龍派の嗣法印可を受け、同年、帰国した。]

耳嚢 巻之七 婦人強勇の事

 婦人強勇の事

 

 仙臺侯の醫師工藤平助といへる者有。彼(かの)者直(じき)もの語りにて聞(きき)しとて人の語りぬ。平助若き時より好みて三味線を彈(ひき)けるが、去(さる)武家の娘望(のぞみ)に付(つき)、少斗教(すこしばかりをしへ)し事も有(あり)。彼娘年比(としごろ)に緣付(えんづき)けるに、先方も小身の籏本(はたもと)にて、貮度目にて先妻の娘貮ツになん也(なり)し由。然るに彼婦人、娘を片脇に寢付(ねつか)せ縫物して居(ゐ)たりしに、年比廿斗(ばかり)の女忽然と、右寢たる子の脇に居けるに驚(おどろき)けるが、勇氣もたくましき婦人なるや、右女に向ひ、いつより來り給ふやと靜(しづか)に尋(たづね)けるに、一向答(こたへ)なければ、尚又いか成語(なること)に來り給ふやと尋しに又答なき故、せん方なく其樣子を得(とく)と見屆(みとどけ)しに、程なくいづち行けん見へず成りぬ。其家に老女のありける故、斯々(かくかく)の女來りたり、其容貌有樣くわしく語りければ、それは過(すぎ)さり給ふ先の奧方ならんと申(まうす)ゆへ、彼婦人申けるは、我に恨(うらみ)あるべき事もなし、出生せし娘子に心殘りてならむ、我身今此(この)家へ嫁し參る上は、小兒は我産(わがうみ)し子も同じ事なれば、などおろそかになすべき、産みの子より大事ならんに、心殘りて迷ひ給ふいたわしさよといゝて、其夜用所(ようしよ)へ彼奧方至りしに、最前の女窓より顏を出し居たりけるに、一通りの婦人なりせば聲立(たて)氣絶もなすべきに、靜に彼女に向(むき)、御身は先の奧方なるべし、年若き男最愛の妻にわかれては、又の妻むかふるも常なれば、我に恨みありて見へ給ふにはあるまじ、あれなるおさなき子に心殘りてならん、我身爰に嫁し來ぬれば、則(すなはち)我(わが)子同前(どうぜん)なれば御身にまさりていつくしみ育(そだつ)るなれば、安堵して迷ひ給ふなと申ければ、彼女忽然と消失(きえうせ)しが、其後はかつて去(さる)事なく榮(さかへ)ける。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:本格霊異譚三連発。

・「工藤平助」(享保一九(一七三四)年~寛政一二(一八〇一)年)は仙台藩江戸詰藩医で経世論家。四十歳代前半までは医師として周庵を名乗り、髪も剃髪していたが、安永五(一七七六)年頃、藩主伊達重村にから還俗蓄髪を命ぜられ、それ以後、安永から天明にかけての時期、多方面にわたって活躍するようになった。安永六(一七七七)年には、築地の工藤邸は当時としてはめずらしい二階建ての家を増築、二階には椹(さわら:檜の同属で水湿に強い。)厚板でつくった湯殿があり、湯を階下より運んで風呂として客をもてなしたといわれる。手料理なども上手く、ここに出る三味線の師匠というのも納得出来る。平助は、藩命により貨幣の鋳造や薬草調査なども行い、また、一時期は仙台藩の財政を担当し、さらに、蘭学・西洋医学・本草学・長崎文物商売・海外情報の収集・訴訟の弁護・篆刻など、幅広い学識と技芸を有した才人であった。ロシアの南下政策に対して警鐘を鳴らし、開港貿易とともに蝦夷地の経営を論じた「赤蝦夷風説考」(天明三(一七八三)年完成)の筆者で、若き日の仙台藩士林子平(平助より四歳下)に影響を与えた人物としても知られる。先駆的な海防軍事書として評価の高い、寛政三(一七九一)年に全巻刊行された林子平の「海国兵談」は、この「赤蝦夷風説考』の情報に多くを依拠している(以上はウィキの「工藤平助」に拠った)。「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年であるから、平助の死後五年が経過している。

・「いつより來り給ふや」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「いつより」は『何れより』とある。それで訳した。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 婦人強勇の事

 

 仙台侯の江戸詰医師工藤平助殿と申すお方が御座る。

 この御仁から直話(じきわ)として聞いたと、人の語って御座った話。

 平助殿、若き時より三味線を好んで嗜んでおられたが、さる武家の娘、これが、たっての望みにつき、その娘に少しばかり、三味を教えことが御座ったと申す。

 その娘が、そのうち年頃となって縁づいた。

 先方は小身の旗本にて――後妻――亡き先妻の二つになろうかと申す娘も御座った。

 ところがある夜(よ)のこと、この婦人が娘を片脇に寝かせつけて、縫い物なんどしておったところが、ふと端(はた)を見れば、

――年の頃二十(はたち)ばかりの女が独り

――忽然と現われ

――その寝ておる子(こお)の脇に

――凝っと

――坐っておる。……

奥方、内心ひどく驚いたものの、よほど、勇気稀に見る強き婦人ででも御座ったらしく、その妖しき女に向かい、

「……どちらから参られたのじゃ?」

と静かに訊ねた。

 が、一向、答えも御座らぬ。

 されば、なお、

「何のために来られたのじゃ?」

と再三訊ねた。

 が、また答えも、これ、ない。

 さればとて、仕方なく、その影薄き姿を凝っと――見詰めて御座ったと申す。

――が

――ほどのぅ

――何時の間にやら……一体どこへ消えたものやら……影も形も見えずなって御座ったと申す。

 翌日、その家(や)に老女中の御座ったゆえ、奥方は、二十ばかりの、かくかくの女が昨夜来たったこと、その容貌・有様なんども含め、詳しぅ語って聞かせたところが、老女は真っ蒼になって、

「……そ、それは……とうに、お亡くなりになった……先の奧方さまに……相違御座いませぬ。……」

と申した。

 すると、それを聴いた奥方は、

「……妾(わらわ)に恨みを持っておるようには全く見えず御座った。……されば、出生(しゅっしょう)致いた娘子(むすめご)に心が残ってのことで御座いましょう。……妾が今、この家(いえ)へ嫁して参った上は――小児は妾が産んだ子も同じこと――どうして育(はごく)むにおろそかになど致すもので御座ろうか――実の子(こお)より大事大事に致いて御座いまするに。……心の残って、未だこの世に迷うておらるることの、何と、いたわしいことか。……」

と呟かれたと申す。

 さてまた、その夜(よ)のことで御座った。

 奥方が後架(こうか)へ立たれたところが、

――前夜の女が再び

――今度はこともあろうに

――後架の窓より内へぬっと顔を突き入れて御座ったと申す。

これ、普通の婦人で御座ったれば、金切り声を張り挙げ、気絶すること間違いなきことなれど、やはりこの婦人、尋常の婦人にては御座らなんだ。

 静かにかの女の霊に向き直ると、

「……御身は、先の奧方で御座ろう。……年若き男の、最愛の妻に死に別れては、またの妻をお迎えにならるるも、これ、常のことなればこそ、妾に恨みのあって、現われなすったのでは御座るまい。……あの、幼き子(こお)のことが、これ、心に残ってのこととお察し申しまする。――我らこと、ここに嫁(か)し来たった上は――かのあなたさまの子(こお)は――則ち、我が子同然なればこそ――御身に勝って慈しみ育(はごく)む覚悟なれば――どうか、ご安堵なされ、お迷いになられ給うな。――」

と申したところが、かの女の霊は忽然と姿の消え失せたと申す。

 その後(のち)は、かつてそのような怪事の起こることも、これなく、御旗本も大いに栄えたと、申すことで御座った。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第七章 江ノ島に於る採集 25 幻の桟橋

 日本人が油紙製の傘を装飾する奇妙な方法は、興味がある。ある場合、傘を黒く塗り、縁の一部分を白く残して新月を表す(図188)。また花、変な模様、漢字等も見られる。

M188


図―188

 昨晩、大きな波が、島から本土へかけた、一時的の歩橋の向う端を押し流して了った。天気が静穏で気持がいいのに、大きなうねりが押し寄せて来るのを見ると、たしかに不思議である。多分五百マイルも離れた所で嵐が起り、その大きな動揺が、やっと今岸に達したのであろう。波は夜中轟き渡った。
[やぶちゃん注:この冒頭の一文(原文“Last evening the heavy sea had washed away the farther end of the temporary footbridge which had been built from the island to the mainland.”)は非常に貴重なものである。実は現在、江の島に初めて砂州の途中から桟橋が架けられたのは明治二四(一八九一)年とされているからである(ウィキに「江の島」に拠る磯野先生も「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の九六~九七頁で『明治十年という早い時期に、粗末ではあっても仮橋があったという記録はほかにないらしく、貴重である』と記されておられる)。ところが、この部分の叙述は、明らかにこの明治一〇(一八七七)年夏の時点で、極めて脆弱ではあるが「島から本土へかけた、一時的の歩橋」が、まさに砂州の途中から既に島に架かっていたことを示す叙述だからである。しかも実は、この橋の描写はこの後に二度も現われるのである。但し、かつて私がよく立ち寄った江の島の「貝広」の公式サイトの、「お店の紹介」のページにある「江の島の変遷と貝廣の歩み」の明治六(一八七三)年の項をご覧頂きたい。『江の島桟橋が初めて架けられる<絵葉書に残された桟橋の姿>』とある。画像が小さいが拡大して見ると、粗末どころか、大人が二人ゆったりと並んで歩ける幅(3メートルほどか)があり、欄干も左右にあって、しかも「砂州の途中」どころでもなく、砂州のずっと手前(現行の江の島大橋と同様にやや右手の片瀬東浜寄りに有意にカーブしているのが見て取れる)から江の島島内まで続いているように見える。橋は既にして確かにあったのである。]

 今日私は、新しい掛絵が、柱にかけてあるのに気がついた。ひっくり返して見ると、裏面にはもとの絵がかいてある。薄い杉板の、幅六インチ長さ五フィート半のものを、絵に利用する日本人は、巧みな芸術家といわねばならぬ。風景に竹の小枝を一本描き、狭い隙間から向うを見る効果を出すには、適当な主題を選ぶ技能を必要とする。
[やぶちゃん注:「幅六インチ長さ五フィート半」幅約15センチメートル強・長さ1・7メートル程。]

『風俗畫報』臨時增刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 15 惠比壽樓

 

   ●旅館

 

    ◎惠比壽樓

惠比壽樓(ゑびすらう)は鳥居際にあり、江の島第一の旅館にして、眺望の絕美なる、料理の新鮮なる、優に江の島に冠(くわん)たり。

 

片瀨の棧橋を蹈(ふ)め、よせてはかへす浦浪白く砂(いさご)を捲(ま)き、日夜洗はるゝ海濱。江の島は近くに浮びて、巖角(がんかく)秀(ひい)づる處、双尾の鯛の溌溂(はつらつ)として甍(いらか)に宿するの家屋、ゑびすやと頷(うな)づくも名うての旅館なればなるべし。

 

客間 江の島に遊ばゝ此の樓を訪れよかし、旭の間、月見の間、鶴、龜、松、竹の間、雪見、富士見の間、桐の間、松望室、見晴、廣間、二階三階、客室の數は算(かぞ)へがたし、同家にては、この客間を別莊と稱せり。

 

鮮鱗潑溂 宿の女浴衣(ゆかた)を持ち來りて、風呂に召せといふ、欄に凭れて四邊(あたり)の風光をながめつゝ待つ間(ま)程なく、膳は運ばれて銚子の數も重ねつ、海老は皿に盛られて新らしく、鯛は椀に浮びてあざやかななり。

 

[やぶちゃん字注:「鮮鱗潑溂」の底本の傍点「●」は「鮮鱗潑」までしかないが、誤植と見て「溂」まで太字にした。]

 

運動場 後背の山にあり、紅鼻緖(べにはなを)の草履穿いて運動かてらに上る石段二三十段を拾ふて、崖腹に稻荷社あり、頂は廣く眺望頗る絕佳、碑文あり。

 

 住み馴れて居ても凉しや島の月   泉山

 

泉山は樓主(らうしゆ)なり、俳諧を好み、感吟多し。嘗て龍燈の松の下蔭に憩ひて。

 

 龍燈の松や島根の夏木立      泉山

 

眺望 挿畫に示すは、旭(あさひ)の間の眺望にして、烟波萬里水天髣髴(えんぱばんりすゐてんはうふつ)の間に遠く鋸山(のこぎりやま)を望み、三浦三崎逗子の濱邊は薄墨もて描かれつ、稻村が崎七里ケ濱、さては小動(こゆるぎ)腰越の磯まぢかく立ち龍口寺は伽藍の屋根を見せて、片瀨川の水淸く流れ、棧橋を渡りくる遊客(ひと)の數さへよまれつ、藤澤の遊行寺鵠沼邊漸く逃げて、遙かに大山の峻嶺左に聳ゆ。三十八疊の大廣間、百花はりまぜの銀屛風二双。「好山天展畫圖春」と題する額面は聽雨居士の筆する所。躑躅(つゝじ)の床柱、寸莎(すさ)の塗り壁、床の間には貝の置物、都人士には珍し。懸軸あり。

 

[やぶちゃん注:以下の七言漢詩は続けて書かれている(結句は分断されるために二行目にある)が、一段組で示した。]

 

 去年今日扈鑾輿。

 

 咫尺天顏閲羽書。

 

 一轉乾坤事如夢。

 

 湘南烟憶水鱸魚。   春畝閑人

 

東雲(しのゝめ)の空、紫の霞は潮(うしほ)と堺を隈りて夜(よ)は明けむとしつ、群靑の上に胡粉もて畫きしやうなる帆の影は幾つともなく波に浮びて、包むや朝霧の絕え間(ま)に島山(しまやま)の見え隱れするも心ゆく限なれ、旭のきらきらと波の上に照りまさりたる一層(ひとしほ)の咏め優り咏め優りて、海面(うみづら)には小舟のりいだして生簀(いけす)の魚を捕りに行くも、我等が今朝(けさ)の馳走(ちそう)なるべし。

 

[やぶちゃん注:「恵比寿屋」として現存する。ここ(グーグル・マップ・データ)。公式サイトのトップには創業三百五十余年とあり、『島に弁天 旅館は恵比寿』という恐らくは古くからのキャッチ・フレーズを配する。絢爛たる形容、強力なるタイアップ記載である。挿絵は早々と「不老門」と「鐘の銘」の間、八頁と九頁の間に挿入の多色刷見開き二頁で載る。旭の間の右に上方に吹出のように全景を楕円で描く(全景の左上海上の空の部分に「住み馴れて/居てもすゝしや/島の月/ゑひす樓/主人/泉山(落款)」とある)。旭の間の中央で客に対座する好々爺が描かれているが、彼のこちら側にいる御婦人の持つ(と思われる)団扇が老爺の胸にかかっているが、そこには「龍燈の/まつや/島根の/夏木立/ゑびす樓/主人(落款)」と認められ、この老人が永野泉山(後述)かとも見られる。

 

「泉山は樓主なり」永野泉山(天保一二(一八四一)年~明治三九(一九〇六)年)は恵比壽楼の第十六代主人。本名、政康。明治期の江の島俳壇で門下の育成に努めた。この「住みなれて居てもすゞしや嶋の月」と彫られた句碑(明治三一(一八九八)年十一月十五日建立)が恵比壽屋門内右手に、「明治子に茂どることしやいはいきぬ」と彫った永野泉山還暦記念碑(明治三四(一九〇一)年建立)が辺津宮表参道女坂に現存する。

 

「寸莎(すさ)」苆莎とも書く。壁土に混ぜて罅割れを防ぐつなぎにする材料。荒壁には藁を、上塗りには麻または紙を用いる。壁苆(かべすさ)・つたともいう。

 

「春畝閑人」伊藤博文の雅号。本詩には訓点がないが、我流で書き下す。

 

 去年(こぞ)の今日(けふ) 鑾輿(らんよ)に扈(したが)ふ

 

 咫尺(しせき)の天顏 羽書を閲(けみ)す

 

 一轉 乾坤 事 夢のごとし

 

 湘南の烟水 鱸魚を憶ふ

 

・「鑾輿」天子の乗る車。

 

・「咫尺の天顏」真直に拝する天皇の尊顔。

 

・「羽書」羽檄(うげき)。急を要する檄文。昔、中国で緊急の触れ文に鳥の羽を挟んだ故事による。飛檄(ひげき)。但し、この檄文が何を意味するのかは不明。もしかすると伊藤博文が明治二五(一八九二)年に大成会を基盤とした政党結成を主張するも天皇の反対により頓挫したことと関係するか。明治天皇は明治二四(一八九一)年十月二十四日から二十六日にかけて近衛兵秋期演習観戦のために藤沢町や六会村を視察しているが、この折りに江ノ島に来島したものか。「羽書」の推測の時期とは一致する。]
 
【2016年1月13日追加:本挿絵画家山本松谷/山本昇雲、本名・茂三郎は、明治三(一八七〇)年生まれで、昭和四〇(一九六五)年没であるので著作権は満了した。】 

 

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山本松谷「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」挿絵 江の島恵比寿楼と同旅館内の旭の間からの景観の図(着色)

 

[やぶちゃん注:明治三一(一八九八)年八月二十日発行の雑誌『風俗畫報』臨時增刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」(第百七十一号)の挿絵の三枚目。上部欄外中央に「惠比壽樓全景並ニ同樓旭の間の圖」とキャプションがある。私のスキャン機器の関係上、下部が、右手が一・五センチメートル、左が七ミリメートル、を大きく二・九センチメートルほどカットしてある。右下には唯一、強い朱で描いた塗り盆の上の急須と鮮やかな黄色い茶菓が描かれてあるのであるが、最大限、左方の月と景色を優先したため、せっかくのピン・ポイントのカラーであるが、省略した。

 「旭の間」という名と景観から、同楼のコテージ(本文によれば「別荘」)の内、東寄りの海際と考えられ、上図の大棟の端に鯱鉾上の鳥衾(とりぶすま)の付くそれの可能性が高いか(実際に泊まって宿に聴けば分かるとは思うが、流石に直近過ぎてちょっと泊まることはあるまいから、何方かお教え願えれば幸いである)。

 本文記事の気持の悪いほどのベタ褒めは、現行のガイド・ブック同様、全く以って一大提携広告見たようなものであって、『風俗畫報』編集部は、これ、相当な広告料と饗応を恵比寿屋主人からせしめたものと思われる。恐らくは中央の団扇を持った老人が当時の主人である十六代永野政康ではないかと思われる(本文の私の注を参照されたい)。

 既に前の注で述べたが、二枚の画中に俳句が記されており、上の全景図中の句が、

 

住馴れて

 居ても

  すゝしや

 島の月

 ゑひす樓

    主人

   泉山(落款)

 

で(「すゝしや」は「涼しや」)、大きな旭の間の図中の、背を向けた浴衣姿の婦人が持っていると思われる団扇に何気なく書かれているそれが、

 

龍燈の

 まつや

嶋根の

  庭木立

ゑびす樓  (落款)

    主人 

 

とあり(「まつ」は松)、やはり述べた通り、この「泉山」は実は主人永野政康の俳号である。底本の澤壽郎先生の解説に、『「住馴れて」の句は、いまでも江の島土産の手拭に染め抜かれい』るとある。今度行ったら、買って、アップしようと思う。

 左手の少女が、背後ながら、実に可愛らしい。]

無用の書物 萩原朔太郎 (初出形)

 

 無用の書物
      (虛妄の正義の序詩として)

蒼白の人
路上に書物を賣れるを見たり。
肋骨(あばら)みな瘠せ
軍鷄(しやも)の如くに呌べるを聽く。
われはもと無用の人
これはもと無用の書物。
一錢にて人に賣るべし。
冬近き日に袷を着て
われの窮乏は醋えはてたり。
風邪吹く巷に行人散り
古き友情さへも我れを知らず。
いかなれば淚を流して
かくも黃色く古びたる紙頁の上に
わが情熱するものを情熱しつつ
さびしき宇宙を獨り語らむ。
ああ我はわれはもと無用の人
無用の書物を街に賣るべし。

 

[やぶちゃん注:『文藝春秋』第八巻第一号・昭和五(一九三〇)年一月号に掲載された。副題に「虛妄の正義の序詩として」とあるが、昭和四(一九二九)年十月第一書房刊のアフォリズム集「虛妄の正義」には本詩は掲載されていない。後の昭和九(一九三四)年第一書房刊の「氷島」に所収される「無用の書物」の初出形であるが、「氷島」では、

 

 無用の書物

蒼白の人
路上に書物を賣れるを見たり。
肋骨(あばら)みな瘠せ
軍鷄(しやも)の如くに叫べるを聽く。
われはもと無用の人
これはもと無用の書物
一錢にて人に賣るべし。
冬近き日に袷をきて
非有の窮乏は酢えはてたり。
いかなれば淚を流して
かくも黃色く古びたる紙頁(ぺえぢ)の上に
わが情熱するものを情熱しつつ
寂しき人生を語り續けん。
われの認識は空無にして
われの所有は無價値に盡きたり。
買ふものはこれを買ふべし。
路上に行人は散らばり去り
烈風は砂を卷けども
わが古き感情は叫びて止まず。
見よ! これは無用の書物
一錢にて人に賣るべし。

 

と改稿されている。]

歸航の途次八丈に寄る 八重根港に上陸、直ちに野天にて牛乳の饗應を受く 二首 中島敦 (「小笠原紀行」より)

    歸航の途次八丈に寄る
      八重根港に上陸、直ちに野天にて牛乳の饗應を受く
大き樽に滿々として牛の乳はや飮みたまへと村の人いふ
丼(どんぶり)に乳をすくひて一息に飮みほしにけり雫のごはず

水中の薔薇 大手拓次

 水中の薔薇

 ―「風・光・木の葉」を讀みて―

 

あなたの指をうごかしてください。

薄明の霧のなかに

やはらかくまばたくもの、

しろくかすかにまばたくもの、

さざなみするみづのなかに

ほそぼそとまばたくもの、

あをくほのかにひかりあるもの。

 

あなたの指をうごかしてください。

薔薇はひとつの鳥のやうに

早春の水氣(すゐき)のなかに

かろくまばたいてゐます。

 

[やぶちゃん注:副題「風・光・木の葉」は底本では「風 光・木の葉」。誤植と見て、中黒を打った。「風・光・木の葉」は白秋門下の詩人で作詞家としても知られた大木篤夫(明治二八(一八九五)年~昭和五二(一九七七)年)が大正一四(一九二四)年に出した処女詩集。この後の大木は、一九三〇年代後半頃から歌謡曲の作詞も手がけるようになり、東海林太郎の「国境の町」は一世を風靡した。太平洋戦争の開戦と同時に徴用され、海軍宣伝班の一員としてジャワ作戦に配属、バンダム湾敵前上陸の際には乗っていた船が沈没したため、同行の大宅壮一や横山隆一と共に海に飛び込み漂流した。この時の経験を基に作られた詩集「海原にありて歌へる」(アジアラヤ出版部昭和一七(一九四二)年刊)をジャカルタで現地出版したが、この詩集には日本戦争文学の最高峰とも称せられる「戦友別盃の歌-南支那海の船上にて。』(「言ふなかれ、君よ、別れを、世の常を、また生き死にを、-」)が掲載されており、この詩は前線の将兵にも愛誦された。この詩集で日本文学報国会大東亜文学賞を受賞するとともに従軍記・軍歌・愛国詩等の原稿依頼が殺到したが、戦後は一転、戦争協力者として文壇からは疎外された(以上はウィキ大木惇夫に拠った)。]

十六歳の少年の顏 大手拓次

 十六歳の少年の顏

 ―思ひ出の自畫像―

 

うすあをいかげにつつまれたおまへのかほには

五月(ぐわつ)のほととぎすがないてゐます。

うすあをいびろうどのやうなおまへのかほには

月のにほひがひたひたとしてゐます。

ああ みればみるほど薄月(うすづき)のやうな少年(せうんよ)よ、

しろい野芥子(のげし)のやうにはにかんでばかりゐる少年(せうんよ)よ、

そつと指(ゆび)でさはられても眞赤(まつか)になるおまへのかほ、

ほそい眉(まゆ)、

きれのながい眼(め)のあかるさ、

ふつくらとしたしろい頰(ほほ)の花(はな)、

水草(みづくさ)のやうなやはらかいくちびる、

はづかしさと夢(ゆめ)とひかりとでしなしなとふるへてゐるおまへのかほ。

 

[やぶちゃん注:太字「ひたひた」「しなしな」は底本では傍点「ヽ」。]

鬼城句集 夏之部 植物 茄子 

  植物

 

茄子    茄子汁の汁のうすさや山の寺

      手燭して茄子漬け居る庵主かな

鬼城句集 夏之部 うぐひ/老鶯/蠅  動物 了

うぐひ   夕燒やうぐひ飛出る水五寸

老鶯    老鶯に一山法を守りけり

[やぶちゃん注:「老鶯」はここでは「らうあう(ろうおう)」で、ウグイスは俳句では「春告鳥」として春の季語であるが、これは春過ぎても鳴いている夏の鶯を指す。李賀の「殘絲曲」などにも見られる漢詩の詩語である。「老」とあるが、ウグイスの平均寿命は八年で、しかも初夏が繁殖期に当り、現在では八月下旬頃まで元気な音が聴かれる(二〇一三年八月現在、現に私の裏山で朝方から鳴いている)。但し、人里近くで鳴く春とは異なり、営巣する山林近くで比較的多く聴かれる傾向はある。秋も十月頃まで弱い囀りをすることがあるので、「老鶯」の印象は寧ろ、そちらの方が似合うように私には思われる。「夏鶯」「残鶯」などともいう。]

蠅     草の戸や二本さしたる蠅たゝき

      蠅の宿産婦に蚊帳を吊りにけり



以上を以って「鬼城句集 夏之部 動物」は終わる。

2013/08/06

國木田獨歩 忘れえぬ人々 単行本「武藏野」版(ルビ完備) + 同縦書版

「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に僕の偏愛する作品、國木田獨歩「忘れえぬ人々」の単行本「武藏野」版(ルビ完備)同縦書版を公開した。

遠い昔に公開したもの(今から8年前の2005年8月5日公開。まさにサイト開設から一ヶ月ほど、そして右腕首を折った直後であった)は筑摩書房版「現代日本文學大系 第一一卷 國木田獨歩 田山花袋集」によるもので、僕の偏愛する作品集「武藏野」に載るものとは表記に微妙な違いがあることに気づいたことによる。

今回は底本にあるルビを総て再現し、読み易い縦書版も同時に作成したので、未読の方は是非、お読み戴きたい。

因みに、僕のブログ・カテゴリ「忘れ得ぬ人々」(「忘れ得ぬ人々:写真版」もあり)は無論、この作品への僕のオマージュである。

因みに今回のルビ・タグ(<RUBY><RB>漢字</RB><RT>ルビ</RUBY>)の挿入箇所は2300箇所を越え、
腱鞘炎になりそうになった。

それにしてもこの作品のエンディングは味である。入れ子構造になっていて、しかも最後に読者をして「やられた」という気にさせる。これが今から115年も前の小説とはちょっと思えないではないか。

日本詩歌の象徴主義 萩原朔太郎

  日本詩歌の象徴主義

 

 美術や演藝や、あらゆる東洋藝術の本質が象徴主義であるやうに、我々の國粹詩歌の本質がまた象徴主義に立脚してゐることは言ふ迄もない。吾人は此所でやや詳しく之れを説きたいと思ふけれども、他日別に稿を改めて「自由詩の根本問題」を論ずる時に、二度重説せねばならないからして、此所では根本的な議論は略しておく。

 ともあれ日本の民族詩歌が、西洋のものに比していかに直感的で、いかに印象的で、そしていかにメタフイヂカルであるかは、特に説明を要せずして明らかだらう。實に和歌や俳句の如きは、世界に於ける象徴文藝の極粹であり、到底西洋近代の印象詩の如き生ぬるいものとは比較にならない。したがつて此等の詩は、概念的な西洋人にとつて容易に理解することができないのである。

 西洋人が、近來著るしく我々の象徴主義に近づいて來たにかかはらず、尚實には未だ遠い距離にあつて、少しも眞の純粹象徴を理解して居ないことは、しばしば彼等によつて説かれる俳句の象徴主義(?)が、その實我々の中での月竝俳句で、たとへば加賀の千代女の

 

  蝶々に去年死したる夫戀し

  身にしみる風や障子に指のあと

  蜻蛉つり今日はどこまで行つたやら

 

の如き小説的、叙事的のもの、もしくは芭蕉前派の

 

  長持ちに春かくれ行く衣更

  口あけば腹まで見えるアケビかな

  物言へば唇さむし秋の風

 

等の如き幼稚な寓意詩や比喩詩であるのを見ても明らかだらう。西洋人の所謂象徴とは、畢竟我々の意味での寓意や比喩に止まるので、未だ眞の象徴に至ること遙かに遠いものである。かのボドレエルの詩の如きは、多くはこの程度の寓意や比喩にすぎないので、彼等の所謂象徴詩が、以ていかに不徹底のものであるかを知るべきだらう。我が芭蕉が、特に象徴詩人として西洋に紹介されてる所由のものも、實は芭蕉の俳句中に、上例の如き概念的な寓意詩が比較的に多いためである。しかも芭蕉の眞髓たる眞の象徴詩境に至つては、彼等歐洲人の全く知らない所であり、また知つても遂に理解することの出來ない祕密であらう。

 

  秋深き隣は何をする人ぞ

  何にこの師走の町へ行く鴉

 

 かうした芭蕉の俳句こそ、我々の意味での眞の象徴である。それは何の説明でも描寫でもなく、しかも深遠無量な人生觀や、或る複雑な意志をもつた生活感情やが、非常に力強い主觀の感情を以て訴へられてる。その詩的表現の印象的效果に於ても、または情緒的效果に於ても、到底西洋のくどくどした説明的の詩とは比較にならない。のみならずその短かい詩中に、數百行を以て説明できない複雑した思想と充實した意味が語られてる。之れがボドレエルなぞの詩ならば「甲板に羽ばたく海鳥よ。汝の死は美しき祕密を語る。おお、汝は眞理である。」といふ如き抽象的な比喩によつて露骨なロヂツク的な概念を語るのである。所詮西洋人の至る所は、寓意や比喩を以て象徴の極粹とするに止まるだらう。彼等が芭蕉を理解する程度のものも、所詮それ以上には望み得ない。

 しかし芭蕉や俳句を語ることは、近頃一つの流行になつてゐるし、讀者のよく知つてる所だから止めにして、此所では人のあまり言はない、別の民族詩たる和歌について述べて見よう。

 和歌はその印象的客觀性の點に於ては、いささか俳句に劣るけれども、情緒的主觀性の點に於ては、逢かに俳句に優つた長所をもつてる。けだし和歌は俳句とちがつて、音律的の美しい調べを豊富にもつてゐるからである。それで俳句の印象と和歌の情緒とは、客觀詩と主觀詩との両面を代表して、丁度西洋に於ける敍事詩と敍情詩の如く、日本國詩の二大範疇を頂すものである。(近頃我が國の歌壇は、正岡子規から出た俳句的客觀主義の歌風に偏してゐるが、之れは歌の邪道であつて本道でない。)

 さて我が國の和歌は、およそ三期の完成期を経て發展してゐる。即ち萬葉から古今に至り、さらに新古今に至つて藝術的完美の極に達した。新古今以後はもはや發展すべき餘地がないから、さらに上古の萬葉にかへつて新しき出發を繰返すのみであらう。明治以來日に至る新歌壇は、即ちこのルネサンスの復古時代に當るのである。したがつて現時では萬葉が過度に高調され、萬葉以來また規範とすべき和歌がないやうに考へられてゐる。しかしながら萬葉は、和歌の最も原始的時代に於ける出發點で、言はば吾人の少年期における純情小曲時代に屬する。その僞らざる質感の純情性と、素朴にして熱情に富んだ感傷性とは、もちろんあらゆる藝術的評價を絶して尊重さるべきものであるが、しかも尚それは藝術の出發點に止まるので、それ自身で遂に滿足さるべきものではないのだ。

 此所に吾人は、萬葉に始まつた日本の和歌が、古今、新古今をへていかに象徴的に進歩發展したかを見ようと思ふ。先づ萬葉に於ては、純情素朴なる靑春期の戀愛詩で一貫されてる。實にこの戀愛詩といふものは、東西古今を通じて詩歌の中心生命となつてるもので、西洋に於てもその詩の七分以上は之れである。けだしフロイドの精神分析學が説く如く、藝術の本體は性慾であるのに、戀愛は特にそれの美的に高調されたものであるからだらう。それ故にどこの國の文學でも、その民族性や表現精神の特色を見ようとするには、何より先づ戀愛詩を見るに限るのである。

 此所で諸君は、サツホオ等に始まつた西洋上古の戀愛詩(即ち彼の國の所謂敍情詩)と同じその上古に始まつた日本の戀愛詩とを比較して見るが好い。彼我の國民性や藝術意識の相違がいかに驚くべきものであるか、けだし思ひ半ばにすぎるものが頂あるだらう。西洋の戀愛詩たるや、「戀そのもの」の心情を歌ふのでなく、實には「戀の事件」を記述するのである。即ちそれは吾人の所謂小説であつて、作者が外部から客觀の位置に立ち、以て戀愛事件の種々なるいきさつを記述し、之れを一の繪卷物として展開しつつ説明する。即ちその態度は全く相對的である。戀愛は向うにあり、そして詩人は此方に立つてる。然るに萬葉等の戀歌にあつては、詩人自身が「戀そのもの」の絶對境に飛び込んでゐる。そこには何の相對觀がない。故に事件や物語の記述がなく、詩が直ちに戀そのものの心情を如實に高調して表出してゐる。實に西洋上古の戀愛詩、即ち所謂敍情詩と稱するものは、我が國の同じ上古における小説(源氏物語など)の類であつて、詩といふべく一段低き程度にある美文文學にすぎないのだ。換言すれば我々東洋人は、西洋人が普通に詩と呼ぶ程度のものの上に、さらに一層純粹な詩をもつてゐる。

 西洋人の戀愛詩が、この種の記述的態度をはなれて、我々の和歌の如く直接「戀そのもの」の心情を歌ふやうになつたのは、最近十八世紀以來の事であつて、彼等としては驚くぺく新しい進歩に屬する。しかもその最も近代に屬するゲーテやバイロンの戀愛詩ですら、尚我が萬葉等の和歌に比して著るしく説明的で、多くはその逢曳から接吻に至るまでを、活動寫眞的忠實を以て説明してゐる。

 或は又

 

  私がもし鳥であつたら

  君の窓にきて鳴いてゐたい

  私がもし鏡であつたら

  君の部屋にゐて美しい姿を映したい

 

と言ふ如き幼稚な比喩を用ゐて、遠廻しに美文的に敍述してゐる。之れを我が萬葉等の直感的で、率直に戀情の急所を突く詩風に比せば、その表現の無力にして齒痒いこと、尚未だ藝術として遠く及ばないものを感じさせる。けだし西洋の戀愛詩人は、戀そのもののメタフイヂカルな實相的本體を把握できないため、いたづらにその心臟の周圍を廻つて、之れを相對的な粉飾技巧や美文的比喩によつて描寫するためである。

 萬葉の戀歌は、かく世界的にみて最高至上の象徴主義に立つてる詩であるけれども、それのあまりに素朴なる特長は、同時にまたそれの單純にすぎる缺點を指摘される。藝術は單純より複雜に向つて進む。そして近代藝術における象徴の時代的意味(いかなる言語にも、それの不易的の意味と流行的の意味とがある。)は、本質上の意味以外に、近代性としての複雜性を要求される。即ち象徴主義の近代的特色は、何等か複雜微妙にしてデリカシイの情操に存してゐる。(世人は多くこの時代的意味の故に象徴の本質的意味を誤つてゐる。象徴の本質的意味は、前に説いた通りメタフイヂツクの絶對主義に存する故に、いかに單純素朴な藝術でも、東洋的本質を有する限りには勿論象徴と言ふべきである。萬葉の詩がこの本質的意味での象徴であることは言ふ迄もないだらう。しかし象徴の時代的意味に於ては、近代藝術の特色たる複雜性や神經の濃やかさが要求される故に、この點では原始の素朴藝術が、それの時代的意義をもたないことになる。つまり言へば萬葉の歌や能樂は、本質的には象徴主義の藝術だが、時代的の味覺をもつた近代象徴主義の藝術とは、その色合や特色がやや異るのである。この象徴の語に於ける時代的の意味と、不易な本質的の意味とは、充分注意して區別しないと、兩方の錯雜から大きな誤謬に導かれる。)

 そこで我が國の詩が、近代的意味における象徴の特色を有するやうになつたのは、萬葉以後、後世の古今や新古今に入つてからである。萬葉は素朴なる原始的象徴表現にすぎなかつたが、古今集以後に於て始めて感覺情緒の複雜なる、マラルメ等の所謂「陰影」「香氣」「餘情」等の入り混つた、近代的味覺における象徴詩が現はれてきた。

 此所に古今集の代表歌をあげてみよう。

 

  大空は戀しき人の形見かは物思ふごとに眺めらるらん

  をちこちのたつきも知らぬ山中におぼつかなくも呼小鳥かな

 

 萬葉の直情露出に對し、いかに言語が音樂的に使用され、それの縹渺たる匂ひの中に一種夢幻的な情緒を匂はせてゐる心が解るであらう。特に次の一首は全古今集を通じての絶唱であり、最もよくその象徴詩境を代表してゐる。

 

  ほととぎす鳴くや五月(さつき)のあやめ草あやめもわかぬ戀をするかな

 

 今は五月、初夏新綠の時が來た。ほととぎすは空に鳴いてる。あやめは地上に咲いてる。ああ、この浪漫的な季節! 何とも知れず不思議に人を戀したくなる。といふ意味の詩であるが、これほど美しく、これほど力強く、初夏の季節における微妙な情感を表出した詩は他にないだらう。詩における言語の音韻そのものが、何とも言へず縹渺たる感をあたへるので、詠吟してゐる中に自ら新綠のさはやかな空氣や、晴れた靑空のかぐはしさが感じられ、海のやうな旅情をさそふ季節のロマンチツクな感情がひしひしと迫つてくる。

 所でこの歌を文法的に解釋すると、一篇の意味の主題は下句の「あやめもわかぬ戀をするかな」にあるので、上句の「ほととぎす鳴くや五月(さつき)のあやめ草」は、下の「あやめ」といふ語を引き出すためのカケ言葉で、言はば三聯から出來てる長い枕詞と解せられる。しかしかく文法的に解釋しては、かうした歌の妙趣は全く消滅し、單なる言語の技巧的な洒落となつてしまふ。現に我が歌壇に於ては、此等の歌をかく文法的に判讀するから、淺薄にも古今集以後の歌風を小技巧として排斥するやうな蒙見がある。歌人却つて歌を知らずとは實にこのことだらう。

 言ふ迄もなくこの歌では、上句がそれ自ら五月の自然や景物を敍して居るので、文法の形式上では枕詞になつて居ながら、實際はそれが獨立した意味を有して下句に繫つてゐるのである。故にその意味の切れんとして切れず、續く如くして續かない所に、一種の微妙にして幽玄の感を漂はせるので和歌の象徴的テクニツクとして至れり盡せるものであらう。果して見よ! 之れが後に新古今集に至つて長足の發展をし、遂に後期の歌の中心的特色をなすに至つた。

 實に日本の和歌は、新古今集に至つてその藝術的發展の極致に達した。既に古今集にその芽をみた上述のテクニツクは、古今集に及んで完成の極美に達し、近代的意味における象徴詩の花を滿開させたのである。以下諸君の熟知する百人一首から、主として當時の代表歌風を引例しよう。(百人一首は主として新古今集から選ばれてゐる。他の歌集から取つたものでも當時の歌壇的美學を規準とし選んであるから、つまりそれが最もよく新古今歌風を代表してゐる。)

 

  陸奧のしのぶもぢずりたれ故に亂れそめにし我ならなくに

  みかき守衞士の焚く火の夜は燃えて晝は消えつつ物をこそ思へ

 

 この始めの歌を文法的に解釋れば、上句「陸奧のしのぶもぢずり」までは一の形容的枕詞である。即ち「たれ故に亂れそめにし我が心ぞ」といふ主想を言ふために、之れを他の物象で形容したのである。然るにこの文法上の形容が、それ自らまた主觀の複雜な心境を象徴してゐる。詳説すれば、この「陸奧のしのぶもぢずりたれ故に」の詩想や言語の音律やが、それ自ら荒寥たる東北地方の寂しい氣分と、さうした地方で製される亂れずりのやうに、草原の風に吹き亂れてゐ侘しい心緒とを感じさせる。そこにある荒寥たる、侘しく賴りない思ひと、その中に思ひ亂れてゐる心緒との、複雜無限な詩想が表出されてゐるのである。特に歌一首を貫く言語の音韻が、いかにも複雜に亂れてゐる心の樣を象徴してゐる。マラルメの言ふ「言葉の音樂」といふ意味も、正にこの境地の象徴主義を指すのであらう。

 次の歌もまた同樣であり、上句「みかき守衞士の焚く火の夜は燃えて」ま.では、文法の形式上からは下句の形容語であり、一の長い枕詞であるけれども、それが音には複雜な内容をもち、特殊な詩境を暗示してゐるのである。即ち寂しい邊境の沿海地方で、衞兵の焚いてゐる煙が空に立ちのぼつてゐる所の、一の印象的光景を一方に描出しながら、同時にその一方では、さうした寂しい自然の中に徘徊してゐる主觀の心境を歌つてゐるので、此所では上句の景色と下句の心境とが、言語のふしぎな祕密によつて結びつけられ、全く分離することのできない關係で重なり合つてる。

 

  これやこの行くも歸るも別れては知るも知らぬも逢坂の開

 

 この有名な蟬丸の歌は、言語の音律が現はす調べによつて、いかにもあわただしく、旅人等の東西に往來する關所の氣分を現はしてゐる。「これやこの」といふ性急な調子に始まり、行くも歸るもと「も」の字を重韻にして響かす所から、何となく賑やかにして慌しい往來の旅客を印象させるのである。この歌の如きは、所謂「言葉の音樂」の代表的なものの一つであらう。

 その他「足引の山鳥の尾のしだり尾のながながし夜を獨りかも寢む」の如き、人麿の歌ではあるけれども、歌風の上からは當然新古今集に入れらるべきで、その詩の音韻そのものが秋夜孤獨の長い時間觀念を現はしてゐること言ふ迄もない。(前述した私の形容詩體も、實は此等新古今から學んだのである。)

 以上、日本詩歌の特色たる象徴主義の大要を説明した。今や吾人は、盲目的なる西洋心醉の夢からさめて、民族的に日本主義の精神を自覺しなければならないだらう。我々の古き國粹詩歌の中から、我々のよつて立つべき新しき民族詩の精神を發見すること、之れまた我が日本語詩壇の急務である。ただ我々は、新しき世界を建てるために古き世界を見るのである。古き錆の中に古き古雅を愛するのは、未だ我が「若き詩壇」の必しも據るべき所ではないと思ふ。

 

[やぶちゃん注:『日本詩人』第六巻第十一号・大正一五(一九二六)年十一月号に前の二作「靑猫スタイルの用意に就いて」「象徴の本質」とともに掲載された。後に「詩論と感想」(昭和三(一九二八)年二月素人社刊)に所収された。底本は筑摩版全集第八巻の校訂本文を用いた(校異を見る限り、「詩論と感想」版には表記上の誤りが多いため)。また、引用された詩歌の内、幾つかに疑義がある。

 まず、芭蕉の、

 

× 何にこの師走の町へ行く鴉

 

であるが、この句は「花摘」に、

 

〇 何に此(この)師走(しはす)の市(いち)にゆくからす

 

で初出し、朔太郎の引用に最も近い「生駒堂」所収のものでも、

 

〇 何に此師走の市へ行(ゆく)鴉

 

で、「泊船集」でも、

 

〇 何をこの師走の市を行からす

 

であり、総て「市」であって「町」ではない。朔太郎は後の『コギト』第四十二号・昭和一〇(一九三五)年十一月号に掲載された初出の「芭蕉私見」(昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の巻末に配された「附錄 芭蕉私見」に改稿して所収)でも一貫してこの誤りを踏襲してしまっており、朔太郎がこの誤ったものを頑なに思い込みしていた事実が解る(「頑なに思い込みしてい」るというのは、この誤りを萩原朔太郎に指摘したとしても何となく彼は直さないような気がするという点に於いて、である)。

 

 次に「古今和歌集」の「卷第十一」の冒頭「戀歌一」の巻首を飾る「よみ人しらず」「題しらず」の和歌(「国歌大観」番号四六九)である、

 

× ほととぎす鳴くや五月(さつき)のあやめ草あやめもわかぬ戀をするかな

 

は、

 

〇 郭公(ほととぎす)鳴くや五月(さつき)のあやめ草あやめもしらぬ戀もするかな

 

が正しい。なお、後の「初夏の詩情」(昭和一六(一九四一)年)では正しく引用している。

 

 次に同じく「古今和歌集」「卷第十四」「戀歌四」の「河原左大臣」源融の和歌(「国歌大観」番号七二四)である、

 

× 陸奧のしのぶもぢずりたれ故に亂れそめにし我ならなくに

 

は、

 

〇 陸奧(みちのく)のしのぶもぢずり誰(たれ)故に亂れむと思ふ我ならなくに

 

が正しい。

 

 最後に、「詞花和歌集」「卷第七」「戀上」に載る「第不知」の「大中臣能宣朝臣」の和歌(「国歌大観」番号二二五)である、

 

× みかき守衞士の焚く火の夜は燃えて晝は消えつつ物をこそ思へ

 

は、

 

〇 御垣守(みかきもり)衞士の焚く火の夜(よる)は燃へ晝(ひる)は消えつつ物をこそ思へ

 

が正しい。]

夜に入り空曇る。船にかへり甲板にて釣を見る 六首 中島敦 (「小笠原紀行」より)

   夜に入り空曇る。船にかへり甲板にて釣を見る


暗き夜を橘丸の舷側にアセチリン燃し釣る男あり


[やぶちゃん注:この詞書によって船中泊であったことが分かる。

「橘丸」は、この前年の昭和一〇(一九三五)年六月に商業航海を行ったばかりの東京湾汽船(現在の東海汽船)所属の、「東京湾の女王」と呼ばれた大型貨客船橘丸(一七七二トン/全長八〇・四〇メートル/型幅一二・二〇メートル)か。だとすると、ウィキ丸」にあるように大型船であったがために、当時の下田港(昭和一二(一九三七)年の岸壁の完成まで)や伊豆大島(昭和一五(一九四〇)年の岡田港完成まで)の港湾施設には「橘丸」は接岸が出来なかったとあるから、父島でもそれらの当時の港と同じく橘丸を沖合(恐らく二見湾内)に止めて交通船で往来していたものと考えられる。

 この二代目橘丸(一代目は同じ東京湾汽船が大正時代に建造し運航していた三九二トンの小型貨客船)については――見当違いであろうと脱線であろうと――どうしても語っておきたい(読めば何故かお分かり頂けるであろう。その戦時下の悲惨な運命以外にも、今一つ私好みの理由があるからである)。この橘丸は戦時中、陸軍病院船として徴用されるが、昭和二〇(一九四五)年八月三日、バンダ海を航行中に国際法に違反して部隊・武器輸送していたことが発覚、アメリカ海軍駆逐艦によって拿捕され(橘丸事件)、日本陸軍創設史上最も多い約一五〇〇名が捕虜となっている(この前後はウィキ橘丸事件に拠った)。五日後の八日に橘丸はモロタイ島に、敗戦前日の八月十四日にはマニラに入港、乗組員もモンテンルパ収容所に収容された(終戦後に安田喜四郎船長を除く乗組員は無罪として釈放されている)。その後、橘丸はパラオからウェーク島に回航され、ウェーク島からの復員船として復員兵の第一陣となった七〇〇名を乗せて十月二十日に浦賀に帰投した。その後の復員船としての活動は昭和二三(一九四八)年頃に終わり(ここから以下はウィキ丸」に拠る)、病院船としての設備を取り払った上で昭和二五(一九五〇)年二月二十三日付で東海汽船に戻った。大島航路に復帰後の「橘丸」は観光事情の回復とともに、漸く本来の実力を発揮するようになり、伊豆大島との往復の他に納涼船としても使用されたりした(あの昭和二九(一九五四)年の「ゴジラ」に登場する東京湾上の船がそれだ!)、その後も昭和三七(一九六二)年八月二十四日の三宅島噴火では海上自衛隊の護衛艦「わかば」などとともに避難民輸送に従事した。昭和四八(一九七三)年一月、初代「さるびあ丸」(三〇四九トン)の竣工に伴って引退した。就航から引退までの三十八年間に橘丸が運んだ乗客数は凡そ八百万人を数えたとある。その中の一人が中島敦だった(と無理矢理締めくくっておく)。]


アセチリンの光圈(くわうけん)の中に一本のつり絲垂れて下は夜の海


忽ちに水湧きさやぎ絲張りて手強(てごは)きが如し引きに引けども


跳(は)ね狂ひ濡れ光りつゝ船腹を尾もて叩き打ち上りくる魚


とび跳ねて喰ひつかむずる猛きもの虎鮫の仔と聞けば恐しき


[やぶちゃん注:「虎鮫」トラザメという標準和名は現在、軟骨魚綱板鰓亜綱メジロザメ目トラザメ科トラザメ Scyliorhinus torazame を指す(日本固有種で伊豆半島周辺海域にしか見られないイズハナトラザメ Scyliorhinus tokubee・英名“Izu cat shark”という種もいる。外見はトラザメに似るがトラザメよりも背部の小さな白色の斑点が有意に多い)。成体の体長は五〇 センチメートルで円筒形で鰭は小さい。二基の背鰭が体の後方にあり、体色は全体的に茶褐色を呈し、 “Cloudy catshark”という英名が示すように黒褐色の雲状斑紋が幾つかあり、それよりも小さな白斑が多数見られる(この模様は生活場所の岩や石の多い環境に溶け込むための擬態と考えられている)。底生性の夜行性で、日中は岩の間などに身を潜めて凝っとしており、夜になると餌を求めて遊泳する。卵生でトラザメ科ナヌカザメ(七日鮫)Cephaloscyllium umbratile (和名は生命力が強く水から揚げても七日間生きているとされることに由来)などと同様、大きさ五センチメートルほどの、半透明な竪琴状をした卵殻の中に胎仔が入っている『人魚の財布』と呼ばれる特徴的な卵を産む(リンク先画像を参照。外側の袋の端には蔓状の構造物があって、これで海藻などに絡みついて卵を固定しする。サメの胎仔は卵黄の栄養分を使いながら卵の中で約一年かけて成長、五 ~一〇 センチメートルの大きさで孵化する)。性格はおとなしく、人を襲うことはない。丈夫であまり泳ぎ回らず、小型種のため水族館は勿論、一般家庭での飼育にも適している、とウィキトラザメ」にある。しかし――この記載を読めば読むほど、私にはどうも違和感が増大してくるのである。――ここで中島敦が「虎鮫」と言い、「忽ちに水湧きさやぎ絲張りて手強」くて、「引きに引けども」なかなか揚がらず、「跳ね狂ひ濡れ光りつゝ船腹を尾もて叩き打ち上りくる魚」――「とび跳ねて喰ひつかむずる猛きもの」――それは「虎鮫の仔」であると船員が言う――それを見「聞けば恐し」く感じ、次歌のような血が飛び散った凄惨図となり果てるのは――本当に――トラザメ Scyliorhinus torazame なんだろうか?――という素朴な疑惑である。するとウィキの記載の最後が眼に入る。『トラザメ類は英語でCatshark (キャットシャーク)であり、Tigershark (タイガーシャーク)ではない。Tigershark と言うと本種とは反対の獰猛な大型種イタチザメになる。このように、サメの名前は日本語を英語に直訳しても通じないばかりか、別のサメを指してしまうことが多い。(例として同じメジロザメ科のツマジロは英語にすれば、Whitetip reef shark だが、海外ではSilvertip shark の事を指す。)』『因みにCatsharkを日本語に直訳すれば「ネコザメ」だが、日本でネコザメといえばまた別種のサメになる。ネコザメの海外名は bullhead shark で、”牛頭鮫”という意味になる』とある。私ははたと手を打った。これは船員がこれを英名で「タイガー・シャーク」と言ったのを、そのまま訳したのではあるまいか? 則ち、この「虎鮫」はトラザメ Scyliorhinus torazame ではなく、『人喰い鮫』の一種で、熱帯地方では最も危険なサメとされているメジロザメ科イタチザメ Galeocerdo cuvier のことを指しているのではあるまいか? 私はこれら一連の短歌はイタチザメであってこそ鮮烈でリアルになると思うのであるが、如何であろう?]

棍棒もて打ち殺されし鮫の仔の白き腹濡れて淡血(うすち)流れゐる

馬にゆられて 大手拓次

 馬にゆられて

すべてのよは
いただきのうつろからのがれ、
おひすがる雪をはらひ、
なめらかに靑いほのほをうつす馬にゆられて、
砂原のとほきをとぼろとぼろとゆく。

鬼城句集 夏之部 孑孑

孑孑    孑孑の浮いて晴れたる雷雨かな
[やぶちゃん注:「孑孑」孑孒とも書く。ボウフラは水面に雨が降ってきたりして何らかの震動が起こったり物の影がさしたりすると、危険を察知して沈む。因みに呼吸する際には尻にある呼吸管を使って呼吸するために倒立しているが、沈む際には頭が上となる。また、呼吸管の近くには尾葉と呼ばれる鰓と相同の器官(鰓とする叙述も多い)があるが、これは呼吸に用いらるのではなく、体内の塩分調整に使われると考えられているようである。]

2013/08/05

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第七章 江ノ島に於る採集 24 ホイスト・ゲーム / 松浦佐用彦のこと

 昨晩私はカルタで不思議な経験をした。学生達が私のところへやって来て、その中の一人が、私の「君達はウイストを知っているか」という質問を、了解する丈の英語を知っていた。出来ると思う者もいたので、私は椅子若干を工面し、円卓を片づけて、さて札をくばって見ると、彼等が札の価値さえも知らぬことがわかった。彼等はジャックと女王とを区別するのにさえ骨を折った。私の質問が誤解されたのである。カードとウイストとは同意語であるらしい。だが、彼等は即座にこの遊戯に興味を待った。勿論それは無茶苦茶だったが、然し私は学生達が気がよくて丁寧なのをうれしく思った。椅子は彼等を痛めたらしく、しばらくすると彼等は畳の上に坐るように、椅子の上に坐って了った。

[やぶちゃん注:「ウイスト」原文“whist”。ホイストとはイギリスを発祥とするトランプを用いたナポレオンに似たゲームの一つ。四人が二人ずつ二チームに分かれて勝敗を争う。現在はあまりプレイされることはないが、十八世紀から十九世紀にかけて流行した。ブリッジの元になった伝統的なゲームだそうである。私はこうしたゲーム類には疎いのでウィキの「ホイスト」を参照されたい。]

 

 今日松浦という、はきはきした立派な男が、大学の特別学生として私に逢いに来た。松村及び料理番と石油ランプを二つ持って、例の洞窟を訪れ、ランプの光で洞窟蟋蟀(こおろぎ)その他の昆虫をかなり沢山採集した。これ等はすべて石の下や、古い材木の下にいるのと同じような、薄明の形式をしていた。

[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、これはやはり八月下旬の出来事である。先に示した同時期の東大の下見の記載の直後に、『同じ頃、松浦佐用彦(まつらさよひこ)が江ノ島に来た。佐々木忠二郎とともに生物学科第一回生となって秀才。モースはこの松浦と松村を伴って洞窟を再訪、昆虫類を採集している』とある(『佐々木忠二郎』とは後の昆虫学者佐々木忠次郎(安政四(一八五七)年~昭和一三(一九三八)年)。近代養蚕学・製糸学の開拓者)。上谷桜池氏の「谷中・桜木・上野公園裏路地ツアー」(非常に優れたサイトである)の「谷中墓地」に松浦佐用彦墓碑の詳細が載る。HP下部に『そう遠くない将来当サイトを閉鎖する予定です。何の保証も致しかねますがソースフリーですので、ご利用ください。』とあるので、全文と画像二枚(墓碑と裏面のモースの献辞文)を引用させて頂く。この場を借りて上谷桜池氏に感謝申し上げる(病気療養中とのこと、どうか御大切に)。なお、この没年は誤りで彼の死(病死)は翌明治一一(一八七八)年のことである(磯野先生別論文により確認。これではモースは松浦の幽霊と洞窟探検したことになってしまう)。

   《引用開始》

松浦佐用彦(まつうらさよひこ) 安政4年~明治10年7月5日(一八五七―一八七七)

大森貝塚発掘者モースの助手・東京大学創生期の動物学者。名、佐譽彦。高知県出身。明治10年(1877)モース博士がアメリカから来日し、東京大学の教授となると、モース教授の動物学教室に集まった俊才の一人。モースと共に大森貝塚を調査する。病気のため学生のときに没する。

墓は、谷中霊園乙6号2側。正面「高知県松浦左用彦墓」。東京大学有志により建てられた。裏に、モースの献辞文が英語で書かれている。モースが遺した唯一の石碑である。墓碑裏には、享年22歳とある。

 

A Faithful student, a sincere freiend. a lover of nature. Holding the belife that in moral as well as in physical questions. "The ultimate court of appeal is observation and experiment, and not authority" Such was Matsura. Edward S. Mors

 

「忠実な学生、誠実な友人、自然を愛する人。モラールにおいてのみならず物質的な問題でも“最後に訴えるべき所は、権威ではなく、観察と実験だ”との信念を持ち続けた。これが松浦だった。

 

谷中墓地で関係のある人々は、外山正一、矢田部良吉、石川千代松、田中芳男。

Matsuurasayohikoa_4
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        モースの献辞文


   《引用終了》

この献辞……とってもいい。

21歳の青年学徒……たった一年付き合っただけの、かのモース先生から……これだけの賛辞を受けたプエル・エテルヌス(永遠の少年)……

「薄明の形式をしていた」原文“They were all twilight forms”所謂、真洞穴性生物(ここでの“twilight”とは薄明とか微光という名詞ではなく、闇に包まれたという形容詞であろう)の形態を指している。例えば体色の白化傾向・眼の退化(及びそれに伴う触覚等の別器官の発達や触覚器官としての付属肢の伸長)・外骨格の薄化・新陳代謝率の低下と動作の緩慢性等を指していよう。]

象徴の本質 萩原朔太郎

  象徴の本質

 前項で象徴のことを述べたから、序でに象徴の本質を一言しよう。けだし日本の詩壇では、早くから象徴詩の語が輸入されたにかかはらず一もそれに關する眞の觀念がなく、皮相な上すべりの解説のみが行はれた爲、ひいてこの語の本質を全く誤り、遂には一種朦體なる特殊の詩などを、詩壇的に象徴詩などと呼ぶやうになつてしまつた。最も甚だしき謬見に至つては、高踏派などのクラシツクの詩風さへも、一概に象徴派と呼ぶ人がある。何たる馬鹿馬鹿しい謬見だらう。我が詩壇に於て「象徴」の語が誤られて居ること、實に久しいと言ふべきである。
 思ふに我が詩壇に於て、かく象徴の語が偏見されてゐるのは、最初にそれを輸入した詩壇が、盲目的西洋崇拜の詩壇であつて、かの國におけるマラルメやイエーツの象徴詩論を、そのまま直譯的に擔ぎあげた結果である。成程象徴(シムボル)といふ言葉は、昔の日本には無かつたからして、それが西洋人の發明であることも、したがつてその直譯が合理的であるべきことも考へられる。しかしながら反省せよ。元來歐洲における近代の象徴主義は、東洋文化の間接な影響から、新しく刺激された彼等の新觀念に屬することを。
 そもそも象徴といふ語の廣い觀念は、説明と對照される言語である。十字架がキリスト教の象徴であるといふわけは、それが説明によらずして表象に訴へるからである。自分は前の項に於て、比喩と象徴とを區別して説いたけれども、象徴といふ語のずつと一般的な意味に於ては、もちろん比喩も寓意も廣義の象徴に屬してゐる。ただその中に、純と不純との程度があるから、純粹象徴に屬するものを特に言ふ場合に、之れを比喩や寓意と區別して考へるのである。
 所で西洋のあらゆる文化や藝術は、本質的に説明主義のものであつて、純の象徴に屬するものは殆んどすくない。説明とは、事物や觀念を部分に分析して之れを概念上に配別する方法である。即ち科學はそれの代表的なものであつて、之れが實に西洋文明の本質を象徴してゐる。哲學と稱するものが、また同樣にさうであつて、失張科學と同じく概念を抽象上に分列系統する。
 ここで所謂哲學のことを一言しておかう。けだし彼等は自ら稱してそれを形而上學と稱してゐるから。然るに眞の形而上學といふべきものが、果して西洋にあるだらうか。西洋のあらゆる思想は始めから相對主義の立場に立つてゐる。もし絶對主義の見地に立てば、一切概念を超越した色即是空の思想に達し、或は不立文字の禪學的直觀主義になつてくるから、始めから科學も哲學も生じない。或は印度における如く一種の哲學はあるにしても、その哲學は直感による冥想で、西洋の如く專ら概念の抽象的分析を試みる所謂哲學とは別物である。
 かくして西洋の所謂哲學は、最初から相對主義の見地に立つて概念のみを取り扱つてゐる。然るに概念的である限りには、物それ自身の本有する形而上的精神に觸れないのは當然である。何となれば實有は相對の概念でなく、概念を超越した絶對の世界に屬するから。故に眞の意味でのメタフイヂツク(形而上學)と言ふべきものは、ただ東洋にのみ存在するのである。西洋の所謂形而上學は、その實一種の概念分析學であり、當然廣義の科學に屬するものに外ならない。
 かくの如く、西洋文明は科學と哲學に立脚してゐる。あらゆる精神の根據は概念であり、その自然觀人生觀の基調をなすものは相對主義である。したがつて彼等の情操生活を表現する藝術も、當然また相對的説明主義の傾向を帶びざるを得ないだらう。果して見よ。彼等の繪畫がいかに入念にデテールを描き、いかに寫實的の説明主義であるかを。之れが我々の東洋と、いかに本質的にちがつて居るだらう。我々の支那や日本では、視覺に映した物象の「形」を描寫しないで、感覺以上の實在する物の精神、即ちその物の特質たる強みや、厚みや、直情性や、艷めかしさや、さらにまた進んでは自然の中におけるそれの氣品とか、寂しさとか、餘情とかといふ深いものまで描出する。だから我々の繪畫における物象――竹とか、虎とか、風景とか――は、その寫眞的デテールの形象描寫で、到底西洋の油繪に及ばないが、その事物が有する形而上の精神を把捉して、よく竹の本質たる剛直性、虎の本質たる勇猛性を表現する點で、逢かに説明的の洋畫にまさつてゐる。けだし東洋畫に於ては、線は形の描寫に用ゐないで、物の實有する特質を現はすべく、專ら筆致の柔強等に重きをおくからである。つまり言へば、彼が形象の説明によつて現はす所を、我は線の感觸によつて象徴的に描出する。
 獨り繪畫ばかりでなく、他のあらゆる藝術が皆同樣である。たとへば劇がまたさうである。西洋の劇は徹頭徹尾寫實的で、人生の生活樣式をその視覺や聽覺に映ずる通りに全く形象的に説明して演出する。然るに日本の能樂や歌舞伎劇は、かかる感覺的な形を演出しないで、それの本質に實有する氣分や情感を直接に象徴する。けだし西洋人の藝術觀は、すべてが皆感覺主義である。彼等はその視覺や、聽覺や、觸覺にふれる所の、すべての外在的事物をその感覺のままに描出する。したがつてそれは形の上で實在によく似てくる。しかもその眞は單なる感覺である。皮相な末梢神經に映る形象の眞である。之れに反して東洋人は、事物を感覺的に見ずして精神的に見る。即ち所謂「眼で見ないで心で見る」態度を持し、形を輕視して内部的に實在する眞の本質――形以上のもの、形而上のもの――を直感する。彼の感覺主義に對して、我は即ち精神主義であり、彼の説明的なるに對して、我は即ち象徴的である。
 詩に於ても、この事實はまた同樣である。ホーメルの敍事詩以來、西洋の所謂「詩」といふものが、いかにくどくど念入りに説明する寫實的の文學であることぞ。敍事詩はこの場合別としても、敍情詩が矢張同樣に一種の小説である。古代西洋の詩といふものは、我々日本人の所謂小説や傳記であつて、東洋的意味では詩といふ言語に適應しない文學である。近世に至つて、漸く始めて出來たバイロンやテニソンの短篇詩と雖も、尚我々の眼から見れば一種の短篇小説であり、詩といふべくあまりに記述的、説明的の文學でありすぎる。西洋の詩がいくぶん始めてその説明體を脱したのは、最近十九世紀末葉に例の象徴詩が起つて以來のことである。
 所がこの俳蘭西の象徴詩といふ奴が、我々日本人の眼からみれば實に生ぬるい似而非象徴で、全くはむしろ比喩や寓意の程度にしか屬して居ない。特にマラルメ一派の象徴なるものは、言語の陰影とか香氣とかいふ觀念を、特に意識的に詩の中に織り込んでゐるのであつて、眞の「象徴そのもの」ではなく、むしろ概念されたる「象徴の詩學」である。即ち象徴そのものの實在に入つてゐるのではなく、之れを外部から認識して相對的に説明してゐるのである。象徴を稱へながら、しかも尚且つ彼等はその象徴を概念してゐる。西洋人は遂にどこまで行つても西洋人なる哉だ。かく要するに、彼等の象徴詩及び象徴主義なるものは、一の不徹底にして曖昧なる觀念にすぎなかつた。けだし當時に於て、始めて發見されたこの東洋的メタフイすヂカルの新觀念は、彼等にまで一の廻轉されたる新しき藝術の世界を示したもので、それ自身が極めてセンセーシヨナルなる「物珍らしきもの」に屬してゐた。したがつてそれは、充分に本體の解明されたものでなく、むしろ曙光的な輪廓のみが、おぼろげに暗示されたものであつた。之れ象徴といふ語が、當時の意味に於て何等か神祕的な、宿命的な、或る東洋的妖怪然たる魔法のメスメリズム的鬼氣を帶びて居たことによつても明らかだ。(象徴といふ語が、今日でもしばしば神祕的意味の聯想を伴ふのは、貰にかうした言語的起原に原因する。勿論その本體が解明してゐる今日では、何の神祕でもエリキシイルでもありはしない。この語感に伴ふ神祕性は、既に既に消滅させて好いのである。)
 歐洲の象徴主義が、眞にその觀念を明らかに解明し、したがつて眞の意味での象徴文學を生じたのは、全くこれより後、漸く昨今に至つてのことである。即ち最近詩壇の印象派、未來派、立體派、表現派等の藝術こそ、實に象徴主義の解明された本質に立脚するもので、此所に始めて歐洲にも、東洋と一味相通ずる近代派の敍情詩が生れてきた。特に獨逸表現派の立脚地は、歐洲における最も解明された象徴主義を代表してゐる。彼等は言ふ。
「表現派は一つの美的な言葉も無用な文句言はない。どうしても必要なことだけを、できるだけ緊縮して言ふのである。一つの言葉は、他の言葉の中にその根をもつてる。言葉はそれ自身としては存在せずに、それが召使ひとなつてる所の、言葉の觀念のためである。……表現派は、できることなら、全く言葉なしで表現したいのである。」(イヷン・ゴル。谷京作氏譯)
 この表現派の精神こそ、それ自ら象徴主義の根本美學を語るもので、同時にまた日本詩歌の表現哲學を代辯してゐる。實に我が國の和歌や俳句の立つ所は、一の無用な言語も言はず、一つの粉飾的な美辭も用ゐず、あらゆる心象の實有性を直ちにつかんで、表現の最高度における緊縮を主とするのである。しかし之れに就いては、尚後の章に詳説しよう。とにかく象徴主義の本質が、東洋的藝術の根據する特色にあること、したがつて表現派を始め、印象派、立體派、未來派等、西洋近代のあらゆる詩風が、本質的に我々のものと接近つつある事實を明示し得るのである。
 此所で歐洲十九世紀詩壇の所謂「象徴派」と、廣義の象徴詩たる近代詩(印象派、表現派、未來派)との、根本的な特色が區別されたことと思ふ。十九世紀詩壇の所謂象徴詩とは、前に言ふ如くシムボリズムの物珍らしき曙光期に出たもので、したがつてその詩風の特色には、象徴といふ言語における不可思議な魔術的鬼氣、即ち神祕性や、暗示性や、幽靈性や、東洋的宿命性やが、殆んどその著るしい特色となつてゐるのである。之れに反して、その後に發展した開明後の象徴詩(即ち一般近代詩)は、象徴主義の根據に立つて居ながら、象徴の語の起原にまつはるかかる神祕感を持つて居ない。
 故に詩壇の所謂「象徴詩」と、實の「象徴主義の詩」とは、判然と之れを差別して考へなければならない。所謂象徴詩とは、象徴の語における起原的語感を考へる場合のみ、正しきその語意を判斷され得る。即ちそれは、或る特殊な意味における、特殊な狹い内容の象徴詩である。したがつてこの意味での象徴詩は、この時代的詩派に屬するものであつて、今日既に歐洲では過去に屬するものとなつてる。しかもこの詩派によつて暗示され、後に漸く本體を解明してきた象徴主義、及びその主義による一切の藝術は、その各の詩派的特色を別として、根本上には普遍恆久の精神に立つものである。
 要するに歐洲詩壇の所謂「象徴詩」と「象徴主義そのもの」とは別である。前者は特殊な一詩派の一詩風に屬するもので、後者は一般のあらゆる近代藝術に共通する哲學である。(日本詩壇で言はれた所謂象徴詩は、之れまた歐洲詩壇のそれと大いに趣きを異にしてゐる。日本詩壇の意味した象徴詩は、概念上にマラルメ等の説を直譯に紹介したが、實の藝術的作品の上からは、殆んど多くは象徴詩の名に價しない別のものであつた。)
 かく西洋の藝術が、近來始めて象徴主義の新表現を知つた結果、次第にそれが我々のものに近づいてくるとは言へ、尚矢張西洋人らしい感覺主義がつきまとつて、實には未だ遠く眞のメタフイヂツクに入つて居ない。たとへば例の立體詩など言ふも、その立體なる言語の解釋が全く視覺上のものであつて、實の本質的なる立體の精神をつかんでゐない。即ち詩語をビラミツド的形態などに配列して、皮相な視覺上からそれを立體と思つてゐる。その稚氣、その子供らしさ、むしろ我々に取つて無邪氣な笑殺に價する。畢竟西洋人は感覺以上の世界に入ることができないからである。
 しかしながらとにかくにも、最近西洋のあらゆる文化が、著るしく東洋化して來つつあることは事實である。獨り詩ばかりでなく、美術、音樂、哲學等の一切が、東洋的メタフイヂカルの精神に接近し、したがつて甚だしく象徴主義になつて來た。例へば繪畫の如きも、日本の浮世繪の影響からして、例の後期印象派が生れてきた。この美術における後期印象派は、丁度詩における象徴詩の連動と一對すべきものであつて、歐洲藝術における近代精神――即ち象徴主義――の新しき精神を始めて展開したものである。即ちたとへば、ゴーホは自然を描出するに視覺上の形象説明を用ゐないで、太陽の熱に燃える線の感じなどから、感覺以上の本有する自然の内奧精神を現はしてゐる。セザンヌがまた同樣であり、物象の輪廓する形や色を寫生しないで、物それ自體が特有する内在本質、即ちそれの厚み、深み、硬さ、柔らかさ等を直接に摑み出してる。そして此等のやり方が、すべて支那畫や日本畫の固有な表現精神であること言ふ迄もない。
 かくして、今や次第に世界全體が象徴主義の文化にならうとしてゐる。
 以上述べた所によつて、所謂「象徴」といふ語の本體が明らかになつたであらう。即ちそれは相對主義に對する絶對主義に根據してゐる。したがつてまた形體主義に對する形而主義、概念に對する直感、感覺に對する精神、説明に對する暗示を指してゐる。故に要するに東洋の文化や藝術は、西洋のそれに比してすべて皆象徴である。そしてまたその中でも、能樂は歌舞伎に比してより一層象徴的、墨繪や南畫は浮世繪に比して特に純象徴的であることも解るであらう。
 最後に、象徴に關する最も根本的な、しかも最も普遍的に行はれてる世の謬見を啓蒙して、この觀念の本質を徹底的に明らかにしておかう。けだし世の多くの人は、象徴について次のやうな考へを抱いてゐる。曰く、象徴とは物の實體を描く代りに、それの影を以て代表させる手段であると。即ち實體の代りに符號を用ゐて現はすのが象徴だと。かうした皮相の淺見が、今日一般的に普遍してゐるのは、むしろ驚くべき事實である。もし果してそれが象徴ならば、所謂象徴とは實體なき幽靈術、物を描かずしてそれの影を描く朦朧藝術の謂である。そして尚且つ象徴とは、實數の代りに符號を用ゐる代數であり、それ自ら純粹に抽象的な概念に屬するだらう。しかも我が國の能樂や芭蕉の俳句――人々はそれを象徴の代表と見てゐる――が、果してそん虛數的な幽靈藝術であるだらうか?
 かうした思想の根抵には、思ふに一の基調的な誤謬がある。即ちこの場合での「實體」といふ觀念が、そもそも始めからちがつてゐるのだ。此所で彼等の指してる實體とは、物が五官に感覺する所の、その末梢神經的なる現象界を意味する。たとへば眼に映るままの器物の形、手に觸るるままの存在、それが即ち彼等の所謂實體なのだ。しかもそれが果し實體だらうか? もし實體とするならば、そは單なる感覺的な實體――現象的事物――にすぎぬ。なぜならば器物の眞の本有性は、かかる皮相の形や色になくして、それの内部に實在する眞の性質――感覺ではなく、心眼に映ずる器物の特色、たとへばセザンヌの繪がそれを示して居る――にあるからだ。眞の意味での「實體」とは、實にかうした物の形而上的本質に存するのだ。
 然るに象徴主義の目的は、物の皮相な形象や事物を捨てて、直ちにそれの實有する形而上的本體をつかむのだから、それ自ら眞の意味での「實體を描く」のである。「實體を描かずして影を描く」のは、實には却つて説明主義の藝術である。何となれば彼等は、事物の内在的本性を見ることなくして、單に寫眞器のレンズに映じたままの事物の形象――影の影――のみを描くから。象徴を以て「物の影を描く朦朧藝術」「實物の代りに符號を用ゐる代數藝術」とする考へほど、思想の根本に於て誤つた見解はない。
 しかしかうした見解が生ずる所由は、所詮「實體」といふ觀念の立て方によるのである。吾人は絶對主義の見地に立つて、形而上的本質を宇宙の眞理と認める故に、しぜん實體は象徴の側に屬する。然るにもし相封對主義の立場に立つて、物質世界の感覺的現象を眞理とすれば、反對に「實體」は形而下の物に屬し、したがつて象徴はそれの影となつてくる。故に始めから相對主義の哲學に立ち、唯物的概念によつて思想する西洋人が、象徴を解して「實體の影を描くもの」と見たのは當然である。實に彼等は、始めから非象徴主義の立場に立つて、象徴の概念を考へてゐるのだ。故にその思考は、いかにしても象徴の眞核に徹底せず、進めば進むほど誤つてくる。
 前に述べた朦朧美學の象徴詩人――彼等は象徴の特色を朦朧にありと解してゐる――が、かうした誤つた西洋人の象徴觀から出たものであることは、此所に至つて全く明瞭になつたであらう。この朦朧詩派の根柢には、象徴が「實體を描かずしてその影を描く」といふ先入見が根を張つてゐる。所が眞の象徴詩人たる芭蕉等は、常に如何にして物の實體を把へようかといふ觀念で動いてゐた。一方では、強ひて物の影を描かうとして苦心し、一方では物の確實な實體を捕へよと弟子に教へてゐる。いかに不思議にして奇妙なコントラストだらう。けだし西洋象徴派では、始めから「實體」の觀念を感覺的事物に置いてるから、實體を避けて影を見よといふ意味が、實は芭蕉の教へる「實體をつかめ」といふ形而上的意味になるのである。以ていかに西洋の所謂象徴的なるものが、本質的精神に於て非象徴主義的であるかが解るであらう。彼等は始めから象徴を以て幽靈的な虛數と見て居る。なぜならば、それは實體でなくして影であるから。
 かうした西洋人の象徴觀が、我々にとつて全く不徹底で馬鹿馬鹿しいものであることは言ふ迄もない。しかもベルグソンの如き哲學者ですら、彼自身が眞のメタフイヂツクを説く哲學者、即ち言はば象徴主義の哲學であるにかかはらず、その著に於て象徴の語をひどく排斥してゐる。何となれば象徴は事物の陰影であり、實體でなくして虛數であり、實體でなくして符號あるからと言ふのである。之れによつてベルグソンは、象徴の語をそれの丁度正反對の意味、即ち「概念」や「抽象」と同じに使つてゐる。けだし象徴を實體の符號と考へる以上には、必然的にそれは概念と同じ意味の言葉になる。そしてベルグソンのかうした鮮釋は、もちろん佛蘭西の象徴詩から得たものだらう。なぜならばその派の詩論は、象徴を以て上述の意味に解してゐるから。吾人は彼藝洋人の象徴觀を笑殺し、さうした藝術の馬鹿馬鹿しさを痛感する。しかも尚一層、それにもまして馬鹿馬鹿しく笑殺すべきは、この不徹底にして不可思議なる西洋詩壇の象徴評論を直譯して、それを聖典の如く我々の頭上に戴かうとした、前代日本詩壇の所謂象徴派詩人である。
 象徴と言ふ語の眞の本質的解説は、之れより外に斷じて有り得ない。かの象徴を朦朧と解る如き見解の、いかに淺薄皮相な偏見であるかは言ふまでもないであらう。けだしかくの如き偏見の生じた所由は、當時の舊式なるハルトマンあたりの美學や、當時歐洲に流行した一派の朦朧哲學――美は朦朧の中にありと説く――に影響され、之れを發生期の不徹底な象徴思想と混同した結果に外ならぬ。
 今や我が詩壇は、眞の象徴の觀念を固く把持して、過去の謬見されたる幽靈概念を廢除しなければならないだらう。けだし眞の象徴は、それ自ら藝術の根據する本質であり、特にまた我々の立つべき民族的根據でなければならぬ。實に象徴主義の精神を離れて近代詩の特色はなく、就中特に日本の詩の特色はないのである。尚次章に於て、日本詩歌の象徴的特質を一言しよう。

[やぶちゃん注:『日本詩人』第六巻第十一号・大正一五(一九二六)年十一月号に、前の「靑猫スタイルの用意に就いて」の後、次の「日本詩歌の象徴主義」の前に掲載された。後に「詩論と感想」(昭和三(一九二八)年二月素人社刊)に所収された。底本は筑摩版全集第八巻の校訂本文を用いた(校異を見る限り、「詩論と感想」版には表記上の誤りが多いため)。
「エリキシイル」“elixir”錬金術で言う不老不死の霊薬。]

峠を下りて大村に歸り夕餐をしたたむ 五首 中島敦 (「小笠原紀行」より)

      峠を下りて大村に歸り夕餐(ゆふげ)をしたたむ
波の音夕べ淋しき島根にも料理屋ありて女化粧(けはひ)す
懶(ものう)げに鯨肉(くぢら)の刺身運びくる女の潰島田(つぶし)しどけなげなり
[やぶちゃん注:「潰島田」「つぶししまだ」の略称。女性の髪形の一つで島田まげの根もとを短くして髷(まげ)を押しつぶしたように低く結ったもの。特異なものではなく、江戸後期には島田髷といえばこの髷をさすほどに流行した。髷の中央を元結で結んだ箇所が凹んで潰れて見える。]
何處(いづく)ゆか流れ來りし女なる淫らにはげし白粉のあと
この島に誰か夕べを遊ぶらむ二階に燈(ひ)入り三味の音(ね)洩るゝ
濱にゐて夕浪の音(と)に立交じる三味の音(ね)聞けはいよゝさぶしも

盲目の寶石商人 大手拓次

 盲目の寶石商人

わたしは 十二月のきりのこいばんがたに、
街のなかをとぼろとぼろとあるいてゆくめくらの商人(あきんど)です。
わたしの手も やはり霧のやうにあをくばうばうとのびてゆくのです。
ゆめのおもみのやうなきざはしがとびかひ、
わたしは手提の革箱(かはばこ)のなかに、
ぬめいろのトルコ玉をもち、
蛇の眼のやうなトルマリン、
おほきなひびきを人形師の絲でころがすザクロ石、
はなよめのやはらかい指にふさはしいうすむらさきのうすダイヤ、
わたしは空(そら)からおりてきた鉤(かぎ)のやうに、
つつまれた柳のほそい枝のかげにゆれながら
まだらにうかぶ月の輪をめあてに、
さても とぼろとぼろとあるいてゆきます。

鬼城句集 夏之部 灯取虫

 

灯取虫   松明に谷飛ぶ虫の見えにけり

 

      机食ふ虫も出で飛ぶ燈下かな

 

[やぶちゃん注:「机食ふ虫」木材家具を激しく食害する鞘翅目多食亜目ナガシンクイ上科シバンムシ科 Anobiidae に属するシバンムシ類であろう。]

 

      行燈を押し動かすや灯取虫

 

      灯ともせばばさと來りて蟷螂かな

 

[やぶちゃん注:「蟷螂」は「たうらう(とうろう)」や「かまきり」では如何にも韻律が悪い。鬼城が殆んど生涯を通して住んだ群馬県のカマキリの方言を見ると(「日本自然保護協会」公式サイトの記載の中の「カマキリの多彩な地方名・方言」に拠る)、カマギッチョ・カミキリ(ムシ)・トカゲ・トカケ・オガミ(ムシ)・トーロー(ムシ)・トーロンボー・ハエトリ・ハラタチなどがある。私は初見で「とうろ」と読んでいるように感じたが、例えば全国的な異名として通用する「おがみ」(拝み虫)でも雰囲気は出る。]

 

2013/08/04

國木田獨歩 武藏野 再校訂リニューアル版+縦書版

「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」の國木田獨歩「武藏野」の再校訂リニューアル版を作製、縦書版も公開した。

再校訂をしながら、何十年も逢わなかった知音に再会したような気になったよ。……

靑猫スタイルの用意に就いて 萩原朔太郎

 靑猫スタイルの用意に就いて

 

 先日佐藤惣之助君と詩の話をした時、表現についての議論が出た。佐藤君が言ふのに、近頃流行の形容詩体――××のやうに――は幼稚であるから、自分はそれを捨てて新詩体を選んだと。然るに今月の「轟々」といふ雑誌を見るに、南江二郎君が同じやうな説を述べてる。曰く「××のやうに」といふ形容詩句は、仏蘭西あたりではずつと幼稚なものに属し、此頃ではもう使ふ人は全くないと。よつて此所に一言、自分の表現用意について説明しておく。

 そもそも我が詩壇に於て、この形容詞句「やうに」を最初に有效に使つたのは、私の知る限り福士幸次郎君であつたやうだ。しかしそれを最も盛んに使用し、殆んどそれで以て詩體の一特色を構成するやうにしたのは、實に私の詩集「靑猫」であつた。それ故に上述の非難は、正常に私の責任に負ふべきもので、佐藤、南江君の悪聲に對しても、一應自分として答へねばならない立場にある。

 元来、何々のやうにといふ類の形容が、詩的表現として幼稚愚劣なものであることは、一通りには始めから解りきつたことである。特に近頃の印象を重んずる新詩風で、こんな気の利かない概念的形容を使ふのが、既に既に時代遅れであることは、佛蘭西詩壇を引き合ひに出すまでもなく、日本に於ても常識で解つてゐることと思ふ。もちろん私自身も、始めからそれ位のことは知れきつた筈だ。しかも私としては、普通さうした常識以上に、別の新しい用意から特にそれを選んだのである。

 そこでこの「やうに」といふ形容は、普通には畢なる比喩として用ゐられる。たとへば「血のやうに赤い」「鐡のやうに強い」「矢のやうに速い」等である。かうした普通の形容が、詩語として如何に幼稚なものであるかは言ふまでもないだらう。なぜならば「早い」といふことを言ふために、矢といふ別の概念を借りてきて、しかもそれを「やうに」の御丁寧な説明入でくどくどと書き立てる。この詩語の構成は全く氣の利かない散文式で、近代詩として最も愚劣なものに屬する。近代詩の特色は、印象的、象徴的の強い效果に存するのだから、かかる概念的の説明風な此喩を排することは言ふ迄もない。思ふに佐藤君や南江君がそれを非時代的として難ずる所由は之れであらう。

 所が私としても、それ位のことは前から知つて居るのであつて、その常識のも一つ上に、別の新しい用意で――言はば或る獨創的な創造として――それを使ひ、以て「靑猫」の我流なスタイルを作つたのである。ではどんなに私がそれを使つて居るか? それは「靑猫」の中の詩をどれでも讀んでもらへばすぐ解ることであるが、此所に念のために用意の存する所を話しておかう。

 普通の形容としての「やうに」は、上述した如き説明の比喩にすぎない。「血のやうに赤い」といふ時、血といふ言語の働らく意味は、単に赤いの説明であり、この「血」と「赤」との間には、比喩としての聯想の外、何の必然不離の関係もない。然るに私の詩法に於ては、決してさういふ説明的形容詞を用ゐない。私のやり方ではこの「血」と「赤」とを、聯想的必然によつて結びつけ、兩者の関係を比喩でなく、一歩進めた象徴にしてしまふのである。

 此所で一寸、比喩と象徴との區別を述べておかう。たとへば櫻花は日本人のシムボルであるといふ時、この所謂シムボルはその實一種の比喩である。なぜならば櫻花の淡泊にして散り易き特性を、日本人の国民氣質と概念的に結びつけ、甲によつて乙を解説したものであるから。然るに夏の白晝を描くに燃ゆる太陽を以てし、勇氣を表はすに太く強き線を以てし、悲哀を現はすに弱き線を以てし、或はロマコマンチックな憧憬を描くに遠き地平線の圖を以て表現するのは、兩者の間に何の概念的説明がなく、甲の心像がそれ自ら乙の表象の上にぴつたりと氣分的に重なつてゐるから、之れは即ち比喩でなくして象徴といふべきである。

 そこで私の詩句法が、同棟にこの象徴の上に立つて居るのである。例をあげて説明しよう。今、かりに「夜」と題する詩が此所にあつて、それの闇黑の表象を先づ歌ふ必要があるとする。この時普通の形式句法は、何等かの比喩によつて夜の闇黑を形容する。たとへば「烏羽玉(ぬばたま)のやうな闇夜」とか「墨のやうに闇黑の夜」とか言ふだらう。而してこの「夜」と題する詩のテーマが、かりに夜の神秘的な恐怖を歌ふものだと豫定したならば、前のやうな形容詩句が何の意味をもつかを考へて見よ。この場合に「墨のやうに闇黑の夜」といふ詩句は、全然無意味な説明的の冗句にすぎない。なぜならば「墨のやうに」は、單に闇黑の比喩的形容にすぎないので、何等の表現的必然性をもつて居ない。もし墨の代りに烏羽玉(ぬばたま)を以てしても、詩的效果に於て變りはなからう。

 然るに此所で「墓穴のやうに闇黑の夜」と言へば、もはやこの詩句は比喩でなく象徴になつてくる。なぜならば「墓穴」といふ心像自身が、夜の神秘的な恐怖を以て直接迫つてくるからである。思ふにこの詩句の讀者は、先づ墓穴といふ詩語からして、一の主題的心像を感觸してくる。而して次の「闇黑の夜」がさらにその心像の上に重なつてくるのである。故にこの場合に於ては、墓穴と夜とは必然不離の関係をもつて一如となつてゐる。したがつて實際には、この「やうに」といふ連辭は必要がないのである。もし単語たけで書きたいならば、單に

  墓穴、闇黑、夜

と三語竝べただけでも好いのであつて、単に詩想を傳へる上では、それでも全く同じである。しかし詩といふものは、連辭のてにをはや言語の音律の響きによつて、主観のデリケートな情操を傳へるもので、そこに眞の複雜な意味と情趣とがあるのだから、單にボツボツの單語を竝べたのでは不完全だ。(世にはボツポツの單語を竝べて、それが印象的だと思つてゐる人がある。之れは印象といふ觀念を、皮相な視覺上の意味に解した結果で、最も笑ふべき謬見である。)

 も一つ適當の例をあげよう。室生犀星君の詩には、よく蜆(しじみ)といふユニツクワーヅが使はれてゐる。「蜆のやうな夕暮」「蜆のやうな悲哀」等である。或る人がそれを不思議がつて私に聞いた。一體蜆のやうな悲哀とはどういふわけでせう、悲哀がどうして蜆なんだらうと。かういふ疑問が生ずるのは、この「やうな」を文法的に解釋して、蜆を悲哀の形容語とし、それの寓意された比喩を解かうとするからである。これは比喩ではなく象徴である。冬の塞い裏街などで、氷つた溝水の中に棲んでる、あの悲しくかじかんだ蜆といふ魚介の聯想が、それ自ら作者の主觀する特殊の悲哀を象徴するので、その悲哀が即ち蜆、蜆が即ちその悲哀であり、兩者は全く一觀念に重なり合つてる。かういふ詩語を我々は「ぴつたりしてゐる」と言ふ。ぴつたりしてゐるといふことは、比喩を脱して象徴の域まで進んだ表現を言ふのである。

 比喩と象徴との區別は、これで大體解つたと思はれる。もし比喩ならば「やうな」は形容であり、普通の文法通りの意味に屬するけれども、象徴の場合の「やうな」は、もはや文法上の意味とはちがつてくる。前に室生君の詩句が解らないといつて不思議がつた人も、つまりこの「やうな」を文法通りの形容に解した結果である。では象徴の場合に於て「やうな」はどういふ意味を持つだらうか。もしそれが厭ひならば、前に言ふ通り除いてしまつて、單に個々の單語を竝べても好いのであるし、或はまた「烏羽玉の闇」式に、連辭「の」を以て「やうに」の代用にしても好いのである。然るに私が好んでこの「やうに」を濫用するのは、そこに私自身の特別な詩想的條件があるからである。先づ私の詩から一篇を引例しよう。

 

     題のない歌(靑猫九四頁)

  南洋の日にやけた裸か女のやうに

  夏草の茂つてゐる波止場の向うへ

  ふしぎな赤錆びた汽船がはひつてきた。

  ふはふはとした雲が白くたちのぼつて

  船員の吸ふ煙草のけむりがさびしがつてる。

  わたしは鶉のやうに羽ばたきながら

  さうして丈(たけ)の高い野茨の上を飛びまはつた。

  ああ 雲よ 般よ どこに彼女は航海の碇を捨てたか

                           (以下略す)

 

 私がこの「やうに」詩體で、特殊なスタイルを作つたといふわけは、もちろん單にそれを象徴として用ゐたといふだけの話ではない。單に「墓穴のやうな闇黑」といふやうな詩句ならば、既に人々が普通にやつてることであつて、何の新しいことも珍らしいこともない。上説した所は、單に比喩と象徴との別を明らかにして、以下述べる所の前提としたにすぎない。

 さて此所に引例した私の詩で、最初の第一行に「やうに」が使はれてゐる。此所で私は

 

  南洋の裸か女のやうに

 

と言ひ、次に

 

  夏草の茂つてゐる波止場の向うへ

  ふしぎな赤錆びた汽船がはひつてきた。

 

と續けてゐるから、文法上の解釋上からは、この「南洋の裸か女」といふ觀念が、當然「赤錆びた汽船」の比喩となつてゐるので、それが「やうに」の形容語で説明されてゐるわけである。しかしさう文法的に解釋しては、此等の詩に價値がなくなつてくる。何となれば此所では、この「南洋の裸か女」が、それ自ら獨立詩句となつて、さうした島の南國的情景を表象してゐるからである。つまりこの詩は、次のやうに言ひ換へたのと同じである。

 

  南洋の島に日にやけた裸か女が居る。

  そして夏草の茂つてゐる波止場の向うへ

  ふしぎな赤錆びた汽船がはひつてきた。

 

 これでよく解だらう。即ち「やうに」はこの場合「そして」といふ語と同じほどの意味をもつてる。ではなぜ「そして」と言ふ代りに「やうに」と言ふか、それを説明しよう。

 今、前の書き換へのやうに

 

  南洋の島に日にやけた裸か女が居る。

 

と切つて、次に

 

  夏草の茂つてゐる波止場の向うへ

 

とする時には、初めの第一行が印象的に獨立したものとなり、次行との間に詩情の濃やかなつなぎが切れてくる。その上にこの場合として、詩句が風物の自然的描寫になりすぎるのである。此所ではさうした島の風光を描くと同時に、或る縹渺たる主觀の情緒的氣分を出さねばならぬ。したがつて此の場合では、單純な風光描寫になつては困るので、一方にその景色の印象を暗示しながら、それと同時に主觀の情緒的節奏を傳へねばならないのだ。故に「そして」で次につながずして、「やうに」でぼんやりつなぐときは、描寫としての印象が弱くなる代りに、自然それが主觀の中にぼかされ、印象と同時に情緒、客觀と同時に主觀を匂はすことができるのである。

 あまつさへこの「やうに」といふ言葉の、妙に物柔らかい、そしてどこか薄ぼんやりした感じが、私の趣味として特別に好きなのである。すくなくともこの「題のない歌」の如き、或る神祕縹渺とした柔らかい情緒詩操をテーマとする詩では、とりわけこの「やうに」の薄ぼんやりした感じが適切なので、靑猫全卷を通じて、私がそのスタイルを用ゐた理由も此所にある。けだしあの詩集の中心的主題は、多くあの種の詩境にあつたから。

 要するに「やうに」は私にとつて一の狡猾なテクニツクで、そのやや曖昧な語感を利用し、二重三重の複雜な意味や氣分を、それでズルクぼやかしてしまふのである。もちろん一方では、それに文法通りの形容的意味をあたへてることは言ふ迄もない。尚、引例の詩の第六行目を見よ。

 

  わたしは鶉のやうに羽ばたきながら

  さうして丈(たけ)の高い野茨の上を飛びまはつた。

 

 この場合は一層直接である。ここで「鶉のやうに」と言つてるけれども、實の意味は形容でなく、鶉そのものが野茨の上を飛んでゐる景色である。ではなぜ直接に「鶉が羽ばたきしながら飛んでゐる」と言はないで、特に「私は……のやうに」などと餘計な形容をするのだらうか。言ふ迄もなく、自分の主觀的な氣分を書いて、それを客觀の情景と一所に結びつける必要があるからである。即ち次のやうに説明されたのと同じ。

 

  鶉は羽ばたきながら

  丈(たけ)の高い野茨の上を飛びまはつてゐる

  私の心もまたそのやうに

  草原の上をあちらこちらさまよつてゐる。

 

 かく四行で言ふ所を、簡潔に「私は……のやうに」で表現したのである。その他、靑猫の中の詩は、どれを取つても皆同じテクニツクが利用されてる。たとへば「輪廻轉生」と題する詩の最初の三行。

 

  地獄の鬼がまはす車のやうに

  冬の日はごろごろとさびしくまはつて

  輪廻(りんね)の小鳥は砂原のかげに死んでしまつた。

 

 この第一行における「やうに」が、單なる冬の日輪の形容でなく、輪廻における地獄の心像をあたへたものであることは明らかだらう。その他「さびしい來歷」で、

 

  私は駱駝のやうによろめきながら

  椰子の實の日にやけた核を嚙みくだいた。

 

等皆同じである。實に風景の中を歩いてゐるのは駱駝であつて私でない。しかもその「印象の影に」私自身がまた歩いて居る氣分を感じさせる手段である。

 思ふにこのスタイルは、大して獨創的のものではないかも知れない。私自身とした所で、ことさらそれを得意にしてゐるわけでなく、況んや自まんしようなどと思つてゐる次第では全くない。けれども普通の比喩的形容として用ゐられる、文法的常識の「やうな」とは多少ちがつた用法と信じてゐる。すくなくともそんな説明的の本質をもつて居ない。私は信ずる。すくなくとも最近以前の詩壇に於て、この種の形容詩句を象徴に使用した詩の無かつたことを。昔の詩句ではすべてそれが單純な比喩形容にすぎなかつた。だからどんな非難に於ても、私の「やうな」詩體を時代遲れといふのだけはひどすぎる。況んや幼稚なものと見るのは亂暴である。幼稚なものは單純な比喩形容で、私の靑猫スタイルではない筈である。もちろん佐藤君や南江君の指す所は、或は私に關しない別方面にあるのだらうが、表面上の責任はつまり私に歸するのだから、此所に自分の詩作用意を辯明しておく次第である。

 

[やぶちゃん注:『日本詩人』第六巻第十一号・大正一五(一九二六)年十一月号に後の二作「象徴の本質」「日本詩歌の象徴主義」とともに掲載された。後に「詩論と感想」(昭和三(一九二八)年二月素人社刊)に所収された。底本は筑摩版全集第八巻の校訂本文を用いた(校異を見る限り、「詩論と感想」版には表記上の誤りが多いため)。太字は底本では傍点「●」、三箇所の太字下線「ぴつたり」「てにをは」「ぼんやり」は底本では傍点「ヽ」。]

夕の椰子の歌 七首 中島敦 (「小笠原紀行」より)

    夕の椰子の歌

     薄暮大村より南方に通ずる峠を上る、

     峠を越ゆれば即ち、見はろかす巉岩の

     累積の彼方、昏れ行く太平洋の渺淼た

     るを見る。巉岩の億傾斜のところどこ

     ろ椰子樹佇立して夕風に鳴る、わがか

     たはらにも亦一本あり

夕されば孤島に寄する波の音岩の上にしてひとり聞きたり

岩の上に夕潮騷を聞き立てる一本(ひともと)椰子の菓ずれ寂しも

潮騷(しほざゐ)のやゝに離(さか)れば荒磯邊(ありそべ)の靑枯椰子も眠りに入るか

荒磯邊(ありそべ)の巖の椰子らおのがじし夕べさびしく眠りに入るも

夕坂を籠(こ)をもつ翁のぼり來て内地の人かと慇懃(いんぎん)に問ふ

八丈より移りてここに五十年(いそとせ)を乏しき土に生くるとふ翁

五十年(いそとせ)の生きの寂しさしみじみと翁は嘆く椰子の下(もと)にして

[やぶちゃん注:詞書の中の「ところどころ」及び最後の一首の「しみじみ」の後半はいずれも底本では踊り字「〲」。

「大村より南方に通ずる峠」父島の南方にある峠としては「中山峠」がある(国土地理院地形図閲覧システム 東経14231北緯2728)。地図上で見る限り、ロケーションもここに相応しい気はする。こちらの honeycat2201 氏の「父島 中山峠からの眺め」を見ると、その確信が一気に高まる。グーグルのストリート・ビューで見る限りではこの附近、海岸に近づくに従って椰子がかなり茂っていて、今や中島敦の「ところどころ」どころではない感じである。]

あなたのこゑ 大手拓次

 あなたのこゑ

 

わたしの耳(みゝ)はあなたのこゑのうらとおもてもしつてゐる。

みづ苔(ごけ)のうへをすべる朝のそよかぜのやうなあなたのこゑも、

グロキシニヤのうぶげのなかにからまる夢のやうなあなたのこゑも、

つめたい眞珠のたまをふれあはせて靄(もや)のなかにきくやうなあなたのこゑも、

銀(ぎん)と黄金(こがね)の太刀(たち)をひらひらとひらめかす幻想の太陽のやうなあなたのこゑも、

月(つき)をかくれ、

沼(ぬま)の水をかくれ、

水中(すゐちゆう)のいきものをかくれ、

ひとりけざやかに雪(ゆき)のみねをのぼるやうな澄(す)んだあなたのこゑも、

つばきの花(はな)やひなげしの花(はな)がぽとぽととおちるやうなひかりあるあなたのこゑも、

うすもののレースでわたしのたましひをやはらかくとりまくあなたのこゑも、

まひあがり、さてしづかにおりたつて、

あたりに氣(き)をかねながらささやく河原のなかの雲雀(ひばり)のやうなあなたのこゑも、

わたしはよくよく知つてゐる。

とほくのはうからにほふやうにながれてくるあなたのこゑのうつりがを、

わたしは夜(よる)のさびしさに、さびしさに、

 いま、あなたのこゑをいくつもいくつもおもひだしてゐる。

 

[やぶちゃん注:本詩は本詩を所収する詩集類で、極めて有意な異同がある。

 一つは昭和二六(一九四一)年創元社刊創元文庫「大手拓次詩集」で、初行が、

 

わたしの耳(みゝ)はあなたのこゑのうらおもてもしつてゐる。

 

となり(下線部やぶちゃん)、終曲部は、

 

とほくのはうからにほふやうにながれてくるあなたのこゑのうつりがを、

わたしは夜(よる)のさびしさに、さびしさに、いま、あなたのこゑをいくつもいくつもおもひだしてゐる。

 

で、「うつりか」と清音になり、最終行は前行に連続してしまっている。

 次に昭和五〇(一九七五)年現代思潮社刊現代詩人文庫「大手拓次詩集」であるが、創元文庫と同じ箇所を見ると、初行は何と、

 

わたしの耳(みみ)はあなたのこゑのうらとおもてしつてゐる。

 

となって(「みみ」は踊り字が正字化している)、終曲部は、

 

とほくのはうからにほふやうにながれてくるあなたのこゑのうつりがを、

わたしは夜のさびしさに、さびしさに、

いま、あなたのこゑをいくつもいくつもおもひだしてゐる。

 

最終行が改行されている代わりに、底本のような一字下げは行われていない(「よる」のルビもない)。

 前者の創元文庫版は底本を底本としている旨の記載があるから、総てを誤植と判断してよいかも知れない。

 また、底本の最終行一字下げというのは、同詩集の他の詩では見られない特異なもので、底本自体の組み誤りともとれないことはない(その可能性は大であるとさえ言い得る)。

 現代思潮社刊現代詩人文庫は、これ、私はかねがね、同書に対してすこぶる不満を持っているのであるが、同詩集はその総てに亙って何を底本にしたかが、どこにも注記されていないのである。従ってこの詩形を正しいとする根拠が私にはない。これだけ大きな違いが認められるということは、恐らくは最も信用に足るはずの白鳳社版「大手拓次全集」に拠ったものとは推測出来るが、以上のような杜撰さによって(私が白鳳社版「大手拓次全集」を所持しないことも手伝って)、今はこの詩形を正当と支持し得る立場にない。

 しかし乍ら、敢えて言わせてもらうならば、私は、

 

あなたのこゑのうらとおもてもしつてゐる(詩集「藍色の蟇」)

       うらもおもてもしつてゐる(創元文庫)

       うらとおもてをしつてゐる(思潮社現代詩文庫)

 

の三つを並べられたならば、これが恋い焦がれた女へ語りかける切ない言葉であるとするなら、「うらとおもてをしつてゐる」という冷静で論理的な語り掛けは絶対にしない。そして「うらもおもてもしつてゐる」という畳み掛けて追い詰めるストーカーのような脅迫もせぬ。……僕だったなら……

 

……僕は……あなたの透き通った芳しい声の……その「うらとおもて」の……微妙でいて……それでいて……真実(まこと)の吐息の……その幽かな違い「も」「しつてゐる」……

 

と声かけるであろう……と思うのである。――これは僕の勝手な空想である。……

 

「グロキシニヤ」双子葉植物綱ゴマノハグサ目イワタバコ科オオイワギリソウ(大岩桐草) Sinningia speciosa。)。以下、ウィキグロキシニア」によれば、ブラジル原産で園芸植物として鉢植えなどで温室栽培される。熱帯雨林の下草として自生していた植物を改良した種で、不定形の塊茎をもち、草丈は二〇センチメートル程度、ロゼット(根生葉:地面からいきなり出ているように見える葉。)は大きな箆(へら)状又は倒卵状で、茎に対生する葉は長楕円形をなし、天鵞絨(ビロード)のような柔毛が密生している。花は適温が維持できれば常時咲くが、通常は六月から九月頃を開花期とする。花径五~七センチメートルの漏斗形、花色は紅・藍色・紫・ピンクなどで、星が散ったり縁取りを持ったりするバリエーションも多く、近年は八重咲品種も多く出回っている、とある。専ら花が画像の中心ではあるが、グーグル画像検索「Sinningia speciosaで「グロキシニヤのうぶげのなかにからまる夢のやうな」彼女の幽玄な声を、お聴きあれ。……]

鬼城句集 夏之部 毛虫

毛虫    土くれに逆毛吹かるゝ毛虫かな

2013/08/03

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第七章 江ノ島に於る採集 23 モースのガニメデ

 折々見受ける奇妙な牛車に、いささかでも似た写生図が出来ればよいと思う。図187で私はそれを試みて見た。牡牛一匹が二輪車に押し込まれ、柄は木製の環で背中の上を通って頸にのっかる。車にとりつけた大きな莚(むしろ)の日除けは、牛に日があたらぬようにするものである。足も藁の草履をしばりつけて保護する。これによって、我々はかかる仏教の異教徒が、如何に獣類を可愛がるかに気がつき、そしてこれ等の動物が、カソリック教国のスペインで、どんな風に取扱われているかを思い出さぬ訳に行かぬ。

M187

図―187

 

 食料品を取りまとめた上で、私は再び江ノ島へ向けて出発した。原始的な漁村で一週間暮すのはいいが、それが殆ど二ケ月近くの滞在となると、幾分巡礼に出るような始末になって来る。江ノ島へ着いて、私は第一夜を送った宿屋で食事した。この家の人々は私が別の宿屋へ移ったにもかかわらず、実に親切なので、私はその家族を私の部屋に招き、顕微鏡で不思議なものを見せることにした。私の無言劇的な会話はわかったらしい。宿の亭主と、彼の家族とだけを期待していた私は、彼等のみならず、この家の召使い、子供全部、及び向う側に住んでいる人達までが皆やって来た時には、面喰わざるを得なかった。だが、私は出来るだけのことをし、ベックの双眼顕微徴鏡で彼等に蠅の頸や、蜘蛛の脚や、小さな貝殻等を見せてやったが、彼等が示した驚愕の念、低いお辞儀と「アリガトウ」とは誠に興味があった。驚くのも道理である。彼等はそれ迄に、顕微鏡も、望遠鏡も聞いたことすら無いのである。若し彼等が何かを拡大して見たとすれば、それは天眼鏡を通じてであろう。私はまだ日本で天眼鏡を見たことがないけど、支那人が使っているから、日本にもきっとあるに違いない。これが今日の大愉快の一つであった。もう一つの愉快なことは、実に可愛らしい日本人の男の子と近づきになることであった。この子は私が今迄に見たたった一人の可愛らしい子供であり、多くの子供達と違って私を恐れなかった。一体子供が私を怖がるというのは、新奇な経験である。今朝私はこの子と両親と召使いとを実験所へ招待した。彼等が顕微鏡その他に対する興味を示した、上品で優雅な態度は、気持がよかった。父親は私と名刺を交換し、それを松村が翻訳したが、彼は大蔵省に関係のある役人だった。

[やぶちゃん注:江の島への帰着は前の部分のモースの叙述が正しいとすれば、八月二十一日の夜ということになる。

「二ケ月近くの滞在」原文は“the visit extends for nearly two months”。これは滞在が七月から八月にかけての二ヶ月に亙っていたことからの、ある意味、錯誤的な謂いであるように思われる。モースの江の島入りは明治一〇(一八七七)七月二十一日(午後九時着)であったから、丁度この日は一ヶ月経過しているが、彼が江の島実験所を閉鎖して江ノ島を発つのは、このたった八日後の八月二十九日のことで(実験所の閉鎖は前日)、実質的には四十日で「二ケ月近く」とは言い難い。多くの驚きや発見の喜びもあったものの、来日直後の、それも日本の漁村での、たった独りの外国人の生活は、文字通り、「幾分巡礼に出」た(原文“somewhat in the nature of a pilgrimage.”)時のような緊張感が何処かで持続していたから、一ヶ月強が二た月近くに感じられたとするのもむべなるかな、という気はしないでもない。

「べックの双眼顕微徴鏡」原文“a Beck's binocular”。1846年にジェームズ・スミスらが設立した“Smith,Beck & Beck”商会が開発した双眼顕微鏡。「東京大学総合研究博物館」の「刊行物データベース」にある浅島誠「生命の科学」の「第一部 生命の科学の基礎:植物と動物」の冒頭、最初のころの顕微鏡によれば、この顕微鏡は光線分離プリズムを内蔵し、二本の光線のうち、一本はプリズムを通らずに直進するため、二本の鏡筒のうち一本は真直になっているとあり、さらに明治八(一八七五)年に『日本に来航したチャレンジャー探検隊がこの顕微鏡を積んでいて、瀬戸内海のプランクトン調査を行った。東京帝国大学理学部動物学教室のモース教授もこの顕微鏡を用いた』とあって、実物の写真も拝める。

「大蔵省に関係のある役人」この人物や、モースベタ褒めのガニメデについては不詳。ここまで(“The other was in getting acquainted with a dear little Japanese boy, the only one I have seen thus far who seemed attractive.”)言われると、何となく探って見たくなるではないか。]

夢 (初出形)

 夢

 

あかるい屛風のかげにすわつて

あなたのしづかな寢息をきく。

香爐のかなしいけぶりのやうに

そこはかとたちまよふ

女性のやさしい匂ひをかんずる。

 

かみの毛ながきあなたのそばに

睡魔のしぜんな言葉をきく

あなたはふかい眠りにおち

わたしはあなたの夢をかんがふ

このふしぎなる情緒

影なきふかい想ひはどこへ行くのか。

 

薄暮のほの白いうれひのやうに

はるかに幽かな湖水をながめ

はるばるさみしい麓をたどつて

見しらぬ遠見の上の峠に

あなたはひとり道にまよふ 道にまよふ。

 

あゝ なにゝあこがれもとめて

あなたはいづこへ行かうとするか

いづこへいづこへ行かうとするか

あなたの感傷は夢魔に酢えて

白菊の花のくさつたやうに

ほのかに神祕なにほひをたゝふ。

 (とりとめもなき仄かなる夢の氣分を、

 私はこの詩で漂渺させやうと試みた。)

 

[やぶちゃん注:『日本詩人』第二巻第一号・大正一一(一九二二)年一月号に掲載された。末尾の附記の「漂渺」(正しくは「縹渺」)「させやう」はママ。後に詩集「靑猫」(大正一二(一九二三)年一月新潮社刊)に所収された際には、以下のようになっている。

 

 夢

 

あかるい屛風のかげにすはつて

あなたのしづかな寢息をきく。

香爐のかなしいけむりのやうに

そこはかとたちまよふ

女性のやさしい匂ひをかんずる。

 

かみの毛ながきあなたのそばに

睡魔のしぜんな言葉をきく

あなたはふかい眠りにおち

わたしはあなたの夢をかんがふ

このふしぎなる情緒

影なきふかい想ひはどこへ行くのか。

 

薄暮のほの白いうれひのやうに

はるかに幽かな湖水をながめ

はるばるさみしい麓をたどつて

見しらぬ遠見の山の峠に

あなたはひとり道にまよふ 道にまよふ。

 

ああ なににあこがれもとめて

あなたはいづこへ行かうとするか

いづこへ いづこへ 行かうとするか

あなたの感傷は夢魔に饐えて

白菊の花のくさつたやうに

ほのかに神祕なにほひをたたふ。

  (とりとめもない夢の氣分とその抒情)

 

本詩は詩集「蝶を夢む」(大正一二(一九二三)年七月新潮社刊)・「萩原朔太郎詩集」(昭和三(一九二八)年三月第一書房刊)・「現代詩人全集」(昭和四(一九二九)年十月新潮社刊)にも再録されるが、それらの細部の異同の中では、「蝶を夢む」及び最後となる「現代詩人全集」に於いて、題名に、

 

 夢(とらうむ)

 

というルビが附されていることは特筆に値しよう。]

捕鯨船 二首 中島敦 (「小笠原紀行」より)

    捕鯨船なりといふが北方に進み行くを見る
いすくはし鯨魚(くぢら)漁(いさ)ると父島の海人(あま)の猛夫(たけを)ら今船出する
[やぶちゃん注:「いすくはし」「くじら(鯨)」の枕詞。「勇細し」で、勇ましくすぐれている意、又は、魚の中でも素晴らしいもの、の意かともいう。上古より用いられた古代語である。]
白浪の恐(かしこ)き海を鯨船(くぢらぶね)巖(いほ)の門(と)過ぎて漕ぎ行くが見ゆ

さびしいかげ 大手拓次

 さびしいかげ

この ひたすらにうらさびしいかげはどこからくるのか、
きいろい木(こ)の實(み)のみのるとほい未來の木立のなかからか、
ちやうど 胸のさやさやとしたながれのなかに、
すずしげにおよぐしろい魚のやうである。

鬼城句集 夏之部 閑古鳥

閑古鳥   雨の中を飛んで谷越す閑古鳥

[やぶちゃん注:「閑古鳥」カッコウ目カッコウ科カッコウ Cuculus canorus の別名(属名 Cuculus は本種の鳴き声に由来し、種小名 canorus もラテン語で「響く、音楽的」の意である)。]

鬼城句集 夏之部 浮巣

浮巣    親鳥の高浪に飛ぶ浮巣かな

      鳰の巣の見え隱れする浪間かな

[やぶちゃん注:「浮巣」鳥綱カイツブリ目カイツブリ科カイツブリ Tachybaptus ruficollis の雌雄が、水辺近くの水生植物や杭などに、水生植物の葉や茎を組み合わせて営巣する逆円錐状を成した巣。以下、ウィキカイツブリによれば、本邦での繁殖期は四月から七月で、雌雄交代で抱卵(抱卵期間は二十日から二十五日)する。卵は最初は白いが次第に汚れて褐色となる。親鳥が巣を離れる際には卵を巣材で隠す習性を持つ。雛は早成性で孵化後約一週間で巣から出て泳げるようになる。小さいうちは親鳥が背中に乗せて保温をしたり、外敵からの保護を行う。雛を背中に乗せたままで潜水することもある。雛は自分で採餌できるようになるまで親鳥より餌の捕えかたを教えられ、その後追われるようにして独立を促され、凡そ六十日から七十日で巣立ち、生後一年で性成熟する。なお、リンク先では非常に詳しい標準和名カイツブリの語源を分析して面白い(古語の解釈には若干疑問があるが)いが、この「かいつぶり」という和名は室町以降みられるになったもので、二句目の古名「鳰」(「にほ(にお)」)は「水に入る鳥」の意の転訛、とある。奈良時代には「にほどり」「みほとり」と称されており、漢字「鳰」もその意を示す会意の国字である。因みに琵琶湖の別名「鳰海(にほのうみ)」は琵琶湖がカイツブリやカイツブリ目の構成種が多く棲息したことによる(私は実際の浮巣を見たことがないので、以下に浮巣子育様子った動画のリンクを這っておく)。]

2013/08/02

栂尾明恵上人伝記 54 ぎゅうの音も出ぬ個人の祈禱を断わる方法

 又、人の、祈願して給ふべき由所望申しければ、上人云はく、我は朝夕一切衆生の爲に祈念を致し候へば、定めて御事も其の數の中にてましまし候ふらん、されば別して祈り申すべきにあらず、叶ふべきことにて候はゞ叶ひ候はんずらん、又叶ふまじきことにて候はゞ、佛の御力も及ぶまじき事にて候ふらん。其の上平等の心に背きて御事ばかり祈り候はんこと親疎(しんそ)あるに似たり。左樣に親疎あらんものゝ申さんことをば、佛神もよも御聞き入れ候はじ。佛神の御内證(ごないしよう)恥しく候。又佛は方々の御事をば一子の如く思(おぼ)しめし候に、叶へても進ぜられ候はぬは、何にもやうこそ候らめ。譬へば、をさなき者毒をしらで食したがり候を、親の奪ひ取り候をば、甚だ恨みて泣き候が如し。一旦は本意(ほんい)なきやうに候へども、終にはよかるべきはからひなり。されば佛をも神をも御(おん)恨み有るまじく候。又不信放逸(ふしんはういつ)の心ある人をば千佛も救ひ給はぬことなり。されば我身の拙きことを顧みて、身をこそ恨み給ふべく侍れ、祈(いのり)叶はざらん時も佛の御計らひ、やうぞあらんと思ひ給ふべし。かやうに申し候へば、先聖の掟(おきて)を背きて人の祈りせじと申す物狂(ものぐるひ)ありといふ沙汰に及びぬと覺え候。先聖は皆方便ありて述べ置き給へる子細あるを、然るに我等やうの無智の者左右(さう)無くそれを學ばゝ大に誤あるべしとて聞き入れ給はざりけり。
[やぶちゃん注:「佛神の御内證恥しく候」仏神の計り知れない奥深い悟りの境地を察するならば、これは、まっこと、お恥ずかしい限りのことで御座る。
「何にもやうこそ候らめ」何か特別な理由があるからで御座いましょう。以下の「やうぞあらん」も同義。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 14 獵師町

    ●獵師町

島の東岸に漁村あり。東西二區に分居(ぶんきよ)せり。入口石の鳥居より東に當り。島人の所謂埋地(うめち)を經てこゝに到る。

[やぶちゃん注:以下の聞き書きは、底本では全体が一字下げ。]

聞く今より十年前。横面とて東西兩町の要路なりし所。霖雨(りんう)の爲めに壞落(くわいらく)し。其の後海を埋め地を開きたるにより。埋地とは通稱するに至れり。

戸數九十五戸。北條氏留浦の印判を與へ。他領の漁者猥(みだ)りに入へからさる旨。北條陸奥守氏照掟書(おきてがき)を出せり。又慶長五年六月。德川家康公。此海岸に到られし時。漁者(ぎよしや)生魚を網(あみ)して奉りしに因り。銀若干(そこばく)を賜はりしことあり。

[やぶちゃん注:最後の歴史的事実はパートで既注済み。

「横面」は「よこつら」又は「よこづら」と読むものと思われる。

「霖雨」何日も降り続く雨。長雨。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 13 聖天島

    ●聖天島

島の東岸(とうがん)にあり。天女影向の古跡と云ふ。

[やぶちゃん注:以下の引用は、底本では全体が一字下げ。]

 江島緣起曰(えのしまえんぎにいはく)慈悲上人良眞修行する事一千餘日の間。建仁二年七月十五日夜寅刻ばかりに。巖窟の内に紫雲異香三千光明赫燿曜(かくえう)として。天女壇上に現(げん)し。童子左右に侍り。天女妙音を出して告て曰。云々。此壇所今代(きんだい)には聖天岩白狐石と號す。又一本松と名つく。

又雨氣を帶(おぶ)れは。鳴動するにより。水天島とも呼へり。

[やぶちゃん注:以下の引用は、底本では全体が一字下げ。]

 安然記曰。島東海岸有石島。即聖天生身體也。島上有白龍。長八寸唇赤色也。欲降雨時鳴動。是故名水天島。

窟に良眞の像を安す。昔は孤松ありて。海風を凌ぎ。伸(の)ひず凋(しぼ)ます。幾百年を經過せしが。今や枯れぬ。只萱茅の繁茂するを見るのみ。

[やぶちゃん注:現在の陸地化した聖天島の様子は「新編鎌倉志巻之六」の「聖天島」の注に附した私の写真などを参照されたい。

「建仁二年」西暦一二〇二年。

「安然記曰……」を我流で書き下しておく。

「安然記」に曰はく、『島の東の海岸、石島(いしのしま)有り。即ち聖天生身(しやうしん)の體(たい)なり。島の上に白龍有り、長さ八寸にして、唇は赤色なり。降雨せんと欲(す)る時は鳴動す。是れ、故に水天島と名づく。』と。

「萱茅」はこれで「ちがや」と読ませているものと思われる。通常は「茅萱」である。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第七章 江ノ島に於る採集 22 皇居 / 東京大学の研究室の下見

 今日、人を訪問する途中、私は東京市中の、私にとっては新しい区域を通って非常に愉快であった。それは実に絵みたいな場所で、大きな石垣と広い掘とがあった。平坦な道路を人力車で通り、文字通り苔に蓋われた石垣が攣曲した傾斜で四十フィートの高さに達し、その上には松その他の巨木が、まるでメイン州の森林のまん中に於るが如く、瘤(こぶ)だらけな枝を四方に張って、野生そのままに自由に成長している景色が遠か続くのを見ることは、誠に興味が深い。ここかしこ、この縁を取る森林の間、或は石垣の角に、巨大な屋根を持つ古風な日本建築が見えた。これ等は赤か黒かで塗ってあったが、多分過去に於て兵営に使用したものであろう。石垣の下の堀には、蓮が実に美事に生えていた。繁茂しているので水が見えず、直径一フィートの淡紅色の花と美しい葉とは、水から抽(ぬきん)でたり、水面に浮んだりしていた。また蓮の生えていない場所もあったが、それには石垣や木影がうつって素晴しい光景を見せていた。我々は変った橋をいくつか渡り、最も特徴のある門構えをいくつか通った。この驚くべき景色は何マイルも続いた。
[やぶちゃん注:お堀りに蓮の花が美しく咲く皇居の描写である。
「四十フィート」約12メートル強。やや少なめな感じがするが水位にもよるし、蓮が繁茂しているので、見かけ上は穏当なところであろうか。因みに天守台のすぐ北にある北詰橋附近が最も高く、水面から約21メートルとネット上の記載にはある。]

 こんな風に気持よく人力事を走らせた後、大学へ行って見ると、当局者が私の仕事に便利な部星を、いくつか割当てておいて呉れた。博物館と講義室とにする大きな部屋が二つと、構内の別の場所に、実験室にする長い部屋が三つとってあった。七月分の月給を払うのに、私の契約書が七月十二日から始っているので、彼等は端銭を払ったばかりでなく、小さな銅貨を六つ呉れて、一セントの十分の六まで払った。彼等は如何なる計算も、一セントを十分の何々にした所まで勘定するとのことで、私は受取書にその価格まで書かねばならなかった。自分自身が、一セントの端数のことでゴチャゴチャやっているのに気がつくと、妙な気持がする。これは他の人達も同じ経験をしたと白状している。端銭(チェンジ)、即ち書付け以上の金額を払った者が受取る銭は、「ツリ」というが、この語は同時に魚を捕えること、即ち魚釣を意味する。
[やぶちゃん注:先に示したように、これは教育博物館(国立科学博物館の前身)の開館式のあった八月十八日や、モースが東京上野で開かれた第一回内国勧業博覧会開会式に出席した同月二十一日前後である。]

猫の死骸 萩原朔太郎 (初出形 附 改稿3種)

 

 猫の死骸

 

海綿(かいめん)のやうな景色(けしき)のなかで

しつとりと水氣(すゐき)にふくらんでゐる。

どこにも人畜(じんちく)のすがたは見えず

へんにかなしげなる水車(すゐしや)が泣(な)いてゐるやうす。

さうして朦朧(もうろ)とした柳(やなぎ)のかげから

やさしい待(まち)びとのすがたが見(み)えるよ。

うすい肩(かた)かけにからだをつつみ

びれいな瓦斯體(がすたい)の衣裳をひきづり

しづかに心靈(しんれい)のやうにさまよつてゐる

ああ 浦(うら) さびしい女(をんな)!

「あなた いつも遲いのね」

ぼくらは過去(くわこ)もない未來(みらい)もない

さうして現實のものから消(き)えてしまつた。……

浦(うら)!

このへんてこに見(み)える景色(けしき)のなかへ

泥猫(どろねこ)の死骸(しがい)を埋(うづ)めておやりよ 

 

[やぶちゃん注:『女性改造』第三巻第八号・大正一三(一九二四)年八月号に掲載された。「ひきづり」はママ。太字「現實のもの」は底本では傍点「●」。但し、「うすい肩(かた)かけにからだをつつみ」は底本では「うすい肩(かた)かけるからだをつつみ」であるのは、後の採録版から誤植として訂した。後に第一書房版「萩原朔太郎詩集」(昭和三(一九二八)年三月刊)及び「定本靑猫」(昭和一一(一九三六)年版畫莊刊)などに、先に示した「沼澤地方」に一緒に連続して所収された(この詩が先)が、真の最終形はやはり「宿命」(昭和一四(一九二九)年創元社刊)である。初出公開に半年ほどの差があるが(こちらが早い)「沼澤地方」と同じ「浦」という女性が登場する。以下三種をすべて示す(「宿命」版は底本の校異によって推定復元した)。

   *

【第一書房「萩原朔太郎詩集」版】 

 

 猫の死骸 

 

海綿のやうな景色のなかで

しつとりと水氣にふくらんでゐる。

どこにも人畜のすがたは見えず

へんにかなしげなる水車が泣いてゐるやうす。

さうして朦朧とした柳のかげから

やさしい待びとのすがたが見えるよ。

うすい肩かけにからだをつつみ

びれいな瓦斯體の衣裳をひきずり

しづかに心靈のやうにさまよつてゐる。

ああ浦 さびしい女!

「あなた いつも遲いのね」

ぼくらは過去もない 未來もない

さうして現實のものから消えてしまつた……

浦!

このへんてこに見える景色のなかへ

泥猫の死骸を埋めておやりよ。 

 

   *

太字「現實のもの」は底本では傍点「●」。

   *

【「定本靑猫」版】 

 

 猫の死骸
      
ula と呼べる女に

 

海綿のやうな景色のなかで

しつとりと水氣にふくらんでゐる。

どこにも人畜のすがたは見えず

へんにかなしげなる水車が泣いてゐるやうす。

さうして朦朧とした柳のかげから

やさしい待びとのすがたが見えるよ。

うすい肩かけにからだをつつみ

びれいな瓦斯體の衣裳をひきずり

しづかに心靈のやうにさまよつてゐる。

ああ浦 さびしい女!

「あなた いつも遲いのねえ。」

ぼくらは過去もない 未來もない

さうして現實のものから消えてしまつた…………

浦!

このへんてこに見える景色のなかへ

泥猫の死骸を埋めておやりよ。 

 

   *

「現實のものから」には傍点がない。

   *

【「宿命」版】 

 

 猫の死骸
      
Ula と呼べる女に

 

海綿(かいめん)のやうな景色のなかで

しつとりと水氣にふくらんでゐる。

どこにも人畜のすがたは見えず

へんにかなしげなる水車が泣いてゐるやうす。

さうして朦朧とした柳のかげから

やさしい待びとのすがたが見えるよ。

うすい肩かけにからだをつつみ

びれいな瓦斯體の衣裳をひきずり

しづかに心靈のやうにさまよつてゐる。

ああ浦(うら) さびしい女!

「あなた いつも遲いのねえ!」

ぼくらは過去もない未來もない

さうして現實のものから消えて了つた……

浦!

このへんてこに見える景色のなかへ

泥猫の死骸を埋めておやりよ。 

 

   *

太字「現實のもの」は底本では傍点「◎」。微細な違いながら、私は今や目に触れることが滅多にない「宿命」版こそが、本詩のベストであると思うのである。]

沼澤地方 萩原朔太郎 (初出形 附 改稿3種)

 

 

 沼澤地方

 

蛙どものむらがつてゐる

 

さびしい沼澤地方をめぐりあるいた。

 

日は空に寒く

 

どこでもぬかるみがじめじめした道につづいた。

 

わたしは獸(けだもの)のやうに靴をひきずり

 

あるひは悲しげなる部落をたづねて

 

だらしもなく 懶惰のおそろしい夢におぼれた。 

 

ああ 浦!

 

もうぼくたちの別れをつげやう

 

あひびきの日の木小屋のほとりで

 

おまへは恐れにちぢまり 猫の子のやうにふるえてゐた。

 

あの灰色の空の下で

 

いつでも時計のやうに鳴つてゐる

 

浦!

 

ふしぎなさびしい心臟よ。

 

浦! ふたたび去りてまた逢ふ時もないのに。 

 

[やぶちゃん注:『改造』第七巻第二号・大正一四(一九二五)年二月号に掲載された。「あるひは」「つげやう」「ふるえてゐた」はママ。後に第一書房版「萩原朔太郎詩集」(昭和三(一九二八)年三月刊)及び「定本靑猫」(昭和一一(一九三六)年版畫莊刊)などに所収されたが、真の最終形はやはり「宿命」(昭和一四(一九二九)年創元社刊)であり、献辞(これは「定本靑猫」で出現する。但し、そこでは『ula と呼べる女に』と、頭が小文字表記となっている)など大きな異同が認められる。以下三種をすべて示す(「宿命」版は底本の校異によって推定復元した)。

 

   *

 

【第一書房「萩原朔太郎詩集」版】

 

 沼澤地方 

 

蛙どものむらがつてゐる

 

さびしい沼澤地方をめぐりあるいた。

 

日は空に寒く

 

どこでもぬかるみがじめじめした道につづいた。

 

わたしは獸(けだもの)のやうに靴をひきずり

 

あるひは悲しげなる部落をたづねて

 

だらしもなく 懶惰(らんだ)のおそろしい夢におぼれた。 

 

ああ 浦!

 

もうぼくたちの別れをつげやう

 

あひびきの日の木小屋のほとりで

 

おまへは恐れにちぢまり 猫の子のやうにふるゑてゐた。

 

あの灰色の空の下で

 

いつでも時計のやうに鳴つてゐる

 

浦!

 

ふしぎなさびしい心臟よ。

 

浦! ふたたび去りてまた逢ふ時もないのに。 

 

   *

「あるひは」「ふるゑてゐた」はママ。

   *

 

【「定本靑猫」版】 

 

 沼澤地方

      ula と呼べる女に 

 

蛙どものむらがつてゐる

 

さびしい沼澤地方をめぐりあるいた。

 

日は空に寒く

 

どこでもぬかるみがじめじめした道につづいた。

 

わたしは獸(けだもの)のやうに靴をひきずり

 

あるひは悲しげなる部落をたづねて

 

だらしもなく 懶惰(らんだ)のおそろしい夢におぼれた。 

 

ああ 浦!

 

もうぼくたちの別れをつげよう

 

あひびきの日の木小屋のほとりで

 

おまへは恐れにちぢまり 猫の兒のやうにふるゑてゐた。

 

あの灰色の空の下で

 

いつでも時計のやうに鳴つてゐる。

 

浦!

 

ふしぎなさびしい心臟よ。

 

ula! ふたたび去りてまた逢ふ時もないのに。

 

   *

「あるひは」「ふるゑてゐた」はママ。また、横書では分からないが実は最終行の「ula!」の感嘆符は底本では横書きのままに打たれているので、区別するために半角で示した。「懶惰」の「懶」の字は「定本靑猫」では「賴」が「頼」になっているが表記出来ないので「懶」で示した。

   *

 

【「宿命」版】 

 

 沼澤地方

        Ula と呼べる女に

 

蛙どものむらがつてゐる

 

さびしい沼澤地方をめぐりあるいた。

 

日は空に寒く

 

どこでもぬかるみがじめじめした道につづいた

 

わたしは獸(けだもの)のやうに靴をひきずり

 

あるひは悲しげなる部落をたづねて

 

だらしもなく 懶惰(らんだ)のおそろしい夢におぼれた。 

 

ああ 浦!

 

もうぼくたちの別れをつげよう

 

あひびきの日の木小屋のほとりで

 

おまへは恐れにちぢまり 猫の兒のやうにふるゑてゐた。

 

あの灰色の空の下で

 

いつでも時計のやうに鳴つてゐる!

 

浦!

 

ふしぎなさびしい心臟よ。

 

浦! ふたたび去りてまた逢ふ時もないのに。 

 

   *

「あるひは」「ふるゑてゐた」はママ。但し、「獸」のルビの「けたもの」、「懶惰」の「らいだ」は音読上の齟齬を生ずるので誤植として訂した。後者はしかし、誤読であるものの、慣用的にはしばしば行われるものではあり、萩原朔太郎がこれをそう音読していなかった可能性を完全に排除することは出来ない。しかし、この「らいだ」のルビはこの「宿命」だけに存在し、先行する再録の詩集二種には「懶惰」の「懶」にのみ「らん」のルビが附されていることからも、誤植の可能性が高いように思われることから訂正した。]

荒寥地方 萩原朔太郎

 

 荒寥地方

 

散步者のうろうろと步いてゐる

 

十八世紀頃の物さびしい裏街の通りがあるではないか

 

靑や綠や赤やの旗がびらびらして

 

むかしの出窓に鐵葉(ぶりき)の帽子が飾つてある。

 

どうしてこんな情感のふかい市街があるのだらう

 

日時計の時刻はとまり

 

どこに買物をする店や市場もありはしない。

 

古い砲彈の碎片(かけ)などが掘り出されて

 

それが要塞區域の砂の中でまつくろに錆びついてゐたではないか

 

どうすれば好いのか知らない

 

かうして人間どもの生活する 荒寥の地方ばかりを步いてゐよう。

 

年をとつた婦人のすがたは

 

家鴨(あひる)や鷄(にはとり)によく似てゐて

 

網膜の映るところに眞紅(しんく)の布(きれ)がひらひらする。

 

なんたるかなしげな黃昏だらう

 

象のやうなものが群がつてゐて

 

郵便局の前をあちこちと彷徨してゐる。

 

「ああどこに 私の音づれの手紙を書かう!」 

 

[やぶちゃん注:第一書房版「萩原朔太郎詩集」(昭和三(一九二八)年三月刊)のもの。初出は大正一二(一九二三)年一月号『極光』であるが、当該雑誌が見つからず、採集不能、と筑摩版全集の解題にある。先の「沿海地方から」の運命と同様に、後に「定本靑猫」(昭和一一(一九三六)年版畫莊刊)に所収されたものが最終形として人口に膾炙しているようだが(しかも、それは筑摩版全集の消毒済みの恣意的改変物である)、これも全く同様に、真の最終形としての「宿命」(昭和一四(一九二九)年創元社刊)がある。以下に示す(【2022年2月1日修正】国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認して修正した)。

 

   * 

 

 荒寥地方

 

散步者のうろうろと步いてゐる

 

十八世紀頃の物さびしい裏街の通りがあるではないか。

 

靑や赤や黃色の旗がびらびらして

 

むかしの出窓に鐵葉(ぶりき)の帽子が飾つてある。

 

どうしてこんな情感のふかい市街があるのだらう!

 

日時計の時刻はとまり

 

どこに買物をする店や市場もありはしない。

 

古い砲彈の碎片(かけ)などが掘り出されて

 

それが要塞區域の砂の中で まつくろに錆びついてゐたではないか

 

どうすれば好いのか知らない

 

かうして人間どもの生活する 荒寥の地方ばかりを步いてゐよう。

 

年をとつた婦人のすがたは

 

家鴨(あひる)や鷄鳥(にはとり)によく似てゐて

 

網膜の映る所に眞紅(しんく)の布(きれ)がひらひらする。

 

なんたるかなしげな黃昏だらう

 

象のやうなものが群がつてゐて

 

郵便局の前をあちこちと彷徨してゐる。

 

「ああどこに 私の音信(おとづれ)の手紙を書かう!」

 

   *

再度、言おう。――この萩原朔太郎の最終決定稿を我々が眼にすることが殆んどないというのは――これは正当にして正統なこと――だろうか?]

 

 

沿海地方から 萩原朔太郎 (「沿海地方」初出形)

 

  沿海地方から 

 

馬や駱駝のあちこちする

光線のわびしい沿海地方にまぎれてきた。

交易をする市場はないし

どこで毛布(けつと)を賣りつけることもできはしない。

店鋪もなく

さびしい天幕が砂地の上にならんでゐる。

どうしてこんな時刻を通行しやう

土人のおそろしい兇器のやうに

いろいろな呪文がそこらいつぱいにかかつてしまつた。

景色はもうろうとして暗くなるし

へんてこなる砂風(すなかぜ)がぐるぐるとうづをまいてる。

どこにぶらさげた招牌(かんばん)があるではなし

交易をしてどうなるといふあてもありはしない。

いつそぐだらくにつかれてきつて

白砂の上にながながとあほむきに倒れてゐやう。

さうして色の黑い娘たちと

あてもない情熱の戀でもさがしに行かう。 

 

[やぶちゃん注:『新潮』第三十八巻第六号・大正一二(一九二三)年六月号に掲載された。「通行しよう」「つかれてきつて」「あほむきに」「ゐやう」は総てママ。後に第一書房版「萩原朔太郎詩集」(昭和三(一九二八)年三月刊)などに改訂して載り、更に「定本靑猫」(昭和一一(一九三六)年版畫莊刊)に所収されたものが最終形として人口に膾炙する。以下に示す。 

 

 沿海地方

 

馬や駱駝のあちこちする

光線のわびしい沿海地方にまぎれてきた。

交易をする市場はないし

どこで毛布(けつと)を賣りつけることもできはしない。

店舗もなく

さびしい天幕(てんまく)が砂地の上にならんでゐる。

どうしてこんな時刻を通行しよう!

土人のおそろしい兇器のやうに

いろいろな呪文がそこらいつぱいにかかつてしまつた

景色はもうろうとして暗くなるし

へんてこなる砂風(すなかぜ)がぐるぐるとうづをまいてる。

どこにぶらさげた招牌(かんばん)があるではなし

交易をしてどうなるといふあてもありはしない。

いつそぐだらくにつかれきつて

白砂の上にながながとあふむきに倒れてゐよう。

さうして色の黑い娘たちと

あてもない情熱の戀でもさがしに行かう。 

 

太字「いつぱい」は底本では傍点「ヽ」。但し、原稿の本詩の定形(筑摩書房版全集校訂本文版)では第一書房版「萩原朔太郎詩集」所収のものを採用して「店舗」は「店鋪」となっている。

 しかし、実は萩原朔太郎が最後にこの詩を採録したのは「宿命」(昭和一四(一九二九)年創元社刊)であった。ところが筑摩版全集はこれを「宿命」の本文としては編集方針に拠って省略している。では、それは他の何れか全く同一かと言えば――実はかなり違う――のである。以下に示す(底本校異によって再現したものである)。 

 

 沿海地方

 

馬や駱駝のあちこちする

光線のわびしい沿海地方にまぎれてきた。

交易をする市場はないし

どこで毛布(けつと)を賣りつけることもできはしない。

店鋪もなく

さびしい天幕(てんまく)が砂地の上にならんでゐる。

どうしてこんな時刻を通行しよう

土人のおそろしい兇器のやうに

いろいろな呪文がそこらいつぱいにかかつてしまつた。

景色はもうろうとして暗くなるし

へんてこなる砂風(すなかぜ)がぐるぐるとうづをまいてる。

どこにぶらさげた招牌(かんばん)があるではなし

交易をしてどうなるといふあてもありはしない。

いつそぐだらくにつかれきつて

熱砂(ねつさ)の上にながながと倒れてゐよう。

さうして色の黑い娘たちと

あてのない情熱の戀でもさがしに行かう。 

 

太字「ぐだらく」は底本では傍点「ヽ」。

 さて――則ち、真の最終形は実はこれであったのだ。――が、現在の多くの読者はこの詩形を見ることがない。――これは正当にして正統なこと――だろうか?

 因みに私は、個人的に萩原朔太郎の「~地方」という詩題に対して、ランボーが遠い砂漠に吸い寄せられていった如き、無条件の麻薬的誘惑を感じる。だからこそ、この見られることがない最終形には、妙な孤独な共感を覚えるのである……。

父島大村街上所見 五首 中島敦 (「小笠原紀行」より)

    以下五首 大村街上所見

[やぶちゃん注:「大村」父島の中心地である北西部の集落名。現在も小笠原諸島を統轄する小笠原村役場が置かれている。]

僧衣(ころも)著(け)す僧が竿もて木瓜(パパイヤ)の實をとりにけり立ちて食(を)しけり

[やぶちゃん注:「著す」は「着す」とも書く上代語で、サ行四段活用の他動詞。「着る」の尊敬語。

「木瓜(パパイヤ)」双子葉植物綱スミレ目パパイア科パパイア Carica papaya。ボケと同じ「木瓜」という表記はパパイアの異名和名の一つであるが、これで「モッカ」と読む。他にも「チチウリノキ(乳瓜木)」「マンジュマイ(万寿瓜)」「パウパウ」「ポーポー」「ママオ」「ツリーメロン」などと呼ばれることもある(以上はウィキの「パパイア」に拠る)。]

小笠原支廳の庭に椰子伸びて島の役所の事無げに見ゆ

[やぶちゃん注:「小笠原支廳」ウィキ小笠原諸島」の「年表」をみると、明治九(一八七六)年に小笠原島の日本統治を各国に通告して日本の領有が確定、小笠原諸島は内務省の管轄となり、同時に日本人三十七名が父島に定住して内務省出張所が設置され、明治十三(一八八〇)年には父島に東京府小笠原出張所が置かれている(この二年後の明治一五(一八八二)年には東京府出張所の行なう行政に協議権をもつ会議所も設置され、議員十五人を公選、この時、欧米系住民が全て日本に帰化している)。その後、明治一九(一八八六)年にこの小笠原出張所が小笠原島庁と改称(この後の大正九(一九二〇)年には陸軍築城部が父島支部設置し、これ以降、先の歌に出た砲台などの陸軍施設が建設されていった)、大正一五(一九二六)年の郡制の廃止と同時に小笠原島庁は東京府小笠原支庁に改称していることが分かる。]

みんなみの島の理髮店(とこや)の晝永くうつらうつらとひげ剃らせけり

[やぶちゃん注:「うつらうつら」の後半は底本では踊り字「〱」。]

父島の二見細江(ほそえ)の渚べに赤ら目河豚が打ちあがりゐる

[やぶちゃん注:「父島の二見細江の渚べ」父島の北西に、大村を西岸とする西に開いた大きな二見湾があり、この湾の大村を含む北部一帯の貫入部分が、父島の表玄関である二見港である。「細江」とあるのは地名ではないと思われ、細い入り江の謂いであろう。地図で見ると二見港の開口部分は一キロメートル程度、二見港最深部もここから一キロ半程で、「細江」と言ってもおかしくはないと思われる。

「赤ら目河豚」和名では条鰭綱フグ目フグ科トラフグ属アカメフグ Takifugu chrysops がいるが、トラフグ属ヒガンフグ Takifugu pardalis など他の種でも目が赤いフグ類はおり、実際にヒガンフグは地方名でアカメフグとも呼称するのでここでは同定は出来ない。]

午後(ひるすぎ)の石垣の上に尾の切れし石龍子(とかげ)を見たり金綠(きんりよく)の背(せな)

西藏のちひさな鐘 大手拓次

 西藏のちひさな鐘

むらさきのつばきの花をぬりこめて、
かの宗門のよはひのみぞにはなやかなともしびをかかげ、
憂愁のやせさらぼへた馬の背にうたたねする鐘よ、
そのほのぐらい銀色(ぎんいろ)のつめたさは
さやさやとうすじろく、うすあをく、
嵐氣(らんき)にかくされたその風貌の刺(とげ)のなまなましさ。
鐘は僧形のあしのうらに疑問のいぼをうゑ、
くまどりをおしせまり、
笹の葉のとぐろをまいて、
わかれてもわかれてもつきせぬきづなの魚(うを)を生かす。

[やぶちゃん注:「西藏のちひさな鐘」とはチベット仏教で用いられる仏具マニ車(摩尼車)のことである。]

戀人を抱く空想 大手拓次

 戀人を抱く空想

ちひさな風がゆく、
ちひさな風がゆく、
おまへの眼をすべり、
おまへのゆびのあひだをすべり、
しろいカナリヤのやうに
おまへの乳房のうへをすべりすべり、
ちひさな風がゆく。
ひな菊と さくらさうと あをいばらの花とがもつれもつれ、
おまへのまるい肩があらしのやうにこまかにこまかにふるへる。

鬼城句集 夏之部 蛇の衣

蛇の衣   はたはたと蛇のぬけがら吹かれけり

[やぶちゃん注:「はたはた」の後半は底本では踊り字「〱」。]

2013/08/01

小出新道 萩原朔太郎 (附自註 初出形)

 小出新道

ここに道路の新開せるは
直(ちよく)として市街に通ずるならん。
われこの新道の交路に立てど
さびしき四方(よも)の地平をきはめず
暗鬱なる日かな
天日家並の軒に低くして
林の雜木まばらに伐られたり。
いかんぞ いかんぞ思惟をかへさん
われの叛きて行かざる道に
新しき樹木みな伐られたり。

◎小出の林は前橋の北部、赤城山の遠き麓(ふもと)にあり、我れ少年の時より、學校を厭ひて林を好み、常に一人行きて瞑想に耽りたる所なりしが、今その林皆伐られ、樽、樫、撫の類、むざんに白日の下に倒されたり。新しき道路ここにひかれ直として利根川の岸に通ずる如きも、我れその遠き行方を知らず。

[やぶちゃん注:『日本詩人』第五巻第六号・大正一四(一九二五)年六月号に掲載された詩と自註解説。「樽」「撫」「ひかれ」はママ。これがどういう形で同誌に示されていたかは分からないが、カップリングして示した。後に詩集「純情小曲集」(大正一四(一九二五)年八月新潮社刊)の巻末の詩群「郷土望景詩」に所収された際には、同詩群の後に自註を纏めた「郷土望景詩の後に」が附された。そこでは自註には「Ⅳ 小出松林」という標題が附せられて、

 Ⅳ  小出松林

 小出の林は前橋の北部、赤城山の遠き麓にあり。我れ少年の時より、學校を厭ひて林を好み、常に一人行きて瞑想に耽りたる所なりしが、今その林皆伐られ、楢、樫、橅の類、むざんに白日の下に倒されたり。新しき道路ここに敷かれ、直として利根川の岸に通ずる如きも、我れその遠き行方を知らず。

と訂されてある。詩集「氷島」「宿命」にも本詩は所収されるが、大きな改稿はなく、ここでは特に問題にしないこととした。

 私はこの最後の三行の凄絶さをいつも秘かに畏れる。]

少年と裏山に登りて 十首 中島敦 (「小笠原紀行」より)

  この少年を伴ひて裏山にのぼる

この山の案内(あない)をせむといふ少年の名を問へばロバァト

灌木分けて巖根(いはね)を攀ぢ行けば汗流れたりロバァトも我も

上衣脱ぎ手に持ち行けど汗しとゞにじみて來るも三月といふに

メリメ書くコルシカの山も思はるゝ日は豐かなれど岩の峻(こご)しさ

[やぶちゃん注:フランスの作家プロスペル・メリメ(Prosper Mérimée 一八〇三年~一八七〇年)は一八三四年にフランス歴史記念物監督官に就任(一八六〇年まで在任)、公務を交えてフランス各地やコルシカ島への考古学的調査を含めた旅をする機会を得、その旅行記(一八三五年~一八四一年)を出版しているが、ここはメリメの、「カルメン」に先行する代表作でコルシカ島を舞台とした女性の仇討小説「コロンバ」(一八三〇年~一八四〇年)を指しているか(ウィキプロスペル・メリメ」などを参照した)。]

岩の上(へ)の赤章魚樹(あかたこのき)の厚葉ごしに大わたつみの靑き膨らみ

岩疊(いはだたみ)のぼりのぼりて要塞の錢條網に行當りたり

[やぶちゃん注:「要塞」小笠原父島要塞。父島は日本海軍が日露戦争後に着目し、貯炭場・無線通信所などを設置、海軍からの強い要請で、大正九(一九二〇)年に陸軍築城部父島支部が設置されて測量・砲台設計に着手した。砲台工事は翌年から着工されたが、一九二二年二月のワシントン軍縮会議による太平洋防備制限条約により砲台工事は中止となっていた。しかし、昭和九(一九三四)年十二月に日本が防備制限条約から脱退するに伴って、砲台工事は再開、備砲工事に着手している。本旅行は昭和一一(一九三六)年の春であるから既に相応のものが完成していたものと思われる(ウィキ父島要塞」を参照した)。「ファーザーのHP」の小笠原要塞(父島、母島)及びそこからリンクする詳細探訪ページによれば、父島の要塞は大神山・夜明山及び最高峰の中央山にそれぞれ存在したことが分かる。ここは心情的にはロケーションから中央山ととりたくはなる(ファーザー氏の当該画像ページ)。]

大き雲過ぎ行くなべに岩山も斜面(なだり)の椰子もしまし翳(かげ)りつ

[やぶちゃん注:「斜面(なだり)」「傾(なだり)」は「なだれ」(雪崩・傾れ・頽れ)の転訛した語で、斜めに傾くこと、また、そのような地形を指す。近代になって発生した語のようである。]

眞日わたる南國(みなみ)の空に雲なくて見入ればしんしんと深き色かも

山峽(やまかひ)の谷に家あり家裏に豚飼ひにけりバナナも植ゑつ

豚の背に銀蠅あまた唸りゐてバナナ畠に陽はうらゝなり

戀人を抱く空想 大手拓次

 戀人を抱く空想

ちひさな風がゆく、
ちひさな風がゆく、
おまへの眼をすべり、
おまへのゆびのあひだをすべり、
しろいカナリヤのやうに
おまへの乳房のうへをすべりすべり、
ちひさな風がゆく。
ひな菊と さくらさうと あをいばらの花とがもつれもつれ、
おまへのまるい肩があらしのやうにこまかにこまかにふるへる。

蟬     啞蟬の捕られてぢゝと鳴きにけり

      啞蟬をつゝき落して雀飛ぶ

[やぶちゃん注:「啞蟬」は「おしぜみ」で鳴かない蟬。普通は鳴くことが出来ない雌の蟬を指すが、最初の句はたまたま鳴いていなかった雄である。季題「蟬」の句が二句とも「啞蟬」であるというのも鬼城らしさを感じさせる。]

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