栂尾明恵上人伝記 54 ぎゅうの音も出ぬ個人の祈禱を断わる方法
又、人の、祈願して給ふべき由所望申しければ、上人云はく、我は朝夕一切衆生の爲に祈念を致し候へば、定めて御事も其の數の中にてましまし候ふらん、されば別して祈り申すべきにあらず、叶ふべきことにて候はゞ叶ひ候はんずらん、又叶ふまじきことにて候はゞ、佛の御力も及ぶまじき事にて候ふらん。其の上平等の心に背きて御事ばかり祈り候はんこと親疎(しんそ)あるに似たり。左樣に親疎あらんものゝ申さんことをば、佛神もよも御聞き入れ候はじ。佛神の御内證(ごないしよう)恥しく候。又佛は方々の御事をば一子の如く思(おぼ)しめし候に、叶へても進ぜられ候はぬは、何にもやうこそ候らめ。譬へば、をさなき者毒をしらで食したがり候を、親の奪ひ取り候をば、甚だ恨みて泣き候が如し。一旦は本意(ほんい)なきやうに候へども、終にはよかるべきはからひなり。されば佛をも神をも御(おん)恨み有るまじく候。又不信放逸(ふしんはういつ)の心ある人をば千佛も救ひ給はぬことなり。されば我身の拙きことを顧みて、身をこそ恨み給ふべく侍れ、祈(いのり)叶はざらん時も佛の御計らひ、やうぞあらんと思ひ給ふべし。かやうに申し候へば、先聖の掟(おきて)を背きて人の祈りせじと申す物狂(ものぐるひ)ありといふ沙汰に及びぬと覺え候。先聖は皆方便ありて述べ置き給へる子細あるを、然るに我等やうの無智の者左右(さう)無くそれを學ばゝ大に誤あるべしとて聞き入れ給はざりけり。
[やぶちゃん注:「佛神の御内證恥しく候」仏神の計り知れない奥深い悟りの境地を察するならば、これは、まっこと、お恥ずかしい限りのことで御座る。
「何にもやうこそ候らめ」何か特別な理由があるからで御座いましょう。以下の「やうぞあらん」も同義。]
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