日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 4 初めての一時間の汽車の旅
はじめて東京――東の首府という意味である――に行った時、我々は横浜を、例の魅力に富んだ人力車で横断した。東京は人口百万に近い都市である。古い名まえを江戸といったので、以前からそこにいる外国人たちはいまだに江戸と呼んでいる。我々を東京へ運んでいった列車は、一等二等三等から成りたっていたが、我々は二等が十分清潔で且つ楽であることを発見した。車は英国の車と米国の車と米国の鉄道馬車との三つを一緒にしたものである。連結機と車台とバンター・ビームは英国風、車室の両端にある昇降台と扉とは米国風、そして座席が車と直角についているところは米国の鉄道馬車みたいなのである。我々は非常な興味を以てあたりの景色を眺めた。鉄路の両側に何マイルも何マイルもひろがるイネの田は、今や(六月)水に被われていて、そこに働く人たちは膝のあたり迄泥に入っている。淡緑色の新しい稲は、濃い色の木立に生々した対照をなしている。百姓家は恐ろしく大きな草葺(ぶ)きの屋根を持っていて、その脊梁には鳶尾(とんび)に似た植物が生えている。時々我々はお寺か社を見た。いずれもあたりに木をめぐらした、気持のいい、絵のような場所に建ててある。これ等すべての景色は物珍しく、かつ心を奪うようなので、一七マイルの汽車の旅が、一瞬間に終わって了った。
[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、この上京は上陸の翌日である六月十九日の朝食後のことで、横浜駅(当時は現在のJR東日本の桜木町駅附近にあった)から汽車に乗った。当時の終点新橋まえ凡そ一時間、中東の料金は六十銭であった。そして驚くべきことに、ここには一切記されていないが、この時、『その汽車が、前年開業したばかりの大森駅を出てすぐ、線路脇の切通しに白い貝殻が露出しているのに彼は目ざとく気付き、一目で貝塚と見抜』き、『こうして大森貝塚は』モース来日二日目にして早くも『発見された』のであった!(引用は磯野先生の前掲書)
「バンター・ビーム」原文は確かに“bunter-beam”であるが、これは“bumper beam”(汽車の前部にある排障器・緩衝器)、即ち、「バンパー・ビーム」のことではあるまいか? 調べてみると、鉄道車両の緩衝器を米語では“buffer”とも言うから、この原文の“bunter”は“bumper”の、若しくは“buffer”の誤植のように私には思われるのだが、如何?
「鳶尾(とんび)に似た植物」原文は“plants with leaves like the iris”。石川氏の「鳶尾」は鳥のトンビではなく、「鳶尾草(とびおくさ)」、単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属イチハツ Iris tectorum のことである。「鳶尾(草)」というのは花柱の一部がトンビの尾のように見えることに由来する異名である。則ちこれは所謂、「屋根菖蒲」のことを指しているのである。“iris”はアヤメ科アヤメ属の単子葉植物の総称でアヤメ・ハナショウブ・カキツバタ・イチハツなど、総てを含む語であるから、寧ろここは屋根菖蒲を見たことがまずない現代の若者の誤読を生まぬためには、「アイリス」若しくは「アヤメかショウブ」に似た、と今やせざるを得ないような気がしている。電子化ベースの素材とした網迫氏の元データでは「イチハツ」とあって、後に石川氏がここを「イチハツ」と改稿したことが窺われるが、これも多くの植物名の苦手な若者には――彼らにはアヤメ(花弁を覗いて文目模様がある)・ハナショウブ(文目がなく葉に硬い中肋がある)・カキツバタ(文目がなく葉に中肋がなく平滑である)の区別も困難である――それも十分ではないからである。但し、石川氏がイチハツを選んだことは故なしとはしない。何故なら、イチハツの種小名“tectorum”とは「屋根の」という意で、まさに昔、屋根に植えて大風から家屋を防ぐ「屋根菖蒲」としての呪術的意味をちゃんと持っているからである。なお、これについては先行電子化を行った「第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所」で既に注している。私はそこで大好きな小泉八雲の一節を引用しており、ここにどうしても再掲しておきたい。重複する部分もあるが許されたい〔以下、私の旧注の引用〕。
イチハツ(一初)は中国原産の多年草帰化植物で、古く室町時代に渡来して観賞用として栽培されてきた。昔はここに記されたように農家の茅葺屋根の棟の上に植える風習があったが、最近は滅多に見られない(私は三十五年前、鎌倉十二所の光触寺への道沿いにあった藁葺屋根の古民家の棟に開花しているのを見たのが最後であった)。種小名“tectorum”は、「屋根の」の意で、和名はアヤメの類で一番先に咲くことに由来する(主にウィキの「イチハツ」に拠った)。私はここを読むと、この二十三年後に来日した小泉八雲の「日本瞥見記」(HEARN, Lafcadio“Glimpses of unfamiliar Japan”2vols. Boston and New York, 1894.)の、まさに「第四章 江の島行脚」が思い出されてならないのである。平井呈一先生の名訳でその冒頭を紹介したい(底本は恒文社一九七五刊の「日本瞥見記(上)」を用いた)。
《引用開始》
第四章 江の島行脚
一
鎌倉。
木の茂った低い丘つづき。その丘と丘のあいだに、ちらほら散在している長い村落。その下を、ひとすじの堀川が流れている。陰気くさい寝ぼけた色をした百姓家。板壁と障子、その上にある勾配(こうばい)の急なカヤぶき屋根。屋根の勾配には、何かの草とみえて、緑いろの斑(ふ)がいちめんについている。てっぺんの棟のところには、ヤネショウブが青々と繁って、きれいな紫いろの花を咲かせている。暖かい空気のなかには、酒のにおい、ワカメのお汁(つけ)のにおい、お国自慢の太いダイコンのにおいなど、日本の国のにおいがまじっている。そして、そのにおいのなかに、ひときわかんばしい、濃い香のにおいがただよっている。――たぶん、どこかの寺の堂からでもにおってくる抹香のにおいだろう。
アキラは、きょうの行脚のために、人力車を二台やとってきた。一点の雲もない青空が、大きな弧を描いて下界をかぎっており、大地は、さんさんたる楽しい日の光りに照らされている。それでいながら、われわれが、屋根草のはえた貧しい農家のあいだを流れている小川の土手にそうて、俥を走らせて行く道々、何とも名状しがたい荒涼とした悲愁の思いが、胸に重くのしかかってくるのは、この荒れはてた村落が、かつては将軍頼朝の大きな都どころ――貢物(みつぎもの)を強要にきた忽必烈(クビライ)の使者が、無礼をかどに斬首された、あの封建勢力の覇府の名ごりをとどめいるところだからである。今ではわずかに、当時の都にあまたあった寺院のうち、おそらくは高い場所にあったためか、あるいは境内が広く、深く木立でもあって、炎上する街衢(がいく)から離ていたためかで、十五、六世紀の兵燹(へいせん)を免れて現存しているものが、ほんのいくらかあるに過ぎないというありさまである。荒れほうだいに荒れはて、参詣者もなければ、収入とてもないこの土地の、そうした寺院の深い静寂のなかに、そのかみの都の潮騒(しおさい)のごとき騒音とは似てもつかぬ、いたずらに寂しい蛙の声のみかまびすしい田圃にかこまれがら、古い仏たちが、今もなお依然として住んでいるのである。
《引用終了》
学者モースの視線が、詩人八雲の潤いに満ちた瞳で、鮮やかにリメイクされている(ように見える)のが素晴らしいではないか。〔ここまで私の旧注の引用〕
「十七マイル」約27・4キロメートル。因みに現在のJR東日本桜木町―新橋間の営業距離は28・9キロメートル。]