少年と裏山に登りて 十首 中島敦 (「小笠原紀行」より)
この少年を伴ひて裏山にのぼる
この山の案内(あない)をせむといふ少年の名を問へばロバァト
灌木分けて巖根(いはね)を攀ぢ行けば汗流れたりロバァトも我も
上衣脱ぎ手に持ち行けど汗しとゞにじみて來るも三月といふに
メリメ書くコルシカの山も思はるゝ日は豐かなれど岩の峻(こご)しさ
[やぶちゃん注:フランスの作家プロスペル・メリメ(Prosper Mérimée 一八〇三年~一八七〇年)は一八三四年にフランス歴史記念物監督官に就任(一八六〇年まで在任)、公務を交えてフランス各地やコルシカ島への考古学的調査を含めた旅をする機会を得、その旅行記(一八三五年~一八四一年)を出版しているが、ここはメリメの、「カルメン」に先行する代表作でコルシカ島を舞台とした女性の仇討小説「コロンバ」(一八三〇年~一八四〇年)を指しているか(ウィキの「プロスペル・メリメ」などを参照した)。]
岩の上(へ)の赤章魚樹(あかたこのき)の厚葉ごしに大わたつみの靑き膨らみ
岩疊(いはだたみ)のぼりのぼりて要塞の錢條網に行當りたり
[やぶちゃん注:「要塞」小笠原父島要塞。父島は日本海軍が日露戦争後に着目し、貯炭場・無線通信所などを設置、海軍からの強い要請で、大正九(一九二〇)年に陸軍築城部父島支部が設置されて測量・砲台設計に着手した。砲台工事は翌年から着工されたが、一九二二年二月のワシントン軍縮会議による太平洋防備制限条約により砲台工事は中止となっていた。しかし、昭和九(一九三四)年十二月に日本が防備制限条約から脱退するに伴って、砲台工事は再開、備砲工事に着手している。本旅行は昭和一一(一九三六)年の春であるから既に相応のものが完成していたものと思われる(ウィキの「父島要塞」を参照した)。「ファーザーのHP」の「小笠原要塞(父島、母島)」及びそこからリンクする詳細探訪ページによれば、父島の要塞は大神山・夜明山及び最高峰の中央山にそれぞれ存在したことが分かる。ここは心情的にはロケーションから中央山ととりたくはなる(ファーザー氏の当該地画像を含むページ)。]
大き雲過ぎ行くなべに岩山も斜面(なだり)の椰子もしまし翳(かげ)りつ
[やぶちゃん注:「斜面(なだり)」「傾(なだり)」は「なだれ」(雪崩・傾れ・頽れ)の転訛した語で、斜めに傾くこと、また、そのような地形を指す。近代になって発生した語のようである。]
眞日わたる南國(みなみ)の空に雲なくて見入ればしんしんと深き色かも
山峽(やまかひ)の谷に家あり家裏に豚飼ひにけりバナナも植ゑつ
豚の背に銀蠅あまた唸りゐてバナナ畠に陽はうらゝなり