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2013/08/21

耳嚢 巻之七 國栖の甲の事

 國栖の甲の事

 

 武田信玄國栖(くず)の甲(かぶと)は、高貮百石にて大御番(おほごばん)元勤(つとめ)し渡邊左次郎家に傳はりしを、見し人の語りしは、頭形(づなり)三枚錣(しころ)にて打見(うちみ)は麁末(そまつ)に見ゆれど、右錣の裏に切金(きりかね)入(いり)候、國栖草(くづくさ)の蒔繪(まきゑ)にて、同庇(ひさし)に信玄自筆にて款(くわん)を認(したた)めたり、

  いかにせん國栖のうら吹秋風に下葉の露殘りなき身は

 上州白井(しろゐ)にて妙珍信家(めうちんのぶいへ)の作也。甲州侍下條伊豆守戰國に浪々して、其悴(せがれ)渡邊家へ養(やしなは)れける故、今彼(かの)家に持(もち)傳へしと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。標題は「國栖(くず)の甲(かぶと)の事(こと)」と読む。

・「國栖」「國栖草」は葛唐草で唐草模様のこと。因みに、「葛(くず)」の元は古えの大和吉野川上流の山地にあったという村落「国栖(くず)」で、ここの民が葛粉を作っていたことに由来するという。この「くず」という読みは「くにす」の音変化で、この村人「くずびと」は特に選ばれて宮中の節会に参じ、贄(にえ)を献じ、笛を吹き、口鼓(くちつづみ)を打って風俗歌を奏したという。なお岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『国栖唐草』となっている。

・「大御番」大番。常備兵力として旗本を編制した警護部隊で、江戸城以外に二条城及び、この大坂城が勤務地としてあり、それぞれに二組(一組は番頭一名・組頭四名・番士五〇名、与力一〇名、同心二〇名の計八五名編成)が一年交代で在番した(以上はウィキの「大番」に拠る)。

・「渡邊左次郎」底本鈴木氏注に、渡邊英(さかえ)とし、安永五(一七七六)年に三十六歳で大番とあるから、生年は寛保元・元文六(一七四一)年で、「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年当時も存命であれば、六十六歳。

・「頭形」頭形兜(ずなりかぶと)。平安末期に発生したと考えられている兜の一形式。三~五枚と少ない鉄板から成り、制作の手間もコストも比較的低かったことから戦国以降に広く使用された。名前の通り、兜鉢の形は人間の頭に似ているのが最大の特徴である。参照したウィキの「頭形兜」に錣(兜の鉢の左右・後方に附けて垂らし、首から襟の防御とするもの)についての詳しい形状のほか、写真もあるので参照されたい。

・「打見」ちらっと見たところ、ちょっと見の意。

・「切金」金銀の薄板を小さく切って、蒔絵の中にはめ込む技法。箔より少し厚めのものを用いて図中の雲などにあしらう。

・「同庇」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『間庇』で、これだと、「眉庇」「目庇」(まびさし)で、兜の鉢の前方に庇のように出て額を蔽う部分の意。「同」は誤写かも知れないが、意味は通る。

・「款」金石などに文字をくぼめて刻むこと。また、その文字。但し、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『歌』。これも誤写かも知れないが、意味は通る。

・「いかにせん國栖のうら吹秋風に下葉の露殘りなき身は」底本には下の句の「露殘」の右に『(ママ)』注記がある(訳では「の」を補った)。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版には(正字化した)、

 いかにせんくずの裏吹く秋風に下葉の露の殘りなき身を

とある。この和歌は「新古今和歌集」の「卷第一三 戀歌三」に載る相模の(国歌大観一一六六番歌)、

   人しれず忍びけることを、文(ふみ)などちらすと聞きける人につかはしける

 いかにせん葛のうらふく秋風に下葉の露のかくれなき身は

のインスパイアである。元歌は、送った恋文をあちらこちらで面白がっては見せていると噂に聴いた男にへの恨み節で、

――いったいどうしたらよいのでしょうか……葛の葉裏を吹き返す秋風のために下葉におかれていた露がすっかりあらわになってしまうように……私の飽きがきた貴方のために今やすっかり世間の晒し者とされてしまった消え入らんばかりに恥ずかしく淋しいこの我が身を……お恨み申しますわ――

であるのを、戦場に、所詮、露の如くに儚い残り少なき身――命を散らす、この兜を被った武将の、不惜身命是非に及ばずという諦観と覚悟に鮮やかに転じたもの。

・「上州白井」現在の群馬県群馬郡子持(こもち)村白井(しろい)。

・「妙珍信家」(文明一八(一四八六)年?~永禄七(一五六四)年?)室町末期から戦国期にかけての甲冑師。甲冑工を本職としてきた明珍家の第十七代。「明珍系図」によれば、前記の上野国白井に住し、初名を安家、後に剃髪して覚意と号したという。また、武田晴信から一字を賜って信家と改名、甲州(現在の山梨県)や相模小田原にも移り住んだともされるが確証はない。古来、鐔工として著名な信家と同一人物視されたこともあったが、現在では別人と見做されている(「朝日日本歴史人物事典」に拠ったが、「白井」の部部は底本の鈴木氏の注を援用した)。

・「下條伊豆守」底本の鈴木氏注に、『信州伊那郡下条村の富山城に拠った下条氏(甲陽軍鑑に下条百五十騎)は武田氏の勢力に屈し、信玄は一族の伊豆守信氏に下条の家名を襲わしめた』とある。ウィキの「下条信氏」によれば、下条信氏(しもじょうのぶうじ 享禄二(一五二九)年~天正一〇(一五八二)年)は戦国時代の武将で父は下条時氏。信濃小笠原氏、後の甲斐武田氏の家臣で、武田晴信(信玄)の義兄弟、信濃吉岡城(伊那城)城主。兵庫助、伊豆守。正室は武田信虎の娘。下条氏は甲斐国巨摩郡下条(韮崎市下条西割)から興った武田氏の一族とも言われているが、室町時代中期に小笠原氏から養子が入り、信濃下伊那郡へ入国したという。信濃国守護である小笠原氏に仕え、天文年間に本格化した武田氏の信濃侵攻においても反武田勢に加わっているが、天文二三(一五五四)年八月の鈴岡城攻略前後に武田方に服従、信濃国上伊那郡知久氏(ちくし:知久沢。現在の長野県上伊那郡箕輪町)を与えられている。弘治元(一五五五)年には時氏の死去により家督を継承、信氏は武田氏家臣で譜代家老衆であった秋山虎繁(信友)の配下となり、「甲陽軍鑑」では信濃先方衆に含まれている。武田晴信(信玄)からは重用されて、その妹を正室に与えられ、晴信の「信」を与えられて信氏と改名(「武田氏系図」による)、「下条記」では信氏ら下伊那衆は武田四天王の一人山県昌景(まさかげ)の相備衆(与力)に任じられた。以後は史料に名が見られないが、弘治三(一五五七)年の三河国武節(ぶせつ)城攻め、永禄四(一五六一)年の川中島の戦いに参戦している。「下条記」によれば、元亀二(一五七一)年四月には秋山に従って三河攻めに参加、足助(あすけ)城(真弓山(まゆみやま)城)番を務め、元亀三(一五七二)年から天正三(一五七五)年八月まで美濃岩村城番を務めている。天正一〇(一五八二)年二月、織田信長による甲州征伐が始まると吉岡城は織田の武将・河尻秀隆や森長可らに攻められることになるが、弟の氏長が織田軍に内応したため落城し、信氏は長男の信正と共に三河黒瀬に落ち延びた。武田氏の滅亡と本能寺の変を経た六月二十五日に遠江宮脇で死去。享年五十四、とある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 国栖唐草(くずからくさ)の兜(かぶと)の事

 

 武田信玄國栖(くず)の兜(かぶと)と申すもの、高二百石にて大御番(おおごばん)をもと勤めておられた渡邊左次郎殿の家に伝わっており、それを実見致いた人の語ったことには――

……その兜は頭形三枚錣(ずなりさんまいしころ)にて、一見、粗末な造りに見えるけれども、その錣の裏には切金(きりかね)細工が施されて御座って、それが国栖唐草(くずからくさ)の蒔絵(まきえ)という趣向、またその庇(ひさし)部分には、これ何と、信玄自筆にて款(かん)を認(したた)め、

  いかにせん国栖のうら吹秋風に下葉の露の残りなき身は

と彫られて御座る。

 しかもこれ何と、上州白井(しろい)の、かの名甲冑師妙珍信家(みょうちんのぶいえ)の作にて御座る。

 戦国の頃、甲州の侍であった下條伊豆守信氏(のぶうじ)は、浪人となって諸国を彷徨(さすら)って御座ったが、その間、信氏の倅(せがれ)が、かの渡邊家へ預けられ、養われたという因縁より、今に、かの渡邊家に伝えられておる、とのことで御座る。……

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