日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 4 横浜スケッチ
この国の人々がどこまでもあけっぱなしなのに、見るものは彼等の特異性をまざまざと印象づけられる。たとえば往来の真ん中を誰はばからず子どもに乳房をふくませて歩く婦人をちょいちょい見受ける。また、続けざまにお辞儀(じぎ)をする処を見ると非常に丁寧であるらしいが、婦人に対する礼譲に至っては、我々はいまだ一度も見ていない。一例として、若い婦人が井戸の水を汲むのを見た。多くの町村では、道路に沿うて井戸がある。この婦人は、荷物を道路に置いて水を飲みにきた三人の男によって邪魔をされたが、彼女は彼等が飲み終わる迄、辛抱強く横に立っていた。我々は勿論彼等がこの婦人のために一バケツ水を汲んでやることと思ったが、どうしてどうして、それ所か礼の一言さえも云わなかった。
店に入る――と云った処で、多くの場合には単に敷居をまたいで再び大地を踏むことに止るが――時、男も女もはき物を残す。前に出した写生図でも判る通り、足袋(たび)は、拇指が他の四本の指と離れた手套(てぶくろ)に似ているので、下駄なり草履なりを脱ぐのが、実に容易に行われる。あたり前の家の断面図を第9図で示す。店なり住宅なりの後方にある土地は、如何に狭くても、何かの形の庭に使用されるのである。
[やぶちゃん注:図―9は底本のキャプションの“ROOM”文字の一部がカスレていたため補筆した。]
ある階級に属する男たちが、馬や牡牛の代りに、重い荷物を一杯結んだ二輪車を引っぱったり押したりするのを見る人は、彼等の痛々しい忍耐に同情の念を禁じ得ぬ(図10)。彼等は力を入れる時、短い音を連続的に発するが、調子が高いので可成り遠くの方まで聞える。繰り返して云うことはホイダ ホイ! ホイ サカ ホイ! と聞える。顔を流れる汗の玉や、口からたれる涎(よだれ)は、彼等が如何に労苦しているかの証拠である。またベットー即ち走丁(フットマン)(めったに馬に乗ることをゆるされぬ彼は、文字通りの走丁である。)の仕事は、人が多勢歩いている往来を、馬車に先立って走り、路をあけることである。かくの如くにして人間が馬と同じ速さで走り、これを何マイルも何マイルも継続する。かかるベットーは黒い衣服に、丸くて黒い鉢のような形のものをかぶり、長い袖をべらべらと後にひるがえす。見る者は黒い悪魔を連想する。
[やぶちゃん注:1マイルは約1・6キロメートル。
「ベットー」原文は“betto”。これは「別当」で、宮中にあって院の厩司(うまやのつかさ)の別当から転じた馬丁のことを意味する古語である。
「走丁(フットマン)」の「フットマン」はルビ。原文の“footman”は、制服を着た男の召し使いの謂いである。またこの語には、古めかしい謂い方で「歩兵」という意があり、その(モースから見て)如何にも奇体な装束(「黒い悪魔」“black demons”)から、このニュアンスも利かせているのかも知れない。]
いたる所に広々とした稲の田がある。これは田を作ることのみならず、毎年稲を植える時、どれ程多くの労力が費やされるかを物語っている。田は細い堤によって、不規則な形の地区に分たれ、この堤は同時に各地区への通路になる。地区のあるものには地面を耕す人があり(図11)、他では桶から液体の肥料をまいており、更に他の場所では移植が行なわれつつある。草の芽のように小さい稲の草は、一々人の手によって植えられねばならぬので、これは如何にも信じ難い仕事みたいであるが而も一家族をあげてことごとく、老婆も子供も一緒になってやるのである。小さい子供達は赤坊を背中に負って見物人として田の畔にいるらしく見える。この、子どもを背負うということは、至る処で見られる。婦人が五人いれば四人まで、子どもが六人いれば五人までが、必ず赤坊を背負っていることは誠に著しく目につく。時としては、背負う者が両手を後ろに廻して赤坊を支え、又ある時には赤坊が両足を前につき出して馬に乗るような格好をしている。赤坊が泣き叫ぶのを聞くことは、めったになく、又私はいま迄の所、お母さんが赤坊に対して疳癪(かんしゃく)を起しているのを一度も見ていない。私は世界中に日本ほど赤坊のために尽す国はなく、また日本の赤坊ほどよい赤坊は世界中にないと確信する。かつて一人のお母さんが鋭い剃刀(かみそり)で赤坊の頭を剃っていたのを見たことがある。赤ん坊は泣き叫んでいたが、それにも拘らず、まったく静かに立っていた。私はこの行為を我国のある種の長屋区域で見られる所のものと、何度も何度もくりかえして対照した。
[やぶちゃん注:「長屋区域」原文“tenement regions”。この“tenement”は“tenement house”でアメリカで特に貧困地区の安アパートや共同住宅を指す。]
私は野原や森林に、わが国にあるのと全く同じ植物のあるのに気がついた。同時にまるで似ていないのもある。棕櫚(しゅろ)、竹、その他明らかに亜熱帯性のものもある。小さな谷間の奥ではフランスの陸戦兵の一隊が、粋な帽子に派手な藍色に白の飾りをつけた制服を着て、つるべ撃ちに射撃の練習をしていた。私は生まれてはじめて茶の栽培を見た。どこを見ても興味のある新しい物象が私の目に入った。
[やぶちゃん注:「フランスの陸戦兵の一隊」横浜の居留地を防衛することを名目として横浜の山手に駐屯したイギリス・フランスの横浜駐屯軍は明治八(一八七五)年三月に両軍ともに全面撤退が完了しているが、これは所謂、第二次フランス軍事顧問団の関係者か。そういえば、横浜のJR東日本の山手駅前の直線道路部分は、戦前、陸軍の射撃場であったように記憶するが、この嘱目ももしかするとそこででもあったのかも知れない。]