日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第七章 江ノ島に於る採集 23 モースのガニメデ
折々見受ける奇妙な牛車に、いささかでも似た写生図が出来ればよいと思う。図187で私はそれを試みて見た。牡牛一匹が二輪車に押し込まれ、柄は木製の環で背中の上を通って頸にのっかる。車にとりつけた大きな莚(むしろ)の日除けは、牛に日があたらぬようにするものである。足も藁の草履をしばりつけて保護する。これによって、我々はかかる仏教の異教徒が、如何に獣類を可愛がるかに気がつき、そしてこれ等の動物が、カソリック教国のスペインで、どんな風に取扱われているかを思い出さぬ訳に行かぬ。
図―187
食料品を取りまとめた上で、私は再び江ノ島へ向けて出発した。原始的な漁村で一週間暮すのはいいが、それが殆ど二ケ月近くの滞在となると、幾分巡礼に出るような始末になって来る。江ノ島へ着いて、私は第一夜を送った宿屋で食事した。この家の人々は私が別の宿屋へ移ったにもかかわらず、実に親切なので、私はその家族を私の部屋に招き、顕微鏡で不思議なものを見せることにした。私の無言劇的な会話はわかったらしい。宿の亭主と、彼の家族とだけを期待していた私は、彼等のみならず、この家の召使い、子供全部、及び向う側に住んでいる人達までが皆やって来た時には、面喰わざるを得なかった。だが、私は出来るだけのことをし、ベックの双眼顕微徴鏡で彼等に蠅の頸や、蜘蛛の脚や、小さな貝殻等を見せてやったが、彼等が示した驚愕の念、低いお辞儀と「アリガトウ」とは誠に興味があった。驚くのも道理である。彼等はそれ迄に、顕微鏡も、望遠鏡も聞いたことすら無いのである。若し彼等が何かを拡大して見たとすれば、それは天眼鏡を通じてであろう。私はまだ日本で天眼鏡を見たことがないけど、支那人が使っているから、日本にもきっとあるに違いない。これが今日の大愉快の一つであった。もう一つの愉快なことは、実に可愛らしい日本人の男の子と近づきになることであった。この子は私が今迄に見たたった一人の可愛らしい子供であり、多くの子供達と違って私を恐れなかった。一体子供が私を怖がるというのは、新奇な経験である。今朝私はこの子と両親と召使いとを実験所へ招待した。彼等が顕微鏡その他に対する興味を示した、上品で優雅な態度は、気持がよかった。父親は私と名刺を交換し、それを松村が翻訳したが、彼は大蔵省に関係のある役人だった。
[やぶちゃん注:江の島への帰着は前の部分のモースの叙述が正しいとすれば、八月二十一日の夜ということになる。
「二ケ月近くの滞在」原文は“the visit extends for nearly two months”。これは滞在が七月から八月にかけての二ヶ月に亙っていたことからの、ある意味、錯誤的な謂いであるように思われる。モースの江の島入りは明治一〇(一八七七)七月二十一日(午後九時着)であったから、丁度この日は一ヶ月経過しているが、彼が江の島実験所を閉鎖して江ノ島を発つのは、このたった八日後の八月二十九日のことで(実験所の閉鎖は前日)、実質的には四十日で「二ケ月近く」とは言い難い。多くの驚きや発見の喜びもあったものの、来日直後の、それも日本の漁村での、たった独りの外国人の生活は、文字通り、「幾分巡礼に出」た(原文“somewhat in the nature of a pilgrimage.”)時のような緊張感が何処かで持続していたから、一ヶ月強が二た月近くに感じられたとするのもむべなるかな、という気はしないでもない。
「べックの双眼顕微徴鏡」原文“a Beck's binocular”。1846年にジェームズ・スミスらが設立した“Smith,Beck & Beck”商会が開発した双眼顕微鏡。「東京大学総合研究博物館」の「刊行物データベース」にある浅島誠「生命の科学」の「第一部 生命の科学の基礎:植物と動物」の冒頭、「最初のころの顕微鏡」によれば、この顕微鏡は光線分離プリズムを内蔵し、二本の光線のうち、一本はプリズムを通らずに直進するため、二本の鏡筒のうち一本は真直になっているとあり、さらに明治八(一八七五)年に『日本に来航したチャレンジャー探検隊がこの顕微鏡を積んでいて、瀬戸内海のプランクトン調査を行った。東京帝国大学理学部動物学教室のモース教授もこの顕微鏡を用いた』とあって、実物の写真も拝める。
「大蔵省に関係のある役人」この人物や、モースベタ褒めのガニメデについては不詳。ここまで(“The other was in getting acquainted with a dear little Japanese boy,
the only one I have seen thus far who seemed attractive.”)言われると、何となく探って見たくなるではないか。]