沿海地方から 萩原朔太郎 (「沿海地方」初出形)
沿海地方から
馬や駱駝のあちこちする
光線のわびしい沿海地方にまぎれてきた。
交易をする市場はないし
どこで毛布(けつと)を賣りつけることもできはしない。
店鋪もなく
さびしい天幕が砂地の上にならんでゐる。
どうしてこんな時刻を通行しやう
土人のおそろしい兇器のやうに
いろいろな呪文がそこらいつぱいにかかつてしまつた。
景色はもうろうとして暗くなるし
へんてこなる砂風(すなかぜ)がぐるぐるとうづをまいてる。
どこにぶらさげた招牌(かんばん)があるではなし
交易をしてどうなるといふあてもありはしない。
いつそぐだらくにつかれてきつて
白砂の上にながながとあほむきに倒れてゐやう。
さうして色の黑い娘たちと
あてもない情熱の戀でもさがしに行かう。
[やぶちゃん注:『新潮』第三十八巻第六号・大正一二(一九二三)年六月号に掲載された。「通行しよう」「つかれてきつて」「あほむきに」「ゐやう」は総てママ。後に第一書房版「萩原朔太郎詩集」(昭和三(一九二八)年三月刊)などに改訂して載り、更に「定本靑猫」(昭和一一(一九三六)年版畫莊刊)に所収されたものが最終形として人口に膾炙する。以下に示す。
沿海地方
馬や駱駝のあちこちする
光線のわびしい沿海地方にまぎれてきた。
交易をする市場はないし
どこで毛布(けつと)を賣りつけることもできはしない。
店舗もなく
さびしい天幕(てんまく)が砂地の上にならんでゐる。
どうしてこんな時刻を通行しよう!
土人のおそろしい兇器のやうに
いろいろな呪文がそこらいつぱいにかかつてしまつた
景色はもうろうとして暗くなるし
へんてこなる砂風(すなかぜ)がぐるぐるとうづをまいてる。
どこにぶらさげた招牌(かんばん)があるではなし
交易をしてどうなるといふあてもありはしない。
いつそぐだらくにつかれきつて
白砂の上にながながとあふむきに倒れてゐよう。
さうして色の黑い娘たちと
あてもない情熱の戀でもさがしに行かう。
太字「いつぱい」は底本では傍点「ヽ」。但し、原稿の本詩の定形(筑摩書房版全集校訂本文版)では第一書房版「萩原朔太郎詩集」所収のものを採用して「店舗」は「店鋪」となっている。
しかし、実は萩原朔太郎が最後にこの詩を採録したのは「宿命」(昭和一四(一九二九)年創元社刊)であった。ところが筑摩版全集はこれを「宿命」の本文としては編集方針に拠って省略している。では、それは他の何れか全く同一かと言えば――実はかなり違う――のである。以下に示す(底本校異によって再現したものである)。
沿海地方
馬や駱駝のあちこちする
光線のわびしい沿海地方にまぎれてきた。
交易をする市場はないし
どこで毛布(けつと)を賣りつけることもできはしない。
店鋪もなく
さびしい天幕(てんまく)が砂地の上にならんでゐる。
どうしてこんな時刻を通行しよう
土人のおそろしい兇器のやうに
いろいろな呪文がそこらいつぱいにかかつてしまつた。
景色はもうろうとして暗くなるし
へんてこなる砂風(すなかぜ)がぐるぐるとうづをまいてる。
どこにぶらさげた招牌(かんばん)があるではなし
交易をしてどうなるといふあてもありはしない。
いつそぐだらくにつかれきつて
熱砂(ねつさ)の上にながながと倒れてゐよう。
さうして色の黑い娘たちと
あてのない情熱の戀でもさがしに行かう。
太字「ぐだらく」は底本では傍点「ヽ」。
さて――則ち、真の最終形は実はこれであったのだ。――が、現在の多くの読者はこの詩形を見ることがない。――これは正当にして正統なこと――だろうか?
因みに私は、個人的に萩原朔太郎の「~地方」という詩題に対して、ランボーが遠い砂漠に吸い寄せられていった如き、無条件の麻薬的誘惑を感じる。だからこそ、この見られることがない最終形には、妙な孤独な共感を覚えるのである……。]