栂尾明恵上人伝記 55 明恵は実は栄西より臨済禅の印可を受けていた
笠置(かさぎの)解脱上人法談の爲に來り給ひける時、一人美麗の織物の小袖を服して對面有りけるに、解脱上人思はず氣に思召(おぼしめ)し、目を立てて見給ひければ、上人指にて小袖のくびを指して、是が御目に立ち候かと仰せられければ、解脱一人如法(によほふ)心づかひし損じにけりと思はれたる體なり。是は其の比上人信仰の御所々々より、結緣(けちえん)の爲に衣裳(いしやう)を暫しきせ進らせられけるなり。其の折節解脱上人おはしける間、只其のままにて御對面ありけり。
[やぶちゃん注:「小袖のくび」底本は「小袖のくひ」。諸本で訂した。]
建仁寺の開山千光法師、大唐國より歸朝して、達磨宗(だるましゆう)を悟り究めて、此の國に弘め給ふ由聞えけり。或時上人對面の爲に彼の寺におはしける時、折節此の僧正參内して歸られけるに、道にて行き合ひ給ひぬ。彼の僧正は新車の心も及ばぬに乘りて、誠に美々しき體なり。上人はやつれたる墨染に草履さしはき給へり。されば、此の姿なるものをばよも目も見かけられじ、無益(むやく)なりと思ひ歸り給ひけるを、僧正見知り給ひて、車より下りて人を進めて呼び歸し奉りて、對面あり。數刻問答して歸り給ひける。其の後は常に對面有りて法談あり。さる間僧正此の上人を印可し奉りて云はく、此の宗を受けつぎて興隆すべき人、大切也。上人其の器に當り給へり。枉(まげ)て我が門下にましまして共に興行し給へと申されけれども、さる子細有りとて深く辭し給ひけり。然れども入滅近付きて御法衣をば奉らる。是れ先師東林の懷敞(えしやう)和尚の法衣なりと云々。
[やぶちゃん注:「千光法師」栄西。
「達磨宗」禅宗。
「懷敞和尚」虚庵懐敞(こあんえしょう)。栄西が文治三(一一八七)年に再入宋した際の天台山万年寺の師。四年後の建久二(一一九一)年に懐敞より臨済宗黄龍派の嗣法印可を受け、同年、帰国した。]
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