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2013/08/23

北條九代記 二位禪尼を評す

      〇二位禪尼を評す

若君賴經公は、建保六年正月十六日に御誕生あり。御童名(おんわらはな)をば、三虎御前(みつとらごぜん)とぞ申しける。翌年七月、御年二歳にて、鎌倉に下向ましましけり、この日酉刻、政所始(まんどころはじめ)あり。若君御幼稚の間は、二位禪尼(のぜんに)、御簾(みす)を垂れて、政道を聽き給ふ。諸國大名、小名の掟(おきて)、京都諸公家の進退(しんだい)までも皆、禪尼の計(はからひ)なり。世には尼將軍と申して、上下靡きて恐れ奉りけり。異朝の古(いにしへ)の例(ためし)を思ふに、漢の高祖崩じ給ひて後、呂后(りよこう)、既に國柄(こくへい)を執りて、惠帝(けいてい)の德を亂し、人彘(じんてい)を觀(み)せ奉りて、疾(やまひ)を起さしめ、母子の恩義を斷絶し、劉氏(りうし)の子孫を誅して、諸呂(しよりよ)を王とし、審食其(しんいき)を寵幸(ちようこう)して、德を穢(けが)す事を恥ぢ給はず。この弊(ついえ)、後世(こうせい)に流(つたは)りて、孝平帝(かうへいてい)立つに及びて、孝元太后(かうげんたいこう)、王氏(わうし)、既に臨みて政事(まつりごと)を聽き給ふ。王莽(わうまう)、位(くらゐ)を簒(うば)ひてより、漢祚(かんそ)、中比、衰へたり。後漢の世に移りては、章帝(しやうてい)の竇皇后(とうくわうごう)、和帝(くわてい)の鄧后(とうこう)、安帝(あんてい)の閻后(えんこう)、順帝の梁后(りやうこう)、桓帝の竇后(とうこう)、靈帝の何后(くわこう)、此等、相繼いで朝(てう)に臨み、政道を行はれし事は、是、呂后より初(はじま)りて、猶、後代に及べりとかや。本朝の古(いにしへ)、神代より以來(このかた)、人倫に傳りて、世々の女帝、御位に立ち給ふ。皆、攝政を以て朝政(てうせい)を委(まか)せ給へり。賴朝の時に至り、武家、世を取りて以來(このかた)、政道を行ふに、多くは京都の叡慮、伺はる。北條家、盛になり、政道、雅意(がい)に任する事、今に至て少なからず。叡慮に背く事多し。皆、是、二位〔の〕禪尼の計(はからひ)なり。本朝の往初(そのかみ)、未だかゝる例(ためし)なし。異国の呂后は漢の罪人(つみびと)とぞ云ふべき。本庁の禪尼も亦、鎌倉の蠹贅(とぜい)なり。牝鷄(ひんけい)の晨(あした)するは萬世(ばんせい)の誡(いましめ)なり。抑(そもそも)二位禪尼に於いては、亂臣十人のためしとするか、婦人の政理(せいり)に與(あづか)るは好しとやは云はん、惡(あ)しとやせん、兎にも角にも才智優長(さいちいうちやう)の禪尼かな、と皆、稱嘆せられけり。翌年十二月一日に、若君賴經、御袴著(はかまぎ)なり、大倉の亭の南面に御簾を垂れて、その儀式を行はる。右京〔の〕大夫北條義時、御腰結(おんこしゆひ)に參られ、二品禪尼、若君を抱(いだ)き奉らる。大名、小名、思々(おもひおもひ)の奉物(たてまつりもの)は、山も更に動き出でたる心地ぞする。最(いと)めでたうこそおはしけれ。

 

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻二十四の承久元(一二一九)年七月十九日及び承久二年十二月一日などの事実を使うが、極めてオリジナルな、すこぶる強烈にして異例な政子批判のプロパガンダ的章である。私は筆者(恐らく浅井了意)は上田秋成のように、やや病的なまでの女性嫌悪感情があったのではないかと、実は秘かに疑っていることをここに述べておきたい。

「建保六年」西暦一二一八年。

「翌年七月御年二歳にて、鎌倉に下向ましましけり、政所始(まんどころはじめ)あり」「吾妻鏡」によれば、翌承久元(一二一九)年七月十九日午の刻(正午頃)に入鎌、酉の刻(午後六時頃)に『酉刻。有政所始。若君幼稚之間。二品禪尼可聽斷理非於簾中云々。』(酉の刻、政所始有り。若君、幼稚の間、二品禪尼、理非を簾中にて聽斷(ちようだん)すべきと云々)とある(増淵氏の訳は『(御参着の同月)十七日午後六時に政所始めがあった』と訳しておられるが、これは何かの間違いであろう)。この「政所始」は明らかに実質上の「将軍家政所始」なのであるが、実は三虎御前(この幼名は彼の出生が寅年寅日寅刻であったことに由来する)、後の藤原頼経の正式な将軍家宣下は、幼少であったことに加え、承久の乱を中に挟んだ結果、七年後の嘉禄二(一二二六)年一月二十七日に正五位下に叙されて右近衛権少将任官と同時に行われている(前年の嘉禄元(一二二五)年十二月二十九日に満七歳で元服している。即ち、入鎌当時は未だ満一歳、将軍就任でも満八歳であった)。

「呂后」呂雉(りょち ?~紀元前一八〇年)。漢の高祖劉邦の皇后。恵帝の母。劉邦の死後に皇太后・太皇太后となり呂后とも呼ばれた。唐の武則天(則天武后)・清代の西太后と並ぶ中国三大悪女の一人。息子恵帝の死後は元勲陳平らの意見を入れて、実家呂氏一族を重役に立て恵帝の遺児少帝恭(しょうていきょう 劉恭)を立てて暴政を続けた。少帝恭が生母の女官を祖母呂雉が殺害した事実を知って恨み出すと劉恭をも殺害、弟少帝弘(劉弘)を即位させた(紀元前一八四年)。その四年後に呂雉は死去したが、その後は陳平らが斉王の遺児等の皇族や諸国に残る劉氏の王と協力してクーデターを起こして呂氏一族は皆殺しにされ、恵帝の異母弟代王劉恒が新たに文帝として擁立されている。

・「國柄」国状。国政。

・「惠帝」劉盈(りゅうえい 紀元前二一〇年(又は二一三年)~紀元前一八八年)。皇太子であったが温和な性格が父劉邦の不興を買い、劉邦の寵妃戚氏の子劉如意を皇太子にしようとしたため、劉盈はたびたび皇太子の地位を廃されそうになった。劉邦崩御後、彼が皇帝となると皇太后となった呂雉が政治を専横、呂雉は趙王劉如意やその生母戚氏らを殺害した。ところが実母のあまりの残忍さ(後注参照)に衝撃を受けた恵帝は政務を放棄して酒色に耽った結果、夭折している。

・「人彘」人豚(ひとぶた)の意。呂雉は前の注に示したように政敵劉如意を毒殺した前後に生母戚夫人(?~紀元前一九四年?)をも捕らえ、永巷(えいこう:罪を犯した女官を入れる牢獄。)に監禁、一日中、豆を搗かせる刑罰を与えた。その後、両手両足を切り落として目玉を刳り抜き、薬で耳と喉を潰た上、便所に置いて人彘と呼ばせて飼い殺ししたと「史記」などにはある。ここまで「呂后」の注以降で主に参照したウィキの「呂后」のこの叙述の下りには『古代中国の厠は、広く穴を掘った上に張り出して作り、穴の中には豚を飼育して上から落ちてくる糞尿の始末をさせていた。厠内で豚を飼育することが通例であったことから、戚氏をこの豚のように扱ったと思われる』と注している。また、呂雉はこれを息子恵帝に見せ、それが恵帝のPTSDとなり、夭折する遠因ともなったものと思われる。なお、底本頭書には『人彘―漢書に、呂太后、戚夫人の手足々斷ち眼を去り耳を煇し瘖樂を飲し廁中に居らしめ命じて人彘と曰ふに出づ彘は豚なり』とあるが、「樂」は「藥」の誤字であろう。「煇し」は「もやし」と訓じているか。

・「審食其」(しん いき ?~紀元前一七七年)は劉邦が沛公であった頃からの側近。呂雉の覚えめでたく、紀元前一八八年には典客、翌年に左丞相となって実質的な政治実務の頂点に立った。呂雉が死ぬと太傅(たいふ:天子の輔弼役。)となり、呂雉一党が滅ぼされた後も再度丞相となっているが、文帝が即位した頃に罷免され、かつて呂雉の嫉妬から母を殺され、当時、真剣にその助命嘆願を行わなかった審食其を恨む淮南王劉長によって殺された(ウィキの「審食其」に拠る)。増淵訳では「審食基」とあるが誤植か。

・「孝平帝」は平帝の誤り。平帝(紀元前九年~紀元後五年)前漢第十三代皇帝。九歳で皇帝に即位したが、当初から後に新の皇帝となる王莽ら王氏一族が権力を握っており、母衛姫や衛氏一族は長安に入れなかった。王莽の長子王宇や彼の妻の兄呂寛らは、このことが後々禍根となることを恐れ、衛氏が長安に入れるように働きかけたが、それが王莽の怒りを買い、平帝の叔父に当たる衛宝や衛玄兄弟らと王宇や呂寛をも誅殺した。紀元後四年に王莽の娘が皇后王氏として立てられたが、翌年十二月に未央宮で十四歳で夭折した。「漢書」平帝紀注や王莽に反乱を起こした翟義(てきぎ)の檄文によると王莽が毒殺したされる。

・「孝元太后」王政君(紀元前七十一年~紀元後十三年)。前漢第十代皇帝元帝(武帝の玄孫)の皇后で、第十一代皇帝成帝生母で王莽の姑母(おば)に当るが、その関係は必ずしも穏やかではない。紀元前一年に第十二代皇帝哀帝が急死して平帝が即位すると、王政君はその混乱に乗じ、太皇太后として詔を出し、哀帝の外戚及び側近勢力を排除し、王莽を大司馬に任じ、輔政を命じた。しかし、この頃から、王莽は簒奪への動きを強め、瑞兆を理由に自らの権威強化を図るようになる。王政君自身は、王莽が簒奪を行うことに反対で、寧ろ漢家の外戚として王氏が権力を握り続けることを願っていたらしく、王莽に尊号を贈ろうとする動きには、暗に反対の立場をとっている。以下、ウィキの「王政君」によれば、紀元五年に、『王莽と対立した結果、平帝が毒殺され、劉嬰(孺子嬰)が皇帝に擁立され、王莽が周の成王と周公旦の故事に倣い、仮皇帝(摂皇帝)を名乗り、さらに』、紀元八年に『帝位に即くべく、当時、伝国璽(中国の歴代王朝および皇帝に代々受け継がれてきた玉璽(皇帝用の印)のこと)を手許に保管していた王政君に伝国璽を自身に引き渡すように求めた時、王政君は激怒し、その使者の王舜をつかまえて、次のように王莽を罵ったと言う。「お前は、誰のおかげで今の地位を得ることが出来たと思っているのか。全ては漢の歴代の皇帝陛下のお情けによるものではないか。そのご恩を忘れて、漢家が衰えるとその地位を奪わんとするのは、いったいどういうつもりなのか。お前のような奴の食べ残しは犬でも食わぬだろう。」こう言って王政君は伝国璽を王舜に向けて投げつけ、泣き崩れたという。ちなみに、この時投げつけられた伝国璽は、一部が欠損したといわれる。王莽が即位すると、王政君は「新室文母太皇太后」の尊号を贈られ、彼女のための住まいがもうけられた。そして、その住まいは、かつての元帝の廟を取り壊して造営された宮殿であった。ここで王政君のための宴会が開かれたが、「こんなことになってどうして宴会を楽しめようか。」と、参加することはなかったという』とある。

・「王氏」王皇后(紀元前九年~紀元後二三年)。名は失考。平帝の皇后で王莽の娘。平帝が死亡し、劉嬰が後継者に選ばれて王莽が摂皇帝と称して皇帝代行となると、王皇后は皇太后となった。その後に王莽が皇帝の座に就き、紀元後九年に漢が滅び、新が成立すると劉嬰は定安公とされて皇太后だった王莽の娘は定安太后となっている。但し、彼女には節操があり、漢が廃されてからは常に病気と称して朝廷の会には一切参加しなかったという。紀元後二三年、新が攻められて王莽が殺され未央宮が焼けると、彼女は「何の面目があって漢の人間に会うことができようか」と言って火中に身を投じて死んだという(ウィキの「王皇后(漢平帝)に拠る)。この女性は事蹟を見るに、この「政治にしゃしゃり出る悪しき女」列伝に載せるには相応しくないように私には感じられる。

・「王莽」(紀元前四五年~紀元後二三年)は前漢末の政治家。予言をする讖緯(しんい)説を利用して人心を集め、皇帝を毒殺して新を建国。周礼の制に基づく改革政治を断行して豪族・民衆の反発を買い、劉秀(りゅうしゅう)に滅ぼされた(「大辞林」に拠る)。

・「漢祚」「祚」は天から下される幸福の謂いであるが、ここは漢の命運の意。

・「章帝」(七五年~八八年)は後漢第三代皇帝。寛厚の長者と称されて惨酷な刑罰を廃止するなど苛切な政治を改めた。賈逵(かき)から古文学を修得し、また群儒を召集して五経の異同を討論させ、親臨して決裁した名君である(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

・「竇皇后」章徳竇皇后(?~九七年)。名は伝わらない。章帝の皇后。七七年に妹とともに長楽宮に入り、翌年には皇后に立てられた。子がなく、太子劉慶を産んだ宋貴人と劉肇(のちの和帝)を産んだ梁貴人を死に追いやった(個人サイト「枕流亭」の「中国史人物事典~歴代后妃-秦漢に拠る)。

・「和帝」(七九年~一〇五年)は後漢第四代皇帝。生母は梁貴人。七歳で即位したが前記の章徳竇皇太后が臨朝して外戚竇憲の専横を招いた。このため宦官の協力を得て、竇氏の党派を排除し、親政をおこなった。官吏登用の選挙の充実に勤め、人物の推薦に当っては実質の当否を査察させた。西域都護を復活、班超をこれに任じた。西域五十余国が服属して班超は部将の甘英を大秦国に派遣するなど、対外的には後漢の威勢がもっとも高まった時期にあたる(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

・「鄧后」和熹鄧皇后(八一年~一二一年)。名は綏(すい)。和帝の鄧皇后。幼くして学問に通じ、慎み深かった。九五年に入内、平帝の寵愛を受けた。一〇二年に平帝の陰皇后が廃される(外祖母の鄧朱とともに巫蠱媚道をおこなったとしてされる)と皇后に立てられた。和帝が崩ずると皇太后として臨朝聴政した。贅沢を誡めて簡素で寛容な政治につとめたという。殤帝及び安帝の間、永く執政に当っている(個人サイト「枕流亭」の「中国史人物事典~歴代后妃-秦漢」に拠る)。

・「安帝」(一〇六年~一二五年)は後漢第六代皇帝。一〇九年に十三歳で即位、鄧氏の臨朝が継続し、兄の鄧隲(とうしつ)が朝政を運営した。ウィキの「安帝」によれば、『成人後の安帝は外戚の鄧氏に反発するようになり、その影響からか生活に乱れが生じていた。また閻氏(えんし)を立后するが、安帝との子をもうけた他の后妃を殺害するなどを行っていた』。一二一年三月、『長く臨朝して政治の実権を握っていた鄧氏が死去すると、鄧隲は大将軍を辞任し、特進待遇となった。』同年五月には、『閻氏や宦官李閏らの助力を得て、鄧隲や鄧遵ら、鄧一族を粛清し、また、平原王の劉長を罪に問い侯に降格させた』。「治世」の項には(アラビア数字を漢数字に変えた)、『摂政をしていた鄧兄妹は他の外戚に比べて良質であり、鄧氏は班昭に私淑して経書の講義を受けたりした人物であった。兄の鄧隲も一万戸の領地を受けた後で更に三千戸の加増を申し渡されたときに固辞して受け取らなかったという。鄧氏の摂政時代には匈奴の進入や天災が相次ぎ、決して平和な時代ではなかったが、鄧氏は節約に励んで懸命に政治に当たったという。ただし官僚との連絡役として宦官を重用したことが、後に宦官の専横を許すこととなったといわれる。鄧氏の粛清の後は、宦官と閻氏一門が専権を振るうことになる』。『安帝の時代には西域都護が匈奴により攻撃され、西域は匈奴の手に落ちた。他にも西の羌族など周辺民族が相次いで反乱を起こすなど、後漢の衰退が明らかになってきた』とあるのが、ここで参考になる。

・「閻后」安思閻皇后(?~一二六)。名は姫。安帝の皇后。一一四年に選ばれて後宮に入り、翌年には皇后に立てられた。安帝が李氏を寵愛して李氏が劉保(のちの順帝)を産むと、皇后は李氏を毒殺したり、江京・樊豊らとともに皇太子劉保を讒訴して済陰王に落としたりしているなかなかの悪女である。安帝が崩ずると皇太后となって少帝を擁立したが、江京が誅されて順帝が迎えられると閻氏も誅されて、皇太后は離宮に幽閉となり、翌年亡くなっている(個人サイト「枕流亭」の「中国史人物事典~歴代后妃-秦漢」に拠る)。

・「順帝」(一一五年~一四四年)後漢第八代皇帝。安帝の末年から権勢を振るっていた外戚の閻氏や側近の宦官の讒言により一時廃嫡されたが、それを憎んだ宦官の孫程のクーデターにより閻氏らが打倒されたため、皇帝となった。ウィキの「順帝(漢)には、『擁立の功労者である孫程ら宦官達を侯(地方領主)に封じ、更に宦官への養子を認め財産を継承することを許可した。それまで一代限りの権勢であった宦官が桓帝の時大長秋となる曹騰が引退した以後は、次代の権勢継承が行われるようになった。そのため、後世には後漢の宦官禍は順帝より始まると評されることにな』ったとある。

・「梁后」順烈梁皇后(一〇六年~一五〇年)。名は(な)。順帝の皇后。幼くして女仕事をよくし、「論語」や「韓詩」を読んだ。一二八年に選ばれて後宮に入り、四年後に皇后に立てられた。順帝が崩ずると冲(ちゅう)帝を擁立して皇太后となり、臨朝聴政した。冲帝がまもなく亡くなると、質帝を立て、引き続き聴政、太尉李固らを抜擢したが、兄の梁冀が質帝を毒殺して専権をふるい、桓帝を立てて李固らを謀殺した。また太后は宦官を寵愛してその台頭を許し、士人たちの失望を買ったが、一五〇年に政権を桓帝に返し、まもなく病のため崩じた(個人サイト「枕流亭」の「中国史人物事典~歴代后妃-秦漢」に拠る)。

・「桓帝」(一三二年~一六七年)後漢第十一代皇帝。一四六年、十四歳で即位し、梁太后が摂政として臨んだ。妻は梁太后の妹。外戚の梁冀(りょうき)が専横を極めたため、宦官の協力を得て梁氏を族誅した。これ以後は宦官が横暴となり、李膺(りよう)・陳蕃(ちんはん)らを領袖とする清廉な党人とはげしく対立、党錮(とうこ)の禁を起こした。浮図(仏陀)と老子を尊崇して旧来の儒教独尊の風潮に新しい気運を開き、また音楽を愛好し、琴瑟をよくした(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

・「竇后」桓思竇皇后(?~一七二年)。名は妙。桓帝の皇后。一六五年に貴を恃んで驕慢であった鄧皇后が廃される(幽閉されて死去)と同時に後宮に入り、同年冬に皇后に立てられたが、帝の寵愛は田聖らにあって桓帝にまみえることは稀であった。子がないままに桓帝が崩ずると皇太后となり、霊帝を擁立、田聖らを殺して積年の恨みを晴らしたが、父竇武が宦官らの誅殺を図って失敗、中常侍曹節らに殺されると、彼女も南宮雲台に幽閉された(個人サイト「枕流亭」の「中国史人物事典~歴代后妃-秦漢」に拠る)。

・「靈帝」後漢第十二代皇帝。章帝の玄孫に当たる。ウィキの「霊帝」によれば、『先帝の桓帝(劉志)には子がなく、同じ河間王家出身であったことから、』一六八年に『桓帝の皇后の竇氏、大将軍竇武、太尉(後に太傅)陳蕃らにより擁立された』。『後漢朝では桓帝の時代から宦官が強い権力を持っていたが、霊帝即位の翌年には竇武と陳蕃らによる宦官排斥が計画される。しかし、これは事前に露見して宦官らの逆襲を受け、桓帝時代の外戚やそれに味方した陳蕃、李膺などの士大夫は排除され、曹節や侯覧、王甫といった宦官が権力を掌握した。その後も清流派を自称する士人たちは宦官とそれに連なる人々を濁流と呼び抵抗したが、党錮の禁により弾圧された』。『この間、羌や鮮卑といった異民族の侵攻が活発となり、天候の不順を重なり地方での反乱もたびたび勃発した。張奐や段熲、皇甫規といった将軍達はそれらの鎮圧に奔走したが、そうした中でも霊帝本人は宮殿内で商人のまねをしたり、酒と女に溺れて朝政に関心を示さず、政治の実権はやがて張譲や趙忠ら十常侍と呼ばれる宦官らに専断されることとなった』。それでも学問を重んじる一面もあって、一七五年には『儒学の経典を正す目的で、群臣達の勧めにより、熹平石経を作成』、一七七年には『書画に優れた者を集め、鴻都門学といった学問を興した。』一八四年に『大賢良師・張角を首領とする黄巾の乱が発生する。反乱により後漢王朝は危機に見舞われたが、董卓や皇甫嵩、朱儁ら地方豪族の協力と、張角の急死により鎮圧に成功した。しかし、反乱により後漢正規軍の無力化が露呈し、地方豪族の台頭を許すこととなった』。『これ以後も、売官を行うなど「銅臭政治」と呼ばれる、賄賂がまかり通る悪政を行ったため、売官により官職を得た者による苛斂誅求により民力は疲弊し、同時に治安の悪化を惹起したため後漢の国勢はますます衰退していく』。一八八年、『霊帝は西園八校尉という制度を新設』、そこで何進や袁紹、かの曹操を統率させている。一八九年、国内がさらに乱れる中で崩御した。評価は『宦官と外戚の権力闘争で疲弊した後漢朝は、霊帝の治世において宦官の優位が決定的となったとされ、後世においても桓帝と並んで暗愚な皇帝の代名詞とされた』とあるが、一八八年に『霊帝は「皇帝直属の常備軍」の創設を構想したと言われて』おり、『当時王宮警護の近衛は存在したものの、大規模な常備軍は存在しなかった』中で、推定ながら一万人ほどの大規模なものと考えられており、『後に曹操がこの八軍編成を引き継ぎ、魏の国軍編成の根幹になったなど、相当の完成度であったと考えられる。魏以降の歴代中国王朝でこの制度は継承され、中国の国軍編成制度として受け継がれていったのである』という再評価の機運もある。

・「何后」霊思何皇后(?~一八九年)。宏)。南陽の屠殺家という下賤の出自だったが、賄賂を用い宦官の伝手で後宮に入り、霊帝の寵愛を受けて男子(少帝弁)を生んだ。気が強かったため、後宮の和をたびたび乱したという霊帝の皇后であった宋氏が寵を失い、間もなく宦官の讒言により無実の罪を着せられ廃されたため、何氏が皇后に立てられた(一八〇年)。霊帝の寵妃であった王美人が劉協(後の献帝)を生んだ時は激しく嫉妬し、王美人を毒殺している。霊帝は激怒し、何氏は廃されそうになるが、宦官の取りなしにより免れた。一八九年に霊帝が崩御、少帝弁が即位すると何氏は摂政皇太后となった。政敵であった董太后との抗争に勝って董太后を洛陽から追放する(のち謀殺したか)。しかし、何太后の政権を支える大将軍の何進と宦官(十常侍)とが争い、何進が袁紹たちと共に十常侍の殺害を計画すると、宦官とも結託していたため、弟の何苗と共に何進の計画に反対した。何進と十常侍は政争の末にともに滅んでしまい、何苗も殺害されて、洛陽に入った董卓(つたく)が権限を手中にした。董卓は董太后と自分が同族であると信じていたため、董太后の報復として何氏を排除しようとし、何太后を脅迫して少帝の廃位を実行させ、董太后が養育していた劉協を皇位に就かせた。さらに董卓は、何太后のかつての董太后に対する振る舞いが孝の道に叛く行いだと問責、永安宮に幽閉、後に殺害した。何太后は霊帝の陵に合葬されたが、董卓は霊帝の陵の副葬品をことごとく奪ったという(以上はウィキの「霊思何皇后に拠った)。

・「雅意」底本に『我意』と頭書き。自分一人の考え。自分の思うままにしようとする心持ち。我儘。私意。恣意。

「蠹贅」「蠹」は建材家具を致命的に食い荒らす木食い虫。「贅」は不必要なもの、無駄の意。

「牝鷄の晨するは萬世の誡なり」「書経」の「牧誓」による故事。「牝鶏(ひんけい)の晨(しん)するは亡國(ぼうこく)の音(いん)」で雌鳥が夜明けを告げるのは国家が没落する前兆であるという謂い。雌鳥鳴いて国滅ぶ。牝鶏の晨(しん)。底本には『書經に牝鷄の晨するは惟家の索くるなりとあり』と頭書きする。「索くる」は「つくる」で「尽く」と同義。

「亂臣十人のためし」「論語」の「泰伯第八」にある「武王曰。予有亂臣十人。」(武王曰はく、『予(われ)に亂臣十人有り』と。)に基づく。注意しなくてはいけないのは、この「亂臣」とは大乱を美事に鎮圧する優れた家臣の謂いであること。この「乱」は通常反対語である「治」と同義的に用いられている(こうした相反した訓(読み)を特に反訓(はんくん)という)。「十人」は周の武王の弟周公旦、太公望呂尚以下で、中に武王の父文王の正妻太姒(たいじ)を含んでいる。そこがこの部分で引用した肝(キモ)――則ち続く「婦人の政理に與るは好し」と同じく、女性の政治参画積極肯定説の提示である。但し、無論、筆者はその反対に立つのである。底本には『亂臣は治世の功臣、書經周武王の言に「予有亂臣十人」其中一人は武王の母大姒なり』と頭書きする(引用にはここは返り点があるが省略した。「大姒」はママ)。

「御腰結」男子の袴着及び女子の裳着(もぎ)の式の際に袴の腰の紐を結ぶゲスト役。]

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