日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第八章 東京に於る生活 19 モース先生の礼讃に……今どきのレイシストどもを見ると……全く以って恥ずかしい限り……
江ノ島で私は日本の着物をつくつて貰った。これは一本のオビでしめるので、私には実に素晴しく見えた。裾は足の底から三インチの所までいたが、外山にこれでいいかと聞くと、彼は微笑してそれでは短かすぎる、もう二インチ長くなくてはならないといった。だが一体どんな風に見えるかと、強いて質ねた結果、彼にとっては、我々が三インチ短いズボんをはいた田舎者を見るのと同じように見えるのだということを発見した。換言すれば、如何にも「なま」に見えるのであった。かくて、ゆるやかな畳み目や、どちらかといえば女の子めいた外見で、我々には無頓着のように思われる和服にも、ちゃんときまった線や、つり合いがあるのである。支那を除けば、日本ほど衣服に注意と思慮とを払う国は、恐らく無いであろう。官職、位置、材料、色合い、模様、紐のむすび方、その他の細いことが厳重に守られる。
[やぶちゃん注:1インチは2・5センチメートル。
「換言すれば、如何にも「なま」に見えるのであった」原文は“In other words, it looked “green”.”。この“green”は青二才の、といった意味で、未経験の・未熟な・初(うぶ)な・間抜けな、という謂いである。
「官職、位置」原文は“Official rank and station, material and color, design, form of knot,
and other details are rigidly adhered to. ”と続いているので、「地位」「身分」「階級」の方がよい。]
東京、殊に横浜には、靴屋、洋服屋その他の職業に従事する支部人が沢山いる。彼等は自国の服装をしているので、二、三人一緒に、青色のガーゼみたいな寛衣の下に、チュニックに似たズボンを着付け、刺繍した靴をはいて、道をベラベラと歩いて行く有様は、奇妙である。彼等を好かぬ日本人の間に住んでいるのだが、日本人は決して彼等をいじめたりしない。一年ばかり前から、日本と支那とは、今にも戦争を始めそうになったりしているのだが、両国人は雑婚こそせざれ、平和に一緒に暮している。この国の支那人は、米国の東部及び中部に於るが如く、基督(キリスト)教的の態度で取扱われているが、太平洋沿岸の各州、殊にカリフォルニアで彼等を扱う非基督教的にして野獣的な方法は、単に日本人が我我を野蛮人だと思う信念を強くするばかりである。サンフランシスコにある、天主教及び新教の教会や、宗教学校や、その他のよい機関は、輿論(よろん)を動かすことは全然出来ぬらしい。宣教師問題、及び海外の異教徒達を相手に働いている諸機関を含むこれ等の事柄に触れることは、鬱陶しくて且つ望が無い。然し、まア、この位にしておこう。
[やぶちゃん注:「チュニックに似たズボン」原文“tunic-like breeches”。石川氏は直下に『〔婦人の使用する一種の外衣〕』と割注している。“tunic”は英和辞典には、古代ギリシャ・ローマ人が着たガウンのような上着・現代の女性用のベルト附きのショートコート・緩いブラウスなどとあり、「大辞泉」には①細身に仕立てた七分丈の女性用上着。②古代ローマで着用したゆるやかなシャツ風の衣服、また、それに似た衣服で服の基本型の一つ。最も単純な形のドレス、とある。
「日本と支那とは、今にも戦争を始めそうになったりしている」日清戦争の勃発は十七年後の明治二七(一八九四)年であるが、日本は開国以来、清とは明治七(一八七四)年の台湾出兵やこの後の明治一二(一八七九)年の第二次琉球処分といった国境問題で既に燻りが生じていた。]
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