日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第七章 江ノ島に於る採集 25 幻の桟橋
日本人が油紙製の傘を装飾する奇妙な方法は、興味がある。ある場合、傘を黒く塗り、縁の一部分を白く残して新月を表す(図188)。また花、変な模様、漢字等も見られる。
昨晩、大きな波が、島から本土へかけた、一時的の歩橋の向う端を押し流して了った。天気が静穏で気持がいいのに、大きなうねりが押し寄せて来るのを見ると、たしかに不思議である。多分五百マイルも離れた所で嵐が起り、その大きな動揺が、やっと今岸に達したのであろう。波は夜中轟き渡った。
[やぶちゃん注:この冒頭の一文(原文“Last evening the heavy sea had washed away the farther end of the temporary footbridge which had been built from the island to the mainland.”)は非常に貴重なものである。実は現在、江の島に初めて砂州の途中から桟橋が架けられたのは明治二四(一八九一)年とされているからである(ウィキに「江の島」に拠る磯野先生も「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の九六~九七頁で『明治十年という早い時期に、粗末ではあっても仮橋があったという記録はほかにないらしく、貴重である』と記されておられる)。ところが、この部分の叙述は、明らかにこの明治一〇(一八七七)年夏の時点で、極めて脆弱ではあるが「島から本土へかけた、一時的の歩橋」が、まさに砂州の途中から既に島に架かっていたことを示す叙述だからである。しかも実は、この橋の描写はこの後に二度も現われるのである。但し、かつて私がよく立ち寄った江の島の「貝広」の公式サイトの、「お店の紹介」のページにある「江の島の変遷と貝廣の歩み」の明治六(一八七三)年の項をご覧頂きたい。『江の島桟橋が初めて架けられる<絵葉書に残された桟橋の姿>』とある。画像が小さいが拡大して見ると、粗末どころか、大人が二人ゆったりと並んで歩ける幅(3メートルほどか)があり、欄干も左右にあって、しかも「砂州の途中」どころでもなく、砂州のずっと手前(現行の江の島大橋と同様にやや右手の片瀬東浜寄りに有意にカーブしているのが見て取れる)から江の島島内まで続いているように見える。橋は既にして確かにあったのである。]
今日私は、新しい掛絵が、柱にかけてあるのに気がついた。ひっくり返して見ると、裏面にはもとの絵がかいてある。薄い杉板の、幅六インチ長さ五フィート半のものを、絵に利用する日本人は、巧みな芸術家といわねばならぬ。風景に竹の小枝を一本描き、狭い隙間から向うを見る効果を出すには、適当な主題を選ぶ技能を必要とする。
[やぶちゃん注:「幅六インチ長さ五フィート半」幅約15センチメートル強・長さ1・7メートル程。]
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