日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第八章 東京に於る生活 3 江島神社の「蛇の角」
小さな庭のつくり方や、垣根、岩の小径等は、この上もなく趣味に富んでいる。先日、朝早く村々を通過した時、私は多くの人々が、井戸端や家の末端で、塀を洗っているのを見たが、彼等は歯も磨いていた。これは下層民さえもするのである。加之、これ等の人々は、水を飲む前に、口をゆすぐのを例とする。
江ノ島の寺には沢山宝物があって、坊さん達が恭恭しくそれを見せる。宝物には数百年前の甲冑や、五百年前の金属製の鏡で、その時代の偉い大名が持っていたもの等がある。坊さんは、固い物体の大きな一片を持ち出して、これは木が石になった物だといった。よく見ると抹香鯨(まっこうくじら)の下顎の破片である。そういって聞かせた私を見た彼の顔には、自分を疑うお前は実にあわれむ可き莫迦者だという表情があった。彼は同じ文句を何千遍もくりかえしては説明するので、いろいろな宝物の説明を非常に早口で喋舌り続け、松村がそれを訳すのに困ったりした。最後に坊さんは細長い箱の前に来て、如何にも注意深く蓋をあけると、中にはありふれた日本の蛇の萎びた死骸があり、また小さな黒い物が二つ、箱の中にころがっていた。坊さんはこの二つがその蛇の角だといった。そんな風な生物がいないことは、いう迄もない。ちょっと見た丈で、それ等が大きな甲虫の嘴であることが判る。だから、そういって聞かせた所が、彼はすこしも躊躇することなく、また嬉しい位の威厳と確信とを以て、彼の説明は書面の典拠によっているのだから、間違は無いといった。こうなると仏教の坊主達も、世界の他の宗教的凝り屋と同様、書面の典拠を以て事実と戦おうとしているのである。
[やぶちゃん注:「江ノ島の寺」勿論、江島神社の誤り。寺としての金亀山与願寺は憎むべき明治元(一八六八)年の廃仏毀釈によって廃寺となり、三重塔等多くの仏教施設や仏像などが無為に破却され、正式には明治六(一八七二)年で仏式を廃して江島神社と改称、県社となった。これと同時に僧侶は全員僧籍を離れて神職となり、岩本院は参詣者の宿泊施設としても利用されていたことから旅館「岩本楼」へ改称した(ウィキの「江島神社」を参考にした)。
「蛇の角」この当時から二百年も昔の水戸光圀の「新編鎌倉志卷之六」の「江島」の「蛇角(へびのつの)」の項に既に絵入で所載している(本文と私の注を是非参照されたい)。なお、そこで私はこの「蛇角」を挿絵から、『珊瑚若しくはそのイミテーションの珊瑚玉(先に出た練物)で造られた細工品のように感じられる』と注したが、珊瑚であれば海洋生物学者であるモース先生は一目でそう見破るはずであるから、どうも違うらしい。但し、モースが見たものとそれが同じものである確証はなく、後に盗難や紛失に遇い、別なものに差し替えられた可能性もなきにしもあらずではある。ただ、この記載が『伊勢參宮して、内宮の邊にて、蛇の角を落したるを見て拾ふたりと云ふの添狀あり』というあたりは、モース先生が断言するところの『大きな甲虫の嘴』(原文“the mandibles of a large beetle”)が的確な事実を述べていることになる。“mandible”は動物学でいう下顎骨で、“beetle”と断言している以上、節足動物の大きな顎というのと一致する。これは陸棲の昆虫類の何かであったのか? モース先生、もう少し、語って欲しゅうゴザイマス! ダッテ、コレデエノシマノオハナシハモウオオムネ……オワッテシマイマスカラネェ……]