日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第八章 東京に於る生活 5 第一回内国勧業博覧会で(3)
播磨の国の海にそった街道を、人力車で行きつつあった時、我々はどこかの神社へ向う巡礼の一群に追いついた。非常に暑い日だったが、太平洋から吹く強い風が空気をなごやかにし、海岸に大きな波を打ちつけていた。前を行く三、四十人の群衆は、街道全体をふさぎ、喋舌ったり、歌ったりしていた。我々は別に急ぎもしないので、後からブラブラついて行った。と、突然海から、大きな鷲が、力強く翼を打ちふって、路の真上の樫の木の低い枝にとまった。羽根を乱した儘で、鷲は喧しい群衆が近づいて来るのを、すこしも恐れぬらしく、その枝で休息するべく落着いた。西洋人だったら、どんなに鉄砲をほしがったであろう! 巡礼達が大急ぎで巻いた紙と筆とを取り出し、あちらこちらから手早く鷲を写生した有様は、見ても気持がよかった。かかる巡礼の群には各種の商売人や職人がいるのだから、これ等の写生図は後になって、漆器や扇を飾ったり、ネツケを刻んだり、青銅の鷲をつくつたりするのに利用されるのであろう。しばらくすると群衆は動き始め、我々もそれに従ったが、鷲は我々が見えなくなる迄、枝にとまっていた。
[やぶちゃん注:これはずっと後、明治一二(一八七九)年、モースが一時帰国(九月三日離日)する前の九州・関西旅行の途次のエピソードと思われる。モースは離日に際し、未だ未踏の西日本への踏査を望んだ(磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば『九州行は動物採集が大きな目的であったが、関西訪問は陶工を訪問し、陶器を収集することが主たるねらいだった』とある)。同年五月七日に船(上海行「名古屋丸」。東海道線の開通は十年後の明治二二年)で横浜を出発、神戸に九日の午後三時に着き、ここで一時下船して布引の滝(兵庫県神戸市中央区葺合町)を訪ねている。神戸港からのそこへの路程は海沿いではなく内陸方向であるが、実はこの時、海岸で貝類を採集している模様で(前掲書二五〇頁。この後、神戸で一泊したモースは、同じ名古屋丸で十日午後に出航、馬関(現在の下関)に寄った後、十二日に長崎に着いている)、私はこの折りか、若しくはこの長崎からの帰途、六月七日に神戸に着き、再び神戸で数日間ドレッジをしているから、その孰れかの折りの体験ではなかろうかと推測している(可能性が高いのは滞在期間が短い往路ではなく復路の時である)。
「ネツケ」原文は“a netsuki”。]
維新から、まだ僅かな年数しか経ていないので、博覧会を見て歩いた私は、日本人がつい先頃まで輸入していた品物を、製造しつつある進歩に驚いた。一つの建物には測量用品、大きな喇叭(ラッパ)、外国の衣服、美しい礼服、長靴や短靴(中には我々のに匹敵するものもあった)、鞄、椅子その他すべての家具、石鹼、帽子、鳥打帽子、マッチ、及び多数ではないが、ある種の機械が陳列してあった。海軍兵学寮の出品は啓示だった。大きな索条(ケーブル)、繩(ロープ)、滑車、船の索具全部、それから特に長さ十四フィートで、どこからどこ迄完全な軍艦の模型と、浮きドックの模型とが出ていた。写真も沢山あって、皆美術的だった。日本水路測量部は、我国の沿岸及び測量部にならった、沿岸の美しく印刷した地図を出していた。又別の区分には黎(すき)、耨(くわ)、その他あらゆる農業用具があり、いくつかの大きなテーブルには米、小麦、その他すべての日本に於る有用培養食用産品が、手奇麗にのせてあった。学校用品は実験所で使用する道具をすべて含んでいるように見えた。即ち時計、電信機、望遠鏡、顕微鏡、哲学的器械装置、電気機械、空気喞筒(ポンプ)等、いずれもこの驚くべき国民がつくったものである。私が特にほしいと思った物が一つ。それは象牙でつくつた、高さ一フィートの完全な人間の骸骨である。この骸骨の驚異ともいうべきは、骨を趾骨に至る迄、別々につくり、それを針金でとめたことで、手は廻り、腕は曲がり、脚は意の如く動いた。肋骨と胸骨とをつなぐ軟骨は、黄色い角で出来ていて、拵え作った骸骨の軟骨と全く同じように見えた。下顎は動き、歯も事実歯窠(しか)の中で動くかのように見えた。
[やぶちゃん注:「浮きドック」原文“drydock”。海事用語で係船ドック・潮入り岸壁をいう。
「哲学的器械装置」原文“philosophical apparatus”。これは「理化学器械装置」と訳すべきところである(“philosophy”は狭義には哲学であるが、元来は医学・法学・神学以外の全学問を示す。「島津製作所創業記念資料館」公式サイトの「新島 襄との関わり」のページに、島津製作所が明治一五(一八八二)年に発行した「理化器械目録表」が一八六八年にアメリカの科学器機メーカー
E.S. Ritchie & Sons 社のカタログ“RITCHIE'S
CATALOGUE PHILOSOPHICAL APPARATUS”を模したものと推測されている、とあることからも「理化学」と訳しておかしくない)。
「象牙でつくつた、高さ一フィートの完全な人間の骸骨」不詳。1フィートは30・48センチメートル。象牙製でしかも生物学者モースが唸って手に入れたいというほど精密な(永久歯も埋め込んであるようだというのはこの大きさでは凄い!)人体標本となればデータがあってしかるべきはずであるがネット上を管見した限りでは見当たらない。江戸時代に大阪の整骨医各務文献(明和二(一七六五)年~文政十二(一八二九)年)が製作した、精密で一見実物と区別が出来ないとも言われる人体骨格模型の通称「各務(かがみ)木骨」が現存(東京大学総合研究博物館蔵)するが、これは木製で、そもそも等身大である。識者の御教授を乞うものである。]
外国人向きにつくつた金物細工、像、釦金(とめがね)、ピン等は、みな手法も意匠も立派であった。ある銀製の像には、高さ四インチの人像が二つあり(図197)、一人が崖の上にいて、大きな岩を下にいる男に投げつけると、下の男はそれを肩で受けとめる所を示している。それには松の木もあるが、皆銀でこまかく細工してある。ここに出した写生図は、人像の勢と力とを不充分にしか示していない。
[やぶちゃん注:この図―197に示されたものは歌舞伎か何かの有名なワン・シーンと思われるが、その筋に冥い私には分からない。識者の御教授を是非、乞うものである。]
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