栂尾明恵上人伝記 61 明恵、独居隠棲の危うさを説く
文覺上人の教訓に依りて、上人紀州の庵を捨て、栂尾に住し給ひし始めは、此の山に松柏茂り人跡絶えたり。松風蘿月(しようふうらげつ)物に觸れて心を痛ましめずと云ふことなし。爰に纔(わづか)かなる草庵を結びて、最初には上人と伴の僧と只二人ぞ住み給ひける。竹の筧(かけひ)、柴の垣心細きさまなり。自(おのづか)ら訪ひ來る類(たぐひ)心を留めざるはなし。次の年の春の比より懇切に望む輩あるに依つて四人となれり。其の一人は喜海(きかい)なり。萬事を投げ捨て只行學(ぎやうがく)の營みより外は他事なし。眠りを許すことも夜半一時なり。髮を剃り爪を切る受用も日中一時(ひととき)には過ぎず。此の夜晝は各一時の外は更に他を交へざりき。きびしきこと限りなし。朧げの志にては堪へこらふべきやうもなかりき。此の衆、四皓(しかう)窓を竝べし商山(しやうざん)を摸(も)すべしとぞ、常には上人戯れ給ひし、其の後又此の衆に交らんことを、去り難く望む類ありて、漸く七人になれり。其の時はさらば竹林の七賢が友を結びし跡を學ばんなど仰せられし程に、此の事世に聞えて、道に志ある輩尋ね來て、交らんことを乞ふと雖も、上人更に許し給はず。爰に或は門外の石上に坐して六七日食せず、或は庭前の泥裏(でいり)に立ちて三四日動ぜず、此の如き振舞をして深切なる志を表する人、皆是れ月卿雲客(げつけいうんかく)の親類、世を貪る類にあらざるのみ交(まじ)れり。之に依りて上人力なく許し給ふ程に、三年の中に十八人に及べり。上人よしさらば廬山(ろざん)の遠法師(をんほつし)の會下(ゑか)に准(じゆん)ぜん、此の外は更に許すべからずとぞ禁(いまし)められし。此の僧侶志を勵まし心を一にして、道行の爲に頭を集めたることなれば、何れも愚(おろか)には見えず面々に營みあへるさま、我が身を見るもさすがに、人を見るも哀(あはれ)なり。二度(ふたゝび)正法の世に歸りたるにやと、隨喜の涙よりより袖を濕(ぬら)さずといふことなし。かくて年月を經る程に、又去り難き人重りて、十年の内に五十餘輩になれり。さる間喜海交衆(けうしゆう)の體(てう)もうるさく覺えて、風情(ふぜい)を替(かへ)て又深山幽谷に獨り嘯かんと思ふ心つきぬ。仍て便宜(べんぎ)を伺ひて上人の前に進みて、此の趣を委(くはし)く宣(の)べき。上人目を塞ぎ暫く思案有りてのたまはく、道行(だうぎやう)の宜しく進まれん方を本とすべければ、兎も角もして見給ふべし。但し經論聖教(きやうろんしやうぎやう)の掟(おきて)を能々勘(かんが)へ見るに、修行門に二あり、一には善知諦の下に居して朝夕譴責(けんせき)せられて、忍び難きを忍び堪へ難きを堪へて、其の軌矩(きく)のきびしきにこらへ、其の飢寒(きかん)の甚しきを事とせず、寸時をも空しく度らず道行を以て專らに營む、是れ精進心(しやうじんしん)の人なり。道を成(じやう)ぜん事近きにあり。今囂(かまびす)しきは却て道の障(さはり)となるやうなれども、知れずして道に進む便(たより)あり。二には幽閑の地に獨居して晝夜寂々(せきせき)として心に障る事一つもなく、安々緩々(あんあんかんかん)として身に煩はしきわざ絶えてなし、自然に道行するに便りあるやうに覺えて日月を送る、是れは懈怠心(げたいしん)の人なり。此の障なきを道行と思ひて覺えずして閑(ひま)なるにばかされて懈怠に落つるを知らざる人なり。是れは道を成ずる事有るべからず。之に依りて、契經(かいきやう)の中に、佛、譬を取りて説き給へり。其の意を取りて申さん。譬へば一日の中に行き著くべき所あるに、一人は苦しく足痛けれども杖にすがり、兎角して暫くも止らず。惱みながら其の處へ日の中に行き著けり。一人は餘りに苦しく足の痛きまゝに、こらへずして有る石の上に休めり。心閑かに身安くして歡喜(くわんぎ)極りなし、此の石の上に仰(あふ)のきに臥(ふ)して空を見るに、浮雲(うきぐも)風に隨ひて西に行くこと速かなり。是れをつくづくと守る程に、我が臥したる石東へ行く心地す。其の時思ふやう、大切なり、歩むは甚だ苦しく足の痛きに、此の石船の如くして行くこと速かなりと、大に悦び思へり。風吹き立ちて雲の早き時は此の石はやく走る心地する時、獨りごとに石に云ふやう、目のまはるにあまりはやくな行きそ、靜に行くべし。何となくともかくてはとく行き著くべきぞと云ふ。さて日の暮るゝ程に今は百里計も行きぬらんと思ひて、起きて見れば本(もと)の石の上なり。恠(あやし)く思ひて前を過る旅人に其の行くべき里を問へばいまだ遙なり。其の時安閑(あんかん)として石の上に臥しつることを悔い悲しめども甲斐なし。此の閑なるにばかされて懈怠に墮するを行道と思ひて、一生空しく過(すご)したる人に喩へられたり。僧の山中に在るをまされりと云ふは、塵中(ぢんちう)に交る者に對して暫く説く藥なり。佛の詞・知識の教聞き取り集めて、己に或は琴柱(ことぢ)に膠(にかは)し、或は釼(しつ)去つて久しきことをば知らずして、是を山の奧まで心にひつさげ持ちて、獨りしてとかくあてがひ道を行ぜんは、圓目(ゑんもく)に方鎚(はうつゐ)を入るゝになんぞ異ならん。上々智(じやうじやうち)の人は更に謬(あやまり)あるべからず。さる人は末世にはありがたし。なべて上中下根の輩は、能々思ひ計らふべきことなりと仰せられければ、理(ことわり)至極(しごく)せる間感涙(かんるゐ)を流しき。亦當初(そのかみ)高雄に侍從の阿闍梨公尊(こうそん)とて、閑院(かんゐん)のきれはし有りき。遁世して山を出で、後亦還住(げんぢゆう)して懺悔して申さく此の神護寺の交衆(けうしゆう)の體もむつかしく、行學(ぎやうがく)とて勵むも皆名聞利養免れず。此の如きにては受け難き人身を受け、値ひ難き佛法にあへる驗(しるし)更になし。空しく三途(さんづ)に沈まんこと疑ひあるべからず。如(し)かず此の山を出でゝ山中に閉ぢ籠り心靜に後生菩提(ごしやうぼだい)を祈り道行(だうぎやう)を勵まんと思ひて、小原の奧に興ある山の洞求め出して、庵を結びて栖む程に、寂莫(じやくまく)として心の澄む事限りなし。背かざりける古も今は悔しく覺えて、十二時中空しく廢(すた)る時なく、更に淨界に生れたる心地して、勇猛精進(ゆうみやうしやうじん)に成(なり)歸て、半年計り送る程に、只(ただ)獨(ひとり)閑(ひま)なるまゝに、こしかた行末の何となきことどもさまざま思ひ出でられて、或時期せず婬事(いんじ)起れり。公尊少(をさな)くより住山せしかば一生不犯(ふぼん)にてありし故、女根ゆかしく覺えていしき障となりぬ。とかくまぎらかし退治せんとすれども、やみがたかりし程に、中々かやうにては道の障と成りなん、さらば志をもとげて妄念をも拂はゞやと思ひて、俄(にはか)にあらぬ樣に姿をなして、亡者(まうじや)訪(とぶら)へとて人の布施にしたりし物を、物のなきまゝに、さりとて纏頭(てんとう)とかやに取らせんと思ひて懷に入れて、色好みのある所を尋ねんとて京の方へ行く程に、夏の事にていと暑きに、京近く成り胸腹(むねはら)痛くなりて、霍亂(くわくらん)と云ふ病をし出して、苦痛すること限りなし。路の邊に小家(こや)のありけるに立ち寄りて、とかくして其の夜は留りぬ。又次の日も猶なほりやらでわびしかりし程に、京に行くこと叶はずして這々(はうはう)小原へ歸りて、樣々養生してなほりぬ。亦暫くは其の餘氣(よけ)ありてわびしかりし程に、紛ぎれ過しぬ。或時亦本意を遂げんと思ひて、先の如く行く程にいかゞしたりけん、路にてとぐいを足に深くけ立てゝ、血夥しく流れ出づ、痛きこと忍び難し。一足も歩むに及ばず。畔(ほとり)の人來りて見てあはれみて馬に乘せて庵に送りぬ。又兎角癒えて後、又こりぬまゝに行く程に、今度は相違なく京に行き著きぬ。色好みのある處に尋ね行きて、かゝぐり行く程に、心中には忍べども、さすが風情(ふぜい)のしるくこそありけめ、年來(としごろ)しりたる俗人のそこを通るに目を見合せぬ。あさましきこと限りなし。露ならば消え入るばかり思へども、すべき方なくて立ちたるに、此の男の云はくいかゞしてこゝには立ち給ふぞと云ひて、よに怪氣(あやしげ)なる體なり。彌〻うくて何の物狂はしさにかゝる所に來て、憂目(うきめ)を見るらんと、疎(うと)ましく覺えて、兎角延(の)べ紛らかしてにげ歸りぬ。さる程に終(つひ)に本意を遂ぐるに及ばず。其より後はふつとこりはてて思ひ留りぬ。かくて過ぎ行く程に秋深く成りて不食(ふじき)の病起りて、萬の食物嫌はしくて日數ふるまゝに、身も衰へ力も弱りて道行も叶はず、只惱み居たる計(ばかり)にて明(あか)し暮す程に、かくては閑居の甲斐もなし。身を資(たす)けてこそ道行をも營まめと思ひて、伴に置きたる小法師(こはふし)をば京へ使にやりて、其の隙に、此の山の奧より山人鳥を取りて京へ賣りに罷るが、此の庵の前近き路をとほるを、忍びて買ひ取りて、是を調へて時をも食ひて見んとて、世事所(せじどころ)に置きて小用しに出でたる跡に、放(はな)れ猫(ねこ)來りて皆食ひ散らしたり。是れを見付て、嫉(にく)さともなく惜しさともなく、そばなる木のふしを以て抛(な)げ打ちにする程に、あやまたず猫の頭を打ちかきて兩眼を打ちつぶせり。鳴き苦痛して、血夥しくたりて、緣の下へ逃げ入りてさけび鳴く。かくまでせんとは思はず、只おどし計りにこそとしつるに、かわゆさあさましさ云ふ計りなし。山籠りして菩提を成ぜんとこそ思ひ立ちしに、あらぬさまなる振舞どもしけること淺間しく覺えて悲涙(ひるゐ)押へ難し。大方此の事ども只一筋に放逸に引きなされたり。心安きまゝに朝に物くさき時は日たくるまで起きあがらず、夜は、火なども燃すことなければ、暗きまゝに霄よりさながら眠りあかし、すぐに居ることも希に、いつとなく物によりかゝり足をのべ、寒き夜は小便などをさへねや近くして、芝手水ばかり心やりてうちし、何事も恣に振舞てのみぞ過ぐしける。かくてはあさましきことぞかしと心を誡めながら、ともすればかゝる式になりき。さすが人中(ひとなか)にあらば自然にかかることどもはあるまじきにと、中々閑居は無益(むやく)なりけりと思ひて、神護寺に立ち歸りて見るに、公尊此の山を遁れ出でし時は、未だ童形(どうぎやう)にて、華嚴の五教章(ごきやうしやう)などをも、我等にこそ文字讀(もんじよ)みをもし、義をも問ひし者、今は小僧にて來りていかになんど云ふ。此程の御山籠(みやまごもり)の體をも參て見まゐらせたく候ひつれども、學文に寸暇を惜しむやうに候ひし程に、存じながら罷(まかり)過ぎ候ひき。山中の御修行、御修行うらやましく候とて、法文を問ひかけて、法理に於て不審をなす。兎角云ひのべんとすれども、はたとつまりてせん方なし。其の時此の小僧云ふやう、山中にて、此の兩三年、佛法の深理をも見披(みひら)き給ひぬらんと、いぶかしく存じ候ひつるに、是程の事だになどや分明ならずと戯れ云ふ。げにもと恥かしくて、我も彼に放れて三年にこそなるに、彼は三年善知識にそひ耳をうたせたり。我は三年靜に道行すると思ひたりつるは徒事(いたづらごと)なり。是を以て是を比(くら)ぶるに、我も中々此の三年、此の寺にて道行を勵みたらば、いかばかり増(まさ)るべかりしものをと、今更こし方悔しく覺えしと云々。其の小僧は當初、明惠上人神護寺に住み給ひし比、若(わかき)學匠(がくしやう)の中に群に拔けて、聖教の義理を宣べ給ふに肩を竝ぶる人なかりし、そこにかよひて付そひ奉り、華嚴を學し談義に耳をうたせけり。此の懺悔せし事思ひ出されて、彼と云ひ此と云ひ旁(かたがた)益(えき)なかるべしと思ひて、喜海が閑居も思ひ留りにき。此の山中に淸衆一味和合して、互に道を勸め菩提を助けん事を先としき。然るに近比(このごろ)衆多くして、或は疑はしきを見て實と云ひ、或るは慈悲を忘れて、人の失(しつ)を顯(あら)はす類ままありき。上人にあひ奉りて彼の房かゝる不善の聞えあり、衆を出さるべきかなど語り申す人あれば、上人答へて言はく、何となけれども淸衆の中に居して不善なる者は、諸天照覽し給へば、おのれと顯れ、おのれと退く習ひなり。然るを汝我に語りて彼を損ぜんは、僧として無慈悲の至りなり。佛は實にあることを自ら見るとも、僧の失を顯すべからずと禁(いまし)め給へり。是れ大いに深き方便なり。淺智(せんち)の能くしる所にあらず。佛弟子の過を説くは、百億の佛身より血を出すにも過ぎたりと説けり。又一には和合僧の中を云ひたがふるは、五逆罪の中の其の一なり。四重を犯(ぼん)ずるにまされり。汝既に此の二の罪を犯せり、五逆罪の人に片時(かたとき)も同住せんこと恐れありとて、先づ訴へける僧をば是非に付て即ち追放せらる。此の不善の聞えある僧をば能々たゞして、所犯(しよぼん)まぬかれねば同じく追出さる。若し又指したる證據なきをば、俗人すら罪の疑はしきをば行はぎるは仁なりとて免じ給ひけり。然れば三寶の加護も甚しかりけるにや、實に不善なる者は自ら退きしかば、山中の淸衆けがるゝこと更になかりきと云云。
[やぶちゃん注:「文覺上人の教訓に依りて、上人紀州の庵を捨て、栂尾に住し給ひし始め」建久九(一一九八)年、明恵二十六歳。
「受用」ここは「自受用身」のことか。本来は悟りによって得た法を自ら楽しむことをいうが、ここは文脈から私的な時間の謂いである。
「四皓窓を竝べし商山」商山四皓。四皓とは中国秦末から漢初にかけて乱世を避けて現在の陝西省商山に隠れた東園公・綺里季(きりき)・夏黄公・甪里(ろくり)先生の四人の隠士を指す。みな鬚眉(しゅび)が皓白(こうはく:真っ白。)な老人であったことに由来する。しばしば水墨画の人物画主題とされ、中国の影響を受けた本邦では後の室町から江戸にかけて多くの作品が制作されている。
「廬山の遠法師」廬山の慧遠と称された東晋の頃、廬山に住んだ高僧慧遠(えおん 三三四年~四一六年)。中国仏教界の中心的人物の一人。念仏結社白蓮社の祖と仰がれるが、慧遠の念仏行は後世の浄土三部経に基づく専修念仏とは異なり、「般舟三昧経」に基づいた禅観の修法であった。当時、廬山を含む長江中流域の覇者であった桓玄に対し、「沙門不敬王者論」によって仏法は王法に従属しないことを正面きって説いたり、戒律を記した「十誦律」の翻訳や普及に尽力した持戒堅固な僧で、まさに明恵好みの人物である(ウィキの「慧遠(東晋)」に拠る)。
「會下」「ゑげ」とも読み、師僧のもとで修行する所、また、そのための集まり。
「交衆」現代音は「きょうしゅう」。皆と同座して附き合うこと、また、そうした僧衆。
「琴柱に膠し、或は釼去つて久しきことをば知らず」「琴柱に膠す」とは琴柱を膠付けにすると調子を変えることが出来なくなるところから、変に物事に拘って融通が利かないことの譬え。膠柱(こうちゅう)。「史記」の「藺相如(りんしょうじょ)伝」に基づく故事。「釼去つて久し」は「剣去つて久し」で、平泉洸氏の注に『頑固に旧法を守って変化することを知らないこと』をいうとあり、『剣を船から落した人が、船ばたを刻んでしるしをつけ、後で船が岸についてから、この刻み目から水に入って剣を求めようとした』「呂氏(りょし)春秋」の『「察今篇に見える』故事とある。
「圓目に方鎚を入るゝ」丸い穴に対して四角い槌を打ち込もうとする(ような無理な行為をする)。
「侍從の阿闍梨公尊」不詳。以下の閑院流の系譜には見出し得ない。
「閑院のきれはし」岩波文庫注に、『藤原氏北家閑院流の末裔。閑院流は九条右大臣師輔の十男閑院太政大臣公季の子孫。公季流とも。英雄清華の家が多い名流とされる』とある。藤原公季(きんすえ 天暦一〇(九五六)年~長元二(一〇二九)年)は藤原道長の叔父。
「小原」「おはら」は多くの遁世者が隠棲した洛北の大原のこと。
「女根」「じよこん」は女性性器。
「色好み」遊び女(め)。
「霍亂」日射病、熱中症の類い。
「とぐい」「とぐひ」が正しい。「利杙・鋭杭」で先の尖った杭(くい)や切り株。
「かゝぐり行く」辿り歩く。縋るように歩く。
「色好みのある處」色里、遊廓の類い。
「芝手水」「しばてうず(しばちょうず)」と読む。柴手水。神仏を拝む際や、山野で排泄の後に手水を使う時、水の代わりに草や木の葉を用いること。ここは手を清めることもないがしろにし、の意。
「いぶかしく存じ候ひつるに」この「いぶかし」は不明で気がかりだという意味から、「いぶかしがる」の意、知りたいと思うのニュアンスで使っている。とても知りたくて心が惹かれて御座いますのに。
「其の小僧は當初、明惠上人神護寺に住み給ひし比、若學匠の中に群に拔けて、聖教の義理を宣べ給ふに肩を竝ぶる人なかりし、そこにかよひて付そひ奉り、華嚴を學し談義に耳をうたせけり」ここでその公尊が恥じ入ったかつての稚児、この前の場面ではやや成長した少年僧こそが、後に明恵が初めて神護寺で修行をした際、唯一、明恵よりも優れていて、華厳や法話を受けた老名僧であったことが明らかになるという仕掛けである。
「五逆罪」仏教で五種の最も重い罪。一般には、父を殺すこと・母を殺すこと・阿羅漢を殺すこと・僧の和合をうち破ること・仏身を傷つけることをいう。一つでも犯せば無間地獄に落ちると説かれる。五無間業。五逆。
「四重」「四重禁」「四重罪」の略。仏教の四種の重罪。殺生・偸盗・邪淫・妄語。]