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2013/08/02

沿海地方から 萩原朔太郎 (「沿海地方」初出形)

 

  沿海地方から 

 

馬や駱駝のあちこちする

光線のわびしい沿海地方にまぎれてきた。

交易をする市場はないし

どこで毛布(けつと)を賣りつけることもできはしない。

店鋪もなく

さびしい天幕が砂地の上にならんでゐる。

どうしてこんな時刻を通行しやう

土人のおそろしい兇器のやうに

いろいろな呪文がそこらいつぱいにかかつてしまつた。

景色はもうろうとして暗くなるし

へんてこなる砂風(すなかぜ)がぐるぐるとうづをまいてる。

どこにぶらさげた招牌(かんばん)があるではなし

交易をしてどうなるといふあてもありはしない。

いつそぐだらくにつかれてきつて

白砂の上にながながとあほむきに倒れてゐやう。

さうして色の黑い娘たちと

あてもない情熱の戀でもさがしに行かう。 

 

[やぶちゃん注:『新潮』第三十八巻第六号・大正一二(一九二三)年六月号に掲載された。「通行しよう」「つかれてきつて」「あほむきに」「ゐやう」は総てママ。後に第一書房版「萩原朔太郎詩集」(昭和三(一九二八)年三月刊)などに改訂して載り、更に「定本靑猫」(昭和一一(一九三六)年版畫莊刊)に所収されたものが最終形として人口に膾炙する。以下に示す。 

 

 沿海地方

 

馬や駱駝のあちこちする

光線のわびしい沿海地方にまぎれてきた。

交易をする市場はないし

どこで毛布(けつと)を賣りつけることもできはしない。

店舗もなく

さびしい天幕(てんまく)が砂地の上にならんでゐる。

どうしてこんな時刻を通行しよう!

土人のおそろしい兇器のやうに

いろいろな呪文がそこらいつぱいにかかつてしまつた

景色はもうろうとして暗くなるし

へんてこなる砂風(すなかぜ)がぐるぐるとうづをまいてる。

どこにぶらさげた招牌(かんばん)があるではなし

交易をしてどうなるといふあてもありはしない。

いつそぐだらくにつかれきつて

白砂の上にながながとあふむきに倒れてゐよう。

さうして色の黑い娘たちと

あてもない情熱の戀でもさがしに行かう。 

 

太字「いつぱい」は底本では傍点「ヽ」。但し、原稿の本詩の定形(筑摩書房版全集校訂本文版)では第一書房版「萩原朔太郎詩集」所収のものを採用して「店舗」は「店鋪」となっている。

 しかし、実は萩原朔太郎が最後にこの詩を採録したのは「宿命」(昭和一四(一九二九)年創元社刊)であった。ところが筑摩版全集はこれを「宿命」の本文としては編集方針に拠って省略している。では、それは他の何れか全く同一かと言えば――実はかなり違う――のである。以下に示す(底本校異によって再現したものである)。 

 

 沿海地方

 

馬や駱駝のあちこちする

光線のわびしい沿海地方にまぎれてきた。

交易をする市場はないし

どこで毛布(けつと)を賣りつけることもできはしない。

店鋪もなく

さびしい天幕(てんまく)が砂地の上にならんでゐる。

どうしてこんな時刻を通行しよう

土人のおそろしい兇器のやうに

いろいろな呪文がそこらいつぱいにかかつてしまつた。

景色はもうろうとして暗くなるし

へんてこなる砂風(すなかぜ)がぐるぐるとうづをまいてる。

どこにぶらさげた招牌(かんばん)があるではなし

交易をしてどうなるといふあてもありはしない。

いつそぐだらくにつかれきつて

熱砂(ねつさ)の上にながながと倒れてゐよう。

さうして色の黑い娘たちと

あてのない情熱の戀でもさがしに行かう。 

 

太字「ぐだらく」は底本では傍点「ヽ」。

 さて――則ち、真の最終形は実はこれであったのだ。――が、現在の多くの読者はこの詩形を見ることがない。――これは正当にして正統なこと――だろうか?

 因みに私は、個人的に萩原朔太郎の「~地方」という詩題に対して、ランボーが遠い砂漠に吸い寄せられていった如き、無条件の麻薬的誘惑を感じる。だからこそ、この見られることがない最終形には、妙な孤独な共感を覚えるのである……。

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