寂しさや華はなのあたりのあすならふ 芭蕉 萩原朔太郎 (評釈)
寂しさや華はなのあたりのあすならふ
「あすは檜の木とかや、谷の老木のいへることあり。きのふは夢と過てあすは未だ來たらず。生前一樽の樂しみの外、明日は明日と言ひ暮して、終に賢者のそしりを受けぬ。」といふ前書がついてる。芭蕉俳句の一風情である幽玄體の侘しをりが、新古今體の抒情味で床しく歌はれて居る。
[やぶちゃん注:『コギト』第四十二号・昭和一〇(一九三五)年十一月号に掲載された「芭蕉私見」の中の評釈の一つ。昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の巻末に配された「附錄 芭蕉私見」では、以下のように評釈が全く異なっている。
寂しさや華はなのあたりのあすならふ
「あすは檜の木とかや、谷の老木のいへることあり。きのふは夢と過ぎてあすは未だ來きたらず。生前一樽の樂しみの外、明日は明日はと言ひ暮して、終に賢者のそしりを受けぬ。」という前書がついてる。初春の空に淡く咲くてふ、白夢のような侘しい花。それは目的もなく歸趨もない、人生の虛無と果敢なさを表象して居るものではないか。しかも季節は春であり、空には小鳥が鳴いてるのである。
新古今集の和歌は、亡び行く公卿階級の悲哀と、その虛無的厭世感の底で歔欷してゐるところの、艷に妖しく媚めかしいエロチシズムとを、暮春の空に匂ふ霞のように、不思議なデカダンスの交響樂で匂はせてゐる。即ち史家の所謂「幽玄體」なるものであるが、芭蕉は新古今集を深く學んで、巧みにこの幽玄體を自家に取り入れ、彼の俳句における特殊なリリシズムを創造した。前の「山吹や」の句も、同樣にその芭蕉幽玄體の一つである。
文中の『前の「山吹や」の句』は、
山吹や笠にさすべき枝の形
を指す。この評釈は既に出した。]
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