北條九代記 鎌倉變災 付 二位禪尼御夢想
○鎌倉變災 付 二位禪尼御夢想
連年打續き、鎌倉中の失火、日毎に止む事なし、僅に遁るゝ事あれども、遅速を論ずれば何れ免かるゝ所なし。又其閒には大風、大雨の災(さい)起りて、人家或は顛倒し、或は洪水の出づるに依て、河邊近き在家共は押(おし)流されて、死する者數知らず。天には彗星出でて人の目を驚(おどろか)し、下には地震夥しく、堂舍民屋(みんをく)を動(ゆり)崩す。是等の變災一方ならず、如何樣只事にあらずと諸人心を傷(いたま)しめ、夜を緩(ゆるやか)に臥す者なし。兎角する程に、物憂き年も改り、承久三年の春を迎へ、當年はさりとも世の中立直(たてなほ)し、諸人も安堵すべきものと、貴賤上下思はぬ者はなかりけり。然る所に、正月十日の朝より、濱風吹(ふき)起りて、終日(ひねもす)に及(および)しかば、すはや火災の出來んずらんとて、用心嚴しく致す所に、晩景に及びて、俄(にはか)に雷鳴り出でつゝ、兩三ヶ所に落(おち)懸り、電光の閃く事夥しさは限(かぎり)なし。老若、皆、膽魂(たましひ)を失ひ、死に入る計(ばかり)にぞ覺えける。降下(ふるくだ)る雨の足は、宛然(さながら)移(うつ)す如くなり。夜に入りければ、雨止みしかども暗さは猶暗かりけり。翌日又、薄雪の降りたり。去年の冬よりして、遂に隆(ふら)ざる事なれば、是ぞ初雪と云ふべかりけりと、餘(あまり)の事に興(きよう)ぜらる。次の日、殿中に、陰陽師泰貞(やすさだ)、晴吉(はれよし)、親職(ちかもと)、宣賢(のぶかた)を召されて、天地災變の御祈禱の爲、三萬六千の神祭(かんさい)、屬星(じよくしやう)、太山府君(たいざんぶくん)、天曹(てんさう)、地府(ぢふ)の祭を行ひ、鶴ヶ岡に於ては、大般若經を轉讀せらる、同三月二十二日の曉(あかつき)、二位禪尼、御夢想の御事あり。その面(おもて)、二丈計(ばかり)の大鏡(きやう)ありて、由比浦の浪の上に浮びて、その中に氣高き聲の聞えけるやう、「我は是大神宮にておはします。天が下を鑒(かんがみ)るに、世の中大に亂れて、兵を懲(こら)すべし。泰時こそ我を太平に耀かさんも一のぞや」とて夢は即ち覺(さ)め給ふ。禪尼、深く信心を凝(こら)し、祠官(しくわん)の外孫なればとて波多野(はだのゝ)次郎朝定(ともさだ)を使として、大神宮に願書を參らせ、伊勢の祭主神祇大副(じんぎのすけ)隆宗(たかむね)朝臣に仰せて、幣帛(へいはく)をぞ送られける。
[やぶちゃん注:承久の乱への不吉なプレリュードと、後の名執権泰時誕生を預言する夢告の提示である。鎌倉での一連の天変地異とそれに対する祈禱の叙述は「吾妻鏡」巻二十四の承久二(一二二〇)年十二月四日、承久三年正月十日・十一日・二十二日・二十九日などに拠り、政子の夢想の一件は同巻の承久三年三月二十二日の記事に基づく。特に「吾妻鏡」の原文は示さない。
「次の日、殿中に、陰陽師泰貞、晴吉、親職、宣賢を召されて、天地災變の御祈禱の爲、三萬六千の神祭、屬星、太山府君、天曹、地府の祭を行ひ、鶴ヶ岡に於ては、大般若經を轉讀せらる」とあるが、「次の日」(文脈上は一月十二日)ではなく、一月二十二日である。「吾妻鏡」の誤読であろう。「三萬六千の神祭」三万六千神祭。天変地異を除き、天下泰平を願う祭。「屬星」は属星祭で危難を逃れて幸運を求めるために対象者(この場合は将軍頼経であろう)の属星をまつる祭。大属星祭。「天曹、地府の祭」天曹地府祭(てんそうちふさい)。六道冥官祭(ろくどうめいかんさい)・天官地符祭とも呼ぶ。陰陽師が修する重要な祭りの一つで、「曹」の字は実際には縦の二本棒を一本棒にした特異な画の字「曺」を用いる。十一世紀ころから祀られ、安倍氏が鎌倉幕府の陰陽道を支配して後、この祭法が盛んとなった。泰山府君を中心とした十二座の神に金銀幣・素絹・鞍馬を供えて祭る(ここは平凡社「世界大百科事典」に拠った)。
「二丈計」凡そ六メートルほど。]
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